【クレ海】全年齢
眠りによせて -the edge of heaven-
その夜半過ぎ、ほとんど崩れるように寝台へ体を沈めた。
酷使した脳がツキツキと痛む。
用務を一日先延ばしにした自分が悪い。
昨日の自分を恨みながら枕に顔を埋める。腕を伸ばし、淡い花色の掛布をたぐり寄せる。
残り香くらい置いていってくれればよいものを。
しんと無機質な布を腕に抱き込み、顔を埋めても虚しい。
自室の寝台が広いのは、なにも今に始まったことではない。二人で横になっても十分すぎるのだから一人なら尚更だ。比べる先がなければこのような思考にもならなかったかもしれない。
しかし、知りたくなかったとは思わない。
掛布の主は、試験がどうのというようなことを言っていたから、次の来訪まではまたしばらく空くだろう。
彼女の髪に触れたい。その声で名を呼んでほしい。
何をするでもなしに、その細く温かな体を抱きしめながらつく眠りは、心の中に少なからず存在している淀みを淡く溶かしてくれる。
しかしそれも、彼女を不在とする世界では、詮も無く再び凝固していくようだった。
長く生き、こんな感情はとうに
「寂しい、か」
自分の口から無意識に発せられた言葉をきっかけに、ずいぶん前、初めて海と共に眠った夜のことが脳内に蘇った。
***
その日も遠方での用務が長引き、夜も更けもう少しで日付が変わるという頃。
夜を翔ける彼の飛空は、鬱屈した気持ちを少なからず晴らしてくれる。その風速に頬は心地よく冷え、サークレットの装飾は後方へ流れて耳元でシャランと音を立てた。
下方を見やれば、精霊たちの羽ばたく灯火か、川の輪郭がぼんやりと滲んでいる。いくつかの森林を通り過ぎ、セフィーロ城の灯りが視界に入ると、また鬱屈が戻ってきた。
(なぜ今日に限って)
おそらく先程までは城の中にいたはずであろう少女たちのことを思う。久しぶりに来てくれたのは気配でわかった。
しかし、顔を合わせる間もなく、遠方の街での急務に呼ばれ、帰城はこんな夜半となってしまった。彼女たちの来訪がありながら一目も姿を見なかったのは初めてだ。
思わずため息がもれる。
グリフォンが飛空の速度を緩め、悲しげに喉を鳴らした。
「すまない、大丈夫だ。気の済むまで飛んでいいぞ」
声をかけると、城の上空を余分に一回り飛ぶことにしたのか、グリフォンの旋回の慣性につられて体が少し傾いた。
はるか下へ目線をやる。城の居住区や彼女たちの私室があるあたりに灯りは無い。
ため息をこらえ、代わりにグリフォンの首元をかいてやった。
城へ戻り、しんとした回廊を歩く。
精神的な脱力感を置いても、そもそも身体が疲れているのを感じる。低血糖らしきふらつきすら覚える。最後に食事をとったのは何時間前だったか、思い出すと余計に体が重くなるので考えないことにした。
疲労のせいで都合の良い幻覚でも見たかと思った。
私室の扉の前。
手を後ろに組み、寝衣姿で壁にもたれかかる少女の姿があった。
「どうした?帰ったのではなかったのか」
「誰にも会えないんじゃかわいそうかと思って。私だけ残ったの」
いつも予想だにしないことを言う彼女は、今日とて例外ではなかった。幻聴ではこうはいくまい。
聞けば、何やかやと理由を付けて光と風を先に帰し、自分の部屋で待っていたところ、上空に我々の姿が見えたのでここへ来た、と言う。
「残ったのが私で残念だったかもだけど」と、海は控えめに言葉を足した。
残念とは程遠い。彼女たちに優劣をつけるわけでは決してないが、それでも、一番見たかったその姿に思わず心が跳ねる。
ありがとうと言うのもおかしい。嬉しいと安直に伝えるのも違う。
返すべき言葉を思案していると「次、しばらく来れないから」と海が言った。
「そうか」
私が短く返すと、海の勝ち気な瞳がキラリと輝いた。
「今、寂しいって思ったでしょ?」
こちらの、どのような反応が欲しくてそんな発言をしたのかは知らないが、図星であることを悟られたくない。
極めて冷静を努める。
「わざわざ待っていてくれたことには感謝するが、こちらは大の男なのでな。あいにく、そのような感情は持ち合わせていない」
「そう? でも聞こえたわ?」
と言うと、海は自分の耳に手を当て「受信しちゃった」と笑った。
大きく息を飲む。思わず過度に反応してしまってから、彼女にしてやられたことに気付く。
非常時用の通信は城に着いた時に切っているし、そもそもこちらから意図的に発信しない限り届くわけがない。そんな単純なことに気づかない程度には疲弊していた。
そして、会えるはずのなかった彼女に会えたことで平静ではいられなくなっていた。
堪らず右手で眉間を抑え、首を横へ振る。
海はと言えば、その大きな瞳をさらに大きく見開いている。
自分で鎌をかけておいて予想外の反応が返ってきたことに驚いたのかなんなのかは知らない。
「こちらに恥をかかせておいてその様はないな」
私が言うと、海も気まずそうに笑った。
もう遅いから部屋へ戻れ。
そう言うべきなのは十分にわかっている。しかし、もう少しだけ。この立ち話を長引かせるか、そんなふうにも思っていた。
回らない頭で考える。
すると、海が口を開いた。
「ねえ、寂しいなら、今日…一緒に寝てあげる」
「は?」
思考を介さず声が出た。なにかの聞き違いか。海の言葉を頭の中で反復する。文脈としても、耳に残った音声としても、聞き間違いではない。しかし、二の轍は踏まない。
「ウミ、年長者をあまりからかうでない」
「本当よ?」
海は伏し目がちに目をそらし、瞬きを繰り返している。
一体なんだというのだ。とにかく一度、深呼吸をしたかった。呼吸のかわりに、一つため息をつく。そうでもしなければ、冷静に言葉を紡ぐことなど、到底できそうになかった。
「ウミ、それがどういう意味を持つかお前にもわかるだろう。そう気安く男の部屋で寝泊まりするものではないし、たとえ冗談でもそういうことは言ってはいけない」
「そう? だって、クレフにとったら子供と寝るようなものでしょう?」
彼女の表情が読めない。
冗談で煽っている様子でもなければ、もちろん本気で夜を誘っているという雰囲気でもない。
「それとも、手を出しちゃいそうでこわい?」
見たこともない淡白な表情で言い放つ彼女に、頭痛がしてきた。
それから、少しの腹立たしさも。
海の手首をつかみ、自室の扉を乱暴に開け室内へ入る。そのまま引きずるようにして寝室へ連れ、寝台に押し倒した。
魔法で四肢を拘束し、馬乗りになる。
自分よりも長身の体は、たやすく腕中に収まった。
「随分と、煽ってくれるではないか」
海が小さく息を飲んだ。
「どうした? 誘ったのはお前だろう? それともこの体では、事に及べぬとでも思ったか?」
両手首を顔の横に抑えつけ、顔を見下ろすと海は身を固くした。
冷えたサークレットの装飾が垂れ、彼女の頬に当たったが構ったことではない。
「いいか、お前にその気があろうとなかろうと、男の部屋で寝るというのは、こういうことだ」
耳元で囁くと海の身体は余計に強ばった。
「でも、」
少し震えた声。
しかし、顔を覗くと恐怖の色はない。
「でも、クレフはしないわ」
「今のお前にどう抗える」
抑えた手首に力をこめ、耳元から脳へ、恐怖が直接伝わるように、できるかぎり声を低く言った。
「あなたはこんなことに魔法を使う人じゃないもの。それに、」
顔をあげ、覗き込めば海の目は潤んでいた。
凛とした表情にあって、その輝く瞳。
罪悪感を呼び起こす瞳だ。
(その瞳で、私を見るな)
「……わかった。私の負けだ」
起き上がり、寝台を数歩離れてから海の拘束を解く。
海がのそのそと起き上がり乱れた服を整え始めたので、とっさに背を向けた。
「一体どういうつもりだ。私でなければ本当に襲われていたかもしれないのだぞ」
「クレフ以外の人にこんなことするわけないじゃない」
否定するのも面倒そうな口調で海が言った。
「……お前が何を考えているのか、さっぱりわからん」
わかっている。
海の想いは。
先程部屋の前で会った時から。いや、もっとずっとずっと前から。
しかし、その想いに応えることなど、私には許されるはずもなかった。
― わかっているのか
― 自分が
― この少女たちに何をさせたかを
「わかってるくせに」
心臓が跳ねた。
心を読んだかとも思うほどの間で言われ、思わず目を見開く。
何も、言えなくなる。
長い沈黙を破ったのはまたも海だった。
「クレフ、あの……ごめんね、意地悪言って。私ね、小さいころ、寂しい夜やこわい夜はパパかママが一緒に寝てくれたのよ。そうすると、安心していつもよりぐっすり眠れて」
海は笑みを浮かべ、照れくさそうに言った。
「
脳は鈍っている。けれど、思考する。
海が何を言わんとしているのか。
そして、一つの答えに行き着く。
彼女は、今 〝逃げた〟のだと。
― 茶番だ、と思う。
「なんだ、では結局独り寝がさみしかったのはお前というわけか」
― 彼女もきっとそう思っているだろう。
「まあそんなとこね」
誰に見せるでもない、取り繕いだけのいびつなやりとりは、まるで滑稽な芝居のようだ。
「湯を浴びる。言っておくが深い意味は無い。少し待っていろ」
一方的に言い放ち、浴室へ向かった。
―――
寝支度を整え寝室へ戻ると、海は寝台のすみであちらを向いて横になっていた。
狸寝入りを疑うが、どうやら本当に眠っているようだ。
夜半をとうに過ぎ、夜明けを待つほうが近いという時刻になっていた。
気を張って疲れたのかもしれない。
彼女は、どのような心持ちで私を待っていたのだろうか。そんなことを、考える。
つかんだ手首の感触を思い出す。
折れそうなほどに細かった。
部屋へ引き入れた時、そして寝台へ組み伏せた時、抵抗の意思はなかったように思う。
もし、あのまま続けていたらどうなっていたか。
―あなたはこんなことに魔法を使うような人じゃないもの。それに……
それに、なんだ。
―それとも、手を出しちゃいそうでこわい?
海は、わかっていて言ったのだ。
私が彼女に手を出せるわけなどないこと。
そのような次元で想っているのではないこと。
二人でいれば解消されるはずだった感情がこみあげる。
一人でいた時よりもよほど非情に。
「そばに、いられるわけがないだろう……」
自らを戒めるために発した声は、掠れ、宙に消えた。
眠る海の体をそっと後ろから抱きしめ、その髪に唇を寄せる。
きっと、この先ずっと
私は彼女の唇の感触も、その肌の滑やかさも知らずに過ごすだろう。
それでも良い。
そのほうが良い。
海は少し身動ぎをして、それから私の腕に手を重ねた。
「クレフ」
その声色で名を呼ばれると、息がとまりそうになる。
鼓動が海の背に触れ、穏やかでなくなっていることは伝わってしまっているはずだ。
「クレフ……私、」
言葉を発しかけた海の口を手のひらで塞ぐ。
その程度の抑制で、溢れ出す想いを抑えることなどできるはずのないことはわかっている。
罪滅ぼしにもならないが、せめてその言葉は、私が先に言わないといけない気がした。
―すまない、ウミ
「 」
私は、本当に彼女の幸せを願えているのだろうか。
それすら、わからなくなってくる。
『the edge of heaven』
クレフは、私の髪に口付けて、私の名前を呼んで、愛しているとすら言ってくれた。
そして、お互いの境界線を少しずつ侵食しあうように。
そうすれば寂しさを分け合えると信じて。
ただ、抱き合い、眠る日々が続いた。
ある日、彼の腕の中で夢をみた。
私たちが普通に出会い、普通に恋に落ちて、
普通の恋人のように唇を寄せる夢。
夢の中で、クレフは私を好きだと言って笑ってくれた。
その表情は、引け目も気遣いもないまっすぐな笑顔で、見たことがないものを見せるなんて、夢とは不思議な物だなと思ったのを覚えている。
目が覚めて、それがすごく寂しくなったので、笑った。
クレフが、自分の中に淀み続ける何かを科しているのは明らかだった。彼は、まだ心をそこに残しているのだと。袋小路に迷い込んで、どうしたらいいのかわからなくなっているのかもしれない。
そして、思う。
クレフの心を連れ出すのは、私でありたい、と。
「少し付き合ってくれない?」
珍しくクレフに丸一日の
連れ立って、城の虎口へ向かう。
青い空は眩しく「お散歩日和ね」と言うとクレフも笑った。
城を出てしばらく歩き、開けた断崖のへりに立つ。「危ないぞ」と声をかけるクレフに「大丈夫よ!」と笑顔を返す。
そして、波間輝く海に向かい、その名を小さく呼んだ。
絶対に、来てくれるだろうと思っていた。
今日の〝お散歩〟は、私にとってはこの国を守るのと同程度に重要なものだ。
それが
彼がその姿を表すと、クレフはこの空を全て映しきるほどに、その青い瞳を丸くした。けれど、伊達に最高位の称号を冠しているわけではない。事態の飲み込みは早く、クレフは杖を地にそっと置くと、なにか神々しいものを相手にするかのように膝を着いた。
私の知っているクレフはこんな人だったな、と改めて愛しくなる。自分の片割れのような存在に、クレフが敬意を払ってくれることが嬉しくて、頬が少し緩んだ。
膝を着くクレフを後ろ目に流し、彼に声をかける。
「久しぶりね、セレス」
見た目は確かに金属質なのにも関わらず、セレスに触れれば手のひらには生き物のような温かな触感が伝わった。
異空間で悠久の時を過ごす彼らにとって、久しぶりという感覚はないのかもしれない。けれど、セレスも「久しい」と言ってくれたので、また頬が緩んだ。
セレスに触れ、クレフに聞こえないよう小さな声で今日の“お散歩コース”を具体的に伝えた。「いいかしら」と聞くと、セレスは是の返事をくれたので「ありがとう」とお礼を言った。
振り返り、今度はクレフに声をかける。
「あなたの
再び戸惑いを見せるクレフに、大切なことを伝える。
「しっかり座っていてね。風圧は魔法で防いで」
セレスと私は、
クレフを両の手に包み、翔んだ。
風や乗り心地は大丈夫かと聞いたけれど、愚問だろうなと思う。
普通の人なら気絶の一つや二つしているかもしれない。クレフは最初こそ戸惑っていたものの、数分もすればまるで城の庭先のお気に入りのベンチにでも座っているかのように落ち着いていた。
まずは精霊の森へ。国の崩壊によって少し地形は変わっていたものの、森はほとんど復元していた。
それから、プレセアの旧家を経由して、沈黙の森へ。森のすぐ上を翔べばクレフの防除殼が薄れかけたので、少し高度を上げた。
最高位の魔力をも薄れさせるのだから、どのような力が働いているのか不思議で仕方ない。今やセフィーロの民たちの心の力で成り立っているこの国が、今も尚、魔力の通用しない森を残した。
それはきっと意味のあることなのだろうけれど、私には、私たちには見当もつかないことだ。
もしかしたら、それは歴史とか哲学とか、そういう領域で何千年も先の人たちが解明することなのかもしれない。
クレフとそんな話をした。
それから、プレセアからモコナを授かったこと、フェリオと出会ったこと。初めてする話も二度目三度目になる話も、クレフは真剣な眼差しで、時に笑いながら聞いてくれた。
「風とフェリオは初めて会った時から恋に落ちてたわ絶対に」と私が言うと、クレフも目を細めた。
「あの二人は、きっと幸せになる」と言うクレフの穏やかな笑顔は、どこか他人事のようでもあった。少し怒りたくなったけれど、今は、やめた。クレフの言葉を文面通りに受け止め、「そうね」とだけ返した。
森の出口でアルシオーネに攻撃されたことを話した時、クレフはその顔を苦しそうにしかめた。
「でもね、」
言い忘れていたわけではない。なんとなく、今まで口にしにくかっただけだ。けれど、今日言わなくてはもう二度と伝えられない気がして、私は言った。
「後から聞いたんだけど、」
「左胸にね、当たっていたのよ。アルシオーネの攻撃」
「だからね、クレフがあの防具を授けてくれていなかったら、私、きっとあの時に死んでいたわ」
「……そんな顔、しないで? 純粋に、お礼を言いたかっただけなの」
明るく努めたつもりだったけれど、少し声が震えた。
それから、光を助けるために魔法を授かったこと、風に助けてもらったことも。これはあなたもよく知ってるだろうけど、と話した。
そして、しばらく海上を翔びながら、海底神殿でセレス、それからアスコットと出会ったこと、上空へと高度を上げ、空神とカルディナのことも話した。
それからしばらく、当てもなく空を翔んだ。
厳密に言うと〝当て〟はあったのだけれど、そこばかりはきっと何も目印はないだろうと思っていた。
けれど、行けばわかる、そんな確信はあった。
光がラファーガの意識を引き戻し、炎神を目覚めさせ、クレフから授かった防具がこの形になってから、しばらく翔んだ場所。
鏡の破片や瓦礫くらいは残っているかとほんの少しは期待したけれど、案の定その城の名残は、彼らの痕跡は、
何一つ残っていなかった。
何も無い空に滞空する。
クレフもここが目的地だとわかった様子だった。
杖を強く握りしめ、何も無い空を見つめている。
セレスに声をかけ、その手の上へ降り立ち防具を解いた。
クレフの隣にゆっくりと座る。この高度となると、地球の〝薄布〟ではクレフの防除殻の中でも存外寒く、自分の両腕を抱いた。
すると、クレフが躊躇いがちにローブを広げ、それから私の身体を包んでくれた。右肩に小さな温もりを感じる。
「ねえ、もう少しだけ私の話を聞いてくれる?」
私が言うと、クレフは困惑とも覚悟とも取れる表情を見せ、そして頷いた。
「クレフは、まだ自分を責めているのね」
隣で、クレフが小さく息を飲むのが分かった。
「前の戦いの時にね、風が〝思い出〟と言っていたわ。私もそう思う。つらかったし、苦しかった。だけど、なかったことになんてしたくない。出会った人たち、あなたにもらった魔法、もちろんセレスも」
背にあたるセレスの大きな指を撫でた。クレフは変わらず、私の話にじっと耳を傾けてくれている。
「私ね、自分の心に素直でいたいの。
それは、光や風と、ここまで来た成長の証だから」
「ねえ、クレフ」
― この国は
「好きよ」
― 本当に、綺麗ね
今まで、何度も伝えた言葉。
日の出ている時間帯に言うのは初めてだった。
言葉も、日の光を浴びると輝くのだな、と思う。
言いようのない心の軽さと、充足感があった。
けれど、これは私の話。
「だけど、あなたが苦しいなら、もうそばにはいられない」
クレフがこちらへ顔を向けた。
「ね、私のわがまま、ひとつだけ聞いてくれる?」
クレフの瞳にセフィーロの空と、私の青が映っている。
傷ついてもいい。
本当は、ずっと、この瞳を見ていたい。
「私を選んで」
*******
そう言って、海は寂しそうに微笑んだ。
どこか澄み切って、充足した表情にも見えた。
今日の出来事は、絶対に忘れることはないだろう。
この高度でセフィーロを見たのは初めてだった。
異世界の少女たちが導いてくれた、真に美しい国。
海は、未だとどまっていた私に気づき、魔神を招じてまで心を連れ出してくれた。
今ならわかる。
あの夜、凛としながらも涙を薄らと浮かべた瞳は、伝えようとしていた。
悩むことと、止まることは違うのだと。
「ウミ」
私が口を開くと、海は自分の膝を抱き、宣告を受けるでもなしに、わずか身を固くした。
「今なら……この国は美しいと、心から思う」
「それに……魔神を纏う貴女は、清廉で、強く美しかった。私などが到底欲してはならない、そんな不可侵の存在のように思えた」
「翔びながら、いや、ずっと……ずっと考えていた。ウミのこと、魔法騎士のこと、セフィーロのこと。そして、エメロード姫とザガートのこと」
「お前の言うとおり、私は…………ウミといると苦しい」
海が、静かに膝に顔を埋めた。泣かせたくはないのだが、少し難しいかもしれない。
「けれど、私はこの苦しみごとお前を愛したい。
取り繕いでも罪滅ぼしでもなく、自分の心のままに」
「これは、私の人生で最大のわがままだ」
顔を上げた海の瞳に、自分の姿が映る。
その顔は、彼女のように澄み切ったものではない。
それもそうだ。迷いがないと言えば嘘になる。
「私は―」
― それでも
「ウミと共に生きたい」
喉の奥が熱い。
海の手が私の頬に触れ、指がそれをぬぐった。
返すように、海の頬に触れると私の指もまた濡れた。
言葉は、いらなかった。
どちらともなく、引き寄せられるようにゆっくりと。
前髪が触れ、額を合わせ、そして
「待って」
突然、海が顔の前に手の平を差し出した。
間を外され狼狽してしまう。
そして海は、伏し目がちに顔を赤らめて言った。
「セレスの前じゃ恥ずかしいわ」
少しの沈黙。
そして思い立ち、ローブを片腕で広げ、海のほうへ覆いかぶせた。魔神が透視能力でも使わない限りは、私達の姿はその視界から隠れているはずだ。
「なんだか、しまらないわね」と笑う海につられた。
そして―
ようやく許されたその感触は、幸福そのものだった。
―――
それから、なんの会話もなしに城まで翔んだ。
魔神の蒼い体躯は夕焼けを反射し、昼の真白な光を浴びるのとはまた異なる神々しさがあった。
城へ着くと海がセレスに「またね」と礼を言うので、私も頭を下げた。
「お腹が空いたわ」と海が呟く。そのあどけない表情は、今の今まであの魔神を纏っていた人物とは思えない。
あの日、海が私の部屋の前で待っていた時より以前、本来の彼女らしい仕種と表情に、思わず笑みが零れた。
「笑いごとじゃないわよ。お腹が減ったら気が滅入って元気が出ないんだから」
海は腕を組み、少し勝ち気な笑顔を見せた。
たしかに、少し空腹を覚える。そういえばあの夜も低血糖でふらついていたことを思い出した。
「たくさん飛んで疲れたでしょう」と、海はこともなげに言った。
「お前こそ」と聞けば、どういうわけか魔神で空を駆けても体力はほとんど消耗しないという。
風の視力のことと言い、なにか特別な作用が働くのかもしれないが、私などには知る由もないところだ。
言葉に甘え、私室でしばらく休んでいると、ガラガラと車輪と金属音を響かせながら海が入室してきた。城の給仕係りが用意したという食事を、海は運んできた。
湯を沸かし、茶を入れ、食卓を広げる。
そう言えば茶会を除いては、海と食事をとったことはなかったと気付く。それなのに、寝所は共にしていたのだから、全く異質なことだったと改めて思う。
海の食事姿は、余すところなく見ていられるほど美しいものだった。海は手と口元を拭くと、訝しげにこちらを見た。
「なあに?」
「ああ、すまない。見ていた」
「見てたのがわかったから聞いたのよ」
「いや、育ちが良いとは聞いていたが想像以上だったもので」
「別にこのくらい普通よ」
「謙遜するな。茶会の時には気づかなかったので驚いた」
「だって、お茶会はあまり緊張しないもの」
今は緊張しているのかと尋ねるのは無粋かと思い、やめた。
かわりにというわけではないが、なんとなく思い立ったことを口にしてみる。
「その分なら、今度来賓との食事会に連れても遜色はないな」
「食事会……って、前にクレフが言っていた、国の偉い人やご親類が参加するあれでしょ。そんな所に私が出られるわけないじゃない。家族でもあるまいし」
海はふふ、と笑いながら言った後で、ハッとした表情になったかと思うと、たちまち顔を赤らめた。
先ほどまでの品はどこへ行ったのやら、大きな動きで飲み物を口にした。
「他意はない。さあ、冷めないうちに食べよう」
空になった海の茶器へポットを傾ける。
「あってもいいのに、他意」と海が呟くので、危うく器から茶が溢れそうになった。
食事をさげ、なんとなしに順に湯を浴び、二人とも寝支度を整える過程で海はあからさまに落ち着きをなくしていった。慣れた寝台に寄り付きもせず、所在なげに寝室をうろうろとしている。
何をそんなにうろたえているのか。いや、今日の出来事は海をこのような心持ちにさせるのに十分なのかもしれない。自分とて、全く考えなかったわけではない。しかし、
「ウミ、そんなに緊張せずとも取って食ったりはしない」
「だ、だって」
「今日は人生最良の日。これ以上望むのは罰当たりというものだ」
本心を口にした。
先に寝台へ横になり両手足を伸ばす。体力は無いつもりではなかったが、半日程度を未知の速度で移動し、防除殼を生成し続けていたので、疲労がゆっくりとやってきた。
とかくも、照れる海を招かないことには。
目線をやると、海は早足でこちらへ向かい、そして勢いそのままに私の隣に横になった。両手がこちらへ伸び私の頬を包む。
「ねえクレフ、揚げ足を取るみたいだけど、今日よりも良い日はこの先もずっとずーっとあるし、これ以上望んだって別に罰当たりなんかじゃないんだからね」
少し怒ったような、諭すような瞳で言われ、面食らった。そして、時間差で彼女の優しさが染み、自然と頬が緩んだ。
「ありがとう」
海の背に手を回し、髪を撫でる。今までも何度もしている行為であるはずなのに、胸の中には言い知れぬ温かさが広がった。
しばらくそうしていると、海の体が小さく震えているのに気づいた。
「どうした?」
腕をほどき顔を覗くと、涙の浮かんだ笑顔で「なんでもないの」と言う。
泣かせる心当たりは多くあっても、今この瞬間に涙を流す理由がわからず、心拍数が不穏に上がる。
甘くはないことはわかっている。
共に生きる、その意味。
考えなければならないことは山ほどある。
海も、住まう星のことを少なからず意識したかもしれない。
だから、悩んだ。
けれど、伝えた。
海は「ごめんね」と言い、そして「大丈夫」と笑って、再び胸元へ顔を埋めた。
「やっと、抱きしめてもらえたから」
内心を丸ごと吐露するかのような海のその呟きは、今までのいびつな関係を溶かすように心に染み込んだ。
無意識に、海の頬へ手を伸ばしていた。
愛おしさが、募る。
その予感を察したのか、海が視線を逸らした。
「待って、恥ずかしいわ」
「今は誰も見ていない」
「でも…」
「ウミ」
名を呼ぶと、潤んだ青い瞳がこちらを見、そしてゆっくりとまぶたの奥へと隠れていく。
知るはずのなかったその感触は、一度覚えると止めることなど不可能に近かった。
そうして、夜が更けるまで口付けを繰り返した。
― epilogue ―
薄明かりの中、意識がぼんやりと立ち上がり 目を開く。
嵐のような旅の疲れは抜け、頭はすっきりとしている。
質の良い睡眠が取れたことを体感で知る。
真横に伸ばした腕の中を覗くと、やはり彼女も疲労がこんでいたのか、呼吸以外は動作なくぐっすりと眠っていた。
青い髪をなぞる。
指に絡んだ絹の感触はいつもと同じでどこか違う。
その一本一本の柔らかさが彼女のやさしさと弱さの象徴のようでもあった。その滑らかさに、すいた指はすぐにすり抜けてしまう。
想い叶っていても、好く気持ちが募りすぎると胸は痛むものなのだな、と思う。
彼女に触れていない時間など存在しないよう、何度も何度も髪を梳いた。
どのほどそうしていたのか、窓掛の隙間から朝日が線のように差し、こちらのほうまで伸びようとしていた。海のまぶたがわずかに震える。
あと数分もすれば朝日は海の顔を照らしてしまうだろう。
窓掛を閉め直すかと上体を起こし、寝台から降りようとした時、袖をくんと引っ張られた。
「起こしてしまったか」
振り返ると、海は枕に顔を埋めた。
「夢じゃなかった」と声をくぐもらせ、それから顔をあげ、こちらを見た。
「おはよう、クレフ」
「ああ、おはよう」
寂しさも、苦しみも、迷いも、
分け合って眠った。
考えなければならないことは山ほどある。
それぞれの星のこと、生活のこと、未来のこと。
朝日がこちらへ伸び、彼女の顔を照らす。
海は「眩しい」と笑った。
『 眠りによせて -the edge of the heaven-』
end
―――
前シリーズを書き終えて、ちょっと覚悟がついたので投稿できたのかな?という気がしています。
半年かかってやっと投稿できました。つらかった。きつかった笑。
二人が先へ進むには「お墓参り」が必要不可欠かな、というところから書き始めた作品です。
いつもありがとうございます。