【クレ海】全年齢
セフィーロの文字はまるで絵画のようだ、と海は言った。
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モーンガータ
〝水面に浮かぶ道のような月明かり〟について
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凛と響く足音が近づくたびに背筋が伸びる。
見た目や背丈だけで言えば少女たちよりも四、五歳ほど年下に見える男性は、実年齢相応の威厳を放ちながら室内を巡回している。時折彼女たちの机上を静かに覗くことも忘れない。
初めてこの『教室』に入った時、風は「セフィーロ版寺子屋ですわね」と言って目を丸くした。クレフは最初首をかしげたものの、風が寺子屋についての説明をすると「たしかにここはそのような用途で使われている部屋だ」と楽しそうに目を細めた。
本日の寺子は三名のみ。数ヶ月前、セフィーロの文字を学びたいと言い出したのもこれまた風で、光と海も便乗した。
縦三列に並んだ長机の上にはそれぞれ、インクの染みた羊皮紙が川のように長く伸びている。
椅子から足をプラプラと垂らし、海はため息をついた。
風ほど学習意欲があるわけでも、光ほど忍耐力があるわけでもない。最初の頃こそ『魔法学校』のようなこの特別な空間に心が弾みもしたが、しだいに飽きと疲れが出てくるというもの。
十代半ば、遊びたい盛りの少女と七百を超えた年齢の人物とでは時間の過ぎる早さが違うのだろう。けれど「ぜひ教えてくださいな」と風が頼んだ手前、自分だけがさぼるわけにもいかず、友人たちに倣い海もおとなしく筆記具を走らせていた。
何度目かの開催となった『クレフさんのセフィーロ文字教室』も今日はもう終盤の時間だ。
職柄こそ違えど〝師〟の肩書きを冠しているだけあってかクレフの教鞭は優れていて、言語形態の全く異なるセフィーロ文字を、彼女たちは少しずつではあるが確実に身につけていた。
今書き取りを進めている単語は、『水面に浮かぶ道のような月明かり』を示す言葉。セフィーロ文字ではこの意味をたった一単語で示すことができる。「できてしまう」と言ったほうが正しいか。
「一文字あたりの情報量がおかしいのよ」
これは教室初日の海の言葉だ。
頬杖をつき、さてあくびでもしようかというところで背後から響く靴音にハッと背筋を伸ばす。嫌味のような咳ばらいを聞かせられてはたまらない。
幸い、咳ばらいはなかった。かわりにクレフは海の正面に立つと彼女の手元を指差した。
「ウミ、ここが間違っている」
クレフの指差す先には、今の今まで海が書き連ねていた文字がある。
「えっ? どこ?」
目を細め、クレフの指先を凝視する。
虫眼鏡で見なければわからないほどの小さな差。外国人にとって日本語の「ソ」と「ン」の区別がつかない、そんな感覚に近かった。
よく見ればたしかに、自分が書いた文字には見本とは異なる「ハネ」がある。本来は「止め」るべき部分で、そのハネがあるかどうかで『水面』なのか『海』なのかが変わってくるのだ。
彼女の目の前の羊皮紙には『〝海〟に浮かぶ道のような月明かり』そう示す言葉が、何文字も書き綴られていた。
「もしかして、これ全部間違ってる?」
海が情けない声を漏らすと、クレフは申し訳なさそうに頷いた。
なんとか
「まあ書いた分は決して無駄ではないから。そんなに気落ちするでない」
眉尻をゆるやかに下げてクレフが言うと、海は机に突っ伏したまま彼を横目に見、恨みがましく言った。
「セフィーロの文字ってまるで絵画みたい。こんなの言語習得の域を超えてるわよ」
風や光よりも少し遅れを取っている自覚はある。外国語は得意なつもりだった。単純に悔しい。プライドが傷つくような感情すらあった。
「絵なら風のほうがアレなのに」
体を起こした海が、頬を膨らませる。
友人を揶揄するような発言をクレフが「これ」と言ってたしなめ、薄水色の前髪を指の甲でコツンとついた。額を抑えながら海が呻き声を漏らす。光と風が振り返り、クスクスと小さな笑い声をこぼした。
「さあ、集中集中」
クレフが一つ手を叩くと、光たちは再び自分たちの机上へと向き直った。
海はといえば書き損じた文字たちを睨み「書き直し……全部……」と頭を抱えている。
さすがにこれはかわいそうだ。そんな表情を浮かべてクレフも海の机上を眺めた。
「手癖がついてしまっているようだな」
「うう、そんなこと言ったって」
「こればかりは何度も書いて慣れるしかない」
クレフの視線に促されるまま、海は渋々と筆記具を手に取った。
『くれふのいじわる』
そんな言葉を海があまりにスラスラと書くので、クレフの口からは叱責よりも笑い声が漏れた。
「そのような言葉ばかり覚えてどうする」
苦笑いを浮かべ、クレフは数歩進み海の後ろ側へと回りこんだ。
そのままクレフが上体を少しかがめたので、彼の纏う温もりが海の背をほのかにくすぐった。
一体何事かと振り返ろうとしたその時。
「『水』も『海』も、お前のことだろう」
言いながら、後方から伸びたクレフの手が机上の海の手をそっと包んだ。
手の甲に触れた熱に、海は小さく息を飲む。
幸い、光も風も書き取りに集中していてこちらに気付いている様子はない。そうでなくともクレフはこの状況を二人に見られても別になんともないのだろう。涼しい顔をして羊皮紙に視線を落としている。
この世界で動揺しているのは自分ただ一人だった。
「まずは感覚をつかめ」
筆記具ごと海の右手を包んだまま、クレフの手が動く。
青黒色のインクが生成色の用紙に擦れて軌跡を残す。
自分の手から筆跡の違う文字が生み出される不思議な感覚。海の手を介しても尚クレフの文字は美しかった。
筆記の途中、ついハネそうになる書き順がクレフの介添えによってピタリと止まる。
「なるほど、いつもここでハネたがる」
海の手の動きを制するようにクレフの手に力がこもる。手を強く握られる感覚に汗が滲みそうになる。
たしかに、心臓は驚くほど「跳ね」ていた。
それでも単語を何度も書き連ねていくと海の癖は少しずつ取れていき、手を包むクレフの力も緩やかに抜けていった。
「ほら、上達してきた」
囁き声、それからサークレットの金属音が耳元をくすぐり、海はついに音を上げた。
「あの、もうわかったから」
海が手を離すように促すと、クレフはゆっくりとそうした。かがんでいた上体を起こし、見るともなしに視線を向けたその先。
セフィーロで用意した羊皮紙とは別の、地球の素材で出来た紙束。海たちはそれを『ノート』と呼んでいた。
風たちとの遅れを埋めるためか、東京でも書き連ねたのだろう。これまた地球の素材、たとえば炭素で書かれた細い細い筆跡は、先週海がつまづいていた単語たち。疑いなくセフィーロの文字だった。
さぼり性なくせに、負けず嫌い。
その微笑ましさにクレフの口角がゆるく上がる。けれどその視線は、ノートの隅でピタリと止まった。
甘い棘が、チクリと胸に刺さる。
「クレフ?」
仕草を突然止めたクレフをいぶかしみ、海が首をかしげた。
するとクレフは唐突に机上の筆記具を手に取り、たった一文字をノートに書き添えた。
それは先日少女たちが彼に教えたばかりの日本の漢字。
インクを紙に染ませるのとはわけが違う。何度か芯を折りながら、慣れない異国の筆記具で書かれた細い文字は、彼の筆記にしては少々つたない。けれど、クレフの運んだ黒鉛は、たしかに「海」という形に軌跡を残していた。
「これはなかなか良く書けているではないか」
今度は光と風に聞かせる気はないらしい。クレフがひときわ小さな声でそう囁いた。
もちろん今書いた自身の文字のことを言っているのではない。一体なんのことかとクレフの指先を見るやいなや、海は喉の奥で無音の悲鳴をあげた。
ノートを腕で覆い隠したところでもう遅い。
不覚だった。
たしかに、書いた記憶がある。
授業の合間の休み時間。呼びかけるわけでも振り向いてほしいわけでもなく、心のままにノートの隅に書いた名前。フェリオやアスコット、プレセアたちの名前があればまだよかった。
たった一人のその名。
張本人に見られてしまったのは不覚以外の何物でもない。つまり、今しがたクレフが日本語で「海」と書いたのは、その文字への返事とも言えた。
「さ、今日はこの辺りで終いにしよう」
ポンと手を合わせてクレフが言った。
予定の時刻まではあと数分ある。それに気付いた光がクレフのほうを向いて首をかしげた。
「ウミの集中力が限界を迎えたようだ」
クレフが可笑しそうに言い、本日の『教室』は閉講となった。
次回来る時までにその書き取りを終えておくこと。
クレフの出した『宿題』はなかなかの量だ。
「クレフって、学校の先生よりも厳しいよね」
教室を出、回廊を歩きながら光が苦笑いを浮かべた。
海はといえば、顔から湯気を出しながらよろよろとふらついている。
「海さん、顔が赤いですわ」
言い含めたように微笑み、いつぞやの仕返しとばかりに風は海の頬を柔くつついた。
『モーンガータ
〝水面に浮かぶ道のような月明かり〟について 』
end
お読みくださりありがとうございました!
ほのぼのー。
お付き合いしてるかしてないかは読者様のお好きなほうでお願いします。
「モーンガータ🌙女子たちのアフタートーク」はくるっぷに置いておきます。短い会話だけですが💦
➡◆くるっぷ