(長編)インカレ!


chap.2 hai-jima2 boy meets girl



「クレフ……」

目が合い、二人ともが大きく目を見開いた。遅ればせながら「さん」と敬称を付け足すと、クレフがフとほほ笑んだ。その笑みには、なぜか微かな哀愁が秘められているようにも見えた。

「本物……?」

私の口から間抜けな声が零れる。ブルーのニットがこんなに似合う人なんて知らない。雑誌からそのまま出てきたみたいに、彼は本当に綺麗な人だった。雑誌ではカジュアルなコーディネートはあまり見たことがない。こんなに似合うなら、特集すればよかったのに。

私が遠慮なしに彼の容姿を上から下まで見つめていると「隣、いいか?」と、クレフが言った。頷かないわけがない。
言いたいことは山ほどあった。

―ファンです。
―引退しちゃって寂しいです。
―どうしてこんなところ サークルに?
―どうしてこんなところ 場所に?

私の口からは、そのどれでもない心の声が漏れた。
「顔……ちっちゃ…」
クレフは苦笑いをしている。苦笑いまでかっこいいのはさすがに困る。

クレフは私の隣にそっと腰掛けると、「サボリか?」と言って、ウーロン茶の入ったプラスチックカップを手渡してくれた。お礼を言い、両手で受け取る。クレフは自分のカップを傾け、お酒を一口飲んだ。街頭に晒される白い喉元に、私の鼓動はもう一段階速くなった。「見とれる」とは、正にこのことだった。

「それ、買ったのか」
クレフが私の手元を指差して言った。電子版の、この雑誌のことだろう。それで私はようやく、言葉を口にするきっかけを得た。
「は、はい! あの、私ずっとファンで……引退は寂しいですけど、ありがとうございました…、ん…? お疲れ様でした……?」
声がひっくり返る。 支離滅裂に思いを詰め込みすぎた気がする。けれど私は、言いたい言葉を、とにかく伝えきった。

「いつから」クレフが言った。
「え?」
「いつから私のことを知っていた?」
「えっと…五年前です。クレフ……さんが高校三年生の時のスナップを見てからずっと好…ファンで」

私が言うと、クレフは眉間をおさえて前かがみに上体を倒した。そして「それなら早く言ってほしかった」と、小さく呟いた。

ファンレターを出せとでも言うことだろうか。いやそんなまさか。私が首を傾げていると、クレフがなにか独り言を言った。くぐもってよく聞きとれない。
「やはり」「記憶」「ない」という言葉だけが聞こえた。
するとクレフは、体を起こしこちらを見た。私も、クレフを見た。

本物だ。本物のクレフがいる。
信じられない。あの、クレフが、喋っている。
心が落ち着く、深い声。
こんな声だったの。喋り言葉でも一人称は「私」なの? なにそれかっこいい。モデルだけじゃなくてお喋りをするお仕事でも全然いけただろうに。

ポーっと見とれていると、クレフがベンチをずれ、ふいにこちらへ寄ってきた。彼が私のスマートフォンを覗き込む。そよぐ髪からは何かとんでもなくいい香りがした。香水? シャンプー? 「何を使ってるんですか?」とお伺いしたくなる。

「その写真」
クレフが言った。
「急にやめると言い出したのはこちらだから、最後に出版社の要望を飲まざるを得なくてな。恥ずかしい限りだ」

クレフの言葉に、私の中で何かが急速にモヤと淀んだ。推しを否定されたような、憤りに似た感情。しかも、推し本人に。寂しさとも怒りとも違う。どういう気持ちになったらいいのかわからず、私は思ったままに言葉を放った。

「恥ずかしいなんてことないです! すごく素敵です! 最後にして最高傑作っていうか。クレフ……さんのお顔とお身体の美しさもさることながら、ペア写は今まで一度も見たことなかったんですけど、髪の先から心の中までこの女性を慈しむ気持ちが伝わってきて……、だから、恥ずかしいだなんて言わないでください!」

早口に、一息に私が言うと、クレフはきょとんと目を瞬かせ、そして肩をフルフルと震わせ始めた。

「女性?」笑いを堪えながらクレフが言った。「この髪のことか?」と。
「え? 女性ですよね? まさか! 男性!?」
クレフは、いよいよ耐え切れず、口元を抑えて吹き出した。

「それは……ウイッグだぞ?」
「え!?」
「いや、笑ってすまない。つまり、それほどうちのスタッフが優秀だということだ。君の反応を伝えたらきっと喜ぶ。そうだな、私とて仕事でやっている以上、成果物そのものを苦く思っているわけではないんだ。恥ずかしいと言ったのは別の話で」

消えたくなる。素人が知ったようなことを言って、恥ずかしいのはこちらのほうだ。
「いえ、私こそ。全然わかってもないのに勝手なことを……」
クレフはもう一度、私のスマートフォンを覗き込んだ。
そして、「髪の先から心の中まで、か」と呟き、ククと笑った。

なにもそこまで笑わなくていいのに。
「お言葉ですけど、世の読者の九割は本物の女性だと思ってるはずです」
恥ずかしさのあまり、少し強い口調になってしまった。
無根拠な統計数値だ。なので、「光と風も気づいてなかったし」と、私としては大変説得力のある情報源 ソースを足してみる。するとクレフは目尻を指で拭い、「笑ってすまない」と、もう一度言った。全然すまなそうな様子はない。

「元々、女性とのペア撮影はしない契約だったんだ」
「あ、恋愛のイメージがつくと良くないみたいな事務所のアレですか?」
言ってから、なんとも浅い返しをしてしまったな、と思う。
「いや」
「あ! わかった!プレセアさんがヤキモチやいちゃうから!?」
「なぜプレセアが出てくる? というか知っているのかプレセアを」
「私が一方的に憧れてるだけです。あれ? 付き合ってるんじゃ?」

まるでゴシップ記者のような問いに、クレフは怒るどころか、またフフと吹き出した。
よく笑う人だな、と思う。

「たしかに仲は良いが付き合ってなどいない。契約は、私のただの希望だ」
はあ笑った、と呟いてクレフは再びカップのお酒を口にした。

会ってものの数分で、大恥をかいたあげく少し喧嘩ごしになってしまった。体の熱を冷ますため、クレフがくれたウーロン茶を慌ただしく飲む。青いストローから唇を外せば、クレフが呆れたような口調で言った。

「君は、男が持ってきた飲み物に躊躇いなく口をつけるのか」
「えっ?」
「出どころのわからない飲食物には口をつけないほうがいい」
思わず自分の口元を抑える。
「安心しろ。なにも入っていない。もっと男を警戒しろという話だ」
「あ、すみません」
なぜか謝ってしまった。持って来たのはそっちなのにと思わないでもない。

「それと、さっきからその言葉遣いはどうにかならんか?」
「え?」
「海に敬語を使われると落ち着かない」
「いや、でもそういうわけには…… え!? 名前!?」

『海ッてユッタ!』
ラッパを吹いた天使が、頭の中を二、三羽飛び回っている。あのクレフが、私の名前を呼んだ。名前を呼ばれるなど、本来ならお金か何かを払ってしかるべき行為だ。いやでも、もう引退しているから金銭の授受はまずいわよね?  天使の単位って匹でいいのかしら。いやいや、私は一体何を考えているのか。

気付けば、クレフが私をじっと見ていた。じたばたと百面相をする私の様子がさぞ滑稽だったに違いない。また笑われるかと思った。けれど、その表情は、憂いの差した柔い笑顔だった。

「ウミ」
クレフが、もう一度私を呼んだ。
「……え?」

なぜだか、自分が呼ばれた気がしなかった。
けれども、クレフの口が、クレフの声で私の名を呼んだ。その事実は私の鼓動に早鐘を打たせるのには十分すぎた。これではとても心臓がもたない。

「あの……やっぱり苗字で、龍咲でいいです」
「りゅうざき……」
クレフは、日本語を覚えたての外国人のようなたどたどしさで、私の苗字を口にした。
「だめだな、口馴染みがなさ過ぎて笑ってしまう」
「く…口馴染みって! 下の名前だってないじゃないですか!」

クレフは、私の反論をものともせず、突然スクと立ち上がった。
特別高身長というわけではないのに、スタイルがすごくいい。とにかく、足の開始位置がえげつない。

(こんなに恵まれた頭身なのにモデルをやめてちゃうだなんて。日本の損失だわ)
心に思い、そして聞いてみる。

「あの…一つ聞いてもいいですか?」
「なんだ」
「引退の理由……探してた人ってどういうことですか?」

クレフは、「ああ」と言って、長い前髪を手でかきあげた。綺麗な蒼い瞳が覗く。クレフは私をチラと見て、そして言った。

「そのままの意味だ。ある女性を探していた。この仕事 スカウトを受けたのもそのためだ。人探しの着手金にいくらかかるか知っているか? それに、こちらが人目に付くことをしていれば、あわよくば彼女が私を見つけてくれるかもとも思った。まるで手がかりもなく、雲をも掴む思いだったんだ」

そう語るクレフは、どこか気恥ずかしそうで、どこか寂しそうな様子だった。
見つけた、ということは会えたのだろうか。「まあ、な」私が尋ねると、クレフはそう答えた。

「それは良かったです。引退は寂しいですけど、本当に、良かった……」
心底思った。

「そうでもないな。会うには会えたが空回ってるというか、のれんに腕を押しているようで。私はもう、ずっと翻弄されっぱなしだ」
「クレフ……さんが翻弄されるなんて、よっぽど素敵な女性なんですね」
「ああ」
クレフはまっすぐに私を見て、そう呟いた。
他人を想っての表情だとわかっていても、細められた青い瞳とやんわりと弧を描く口角が、私の顔を勝手に赤くした。

「あの、その人…恋人……なんですか?」
「いや」
「じゃあ、片思いってことですか?」
「海、取材は終わりだ」
クレフがニ、と笑った。

「さて、無礼なインタビューの見返りに、こちらも一つ頼みがある」
クレフが言った。やっぱりちょっと怒っていたのかもしれない。
「……なんでしょう?」
「私とデートしてくれないか?」

君を誘うには予約待ちの最後尾にでも並べばいいのかと、真剣な表情でクレフは言った。

「からかってるんですか!? 探してた人は!? やっと会えたのに、私とデートなんかしてる場合じゃないでしょう? それとも今の話は嘘だったんですか?」
「からかってなどいないし、一つの嘘もついていない。私はいつでも真剣だ。憤る気持ちもわかるが、今は話すべきではない。ものごとにはタイミングというものがある」
「……? どういう…こと…?」
「海、そう難しく考えることはない。なにも結婚を前提に付き合ってくれと言っているわけではないんだ。紙面で追っていた男と一度遊びに出かけるだけ。そう悪い話ではないだろう?」

スッと冷静になる自分がいた。
冷めた、というほうが近い。憧れの推しが、ただのナンパ野郎に成り下がってしまった。がっかりだ。ベンチに崩れ落ちそうになる体を支え私はどうにか言った。

「……ファンだからってすぐ落とせるとか思ったのかもしれないですけど、そんなに女の子と遊びたいならあっちに戻ったほうがよっぽど……」
「君以外の女性を誘うつもりはない」
「なっ、あなたさっきから、一体何を言ってるんですか!?」
「君のことをもっと知りたい。私のことももっと知ってほしい。ごく一般的なコミュニケーションの話をしている」
「だ、だからってデートなんて……」
「まあそう構えるな。そうだな、何か、海にメリットのある条件をつけてもいい、たとえば……」

信じられない。ずっと彼のターンだ。心を見透かされて、まるで操られるみたいに誘導されている。
ただ崇拝し、仰ぎ見るだけの存在だった目の前の男性に、私はいつしか対抗心を燃やして始めていた。
「すぐ熱くなってしまうのは海さんのかわいいところですわ」風のありがたいお言葉が、脳内によぎる。

「ショコラ・ラネージュのオランジェット」
特別低い声で、私は言った。クレフは、きょとんとした表情を見せた。
「限定のチョコレートです。一日に十個しか出てなくて、開店から並んでも買えないんです。一度でいいから食べてみたくて。それを買ってきてくれたら、そ…その…デ、デートします……」
「海は、甘いものが好きなのか?」
「……? ええ。好きよ?」

私が答えると、クレフは今日一番の驚きの表情を見せた。急に友達口調になった私に驚いたのかもしれない。だって、そっちが言葉遣いを直せっていったんじゃない。心の中で悪態をつく。
クレフが、神妙な口調で「そうか」と呟き、そしてポケットからスマートフォンを取り出した。

「ショコララ?」
言いながら、クレフが画面に視線を落とした。文節が違うけれど無理もない。私は今度はゆっくりとその名前を伝える。メモを取っているのか検索をしているのか、クレフの指が素早く動いた。

「これか?」
見せてきた写真は、太陽を思わせる鮮やかなオレンジ、そして画面越しにもカカオの香りが漂ってきそうな深い琥珀色のチョコレートソース。
ほわん、と頬が緩む。私の顔を見てクレフは「これだな」と言った。

すると今度は、私のほうに向けてスマートフォンをゆらゆらと揺らしてみせた。
煽るような、挑発するような仕草に、私は訝しむ。
「なによ……?」
「買ったことを連絡する手段がなければ」


クレフの連絡先、それは今までの私なら喉から手が出るほど欲しがったであろうものだ。それを、なぜだかこんな形で手に入れてしまった。ベンチに座り、スマートフォンを両手に持ったまましばしほうける。正面に立つクレフを上目遣いに盗み見れば、彼もまたスマートフォンに視線を落として神妙そうな顔をしていた。

「ねえ、本気で言ってるの? ほんとに、ほんとーに! 買えないのよ?」
「売っているものならば買えるだろう」
別に喧嘩をしたわけでもないのに、二人の間には、友達と仲直りをした後のような独特の安心感というか一つ距離を縮めたようなどこか照れくさい空気が漂っていた。

「戻らないの?」
「海が戻るなら戻る」
「二人で戻ったら、騒ぎになるから嫌よ」
「一緒に歩けば良い虫除けになるかもしれないのに」
「やだ、私を虫除け扱いする気?」
「逆だ。さっき、しつこい連中に絡まれていただろう」
「嘘! まさかあなたが虫除けになるっていうの?」

あまりに贅沢なクレフの提案に、驚きを通り越して笑みがあがってきた。

「まあ、フォローするわけじゃないけど、ああいうのが出てくるのは本当に稀よ。基本的にはおっとりした良いサークルなの。でも、たまに新しい人達が参加すると大変なこともあるわね」
「……だろうな。その服、すごく良い。君に似合っている。ただ、足を出しすぎだ。『大変』だという自覚があるのならもう少し肌を隠せ」

パパみたいなことを言って、クレフは踵を返し私に背を向けた。

「今日は来たかいがあった。また連絡する」
後ろ手に手を振り、クレフは去って行った。







―――――


T大キャンパスのウッドデッキは、あたりを彩っていた黄色の落ち葉も茶色く染まりだし、長居するにはそろそろ厳しい季節となってきていた。それなりに遊びにも行ったけれど、結局こうしてのんびりお喋りしているのが一番性に合った。
冗談も言うし、真面目な話もする。少しのいじわるや、優しい言葉も。光達のこと、好きな食べ物やファッションの話、モデル時代の仕事の話、授業のこと、研究室のこと、いろいろだ。
まだ出会って二ヶ月も経っていないけれど、クレフという人物がだんだんわかってきた気がする。
クレフと過ごす時間は心地よくて、ドキドキして。

端的に言って、これはもう、恋だった。






room


波乱のバーベキューから数日後の夜、クレフから一枚の写真が送られてきた。眩しいほどのオレンジ色。紙袋に絡む茶色のリボンは、サテン地の素材をツヤツヤと輝かせていた。
「うそっ」
思わず、品の欠けた声が漏れる。その時、タイミングを図ったように着信が入った。おっかなびっくり受話メニューをスライドする。クレフはなぜだか、ビデオ通話で発信したようだった。

「部屋着!」
脳を介さず、そんな言葉が口からこぼれた。
「開口一番それか」クレフが画面の中で苦笑いをしている。
画面の向こうに見えるのはずいぶんと簡素な部屋だ。デスクに座っているのか、景色が少し高い。
ローテーブルにスマートフォンをそっと置く。
すごい。
家の中にクレフがいるみたいだ。

「ほんとに…買えたんですね…」
本題を思い出し、私はそう言った。
「言葉遣いが戻っている」
「あ……」
「まあいい。それより、顔が見たい」
と、クレフが言った。

クレフが「早く」と言いながらあちらのディスプレイをコツコツと指で叩いている。「恥ずかしいから無理です」と言っても聞く耳を持たない。私がカメラを開かない限り、会話を成り立たせる気はなさそうだった。
少し体を反らして部屋の隅に立てかけてある姿見を覗く。前髪を指でなおして、私は恐る恐るカメラをオンにした。画面隅の小さな四角に自分の顔が映し出される。
目を細めたクレフの表情に、私の心臓はさらに早くなった。
クレフが、カメラの前に紙袋を写した。画面いっぱいに広がる夢のようなオレンジ色。中身を想像しただけでほっぺたが落ちそうだ。
「あの…どうやって買ったんですか?」
「一日目は」
「一日目?」
「開店から並んでも買えないと聞いていたので、開店一時間前に行ってみた。するとすでに二十人ほど並んでいたのでその日は諦めた。帰る前に先頭に並んでいた女性に何時から並んでいたかを聞いて、後日、その時間に行っただけだ。
「いったい何時に…」
「教えてもいいが、君がその罪悪感に耐えられるかどうか」
「そ、そんなに…?」

手のひらの中でクレフが嬉しそうに笑った。
彼は、私がなんと返すかをわかっているかのようだった。
たしかに、こう返さざるを得ない。

「つつしんでデートさせていただきます」


2/9ページ