このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

短編

 隣あって座ることが、いつの間にか日常となっていた二人の午後。萬燈の背中を、比鷺の指が前触れもなくなぞりあげた。そのひとふれへの疑問を呈する前に、比鷺が謎をかけてくる。
「当ててみて」
 萬燈の返事を待たず、比鷺の指により一筆の線が、短く、長く、短く、とリズムよく躍る。長く、のところで描かれた曲線の伸びやかさで、何を書かれているかはすぐに分かった。唐突な行動のきっかけは不明だが、求められている対応は萬燈にとって容易い。
「ひ」
 無言のまま、次の文字が書かれる。横に一筆、のちに一度背から離れて縦に一筆の感触。どうやら続けて書くタイプであるらしい。歳若いのに少々珍しい気がする、と余所事を考える余裕さえあった。
「さ」
 ここまでの二文字で答えは九割以上分かったも同然だが、書き終わるまで野暮をする気はない。横に二筆、それから、ついさっきと形を同じくした一筆を縦に。そのあと予想通りに濁点が打たれるまで待って、口を開く。
「ぎ」
 ぽす、と背中に比鷺の頭がぶつかってくる。ぐいと押しつけられたそれを、萬燈が後ろに伸ばした手で撫でた。
「当たったようだな」
「……へへ、簡単すぎた?」
「ちっとばかりな」
 比鷺は撫でられるがままになっている。しばらくの間、くふくふとこもった笑い声が静かな部屋を満たしていた。萬燈の正答を前提とした戯れが、どうにもこうにも愛らしい。
「さて、次は俺の番なわけだが」
「えっ」
「随分と楽しそうだったからな。俺も興味が出た」
「えっと……」
「ほら、背を向けろ」
「わわっ!」
「いくぞ」
 先程の比鷺と同じように、相手の了承を待たず書き始める。萬燈の指が一筆進めるごとに、比鷺がびくびくと震える。あからさま過ぎる反応に、萬燈のほうが笑い出したくなるほどだった。
「ちょ、まって、くす、くすぐっ、たい! わひゃ!」
 耳の端を赤く染めて身を震わせている比鷺を見ながら、しかし萬燈は意に介することなく、最後まで書き切った。
「もー! 急に何なの!?」
 息を荒げて振り返る比鷺の両目が潤んでいる。
「どうした? 降参か?」
 急に云々はこっちの台詞だったんだが。そんな思考とは別の言葉を悪びれもなく告げる萬燈を、比鷺が恨めしげに見つめる。
「あんなにくすぐったかったら分かんないって」
「なら、もう一回書いてやろうか?」
「い、いらな……うひゃあ!」
 気付かれないよう背後に回していた指で、比鷺の背を下から上になぞりあげてやる。途端に悲鳴がまろびでた比鷺から、今度は抗議が出る前に萬燈が続けた。
「さっきよりゆっくり書いてやっても構わねえぞ」
「く、くすぐったくしない?」
「心懸けよう」
 どこまでも真面目に聞こえる萬燈の声に、「だったら、もう一回やってもいいけど」と比鷺が頷く。それを合図に、萬燈はゆっくりと丁寧に比鷺の背に文字を書く。ときおり反射のように震えることと、変わらず耳の端が赤らんでいること以外、比鷺は大人しいものだった。
「……あのさ」
「どうした?」
「さっきは分かんなかったけど、これってもしかして全部で一文字?」
「ああ」
「ひらがなじゃないなんて聞いてないんですけど!?」
「ひらがなじゃねえと駄目だなんてルールがあったとも聞いてねえな」
「ぐ、ぐぬぬ……」
「で、分かったのか?」
「分かんない! 分かるわけないって! もう一回! いーや、俺が当てるまでずっと!」
「仰せのままに」
 ぎゃんぎゃんとムキになった比鷺に、萬燈はクッと笑いを噛み殺しながら言う。
「余裕ぶっちゃって! 絶対次で当ててやるかんね!」


 そうして、三度目の一文字が比鷺の背に記された。やはりゆっくりと、もちろん丁寧に。萬燈にしても、どうせなら見事当ててほしいのだ。自身の名を綴った比鷺ほどに、直截ではないけれども。
「んっと……糸、言う、糸、心……? こんな漢字あ、…………」
 ある? とでも続けようとして、〝ある〟ことに気付いたのだろう。本人が思う以上に比鷺の知識量は多いし、それらを繋げるカンもいい。
「なんだ? 言わないのか?」
「…………言わなきゃダメ?」
「駄目ってことはねえがな。だが、当てるまでずっとやるんだろう?」
「う、それは……」
「まあ、俺は構わねえよ。何度だって書いてやるとも。……思いの丈を込めてな」
 低く添えた言葉に観念したのか、比鷺がもごもごと何事かを呟く。聞こえやしないと追い詰めるべきか、このぐらいで逃がしてやるべきか。……前者だな。
「ちゃんと聞かせてくれ、お前の声で」
「…………あー! もう! わかった! 言う! 言います! こ、戀! 書いてたのは戀っていう字!」
 やけくそ染みた比鷺の大声がきいんとうるさい。しかし、萬燈は顔色を変えることなく目の前の背中に花丸を描いた。
「ひゃあ!?」
「正解の褒美だぞ?」
「くすぐったいんだってば! ……それで、あの」
「うん?」
「なんで、こ、戀なの?」
「気になるか?」
「なるから聞いてん……わ、なに!?」
 勢いよく身体ごと向き直った比鷺を、そのまましっかりと抱きしめる。戀という字を選んだ理由を、告げるか告げまいか。考える時間を稼ぎたい、などというのは建前で。愛し愛しという心のままに、ただ抱きしめたいのが本当だった。
11/15ページ
スキ