Believe in Magic

クレフが私の名を叫んだ。そのたった二文字の声も受け止めることなく、私は逃げるように駆け出した。

もと来た回廊をひた走り、クレフの私室も通り過ぎ、自室へ飛び込む。扉の隙間から潜り込んだモコナが、私の周りを心配そうにうろうろとしている。
脱いだ靴を投げ捨て、毛布を頭から被って、私は貝のようにうずくまった。

どうしてこんなことになってしまったのか。
ショーは大成功だった。さっきまで最高の気分だったのに。私が浮かれていたから、罰が当たったとでも言うの? だって、あんなに頑張ったんだもの。少しくらい浮かれたっていいじゃない。

褒めてほしかった。抱きしめて、髪を撫でてもらって。控え室でのお礼を言って。最近ろくに会話も出来ていなかった分、今までのこと、それからローザに褒めてもらったことも全部話して。オートザム本部棟のパスだって見せて。
なんなら、さっきのキスの続きだってするつもりだったのに。

― わかってる
クレフが私を裏切るわけがない。
何か事情があるに決まっている。そう信じているのに。涙は勝手に流れ続けた。

「……だからって、追っても来ないなんて!」
裸足のまま、ベッドを抜け出す。扉に耳を当てて聞き耳を立てても足音一つ聞こえない。
悲しみを通り越して、だんだん腹が立ってきた。

(こんなことならオートザムの打ち上げに最後まで出ていればよかった。きっとあっちはオールナイトだろうから、朝帰りとかしちゃって。そしたらクレフ、心配してくれるかしら。むしろ今からでもイーグルかローザに連絡を取って……)

いや。ここまで考えて、やめた。心配性のクレフのこと、そんなことをすればもう一生一人で他国には行けないな、と思い直す。それに、せっかく手に入れたオートザム本部棟パスの初めての使い道がこれではあまりに情けない。というか、オートザムは私たちの喧嘩の仲裁道具じゃないし。

考えが悶々としてきた。
「これは、よくないわね……」
鬱屈とした気持ちを脱ぎ捨てるように、ルームウェアから私服に着替え、さっき放ったばかりの靴を拾い集める。

「あなたも来る?」
聞くと、足元でうさぎのような長い耳が横に揺れた。


城の外へ出れば、初秋の風が肌に心地良い。羽織るものを取りに戻るか悩んで、やめた。涼しく頬を撫でる風が、きっとすぐに私の頭を冷やしてくれるだろう。なので、そこまで長くは出歩かないと踏んだ。

要はプチ家出だ。
大人気ない気もするけれど、部屋で一人泣き濡れているよりはずっといい。

ぼんやりと歩けば、足は自然と鍛錬場へ向かっていた。
ここならまた探しに来てくれるかも、なんて、ずるいことを考える。無意識に、指輪に触れてしまう。あの時、指輪をくれた日、クレフも少しは緊張していたのかなあ、なんてことを考える。また涙が滲んできた。
踵を返し、隣町へ向かうことにする。



円形劇場の外壁を見上げる。「懐かし」と、思わず呟いた。クレフと初めてデートをした日。そういえば、あの時「絶対にからかう!」と心に決めていたことがあった。けれど、あの日はとてもじゃないけどそれどころじゃなくて、結局すっかり忘れていた。そのことを、バネットの言葉をきっかけに思い出した。

この場所が、私たちだけの思い出ではなかったのだと思うと妙に悲しくなった。過去なんてどうしようもないものを、気にしたって仕方がないのに。
子供の頃一緒に来たということは、幼なじみから進展して…とかそういう関係だろうか。クレフに昔恋人がいたからって、なんら不思議なことではない。あんなに素敵な人だもの。過去に恋人の一人や二人、いないほうが変だ。

バネットは、クレフとの関係が続いているようなことを言っていた。クレフがそんな不義理なことをするわけがない。けれど、脳裏には、クレフの白い背中が強く貼りついている。
腰にほくろがあるなんて知らない。だってクレフは、私が恥ずかしいと言えば絶対に灯りを落としてくれるし、朝だって大抵クレフのほうが先に起きるから、明るい場所で彼の体を見たことは、全くと言っていいほどなかった。

胸がズキンと痛む。最悪の想定がぐるぐると頭をめぐり、たまらなくなって歩き回った。頭の中の雑念を追い払うため、劇場の周りをぐるりと一周してみる。さすがに、中には入れそうな場所はない。そもそも、入れたところでどうするつもりもないのだけれど。
「なんだかあほらしくなってきた…。帰ろっかな……」
体も少し冷えてきた。

円形劇場に背を向け、城に向かって歩き始めたところで、突然、上空に何か飛空物が見えた。目をこらす。大きな鳥のようにも見える。

(グリフォン!?)

胸がトクンと音を立てた。迎えに来てくれたの? けれど、そんな期待も長くは続かない。見れば、その飛空物は城のほうへ向かって飛んでいる。クレフのグリフォンなら、城のほうから来るはずだ。暗がりの空の中、遠近感が掴めない。ジッと眺めていると、『それ』は私のほう目掛けてほとんど垂直に降りて来た。

「トコット!」
飛空物の正体を認識したのと、赤錆色の精獣が地に降り立ったのはほとんど同時だった。その滑空は、数年前、大量の荷を載せていた時とは比較にならないほど優雅で俊敏だった。

精獣の主が、トコットの背から草地へ飛び降りる。
イースが、目を大きく瞬かせて私を見た。

「ウミ……さん? こんな所で一体どうしたんですか?」
「…………ちょっと、家出中」
イースはもう一度大きく瞬きをして、それからまたあの、人の良い笑顔を見せた。

イースとトコットと連れ立って、ひとまず隣町へ戻ることにした。町が近づくと、戻界の予感を察したのか、トコットはクルルと喉を鳴らし、イースの脇腹に頭頂を擦り付けて見せた。
イースが、仕方なしと言った様子で眉尻を下げ、「あまり遠くに行くなよ」と言って胴をはたくと、トコットは嬉しそうに夜空へ駆けて行った。


この時間でも開いていたその喫茶店は、もはや酒屋と呼んだほうが適切だ。けれど、オートザムで散々入れてきたのでアルコールを頼む気にはならず、イースに合わせて乳白色の紅茶を注文した。ほのかな甘さが、泣いた後のカサカサな心と体に染み渡る。

イースは、何から何まで話を聞いてくれた。
クレフの元恋人と思われる女性が城へ来たこと。今でも十年に一度その女性と会い続けているらしいこと。二人きりで部屋にいるのを見てしまったこと。けれど、クレフが上衣を脱いでいたことだけは、話せなかった。

きっと何かの間違いに決まっている。ならば、彼の名誉を無為に傷つけることは避けたかったし、万が一間違いでなかったとしても……いや、そんなことは考えたくもなかった。

「それで、導師が追いかけて来てくれなかったので拗ねちゃった、と」
イースが茶化すような笑みを浮かべて言った。
「う……まあ、平たく言うとそうなるわね……」
「まあ、あの人は『あっちもこっちも』ができない人ですから」
「できても困るわよ」
「でも、信じてるんでしょう?」
イースが言うので、私は小さく頷いた。
「大丈夫ですよ。導師はあなたを裏切るようなことはしません。それはウミさんが一番よくわかってるんじゃないですか?」
私はもう一度頷き、溢れ出そうになる涙をこらえるために、スカートをぎゅうと掴んだ。すると突然、イースが、何かに弾かれたかのように目をぱちりと開いた。笑みが消え、かと思えば、今度は目を閉じてシンと黙り込んだ。俯いた彼の口元が、少し震えている。笑いをこらえているようにも見えた。
「…イース?」
「いえ、すみません。ウミさん、もう少し話を聞いて差し上げたいのは山々なんですが、僕もこれから約束がありまして」
「え! こんな時間に?」
「こんな時間に、です」
色香を含んだイースの柔い微笑みに、こちらの顔が赤くなる。
「あ…そゆことね……」
イースでも、あんなふうににやけることがあるのかと驚いた。きっと今、イースが顔を伏せたのは、プレセアからの通信を受けたからに違いない。
「城まで送りますよ。歩いて行ったらプレセア様驚くかな。いつもトコットが城の周りを飛ぶのを到着の合図にしているから」
「そういうサプライズは嫌われるわよ」
女子にはいろいろ支度があるんだから、と言うと、イースは「勉強になります」と言って笑った。


隣町を背に、今度はイースと二人連れ立って歩く。結局、歩いて帰ることにした。トコットは私たちの頭上をぐるぐると旋回している。「あれなら嫌われませんかねえ?」とイースが冗談めいて言った。

「クレフ、心配してるかしら。ていうか、私が家出したことに気付いてなかったりして……」
「きっとウミさんの想像以上にものすごく心配していると思いますよ」
と言って、イースが草原の向こうを指さした。何かと目をこらせば、こちらへ走り来る人影が見える。
「おやおや、これは驚いた。走ってますよ、珍しい」
白々しいほどの棒読みで、イースが言った。一ミリも驚いていないイースを訝しみ、そしてもう一度人影の方を見る。

「ウミ!」

その声に、心臓が飛び跳ねた。思わずイースの背後に隠れて顔を伏せる。気まずくて仕方がない。家出まがいのことをして心配をかけて、おまけにイースとお茶までしていたなんて。

走る速度を緩めながらクレフがこちらへ近づいてくるのが見ずともわかる。足音が止まり、かわりに小さなため息が聞こえた。怒ったような、安心したような、どっちつかずのため息だった。

「一応言っておきますけど、僕は何もしてませんからね」
イースはそう言って、クレフの前に両の手を広げて見せた。潔白を示す仕草だ。
「わかっている。礼を言う、イース。受信してくれて助かった」
(受信……?)
「すみません、ウミさん。導師があんまり切羽詰まっていたものですから」
イースがこちらを振り返り、申し訳なさそうに眉尻を下げた。それでようやく私は理解した。イースが喫茶店で不自然に目を閉じていた理由を、つまり、先程受信していたのはプレセアではなくクレフからの通信だったのだということを。

「ちゃっかりお茶までしちゃいましたけど、今日はヤキモチ妬かないでくださいよ」
「ああ、ウミが無事ならばそれで良い」
イースの戯言を受け流し、さも当たり前のように言うので、私は、こんな時だというのに照れずにはいられなかった。イースは「はいはい」と言うと、突然上空に向けて口笛を吹いた。その身一つで滑空するトコットは、先程よりもさらに鋭い動きで地表へと舞い降りた。

「やっぱり僕は精獣で 乗って行きます。仲直りが済んだら、今度四人で遊びに行きましょうね」
軽々と言ってのけトコットにまたがると、彼らはあっという間に空へと溶けて行った。

イースに思い切り気を使われ、私たちはただの道端で二人きりになった。

「心配した。外へ出る時に受信 サーチを切るなと、いつも言っているだろう」
クレフが言った。

逃げ出したくなる。謝りたくもある。
泣きたいし、泣きたくない。そんな私の想いとは無関係に、勝手に涙が零れ出ていた。

― 心配かけてごめんなさい
― どうしてすぐに追いかけて来てくれなかったの
― 探しに来てくれてありがとう

― バネットと、一体何をしていたの……


幾つもの思いが交錯して、私は何も言えなくなってしまった。クレフが少しかがんで私の顔を覗き込み、目元の涙を指でそっとぬぐってくれた。
その手つきがあんまり優しいので、なぞる指に誘われるように涙が次々と溢れ出た。くしゃくしゃになった泣き顔を見られるのが恥ずかしくて、私は思わず顔をそむけた。
「ウミ、すまなかった。とにかく……説明が必要だ。与えた誤解も多い」

わかってる。クレフが無意味に私を不安にさせることなんてないこと。でも、でも……

「ウミ……」

クレフのほうが、よほど泣きそうな顔をしている。
けれど、私の涙は止まらない。

結局は、クレフが追いかけて来てくれたことがこんなにも嬉しくて。子供みたいにわあわあ泣いた。“みたい”じゃない。本当に子供だ。
仕事 ショーを一つ達成したところで、結局はわがままで独り善がりで、クレフの心をただ一人占めしたいだけの、幼い子供。そんな自分が情けなくて、余計に涙が出た。

クレフは、私が落ち着くまで、ずっと背中を撫でてくれた。ローブの肩口が涙でびしょびしょになってしまって、私が「ごめんなさい」とようやく謝罪を伝えると、クレフは「話を、聞いてくれるか?」と言った。

―――

「お医者さま……!?」

クレフが淹れてくれたお茶の水面が波立つ。泣きすぎて頭が痛くなったので、煎じた薬を少し混ぜてくれたものだ。

「あの後すぐに追おうとしたのだが、なにぶん診察中は動きが取れなくてな」
そしてクレフは、今日何度目になるかわからない謝罪の言葉を口にした。
曰く、バネットはセフィーロでも有数の魔導医師で、クレフも診てもらっているとのこと。元々今日が診察の日だったのだけれど、私の、オートザムの件が決まった時点で診察の延期を依頼していたという。

「延期など過去に例がなかったから物珍しかったんだろうな。延期の理由を問われ、身内が出演するからだと答えれば、誰だと問われたので ……正直に答えた。お前につっかかってきたのは、おそらく悪気はない……多分。単純にからかわれただけだ。お前というより、私が、な。それに……」
クレフは気まずそうに続けた。こんなに言い淀むクレフを見るのは初めてだった。
「せっかく来たのだから体を診せろと言われ、それが先程のことだ。バネットは……魔導だけで言えば私よりも位は下なのだが、魔導医師は魔導師よりもはるかに数が少なく稀少な存在でな。それに、なんと言うべきか、私は立場が……彼女よりも、弱いのだ。なんだ…その…年功序列、とでも言うか……」

年上!? と声を上げて驚く私に、クレフは「無理もない」と苦笑いをした。
「女性の年齢を勝手に明かすのは不躾だから、ひとつ。子供の頃観劇した時、バネットにはすでに私と同じ齢の子供がいた、とだけ言っておく」

完全に、思い込みだった。このセフィーロにクレフよりも高齢の人がいるなんて。あまりの情報量の多さと衝撃に、私が目をパチクリさせていると、突然、クレフが私の肩をぐいと抱いた。そのまま胸元に頭を抱き寄せられ、クレフの鼓動が直接耳に触れる。その優しい心音に、収まっていた涙がまたぽろぽろと零れた。

「本当にすまなかった。今日、よりによってこんな日に泣かせてしまうことになるとは。水を差すどころの話ではないな」
「そんな、私こそ!あの………、信じてなかったわけじゃ、ないの。でも、どうしても不安になって…」
「いや、あのような場面を見れば、誰だって穏やかではいられないだろう。それに……」
クレフが、小さく笑った。
「まだ恋人にもなっていない時から、よその男 イースと手が触れていただけで嫉妬に怒り狂う奴もいたくらいだしな」
クレフが自嘲気味に言うので、私は思わず吹き出した。
「そんなこともあったわね」
「私も少しは成長しただろう」

クスクスと笑いながら、クレフの指が髪を撫でれば、もうそれだけで幸せな気持ちが体中に満ちてくる。二人の間を漂う空気が温かく溶けていくのを感じる。さっきまで大泣きしていたのが嘘みたいだ。クレフも、空気の弛緩を感じ取ってか、私を抱いた肩をほどくと、ポンと軽く手を打って言った。
「さあ、今日の主役をねぎらわなければ」
クレフがニコと笑った。
もう一度抱きしめられ、背中のほうでクレフが手を伸ばして杖を出現させる気配がした。次の瞬間、私たちは寝室にいた。さっきまで一人寂しく寝転がっていた場所に、そっと優しく寝かせられる。いたわるように抱きしめられれば、私は目を閉じて、その心地よさを享受するだけだった。

「私は、少し思い上がっていたようだ」
「えっ?」
「お前は、私の元で綺麗になっていくものだとばかり思っていた」
「クレフ……?」
「ここ数ヶ月は、ゆっくり話も聞いてやれなかったが、少しはわかる。並大抵の努力ではこうはなるまい」

クレフの指が、私の体のラインを確かめるように、腰から太ももをなぞった。たしかに、ボディラインは龍咲海史上、最も仕上がっているかもしれない。そういう意味では決して恥ずかしくはないのだけれど、クレフの指が私の敏感な場所をなぞるたび吐息が漏れてしまうのが、たまらなく恥ずかしい。

「ウミ、今日は本当によくやった。オートザムの者たちも喜んでいたし、私もどこか誇らしかった」
言いながら、クレフは器用な手つきで、急いたように私のルームウェアを剥がしにかかった。言葉と行為の整合が全然取れていない。
「ちょっと…!!クレフ、待って……!」
「もう一秒たりとも待てん。今日はもうずっと、絶対にお前を抱くと決めていたのだ」
「なっ、!?なによそれ…!」

やっぱりクレフは、私が家出なんかして心配をかけてしまったことを少しは怒っているのかもしれない。灯りを消して、と言っても、クレフは聞く耳を持ってくれなかった。あっという間に下着まで剥ぎ取られ、隠したい個所に対して手の数が圧倒的に足りなくなってしまった。

「ああ、やはり」
クレフが嬉しそうに言った。

「お前はこの姿が一番綺麗だ」



―――


隣で寝ていたはずのクレフが、私が目覚める頃にはいなくなっているのは珍しいことではない。けれど今朝は、『置手紙の日』ではないらしい。隣の部屋からちゃんと物音がするので安心した。そう言えば、今日の予定は聞いていなかった。
ベッドに散らばる服を簡単に羽織って、クレフのいる隣室まで進む。
朝の挨拶もそこそこに、「支度をしたら、バネットに診察の結果を聞きに行く」とクレフが言った。
「お前も、一緒に来てくれないか?」
「私も?」
「おそらく、大切な話になるから」
「クレフ……!?どこか悪いの!?」
「いや、心配には及ばない。すぐに済むはずだ」
心臓が不穏に跳ねた。私を不安にさせないための笑顔が、余計に不安を誘う。早々に身支度を整えて、バネットの待つ城の応接室へ向かった。

いてもたってもいられなかった。扉を開ければ私は昨夜の非礼を詫びるのもそこそこに、「クレフ、どこか悪いんですか?」と聞いた。

バネットが目を瞬かせてきょとんとしている。
バネットが「もしかして、あなた話してないの?」と、クレフに向かって言った。
「いたずらに不安にさせたくなかった。いかんせん彼女は心配性がすぎるから」
「ほんと、もう泣きそうになってるじゃない。じゃあ私から手短に話すわ。いいわね?」
クレフが頷くと、バネットはこちらを見て言った。
「ウミ。あなた、彼がこの姿になった理由は知ってるわね?」

― “絶対に教えない”って言われたのよ

そう。随分前、イースに聞かれた時はまだ知らなかった。
恋人同士になるよりも、ずっと前のことだ。クレフに初めて回復魔法をかけてからしばらくした頃。元は少年のようだったクレフの体が、ある日から突然等身を伸ばし大人の姿になった。後々に、クレフからその理由を聞いた時は、歓喜で頭がどうにかなりそうだった。

子供の あの姿でも、同じ気持ちでクレフを好きでいたことは断言できる。けれど、クレフが私を想って行動 ことを起こしてくれた、そのこと自体がたまらなく嬉しかったのを、よく覚えている。

「彼ほどの魔導師になるとね、魔法を使うために適正な体の大きさってものがあるのよ。ま、制御や調整のために時々、一時的に体型を戻したり変えたりすることはあるのだけれど。それでも基本的には、子供の あの姿がこの人には一番適切だったってわけ」

「だから、今回みたいに永続的に姿を変えるのは、それなりの反動 リスクがあるの。しかも、」

ほんと信じらんない、とバネットは呆れたように言った。
「まさかあなたが私情で魔法を使うなんてね」
クレフは、バネットの苦言をものともせず、穏やかに笑っている。
「ウミ、あなたもわかってるわね?私欲で魔法を使うことは絶対の禁忌ってことを」

ドキリと、心臓が不穏に鳴った。
初めてクレフに会った時、たしかに言われた。

- 必要のない時に魔法を使うなどもってのほかだ、と。
- そんなことをすれば魔法がそのまま返ってくる、と。

「まあ、反動って言っても色々だけどね。やっぱり、体型を変化させたまま維持するような強い魔法だと反動 リスクもそれなりに大きいの」

「クレフは……、クレフの反動 リスクって何なんですか……?」

声が震える。心臓がドキドキと痛いくらいに脈を打ち続けている。


バネットがクレフを一瞥した。
クレフは、小さく頷いた。



そして、バネットは言った。



「寿命の短縮」







どうして、クレフは笑っていられるんだろう。












[newpage]

『fly me to Seventh Heaven』





気付けば、ソファから立ち上がっていた。

頭の中をサーッと血が廻る音が聞こえる。
耐えきれず、崩れるように座りこんだ。クレフが慌ててこちらへ駆け寄って来て、ふらつく私の上体を支えてくれた。

寿命……?
一体、なんの話をしているの…?
この人は、また私をからかっているの…?

「クレフは…あとどのくらい生きられるんですか…?」
口から出た言葉は、あまりに現実味がない。ただ無意味な音声として、自分の耳に響いた。声も、手も、震えている。それを抑えようとする余裕もない。クレフの手が触れている肩の感覚があまりない。麻酔を打たれた時のように、全身が痺れていた。

バネットが眉間にしわを寄せ、格別に低い声で言った。
「あと百年は生きられないわね。私は八十年くらいと踏んでいるけれど」
「…………は?」
「八十年よ」
「はちじゅうねん?」

脳に、音が戻る。
手の震えが止まる。
痺れも収まって、肩にクレフの手の温もりが伝わった。ゆっくりと、横目で隣を覗けばクレフは気まずそうに苦笑いを浮かべている。

「私からはこんなところね。体のことが聞きたかったらいつでも呼びなさい」
「はい」と反射的に返事をした後で、それはクレフへの言葉なのだと時間差で気付いた。クレフに命令口調で話しかける人なんて初めて見た。つまり、本当に昨夜クレフが言った通りなのだろう。

バネットが去り、扉が閉まると、クレフがまた「すまない」と言った。
「大方予想はついていたから、なるべく不安にさせたくなくてな。もしも昨日のうちに話していたら、お前のことだから一睡もできなかったろう。とはいえ、今朝共に話を聞いてほしいと言ったのは、私の弱さとわがままだ」

言葉が出なかった。
思いが頭の中をぐるぐると回って、それをクレフに伝えていいのかすらもわからない。自分の手をぎゅうときつく握る。口を開いては、言葉を飲み込み、不自然な深呼吸のようにパクパクと、それを何度も繰り返していると、クレフは私の手をそっとほどき、「聞かせてほしい」と柔らかく笑った。


私は、恐る恐る口を開いた。
「本当に……正直に言うけど……。ごめんなさい…、全然ピンと来ないのよ。元々の寿命からどのくらい縮まってしまったのか、とか。普通の…私たちの寿命に換算するとどのくらいの感覚なのかとか。つまり、これがクレフにとってどのくらい影響のあることなのか…。住む世界の違いを改めて思い知らされた感じで……」
一度口にすると、堰を切ったように言葉が止まらなかった。
「でも、一つだけわかるわ。あなた、笑ってる。しかも、なんなの! そんなに嬉しそうに! 作り笑顔じゃないことくらい、さすがにわかるわよ。だてにあなたの恋人やってないもの! つまり、その……」
言いかけた時、クレフは珍しく声をあげて笑った。
「ちょ、…!なんなのよ!全然笑い事じゃ、」
「すまない。いや……、自分のことをこんなにも深く理解してくれる人がいるというのは、嬉しいものだと思ってな」
クレフは、笑い涙の浮かんだ目尻を擦り、そして私の頭をぽんと撫で、「ありがとう」と言った。
「たしかに、わずかながら戸惑いはある。仮にあと百年生きたとしても、父の享年には到底及ばない。しかし、お前の言う通り、『嬉しい』というのが正直なところだ。なぜだろう…言葉にするのは、少し難しいが、」

ここまで言うと、クレフは顎に手を当て、何やら考えこんだ。それは、今しがた私が思ったままに言葉を垂れ流した真逆の、彼らしい仕草だった。

好きだな、と思う

クレフの横顔を見ながら、想う

― あと80年
まるで揃えたかのような年数に、私は――

「運命、なのだと感じた」

クレフが、言った。
「うん、めい…?」
「ああ。バネットは反動 リスクと呼んだが、私にとってはまるで褒美のようだ」
クレフは私の左手を取ると、薬指の指輪をなぞった。もう、ほとんど癖というか習慣になっている仕草だ。

「生きたいように、生きていいのだと。心のまま望むことを許されたような、そんな感覚だ」
「生きたいように……」

それからしばらく、二人とも何も言わなかった。私はクレフの肩にもたれ、クレフは時折私の指輪をくすぐった。そのたびに、私はクレフの手を握り返した。

「……ねえ、クレフはこれから、どんな風に生きたい?」
ポツリと私が言うと、クレフは少し考えた後、言った。
「まずは、城を離れたい」
「お城というか、公務 おしごとからでしょ?」
私が返すと、クレフも笑った。
「そうだな。どこか、広い土地を借りて精獣たちの育て手 ブリーディングをしてもいい。それか、魔力は衰えても理論の伝承だけなら如何様にもできるから魔導師志望の子供たちに――」
「待って待って! それじゃあ結局生業 おしごとの話じゃない」
私はクレフの言葉を遮って言った。クレフはまるで分かっていない様子なので、言葉を足すことにする。
「それも素敵な考えだけど、もっとこう……お仕事とか導師の立場とか関係なくよ! 望むことを、許されたんでしょ? だったらたとえば……あなたが、あなたのしたいように生きていいのよって言われたら、クレフはどう生きたいの?」
「その問いなら簡単だ」
クレフは、今度はさほど時間をかけずに言った。

「静かなところでのんびりと、いや、多少騒がしくてもいい。ゆっくりと、歳をとりたい」
クレフは微笑み、そして言った。

「ウミ、お前と共に」

クレフが、あまりにさらりと言うので、それが彼なりのプロポーズだと気づくまでに数十秒はかかった。
子供のころから夢見ていたその瞬間は、案外あっけの無いものだった。ときめかなかったわけではない。サプライズが欲しかったわけでも、もちろんない。
ただ、ローザにはあんな一丁前なことを言っておいて、いざ正式に求婚を受ければ、私は自分の人生が大きく変わるその予感に、少なからずたじろいでしまった。そして、私のそんな揺らぎを、彼が見逃すはずもなかった。

クレフは、私の指輪を一撫でしてからそっと手を放した。
「お前にはお前の暮らしもあるから、無理強いはしない。すぐでなくてもいい。返事を待っている」
クレフの微笑みは、少し寂しそうだった。本当は、即答してほしかったに決まっている。そんな顔をさせてしまったことが、情けなくて、申し訳なかった。

けれど、私はこう返すほかなかった。

「少し、考えさせて」





―――





指輪を置いて、海は“東京”へと去って行った。
彼女がどんな答えをだそうと、私はそれを受け入れるつもりだった。

― 無理強いはしない
心にもないことを言った。
想いが私にあるうちに、海をこの世界に縛っておけたらどれほど良かっただろう。海のいない寂しさは、そんな無稽なことを私に考えさせた。

彼女は、地球で新しい幸せを見つけるかもしれない。異世界の、それも七百も歳の離れた男と愛し合うなど、若気の至りゆえの世迷いごとだった、と。

そんな胸の痛みに耐える必要があった。
海がいなくても、生きていかなくてはいけない。

幸い、やるべきことは山ほどあった。公務の引き継ぎに、魔力の弱力化をなるべく緩やかにする洗練。
バネットは、頻繁に検診にくるようになった。縮んだ寿命分の前倒しだそうだ。幸い体は健康体そのものとのこと。しかし、魔力の低下が体力にも影響を及ぼさないよう、少し体を動かしたほうがいいというので、ランティスやフェリオたちの鍛錬に時折参加した。

体術の心得がないわけではない。今となっては使う機会も激減したが、魔物とやり合うには、魔法一辺倒では身を守ることは難しい。

中途半端な手合わせが最も危険であることは皆わかっているので、手加減などない。模擬刀とはいえ、現役の剣士二人を相手にすれば、生傷を作ることも珍しくはなかった。城の剣技場に属する回復役 ヒーラーは、呆れてそのうち小言すら言わなくなった。ラファーガは「導師に剣を向けるなどどうかしている」と言って一度も参加することはなかった。ランティスとフェリオは顔を見合わせてお互いを指さし「どうかしているらしい」と、笑いながらも、結局は最後まで付き合ってくれた。

傷を作るたびに、海の回復魔法を思い出す。

― 還す咲霧 ―

あれほど美しい魔法を、詠唱を、私は知らない。
あれからも、何度か施された。

時に叱責とともに。
時に涙とともに。

人体の七割は、水で出来ている。それは、セフィーロの民も地球の民も変わらない。破損した組織を、水で再生成して宿主に“還”す。

当時は、理にかなっていると純粋に感心したものだが、今となっては不思議だ。風の協力と独学で習得したと言っていたが、古文書に書かれているような定石とは異なる。海はなぜ、還元の理を魔法に適用したのだろうか。直感でやっていたのなら末恐ろしいものだな、と思う。
はたと気づき、「しまった」と独りごちる。身体を休めようと横になったというのに、気付けばまた魔法のことばかり考えている。「休む時はちゃんと休んで」と、よく海にも叱られたものだ。

「ウミ……」

自然と、口から名が零れる。
眠る前は、指輪を小指にひっかけ、願いの石に月明かりを集めるのが、ここ数年の日課になっていた。

『これはクレフが持っていて。次に私がこっちへ来た時に、まだ私と一緒にいたいと思っていてくれていたら、その時、また、付けてくれる?』
海はそう言った。

二つの石のうち一つにかけた願い。
海は笑顔でいるだろうか。

「ウミ」

名を呼べばどうしようもなく切なさが募り
石に反射した月光が、淡くぼやけて滲んだ。

「ウミ……」

海がいなくとも、生きていかなくてはならない。

海と共に、生きていくために。



―――


光る空にこれほど心が反応したことも、
迎えに足を運んだのも初めてのことだった。

海は、この 場所を知らない。
きっと城にたどり着いているはずだ。

精霊の森の少し外れ。城までなら徒歩でも行ける距離だから、さほど魔力は消費しない。移動魔法を発動し、城の中庭へ向かう。

心臓が、自分のものとは思えないほどに高鳴った。

「……久しいな、ウミ」
よく声が震えなかったと思う。

大きな鞄を後ろ手に持ちながら、一歩二歩とこちらへ歩く海は、随分と大人びた表情を見せた。しかし、その微笑みと眼差しは、別れた時から何一つ変わっていない。

「ねえ、クレフ。私、あなたがいなくても生きていけるようになったわ」
「ああ…そのようだ」

年甲斐もなく、涙が出そうになった。
運命に感謝し、本当に素晴らしい女性を好きになったと、自分を褒めさえしたくなった。

海が荷を投げ置き、こちらへ駆けてくる。
私も、駆けずにはいられなかった。

ひとたび抱擁すれば、別離の寂しさが溶けていく。
顔が見えずとも、彼女の笑顔が知れた。

「私ね、もう一人でも生きていけるの」

海が言った。

「だからね、

私をお嫁さんにして?」


愛おしさで、どうにかなるかと思った。
海が苦しいと言っても、腕をほどくことができない。
何度も何度も名を呼び続けていると、ふいに海が言った。
「ね、もし私が嫌って言ったらどうするつもりだったの」
「嫌でも貰う」
「自己中……!」
「否定はしない」

「ものすっっっっごく大変だったんだからね」
「わかっている」
「これからだって、大変なんだからね!」
「わかっている」
「ちょっと!ほんとにわかってるの!?」

海が身じろぎをし、腕の中から脱しようとしたので、さらに腕に力を込めた。
「ちょっと…!苦しっ、てば!クレ…っ…」
「ウミ」
「なんなのよ、もう」
「…帰ってくると、信じていた。けれど………」

言いかけて、それは、伝えるべきではないと言葉を飲んだ。
「いや、なんでもない」

海の顔立ちを見ればわかる。この数年の私の不安など、彼女が“東京”で過ごした時間と、成してきたことに比べれば実に些末なことだ。

「……ありがとう、クレフ」

涙は、海が代わりに流してくれた。


―――

何度促しても「これが気に入ってるから」と言って、海は新しい指輪を欲しがらなかった。代わりに「クレフには必要よね」と楽しそうに言った。あまり気が乗らない。

職業柄、一つの土地に永住するのは不便なのか、簡素な住まいをあちこちに置いていると聞いた。そのうち一つの家へ、海と共に赴く。
グリフォンを降り、家屋の戸を叩くと、既に装飾品創師としての装いをまとったイースが出迎えた。同じ創師でもプレセアとは全く異なる装衣、海はそれを“エプロン”と呼んでいた。
「やる気満々ね!」
海が手土産の“チーズケーキ”を渡しながら言うと、「こんなに面白……いや、やりがいのある仕事はありませんから」とイースが茶化すような笑みを浮かべた。この二人も、随分と仲が良くなってしまったものだ。

製作の準備に入れば、イースは私の指をまるでおもちゃのように、必要以上にいじくりまわした。
「先代に続いて導師の装飾を仰せつかることができて光栄です」とか、「ウミさんはこれから大変だ」とか、「夫としては僕のほうが先輩ですねえ」とか、ニヤニヤと笑みを向けてきたのには少し腹が立った。

「そもそも、お前ほどの創師が採寸など必要ないだろう」と私が言うと、
「導師にお創りする最後の指輪ですから」とイースは言った。

その表情が、先程の茶化すような笑顔でなかったことと、それから、イースの隣で、プレセアが「良かった本当に良かった」と、あまりに泣くので怒る気も失せた。






三年後、未来が生まれた。

海より大切な存在ができるとは思っていなかった。それは海にとっても、同じのようだった。
ミライは、母親より少し淡い色の、銀に近い青髪で「目元と眉は父様にそっくりね」と海は言った。
それから彼女が嫁ぐまでは、ミライが中心の生活だった。

どの弟子を育てた時よりも、悩み、苦心した。
何もかもが初めてで、前例もないことだ。海は海で子育てにどこまで魔法を使用していいかを思いあぐねている節もあった。
セフィーロ 異世界に嫁がせたという私の負い目を見抜いた海と、すれ違うことも少なくなかった。

「気の使い合いがわずらわしい」などと、二人で暮らしていた時には言われたこともないことを海は口にするようになり、私も私で「ではどうしろと言うのだ」と言葉をぶつけたこともあった。

そんな時、光と風、それから時折海がミライを連れて故郷へ帰った際の彼女の両親には多く助けられた。私には解決できないことを、さらりと解決する彼女たちの存在は非常に大きかった。私がいればなんとかなる、なるとかしてみせる、と思い上がりを改めたのもこの時期で、海と私はミライを介して本当の意味で家族となり、そして今まで以上に世界 社会との関わりを意識するようになっていた。

ミライの成長につられるように、海も私も、少しずつ変わっていった。
『立てば歩めの親心』と、海の故郷ではうまいことを言ったものだと思う。
子の成長は喜ばしく、反面、寂しくもあった。
「今からそんなに寂しがってて、この子がお嫁に行ったらあなたどうなっちゃうのよ」と海は笑った。「嫁になど行かせん」と私が言えば、彼女はさらに大笑いをした。





ミライがカレンを産み、私は海いわく、正真正銘の“おじいちゃん”となった。
カレンがアイを産んだころには、海の髪はほとんど白くなっていた。長髪の手入れが大変だというので、肩の辺りまでの長さに切り揃えてやった。髪が白く短くなっても、その顔に皺が刻まれても、体が少しやせ細っても、海は変わらず美しかった。
『まさか、ひ孫の顔まで見られるなんて、私たちは幸せ者ね』と、海は毎日、毎日笑っていた。



バネットの見立てた『80年』にさしかかろうとしていたある日。

海は、自室の寝台に横になっている。
呼吸が少し荒くなったので、胸にそっと手を当て術を施すと、海はほっとしたように表情をやわらげた。
余生、残された魔力は、全て海のために使うと決めていた。

「もうどこも苦しくないの。あなたのおかげね」

その時が、近づいている。

海の手を、そっと包む。

生きた証が刻まれた手。
けして滑やかではないが、愛おしい手だ。

「寂しくなるでしょう」
「私もすぐにいくから、大丈夫だ」
「あら、だめよ。アイもまだ小さいのだし、ゆっくりでいいわ」
「私はもう、十分すぎるほど生きた。それに、寂しくはない。願ったから…」
「願った?」
海の指輪をなぞる。すっかりと容貌の変わった私達に反して、願いの石は変わらない輝きを宿していた。

「生まれ変わっても、またお前に巡り会いたいと。
 だから、大丈夫だ」

海は微笑み、そして瞳からは涙が一筋伝った。

「ねえ…少し、眠くなってきたわ」
「ずっとそばにいるから、安心して眠るといい」
「ありがとう、あなた」

- 眠る前に、名を呼んでほしい

最後のわがままを伝えると、海は薄っすらと、しかし確かに笑った。

海の唇が静かに動く。身じろぎにも消え入りそうなほどの小さな音声が、最後に、私の鼓膜を震わせた。


- - -



安らかな寝顔に手をかざし、
化粧を施す。


「ウミ、綺麗だ」


心の中の泉が枯れるような。
生まれて初めての感覚だった。

魔力が尽きたのだと、感じた。
不思議と、苦しさや痛みはない。

八百余年使ってきた魔法を、
最後は海のために
いや、自分のために使えて良かった。


私は、なんと果報者だろう




頬に唇を寄せ、囁く。








「おやすみ、海」









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皺の刻まれた目尻から

一筋の涙が伝った



まだ温もりの残る海の手を握ったまま

やがてクレフも眠りについた

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― 翌年 ―


澄み切った青空は、家系の瞳の色をそのまま写したようだ。
中でも一人、格別に青い瞳と髪を持つ歳の頃四つほどの少女が、弾む足で駆けていく。「走ると転ぶわよ」と母親が声をかけた。

少女は、自分の背丈よりも少し高い石造の墓標を指さし、「ひいおばあちゃまたち、ここでねんねしてるの?」と聞いた。
「そうよ」とミライが答える。「指さしちゃだめ」とカレンがたしなめると、アイは慌てて手を後ろに組んだ。

「ずっとねんね退屈だね」とアイが言った。
「二人ともとっても仲良しだったから大丈夫よ。でも、時々こうしてお話しに来ましょうね」と、ミライが言った。

すると、アイは墓石に刻まれた文字をたどたどしく読み上げた。曾祖父の名を読み上げ、そして曾祖母の名を読み上げた後、ピタリと声が止まる。
「ねえ、これなんて読むの?」
アイは墓石を指差し、そしてハッとして手をひっこめた。すると今度は顎や唇を使って懸命に墓石の文字を指そうとするので、カレンとミライがクスクスと笑った。
「これは『海』と書いてあるのよ」
「なんで? ひいおばあちゃまのお名前は、この文字でしょ?」
「こっちはね、セフィーロの言葉で『ウミ』。こっちは異世界の言葉で『海』というの」
「いせかい?」
「ウミおばあちゃまはね、地球という星で生まれたの。二つの世界を生きたから、こうして両方の言葉でお名前を書いたのよ」
「ちきう?」
「そう。アイが生まれるずーっと昔。ウミおばあちゃまは地球という星から、セフィーロに来たの」

「アイもちきうに行ってみたい!」と、アイが瞳を輝かせて言うので、カレンとミライは目を合わせ、困ったように笑った。カレンも幼い頃は、今のアイのように、自分や母に地球のことをあれこれと聞きたがったことを、ミライは思い出していた。
「アイも、いつか地球に行けるかもしれないわね」
カレンはそう言うと、しゃがみこんでアイの頭を撫でた。

ミライもしゃがみこみ、そして、手を合わせた。
セフィーロでは、指を編むように組むのが祈りの作法ではあったが、ミライは、母の国でのこの作法が好きだった。


ちょうど昨年の今日。母の寝室へ入れば、二人して居眠りでもしているのかと思った。父の背に毛布をかけようと背に触れた時、魔力が ついえていることに気付いた。それでようやく、知ったほどだ。
寝台に横たわる母の顔には化粧が施されていた。父は父で、どこか満足気な笑みを浮かべ、母の手を握ったまま眠っていた。
あれほど偉大だった父の魔力は、加齢に伴い晩年では見る影もなくなっていた。
それでも、青仄く灯るその優しい力は最後の最期まで健在だったのだろう。母は心底安心した表情で眠っていた。
最期の魔法を、母のために尽くした父を思うと涙がにじんだ。
『父様、母様のこと好きすぎでしょう』
本当に、二人らしい最期だった。


顔を上げ、墓石に刻まれた文字を見る。たしかに、二人の名前は刻まれている。けれど、父母は、ここにはいないような気もしてくる。

(今頃、お祖母様の案内で地球見物でもしているかもしれないわね)

自分と同じことを思ったのか、カレンの声がミライの元へ届いた。

(そうね。でも父様、騒がしい場所が嫌いだから、東京なんて寄ったら卒倒しちゃうかも)

東京タワーの周りを、天使の輪を頭に乗せてぷかぷかと浮かんでいる父母を思わず想像した。堪えきれず、笑みが上がってくる。

一人微笑む祖母を見上げ、アイは不思議そうに首を傾げた。
「ねえ、ミライおばあちゃま。ウミおばあちゃまはどうしてセフィーロに来たの?」
「そうね。それはとてもとても長い話になるわ。アイがもう少し大きくなったら、お話してあげましょうね」

格別に青い瞳が、セフィーロの空を映して、きらりと輝いた。






『fly me to Seventh Heaven』
end


『Believe in Magic』
fin.







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(pixivの後書きを公開当時のまま掲載しております)

『Believe in Magic』シリーズ
最終話までお読みくださり、誠にありがとうございました。

まずは、二人の最後について、キャプション等にて注意喚起をしなかったことをお詫び申し上げます。
「# 死〇タ」などの注意書きをつけようかとも悩んだのですが、そのような言及をすれば、聡明な、そして、ここまでお読みいただいている読者の皆様なら、作中で二人が天寿を迎えることは容易に予測されてしまうものと思われ、注意書きは控えさせていただきました。
作品のキーとも呼べる部分ですので、ネタバレなどは控えていただけますと幸いです。

何度生まれ変わっても、二人は巡り合って恋をするのでしょうけど、その舞台が、セフィーロになるのか、地球になるのか。どんな時代でどんな関係になるのか。どんな世界線でも、二人はきっと幸せになってくれることでしょう。


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■後書き■
…長くなりすぎたので、あとがき集のほうにまとめました。
→ あとがき集
※目次メニューで「㉘」をご覧ください。

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改めまして、ここまでお読みくださり本当にありがとうございました。

ブックマークやフォロー、Twitterへのご反応をはじめ、
各所で感想や励ましのお言葉を頂けたことが、大変強いモチベーションとなりました。頂いた感想、本当にどれも全部嬉しいです。

一作一作が、皆様方に頂いた応援の上に成り立っているだと、日々実感しております。
このシリーズは、私にとって宝物のような作品になりました。

また次回作でお目にかかれれば幸いです。

2022年 初秋
翼拝



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