【クレ海】全年齢

両腕に抱えた透明な器。
しのぶような足取りは、その水面を波立てることはない。

「クレフ! 見て見て!」
小さな歩幅に不釣り合いの明るく大きな声で、海はこの部屋の主に声をかけた。
円卓の上おかれた、球体の透明な鉢。
一匹の小魚が悠々と泳いでいる。
魚の色は、今この鉢を持ち込んだ少女の髪色によく似ていて、ヒレにかけて映える青や黄色のグラデーションがとても美しい。そんな魚だった。

「綺麗でしょ?」
クレフが頷くともなく頷けば、「フューラの背ビレについてきちゃったのよ。光が見つけて、少し弱っていたんだけど風が元気にしてくれたの」
と海は言った。

「フューラが? 一体どこから?」
「クレフにわからないなら誰にもわからないわね」
言いながら海が鉢の表面をなぞって見せた。
海の人差し指とほとんど同じ大きさのその魚は、海の指を追って面白そうに鉢の中を泳ぐ。人懐こい、賢い魚なのかもしれない。

しばらくそうしていると、海がもじもじと肩を揺らし始めた。
「どうした?」
「うーん」
控えめに声をもらし、海はクレフを上目遣いに見る。子供が物をねだるような視線にクレフは少しの嫌な予感を覚え、一瞬たじろいだ。が、すぐに一度の咳ばらいをすると「どうせ何か良からぬことを考えているのだろう」と言った。
「良からぬことなんかじゃないわ」
いつもの喧嘩腰ではなく、海はあくまで謙虚な口調で返す。

「ね、クレフ」

「この子、ここで飼っちゃだめ?」
両手を組みうるうると瞳を潤ませて海は言った。
これできっと聞かない男はいないはず。どこか、そんな自信が覗き見える。
少し腹立たしくはあるけれど、願い事そのものはさして大したものではない。
「飼育自体はかまわんが」とクレフは言った。

「お前たちが地球(あちら)へ帰っている間の面倒は誰がみる? あまり無責任なことは感心せんぞ」
そうだそうだ、と魚は鉢の中を勢い良く泳ぎ回る。

「だからね?」
海の瞳が、クレフを捉えた。
今度は右頬の隣で両手を合わせ、小首をかしげて見せた。
まあ、そんな予感はしていた。クレフが渋々とした様子で自分の顔を指差すと、海はにんまりと笑ってコクコクと頷いた。

「だって、クレフ生き物が好きでしょ? それにフューラにくっついて来た
お魚さんなんだし、クレフにもちょっとは責任があると思うのよ」

あながち間違ってもいない理屈を海は述べると、顔の前で両手の平をパンと合わせ、「お願い!」と頭を下げた。
心なしか、魚も鉢の中でウインクをしているようにも見えた。

光ならまだしも、海がこのように一匹の生き物に執着するのは少し意外だ。
水の精霊による悪戯と誘惑を疑うが、気配を探ってみてもどうやら邪気の類は感じられない。

「私とて暇ではない」
クレフが言うと、海はしょんぼりと肩を落とした。

魚は我関せず、薄水色の軌跡を水中に描き続けている。

―まるで海色の魚だな、と思う。

「四六時中見張ってはいられんぞ。モコナに食べられないよう、プレセアに鉢を直してもらっておけ」

クレフが言うと、海は顔をあげ「ありがとう!」と笑った。




夕刻、所用を追え城の回廊を歩くクレフの足を止めたのは、大講堂から響く少女たちの笑い声だった。

自然と頬が緩む。疲れた体に、彼女たちの笑い声が癒しを与えた。
せっかく通りすがったのだし顔でも覗いていくかと、クレフは講堂のほうへと進んだ。

講堂の中に並んだいくつもの円卓。そのうちの一つに海たちはいた。
等間隔に並んだ四つの椅子を一つ余らせ、光、海、風の順に並んでいる。
円卓の真ん中にはもちろんあの鉢。天頂部分には金具で出来た網のようなものが付いていた。プレセアの仕事か。あれならモコナも手を出せまい。

「では、クレフさんにはご快諾いただけたんですね」
「よかったな、海ちゃん!」
「ええ。でもクレフもどこから来た魚かはわからないんですって」
「まあクレフさんはお魚博士ではないですから」
こちらの姿が見えていないのか、遠慮なしに自分の名前を口にする少女たちに、どこか気まずいものがありながらも、クレフは結局その円卓へと歩み寄って行った。

「あ! クレフ!」
クレフが近づいてきたことに気付くと海は「おかえりなさい」と言って手のひらを振り、クレフを呼び寄せた。
「ちょうどいいところに来たわ!」
あまりにあっけらかんと言ってのけるので、敬意の無い態度を叱ったり咎める気にもならない。
なんだ? と尋ねれば、魚の名付けをしてほしいと言う。

「名前?」
「そ。光にこの子の名前を聞かれたんだけど、そういえば決めてなかったと思って」
クレフならこういうの慣れてるでしょ? と海は言った。

慣れるということはないが、たしかに今までも名付けを頼まれたことは少なからずあった。けれどそれは、独立して子を持った弟子のため。つまり人の子に限る。

まさかこんな小魚の名付けを頼まれるとは。
さすがに少し可笑しくなって、クレフは小さく微笑みながら鉢に指をあてた。

鉢の外側を這うクレフの指を、海色の魚が追っている。
「ウミ……」
思わずそう口をつき「…はどうなんだ? お前が名付けたらよいだろう」と、ごく自然にクレフは言葉を続けた。

一瞬その場の空気が固まるので、クレフは自分が何か失言でもしたのかと思い、にわかに顔を曇らせた。
が、この沈黙を破ったのは光と風の弾けるような笑い声だった。

「あはは! クレフ! だめだよ! 海ちゃんの名付け(ネーミング)センスってば……!」
「ふふ……本当に海さんってば独特な言語感覚をお持ちで」
目尻の涙をぬぐいながら、風も続いた。
光はともかく、風までもがいつになく大きな声を出して笑っている。
クレフがあっけに取られていると、海がガタンと音を立てて椅子から立ち上がった。
「ちょっと! 光! 風!」
目くじらを立て、円卓をバンと叩けば魚がピュっと水中を走った。
海はハッと状況を一望すると気まずそうに咳ばらいをして、それからゆっくりと腰を下ろした。

「と、とにかく私が名前を付けるとなんだかこの通りみたいだから…」
気恥ずかしそうに言い、海は長い髪を照れ隠しのように大げさにバサリとはらった。
海がどのような名前を付けたかは気になるところだったが、これ以上この場にいると光と風の笑い声につられてしまいそうだった。

「まあ、考えておく」
そう言って、クレフは静かに場を後にした。




「庭の池はちょっと危ないかも」
と光が言い、その鉢は大講堂の円卓に置かれ、魚はそこで飼われることとなった。
見目の美しさ。それに、人の指の動きに追随する独特の遊泳も相まって、魚は城中の者たちに親しまれた。

「ねえ、名前まだ決まってないの?」
と海は頬を膨らませた。
「『考えておく』って言ってたじゃない」
セフィーロに、彼女たちの来訪の気配を感じてしばらく。
自室に向かって城の回廊をひた走る気配があったので、どうせ海だろうと思えば扉を開けたのはやはり海だった。

「名づけをするかどうかを『考えておく』と言ったのだ」
クレフが返せば、海は「なにそれ!」と声を上げた。
ただ、その声質に怒りの類の色はなく。

「ねえ! こっち来て!」
と海は言った。

ローブをぐいぐいと引っ張り、部屋の外へ連れ出そうとする海に、今度はクレフが声を高くした。
「こら、なんなのだ一体」
「いいから、早く早く!」

セフィーロ最高位の立場の人物を、このように引っ張って連れ回そうとする者は彼女を置いて他にいない。

二度目の召喚。あの夜、入室すら遠慮がちだったあの控えめな海のことを思い出す。
ローブを引っ張り続ける不遜な態度に少しの苛立ちはある。けれど、憂いが差していたあの頃よりはずっと良い。



名付けを放棄していたわけでは決してなかった。
城の皆が寝静まったころ、一人大講堂を訪れ鉢の前に腰かけて魚と向かい合う。
どんな名前を考えてみても、脳裏に浮かぶ声と姿が思考を邪魔した。

―それって地球(こっち)だとどういう意味なの? とか
―良い名前だけど魚にはちょっと大仰ね、とか
―ちょっと長すぎない? とか
―なんだかピンとこないわ だとか

『お前は、いない時ですらやかましいな』
そんな独り言の聞き手は、魚ただ一匹だった。

「ウミ、わかったから服を引っ張るな」

クレフの顔にも、いつの間にか笑みが上がっていた。


大講堂に置かれた鉢は、前回とは様子が少し違っていた。
「ビー玉っていうのよ。」
鉢の中に敷き詰められた青水色の小さな水晶玉は、地球ではそう呼ぶらしい。なるほど、殺風景だった鉢は彩色を放ち、水中で反射する青は目を引くものがあった。
「綺麗でしょ?」
海の誇らしげな様子に「セフィーロにも同じようなものはある」とは言いだせず、クレフは小さく首を縦に振った。





三人分の足音が、自室に向かって近づいて来る。
魚の異変に気が付いたのはつい先日のことだった。

クレフの部屋へ入室した三人は、鉢を見つけてホッとした様子を見せた。
「ここに来ていたのね」
「ああ、少し診てもらっていてな」
クレフが言うと、三人がハッと顔色を変えた。

「どこか悪いのか?」
光が尋ねる。

クレフはゆっくりと首を横に振った。

「伝手(つて)のある生物学者に診てもらったが、病気の類ではないとのことだ。おそらくは……」
クレフが言い淀む。その続きを、三人共がゆっくりと理解したようだった。
「もしかして、このお魚さん……」

「外を泳ぎたいのかしら」


―魚と重ねていると知れたら怒りそうだな、と思う。


この少女たちはこれから大人になり、多くの者たちと関わり、愛し愛されて幸せになる。

この世界は、ほかでもない彼女たちの手によって変化と革新がもたらされようとしている。
自分だけがとどまることは許されない。

寂寥感は棘となり、胸にチクリと小さな痛みが走った。
弟子の巣立ち。その感情に似ているがどこか違う。


ちょうどランティスとフェリオがこの部屋を訪れ、光と風を迎えに来たのはクレフにとっては幸いでもあったし、ある意味、ほとんど強制的に訪れた決断の時とも言えた。

「実はな」
二人きりになった部屋に、クレフの声が重く響く。
少しの緊張を見せるクレフに、海も姿勢を正して彼を見た。

この魚が元住んでいた泉を見つけた。

クレフがそれを伝えると、海は「そう」と小さく呟いた。

「いつからわかっていたの?」と尋ねれば、クレフの答えがもうずっと前の旨のものだったので、海は少し戸惑いの様子を見せた。

海は「どうしてすぐに教えてくれなかったの?」とは聞かなかった。
かわりに「だから、名前をつけなかったのね」と言って、わずかに微笑んだ。

「屋外で飼育するというなら、環境を整えれば城に置くこともできるが」


―魚と重ねていると知れたら怒りそうだな、と思う。


「この子を、返しましょう」

海に合わせて、クレフも笑った。




―それがいい

―広い世界へ




それからは、フューラと共に泉に出向き、水をくむ日々だった。
くだんの生物学者から、少しずつ水質を鳴らしたほうがいいと聞いていた。

日数をかけ、鉢の水を少しずつ入れ替える。
次に海たちが来る頃には、鉢の中の水は全て泉の水となっているだろう。
魚は、今住む水を忘れていくのだろうか。





「結局、クレフに全部お任せしちゃったわね」
海は少し申し訳なさそうに言った。
「本当にその通りだ。もはやウミよりも私のほうに懐いているいるのではないか?」
言いながら、鉢の外側を指でなぞる。
ゆらゆらと揺れる鉢の向こう。魚は、クレフではなく海の指を追った。
クレフが納得のいかない様子で瞬きをすると、海は可笑しそうに笑った。

気を取り直すように、海が咳ばらいをして背筋を伸ばす。
「さて」
なかば師の口癖が移ったような口調だ。クレフもまた背を正し、彼女がこれから成そうとすることを見守るべく目をわずかに細めた。

一体何事かと、魚の遊泳が慌ただしくなる。
海は鉢に手をかざすと、目を閉じた。
集中している。
クレフは感心したように小さく頷くとその後を見守った。

海の眉間にわずかに皺が寄るのを見て、「無理をせずとも詠唱を」と言いかける。けれどやめる。
鉢の上にぽわんと浮かび上がる水球。

鉢の中身をそっくりそのまま抜き出したような美しい球体が、海の眼前に現れた。
魚はとまどう。自分の住む水が八割も九割も持って行かれてしまったのだから当然だ。
クレフはそっと杖をかかげた。魚は一瞬姿を消した。その直後には、海の前に浮かぶ球体の中に現れ、遊泳を続けた。

「ウミ、残心を」
クレフの言葉に、海はハッと背筋を伸ばし小さな深呼吸をした。
そっと目を開ける。

魔法の成功を確認すると、海はようやく、さきほど抜きかけていた気を、一気に抜いた。

「ありがとうクレフ。またずぶ濡れになっちゃうところだったわ」
と言って海は笑った。
「随分上達したな」
「教え方がうまいからよ」
「なんだ、世辞など言えるようになってしまったのか」
クレフは可笑しそうに苦笑いをして、それから水球の中の魚に視線を移した。
「行こうか」
「ええ」


二人連れ立ち、目的の泉まで向かう。
フューラが「連れて行って」とせがんだが、今日は目的が異なるのでと、クレフがどうにかいさめていた。

泉は、海の想像する泉とは少し違った。
セフィーロの泉のことだから、また〝線〟だとかあるいか〝点〟かもしれない。とにかく普通の泉ではないだろうと踏んでいたのだが、その泉は普通だった。普通であることが、海にとっては意外だった。

水はよく澄み切っている。あたりの森林や花の色を鮮やかに映している。
目をこらせば、なるほどこの魚と同じ大きさの魚たちが、自由きままに泳ぎ回っていた。

「こんなに綺麗なところに住んでいたのね」
海が呟く、クレフは杖の先からあの水球を取り出した。

泉に浮かべ、水を破る。
「元気でね」
「フューラがすまなかった」
それぞれに声をかけると、魚は振り返り名残惜しそうに、ということもなくただ一直線に仲間の元へ泳いで行った。

「もう見えなくなっちゃった」
と海が言った。
「なんだ、もう見失ったのか」
クレフの目には、あの海色の魚が仲間たちと泳ぎ始めた様子が見えていた。
「嘘、クレフわかるの?」

黄色や碧色の魚たちと戯れる様子を海にも見せたい。
少しの焦りが出たことは間違いなかった。
「あそこだ」
指を差す。
「ほら、見えないか。あの海色の―」
言いかけて、クレフは口をつぐんだ。
「海色?」
海の疑念は、その言葉に向けられる。
「海色って言ったの?」
「なんでもない。忘れろ」
クレフは、二度目の失態を犯した。

海洋の、海のような色だとか、聞き間違いだとか。そんな言い訳ならいくらでもできた。けれど「忘れろ」と言ってしまったことによって、海の疑念のほとんどが肯定される。
「私の色みたい…ってこと?」

自分でも、薄々は思っていた。
髪の色、瞳の色。
もちろん「私に似てるわよね」などとは言ったことがない。
けれど、その思考をクレフが同じく抱いていたことが、海にとっては驚愕に等しかった。

顔が熱くなる。
照れを隠す手段を、海は一つだけ持ち合わせていた。
「やあね、クレフ! お魚と私に似てるだなんて。私のほうがうんと美人でしょ? ね?」
言いながら、海は草地の上をくるくると回ったり、池を覗き込んだりした。
海の明らかな動揺をクレフも感じて取ってはいたが、それはそれとして今の自分もそれに対応できる余裕はなかった。

魚は、とうに見失っていた。

結局、名前は付けずじまいだったなと思う。
きっとこの想いのように、名も無きまま終えるのがいいだろう。

けれど、それでも―

「帰ろう、ウミ」

貴女が、この手を取ってくれたのなら。


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