A Whole New World(Another end版)

1.
着せ替え人形みたいだなあと、黄金の飾りフレームに縁取られた大きな鏡を見ながらぼんやりと思う。
朝になれば侍女が部屋を訪れて、上から下まで私の身支度を整える。
上質な絹、目を見張るほどの銀刺繍。
だけど、好きな服を着たことなんて本当は一度もない。
毎日同じことの繰り返し。
出された食事を取って、与えられた経典を読む。
お祈りは好き。それ以外はずっと退屈。
要人たちとの会談はつつがなく。
どれほどつまらなくても笑顔だけは忘れない。
家を守るため。そしてこの国の平和と発展のため。
皆はびっくりするかしら。
寝所から姿を消した私に気付いたらきっとモスクは大慌てだろう。
そっちがその気なら、私だってやってやるわよ。
結婚相手まで勝手に決めるなんて、どうしたって許せない。
この国で女性が一般市民に化けるなら?
十人に九人が踊り子と答えるだろう。
母数が多いから紛れやすいし、顔だって隠せる。
城から盗んで―借りて―きた瑠璃紺色の衣装。
袖を通し、金の耳飾りを着けるだけで心が弾む。
城で披露されたダンスを見た時からずっと憧れていた。
見るだけじゃなくて、一度は踊る側になってみたかった。
身を隠すように羽織ってきたマントを外し、池のほとりに姿を映せば、そこにはごく一般的なチゼータの踊り子がいた。
「結構いいじゃない」
おへそが見えちゃうのが少し恥ずかしいけど。
その場で足踏みをして、くるくると回ってみる。
私が踊れば水面に映った瑠璃紺もまたくるくると揺れた。
今日したいことは決まっていた。
何せ時間は限られている。
心配をかけることが目的じゃない。
だだをこねて縁談を反故にしたいわけじゃない。
置き手紙には「今日一日の自由をお許しください」と、そう書いて来た。
家出なんて馬鹿なことするもんですか。
そう。ただ一日の自由が、私は欲しかった。

取り出したメモを上から順番に指でなぞってみる。
全部出来たらいいんだけど。
高鳴る胸にせっつかれるように、私は足早に街へ向かった。
2.
視察で来た時とはまるで違う。
城下町には茹だったひよこ豆の香りが漂っていた。良い香りにつられて浮足立っていたのと、賑やかな店々に目移りしながらよそ見で歩いていたのがいけなかった。
背中から人にぶつかってしまい、謝りながら視線を上げた時。本能的な危機感がビリビリと体を走った。
ベール越しに見える、ぶつかった男の顔がニヤリと卑劣にゆがんでいた。
この国は、こんなに治安が悪かった?
少し視察が足りてないんじゃないかしら。
裏も表も、色々な人間と接してきた。悪意に対するセンサーが敏感に反応した。このタイプはまずい。不埒をはたらくタイプの人間の空気。
悪いことに、背後からは男の連れと思われる男たちが数人こちらへ向かってきていた。身なりは悪くない。中級以上の、それなりに潤っている階級の人間だろう。
「お嬢ちゃん、踊り子さん?」
最初にぶつかった男が私に尋ねた。
「稼げるところあるけど紹介しようか?」
下劣な顔に下劣な言葉を乗せ、男たちは揃えたようにニヤニヤと笑みを浮かべている。
「もう充分稼げてるから」
やりすごさなければ。当たり障りのない愛想笑いを浮かべ一歩後ろに後ずさる。背中にガタイの良い男の体がぶつかり、すっかり取り囲まれていることに気が付いたのはこの時だった。
逃げられる?
ヒールの高い靴を選んだことを後悔しながら、私は退路を探した。
人通りは少なくない道だ。ベールから顔を出して大声をあげれば、きっと誰しもが私を助けてくれるに違いない。けれどその瞬間、城へ連れ戻されることが確定するだろう。
その時、活路が見えた。
それは、私を囲む男と男の肩の隙間から。
―どう見ても、上級商人
そんな見た目の男性がこちらに向かって歩いてくる。ゆったりとした歩幅により寄り添うように、品の良い紫色の裾が揺れていた。
私は男たちの隙間をするりと抜け、〝活路〟の腕にしがみついた。
「助けて」
私がそう囁くと、商人と思しき男性は一度大きな瞬きをし、それからゆっくりと男たちの姿を一瞥して言った。
「うちの店の娘になにか御用でも?」
私も男たちも、全員が面食らった。
「合わせろ」と、商人の男性が私の耳元で囁く。
あ、と思う。
この国では一定階層以上の踊り子においそれと手を出してはいけない。
高級店を敵に回せば、そこらの要人くらいなら一瞬で地位を失うこともある。
「わ、私、この人のところで働いてるの!」
だからスカウトは結構よ。
そう言い切ると、男たちはすごすごと撤退して行った。
まあ、ベールをかぶっていたとはいえ一刻の皇女である私が〝そう〟見られなかったのは解せないところではあるけれど。ただ、そんな〝見る目のない〟男たちですら早々に立ち去るほどに、この男性の風格はすさまじかった。
「あの、ありがとう。巻き込んでごめんなさい」
腕を離し、頭を下げる。
風格だけじゃない。恵まれた体躯と整った顔立ちに、顔が勝手に赤くなった。
クレフと名乗った男性は、腕を組みながら私の姿を頭からつま先まで凝視し「一人か?」と私に尋ねた。
詰問するような視線につい対抗してしまい、私はつい棘のある声で返した。
「ひ…一人ならなんだって言うのよ」
「放っておけない」
とクレフは言った。
(え? 嘘。こ、これが世に聞くナンパってやつ!? でも助けてもらっちゃったし)「顔はわるくないし、それに……」
心の声は途中から音声として外に出ていた。
クレフは目を丸くした後、フと吹き出した。
「おかしな奴だな」
「な! …あなた、失礼な人ね!」
そんなこと、生まれてこのかた言われたことがない。
叫ぶ私の唇に彼の人差し指が触れた。
ベール越しに、クレフの手首からはジャスミンの良い香りがふわりと漂った。
「大きな声を出すな」
まだあの男たちがうろついているかもしれない。そんな彼の意図を私が読み取れたのは、クレフが指を離してから数秒の時間を経てからだった。
「一体、女性が一人で何をしている」
「な、何って…」
まさか「来たる縁談の前にたった一日の自由を求めてうろうろしてました」なんて言えるわけがない。
「ちょっと…遊びに出ただけよ。夜にはちゃんと帰るわ」
私の言うことを信じたのかそれとも事情なんてどうでもいいのか。
親切なのか気まぐれなのか。
「女性の一人歩きは危ないから」
そんなことを言って、クレフは私について来てくれた。
3.
ついて来ると言っても明確な目的地があるわけじゃない。どこへ行くでもなく街を歩きながら、私はもう一度メモを取り出した。
「『食べ歩きをしてみたい』」
クレフが私の手元を覗き込み、一行目を読み上げた。
「見ためのわりに随分と食い意地が張っているんだな」
「ちょっと! 勝手に見ないでよ!」
私はメモを胸元でくしゃっと丸めた。
「何か食べるか?」
と言って、クレフは立ち並ぶお店をぐるぐると指さした。
そう言われてみたら、ひよこ豆の香りが途端に食欲を誘う。おなかが鳴りそうと思った矢先に本当にぐうと大きな音を立てて鳴ってしまい、顔を赤くする私を見てクレフが笑った。
食べ歩きがしたいなら屋台だろうな、と言ってクレフは
老人も小さな子供だって、次々とサンドを注文しては受け取っている。一方私は、頼み方も勝手もわからない。とまどっていると、クレフは「世間知らず」とか「なんでそんなことも知らないんだ」なんてことは一つも言わずに、ソースの好みはあるかとか、何をトッピングするかとか、苦手な物があれば抜いてもらえとか、そんなことを教えてくれた。
結局何もかも一番スタンダードな味付けで注文をして、シャワルマサンドは無事私の手元に届いた。
「ねえ、本当に歩きながら食べていいの?」
私が尋ねるとクレフは怪訝そうな顔をした。
「食べ歩きがしたかったのではないのか?」
「そ、それはそうなんだけど……」
だって、お行儀が悪いしベールが邪魔で食べにくい。
「やりたいことはやっておいたほうがいい」
そう言って、クレフはサンドの紙包みを開いて一口頬張った。クレフがとてもおいしそうにシャワルマサンドを食べるので、お腹がもう一度鳴ってしまった。
「腹も待っているようだ」クレフがおかしそうに笑った。
意を決してベールをめくり口元を開く。
一口かじってみれば味の濃さに驚いた。お肉はかなり固い。それに、塩辛いくらいのソース。モスクでは食べたことのない大胆な味。
一口目はびっくりしたけれど二口、三口食べていくうちに、なんだかはまりそうな味だった。
身体に悪そう。でもやみつきになりそう。なんて言うのかしら、こういう味のことを。
「大味」
クレフが、私の探していた言葉を教えてくれた。
「でも、おいしい」
私がそう返すと、クレフも笑った。
クレフは、よく笑う人だった。
「ねえ、ソースがついてるわよ」
クレフの口元についた白いソースを指差して私は言った。
「そっちじゃないわ、反対側。もう! 違うってば!」
クレフが見当違いのところばかりを指でぬぐうので、私は焦れったくなってクレフの口元を指でぬぐった。人差し指にクレフの唇が触れ、私は慌てて手を引っ込めた。
「ごっ……ごめんなさい」
やってしまってから自分の行動が恥ずかしくなって、私は顔を赤くしてうつむいた。
「いや、ありがとう」
言いながら、クレフが紙ナフキンで私の指を拭き取ってくれた。
最初からそうやって拭いたらよかったんだわ。
なんだか余計に恥ずかしくなって、私は残りのサンドを一気に平らげた。
3.
その後も、私はカルガモの雛みたいにクレフについて回った。
一体私はこの街を一人でどうやって遊ぶつもりだったんだろう。
街は、知らないことで満ちていた。
街の人たちは、私に頭を下げることもなければ道も大げさに空けたりしないし、うやうやしく試食用の皿を差し出すこともない。
それどころか、お金をしっかり払っているのにアイスクリームをなかなか渡してくれないのだから困った。強い粘性を持つアイスクリームが、店主の持つ長柄の金属棒からなかなか離れないのだ。
店主がからかうように金属棒を振り回すので、手を差し出してもこちらから掴みにいっても、アイスコーンは私の手をすり抜けるように逃げて行く。
「意地悪!」
本気で怒り出した私にクレフが苦笑いをして「そろそろ渡してやってくれ」と店主に言った。
意地悪は、お店のパフォーマンスだったらしい。
店主もクレフも大笑いをするので、恥ずかしくて手元のアイスが溶けそうだった。
「大変お似合いでございます」
張り付いたような笑顔をした女性店員が、次々にドレスやらスカーフやらを持ってくる。
全てを試着しようとする私をクレフがたしなめ、それから店員に申し訳なさそうに謝った。
試着室にどっさり積まれた服の山。いくつかは既に袖を通してしまっている。
「まさか、これで何も買わないわけではないですよね」店員の目がそう言っていた。
私が、特別気に入ったものを数着選んで購入意思を伝えると、店員の表情もいくらか穏やかになった。が、「お連れ様はどうなさいます?」
次に視線を射されたのはクレフだった。
「いや、私は」
今日初めて、クレフがたじろぐところを見た。
目を泳がせたクレフが、店内のある一角に視線を止めた。
「あれを見せてくれ」
クレフが指さしたのは、装飾品類が飾られたアクセサリーコーナーだった。
「私は服の類はいらないから、代わりに一つ買ってやる」
「え、でも」
「さっさと店を出たい。どれでもいいから早く決めろ」
どれでもいいって言ったって。
買ってもらう道理がない。
私がまごまごとしていると、クレフは「決められないのなら勝手に選ぶぞ」と焦れたように言って、ディスプレイに視線を落とした。
クレフはディスプレイの中のアクセサリーを一通り眺めると「これを」と店員に告げた。
店員が取り出したのは金色のブレスレットだった。
シンプルな三連のブレスレット。華美な細工が施されていることもなければ宝石が付いているわけでもない。だからこそ無垢なデザインがかえって品よく見えた。
右手首に装着してみれば、城からつけてきた金飾りとの相性も良くて、私はおもわずぽうっと自分の腕を眺めた。
「着けていかれますか?」
無意識に頷いてから、ハッとして顔を上げる。
クレフは既に会計の準備をしていて、女性店員が満面の笑みを浮かべていた。
4.
「あの、ありがとう。大切にするわ」
私は嘘をついた。
これを着けていられるのも今日一日だけ。
城で用意された以外の装飾品を身につけることは許されない。
なぜだか涙が出そうになって、私はベールを少し下げた。
「あとは?」
クレフが言った。
「え?」
「食べ歩き。服。ほかにしたいことは?」
「あ」
クレフは、私のメモのことを言っていた。
「チゼーチア砂漠」
私はそう呟いた。
「砂漠?」
「歩いて……みたいの。遠くから見るばかりで一度も行ったことがなかったから」
裸足で走ってみたい、とは恥ずかしくて言えず、私は濁すように答えた。
城から毎日見ていた。あの美しい砂漠のことを。
犬を散歩させる人。砂の上を踊る人。スライダーで砂丘を滑る人。あそこには、本当の自由があるように見えた。
あの砂漠を思い切り走ることができたら。
そんな願いを、クレフはあっという間に叶えてくれた。
砂漠につくや否や、先に靴を脱ぎ始めたのはクレフのほうだった。
「砂が入ってしかたない」
お前も今のうちに脱いでおけ。とクレフは言った。
足の指に絡むさらさらとした砂の感触。少し熱くて、足のうらをジワジワと焼く感触も気持ち良い。
走り出したのは必然だった。
この解放感の中〝恥ずかしい〟などと言っている場合ではなかった。
何度か転びそうになって、実際転んでも柔らかな砂が私を受け止めてくれた。二の腕についた砂をクレフがはらって、笑って、また走って。
手を取り合い、キャンパー達が流すクラシックのBGMを借りて、私達は砂の上を踊った。
力を抜いて体をゆだねるだけで、私はクレフの体に吸い付くように、砂の上を舞った。彼のステップは、舞踏会で披露されるそれに近かった。
「どうしてそんなに上手なのよ」
私が尋ねると、クレフは小さく微笑んでステップを止めた。
5.
いつの間にか空も砂も、すっかり茜色に染まっていた。
踊り疲れて、二人、砂の上に寝転んでいるとクレフが言った。
「もう日が暮れる。帰ったほうがいい」
「そうね……」
クレフは身を起こし、私の手を取った。
足の砂をはらって、靴を履いて、それから手を繋いで私たちは街へ戻った。城はもうほとんど目と鼻の先。
城前の大広場までたどり着く。城の周辺は思いのほか静かだった。
適当な家の前で別れて、それから
いよいよ涙が溢れそうになる。
もう帰らなくてはいけない。
するとクレフはなぜだか突然、ピタリと足を止めた。
そして、言った。
「ウミ」 と。
私は繋いでいた手をバッと離し、後ずさりをした。
「…知ってたの……?」
一度も教えなかった、私の名前を。
私の家が、
「知ってて…優しくしたの…?」
クレフが口を開いた時、城のほうから臣下たちの大きな声が響いた。
クレフは遠く、騒ぐ声のほうを見やり、それからまた私へ視線を戻した。それから地に膝をつき、私の左手をゆっくりと取った。
「ウミ皇女殿下の幸せを、幾久しくお祈り申し上げます」
指に唇が触れ、零れた涙のことなんか一つも知らずに、クレフはチゼータの夜へと消えて行った。
明日に響いてはいけないのでと、全てのお説教が後回しになったのはせめてもの救いだった。
― お礼くらい言いたかったな
枕の下に隠したブレスレットを取り出し、右腕に付けてみる。それから、すっかりしわくちゃになったメモ紙を広げた。

クレフは、私の願いを全部叶えてくれた。
こんなに苦しい想いをするなら、街になんて出なければよかった。
この想いが恋なのだとしたら。
こんなのいらない。
涙がボロボロ零れて、私は声をあげて泣いた。
もう決して戻ることのない時を思い、泣いた。
クレフに、出会わなければ―。
深い後悔と、それでも、今日という一日の確かな幸せを思いながら
私は眠りについた。
翌朝、泣きはらした目のことを侍女に思い切り叱られた。
氷嚢と熱いタオルを交互にまぶたに当てれば、腫れはいくらか良くなった。
縁談用の装束にドレスアップをし、迎賓室へ向かう。
縁談相手を待ち、迎賓室のチェアにかけていると、バルコニーからは6月の爽やかな風が吹き込んできた。
あそこから、クレフが魔法みたいに飛んで来て私をさらって行ってくれないかしら。
たとえば空を飛ぶ鳥に、たとえば砂を翔ける魚に乗って。
「アズール殿下がお見えです」
もちろん、そんな夢物語みたいなことが起きるわけはない。
使者がそう告げ、廊下の向こうから靴音が響いた。
あの扉が開けば、私はもうウミであってウミでなくなる。
塞いだりしてはいけない。
そう、これは門出なのだから。
わかっている。
だから私は立ち上がり、背筋をしゃんと伸ばした。
これが最後の数秒。
クレフを慕うことを許される、最後の。
扉がゆっくりと開き、目が合う。
頬がゆるむ。
涙があふれる。
夢物語は、バルコニーからじゃない。
扉の向こうに、現れた。
✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼
クレフの名字、やっと供養できたぁ……🙏✨💜