【クレ海】全年齢
導師様は待ちきれない!
ご近所で飼っているヨークシャーテリアみたい、と彼女がこの時思ったかは別として、寝台に一人待たされる彼の心持ちは、お預けを食った犬のそれに等しかった。
クレフは、日頃の聡明さと厳格さからは想像もできないほどだらりとした様子でくつろいでいる。片腕を枕にして横向きに寝そべったまま、宙になびく青い流線を眺めるのにも飽きてきた頃だ。鏡越しの彼女の顔は相変わらずに美しい。湯上りで赤く染まった頬は、クレフの心を問答無用に煽った。
鏡台に座る恋人の背中に「まだかかるのか?」と声をかける。返事が返って来るとは思っていない。
青い流線の主が手に持つ器具は、当初クレフには見慣れないものであったが、彼女にとっては大変慣れ親しんだ重要なもので、聞けば「光と風とプレセアに作ってもらったの!」と言う。
光と風の力をそれぞれ魔法石に流し込み、プレセアに図解付きで説明した器具の形に錬成してもらったそれは、
うっかりと「ガーガーと音がする」と伝えてしまったばかりに、この国最高位の創師は、その送風音までをも見事に再現してみせた。
前回、初めてそれをクレフの前で使った時には、「そんなまどろこしいことをせずとも、私が乾かしてやるのに」と言う彼に
「あんまり一気に乾すと髪が傷んじゃうのよ」と海は返した。
最初こそ珍しく眺めがいのある光景だったが、ブロッキングだのブローだのと、煩わしいとしか思えない手順を踏んで行われるその寝支度の儀式は、彼をヨークシャーテリア然とさせる『待て』の時間となった。
こちらとしては、一秒でも早く腕の中へ誘い、その肩口に顔を埋め甘い香りを体いっぱいに吸い込みたいというのに。もちろんそれだけで済ませる気はないけれど。
そんなクレフの心を知ってか知らずか、海は丁寧にその髪に温風をあてていく。
その送風音ゆえ、会話もままならない。
前回、無理に声をかけた際は、海は一度その手を止め、振り返って「なあに」と返事をした。それはそれで大変かわいらしい仕草ではあったのだが、毎回手を止めるのではこの儀式は永遠に終わらないだろうと判断し、それからは声をかけることを控えていた。
暇を持て余し、水でも飲むかとクレフは立ち上がった。その時、はたと何か閃いたような表情を見せ、少し早足で海の方へ寄った。
どうしたの? と、表情で伺う海の額に指を当てる。数秒の間そうしていたかと思うと、指を彼女の額から放し、そして隣の椅子へ座った。そして、鏡台に頬杖をついて横を向き、海の瞳をじっと見つめた。
《まだかかるのか?》
先ほどは届かなかった声をもう一度かける。その言葉は、返事を求めてというよりも、なにかもっと別の意図を持って発せられた。それはつまり、『通信テスト』とも言える。
脳内に割りいってきた低い声に、海は一瞬ハッとし、そして、恋人からのお喋りの誘いに、花の笑顔を見せた。
《この手があったわね》
通信回路が開いた。
せっかくなので、髪が乾くまでの時間、特別くだらない話がしたいな、と海は思った。日中の彼は、くだらないとは程遠い重責の中に身を置いているのだから。
《ヨークシャーテリアって知ってる?》
《なんだそれは》
《犬の品種よ。賢くてかわいいワンちゃんなの。こっちにはいない?》
そもそもセフィーロにはヨークシャー地方が存在しないのだから、いるはずもないだろうな。そんな海の予想通り、クレフの口からは否の言葉が返ってきた。
《狼や犬はいるが、ヨーク?その品種はいないな。それがどうした? 》
《言ったら怒るから言わない》
《では、思考が漏れないようにしっかり隠すことだな》
思考が緩まないようにするためか、口をキュッと結んだ海を見て、クレフがフッと吹き出した。
結果的にとは言え、クレフの、そのあどけない笑顔を引き出すことに成功した海は、満足気にうんうんと頷いた。そして、次の話題へ探すべく「うーん」とうなり、再び心の声を送る。
《クレフは、ワンちゃん……犬、好きよねきっと》
《まあ、生き物はだいたい》
《なんの生き物が一番好き?鳥さん?それともお魚かしら》
グリフォンやフューラを撫でる際の、クレフの慈愛の表情を思い出し、海の頬がゆるんだ。
聞かずとも知っている。クレフがこのセフィーロのすべてを等しく想い愛していることを。そんな彼だからこそ海はクレフを好きになり、そして想いが叶った今もそれは変わらない。なびく髪の合間から覗く横顔を見、好きだな、と改めて心が言った。
《ウミ》
《なあに》
《だから、ウミだ》
《だから、なによ》
《十秒前に自分が何を聞いたのかも覚えていないのか》
クレフの意味するところに気づいた海は、ハッと息を飲み頬を赤らめた。
「そんなことを聞いてるんじゃないのよ!」
送風音を凌駕する〝声〟で海が言った。クレフがククと笑うと、海は赤くした顔をぷいと向けて、ブローに専念しだした。
ブロッキングの束はまだまだ残っている。
《ねえ、クレフ。先に寝ててもいいのよ》
《いや、待っている》
《なんだかプレッシャーだわ》
海は少し背筋を伸ばし口を尖らせた。クレフは手持ち無沙汰に腕を伸ばし、宙に流れる青い髪を指先で追う。
《ちょっと、邪魔しないでよね》
言葉こそ否定であるが、鏡の中の海は柔らかく緩んでいる。
それから海がブロッキングの束を二つほど解いた頃、クレフは更に姿勢を崩し、鏡台の天面に片頬を当て、いよいよ気だるそうに突っ伏した。
その様子を見て、海が口を開き何かを発語した。クレフが《聞こえん》と送ると、あ、そうか、という表情をしてから、海は思考を送る。
《退屈そうね》
《まあな》
《そんなに待たせるなら、短く切っちゃおうかしら》
「それはだめだ!」
上体を起こし、今度は、通信には慣れているはずのクレフが口を開いた。
思いがけないクレフの言動に、海は数回瞬きをし、「どうして?」と尋ねた。
《どうしても》
《短いのも似合うかもしれないわよ》
海が言うと、クレフは目の前に手のひらをかざし、鏡に映る海の肩から下を隠し、片目を閉じた。髪の短くなった海の姿を視覚的に想像してみる。
それはそれで可憐かもしれない、そう思いつつも、やはりクレフの出す答えは変わらなかった。
《だめだ》
《そんなに力いっぱい否定しなくてもいいじゃない》
《否定ではない。むしろ逆だ》
《なにそれ》
それからしばらく温風を当てたあと、海が手元をパチリと操作し送風音がやんだ。やっと終わったか。クレフはキリリと姿勢を正す。
《やっぱりワンちゃんみたい》
「聞こえているぞ」
「あ、」
「でも、もう少し待ってね」
と、海はその器具から赤い魔法石をコロンと取り外し、手元を操作すると、再び送風音が響いた。
まだ続くのか、とクレフが聞こえないため息をもらす。
《冷やしたほうが綺麗にまとまるのよ。もう少しだから》
海は眉を下げて笑った。
冷風をしばらく髪に馴染ませると、海は器具をパチリと止め、仕上げに髪をといた。艷めく青い絹のような髪に抵抗なく櫛が通っていく。
「おまたせ!」
しかし、クレフは頬杖をついたまま動かなかった。どうせまだ手順が何かあるのだろうと言わんばかりの表情で海を横目に見る。
日中は決して見せない、拗ねたようなあどけない姿に、海の心臓はきゅんと心地よく伸縮した。
「ほんとに終わりだってば」と海は笑った。
《子供みたい》と海は思った。クレフがムッとするので、この声も伝わってしまったのではないかと思い、海は慌てて言った。
「ね、
心の声がだだ漏れで怖いのよ、と言いながら自分の頭をトントンと叩く。
「いや、このままでいい」
そう言ってクレフは海の手を引き、寝台まで歩みその縁に海を座らせた。
海は紅潮した顔を躊躇いがちに伏せ「いいわけないでしょ」と消え入りそうな声で呟いた。普段の勝気な態度とは対照的な、夜を思わせる艶やかな表情に、クレフの喉がこくりと鳴った。
海の隣に座り、美しい髪に顔を埋める。ひんやりと柔らかな感触が鼻先や頬をくすぐり心地よい。念願であったその香りを呼吸器いっぱいに吸い込めば、さんざ待たされた甲斐はあったな、とも思えた。
「綺麗だ」
特別艶のある声でクレフが囁けば、海は身をよじらせて、恥じらいを隠すように言った。
「だから、時間をかけないといけないのよ」
もしや海は髪を褒められたとでも思ったのか。たしかにそれも間違いではない。
クレフがおもむろに、海の首筋に唇を寄せた。海はわずかに吐息をもらすと、慌ててクレフの肩を押し、身を離した。
「まさかこのままする気じゃないでしょうね!」
《良いではないか。普段は聞けない素直な心の根が聞けるやもしれん》
「それに、」
海のあごをくいとつかみ、唇を塞ぐ。海はきっと、心に割り言ってくる声と、耳に伝わる声に対応できず、さぞ慌てていることだろう。クレフの口の端が意図せず上がった。反射的に服をつかんでくる仕草ですら、かわいらしく愛おしい。
《こうして口をふさいでいてもお前の声が聞けるというのはなかなか良いものだ》
「信じられない…!ちょっと…!」
抵抗の始まった海の両の手をシーツの上へと柔く抑え付け、唇の感触を勝手気ままに楽しむ。耳には水音と愛しい吐息。そして脳内には、彼女の甘く切ない想いが響いた。
気の済むまで舌の味を堪能し、海が本格的に酸欠を訴えた頃、クレフはようやく唇を離した。
「そうか、普段から嫌だ嫌だとばかり言うものだから少々自信を無くしていたが、お前が心根ではそんなことを思っていてくれたとは。これは男冥利に尽きるな」
「クレフのばか…!嫌い…!」
海が潤む瞳でクレフを睨んだ。その瞳がクレフの心をかえって煽ることを海は知らない。クレフは、熱を持った海の唇を親指でそっとなぞり、そのまま唇の隙間へ指を差し入れて開かせた。
「そうかわいい顔をされては、
「やだもう!これ切ってってば…!」
「いやいや、待てが出来たこの『犬風情』にも、少しは褒美が必要だとは思わんか?」
《ワンちゃんって言ったの根に持ってる…!》
クレフは肯定とも否定とも取れない笑みを浮かべると、海の身体を強引に抱き寄せ、そのまま寝台へと沈みこんだ。
『導師様は待ちきれない!』
end
★続かない━・・・!
今作のポイントは、最初から「今日はきっとするんだろうな」と思っている海ちゃんです(何)