【クレ海】全年齢


※お互い恋愛感情のないクレ海ちゃんが出てきます
※性格捏造強め&公式設定無視🙇‍♀️(特にイーグル)
※クレフの体型は子供&大人両方出てきます

原作最終回のお茶会から唐突に始まるお話です。





ヘミングウェイの憂鬱





イーグル・ビジョンについて知ることは少ない。


一度、機会はあった。が、それを果たして対面と呼んでいいのかは怪しい。こちらは魔神をまとい、あちらはFTOに搭乗した状態だったのだから。

ランティスと共に遅れて茶会にやってきた光の表情は明るかった。
東京にいる間もずっと彼の容態を案じ続けていた彼女の面持ちは、すっかりと晴れている。イーグルの快方の知らせはもちろんのこと、光の弾む笑顔は海と風の表情をやわらげた。

光ですら『道』に入った時に初めて顔を合わせ、そして創世主によって導かれた『東京』で初めて名を明かしたという。
それなのに、今やここまで仲が良くなっているのだから不思議なものだ。それは、光の持つ特性であるだろうし、きっとイーグルという人物にもそういった特別な何かがあるのだろう。
魔法騎士として、そして異世界の人間として、イーグルとは一度きちんと話がしてみたい。風と共にそんな話をしていた。

「ね、風、お茶会が落ち着いたら私たちもお見舞いに行きましょうか」
「そうですわね、参りましょう」
海の提案に、風も快く乗った。

ところが、風と二人して回廊を歩き療養室へ向かう途中。風が城の士官に呼ばれ、何やら所用を頼まれた。
「すみません、海さん。先に行っていただけますか」
申し訳なさそうに頭を下げる風に「わかったわ」と笑顔を返す。返したはいいものの、足取りは少し重くなる。
どうしたものか。なにせほぼ初対面だ。少しも気まずくないと言えば嘘になる。

とはいえ、もう療養室はすぐ目と鼻の先。
「あとは野となれ海となれ」そんな座右の銘を心に呟き、海は歩幅を大きくして歩みを進めた。

陽のよく当たる診療台に、その人はいた。
穏やかに目を閉じ眠っているようにも見てたし、日の光を全身で堪能しているようにも見えた。眩しくないのかしら。小さな歩幅で近づき、そっと声をかける。
「こ……こんにちは」
眠っていれば起きない程度の小さな声で。

頭の中に低い声が飛び込んできた。
「ウミ?」
「そうよ、海。お加減はいかが?」
「おかげさまで。おひとりですか? 一体どうしました?」
「どうしましたって、ただお見舞いにきたのよ」
イーグルがそんなふうに言うもの無理はない。
自分とてつい今しがた「二人は気まずいなあ」などと思っていたところだ。
「後で風も来ると思うわ」
海が言うと「そうですか」とイーグルは返した。

やはり風を待つべきだったかもしれない。どうにも間が持たない。
けれど、来たばかりで「ではまた」というわけにもいかず、海は膝の上のバスケットケースの取っ手を所在無げにもじもじと握った。

「それ、お菓子ですか?」
「え?」
「とても甘い香りがします」
「鼻がいいのね」
「甘いものには目がなくて」
「ケーキを焼いてきたのよ。あ、ケーキっていうのは地球の食べ物でね」
「知っていますよ。ジェオがとても興味深々にしていました。なるほど。ケーキはそんなにおいしそうな香りがするんですね」
「わかる!? 良かったら食べ……られないわよね?」
「経口摂取はまだまだ先ですね」
「ごめんなさい。お見舞いに手ぶらでくるのもなんだったから一応持ってくるだけ持ってきたんだけど、かえって毒だったわね」
「いえ、そんなことはないですよ」
温かな声に、海はどこかほっとする。
「お花にするべきだったわ」と、誰に聞かせるでもなく呟くと、再びイーグルの声が脳内に潜った。

「良かったら、ここで食べて行ってくれませんか?」
「えっ? ここで?」
「ええ」
「でも……」

寝たきりの人を前にケーキをもくもくと食べるのもどこか気が引ける。気の利かない見舞いの品を持って来てしまったことを後悔しながら、海はバスケットケースの取っ手を強く握りしめた。

「どうかお気遣いなく。というより、ぜひお願いします。あなたが食べてくれれば、僕も食べた気分になれるかもしれません。五感を刺激するのも回復の手助けになるんだとか」
「そ、そうなの?」
「導師がそうおっしゃってました」

イーグルが言うと、海は首を小さく縦に振った。バスケットケースを開け、蓋の裏に縛り付けられた皿とフォークを取り外す。それから一切れのケーキを皿の上へ盛り付けた。

「名前はあるんですか?」と問われたので「レアチーズケーキよ」と答える。

「五感……」
一皿を前に海はそう呟いた。

「ねえ、良かったら少し香りをかいでみる?」
尋ねると、「ぜひ」と嬉しそうな声が返ってきた。
イーグルの枕元へ皿をそっと寄せる。ケーキが顔の前に近づくと、イーグルの表情が少し緩んだ気がした。

「僕、よだれ出てませんか?」
と、イーグルは冗談めいて言った。よだれどころか微笑みながら横たわる彼の容姿は非の打ちどころがないほど整っていて、まるで絵画の一部のようだった。
思わずドキとしてしまいそうになる自分を抑える。かわりに、海は饒舌に口を開いた。

「たぶん、一番香りが良いのはタルト生地ね。バターの香りは冷めても強いから、それを最初にかいだんだと思うわ。今日はクリームチーズが特別なめらかにできたの。あ、クリームチーズっていうのは、乳製品で……えっと、白くてすこし固めのクリーム……クリームっていうのは、まあ、とにかくおいしいものよ。甘さは控えめにしてきたの。ブルーベリー……っていう果物も良いものを買えたのよ。少しすっぱいけどさわやかな甘味があるからチーズとの相性は最高ね。それから、このラズベリーは……」

なるべく五感を刺激するような会話を。
それが回復の一助となるなら。
海はそんなふうに考えた。
出来る限り詳細にケーキの味と特徴が伝わるように言葉を連ねた。
クリームチーズにお砂糖がすり混ざるざらりとした感触。混ぜ具合は手の感覚だけではなく、音もヒントになること。バニラエッセンスやレモン汁の香りがキッチンに満ちると幸せな気持ちになること。

海が語り続けるそのケーキの特徴は、イーグルにもよく伝わったようだった。
「勧めておいてなんですが、これはひどい拷問のようですね」
脳内へ届く彼の声に笑い声が混じる。つられて海もフフと笑った。
「食べたいなら早く元気になることね」
海が言うと、イーグルは少しの余白をもってこう言った。

「ウミって、優しい人なんですね」
「えっ? な、なによ突然!」
「正直、最初は少し冷たい人かと思っていました」
「嘘、私のことそんなふうに思ってたの?」
失礼ね! と言って海は口をとがらせる。
イーグルの表情が、少し困り顔の笑みに変わったような気がした。
「すみません。美人は少し苦手だったんです。でも、僕の誤解だったようですね」
「なっ……、見えてないのに何を言ってるのよ」
「雰囲気でわかりますよ」

ひどい第一印象を聞かされたと思えば、次にはさらりと容姿を誉められる。
調子が狂ってしまう。
彼は、まるで本当に見えているかのように物を言う。お世辞にしたってイーグルがあまりに自然にそんなことを言うので、海はうまく言葉を返すことができなかった。

「ねえ、次もまたケーキを持ってきてあげる」
なので、海は少しひっくり返りそうな声でそう言った。
「それは楽しみです」
「よだれで枕がびしょびしょになっちゃえばいいんだわ」





少女たちがセフィーロを去った夕刻、療養室を訪れる人がいた。

「調子はどうだ?」 
「とても良いですよ。眠ってばかりで溶けそうですけど」
「少し体を動かそう」
そう言って、導師クレフは魔法を生じさせた。
セフィーロで最も精度の高い魔法を。
眠ったままのイーグルを、浮遊する椅子にそっと座らせる。車いすのような形のそれに腰かけるイーグルは、自分の体が自分の意思とは異なる作用で動いているというのに、とても落ち着いていて、この人物の魔法と行いに信頼を寄せていることがうかがい知れた。

「今日は庭を回ろうか」
クレフが言うと「お願いします」とイーグルも微笑んだ。

「そういえば、さっきウミがお見舞いに来てくれました」
中庭に出たところで、イーグルが言った。
「ウミが? 珍しいな」
「ほとんど初対面ですよ。ケーキのことを教えてもらいました。食べたければ早く起きろ、だそうです」
「それはそれは」
「彼女、とてもやさしい人ですね。僕は少し誤解をしていました」

イーグルの言葉に、クレフは脳内に巡る記憶を少しだけ辿った。
たしかに、自分とて初対面は最悪も最悪だった。それもどこか懐かしい。口の端がゆるみかけ、クレフは「ああ」とだけ返した。





平穏な日々は続く。ほとんど毎週末のように行われるセフィーロへの訪問と、茶会と、見舞いと。
セフィーロへ到着するやいなや、光はいつものように療養室へと駆けていく。駆けると言ってもその歩幅は短く細かい。バスケットケースを大切そうにかかえて歩く海への気遣いと、イーグルのところへ早く行きたいという気持ちが、光の歩幅を揺らしていた。

初めてイーグルを見舞ってから数か月。あれ以来、イーグルのところへ行くことをどこか楽しみにしている自分がいた。

今日のアップルパイには自信がある。香り高いこのケーキなら、きっと彼の鼻腔を優しくくすぐることだろう。
この胸のときめきは、自分の作ったケーキが彼の目覚めをほんのわずかでも早くできるかもしれないという矜持と期待から来るものだ。海はそんなふうに思っていた。

療養室に着き挨拶をすませると、光がいつものようにイーグルの手を握った。不思議な感情がこみあげる。光の、誰とでも距離なく接せられるその明朗さにあこがれているのだと、海は自らの羨望の感情をそう取り扱った。

海がアップルパイを切り分けている時、ランティスが遠慮がちに入室してきた。笑顔で入室を促すイーグルと光に反し、ランティスと海は少しバツの悪そうな顔をした。
「ヒカル、行ってあげてください。彼、あなたのことをずっと待ってましたから」
イーグルは、そう言った。
「でも、今来たばかりだし」
「僕なら大丈夫ですよ、ウミがいてくれますから」
行ってあげてください。もう一度イーグルが言うと「また来るね」と言って光はランティスと共に療養室をあとにした。

二人きりとなった療養室にどこか気まずい雰囲気が漂う。
ごまかすように、海はアップルパイを口にした。味は悪くない。
けれど今日のパイ生地はこんなに焦げが強かったかしら。そんなことを思う。

「何かありましたか?」
「え?」
「フォークがお皿に当たる音がいつも以上に控えめです。それに、今日は一口が随分小さいんじゃないですか?」

まるで見えているかのように、イーグルはそう言った。
「お見通しなのね」
海は肩をすくめ、ケーキ皿をローテーブルに移した。
「あんなふうに……」

「あんなふうに光を行かせて、平気なの?」
「どういうことです?」
「だって、あなた光のことが好きなんでしょ…?」
海が言うと、イーグルは黙りこんだ。かと思えば、彼の口元がゆるみ、まるで笑い声のような吐息をもらした。

「え、何? どうしたの?」
「いえ。なぜそんなことを聞くのかと」
「だ、だって……」
「好きですよ。ただ、別に独り占めしたいとか、お付き合いしたいとかそういう感情ではないんだと思います」
「そう……なの」
ウミの声が少し掠れた。
「どうしました?」
「なんでもないわ」
「そうは見えません」
ウミは、明らかに何かを言いよどんでいた。イーグルが、「僕でよければ聞きますよ」と言って、そっと言葉を促した。

「……ほかの人に言わないでね」
「こう見えて口は堅いほうです」
「ここ最近、ずっと気になっていることがあって」
「気になっていること?」
「ええ。この前ね、アスコットに『お付き合いしたい人はいる?』って聞かれてたの」
「ほう」
イーグルは少し面白そうにそう返した。
「それでね、いないって答えたんだけどその後考えたの。そもそも、お付き合いしたいってどういうことなのかしらって」
「どういうことでした?」
「わからないわよ。なのにどうしてみんなお付き合いにこだわるのかしら」
「みんな?」
「あ……えっと、東京でね、何人か男の子に『付き合ってください』って言われるの。時々よ。それで……」
「ウミはモテモテなんですね」
「本当に時々だってば」
イーグルのからかいに、ウミの頬がぷうと膨れる。イーグルが可笑しそうに笑って詫び、それから「お詫びになるかわかりませんけど」と言って言葉を足した。
「少しだけ教えてあげましょうか?」
「えっ?」
海の瞳が好奇心にきらめいた。一つ大人になるヒントを、なぜだか彼ならば示してくれるような気がした。
「まず、僕が思うにお付き合いすることの利点として」
「利点?」
海は、どんな授業よりも真剣に背筋を伸ばした。
イーグルが提示しようとする言葉に、海は耳を傾ける。
「たとえば、約束や用事がなくても一緒にいられる、というのはどうでしょう」
「たしかに……そうね。……でも、私みんなにはいつだって会いたいわ。それは私がみんなとお付き合いしたいってことじゃないでしょう?」
「うーん、結構良い考えだと思ったんですけどね」
イーグルは、クイズに外れた程度の残念そうな口調でそう言った。
「そうか。『なぜお付き合いにこだわるのか』つまり、ウミは『好き』と『付き合う』の明確な線引きのようなものが知りたいんでしょう?」
「たしかに! そうよ、そうそう。そうかもしれないわ! イーグルは知ってるの? その線引きがなんなのか」
好奇心全開の表情で問う海に、イーグルは少し困ったような表情を見せた。
「知っているというより、一つ、これだとわかるものはあります。が、こんなことを女性に言うのも気が引けて」
「なによ、ここまで来たらもったいぶらないで教えて!」
「……たとえばですよ」
本当に言ってもよいものか。イーグルは小さくうなりながら、たとえば、たとえば、と呪文のように繰り返し、そしてようやくこう言った。

「キスがしたいと思うかどうか、とか」

ガタンと椅子が派手に傾く。小さな悲鳴すらあげる海の慌てぶりが想像以上で、イーグルはクスクスと可笑しそうに笑った。
「そんなに驚かなくてもいいのに」
「だ、だって! イーグルが急に変なこと言い出すから…!」
「すみません。あまりにウミが好奇心に愚直なので、面白くなってしまって」
「もー! あんまりからかわないでよね!」
あーびっくりした、と言って自分の顔をパタパタとあおぐ海の手が、ピタリと止まった。
「ねえ、そんなこと言うってことは、もしかして……」
海は、更に顔を赤くして尋ねた。
「イーグル、き…き…キスしたい人が……いる、の?」

海の問いに、イーグルは「はい」でも「いいえ」でもない言葉を返した。

「とても綺麗で、優しい人です」

光? 光はどちらかというと〝綺麗〟というよりは〝かわいい〟タイプだ。それに、ついさっき『お付き合いしたい』の対象ではないと言っていたばかり。

「髪からはいつも良い香りがして、それに、凛とした声でハキハキと話す人」

じゃあ、オートザムの人? こんなにかっこいい人だし、片思いの、いや恋人の一人や二人もいたかもしれない。

「それから、食べる仕草がとても美しい人。いつも僕の枕元でケーキを行儀よく食べるんですけど、とてもおいしそうな香りがするので、その唇は一体どんな味がするのか、それがとっても気になります」
「え……?」
「キスしたら、きっとその味がわかるでしょう?」
「うそでしょ……?」
「ウミ。目が覚めたら、僕とお付き合いしてくれませんか?」
「あ、あ、あの…、そそそ…そんなこと、急に言われても…」

突然の告白よりも、『NO』がすぐに出ない自分に海は何より戸惑った。
決して慣れているわけではない。それでも、ここまで心音をうるさくさせる告白はこれが初めてだった。

「だって、私、あなたのことまだ何も知らないし…」
「お付き合いって、何も最初から相手のことを完璧に好きだとか知り尽くしてからするものでもないんじゃないでしょうか」

それは、まるで交渉のようだった。けれど、なぜか悪い気はしない。東京の男の子から告白を受けた時とはまるで違う。自分の心がわずかに、しかし確実に弾むのがわかった。

「これからもっとこの人のことを知りたいとか、好きな部分を見つけていきたいとか、そんな始まり方があってもいいと思うんですよ」

それから、短くはない時間が過ぎた。固まったまま一言も発さない海に、イーグルは「すみません」と小さく謝った。

「僕も自分の想いに愚直になってみたんですが、ウミを困らせてしまいましたね。今言ったことは忘れてく―」
「あの……」
イーグルをさえぎり、海は言った。
そして、消え入るような海のか細い声が、イーグルの耳に届いた。
イーグルは嬉しそうに微笑み、そしてこんなふうに言った。

「目を覚ます大きな目標ができました。なにせここは意志の世界。もしかしたら来週には体を起こしていたりして」


しかし、『異世界』から例外的に帰還したイーグルの体にかかった負荷は、おいそれと解消する類のものではなかった。『来週』が来ても、イーグルは相も変わらず診療台に横たわっていた。

「随分と調子が良さそうだ」
しかし、クレフにそう言わしめるほどには、イーグルの症状は急速に回復していた。

「ええ。早く目を覚ましたくて仕方がありません」
ふくんだような物言いに、クレフは首をかしげる。
「何かあったのか?」
「秘密です」
クレフは、それ以上は追及しなかった。
薄々と勘づいてはいた。ここ最近、光以上に診療室へ足を運ぶ少女の存在。
茶会の滞在時間が、徐々に減ってきていることも。

時折訪問してくれる異世界の少女たち。
共に過ごせる時間は、ただでさえ短いというのに、こと海に関してはここ最近は挨拶をする程度にとどまっていた。

寂しくないと言えば嘘になる。
巣立ちのような、不思議な感覚。

けれど、彼女は本当の〝幸せ〟を見つけたのかもしれない。
そう思うと、クレフの口元はほのかにゆるんだ。
「うまくいくと良いな」
そんな曖昧な声掛けに、イーグルは「ええ」と微笑みを返した。


イーグルの回復の早さには、目を見張るものがあった。
「来週には起きられるかもしれません」
毎週のようにイーグルはそう言った。そして何度目になるか、イーグルがその言葉を言った翌週のことだった。

いつものように、海はイーグルを見舞っていた。到着した時にはイーグルはぐっすりと眠っていたので、しばらく待ってそれで目を覚まさなければまた後で来よう、そんなことを考えていた時だった。
イーグルの指先がピクリと動く。今まで、眠る表情が緩やかに変化を見せることはあっても、手指が動くことは一度もなかった。

「イーグル?」
海が、とっさにその手を握った。
返事はない。イーグルの眉間が少し苦し気に寄せられ「う」という小さな声が唇から零れた。彼の声を直接聞いたのはこれが初めてだった。
人を呼ぼうか、一瞬迷って、けれど手を握る感覚が「ここを離れてはいけない」と海をとどめた。

「イーグル、お願い」
海の口からは、そんな言葉が零れる。

(目を覚まして)

幼い頃、母に読み聞かせてもらった童話のことを思い出す。
まさかこんなことで目が覚めるとは思えない。
けれど、なぜかそうせずにはいられなかった。

小さく震える瞼に、海はそっと口付けをした。
イーグルの髪からは、ハーブのような爽やかで良い香りがした。
顔を上げ、祈る想いで彼の表情を見つめる。
端正な唇が、「ウミ」と小さく動いた。

「思った通り」
久しぶりに声帯を震わせて発せられた声は、掠れ切っていた。
イーグルの瞳に、涙を浮かべ微笑む海の姿が映る。

「あなたは綺麗な人だ」





イーグルが目覚めてから数か月。

茶など出さなければよかったと、クレフは少し後悔していた。茶はすっかり冷めている。海の口はペラペラと止まらない。熱いうちに飲むのが美味いというのに。

「最高司令官がこんっなに忙しいだなんて知らなかったわ」
海はむくれてテーブルに頬杖をついた。漏れ出るため息は、こちらの意気まで奪っていくようだ。

イーグルの目が覚めてからは早かった。体を自由に動かせるようになれば、早々にオートザムへ帰国し、最高司令官としての職務をこなすイーグルは多忙に多忙をきわめた。

デートなど数える程度。彼が海に持たせた通信用のタブレットには、愛を語らう言葉の代わりに「すみません」とか「今日も遅くなります」とか、そんな言葉だけが並んだ。

「なぜ私がお前の愚痴を聞かねばならんのだ」
クレフは今日何度目かの苦言を呈した。
「別にいいじゃない、クレフだっておやつの時間くらいは休憩しないと」
「お前の話を聞くのは全く休憩にならん」
「お付き合いするってこんなに大変なことだったのね」
クレフの苦言は聞こえなかったことにして、海は「はーあ」と大きなため息をついた。

「そもそも、なぜそのようなことになったのだ」
クレフが尋ねる。
「だから、イーグルが忙しくって」
「そうではなく」
クレフが尋ねたのは、海とイーグルが交際に至るようになった理由と経緯だった。
「なぜって…」
海は、思い切り言いよどんだ。

父親のような、師のような存在に、自分の色恋にかかわる話をするのはとてつもなく面映ゆいものがある。
自分にこんなことを尋ねるということは、つまりイーグルからは聞いていないということだろう。
イーグルとクレフは、療養中にずいぶんと仲が良くなっているようだった。自分の知らないところで、イーグルからあることないこと話されるよりはまだマシか、と海は思い至る。
照れ隠しに髪をはらい、海は言った。
「イーグルなら……き……キスしてもいいかなって思ったからよ」
「は?」
「だって、お付き合いしたいってそういうことなんでしょ? 周りにいる男の人の中でキスしてもいいかなーって思う人がイーグルだったのよ」
「そんな理由でか?」

そちらの世界の風紀は一体どうなっているのだ。
クレフは心底呆れたように言った。

「別にそれだけが理由じゃないわ! お付き合いって、これからその人のことをもっと知っていきたいとか、好きな部分を見つけていきたいとか、そんな始まり方があってもいいと思う……んです、よ……」
借り物の言葉に、発言者の口調が混ざりこむ。
気まずさに、カップに装飾された青色の宝玉をなぞりながら海は顔を伏せた。クレフが、肩で息をついた時、部屋の扉を叩く音が響いた。
クレフが扉に向かって手をかざす。
扉の開いた先には噂の張本人の姿があった。イーグルが、こちらを見てぺこりと頭を下げた。

「ここにいましたか」
「イーグル!」
海は嬉々として彼の名を呼ぶと「ちょっと待ってね」と声をかけ、そして冷え切ったお茶を飲み干した。カップを手に室内の厨へ足早に向かう。
慣れた手つきでカップとソーサーを洗って干すと、再びクレフの元、厳密には立てかけられた杖のほうへ駆け寄った。サイドテーブルをパタンとたたみ、そのまま宙に浮遊した椅子をよいしょと押して、杖のほうへ寄せる。
海が「ありがと」と軽い口調で言えば、椅子は杖の宝玉の中へと吸い込まれていった。
「ごちそうさま。お茶おいしかったわ。お邪魔しました」



冷めきった茶を一気に飲み干す。
「うまいものか。こんなに冷めた茶が」
静けさを得た部屋で、クレフの声だけが響いた。


回廊を歩きながら、イーグルが苦笑いを浮かべて言った。
「ウミ」
「なあに?」
「遅くなってしまったのは謝ります。けれど、今後は男性の部屋に二人きりというのは、少しひかえてもらえませんか?」
「え?」
「ヤキモチをやいてしまうので」
「やだ、男性ってクレフのこと? ヤキモチ!? クレフに!?」
海はケラケラと声を上げて笑った。が、イーグルの表情を見て、すぐに笑い声を止めた。
「……わかったわ。次から気を付ける」
「わがまま言って、すみません」
イーグルの微笑みに、ウミも「うん」と頷いた。

城を出、いつものようにアイシールドを装着する。
差し出されたイーグルの手を取り、機体に横座りに腰掛け彼の背をつかむ。

男の人の体だ。広い背中、見上げるほどの長身。大きな手。
イーグルは、れっきとした男性だ、と思う。

(クレフが、男の人…?)

そんなことは、考えたこともなかった。いや、生物学的にはもちろんそうなのだろうけれど、「男性の部屋に二人きり」などという言い方をされると、どこか違和感があった。

「っていうか!」
「何かいいました?」
海の声は、耳の横を切る風音にかき消される。
「ヤキモチやくくらいならもっとたくさん会いに来てくれたらいいのに」

けれど、そんなモヤモヤとした心境も、眼下に広がるセフィーロの美しい景観と、ホバーが駆ける圧倒的な風速によってすぐに吹き飛んでいった。



翌月のある夜。城の回廊でプレセアに声を掛けられた。本を数冊導師の部屋まで運んでほしいの、と言う。イーグルが迎えに来る時刻まではまだしばらくある。そうでなくとも、忙しそうにあれこれと用務をこなす彼女を見れば、手伝わないという選択肢はなかった。

蔵書室に立ち寄り、言われた通りの本を数冊抱えてクレフの部屋へ向かう。ふさがった両手。ノックの代わりに声をかければ、扉はすぐに開いた。

「ねえ、扉は開けておいて」と言う海をクレフはいぶかしんだ。
「だって、男女が部屋に二人きりはまずいと思って」
「今更何を。一体どういう風の吹き回しだ」
「だって、イーグルが変なこと言うから…」
「またイーグルか」
クレフはため息を隠すこともしなかった。
「私はぜんっぜん気にしてないのに」

「イーグルが」「イーグルと」「イーグルってば」
その名を口にし、コロコロと表情を変える彼女の姿は、クレフをいらだせていた。それが果たして彼女のもたらす喧騒によるものなのか。
いらだちの原因を思考するのも面倒になっていた。
そんな彼の曇った表情も、背を向けた海には見えない。

本棚へ本を一冊ずつ収めながら、海は更に言った。
「イーグルって意外に心配性なのかしら。クレフと私に何か起こるはずがないじゃない。だってクレフよ? 七百も超えたご老人。老人と海よ? 何か起きたらヘミングウェイだってびっくりだわ。背丈だって全然違うし、そもそも―」

「いい加減にしてくれないか」

声の近さに、思わず振り返る。
声の主は、いつのまにか海のすぐ目の前まで来ていた。
が、その背丈は今の今まで会話を交わしていた人のものではない。

「クレ…フ…?」 
海の手元からドサッと本が落ちた。
「その姿……どうしたの……?」
振り返った勢いで本棚に背を預ける格好となり、そして、顔のすぐ横に添えられた腕に閉じ込められる。
何より、彼の刺すような視線が海の逃げ場を封じた。
「あの……、クレフ…何怒って…、」
「お前は甘すぎる、何もかもが」
海の釈明も許さず、クレフはそう言った。


拒絶しろ。
このまま肩でも突き飛ばして、二度とこの部屋へは入ってくるな。そんな思いで海との距離を縮める。
ところが、海は突き飛ばすどころか、視線を控えめに落とし頬を赤く染めた。

胸の中に、黒く淀んだ感情が渦巻く。

幸せになってほしい。
その想いに嘘はない、はずだった。

 ― 頼む 拒絶をしてくれ

双方の前髪が重なろうとしたその時、
「お取り込み中すみません」
響いた声に、二人の体ははじかれたように離れた。

開け放たれたドアの向こう、回廊にはイーグルの姿があった。
「イーグル!」
イーグルは、相も変わらずニコニコと笑顔を浮かべている。けれどその瞳の奥の色まではここからは見えない。

「危うくウミの上に本が降るところだった」
クレフは、海の足元に落ちた数冊の本を拾い上げながら、聞かれたわけでもなしにそう言った。

「導師? その姿は?」
「ああ、杖なしにとっさに防御魔法を発動した反動だ。じきに戻る。ウミ、重い物を届けさせてすまなかった。それから、もうこのような手伝いは引き受けなくても良い。プレセアには私からよく言っておく」

穏やかながらも突き放すような物言いに、海は自分の心に冷たい風が吹きこむのを感じた。

「あの、クレ……」
名を呼ばれることを拒むかのように、クレフは大げさにローブをひるがえし、そして窓の外を見た。

「今夜は、星が良く出ている」
クレフが杖を掲げると、二組のブランケットを出現させた。
ブランケットは宙に浮遊し、クレフの元を離れイーグルの手元にパサリと収まった。

「東の空に少し流れるかもしれない。少し冷えるが二人で見てくるといい」




なんとも気まずい退室となった。
イーグルは、クレフから受け取ったブランケットを腕に引っ掛け、回廊を足早に進む。海も後に続く。

「あの……イーグル、ごめんなさい、私……」
「何か謝るようなことがありました?」
「……何も…ない、わ……」
言葉が詰まる。
するとイーグルは突然足を止め、海の手を握った。

「イーグル!?」
「だめですか? 恋人同士なんだから手ぐらいいいでしょう。今夜は、あなたに触れたい気分なんです」
「でも、こんな所で……」

イーグルは海の手を引いたまま回廊を足早に進む。途中、海の私室の前で立ち止まると、扉のセキュリティリーダーに海の手をかざし、そして遠慮もなしに入室した。

「ちょっと、イーグル! ねえってば! 流れ星、見に行かないの?」
「それよりも、もっといいことがありますよ」

イーグルはブランケットをベッドの上に投げ出し、戸惑う海を勢いのまま、その上に組み伏せた。
「イーグル…?」

両手をそれぞれに絡め取られ、身動きが取れない。
眼前には、口の形だけで微笑むイーグルの顔があった。

あまりの近さに、思わず顔をそむける。そむけた視線の先。手の甲に、濃紺色のブランケットが触れている。間近で見れば、そのブランケットのタッセルには小さな青い宝玉が装飾されていた。クレフの部屋で用意されるカップと同じ青色だ。

クレフは、文句を言いながらもいつだってあのカップを用意してくれていた。このブランケットだって。あんなに怒っていたのに「冷えるから」と言って。

大きな手に包まれた自分の手が、どこか他人のもののように感じられる。
片手一つですっぽりと覆われる自分の手は、『彼』にとっては両手で包んでもあまりあるほどだった。こんな時に、どうしてあの夜のことを思い出してしまうのか。なぜだか涙が浮かんでくる。

「今、導師のことを考えていたでしょう」
「へっ?」
図星をつかれ、声がひっくり返る。
「そんなことないわ。前にも言ったけど私、クレフのことなんてなんとも……」
「あなたは甘い人だ。色んな気持ちをないがしろにしている」
イーグルは、少し苛立ったように言った。

「そんなことない! 私イーグルのこと、ちゃんと……」
吐息が触れそうな距離で、イーグルの手が海の頬に触れた。

「嫌ですか?」
「そんな……だって……」
「僕のこと、好きなんでしょう?」
銀色の髪が、すぐ目の前まで迫る。

「僕も、あなたのこと『ちゃんと』好きですよ」

イーグルの言葉に、海はハッと目を見開いた。自分の放った言葉がこんなふうに響くとは思ってもいなかった。

本当に、自分は甘いのかもしれない。誰の気持ちも考えられていなかった。結局は、こんなにも近くにいる人のことすら見ることができていなかった。

海は、なかば捨て鉢な思いでぎゅうと目を閉じた。
それは償いにも近い。唇が触れる寸前、体が恐怖に震え、反動で手にタッセルの宝玉が触れた。

「やっぱりだめ!」

海はとっさに腕を伸ばし、イーグルの体をグイと突き放した。

「私まだ未成年なの! こんなことしたらイーグルが犯罪者になっちゃう!」
どこか間の抜けた発言に、数秒の間を置きイーグルがフと吹き出した。

「すみません」
クスクスと笑いながら、ベッドから起き上がる。
「少し意地悪したくなってしまって」

怖がらせてしまいましたね。そう言って、イーグルは横たわる海に手を伸ばした。海を引き起こすとベッドサイドに腰掛け、背を向けたままイーグルは言った。

「ウミ」

「僕達、終わりにしましょう」
「え?」
「あなたが一番ないがしろにいているのは僕の気持ちじゃない。あなた自身の気持ちです。どうか一度しっかり向き合ってあげてください。それでもまだ僕とお付き合いしてくれるというのなら、その時は甘んじて受け入れます」



――――――

ナイフで切り分けたロールキャベツがうまく喉を通らない。ため息を繰り返す私を、ママが心配そうに見ている。パパはお仕事なので、今日は二人だけの夕食だ。

「ママごめんね。体調が悪いわけじゃないの」
フォークとナイフを置く。無闇に心配をかけるよりは良い。だから私は言った。
「お付き合いしてた人に振られちゃって」
ママが、大きく目を見開いた。
「あのね、違うの。それで落ち込んでるんじゃなくて……。むしろ、振られたのにそんなに傷ついていないことにへこんでるっていうか」

「なんだか自信がなくなってきちゃった。私、恋とかお付き合いとか、向いてないかもしれない」

ママは、そっと微笑み言った。
「恋ってね、とっても素敵なことよ。海ちゃんにも素敵な恋をしてほしいなって思うわ。でもね、それよりもママはあなたに笑顔でいてほしいの。だからね、もし、恋すること自体が海ちゃんを苦しめるんなら、ちょっと後回しにしてもいいんじゃないかしら」

海ちゃんまだ若いんだもの。
娘にかけるセリフとしてはどこか外れたことを言って、ママは私の肩をそっと撫でてくれた。


その翌週。
イーグルと二人で、星を見た。
ひんやりとしたベンチに横並びに座る。
体が冷える。けれどあのブランケットを持ってくる気には、二人ともなれなかった。

「ごめんなさい。私やっぱり……」
「いいんです」
イーグルは、どこかすっきりとした表情でそう言った。

「やっと、僕と向き合ってくれましたね」
「イーグル……」
「そんなに悲しい顔をしないで。振られたのは僕ですよ? それに、ウミに振り回されるのも意外に楽しかったです。好奇心旺盛なあなたも、恋が下手なあなたも、僕は結構好きでした」

なんてね、と言って彼は笑った。

泣いてはいけない。私が泣く資格なんてない。
こんなにも優しい人を、傷つけてしまった。

星が一つ流れて、私は彼の幸せを心から願った。

「……なかったことに、したいですか?」
呟くような声で、イーグルが言った。
私は首を思い切り横に振った。

「僕もです。それに、ウミが僕の回復を促してくれた事実に違いはありません。キスがしたいだなんて邪な感情が作用するなんて、セフィーロも不思議な国ですね」

冗談めいて言うと、イーグルはニコリと笑ってこちらを向いた。

「ウミ、最後に一つだけ願いを聞いてもらえませんか?」
「……? ええ、私にできることなら」
ありがとう。
そう言って、イーグルは私のカチューシャのあたりにそっと手を乗せた。
「これからも、いい友達でいてください」

額に触れた最後のキスが涙を誘う。

「泣かないで、ウミ」

イーグルはそう言ったけれど、到底無理だった。
彼は、その後は私には一切触れず、けれど泣き止むまで隣にいてくれた。

それから、二人で一つだけ約束をして、私とイーグルはそれぞれに帰路についた。





―大丈夫。大丈夫よ海。

この足で、今行かなければ二度と行けない気がした。

二度三度、いや、五回は深呼吸をしてから、大きな扉を叩く。
しばらく時間をおいて、そして扉はゆっくりと開いた。

「入ってもいい?」
「断る」

この扉の前でそんな返事を聞くのは初めてだった。
「またあのようないざこざに巻き込まれるのは御免だ」
クレフの背丈はあの時のままだ。聞いたところによると、なぜだかあれから戻れなくなってしまったらしい。

「じゃ、ここで話すから聞いてくれない?」

クレフは盛大にため息をつき、そして「入れ」と言ってくれた。扉は開けっ放しにするらしい。そこはさしたる問題ではないので、そのままクレフのほうへと向かう。

クレフが杖から差し出した椅子は、いつもよりも彼から遠い位置にある。
拒絶が、つらい。
けれど今はそんなことはどうでもいい。

「どうした」
「イーグルと、別れたの」

「それで?」
と、クレフはこともなげに言った。
「愚痴は散々に聞いてやったのだ。慰めの言葉などないぞ」
「そんなんじゃないの……ただ、クレフにもものすごく迷惑かけちゃったから、謝ろうと思って」

クレフは、少しだけ時間を置いて、それから「自覚があるならそれでよい」と言った。

「本当にごめんなさい。それで……今日はどんなお叱りでも受けようと思って」
出された椅子には座らず、その横、床の上に両膝をつく。

「何をしている?」
「『正座』よ。心からお説教を受ける時の座り方」
私が言うと、クレフは自分の目元を手でおおった。
「立て。そのように跪かれてはこちらが悪いことをしているような気分になる」
とクレフが言った。

困らせに来たわけではないのでその通りにする。
クレフは私のほうへ少しだけ歩み寄り、浮遊する椅子に軽く寄りかかった。あまり彼らしくない所作を不思議に思っていると、クレフは「まだこの体に慣れていないのだ」と言った。

「仮定の話をしよう」
私は、しずかに頷く。

「仮にだ」
クレフはもう一度そう言った。

「お前が私に何かしらの好意を持っていたとする」
ハッと顔を上げクレフを見る。私の顔が赤くなる前に、クレフは「仮の話だ」と三度目の前置きをした。

「が、私はそれに気づいていない。それどころか、お前のことを子供だの体型が好みでないだの、女性としては見られないだのとまるで悪気もなくそう伝える。それも、恋人との待ち合わせの合間に、暇つぶしでもするかのように、だ」

思わず「う」と声が出る。

最低じゃない私。分かりきっていたことをあらためて認識させられれば、私はもう頭をうなだれ「ごめんなさい」とつまらない一言を言うことしかできなかった。
けれど、クレフはあえて言葉にして諭してくれた。そのことに、私はどこか救われたような気持ちになったのも事実だった。

顔をあげると、クレフがまっすぐにこちらを見ていた。見慣れない、大人の姿で。クレフも「男の人」なのだと、そんなことを考えてしまう。

「ん……?」
その時、クレフの論法への違和感を、私はそのまま口にしていた。
「クレフって、私のこと好きなの?」

瞬間、脳天に痛撃が走る。
「仮の話だと言っているだろう」
四度目の言葉と共に、クレフはその杖を私に振り下ろしていた。

涙目でクレフをにらむ。
クレフは笑っていた。いつもの優しく穏やかな微笑みではない。まだ見慣れていない大人びた容姿も相まって、その表情は少し読みにくい。からかうような、面白がるような。少し意地の悪い、彼のこんな笑顔を見るのは初めてだった。

「説教ついでだ」

手の中で、杖の柄を器用にくるくると回しながら、クレフが言った。

「オートザムや地球の倫理観がどうなっているかはしらんが、今後あのような軽率な理由で交際を始めるのはやめたほうがいい」
私は神妙に「はい」と返事をした。
「これからは、告白されても全部断ることにするわ」

杖を回す手の動きが、ピタリと止まった。
「全てというのはいささか大げさだな」
「もうさすがにこりたし、しばらくはお付き合いとかはいいかなって。これでも本当に反省してるのよ」
クレフは何も言わなかった。

「でもね、一つだけいいなって思うことはあったの」

「クレフ知ってる? お付き合いの利点」
「利点?」
「約束や用事がなくても一緒にいられること、なんですって。そんなふうに一緒にいたいなって心から思える人を、これからはゆっくり探そうと思うの」

私が言うと、クレフは「そうか」と言った。
いつもの、優しい笑顔だった。

「そろそろ行くわね。話聞いてくれてありがとう」

今日は一度も座らなかった椅子の青い宝玉をなぞる。
そして、言うか言うまいか。ものすごく悩んで、結局は言うことにした。

「ね、また来てもいい?」

クレフの返事はなかった。

断られても仕方ない。今日部屋に入れてくれただけでも感謝をしないと。そんな思いで、私は自嘲気味に微笑んだ。振り返ってもう一度「ごめんなさい」と言おうとした時。

「勝手にしろ」
背を向けたまま、クレフが言った。





お茶会は、それでもやってくる。
私とイーグルの破局の件は知れ渡っているはずだ。
少しだけ緊張する。

けれど、付かず、離れず。積極的に話すこともしなければ、もちろんあからさまに避けるようなこともしない。
真相を知りたがる人にはあっけからんと伝え、触れずにいようとする人には何事もなかったかのようにふるまう。

「周りの人たちに極力気を使わせないこと」
それが、あの星の夜に二人でした約束だった。

ビュッフェ台でいくつかのクッキーを取っていると、すぐ隣から声がした。
「導師に、想いは伝えたんですか?」
「えっ?」
いつの間にか、右隣にイーグルが立っていた。手には空のお皿を持っている。私と同じく、お菓子を物色しにきたらしい。

「え、はないでしょう。まさか進展なしですか? それじゃあ僕が振られたかいがないじゃないですか」
イーグルは、少しむっとしてそう言った。今までに見た事のない、彼の新たな表情だった。

「向き合ってないわけじゃないの。向き合った上での現状維持っていうか。まだ自分でもわからないのよ。わからないうちに突っ走るのは良くないでしょう?」
イーグルは口の端をあげ、「ふーん」と、含んだような相槌を打った。

「随分と慎重派になってしまったんですねえ」
「ねえ、ちょっと。もしかして面白がってない?」
「まさか。まあ、思いっ切り振られればいいのに、とは思ってますけど」
イーグルの突飛な言葉に、私は大きく目を瞬かせ、すぐにフと吹き出した。イーグルもニと笑った。

目当てのお菓子を取り終えたのか、お皿をいっぱいにしたイーグルが「では」と言って踵を返した。

「ねえ、イーグル」
その背中に声をかける。
「はい?」
イーグルは振り返り、こちらを見た。

「ごめんなさい」そう口の形を作りかけた時、イーグルは微笑み、ゆっくりと首を横に振った。

私は小さく息を飲み、口を閉じ、そしてイーグルの表情を真似た。
「ありがとう!」
「こちらこそ」






『ヘミングウェイの憂鬱 ― the Last Kiss』 end



お読みいただきありがとうございました。
私は非常に満足です笑。やりきったぞ…。

YOUTUBE無料公開期間の、イーグル初登場回&伝説の薬湯の週に公開できるのも、なにかの巡りあわせかもしれません笑。


ではまたー!

お口直し→03.その糖度、計測不能🎨
(ほのぼのクレ海ちゃん&オートザム勢)

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