あ
確実に着実に勝ち星を増やし、評判も上々。
仕事が増えると供に人々の称賛と怨嗟も一心に受け、ますます精力的に仕事をしていた頃、北岡は運命的とも言える…かもしれない出逢いを果たす。
平行している仕事は他にもあり、貧乏人相手の国選弁護人の仕事なんて時間の無題以外の何物でもない。内心とてもウンザリしていた。
今回、北岡が新たに担当するのは由良吾郎という21歳の青年で、都会の掃溜めで起こる所謂半グレ同士のありきたりな障害事件の中心人物らしかった。
もうこれだけで糞の先程の価値もないのが分かる。自分とは永遠に無縁な人種だ。
ただ、たった一人で喧嘩慣れした 五人もの男達を軒並み病院送りにしてしまったというのは凄まじい。初めての接見で、一体どんな化け物が出てくるのやら…とやや身構えていた北岡だったが、いざ本人を前にしてみると、軽く毒気を抜かれてしまった。
自身も持て余している様な長身を心もち前屈みにしながら俯きがちに入ってきた青年は、北岡を一瞥すると目を逢わさぬまま軽く会釈し、静かに目の前のパイプ椅子に座った。
ギシと椅子が軋み、軽く縮れた前髪に隠れて彼の表情までは読めない。所在無げに膝の上に揃えられた右手の拳は擦りきれていて、北岡の視線に気付くともう片方の手でそっと覆い隠した。
「はじめまして。僕は北岡といいます。」微かに、しかし自然で親しげな笑みをたたえながら努めて快活に北岡は続ける。「君の弁護を担当する事になりました。よろしく。」
ちらりと此方に目線を上げた青年は北岡の言葉に存外素直に応えた。「…由良吾郎です」
分厚いアクリル板越しにかちりと視線が交錯する。まだ両の頬に瑞々しい少年のあどけなさを残した彼の顔には、しかし生々しい暴力の跡が残っていた。敵意や警戒を示すでもなくまたすがるでもなく、ただ少し垂れた切れ長の目尻にどこか老人然とした諦感を漂わせている。
この男の一体どこに資料で一通り見せられた暴力性が眠っているのだろう。頭の片隅に、尻のすわりの悪いようなどうしようもない違和感を感じながら北岡は話を続けようと手帳を広げるポーズをとる。
彼はじっと北岡の顔を見て、やがて小さく唇を噛みまるで恥じらう様に視線を落とした。
…弱ったな、俺子供は本当に苦手なんだよね。そんな事を考えながらやや次の句を言い淀んだ後、北岡の口から滑り出てしまったお決まりの定型句は、しかし全くの社交辞令という訳でも無く、それは彼を良く知る彼自身にも意外な事だった。「僕は君の力になりたいと思っているから。」
俯いたまま青年は軽く頭を下げた。
◇
柄にもなくたいした見返りも期待できない仕事に注力している。北岡は自分で自分が不思議だった。…どんな形であれこの俺が「負ける」という事が許容できないだけだ。そう考えて自身を納得させていた。
由良はこの障害事件を巻き起こした中心人物だったに違いないが、また巻き込まれた事もまた、違いなかった。
仕事帰り、見知らぬ男が見知らぬ男達に酷く暴行されている所にたまたま居合わせたのが運の尽きで、思わず半殺しにされている方の男を庇ってしまったそうだ。
「ホントにびっくりするほどつまんない事件だね」
「…」
「捻りがない!」
「…」
「君もうハタチ過ぎてんでしょ?何やってんのよ。」
この所、大分砕けてきた北岡の軽口にも由良は始終恐縮しながら頷いていた。
ただ、状況はかなり厳しかった。暴行していた側も受けていた側も元は同じヤクザの下部組織の者同士、つまり完全に内輪揉めであり、由良の目から見れば命すら危ない状況にあった男まで、あっさり自分の受けた怪我まで由良に押し付け、検察も被害者の証言を鵜呑みにした。
由良は遠い港町の出身で実家はその地域一帯でも有名な網元をしている大きな家だった。彼は七人兄弟の3番目に生まれたが、親とも郷里とも反りが合わず、高校を卒業後は勘当同然で上京し、それからは一人都会の片隅で様々な職を転々としながら生きていた様だ。一度、彼の実家を訪れた北岡を渋面一杯の父親は殆ど背中を押すようにして追い返した。
「もう勘当した人間ですから」
田舎特有の閉鎖社会の中で父親はただ犯罪や、逮捕と言った耳慣れない醜聞をひどく嫌ったのだと思う。当然の事かもしれない。ただ彼の末の弟が父親に追われ母親に手を引かれるまで一人柱の影から北岡を食い入る様に見詰めていた事を何故だか覚えている。
事件の経緯を調べ、何度かの接見を繰返すうち、北岡は不思議と彼に親しみを感じ初めていた。
一度、由良の着替えや何やらを持ち出す為に彼のアパートに立ち入った事がある。
「貴方、由良さんの弁護士さん?…由良さんって…喧嘩して逮捕されたのよねぇ。困るわぁ…、家賃とかどうしたらいいのか…。」
心底迷惑そうに呟き、この不運を当の弁護士に共感して貰おうとまくし立てる家主をやんわりと
整然と整えられた簡素な部屋と、その片隅に積み上げられた本の背表紙を眺めていると、潮風と強い太陽に堅く練り上げられた様な彼の父親も郷里も、彼が流れ着いた享楽的なこの街も、彼とは永遠に相容れる事のない何か遠い隔たりがある様に感じた。
仕事が増えると供に人々の称賛と怨嗟も一心に受け、ますます精力的に仕事をしていた頃、北岡は運命的とも言える…かもしれない出逢いを果たす。
平行している仕事は他にもあり、貧乏人相手の国選弁護人の仕事なんて時間の無題以外の何物でもない。内心とてもウンザリしていた。
今回、北岡が新たに担当するのは由良吾郎という21歳の青年で、都会の掃溜めで起こる所謂半グレ同士のありきたりな障害事件の中心人物らしかった。
もうこれだけで糞の先程の価値もないのが分かる。自分とは永遠に無縁な人種だ。
ただ、たった一人で喧嘩慣れした 五人もの男達を軒並み病院送りにしてしまったというのは凄まじい。初めての接見で、一体どんな化け物が出てくるのやら…とやや身構えていた北岡だったが、いざ本人を前にしてみると、軽く毒気を抜かれてしまった。
自身も持て余している様な長身を心もち前屈みにしながら俯きがちに入ってきた青年は、北岡を一瞥すると目を逢わさぬまま軽く会釈し、静かに目の前のパイプ椅子に座った。
ギシと椅子が軋み、軽く縮れた前髪に隠れて彼の表情までは読めない。所在無げに膝の上に揃えられた右手の拳は擦りきれていて、北岡の視線に気付くともう片方の手でそっと覆い隠した。
「はじめまして。僕は北岡といいます。」微かに、しかし自然で親しげな笑みをたたえながら努めて快活に北岡は続ける。「君の弁護を担当する事になりました。よろしく。」
ちらりと此方に目線を上げた青年は北岡の言葉に存外素直に応えた。「…由良吾郎です」
分厚いアクリル板越しにかちりと視線が交錯する。まだ両の頬に瑞々しい少年のあどけなさを残した彼の顔には、しかし生々しい暴力の跡が残っていた。敵意や警戒を示すでもなくまたすがるでもなく、ただ少し垂れた切れ長の目尻にどこか老人然とした諦感を漂わせている。
この男の一体どこに資料で一通り見せられた暴力性が眠っているのだろう。頭の片隅に、尻のすわりの悪いようなどうしようもない違和感を感じながら北岡は話を続けようと手帳を広げるポーズをとる。
彼はじっと北岡の顔を見て、やがて小さく唇を噛みまるで恥じらう様に視線を落とした。
…弱ったな、俺子供は本当に苦手なんだよね。そんな事を考えながらやや次の句を言い淀んだ後、北岡の口から滑り出てしまったお決まりの定型句は、しかし全くの社交辞令という訳でも無く、それは彼を良く知る彼自身にも意外な事だった。「僕は君の力になりたいと思っているから。」
俯いたまま青年は軽く頭を下げた。
◇
柄にもなくたいした見返りも期待できない仕事に注力している。北岡は自分で自分が不思議だった。…どんな形であれこの俺が「負ける」という事が許容できないだけだ。そう考えて自身を納得させていた。
由良はこの障害事件を巻き起こした中心人物だったに違いないが、また巻き込まれた事もまた、違いなかった。
仕事帰り、見知らぬ男が見知らぬ男達に酷く暴行されている所にたまたま居合わせたのが運の尽きで、思わず半殺しにされている方の男を庇ってしまったそうだ。
「ホントにびっくりするほどつまんない事件だね」
「…」
「捻りがない!」
「…」
「君もうハタチ過ぎてんでしょ?何やってんのよ。」
この所、大分砕けてきた北岡の軽口にも由良は始終恐縮しながら頷いていた。
ただ、状況はかなり厳しかった。暴行していた側も受けていた側も元は同じヤクザの下部組織の者同士、つまり完全に内輪揉めであり、由良の目から見れば命すら危ない状況にあった男まで、あっさり自分の受けた怪我まで由良に押し付け、検察も被害者の証言を鵜呑みにした。
由良は遠い港町の出身で実家はその地域一帯でも有名な網元をしている大きな家だった。彼は七人兄弟の3番目に生まれたが、親とも郷里とも反りが合わず、高校を卒業後は勘当同然で上京し、それからは一人都会の片隅で様々な職を転々としながら生きていた様だ。一度、彼の実家を訪れた北岡を渋面一杯の父親は殆ど背中を押すようにして追い返した。
「もう勘当した人間ですから」
田舎特有の閉鎖社会の中で父親はただ犯罪や、逮捕と言った耳慣れない醜聞をひどく嫌ったのだと思う。当然の事かもしれない。ただ彼の末の弟が父親に追われ母親に手を引かれるまで一人柱の影から北岡を食い入る様に見詰めていた事を何故だか覚えている。
事件の経緯を調べ、何度かの接見を繰返すうち、北岡は不思議と彼に親しみを感じ初めていた。
一度、由良の着替えや何やらを持ち出す為に彼のアパートに立ち入った事がある。
「貴方、由良さんの弁護士さん?…由良さんって…喧嘩して逮捕されたのよねぇ。困るわぁ…、家賃とかどうしたらいいのか…。」
心底迷惑そうに呟き、この不運を当の弁護士に共感して貰おうとまくし立てる家主をやんわりと
整然と整えられた簡素な部屋と、その片隅に積み上げられた本の背表紙を眺めていると、潮風と強い太陽に堅く練り上げられた様な彼の父親も郷里も、彼が流れ着いた享楽的なこの街も、彼とは永遠に相容れる事のない何か遠い隔たりがある様に感じた。
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