【クレ海】全年齢
あらしのよるに
セフィーロ城内、ドーム型の居住区大広間には、天井全体を覆う大きな丸窓がはめこまれている。城上空の黒曇を写したその天窓には、雨が打ち付け、波立ち、滲んでいた。先程から稲光が何本も走っているのが見える。しかし、荒れた夜天を見つめる導師の瞳は、どこか穏やかだ。
この世界は、もはや常春の国ではなくなった。寒暑を不快と感じる日もあれば、今夜のように天候が荒れる日もある。
嵐に、「正しい」も「間違い」もない。しかし少なくとも、この雷雨は「天変地異」などでは決してない。だから、恐れる必要はない。願わくば、ここへは誰も来なければ良い。そんな風にも思っていた。
少し眠るかと、屋内花壇を囲う低い塀に背を預けて座した時だった。広間の入り口、回廊付近に人の気配を察する。クレフは立ち上がり、気配の方向に向けて言った。
「どうした? そんな所にいないで、こちらへおいで」
穏やかな声が、回廊まで響く。
まるで幼い子供に呼びかけるような、極端に物柔らかな声に、少女は戸惑い、そして柱の影からそっと姿を見せた。
クレフの、大きな瞳が見開かれる。
「ウミ……?」
そう呼ばれた少女は、柱の影で身を固くした。入室をためらうかのように、まごまごとその場で身じろぎをしている。ここは公の場であって決して彼の私的な空間ではない。けれど、彼女は、眼差しで、彼に入室を問うた。
「こちらへ来たらどうだ?」
海の問いにクレフはそう答えた。その声質には、先程のような極端な物柔らかさは無く、それはある種、ありのままの彼の振る舞いのようにも感じられた。
クレフのほうへと歩み寄りながら、海は頭上の天窓を見た。雷雨は激しさを増している。「雷が怖くて」と、意外にも -というのはあくまでクレフ個人が持つ彼女への印象によるところではあるが- 海ははっきりと言った。
「ヒカルたちはどうした?」
「……いない」
「いない?」
「出て行ったの」
「出て行った…?…ああ、なるほど」
聞き返しながら、気付く。そういうことか、と。
「クレフこそ、どうしてこんなところにいるのよ」
海が尋ねると、クレフは視線を天窓へ移し言った。
「嵐の夜は、皆の不安が募り魔物の類が出没しがちなのでな」
「え? でも、もう魔物なんてとっくに出ないでしょう?」
「ああ。しかしまあ、もうほとんど習慣のようなものだ。以前は、城に住む子供たちが不安を感じてここへ来ることも少なくなかったから」
「……?嘘!まさか…!来るどうかもわからない子たちのために、ここで待ってたって言うの!?」
呆れ半分驚き半分で海が言った。
「待つ、というのは正確ではないが。まあ、そうなるな」
と言いながら、クレフがククと笑い出したので、海は怪訝な眼差しで彼を見た。
「いや、随分と大きな子供が来たものだと思ってな」
「なっ…、どうせ私は子供よ…!」
お邪魔して悪かったわね、とあけすけに言い、照れ隠しにはらった髪がバサリと宙になびいた。海が、勢いそのままに踵を返すと、その背に向けてクレフが言った。
「まあそう言わず。雷が怖いのならしばらくここへ居たらどうだ。私もちょうど退屈していたところだ」
海の足がピタリと止まる。形はどうあれ、海をこの場へ留まらせようとするクレフの言葉は、彼女の頬を紅潮させるに十分だった。
ゆっくりと振り返り、目線を下ろす。そこには、変わらず柔らかく微笑むクレフの姿がある。
「……しょうがないわね」
月並みに放たれた言葉は、海が自分自身のペースを取り戻そうと努めてのものだった。
「ねえ、退屈なのに、どうして自分の部屋へ戻らなかったの?」
「一度始めてしまったことにはな。ここへ来れば誰かがいる、という確約があればこそだ。私がいると思ってここへ来たのに誰もいないのではかわいそうだろう」
「でも、ほんとに誰も来ないんじゃ」
「誰も来ないということは、おびえる子がいないということ。そのほうが私にとっては喜ばしい。それに、『誰も来ない』ことはなかったろう、今夜は」
するとクレフは、ふいに自分の額を片手で抑え、小さく肩を揺らした。
「てっきり小さな子供だと思って、あのような口調で声をかけてしまった。一生の不覚だ」
クスクスと笑い声を零すクレフを、海がジイと一睨みした。その視線から逃れるように-という意図があったかは知れないが-クレフは回廊のほうへと視線をやった。
「それに、私がここへ来る理由はそれだけではないのでな」
クレフの指さす先へ目をやると、回廊のほうから一羽の小さな鳥のようなものが飛んで来るのが見えた。
「この子は、雨を浴びるのが好きなんだ」クレフが言った。
その小鳥には見覚えがある。初めてセフィーロへ召喚された日、初めてクレフに会った日。アルシオーネの襲来を知らせた鳥型の小精獣。体長よりも大きな羽をはためかせ、まっしぐらにこちらへ飛んでくる。
「ピーちゃん!」
海が歓喜の声を上げた。反射的に手のひらを広げる。飛空に合わせて揺れるかぎ針のような細い尾がかわいらしい。小精獣は、一旦主の頭上を飛んで回ってから、海の手の中へパタパタと舞い降りた。
「なんだその呼び名は。この子の名は-」
クレフが言いかけた時、小精獣がぷるると体を震わせ、羽毛にまとわりついた雨粒をはらった。水滴が二人の顔を濡らしたが小精獣はまるで悪気もなく、海の手の上からクレフの肩へと飛び移った。
「あの後、光たちと名付けてたのよ。ピーピー鳴いてたからピーちゃん。また会えたらいいねって皆で話してたの。ね、ピーちゃん。私、海よ、ウミ!会ったことあるの覚えてる?」
海が、少し膝をかがめてクレフの肩口に問いかける。小精獣はピーピーと鳴きながら、肩の上をちょこちょこと楽しそうに飛び跳ねた。
「また会えて嬉しいそうだ」
クレフが、小精獣の言葉を翻訳した。
「さすがにわかるわ」と言って、海も笑った。
すると、小精獣は、今度は真剣な面持ちでピピ、と一鳴きした。「そうか」と呟き、クレフが親指で小精獣の頭を撫でる。指の感触が心地良いのか、小精獣は首を九十度に曲げてクレフの手にすりついてみせた。その様子に、海の頬が緩む。
羽毛に指を滑らせたまま、クレフが言った。
「大きな雷雲が近づいてきているらしい」
「えっ、もっと荒れるって言うの……」
海の顔がやにわ青ざめる。するとクレフが杖を掲げ、花壇の前辺りへクッションを二つ、出現させた。
それは誰がどう見ても、座ったらどうだ? という誘いと同義だった。
促されるまま、クッションへと腰かける。雲のようにやわらかな感触に、腰が沈み込みそうだった。右隣のクレフは、あぐらをかいた膝の上に小精獣を乗せ、再び指で毛づくろいを始めた。静かに視線を落とした端正な横顔に、海の胸がトクンと跳ねる。
ふいにこちらを向いたクレフとパチリと目が合い、海はとっさに視線を外した。
「ね、子供たちが来たら、いつも何をしてるの?」
尋ねた声が、少し上ずった。
「色々だ。昔語りをしたり、魔法で星を見せてやったり」
「星?」
「ああ、そのうちにお前にも見せてやろう」
その時、ひときわ大きな雷鳴が轟き、海の肩がビクリと震えた。
「こんなに大きな音が鳴れば、誰だって怖いわよ」
誰に責められたでもなく海が気まずそうに言った。
するとクレフは「何か、話をしようか」と言った。
気を紛らわせようという彼の計らいを、海は素直に受け止める。「まずはそちらの番」とクレフが言うので、海はポツリポツリと言葉を零し始めた。
東京での生活、家族や友人のこと、受験勉強のこと、将来のこと、とりとめもなく海は話した。時おりクレフが疑問を投げるとその都度海は説明を添える。『創造主』も、セフィーロと東京との間に、もう少しくらい共通言語を増やしておいてくれればよかったのに。いや、それとも、この差異こそが会話を弾ませているのならば……そんな風に思わなくもなかった。
いつしか、雷鳴の轟きは、もはや海の肩を震わせるのではなく、会話の支障になるものとして「うるさいわね」と軽くあしらわれるほどになっていた。
「ねえ、ここには、大人の人も来るの?」
唐突な海の問いに、クレフは首をかしげた。
「だって嵐って、怖いじゃない? 子供だけじゃなく、お城に住んでる大人の人だってここへ来るのかなと思って」
「ああ、稀だが来ることもある。実際お前だって来ただろう」
再三のクレフのからかうような笑みに、海は今度ばかりは怒ることはせず、静かに尋ねた。
「女の…人も来るの?」
「どういう意味だ?」
「質問返しは禁止よ」
「…来るには来るが、それがどうした?」
「ふーん」
気のない返事をし、海がプイとあちらを向いた。
「一体なんだというのだ、急に不機嫌になって。今日のお前はいつもに増して変だぞ」
「別に。変で結構よ」
海は拗ねた様子を隠しもせず、膝に顔を埋めた。
それからは、しばらく沈黙が続いた。雷の音は、だいぶ遠ざかっているようだった。見れば、膝を抱えた海の体がウトウトと小さく揺れている。
クレフが声をかけようとした時、海が呟いた。
「ねえ、嵐の夜は……」
しばし待てど、海は一言も発しない。クレフは、言葉の続きを促すでもなく、ただ海を見つめた。すると、海は、ぼんやりとした口調で言った。
「またここに来てもいい?」
目を瞬いたクレフの表情が、次には和らぐ。目を細め、その唇が柔らかく弧を描いた。
「ああ、いつでも来るといい」
その表情は、海が、いや、今までに誰も見たことがないほど慈愛に満ちたものであったのだけれど、そのことは、スウスウと寝息を立て始めた海には知るよしもなかった。
「ウミ、眠るなら部屋へ…」
クレフがそっと肩に手をやると、指先の触れた個所から一房の髪がはらりと垂れた。
それは、まるで無意識だった。
なんてことはない。
教え子の頭をぽんと撫でるのとさして変わらない行為。しかし、クレフの指先は深い慈しみと、それから、わずかの躊躇いをもって青い髪の上をゆっくり、ゆっくりと滑っていく。
ふいに、クレフの手がピタリと止まった。小精獣の一鳴きに促されるまま天窓へ視線をやれば、雨はすっかりあがっていた。
「嵐は去ったようだ」
海が「ん」と小さく声を漏らし、ゆっくりと顔を上げた。
「部屋まで送ろう」
二人分の、ゆったりとした足音が回廊に響く。
「クレフ、今日はありがとう」
「いや、私は何も。むしろ礼を言うのはこちらのほうだ」
「お礼?」
「こんな夜に、
「そんなこと……」
「お前たちには、二度もこの世界を救ってもらった。本当に、感謝の言葉もない」
「二度…」
呟き、海が立ち止まる。
あの、悲しい戦いを『救った』と迷いなく表現したクレフの想いに、海の胸が震える。瞳には、じわりと涙が浮かび始めた。クレフも足を止め、そして海の瞳をまっすぐに見つめた。杖を握る手に、わずか力がこもる。
「別の道はなかったのかと……考えないわけではない。しかし、あの時、エメロード姫はたしかに「ありがとう」と言った。残された者は、それを……それを信じて生きていく。それだけだ」
今日初めて、クレフの眼差しに憂いが刺した。
「泣かせてすまない」
クレフは眉尻を下げて緩やかに笑った。そして、海の目元のほうへ、ゆっくりと手を伸ばした時。
「一人でいたくなかったのは、あなたなんじゃないの?」
クレフの指先が、触れる直前でピタリと止まる。クレフの身は反射的にすくんだ。慰めとも、嘆きとも取れる海の言葉に、クレフは息を飲んだまま何も言わなかった。
言えなかった。
言葉が喉でつかえ、彼の口からは声にならない声が漏れた。
海は「ごめんね」と囁くと、クレフのすぐ前まで歩みを寄せた。ゆっくりと床へ膝をつき、そしてクレフの手を取る。たじろぐクレフの瞳をじっと見つめて言った。
「二回目にセフィーロに来た夜、あなたこうしてくれたでしょう」
「あ、ああ……」
「あの時、私は魔法をもらったの」
「魔法…?いや、あの時私は-」
何も術などかけていない、クレフが言いかけると、海は「もう!」とわざとらしく声をあげた。
「そうじゃないわよ。クレフってほんっと、鈍いんだから!」
きょとんと瞳を瞬かせるクレフを見、海は一転、フと笑った。
「ね、クレフ。あの日のお礼に、私も一つ魔法をあげる」
と言うと、海は、包んだ小さな手を自分の額にあて、何か願いをかけるかのように瞳を閉じた。
「受け取らなくても、大丈夫だから」
小さく、囁く。
時間にしては数秒たらず。海は瞳を開くと、すくと立ち上がった。
魔法をかけたとは到底思えない。しかし、先の海の発言からするに、それを問うのはきっと野暮なのだろう。だから、クレフは何も言わなかった。
海が、小さく微笑む。そして、クレフの肩に乗る小精獣をコイコイと手で招いた。
「ピーちゃん、あなたの鈍感なご主人に伝えておいて」
小精獣がこちらへ飛び移ると、海は手のひらの中へそっと何かを囁いた。途端、小精獣の羽毛がぶわと毛羽立ち、小さな体がピョンと大きく跳ねた。
「よろしくね」
と言って両手をそっとクレフの肩口に寄せると、小精獣はペチペチと手のひらの上を歩き、主の元へと戻った。
「おやすみなさいクレフ。送ってくれてありがとう」
手を振り、海は部屋の中へと入って行った。
扉が、静かに閉まる。
「相変わらず、わけのわからない娘だ」
小さくため息をつき、クレフは肩口の小精獣に視線をやった。
「ウミは何と?」
尋ねると、小精獣がためらいがちにクレフの耳元へ寄り、そしてピピ、と小さく鳴いた。
刹那、クレフの顔に赤みが差す。
滅多なことでは動揺など見せない彼が、この時ばかりは思わず口元を抑えた。
- これが、若気の至りというものか。
扉の向こう。魔法を使わずとも、気配でわかる。
扉に背を預け、おそらく頬を抑えている海の様子が。
- 本当に、この娘は参ったことをしてくれる。
「…………おやすみ、ウミ」
衣擦れの音にも紛れるほどの小さな声で囁くと、
クレフは、ローブを翻しその場を後にした。
回廊の途中で立ち止まり、窓の外を覗く。
からかうように肩の上で飛び跳ねる小精獣をたしなめる。
夜空を見上げれば、嵐の名残か早足に流れる雲が見えた。
雲の隙間には、いくつか星々も現れている。
(まったく、明日からどのような顔をして会えというのだ)
心内に呟く。
星の瞬きにも似た思いを胸に
二人はそれぞれに、眠れぬ夜を過ごした。
『あらしのよるに』
end
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ピーちゃんだけはぐっすり寝た。
902の日おめでとう!
『また、嵐の夜に居住区で』なんて、不確定要素たっぷりの待ち合わせ。クレ海ちゃんだからこそ成り立つのではないか、と思って。
海ちゃんの「『嵐の夜は』またここに来ていい?」という問いに対して「『いつでも』来ると良い」と返したクレフの思惑。
自分が海ちゃんに会いたいって気持ちは、絶対に伝えないし明かさない。そんなズルイ男。