💎ゆずれない願い/あの日の二人はもういない

高齢のご夫妻が乗車してきたので、光と目配せをして立ち上がる。
〝本当は 全車全席 優先席〟
こんな標語がなくたって、誰だってそうする。
席に腰かけた婦人がにこやかな笑顔で飴玉を一粒ずつ、私と光に手渡してくれた。
心が温かくなって、それだけで今日は出かけて来たかいがあったなと思う。
どうせ今日も〝行けない〟んだろうし。
「諦めちゃだめだよ」
沈んだ私の顔を見て、励ますように光が言った。
私はなんとか緩く笑み「ごめんなさい、諦めてなんてないわよ」と、窓の外を見やる。
そもそもが突飛な話だ。
魔法の力、人知を超えた力が作用しているのだから、こちらの世界の都合―そう東京タワーの改修だなんて些細な要因でセフィーロに飛べなくなるわけがない。
もしかしたら―
セフィーロに行けないのは、私のせいだったりして。
だってもし、思いが道になるというのなら、
光と風の
二人の道はもう繋がっている。
私だけが一方通行だ。
だから―
トンネルの中でゴウゴウと走行音が響き、会話を交わすのが少し難しくなる。
黒いガラス窓に映った光と目が合う。そのまま見つめ合っているのも気恥ずかしくて、私はそっと目を閉じた。
***
「ねえ、何か書くものを貸してくれない?」
前置きもない唐突な私の依頼に、クレフは静かに瞬きをしてから杖を振った。たちまち目の前に紙や筆記具がふわりと浮かぶ。
本当に便利だ。こんな便利なものを七百年以上一度も悪用せずに生きてるのだから、短気なんだか我慢強いんだかわからない。
宙に浮いた見えない書写板に紙をなでつけるようにして広げて均(なら)し、私は筆記具で「902」と書いた。
「今日は結構面白い日なのよ」
「面白い日?」
「そ、語呂合わせでね。言ってみたら今日はあなたの日なの」
クレフは声もなく疑問の意を返した。
不思議なことに―いや指の数は同じなのだから必然かもしれない―セフィーロでも十進数が採用されている。なので、クレフがこちらの世界の〝数字〟を覚えるのは早かった。
先ほど書いた算用数字の上に彼の名前をカタカナで書き足せば、クレフは「私の名がどうした」と呟いて、いよいよわけがわからないという顔をした。
「だから、〈9〉はそのまま〈ク〉でしょ?〈0〉は零だから〈レ〉。〈フ〉はね…ちょっと難しいけど、日本には一二三(ひふみ)っていう音の数え方もあるのよ。あ、こっちだって『〈ふ〉たつ』とか『〈み〉っつ』って言うじゃない? 語呂合わせっていうのは、こんなふうに数字を音読みして言葉に当てはめてみることなの」
「なんのために」
「なんのためって」
まるでくだらないとでも言いたげなクレフの口調に、危うく喧嘩腰になりかける。けれどクレフの様子をよくよく見ればぞんざいな口調に反して静かな興味を見せ始めているのは確かだった。
私は、それが少し嬉しくなる。
クレフは、そう、知的好奇心の塊みたいな人。
「数字って、なんていうか……意味合いがないじゃない? だからわざと〝言葉〟に置き換えてみるの。数字の羅列を覚えるのは大変だけど、言葉なら記憶や心によく残るでしょ? 年号を覚えたり、テストとかでも便利なんだから。だってほら、902っていうただの数字を覚えるより〝クレフ〟って音で覚えるほうが覚えやすいじゃない?」
クレフはまだ少しピンとこない顔をしていた。
こんなに丁寧に教えてあげたっていうのに。
なので私は次の手を考える。
今度は少し長めの数字の羅列を紙にさらりと書き「これ、3秒で覚えて」と言ってクレフの前に突きつけた。
珍しくクレフが少し慌てた様子を見せたので、つい笑いそうになる。
けれど、絶対に怒られるのでなんとか堪えた。
長めの3秒を与えた後で紙を手で隠し、クレフに筆記具を手渡した。
小数点以下4、5桁がいいところかしら。
けれどクレフは「1.41421365」と、つまり末尾の5と6をひっくり返してしまったくらいのもので、結局すべての数字を書き出したので驚いた。
「ねえちょっと! それじゃあ教えがいがないじゃない!」
「覚えろと言ったからそうしたまでだ。お前が怒る意味がわからん」
「とにかく、今みたいに長い数字とかも語呂合わせなら簡単に覚えられるのよ。あなたには必要ないかもしれないけど!」
ハアと息をついて、喉をお茶で潤す。
元はと言えば何の話をしていたんだっけ。
「ねえ、お祝いしてあげましょうか? クレフの日」
私が冗談交じりに言えばクレフはそれを綺麗にスルーして「お前は?」と尋ねてきた。
「私?」
「お前にはないのか? その〝語呂合わせ〟の日というものは」
言いながら、クレフが少し拙い文字で私の名前をカタカナで書いた。―一応彼の名誉のために言っておくと、セフィーロの文字を書くのはとってもお達者だから。
「〈ミ〉はともかく〈ウ〉は難しいわね。当てはめられる数字がない場合…困った時のゼロっていう手があるけど」
言いながら、私はクレフが書いた名前の上に数字で03と書いた。
受け取った筆記具がもうあったかくなっていたので、本当に体温の高い人なんだなと思う。
03
ウミ
「これじゃ日付は作れないからちょっと難しいわね」
あ、じゃあ毎月3日はお祝いしてくれない?
冗談交じりに言えば「断る」とクレフは言った。それから「三日なら、年に一度祝ってやっているだろう」とも言った。
「そうだわ」
はたと思い出す。
「そう、今月はあなたを敬う日もあるのよ」
敬老の日。そんな日本の祝日のことを教えればクレフは苦笑いを浮かべた。
「一年に一度しか敬ってもらえんのか」
そうして、二人して吹き出してしまった日のことを思い出す。
***
地下鉄が赤羽橋に到着した。
空気圧の音を立て、ドアが開く。
いつのまにか、光が片頬をカラコロと可愛らしく膨らませているので可笑しくなる。
私の分の飴は、風にあげよう。
これは、私が〝烏羽透〟さんに出会う少し前のお話。
『あの日の二人はもういない』
end
烏羽透is誰?
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