Believe in Magic
心臓が、止まるかと思った。
しばらくの間、呼吸を忘れた。
火傷しそうなクレフの視線と、指に残る柔らかな感触に
体が硬直したみたいだった。
まばたきもできずに、それでも、クレフの言葉をどうにか肯定したくて。私は、かろうじて小さくうなずいた。
「少し、話そうか」
クレフはほんの少し微笑むと、私の手を引いて、城を迂回する方向へとゆっくりと歩き出した。
そんなわけないとか、期待しちゃダメとか
そんな予防線を張るのはもうやめた。
クレフは、私のことが好きだ。
それはもう、どうしたって否定することはできない。
あとは言葉で約束をするだけ。
恋心が叶う瞬間をただ待ちわびるようだった。
左手だけが、別の世界にいるようで、自分が普段どんな歩き方をしていたかすら忘れてしまった。
「怖がらせて、しまったか」
繋いだ手から私のぎこちなさが伝わったのか、クレフが申し訳なさそうに言った。小さく首を横に振る。 振ったものの、たしかに、クレフが見せた怖いくらいに真剣な瞳は、射抜かれて死んでしまうかと思うほどだった。なので、クレフの声色と表情に本来の柔らかさが戻り、それで少しほっとしたのも事実だ。
「すまない。日付が変わる前には部屋まで送るから」
私は、何を肯定するわけでも否定するわけでもなく、「大丈夫よ」とだけ返した。言葉というのは狡いもので、私の返事は「わかっているから大丈夫」というようにも、「帰らなくても大丈夫」というようにも取れるだろう。
その狡さに、少しだけ甘えた。
手を引かれたどり着いたのはあの鍛錬場だった。クレフに初めて回復魔法をかけた場所。この指輪をもらった場所。昼間は賑わうこの場所も、夜はなんてことないただの広い原っぱだ。城の灯りは随分遠くに見える。芝草をサアとくすぐる風と、リイリイと涼しげに鳴く虫の音だけが響いていた。
クレフが魔法指輪から杖を出現させ、そして杖から柔らかそうな綿素材の敷布を出した。地に敷かれた濃紺色の布に、促されるまま座る。なぜだか急にイースのことを思い出したけれど、なんだったろうか。
座ってはみたものの、クレフとの距離の取り方がわからない。拠り所なく、顔を手で扇いでみたりして、そしてドリンクの続きを一口二口飲んだ。持って帰ってきて本当によかった、と思う。喉が潤うと、緊張も少しほぐれた気がした。
「飲む……?」
聞いたのは、クレフもどこか緊張した面持ちだったからだ。クレフは二、三回大きく瞬きをした後、ありがとう、と言ってドリンクを受け取った。青いストローが唇から離れると、クレフは一つ息を吐き、そして吸い、口を開いた。
「今日は、ありがとう」
クレフが言った。改めて言われると、なんだか今日という一日が宝物のように感じられて、胸がトクトクと心地よく弾んだ。このまま時が止まればいいのに、というのはきっとこのことを言うのだと思った。
「話の前に、一つ頼みがある」
と言って、クレフは自分の右手をこちらへ向けた。
何かと見れば、以前私が回復魔法を施したのと同じ手、同じ指。おそらく、また書き仕事のしすぎだろう。小さな赤い点のような痣ができていた。だいぶ新しいように見える。全く気が付かなかった。それほどに、今日は目が足りなかったのだ。
「また働きすぎね?」
笑みを含ませ、ちらとにらむとクレフは
「今日の時間を作るためだ、容赦してくれ」と言って笑った。
「……しょうがないわね」
クレフの手をそっと取る。
止まりそうだった心臓が、再び跳ねだす。
クレフの手を取ってしばらく、
心臓が高鳴り続けて、うまく集中できない。
詠唱が、喉につまる感じがした。
劇場で、魔力が失われたあの感じとは違う。
力は体の中にたしかに存在しているのに、空回って心とうまく連携が取れない。
イースの怪我を治した時のほうが、よほど動揺していたはずだ。思いがけぬ流血を前に、それでも魔法はうまくいった。
どうして?
あの時は魔力増幅のブレスレットを付けていたから?
それにしたって、あれからも、洗練はずっと続けていたのに。
だめだめ。考えちゃだめよ。
集中しないと。
焦れば焦るほど、心の中で魔法が溶けていく。
しばらく粘ってみたものの、ある瞬間、もうこれ以上どうしたって魔法を発動できない、そう思い知らされるような感覚にパシンとぶつかった。真冬にドアノブに触れた時の、静電気のようだった。
「ごめんなさい……」
私はクレフの手をそっと放した。
発動しないどころか、詠唱すらできないなんて。
なんだか情けなくなって、涙が出そうになる。指先が少し震えているのが恥ずかしくて、自分の手を痛いくらいにぎゅうと握った。
「止め時を、正しく察知できたな」
クレフの手がそっと触れたので、私は握っていた自分の手をほどいた。食い込んだ爪の跡を、クレフが親指でなぞった。
「止め…時…?」
「なにか、雷電の走るようなピリとした感覚があっただろう? 大切なことだ。あれ以上無理に続けていれば、私が止めていた」
「でも、でも…私…今失敗して、言葉が、魔法が……」
喋れば喋るほど、涙腺が刺激される。クレフは、優しさと厳しさが半々に混ざった瞳で、私をじっと見た。目の前にいる人が、導師なのか、クレフなのか。その境界が、私にはもうわからなくなっていた。
「詠唱を待つ間、どのような心持ちだったか説明できるか?」
そう問われ、「クレフとイースのことをぐるぐると考えていました」などとは、とても言えず -いや、クレフのことだからきっと勘づいているだろうけれど-、私はたどたどしく言葉を繋げた。
「胸がざわついて、心の中の……泉みたいなものが、波立って水面が見えないの。水はたくさんあるのよ。あるんだけど……それを、うまくすくえなくて…。本当は、すくって、集めてから霧にしないといけないのに、空回りして、手から零れ落ちて。やっとすくいあげたと思ったら、今度はサラサラの氷を手の上に乗せたみたいに言葉が溶けて…、」
自分でも何を言っているのかわからなくなり、ごめんなさい、と再び謝ると、クレフは「上出来」と言ってふわりと笑った。
「ウミ。今、お前の心は乱れている。原因はわかるな?」
心乱す原因である張本人にそう聞かれれば、私は「はい」と返すしかなかった。私の返事を聞き、クレフは言葉を続けた。
「以前、オートザムのあの機器を『魔法を使えない者たちの叡智の結晶』と表現したことがあっただろう」
ずいぶん前にイーグルから借りたタブレットのことだ。たしかにそう言った覚えがある。しかし、なぜ今クレフがそんな話を持ち出したのか、私には皆目見当もつかなかった。目尻から涙が零れ落ちそうになるので、喉の奥に力をいれて、どうにかこらえる。
「あのような発想は、時折驕りそうになる私の心を戒めてくれる」
「……?クレフでもそんなことあるの?」
「当然」
クレフは言った。
「魔法は、心。善悪賢愚、人の心に存在する感情のすべてが、魔法に繋がる」
「感情の、すべて……」
きっと、恋心もそうなんだろう、と思った。
魔法を発動しようとした時、少しも無かったと言えるだろうか。驕りが。見栄が。色恋に浮かれきった思いと、少しでも良いところを見せようという浅はかな考えが。
「魔法とは」
クレフが言った。
「何もこうした術に限ったものではない」
クレフの手のひらの上に表れたのは、水晶大の水の球体だった。端的に言って、きれいだ。トコットが嘴を突っ込みたくなるのもわかる。その整った形と鏡のような球面は、使い手の心をそのまま写しているようでもあった。
「魔法は心。自分を、そして人の心を動かし、時に勇気に、時に奇跡も起こすものだ。お前が今までしてきたように」
「私、が?」
クレフがフ、と顔を綻ばせた。
「ここで初めてお前が回復魔法を施してくれた時、ずいぶん成長したものだと驚いた。今でもよく覚えている」
「そんな…前のこと…、」
クレフが、懐かしむように、あまりに嬉しそうに微笑むので、表面張力でなんとかもっていた涙がついに溢れた。
「でも、っ、…私…、できなくなっ…」
滲む視界でクレフを見れば、彼は穏やかな表情でこちらを見た。凪のようなその瞳に、こちらの心まで少し穏やかになる。と同時に、私とこの人の想いは、同じようで実はこうも違うのだと思い知らされるようで、それがひどく寂しかった。一度零れれば次々に溢れる涙を、クレフが指でぬぐい、そして言った。
「聞くが、私の魔法が乱れないのは、私の心が乱れていないためだと思うか?」
「……違う…の?」
クレフは、とんでもない、と言って笑った。
「お前が施した霧の魔法、あれは少しやっかいだ」
「ど…ゆ、こと?」
無意識にまたきつく握りしめていた手に、クレフの手がそっと触れた。
瞬間、滲んだ視界がガクッと揺れ、目の前がクレフのローブの色一色になる。水球が弾け、芝草にぴしゃんと落ちる音が聞こえた。私は今、クレフの腕の中に包まれているのだと気付く。体がぐらりと揺れて倒れこみそうになったので、私は考える間もなくクレフの背に手を回した。これ以上ないくらいに心臓が高鳴って、どうにかなってしまいそうだ。
「あの日からだ」
抱きしめる腕に力がこもり、そしてクレフは少し掠れた声で言った。
「お前が宿した霧の温もりが、胸を離れない」
ドキドキとうるさいくらいの鼓動は、もう二人どちらのものかよくわからなかった。私を抱きしめるクレフの鼓動もまた、つい今しがた凪の笑顔を見せた人だとは思えないほどの速さだ。ローブの肩口が私の涙で濡れてしまい、申し訳ないな、と呑気なことを思う。つまり、それほどに混乱していた。そんな私の混乱を知ってか知らずか、クレフの手が私の背をトントンと優しく撫でた。
「あとは経験と洗練の差だ。700年の差をそう簡単に埋められては私も困る。試すような真似をしてすまなかった。しかし正直なところ、今日のお前の魔法の出来不出来はどちらでも構わなかったのだ。成功すれば良し、失敗すれば導くまで。それだけだ」
「でも、それじゃ…」
優しさの中に、また、あの寂しさが私を刺した。
手をつなぎ、こうして抱きしめられても、
結局あなたは導…-
私の思考を遮るように、耳元にぞくりとした感触が走った。
「もう少し、私を頼れ」
耳に直接注ぎ込まれる言葉と吐息に、たまらずクレフのローブをぎゅうと掴む。そしてクレフは言った。
「この国最高の魔導師の恋人になるのだから、特権は活かすべきだ」
「………………え?」
耳を疑う。
「嘘、でしょ?」
信じられない。
心の声が、そのまま声に乗る。
「そんな、こ…こ、告白の仕方ある?」
「不服か?」
抱擁がそっと解かれ、そしてクレフは、私の肩をそっと抱き私の瞳をじっと見た。
「そんなのずるい…」
-照れた時、目をそらす癖はどうしたのよ
「ウミ」
-そんな瞳で見つめられたら
「返事を聞きたい」
-はい以外、返せるわけないじゃない。
-epilogue-
「はぁ…、も、…無理…」
耐えきれず、敷布の上にどさりと倒れ込み肩で息をつく。服ははだけ、髪も乱れた。おめかしも台無しだ。
「なんだ、これしきで情けない。'したい'と言いだしたのはお前ではないか」
「だからって、限度ってものがあるわよ……」
濃紺色の敷布はしとどに濡れている。あたりの芝草も、弾けた水の球によってツヤツヤと輝いている。もう何十個作ったか忘れた。
早い話が実践と講義だ。私が作った水球の形がいびつならば心の扱いを説かれ、作り、説かれ、作り、クレフと同等とまではいかずとも、それなりの形の球体を作れるようになった頃には、一つ目の
「いくらなんでも厳しすぎない?」
額に手の甲を当て、はあはあと息を整える。右隣に座るクレフが、首だけで振り返り言った。何が楽しいのか、にこにこと笑みを浮かべている。
「特権は活かせといったろう。自分で言うことでもないが、こんな特別指導は滅多に受けられないぞ。それとも、まさか
言いながら、十指で水をはじくように、こともなしに両手をパっと広げるとその指の全てからかわいらしいビー玉サイズの水球が表れ、くるくると立体的な軌道を描いた。十の水球がおりなす水の輝きと軌道は、どんな天体模型よりも美しかった。
たった一つの水球を整えるのにこれだけ苦労したというのに。クレフは、「まだまだだな」と言いたげに、少し意地の悪い笑みを見せた。私はもう、目の前のどれに見とれたらいいのかわからず、プイと顔をそむけた。
ようやく息が整い、体を起こそうするとクレフが手を差し出してきた。その右手には、もう痣はない。さっき、意地で治した。
クレフの手を取り、起き上がる。
もう一度、二人して城へと歩きながら、私は心の声を、棘も隠さずにそのまま伝えた。
「さっきは、あんなにドキドキしてたのに! もう!どうするのよ。記念すべき恋人同士一日目からこんなにヘトヘトになっちゃって! これじゃまるで熟年のふう…、なんでもない!」
クレフはクスクスと笑って、相変わらずに私の指輪をくすぐっている。
私も、手を握り返す。少しヤケだ。
「もっと、ロマンチックな夜になると思ってたのに!」
クレフが首を傾げたので、私は言葉を続けた。
「ロマンチックっていうのはね!……なんていうか、こう…、胸がキュンとするようなことよ。たとえば、さっき見た演劇みたいな、」
すると、クレフが突然立ち止まったので、小さな慣性で体がガクンと揺れた。何事かと顔を覗くと、クレフは悪戯を閃いた子供のような表情で、口の端をあげている。
「クレフ?」
その瞬間、手をぐいと引かれ、抱き寄せられ、クレフとの距離がゼロになる。
繋いでいたクレフの手は私の腰に回り、もう一方の手が私のあごをくいと持ち上げた。今までにないほどの顔の近さに、心臓がどきんと飛び跳ねる。
この予感は、きっと間違いない。
「ちょ、ちょっと待って…!まだ心の準、ん……っ」
言葉ごと、塞がれた。
ロマンチックとは程遠い。なんてことないただの道端。
舞台装置は、昇りきった二つの月。それから、芝草をくすぐる風の音くらい。
クレフとの初めてのキスは、ライムとサイダーのあいだみたいな味がした。
『Flavor of Love(後編)』
end