Believe in Magic
「とり……?」
窓の外を見、思わず声が出た。
その日は、クレフの書庫整理を手伝って、あらかたを終えて休憩でもしようかと、城の庭へ向かい、二人して回廊を歩いている時だった。
ふと見上げた窓の外に、赤錆色の鳥のような飛空物が見えたので私は先ほどの声をあげることとなる。青く広く深い空に、遠近感がうまく掴めない。
クレフが「イースの精獣だ」と言った。早足の後を追い、ほとんど走りながら城の虎口を出たところにちょうどそれは降り立った。クレフの精獣 にも似ているが、その体躯は彼よりも幾分か小さい。せいぜい、『ダチョウ』の二倍か三倍くらいの大きさだ。精獣が足をたたんで座ろうとすると、荷が背からくずれて地に落ちそうになったので、私とクレフで慌てて受け止めた。
受け止めた荷を一旦草地へ置き、両手で椀の形を作って水を生成する。イースの精獣は、私の手の中へ慌ただしく嘴を突っ込み、かぷかぷと水を飲んだ。あまりに慌てて飲むので、水滴がぴしゃと草に零れた。よほど喉が乾いていたのか、両手いっぱい程度の水は二,三口ですぐに飲み切ってしまうため、生成が間に合わない。もっともっと、と私の手のひらを嘴でついばむのでくすぐったくて仕方がない。
クレフがこちらを見てくすりと笑った。そして突然「トコット」とかわいらしい擬音を口にしたので一体なにごとかと思えば、それは精獣 の名前らしかった。クレフは杖を一振りし、両腕一抱えほどの大きな水の球を生成した。トコットは顔をあげ、そして宙に浮く水の球に顔を突っ込むとパクパクと嘴を開閉して喉をくるると鳴らした。
イースは、魔力増幅に特化した宝飾品の創師だ。プレセアの一番弟子とあって、実力は折り紙付き。私が左手に装着している指輪を作ったのも彼だ。イースのせいで喧嘩をして、イースのおかげで仲直りをして。そして経緯あってクレフが私の指にはめてくれたわけだけれど、仲直りの品としては少し重すぎる(もちろん重量の話ではない)。
こんな指に指輪をはめられては、どうしたって期待してしまう。
悪くは、ないと思う。私たちの関係は。そんな、浮かれそうになる気持ちを抑え込む日々だった。
水を飲み終えたトコットは、荷の中身をゴソゴソとさぐり、布製の巾着袋のようなものを嘴でくわえて取り出した。それを、私の目の前にぶらんとぶらさげて見せつけてくる。わけがわからずきょとんとしていると、不機嫌そうにぷいと顔ごとあちらを向き、今度はクレフの眼前に巾着をぶらさげた。クレフは「わかった、わかった」と、その巾着袋を広げ、中に入っていたペレットのようなものを手のひらに乗せた。トコットの嘴が、パクパクとペレットを吸い込んでいく。それは、イースからトコットへの配達のご褒美らしかった。
トコットが運んできた箱には、異国のお菓子や装飾品が山ほど入っていた。約束の『お土産』だろうか。プレセアに預けて行かなかったのは、彼なりの礼儀なのかもしれない。それかプレセアが恥ずかしがったか、大量すぎて持ちたくなかったかのどちらかだ。多分、全部正解だろう。
ふと目をやると、積まれた箱と箱の隙間に一枚の封筒が見えた。トコットの首をかいてやっていた手を止め、クレフが封筒を拾い上げる。封を切り、一枚の紙を取り出した。クレフは、その紙を見ると、一瞬驚いた表情を見せ、それから封筒の中身をわずかに覗いて怪訝そうに眉根を寄せた。
「イース、なんて?」
「これくらいならお前にも読めそうだ。おそらく地球語 も混ざっている」
そう言って、クレフはまるで朗読の課題でも出すかのように、イースからの手紙をぺらりと指で摘んでこちらへ向けてきた。最初の一行は簡単に読めたので、そのままゆっくりと読みあげてみる。
「導師クレフ、ウミさん。その節はお世話になりました。その後お変わりありませんか?直接お伺いしたかったのですが仕事が入ってしまい、手紙での無礼をお許しください。この度、とある……えーっと?…とある……」
「伝手 」
「伝手!で、良いものが手に入ったので、差し上げます。お二人でデートでも行かれてはいかがですか?お土産は皆さんでどうぞ」
たどたどしくもなんとか読み終えた達成感が、手紙に混ざった'地球語'の違和感を薄れさせた。そういえば、初めて会った日もイースは地球語を使いこなしていた。新しい物好きというか、その好奇心と言語感覚は、もしかしたら商売人としての武器なのかもしれない。
その単語の意味を知ってか知らずか、クレフはまるで書類仕事の時のような気だるげな顔つきで、封筒の口を二本の指で広げ中を覗いている。
「ふ、二人でお出かけすること!よ……」
頼まれてもいないのに、私はその地球語を翻訳した。嘘はついていないはずだ。クレフはなんだか仏頂面でムスっとしているし何も言わないしで、なんとなく居心地が悪い。何か話題を取り持たなければ。「ほかに何か入ってたの?」と聞くと、クレフは封筒の口を広げるために使っていた二本の指で、中に入ってた紙をつまんで取り出した。
ほんの少しかかとをあげて、クレフの手元を覗いてみる。美しい装丁のそれは、私にも少しだけ見覚えがあった。拾える文字は少ない。読めるのは日付と、隣町の地名くらいだ。歌う女性のような影絵が印刷されている。もしかして? と思うところはあるけれど、結局のところよく分からなかった。
「なあに?」と聞くと、クレフはチラと私を見てから、再びその紙に視線を落とし、そして目も合わせずに言った。
「ウミ、観劇に興味はあるか?」
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その壮観を前に、私は口を閉じる方法をしばらく忘れた。
クレフに連れられて辿り着いたのは、隣町の劇場だった。すり鉢状の円形劇場は、強いて言うならローマのコロッセオを思わせる(行ったことないけど)。
石造りのその劇場は、中央部分がもっとも低くなっており、せり上がる客席からは見下ろすように舞台を一望できる構造だ。
きらびやかな舞台上では、演出の最終確認だろうか、揃いの作業服を着た魔法使いたちが様々な魔法を繰り出していた。
イースからの手紙を読み終え、クレフがその鑑賞券 の詳細を教えてくれた時、地球で言うなら'ミュージカル'ってところかしら、と私は思った。セフィーロにもそれがあるのは、さほど驚くべきことではなかった。摂理体系の異なる二つの世界においても、芸術においては共通するものが意外に多く、セフィーロにも歌やダンス、絵画に楽器と、地球とさほど変わらないものが存在しているからだ。
しかし、指を使わずに魔法で弦や鍵盤を弾くのはチート なのでは、と思ったことは言わないでおく。
今日の服は、カルディナが見繕ってくれた。光と風は、私が何を着てもかわいいかわいいといってくれるので、ありがたいけれど正直参考にはならない。それに、こちらで着る服の見立てはやはり現地の人に頼むに限る。
観劇とあらば膝は隠して。それから、お見せするほどのものは持っていないので胸元もきっちりと留める。スタンダードなシェイプの襟もついているので、きちんと感は出ているはずだ。クレフの隣を歩くとなれば、'崩し'は必要ない。
カルディナは「えぇ感じやけど、もうちょい露出してもえんちゃう?」と言っていた。なので、きっとこれでちょうど良かったのだと思う。たしかに、ファッションで言ったらカルディナはセフィーロで一番心強い相談相手だ。しかし、お見せするほどのものがある人の意見をすべて真に受けてはいけない。
クレフはクレフで、白いローブを外したいつもの'お忍び'スタイルだ。サークレットも杖もない。とは言え、いつも二人で街へ出る時のような軽装とも違う。一見黒色にも見えるほどに深いネイビーブルーの、素材の軽いローブを装い、サークレットのない長い前髪は、かきあげたままセットしたのか、いつもよりも右目がよく見える。思わずぽーっと見とれていると、「観劇の邪魔になるから」と照れくさそうに言うので、心臓が、もう訳がわからないくらいきゅんと音を立てた。
控えめに言っても格好良すぎた。見た目の年齢が五歳ほど増した彼の姿は、目に毒だった。
しかし、この円形劇場の壮観な展望は、クレフに負けず劣らず私をドキドキさせた。きょろきょろとあたりを見渡しながら、座席の間の通路を進む。数歩ごとに写真を撮りたくなるような造形美に、目がいくつあっても足りなかった。
(私たちの席はどこかしら。どんどん下って行ってるし、もしかしてS席とか?いやいや、まさかね)
こんなにすばらしい会場なら、A席だってB席だって全然かまわない。クレフと一緒なら、立ち見だって。
考え事をしながら歩いていたので、突然立ち止まったクレフの背中に鼻をぶつけてしまった。
何をしている、とクレフが笑い、そして「さて、どこにしようか?」と言った。
「なにが?」
「座席だ」
「え?指定じゃないの!?」
「イースは良い計らいをしてくれた。初めての観劇が末席では味気ないからな」
意味がわからずきょとんとしていると、時間もあるし少し回るか、と言ってクレフは再び歩き出した。歩きながらクレフの話を聞くに、イースのくれたチケットはどうやら特別なもので、どの価格帯の席にも自由に座ることができるらしかった。
「そんなことってあるの!?」
と尋ねる私に、クレフは「まあイースらしいと言えばイースらしい」と、答えになっていない答えを返した。
通路階段を更に下る。つまりステージ方面に向かって行くと、ここはおそらくS席帯なのだろう。私たちが入ってきたゲートのあたりと比べると身なりの良い人が多い気がする。
ステージを目の前にするとその臨場感は圧倒的で、作業着の魔法使いたちの表情や、杖に装飾された宝玉の色までもがしっかりと見える。
座席には、数席あたりに一人ずつ、手のひらサイズの妖精たちが侍 っていて、黄金色の美しい紅茶のような飲み物や、何やら格調高そうなボトルに入ったアルコール類を恭しくサーブしていた。
「格で言えば一番良い席ではあるが、演出で舞台にあげられる可能性もあるので、子供の頃以来、私は少し苦手な席だ」
まあ今日はそういう演目ではないがな、とクレフが苦く笑った。
ものすごくからかいがいのありそうな話なのに、この座席帯の空気の中でケラケラと大笑いする気にはなれず、後で絶対からかう、と心に決める。
クレフの言う'子供'が何歳なのかは知れないけれど、つまりこの劇場は少なくとも740年ほど前から存在していたことになる。セフィーロ崩壊の危機を乗り越えた経緯をクレフから聞けば、なんだか気が遠くなるスペクタクルな話に頭がくらくらとした。ほどなくして、クレフが「少し上がってみよう」と言った。
S席帯の通路階段を登っていると、着座している何人かがクレフをチラと見て、ごく小さな会釈をしたり、わざと目を逸らしたりしている。パパの隣を歩いている時にも、時々こういうことはあった。クレフの存在に気付きつつも、今日は私用 だと一瞬のうちに察し、そして気遣いから声をかけなかったのだろう。そういう意味でも、ここは正真正銘のS席帯だった。
通路階段を上り、ちょうどすり鉢の中腹あたりまで歩いた。この辺り一帯がA席だろう。クレフが、音響設備のある辺りを指さし、音が一番良いのはあの辺りだろう、と言った。特殊な円柱と半透明の膜に包まれたその場所は、おそらくPA席のような所か。ステージ上の魔法使いとは異なる作業服を着た人たちが、慌ただしく動いている。「今日の公演には向いているかもしれん」とクレフが言った。
それから、少し時間をかけて通路階段を上り、劇場の一番上、つまりステージから最も遠い席にたどり着く。この辺りはずばりそのまま'一般席'と呼ぶらしい。
B席帯、いやもしかしたらそれ以下かもしれない。ステージ上の魔法使いたちの姿は豆粒だ。おそらくステージに併設されたスクリーンを主に見ることになるだろう。
とはいえ、今日一番の絶景に私は「わあ」と声を上げずにはいられなかった。
空からは爽やかな風が吹きおろし、見下ろせば先程通って来たS席帯とA席帯の全てが視界に入る。円形劇場の会場全体が見渡せるその席が'一般席'だとは、到底思えない。
「開演すれば客席はほとんど見えなくなるからあまり利点はないぞ」とクレフが小さな声で言った。
見渡すと、子供連れや、一人で来ている人が多い。おそらく、少しは騒いでも良い席なのだろう。かと思えば、一人でアルコールを飲みながらくつろいでいる客達からは、皆どことなく玄人じみた常連感が漂っている。もしかしたら、安い席でリピートする人も多いのかもしれない。
「あとは……」
とクレフが言った。
「まだあるの?」
「あ、いや……」
口ごもり、クレフが顔を背けた。
「あるんでしょ?」
クレフは、ううむ、と唸り「しばらく待てば出始めるはずだ」と言った。
「出る?」
「一度作ると戻せないから、見て決めた方がいい」
と言って、まだまばらな一般席の一角に腰を掛けた。何のことかさっぱりわからず、とにかくクレフの言う通り待つことにする。
待つ、とはいえ全く退屈はしなかった。会場は開演前からドキドキするような空気が充満していて、生まれて初めて東京でコンサートを見た時よりもずっとずっと胸が高鳴っていた。
しばらく会場を眺めていると、ドリンクやお菓子を抱えた売り子たちが一般席の辺りを回り始めた。買ってくれとねだる幼い子供の様子は東京のそれとほとんど同じで、それがなんだか微笑ましかった。親子のやり取りをじーっと見ていると、何を勘違いをしたのか、近くにきた売り子をクレフが呼び止めて、ドリンクを買ってくれた。
「ねだったわけじゃないのに……」
ともかく、お礼を言って青いストローを口にしてみる。ライムとサイダーの中間のような味が、口いっぱいに広がった。甘いけれど爽やかで飲みやすい。炭酸も入っていないのにスッキリとした清涼感があった。ちらと横顔を覗くと、見た目年齢五歳増しのクレフが、その唇にかわいらしい赤いストローをはさんでいるのが可笑しくて、少し笑いそうになる。そして、二人してドリンクを飲みながらあれこれお喋りをしていると、これはまごうことなきデートだ、と今更ながらに顔がにやけた。
しばらくすると、
クレフの言う通り、それは出た。
二人がけのソファのようなものが会場内の座席の上をふわふわと飛んでいるので、「え?」と声が出る。さながら、映画館のペアシートのようなソファには、老齢の男女が腰掛けていた。その夫婦は、ステージのほうを指さしたり辺りを見回したりしながら、うろうろと宙を漂っている。しばらく浮遊し、その場に停滞したかと思うと、男性が宙に手かざすようなしぐさをし、そしてペアシートはすうと消えていった。
「どういうこと?」
「空宙席 だ」
クレフが言った。
「名の通り、宙から観覧できる」
「最高じゃない!私あれがいいわ!」
私が声を上げると、クレフはあからさまに苦い顔をした。
「なんで? だめ?」
「……あまり教育によろしくない可能性がある」
「どゆこと?初見は良い席がいいって、クレフが言ったんじゃない」
クレフは顎に手を当て、うむ、と小さくうなった後、「私は止めたからな」とぼそりと言って席を立ち、そして再び通路を歩みだした。
一体何なのだろう。クレフが高所恐怖症だなんて話は聞いたことがない。というか、あれだけフューラやグリフォンをぴゅんぴゅんと乗り回すのだから、絶対に違うだろう。教育に悪い? 考え事をしながら、とにもかくにもクレフの後に続き歩く。
しばらく進むとクレフが「気付いていると思うが」と、ぽつりと言った。
「ここでは思うように魔法が使えない」
どうやら私の考え事の解答ではなさそうだ。
そう、最初こそ劇場の壮観さに呆気にとられ気が付かなかった。けれど次第に、体に宿った小さな違和感を、私は確かに覚え始めていた。いや、宿った、というよりも『欠けた』感触だ。心の中の、何か大切なものが抜けていくような、そんな感触。
「ええ」と返事をすると、クレフは続けて教えてくれた。
それは、この劇場の資材に含まれる成分によるものだ、と。この会場の観覧席には沈黙の森の結界の影響を受けた木や土壌が使われている。演出の都合、だそうだ。万に一つでも、客席から魔法で干渉されては、舞台が台無しになる。なので、座席では自由に魔法を使うことができない。それはたとえ最高位の魔導師といえども例外ではなかった。
そんな話をしながら歩いていると、座席ブロックの狭間、ぽっかりと空いたスペースで、クレフは足を止めた。ちょうど乗用車1台が入りそうなそのスペースには、腰の高さくらいのポールのような物が一本立っている。先端には、水晶を斜めにすっぱりと切り落としたような形のガラス状の飾りがついている。クレフが、懐から取り出したチケットをガラスの飾りにかざすと、先程見たペアシートのようなソファがポンと、突如出現した。
「すごい…」
その不思議な仕組みに、私は心の声をそのまま口にした。促されるままシートに座る。クレフも隣に腰掛けた。
遠目では大きく見えたシートも、座ってみると意外に狭い。左脚がクレフに触れたので、ほんの少し腰を浮かせてさりげなく距離を取る。それでも身動ぎをすれば肩が触れそうな距離だった。
シートがふわりと浮いた。クレフが手をかざすと、腰の下にあるはずのシートが透けるように半透明になった。なるほど、先程の老夫婦のように、私達の姿もきっと見えなくなったのだろう。体がふわふわと揺られる。シートが浮きあげれば、レールのないジェットコースターに乗っているようで非常に怖い。たまらずクレフの袖をつかんだ。
私が、「さっきの、音響席の辺りで」とおっかなびっくり言うと、クレフが何やら手元を操作をし、私達のシートはゆっくりと前方へ移動していった。
しばらく飛べば、先程の老夫婦の姿があった。消えたと思っていた姿は、近くで見ればうっすらと透けて見える。移動中にシート同士がぶつからないようにするためだ、と言う。公演時間になれば、移動できなくなるかわりに完全に見えなくなるらしい。うまいことできてるのね。ぼんやりと思う。もうあまり、怖くなくなっていた。
目当ての場所にたどりつき、しばらく待っていると、いつの間にか辺りには宙空席の観客が増えてきている。半透明にうっすらと見えるそれは、そのほとんどが男女のペアだった。最初に見たような高齢のペアも少しはいるものの、ほとんどが私達くらいの、(見た目は)若い男女だ。S席帯の観客たちと負けず劣らずの立派な身なりをしているペアも少なくはなかった。
干渉しあうような距離ではないものの、気づけば辺りを宙空席のカップルたちに囲まれていた。すっかり夕闇模様になった空の色も、恋人たちの雰囲気作りを手伝っていた。半透化しているのをいいことに、お熱い展開を繰り広げている人たちも少なくはない。逆に、見せつけたいのかなんなのか、全く透化せずにキスをし出すカップルすらいるので非常に困った。
「一体……劇場に…何しに来てるのよ」
あまりの気まずさに顔を伏せ、愚痴るように言うと
「'デート'だろう」
とクレフが言った。
「でっ……、クレフ、意味知ってたの!?」
クレフが、あまりにしれっと地球語を口にするので、驚いた。クレフが「だから止めたんだ」と素っ気なく言い、再び手をかざして幾分かは視界が健やかなほうへとシートを移動させた。
そわそわとしながら開演を待つ。なんとなしに見ると、クレフが自分の手を広げては閉じ、広げては閉じ、していた。
「クレフ?」
「お前に礼を言わなければならないな」
「お礼?」
「最も魔法に長けているということは、最も魔法に依存しているということでもある」
唐突に言うので、一体何の話をしているのかわからなかった。クレフの手の動きが止まり、そしてゆっくりとこちらを見た。少し困ったような笑顔だ。その瞳を見れば、ようやく、クレフの言葉が意味として頭の中へ伝わった。そして私は「依存だなんて」と、思ったままを口にした。きっと、この会場の話だろう。私ですら違和感を覚えたくらいだ。クレフは、尚のこと強い影響を受けてしまっているに違いない。
「だから……」
言い淀み、クレフは続けた。
「ここに来るのは少し、……怖かった」
そして、照れくさそうな横顔が言った。
「しかし、今日は不思議と大丈夫だ。おそらく……お前がいるからだな」
「…クレフ……」
私の顔の赤みは、暗転が隠してくれた。
ブザーの音が響くと同時にわあ、と歓声が沸き、そしてステージだけが光を浴びれば、会場の意識はただ一点に集中し、しんと静まり返った。キスをしていたカップルも、周りの宙空席も完全に見えなくなった。
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結果から言うと、私とクレフはキスをすることも手を握ることもなく公演は終わった。二人の間に置かれたドリンクに偶然手が触れるようなプチハプニングすらない。それどころか、せっかくクレフが用意してくれたドリンクは、ブザーが鳴ってからは1ミリも減らなかった。
飲む暇などなかったのだ。
「なにこれ……」
私のあまりの泣きっぷりに、クレフが苦笑いをしている。けれど、止めることなどできない。泣きすぎて、しばらく立ち上がれる気がしなかった。
「すっっっっっごく良かった」
背もたれに全力でよりかかり、天を仰いでハンカチを顔の上に乗せて目頭を抑える。少し鼻声なのが格好悪い。
カーテンコールが終わり、演者たちがステージを去ってからも、ステージ上にはホログラムで投影されたエミーユ が、メインテーマをアカペラで歌い、観客達に別れの手を振っている。
「アカペラ はずるい」
「こんなに泣く劇だなんて聞いてない」
「エミーユが手紙を川に流すシーンからもうずっと涙がとまらなくて」
私が、次々に感想を零すと
「序盤も序盤ではないか」
と言って、クレフがクスクスと笑った。
「だって……あんなの泣かないほうが無理でしょ……。あと…、ほら…あの、三つ爪の精獣さんが去り際に振り返るところも」
「たしかに」
あれは良かった、とクレフが小さく呟くので、私は自分で話を振っておきながら言葉に詰まってしまった。
クレフと共有できることなら、何だって嬉しい。いつでも上と言うか前というか、とにかく、私より少し優位に立っている彼と、こんな小さな感想一つを共有できたことが堪らず嬉しかった。
好きです、と、思わず言ってしまいそうになる。青いストローをくわえる。結局、クレフに買ってもらったドリンクは、半分以上飲み残してしまった。捨てるにはあまりに忍びない。このまま持って帰ろうかな、とも思う。喉の渇きが癒えて、涙が少し収まってくる。少し落ち着こう。私は、一つ深呼吸をした。
「でも、あの文字みたいな模様が宙に浮かび上がるシーンは全然わからなかったわ。あれもセフィーロ文字だった?」
「なんだ、わからないなら聞けばよかったのに」
「えっ、だって観劇中にお喋りするなんて」
「宙空席の声は周りには聞こえんぞ」
「そうなの!?じゃあ聞けばよかった!他にもわからないところ、結構あったのよ」
「そうか、声をかければよかったな。気が利かなくて悪かった」
思い切り首を横に振る私に、クレフは言った。
「次は遠慮せず聞くといい」
「次?」
「また、連れて来てやるから」
「……うん」
なんだか私らしくない、まるで乙女みたいなか細い声が出てしまったので気恥ずかしかった。私が、不自然に深呼吸ばかりするので、クレフが先ほどから一体どうした? と顔を覗き込んでくる。クレフから顔を背け、下方を見下ろせば、会場はガヤガヤと退出の流れを作っていた。S席帯から順番に退場しているようだ。宙に浮いている私たちはどうやって帰るのだろうか。ぼんやり眺めていると、他のカップルたちの宙空席がふわふわと上昇し、円形劇場の天から会場を後にするのが見えた。混雑を顧みず自由に帰れるというのは、ちょっとした特権のようにも思える。
「ね、私たちも飛んで帰るの?」
と聞くと、クレフは曖昧に返事をした。
私も、自分の言葉を反復し、曖昧に言った。
「帰ら…ないと、ね」
結局、私たちは待つ必要もない退場の流れを待ち、会場がほとんどシンとしたところで、ようやく地に降りた。
クレフが手を差し出してくれたので、その手を取り、私もゆっくりと立ち上がる。
離す理由もなかったから。
私たちは、手を繋いで、歩いた。
劇の感想はまだまだあったはずなのに、なんだか一言も声が出なくなってしまって、私は黙りこくったままクレフの半歩後ろをぽそぽそと歩いた。
時折、クレフの親指が私の指輪をわざとくすぐるので、照れくさくて仕方ない。かと言ってクレフの魔法指輪を触れ返すのはなんだか気が引けたので、私は指輪をくすぐられるたびに、彼の手をきゅ、と握りかえした。
今、好きだと言えば受け入れてくれるのではないか。そんな期待すらしてしまう。というか、しないほうが無理だ。
ゆっくり、ゆっくりと歩いているはずなのに、城の明かりは、もうほとんど目の前だった。
時間にすれば半日足らず。けれど、こんなにゆっくりとした時をクレフと過ごしたのは初めてだった。イースに心から感謝をした。そしてクレフにも。
「ね、クレフ、今日はありがとう」
「ああ、こちらこそ」
「デ…デート、楽しかったわね!」
ほんの冗談。心が弾んでいたので言ってみただけ。
すると、クレフが急に真剣な顔になったので、私は自分のくだらない前言を早々に後悔した。
「ちょっと……! 冗談よ?」
大げさな動きで顔を覗きこんでみても、クレフの表情は変わらない。歩幅が不自然に早まって、遅くなる。いたたまれず、クレフの手をぎゅうと握りぶんぶんと振った。
「ねえ! 外したみたいで恥ずかしいじゃない! 何か言ってよ…!」
すると、クレフが不意に立ち止まった。そして私をチラと見たかと思うと、何かを言いかけて、目をそらした。それが、照れた時の彼の癖だと気付いたのは、つい最近の事だ。
それからは、クレフの所作があんまりに綺麗だったので、私はその光景をぽーっと眺めていることしかできなかった。
繋いだ左手がふわりと取られ、そっと持ち上げられる。
宝石のような青い瞳が、薄紫色の柔らかそうなまつげの奥に隠れ、そして私の薬指にやわらかく温かいものが触れた。
あの時、指輪をもらった時には触れそうで触れなかった唇が、今たしかに触れているのだと気づいた瞬間、全身の神経が薬指に集中した。
「ウミ」
青く煌めく瞳に捉えられ
目をそらせない。
こんなに熱いクレフの眼差しは、見たことがなかった。
「今夜は、帰したくない」
クレフは、たしかにそう言った。
『Flavor of Love(前編)』
end
━━━━━━━━━━━━━━━
あとがき。
(作風そのままに後半へ行きたい人は、読まないほうがいいです)
⬇
[newpage]
さて、ここからは海ちゃんと一緒に、皆でどきどきしましょうぞ…。
リアルタイムに読んでくださる皆様と、この間 を共有したかったのです。本当に。
後編は2~3週後に公開予定です。
引き続きよろしくお願いいたします。
・ストロー
好きな色だから、と青いストローのドリンクを海ちゃんに渡す、そんなクレフが大好き。
・お洋服
「クレフとデートなら崩しはいらないな」と考えた海ちゃん。
クレフはクレフで、「気合い入れすぎか…」とか思いながらいそいそと支度していてほしい。
もしくは、デート前日、カルディナを部屋に引きずりこんで、服装のご意見をこっそり拝借しようとするクレフがいてもいいな。突然クレフの部屋に連れ込まれたカルディナが「ウチにはラファーガが…」とか冗談を言ったりして。平和かあ。
リァ……爆発…ろ…。
窓の外を見、思わず声が出た。
その日は、クレフの書庫整理を手伝って、あらかたを終えて休憩でもしようかと、城の庭へ向かい、二人して回廊を歩いている時だった。
ふと見上げた窓の外に、赤錆色の鳥のような飛空物が見えたので私は先ほどの声をあげることとなる。青く広く深い空に、遠近感がうまく掴めない。
クレフが「イースの精獣だ」と言った。早足の後を追い、ほとんど走りながら城の虎口を出たところにちょうどそれは降り立った。クレフの
受け止めた荷を一旦草地へ置き、両手で椀の形を作って水を生成する。イースの精獣は、私の手の中へ慌ただしく嘴を突っ込み、かぷかぷと水を飲んだ。あまりに慌てて飲むので、水滴がぴしゃと草に零れた。よほど喉が乾いていたのか、両手いっぱい程度の水は二,三口ですぐに飲み切ってしまうため、生成が間に合わない。もっともっと、と私の手のひらを嘴でついばむのでくすぐったくて仕方がない。
クレフがこちらを見てくすりと笑った。そして突然「トコット」とかわいらしい擬音を口にしたので一体なにごとかと思えば、それは
イースは、魔力増幅に特化した宝飾品の創師だ。プレセアの一番弟子とあって、実力は折り紙付き。私が左手に装着している指輪を作ったのも彼だ。イースのせいで喧嘩をして、イースのおかげで仲直りをして。そして経緯あってクレフが私の指にはめてくれたわけだけれど、仲直りの品としては少し重すぎる(もちろん重量の話ではない)。
こんな指に指輪をはめられては、どうしたって期待してしまう。
悪くは、ないと思う。私たちの関係は。そんな、浮かれそうになる気持ちを抑え込む日々だった。
水を飲み終えたトコットは、荷の中身をゴソゴソとさぐり、布製の巾着袋のようなものを嘴でくわえて取り出した。それを、私の目の前にぶらんとぶらさげて見せつけてくる。わけがわからずきょとんとしていると、不機嫌そうにぷいと顔ごとあちらを向き、今度はクレフの眼前に巾着をぶらさげた。クレフは「わかった、わかった」と、その巾着袋を広げ、中に入っていたペレットのようなものを手のひらに乗せた。トコットの嘴が、パクパクとペレットを吸い込んでいく。それは、イースからトコットへの配達のご褒美らしかった。
トコットが運んできた箱には、異国のお菓子や装飾品が山ほど入っていた。約束の『お土産』だろうか。プレセアに預けて行かなかったのは、彼なりの礼儀なのかもしれない。それかプレセアが恥ずかしがったか、大量すぎて持ちたくなかったかのどちらかだ。多分、全部正解だろう。
ふと目をやると、積まれた箱と箱の隙間に一枚の封筒が見えた。トコットの首をかいてやっていた手を止め、クレフが封筒を拾い上げる。封を切り、一枚の紙を取り出した。クレフは、その紙を見ると、一瞬驚いた表情を見せ、それから封筒の中身をわずかに覗いて怪訝そうに眉根を寄せた。
「イース、なんて?」
「これくらいならお前にも読めそうだ。おそらく
そう言って、クレフはまるで朗読の課題でも出すかのように、イースからの手紙をぺらりと指で摘んでこちらへ向けてきた。最初の一行は簡単に読めたので、そのままゆっくりと読みあげてみる。
「導師クレフ、ウミさん。その節はお世話になりました。その後お変わりありませんか?直接お伺いしたかったのですが仕事が入ってしまい、手紙での無礼をお許しください。この度、とある……えーっと?…とある……」
「
「伝手!で、良いものが手に入ったので、差し上げます。お二人でデートでも行かれてはいかがですか?お土産は皆さんでどうぞ」
たどたどしくもなんとか読み終えた達成感が、手紙に混ざった'地球語'の違和感を薄れさせた。そういえば、初めて会った日もイースは地球語を使いこなしていた。新しい物好きというか、その好奇心と言語感覚は、もしかしたら商売人としての武器なのかもしれない。
その単語の意味を知ってか知らずか、クレフはまるで書類仕事の時のような気だるげな顔つきで、封筒の口を二本の指で広げ中を覗いている。
「ふ、二人でお出かけすること!よ……」
頼まれてもいないのに、私はその地球語を翻訳した。嘘はついていないはずだ。クレフはなんだか仏頂面でムスっとしているし何も言わないしで、なんとなく居心地が悪い。何か話題を取り持たなければ。「ほかに何か入ってたの?」と聞くと、クレフは封筒の口を広げるために使っていた二本の指で、中に入ってた紙をつまんで取り出した。
ほんの少しかかとをあげて、クレフの手元を覗いてみる。美しい装丁のそれは、私にも少しだけ見覚えがあった。拾える文字は少ない。読めるのは日付と、隣町の地名くらいだ。歌う女性のような影絵が印刷されている。もしかして? と思うところはあるけれど、結局のところよく分からなかった。
「なあに?」と聞くと、クレフはチラと私を見てから、再びその紙に視線を落とし、そして目も合わせずに言った。
「ウミ、観劇に興味はあるか?」
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その壮観を前に、私は口を閉じる方法をしばらく忘れた。
クレフに連れられて辿り着いたのは、隣町の劇場だった。すり鉢状の円形劇場は、強いて言うならローマのコロッセオを思わせる(行ったことないけど)。
石造りのその劇場は、中央部分がもっとも低くなっており、せり上がる客席からは見下ろすように舞台を一望できる構造だ。
きらびやかな舞台上では、演出の最終確認だろうか、揃いの作業服を着た魔法使いたちが様々な魔法を繰り出していた。
イースからの手紙を読み終え、クレフがその
しかし、指を使わずに魔法で弦や鍵盤を弾くのは
今日の服は、カルディナが見繕ってくれた。光と風は、私が何を着てもかわいいかわいいといってくれるので、ありがたいけれど正直参考にはならない。それに、こちらで着る服の見立てはやはり現地の人に頼むに限る。
観劇とあらば膝は隠して。それから、お見せするほどのものは持っていないので胸元もきっちりと留める。スタンダードなシェイプの襟もついているので、きちんと感は出ているはずだ。クレフの隣を歩くとなれば、'崩し'は必要ない。
カルディナは「えぇ感じやけど、もうちょい露出してもえんちゃう?」と言っていた。なので、きっとこれでちょうど良かったのだと思う。たしかに、ファッションで言ったらカルディナはセフィーロで一番心強い相談相手だ。しかし、お見せするほどのものがある人の意見をすべて真に受けてはいけない。
クレフはクレフで、白いローブを外したいつもの'お忍び'スタイルだ。サークレットも杖もない。とは言え、いつも二人で街へ出る時のような軽装とも違う。一見黒色にも見えるほどに深いネイビーブルーの、素材の軽いローブを装い、サークレットのない長い前髪は、かきあげたままセットしたのか、いつもよりも右目がよく見える。思わずぽーっと見とれていると、「観劇の邪魔になるから」と照れくさそうに言うので、心臓が、もう訳がわからないくらいきゅんと音を立てた。
控えめに言っても格好良すぎた。見た目の年齢が五歳ほど増した彼の姿は、目に毒だった。
しかし、この円形劇場の壮観な展望は、クレフに負けず劣らず私をドキドキさせた。きょろきょろとあたりを見渡しながら、座席の間の通路を進む。数歩ごとに写真を撮りたくなるような造形美に、目がいくつあっても足りなかった。
(私たちの席はどこかしら。どんどん下って行ってるし、もしかしてS席とか?いやいや、まさかね)
こんなにすばらしい会場なら、A席だってB席だって全然かまわない。クレフと一緒なら、立ち見だって。
考え事をしながら歩いていたので、突然立ち止まったクレフの背中に鼻をぶつけてしまった。
何をしている、とクレフが笑い、そして「さて、どこにしようか?」と言った。
「なにが?」
「座席だ」
「え?指定じゃないの!?」
「イースは良い計らいをしてくれた。初めての観劇が末席では味気ないからな」
意味がわからずきょとんとしていると、時間もあるし少し回るか、と言ってクレフは再び歩き出した。歩きながらクレフの話を聞くに、イースのくれたチケットはどうやら特別なもので、どの価格帯の席にも自由に座ることができるらしかった。
「そんなことってあるの!?」
と尋ねる私に、クレフは「まあイースらしいと言えばイースらしい」と、答えになっていない答えを返した。
通路階段を更に下る。つまりステージ方面に向かって行くと、ここはおそらくS席帯なのだろう。私たちが入ってきたゲートのあたりと比べると身なりの良い人が多い気がする。
ステージを目の前にするとその臨場感は圧倒的で、作業着の魔法使いたちの表情や、杖に装飾された宝玉の色までもがしっかりと見える。
座席には、数席あたりに一人ずつ、手のひらサイズの妖精たちが
「格で言えば一番良い席ではあるが、演出で舞台にあげられる可能性もあるので、子供の頃以来、私は少し苦手な席だ」
まあ今日はそういう演目ではないがな、とクレフが苦く笑った。
ものすごくからかいがいのありそうな話なのに、この座席帯の空気の中でケラケラと大笑いする気にはなれず、後で絶対からかう、と心に決める。
クレフの言う'子供'が何歳なのかは知れないけれど、つまりこの劇場は少なくとも740年ほど前から存在していたことになる。セフィーロ崩壊の危機を乗り越えた経緯をクレフから聞けば、なんだか気が遠くなるスペクタクルな話に頭がくらくらとした。ほどなくして、クレフが「少し上がってみよう」と言った。
S席帯の通路階段を登っていると、着座している何人かがクレフをチラと見て、ごく小さな会釈をしたり、わざと目を逸らしたりしている。パパの隣を歩いている時にも、時々こういうことはあった。クレフの存在に気付きつつも、今日は
通路階段を上り、ちょうどすり鉢の中腹あたりまで歩いた。この辺り一帯がA席だろう。クレフが、音響設備のある辺りを指さし、音が一番良いのはあの辺りだろう、と言った。特殊な円柱と半透明の膜に包まれたその場所は、おそらくPA席のような所か。ステージ上の魔法使いとは異なる作業服を着た人たちが、慌ただしく動いている。「今日の公演には向いているかもしれん」とクレフが言った。
それから、少し時間をかけて通路階段を上り、劇場の一番上、つまりステージから最も遠い席にたどり着く。この辺りはずばりそのまま'一般席'と呼ぶらしい。
B席帯、いやもしかしたらそれ以下かもしれない。ステージ上の魔法使いたちの姿は豆粒だ。おそらくステージに併設されたスクリーンを主に見ることになるだろう。
とはいえ、今日一番の絶景に私は「わあ」と声を上げずにはいられなかった。
空からは爽やかな風が吹きおろし、見下ろせば先程通って来たS席帯とA席帯の全てが視界に入る。円形劇場の会場全体が見渡せるその席が'一般席'だとは、到底思えない。
「開演すれば客席はほとんど見えなくなるからあまり利点はないぞ」とクレフが小さな声で言った。
見渡すと、子供連れや、一人で来ている人が多い。おそらく、少しは騒いでも良い席なのだろう。かと思えば、一人でアルコールを飲みながらくつろいでいる客達からは、皆どことなく玄人じみた常連感が漂っている。もしかしたら、安い席でリピートする人も多いのかもしれない。
「あとは……」
とクレフが言った。
「まだあるの?」
「あ、いや……」
口ごもり、クレフが顔を背けた。
「あるんでしょ?」
クレフは、ううむ、と唸り「しばらく待てば出始めるはずだ」と言った。
「出る?」
「一度作ると戻せないから、見て決めた方がいい」
と言って、まだまばらな一般席の一角に腰を掛けた。何のことかさっぱりわからず、とにかくクレフの言う通り待つことにする。
待つ、とはいえ全く退屈はしなかった。会場は開演前からドキドキするような空気が充満していて、生まれて初めて東京でコンサートを見た時よりもずっとずっと胸が高鳴っていた。
しばらく会場を眺めていると、ドリンクやお菓子を抱えた売り子たちが一般席の辺りを回り始めた。買ってくれとねだる幼い子供の様子は東京のそれとほとんど同じで、それがなんだか微笑ましかった。親子のやり取りをじーっと見ていると、何を勘違いをしたのか、近くにきた売り子をクレフが呼び止めて、ドリンクを買ってくれた。
「ねだったわけじゃないのに……」
ともかく、お礼を言って青いストローを口にしてみる。ライムとサイダーの中間のような味が、口いっぱいに広がった。甘いけれど爽やかで飲みやすい。炭酸も入っていないのにスッキリとした清涼感があった。ちらと横顔を覗くと、見た目年齢五歳増しのクレフが、その唇にかわいらしい赤いストローをはさんでいるのが可笑しくて、少し笑いそうになる。そして、二人してドリンクを飲みながらあれこれお喋りをしていると、これはまごうことなきデートだ、と今更ながらに顔がにやけた。
しばらくすると、
クレフの言う通り、それは出た。
二人がけのソファのようなものが会場内の座席の上をふわふわと飛んでいるので、「え?」と声が出る。さながら、映画館のペアシートのようなソファには、老齢の男女が腰掛けていた。その夫婦は、ステージのほうを指さしたり辺りを見回したりしながら、うろうろと宙を漂っている。しばらく浮遊し、その場に停滞したかと思うと、男性が宙に手かざすようなしぐさをし、そしてペアシートはすうと消えていった。
「どういうこと?」
「
クレフが言った。
「名の通り、宙から観覧できる」
「最高じゃない!私あれがいいわ!」
私が声を上げると、クレフはあからさまに苦い顔をした。
「なんで? だめ?」
「……あまり教育によろしくない可能性がある」
「どゆこと?初見は良い席がいいって、クレフが言ったんじゃない」
クレフは顎に手を当て、うむ、と小さくうなった後、「私は止めたからな」とぼそりと言って席を立ち、そして再び通路を歩みだした。
一体何なのだろう。クレフが高所恐怖症だなんて話は聞いたことがない。というか、あれだけフューラやグリフォンをぴゅんぴゅんと乗り回すのだから、絶対に違うだろう。教育に悪い? 考え事をしながら、とにもかくにもクレフの後に続き歩く。
しばらく進むとクレフが「気付いていると思うが」と、ぽつりと言った。
「ここでは思うように魔法が使えない」
どうやら私の考え事の解答ではなさそうだ。
そう、最初こそ劇場の壮観さに呆気にとられ気が付かなかった。けれど次第に、体に宿った小さな違和感を、私は確かに覚え始めていた。いや、宿った、というよりも『欠けた』感触だ。心の中の、何か大切なものが抜けていくような、そんな感触。
「ええ」と返事をすると、クレフは続けて教えてくれた。
それは、この劇場の資材に含まれる成分によるものだ、と。この会場の観覧席には沈黙の森の結界の影響を受けた木や土壌が使われている。演出の都合、だそうだ。万に一つでも、客席から魔法で干渉されては、舞台が台無しになる。なので、座席では自由に魔法を使うことができない。それはたとえ最高位の魔導師といえども例外ではなかった。
そんな話をしながら歩いていると、座席ブロックの狭間、ぽっかりと空いたスペースで、クレフは足を止めた。ちょうど乗用車1台が入りそうなそのスペースには、腰の高さくらいのポールのような物が一本立っている。先端には、水晶を斜めにすっぱりと切り落としたような形のガラス状の飾りがついている。クレフが、懐から取り出したチケットをガラスの飾りにかざすと、先程見たペアシートのようなソファがポンと、突如出現した。
「すごい…」
その不思議な仕組みに、私は心の声をそのまま口にした。促されるままシートに座る。クレフも隣に腰掛けた。
遠目では大きく見えたシートも、座ってみると意外に狭い。左脚がクレフに触れたので、ほんの少し腰を浮かせてさりげなく距離を取る。それでも身動ぎをすれば肩が触れそうな距離だった。
シートがふわりと浮いた。クレフが手をかざすと、腰の下にあるはずのシートが透けるように半透明になった。なるほど、先程の老夫婦のように、私達の姿もきっと見えなくなったのだろう。体がふわふわと揺られる。シートが浮きあげれば、レールのないジェットコースターに乗っているようで非常に怖い。たまらずクレフの袖をつかんだ。
私が、「さっきの、音響席の辺りで」とおっかなびっくり言うと、クレフが何やら手元を操作をし、私達のシートはゆっくりと前方へ移動していった。
しばらく飛べば、先程の老夫婦の姿があった。消えたと思っていた姿は、近くで見ればうっすらと透けて見える。移動中にシート同士がぶつからないようにするためだ、と言う。公演時間になれば、移動できなくなるかわりに完全に見えなくなるらしい。うまいことできてるのね。ぼんやりと思う。もうあまり、怖くなくなっていた。
目当ての場所にたどりつき、しばらく待っていると、いつの間にか辺りには宙空席の観客が増えてきている。半透明にうっすらと見えるそれは、そのほとんどが男女のペアだった。最初に見たような高齢のペアも少しはいるものの、ほとんどが私達くらいの、(見た目は)若い男女だ。S席帯の観客たちと負けず劣らずの立派な身なりをしているペアも少なくはなかった。
干渉しあうような距離ではないものの、気づけば辺りを宙空席のカップルたちに囲まれていた。すっかり夕闇模様になった空の色も、恋人たちの雰囲気作りを手伝っていた。半透化しているのをいいことに、お熱い展開を繰り広げている人たちも少なくはない。逆に、見せつけたいのかなんなのか、全く透化せずにキスをし出すカップルすらいるので非常に困った。
「一体……劇場に…何しに来てるのよ」
あまりの気まずさに顔を伏せ、愚痴るように言うと
「'デート'だろう」
とクレフが言った。
「でっ……、クレフ、意味知ってたの!?」
クレフが、あまりにしれっと地球語を口にするので、驚いた。クレフが「だから止めたんだ」と素っ気なく言い、再び手をかざして幾分かは視界が健やかなほうへとシートを移動させた。
そわそわとしながら開演を待つ。なんとなしに見ると、クレフが自分の手を広げては閉じ、広げては閉じ、していた。
「クレフ?」
「お前に礼を言わなければならないな」
「お礼?」
「最も魔法に長けているということは、最も魔法に依存しているということでもある」
唐突に言うので、一体何の話をしているのかわからなかった。クレフの手の動きが止まり、そしてゆっくりとこちらを見た。少し困ったような笑顔だ。その瞳を見れば、ようやく、クレフの言葉が意味として頭の中へ伝わった。そして私は「依存だなんて」と、思ったままを口にした。きっと、この会場の話だろう。私ですら違和感を覚えたくらいだ。クレフは、尚のこと強い影響を受けてしまっているに違いない。
「だから……」
言い淀み、クレフは続けた。
「ここに来るのは少し、……怖かった」
そして、照れくさそうな横顔が言った。
「しかし、今日は不思議と大丈夫だ。おそらく……お前がいるからだな」
「…クレフ……」
私の顔の赤みは、暗転が隠してくれた。
ブザーの音が響くと同時にわあ、と歓声が沸き、そしてステージだけが光を浴びれば、会場の意識はただ一点に集中し、しんと静まり返った。キスをしていたカップルも、周りの宙空席も完全に見えなくなった。
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結果から言うと、私とクレフはキスをすることも手を握ることもなく公演は終わった。二人の間に置かれたドリンクに偶然手が触れるようなプチハプニングすらない。それどころか、せっかくクレフが用意してくれたドリンクは、ブザーが鳴ってからは1ミリも減らなかった。
飲む暇などなかったのだ。
「なにこれ……」
私のあまりの泣きっぷりに、クレフが苦笑いをしている。けれど、止めることなどできない。泣きすぎて、しばらく立ち上がれる気がしなかった。
「すっっっっっごく良かった」
背もたれに全力でよりかかり、天を仰いでハンカチを顔の上に乗せて目頭を抑える。少し鼻声なのが格好悪い。
カーテンコールが終わり、演者たちがステージを去ってからも、ステージ上にはホログラムで投影された
「
「こんなに泣く劇だなんて聞いてない」
「エミーユが手紙を川に流すシーンからもうずっと涙がとまらなくて」
私が、次々に感想を零すと
「序盤も序盤ではないか」
と言って、クレフがクスクスと笑った。
「だって……あんなの泣かないほうが無理でしょ……。あと…、ほら…あの、三つ爪の精獣さんが去り際に振り返るところも」
「たしかに」
あれは良かった、とクレフが小さく呟くので、私は自分で話を振っておきながら言葉に詰まってしまった。
クレフと共有できることなら、何だって嬉しい。いつでも上と言うか前というか、とにかく、私より少し優位に立っている彼と、こんな小さな感想一つを共有できたことが堪らず嬉しかった。
好きです、と、思わず言ってしまいそうになる。青いストローをくわえる。結局、クレフに買ってもらったドリンクは、半分以上飲み残してしまった。捨てるにはあまりに忍びない。このまま持って帰ろうかな、とも思う。喉の渇きが癒えて、涙が少し収まってくる。少し落ち着こう。私は、一つ深呼吸をした。
「でも、あの文字みたいな模様が宙に浮かび上がるシーンは全然わからなかったわ。あれもセフィーロ文字だった?」
「なんだ、わからないなら聞けばよかったのに」
「えっ、だって観劇中にお喋りするなんて」
「宙空席の声は周りには聞こえんぞ」
「そうなの!?じゃあ聞けばよかった!他にもわからないところ、結構あったのよ」
「そうか、声をかければよかったな。気が利かなくて悪かった」
思い切り首を横に振る私に、クレフは言った。
「次は遠慮せず聞くといい」
「次?」
「また、連れて来てやるから」
「……うん」
なんだか私らしくない、まるで乙女みたいなか細い声が出てしまったので気恥ずかしかった。私が、不自然に深呼吸ばかりするので、クレフが先ほどから一体どうした? と顔を覗き込んでくる。クレフから顔を背け、下方を見下ろせば、会場はガヤガヤと退出の流れを作っていた。S席帯から順番に退場しているようだ。宙に浮いている私たちはどうやって帰るのだろうか。ぼんやり眺めていると、他のカップルたちの宙空席がふわふわと上昇し、円形劇場の天から会場を後にするのが見えた。混雑を顧みず自由に帰れるというのは、ちょっとした特権のようにも思える。
「ね、私たちも飛んで帰るの?」
と聞くと、クレフは曖昧に返事をした。
私も、自分の言葉を反復し、曖昧に言った。
「帰ら…ないと、ね」
結局、私たちは待つ必要もない退場の流れを待ち、会場がほとんどシンとしたところで、ようやく地に降りた。
クレフが手を差し出してくれたので、その手を取り、私もゆっくりと立ち上がる。
離す理由もなかったから。
私たちは、手を繋いで、歩いた。
劇の感想はまだまだあったはずなのに、なんだか一言も声が出なくなってしまって、私は黙りこくったままクレフの半歩後ろをぽそぽそと歩いた。
時折、クレフの親指が私の指輪をわざとくすぐるので、照れくさくて仕方ない。かと言ってクレフの魔法指輪を触れ返すのはなんだか気が引けたので、私は指輪をくすぐられるたびに、彼の手をきゅ、と握りかえした。
今、好きだと言えば受け入れてくれるのではないか。そんな期待すらしてしまう。というか、しないほうが無理だ。
ゆっくり、ゆっくりと歩いているはずなのに、城の明かりは、もうほとんど目の前だった。
時間にすれば半日足らず。けれど、こんなにゆっくりとした時をクレフと過ごしたのは初めてだった。イースに心から感謝をした。そしてクレフにも。
「ね、クレフ、今日はありがとう」
「ああ、こちらこそ」
「デ…デート、楽しかったわね!」
ほんの冗談。心が弾んでいたので言ってみただけ。
すると、クレフが急に真剣な顔になったので、私は自分のくだらない前言を早々に後悔した。
「ちょっと……! 冗談よ?」
大げさな動きで顔を覗きこんでみても、クレフの表情は変わらない。歩幅が不自然に早まって、遅くなる。いたたまれず、クレフの手をぎゅうと握りぶんぶんと振った。
「ねえ! 外したみたいで恥ずかしいじゃない! 何か言ってよ…!」
すると、クレフが不意に立ち止まった。そして私をチラと見たかと思うと、何かを言いかけて、目をそらした。それが、照れた時の彼の癖だと気付いたのは、つい最近の事だ。
それからは、クレフの所作があんまりに綺麗だったので、私はその光景をぽーっと眺めていることしかできなかった。
繋いだ左手がふわりと取られ、そっと持ち上げられる。
宝石のような青い瞳が、薄紫色の柔らかそうなまつげの奥に隠れ、そして私の薬指にやわらかく温かいものが触れた。
あの時、指輪をもらった時には触れそうで触れなかった唇が、今たしかに触れているのだと気づいた瞬間、全身の神経が薬指に集中した。
「ウミ」
青く煌めく瞳に捉えられ
目をそらせない。
こんなに熱いクレフの眼差しは、見たことがなかった。
「今夜は、帰したくない」
クレフは、たしかにそう言った。
『Flavor of Love(前編)』
end
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あとがき。
(作風そのままに後半へ行きたい人は、読まないほうがいいです)
⬇
[newpage]
さて、ここからは海ちゃんと一緒に、皆でどきどきしましょうぞ…。
リアルタイムに読んでくださる皆様と、この
後編は2~3週後に公開予定です。
引き続きよろしくお願いいたします。
・ストロー
好きな色だから、と青いストローのドリンクを海ちゃんに渡す、そんなクレフが大好き。
・お洋服
「クレフとデートなら崩しはいらないな」と考えた海ちゃん。
クレフはクレフで、「気合い入れすぎか…」とか思いながらいそいそと支度していてほしい。
もしくは、デート前日、カルディナを部屋に引きずりこんで、服装のご意見をこっそり拝借しようとするクレフがいてもいいな。突然クレフの部屋に連れ込まれたカルディナが「ウチにはラファーガが…」とか冗談を言ったりして。平和かあ。
リァ……爆発…ろ…。