第2章 偽の繋がり、真の絆
トイレから出た後、なんとなく部屋に戻らずにトイレの傍にあるロビーのソファに腰をかけて、先程秀人からもらったペットボトルを開けて中身を口にする。
ロビーには生徒はおろか、教師すらいない。きっと会議も終えて、今は各自の部屋にいるのだろう。
そっと目を閉じると上の階でバタバタと走り回る音やドスンという響きが聞こえてくる。
騒がしいなぁ……と呟くが、修学旅行でテンションが皆上がっているのだろうとも思う。
静かに上の喧騒を聞きながら、香緒里はゆったりとソファで休む。
疲れたせいか、眠気が襲ってくる。あぁ、部屋に戻らないと……と思いつつもまどろみ始めてしまう。
が、ザーッという、トイレの水を流す音でハッと目を覚ました。
トイレの方へ目を向けると、真がちょうど出てくるところだった。
「香緒里…?」
「真、どうしてここに?」
「部屋のトイレが混んでて、面倒くさいからこっち来た。お前もか?」
「うん、まぁ。」
香緒里がトイレに入っている間にあっちも入ったのだろう。全然気が付かなかった。
「真は、女子から呼び出されなかったの?」
「え?」
「いや、秀人が複数女子に呼び出されてたから。」
「あぁ、まぁさっき呼び出されて告られたけど…。断った。別に興味ないし。」
「ふーん。」
微妙な雰囲気が二人の間に流れる。そういえば、六人でいることは最近多いけれど、真と二人きりになるのは初めてかもしれない。
「なぁ、大丈夫か?」
「え?」
今度は香緒里が問い返した。
「何かあったんじゃねーのか?いつもより、元気ない。」
「そんなこと……」
反論しようとした。
けれど出来なかった。心が重たいのは事実だったから。それでも、普通に振る舞ってたはずなのに。
なのに、気づかれてしまった。秀人にも、真にも。私の周りには勘のいい人が多くて困るなと香緒里は思い、心の中で苦笑する。
「間違ってねーだろ?」
「うん…まぁ。」
「家のことか?」
核心を突かれて、思わず黙り込む。真はそれをイエスと捉えたのか、「そうか。」とだけ言うと香緒里の隣に腰をおろした。
「まぁ…面倒くさいよな、家族って。」
そういえば、真の両親は両方とも義理の親だと沙世が言っていた気がする。
「別に、話したくなかったら話さなくていいけど、言って楽になることも―――
「離婚したのよ、うちの親。」
ぽろりと、本当の言葉が出た。それは気の緩みなのか、真の家庭の状況も難しいことからのシンパシーなのか。
わからないけれど、一度口にしたら止まらなかった。
「離婚、したの。つい昨日。その時に言われたのよ、お母さんに。『あんたは付いてこなくていいから』、『あんたなんてどうでもいい』って。」
声が震えているのが自分でもわかった。けれど、もう止まらない。
小さい頃からの母と私の関係、姉や父との関係。今の気持ち。全てを吐き出すように、真にさらけ出してしまった。
「もう、わけわからない…。なんで、あんなに勝手なのよ!私の気持ち、考えもしないで……。」
黙って静かに聞いていた真はようやく口を開いた。
「俺んちさ、親が両方とも本当の親じゃないんだ。」
「そう、みたいね…。」
ポツリポツリと、真は語り始めた。天井のどこか一点を見つめながら。
俺の本当の父さんは優しくて、俺のことをすごく可愛がってくれてた。父さんと母さんと俺と……なんてことない日々だったけど、多分あの頃が一番幸せだった。
けど、俺が五歳の時に父さんは交通事故で死んだ。
その後は母さんと二人で暮らしていて……でも、ある時から男が出入りし始めた。それが、今の親父。
結婚したのは俺が小五の時。母さんの仕事仲間だとかなんだとか言ってたけど、実際あいつが何をやってるのかはわかんねぇ。
まぁ、当時の俺は母さんが幸せになればいいと思ってたし、当時のあいつは穏やかだった。
あいつの本性を知ったのはしばらくしてからだった。酒乱だったんだよ。酒が入ると見境なく暴力を振るってくる。俺に対しても、母さんに対しても。外ではいい父親、いい夫面してるくせにな。
そうこうしてるうちに、母さんは倒れた。胃に腫瘍が出来てたんだ。ストレスと、過労から来るものだろうって医者は言ってた。
大したことない。そう母さんは言ってたのに……死んだ。
親父は仕事が忙しいとかで、母さんのお見舞いもろくにしなかった。母さんは「忙しいから仕方ない。」「今が頑張り所だって言ってたから。」そう言ってさ、少し淋しそうに微笑んだ。
母さんが死んで、半年も経たない頃……親父は再婚した。子連れの女と。
そいつも最悪でさ、最初から親父の前ではいい顔していながら、親父がいなくなると俺に暴言を吐きまくる。連れ子と俺を明らかに差別する。
親父が酒を飲んでいない時でも、暴力は振るわないけど冷たく当たるようになったら、尚更だ。
ある時、あの女が言ったよ。「あの人はあんたの父親の遺産と母親の保険金目当てで結婚したんだよ。」って。
今思えば、母さんが入院している間に、この女の所行ってたんじゃねーかって思う。
ほんと、馬鹿みたいだよな…母さんも、俺も……
「そうして、俺に居場所がなくなった。」
ポツリと呟いた真の声色には悲しみも寂しさももう残っていなく、無機質なだけであった。諦めたような、そんな口調。
逆にそれが香緒里には寂しく感じられた。
「そんな顔、すんなよ。俺の中では…もう片付いてるから。まぁ、前は片付いてなかったから……いろいろ、その、お前らには迷惑かけたし、傷つけたけど…。」
香緒里の顔を見て、真は少し困ったような申し訳ないような笑みを浮かべた。
「それに……お前の方が、つらいよな。あいつらは俺の義理の親だけど、香緒里の方は本当の親なんだもんな……きついよな。」
そう言った真の声があまりにも優しくて、香緒里は泣きそうになる。
「お母さんのこと…苦手だったし、嫌いになった時もあったし、憎く思った時もあった……けど…。」
けど、気づいてしまったんだ。
「私は、一度でいいからお母さんから愛されたかった。普通の親子みたいになりたかった……なのに、なのに……。」
優しくされた記憶も、誉められた記憶もない。いつも香緒里に向けられる目線は冷たく鋭い。
たった、一度でもいいから……
「好かれたかったのに、私のことも見て欲しかったのに…どうして、どうしてこうなったの……。」
「香緒里……。」
そっと優しく…真は香緒里の頭を撫でる。まるで小さな子をあやすように。
どっと涙が溢れてきて、頬を伝う。
家族に愛されたい。ただそれだけの、当たり前のことなのに。香緒里の願いは叶わない。
暗い暗い暗闇にいるような孤独感と絶望感。泣きたくなるくらいの切なさと寂しさ。
「無理しなくていいから。泣きたい時は泣けよ、思いっきり。その方がすっきりすることだってある。」
香緒里は、声を上げずに膝を抱えて静かに泣いた。真は泣き止むまで、ずっと優しくその頭を撫で続けた――――
「ありがとう、話聞いてくれて。おかげですっきりした。」
しばらくして泣き止むと、少し照れたような表情で香緒里は言った。
「いや、俺こそ……ありがとう。ほんとのこと、人に話したのなんて久しぶりだ。」
クスッと、お互い微笑み合う。似ている。自分と近い。
二人はそう思った。
「また、何かあったら遠慮しないで言えよ。」
「うん、ありがとう。それじゃ、おやすみ。」
香緒里はソファから立ち上がる。その表情は言葉通り、先程よりも幾分すっきりしている。
「ん、おやすみ。また明日な。」
もう少し、そこにいるつもりなのか、真はソファに座ったまま言葉を返す。
その真に軽く手を振って、香緒里は元来た通路を戻って行った。
痛みは癒えることはないのかもしれない。
けれど、癒やすことは出来るのかもしれない。
ロビーには生徒はおろか、教師すらいない。きっと会議も終えて、今は各自の部屋にいるのだろう。
そっと目を閉じると上の階でバタバタと走り回る音やドスンという響きが聞こえてくる。
騒がしいなぁ……と呟くが、修学旅行でテンションが皆上がっているのだろうとも思う。
静かに上の喧騒を聞きながら、香緒里はゆったりとソファで休む。
疲れたせいか、眠気が襲ってくる。あぁ、部屋に戻らないと……と思いつつもまどろみ始めてしまう。
が、ザーッという、トイレの水を流す音でハッと目を覚ました。
トイレの方へ目を向けると、真がちょうど出てくるところだった。
「香緒里…?」
「真、どうしてここに?」
「部屋のトイレが混んでて、面倒くさいからこっち来た。お前もか?」
「うん、まぁ。」
香緒里がトイレに入っている間にあっちも入ったのだろう。全然気が付かなかった。
「真は、女子から呼び出されなかったの?」
「え?」
「いや、秀人が複数女子に呼び出されてたから。」
「あぁ、まぁさっき呼び出されて告られたけど…。断った。別に興味ないし。」
「ふーん。」
微妙な雰囲気が二人の間に流れる。そういえば、六人でいることは最近多いけれど、真と二人きりになるのは初めてかもしれない。
「なぁ、大丈夫か?」
「え?」
今度は香緒里が問い返した。
「何かあったんじゃねーのか?いつもより、元気ない。」
「そんなこと……」
反論しようとした。
けれど出来なかった。心が重たいのは事実だったから。それでも、普通に振る舞ってたはずなのに。
なのに、気づかれてしまった。秀人にも、真にも。私の周りには勘のいい人が多くて困るなと香緒里は思い、心の中で苦笑する。
「間違ってねーだろ?」
「うん…まぁ。」
「家のことか?」
核心を突かれて、思わず黙り込む。真はそれをイエスと捉えたのか、「そうか。」とだけ言うと香緒里の隣に腰をおろした。
「まぁ…面倒くさいよな、家族って。」
そういえば、真の両親は両方とも義理の親だと沙世が言っていた気がする。
「別に、話したくなかったら話さなくていいけど、言って楽になることも―――
「離婚したのよ、うちの親。」
ぽろりと、本当の言葉が出た。それは気の緩みなのか、真の家庭の状況も難しいことからのシンパシーなのか。
わからないけれど、一度口にしたら止まらなかった。
「離婚、したの。つい昨日。その時に言われたのよ、お母さんに。『あんたは付いてこなくていいから』、『あんたなんてどうでもいい』って。」
声が震えているのが自分でもわかった。けれど、もう止まらない。
小さい頃からの母と私の関係、姉や父との関係。今の気持ち。全てを吐き出すように、真にさらけ出してしまった。
「もう、わけわからない…。なんで、あんなに勝手なのよ!私の気持ち、考えもしないで……。」
黙って静かに聞いていた真はようやく口を開いた。
「俺んちさ、親が両方とも本当の親じゃないんだ。」
「そう、みたいね…。」
ポツリポツリと、真は語り始めた。天井のどこか一点を見つめながら。
俺の本当の父さんは優しくて、俺のことをすごく可愛がってくれてた。父さんと母さんと俺と……なんてことない日々だったけど、多分あの頃が一番幸せだった。
けど、俺が五歳の時に父さんは交通事故で死んだ。
その後は母さんと二人で暮らしていて……でも、ある時から男が出入りし始めた。それが、今の親父。
結婚したのは俺が小五の時。母さんの仕事仲間だとかなんだとか言ってたけど、実際あいつが何をやってるのかはわかんねぇ。
まぁ、当時の俺は母さんが幸せになればいいと思ってたし、当時のあいつは穏やかだった。
あいつの本性を知ったのはしばらくしてからだった。酒乱だったんだよ。酒が入ると見境なく暴力を振るってくる。俺に対しても、母さんに対しても。外ではいい父親、いい夫面してるくせにな。
そうこうしてるうちに、母さんは倒れた。胃に腫瘍が出来てたんだ。ストレスと、過労から来るものだろうって医者は言ってた。
大したことない。そう母さんは言ってたのに……死んだ。
親父は仕事が忙しいとかで、母さんのお見舞いもろくにしなかった。母さんは「忙しいから仕方ない。」「今が頑張り所だって言ってたから。」そう言ってさ、少し淋しそうに微笑んだ。
母さんが死んで、半年も経たない頃……親父は再婚した。子連れの女と。
そいつも最悪でさ、最初から親父の前ではいい顔していながら、親父がいなくなると俺に暴言を吐きまくる。連れ子と俺を明らかに差別する。
親父が酒を飲んでいない時でも、暴力は振るわないけど冷たく当たるようになったら、尚更だ。
ある時、あの女が言ったよ。「あの人はあんたの父親の遺産と母親の保険金目当てで結婚したんだよ。」って。
今思えば、母さんが入院している間に、この女の所行ってたんじゃねーかって思う。
ほんと、馬鹿みたいだよな…母さんも、俺も……
「そうして、俺に居場所がなくなった。」
ポツリと呟いた真の声色には悲しみも寂しさももう残っていなく、無機質なだけであった。諦めたような、そんな口調。
逆にそれが香緒里には寂しく感じられた。
「そんな顔、すんなよ。俺の中では…もう片付いてるから。まぁ、前は片付いてなかったから……いろいろ、その、お前らには迷惑かけたし、傷つけたけど…。」
香緒里の顔を見て、真は少し困ったような申し訳ないような笑みを浮かべた。
「それに……お前の方が、つらいよな。あいつらは俺の義理の親だけど、香緒里の方は本当の親なんだもんな……きついよな。」
そう言った真の声があまりにも優しくて、香緒里は泣きそうになる。
「お母さんのこと…苦手だったし、嫌いになった時もあったし、憎く思った時もあった……けど…。」
けど、気づいてしまったんだ。
「私は、一度でいいからお母さんから愛されたかった。普通の親子みたいになりたかった……なのに、なのに……。」
優しくされた記憶も、誉められた記憶もない。いつも香緒里に向けられる目線は冷たく鋭い。
たった、一度でもいいから……
「好かれたかったのに、私のことも見て欲しかったのに…どうして、どうしてこうなったの……。」
「香緒里……。」
そっと優しく…真は香緒里の頭を撫でる。まるで小さな子をあやすように。
どっと涙が溢れてきて、頬を伝う。
家族に愛されたい。ただそれだけの、当たり前のことなのに。香緒里の願いは叶わない。
暗い暗い暗闇にいるような孤独感と絶望感。泣きたくなるくらいの切なさと寂しさ。
「無理しなくていいから。泣きたい時は泣けよ、思いっきり。その方がすっきりすることだってある。」
香緒里は、声を上げずに膝を抱えて静かに泣いた。真は泣き止むまで、ずっと優しくその頭を撫で続けた――――
「ありがとう、話聞いてくれて。おかげですっきりした。」
しばらくして泣き止むと、少し照れたような表情で香緒里は言った。
「いや、俺こそ……ありがとう。ほんとのこと、人に話したのなんて久しぶりだ。」
クスッと、お互い微笑み合う。似ている。自分と近い。
二人はそう思った。
「また、何かあったら遠慮しないで言えよ。」
「うん、ありがとう。それじゃ、おやすみ。」
香緒里はソファから立ち上がる。その表情は言葉通り、先程よりも幾分すっきりしている。
「ん、おやすみ。また明日な。」
もう少し、そこにいるつもりなのか、真はソファに座ったまま言葉を返す。
その真に軽く手を振って、香緒里は元来た通路を戻って行った。
痛みは癒えることはないのかもしれない。
けれど、癒やすことは出来るのかもしれない。