【春ココ】柔軟剤の話
「オマエまた柔軟剤変えたろ」
ソファに座ってノートパソコンと向き合う九井に、三途は手に持っていた水色のボトルをずいっと差し出す。先日まで脱衣所に置いてあった柔軟剤のボトルは柔らかいラベンダー色をしていた。たまに柔軟剤を変えるのは別段珍しいことでもないが、九井はひとつの柔軟剤を使い終わる度に新しい種類のものを買って来る。この世には詰め替え用という商品もあるのに、なぜか彼は新しい柔軟剤を、新しいボトルで買ってくるのだ。別に金に困ってるわけではないが、それが毎回だからさすがに気になって声をかけた。
「あー……うん」
九井は三途を見上げたあと、そのボトルに目をやってから生返事をする。そして再びパソコンに視線を戻した。その態度に眉尻が上がる。三途は事実確認がしたいわけではない、理由が聞きたいのだ。
「なんで1本ごとに変えてんだよ」
少しぶっきらぼうに聞くと、彼はめんどくさそうにパソコンをパタンと閉じた。
「……匂い」
「は?」
「なんか、違うなーって」
どこか遠くを見つめるような彼に三途は首をかしげる。柔軟剤なんてどれも似たようなニオイだ。いや、明確には違うのだが。先日まで使っていたラベンダーの柔軟剤は花の香りがしていたし、その前のオレンジ色のボトルは柑橘系の香りだった。今回のコレは……どちらかと言えば石鹸のような香りか。どちらにせよ、少なくとも人が不快になるようなニオイはしていない。総じて『いい匂い』というやつである。
「オマエそんなニオイにこだわりあんのか?」
正直なところ、三途自身はそこまで柔軟剤にこだわりはないし、変なニオイでなければ構わない。しかし、ヘアケア商品にはこだわりがある。それはもううるさいくらいに。だから、九井にもそういったこだわりがあるのだろうか、と思ったのだが「んー」と唸る彼を見るにそういうわけでもなさそうだ。
「……好きな匂いが、あって」
九井は少し視線を彷徨わせると下唇を軽く噛んだ。ゆっくり背もたれに体を鎮めると、何かを思い出すとうにやや掠れた声を震わせる。
「すげぇガキの頃にイヌピーが使ってたヤツなんだけど、イヌピーに聞いても覚えてねぇとかでさ。それから探してんの、同じヤツ。でもさ、柔軟剤っていっぱいあんじゃん? 全然見つかんねーの」
そう言って寂しそうに笑う彼にイラついて、ボトルを持つ手に力がこもる。九井の頭の中は寝ても覚めてもアイツのことばかりなのだと思うとおもしろくない。
忘れようと思って忘れられるものでもないだろうが、そんなに傷ついた顔をするくらいなら忘れる努力でもしてみたらどうかと悪態をつきたくもなる。それでも、つらくても忘れたくないから、こんな惨めなことをしているのだろう。
「覚えてんの?」
「ん?」
「すげぇガキの頃のなんだろ、そのニオイ」
それがどれくらい昔のことなのか三途は知らない。幼馴染というくらいだから、小学生の頃か、あるいはもっと昔のことなのか。少なくとも10年以上経っているであろうそのニオイは、まだ記憶に残っているのだろうか。今でも探しているそのニオイは、果たして本当にあるのだろうか。
「あぁ……今でも覚えてる、なぁ……」
九井は三途から顔を逸らすようにして窓の外を眺める。昼間の青空に白い雲がゆったりと浮かんでいた。三人で歩いた通学路。幼い自分たちの歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれる彼女の隣に並ぶと、柔らかくて優しい匂いがしたのを今でも忘れられずにいる。
まだ、声も、顔も、覚えている。あと10年、20年、100年経っても、忘れたくない。このまま記憶の中で彼女を永遠にしたいとさえ思っているのに。忘れられるはずがない。
三途はムスッとした顔のまま九井の隣に腰掛けた。
「柔軟剤、服の素材とかでニオイ変わるらしいから、全く同じニオイにはなんねーと思うぞ」
「……マジ?」
「マジ」
ようやく三途の方を振り返った九井に、ふふん、と得意気に鼻を鳴らす。九井は細い目を数回しばたたかせ、息を深く吐きながら右手で顔を覆った。
「マジかぁ……なんか、無駄なことしてたんだな、オレ……」
「だからコレ使い終わったらアレに戻しとけ、ピンクのヤツ」
三途は手に持ったままのボトルをコツコツと二回指先でつついた。
「ピンク?」
「前に使ってたヤツ。オレはアレが良かった」
九井はどれのことかと頭をひねる。一番記憶に新しいピンクのボトルは、たしか……。
「……あぁ、サクランボの絵が描いてたヤツか」
「多分ソレ」
「わかった、次からはソレにするわ」
どこかスッキリした顔の九井は再びノートパソコンを開いた。
別に、三途自身そのサクランボの柔軟剤のニオイが特別好きなわけではない。完成された九井の世界に三途が入り込める余地はない。けれど、同じ香りの柔軟剤を使い続けていればいつか忘れる時が来るかもしれない。彼の好きなニオイが上書きされればいいなと思っただけ。そういう些細なことでしか記憶に残れないのだから。ひとつくらい、もらってもいいだろう。
オマエが九井を捨てたんだから、と、ぼんやりとした記憶の中にいるあの男に中指を立てた。
ソファに座ってノートパソコンと向き合う九井に、三途は手に持っていた水色のボトルをずいっと差し出す。先日まで脱衣所に置いてあった柔軟剤のボトルは柔らかいラベンダー色をしていた。たまに柔軟剤を変えるのは別段珍しいことでもないが、九井はひとつの柔軟剤を使い終わる度に新しい種類のものを買って来る。この世には詰め替え用という商品もあるのに、なぜか彼は新しい柔軟剤を、新しいボトルで買ってくるのだ。別に金に困ってるわけではないが、それが毎回だからさすがに気になって声をかけた。
「あー……うん」
九井は三途を見上げたあと、そのボトルに目をやってから生返事をする。そして再びパソコンに視線を戻した。その態度に眉尻が上がる。三途は事実確認がしたいわけではない、理由が聞きたいのだ。
「なんで1本ごとに変えてんだよ」
少しぶっきらぼうに聞くと、彼はめんどくさそうにパソコンをパタンと閉じた。
「……匂い」
「は?」
「なんか、違うなーって」
どこか遠くを見つめるような彼に三途は首をかしげる。柔軟剤なんてどれも似たようなニオイだ。いや、明確には違うのだが。先日まで使っていたラベンダーの柔軟剤は花の香りがしていたし、その前のオレンジ色のボトルは柑橘系の香りだった。今回のコレは……どちらかと言えば石鹸のような香りか。どちらにせよ、少なくとも人が不快になるようなニオイはしていない。総じて『いい匂い』というやつである。
「オマエそんなニオイにこだわりあんのか?」
正直なところ、三途自身はそこまで柔軟剤にこだわりはないし、変なニオイでなければ構わない。しかし、ヘアケア商品にはこだわりがある。それはもううるさいくらいに。だから、九井にもそういったこだわりがあるのだろうか、と思ったのだが「んー」と唸る彼を見るにそういうわけでもなさそうだ。
「……好きな匂いが、あって」
九井は少し視線を彷徨わせると下唇を軽く噛んだ。ゆっくり背もたれに体を鎮めると、何かを思い出すとうにやや掠れた声を震わせる。
「すげぇガキの頃にイヌピーが使ってたヤツなんだけど、イヌピーに聞いても覚えてねぇとかでさ。それから探してんの、同じヤツ。でもさ、柔軟剤っていっぱいあんじゃん? 全然見つかんねーの」
そう言って寂しそうに笑う彼にイラついて、ボトルを持つ手に力がこもる。九井の頭の中は寝ても覚めてもアイツのことばかりなのだと思うとおもしろくない。
忘れようと思って忘れられるものでもないだろうが、そんなに傷ついた顔をするくらいなら忘れる努力でもしてみたらどうかと悪態をつきたくもなる。それでも、つらくても忘れたくないから、こんな惨めなことをしているのだろう。
「覚えてんの?」
「ん?」
「すげぇガキの頃のなんだろ、そのニオイ」
それがどれくらい昔のことなのか三途は知らない。幼馴染というくらいだから、小学生の頃か、あるいはもっと昔のことなのか。少なくとも10年以上経っているであろうそのニオイは、まだ記憶に残っているのだろうか。今でも探しているそのニオイは、果たして本当にあるのだろうか。
「あぁ……今でも覚えてる、なぁ……」
九井は三途から顔を逸らすようにして窓の外を眺める。昼間の青空に白い雲がゆったりと浮かんでいた。三人で歩いた通学路。幼い自分たちの歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれる彼女の隣に並ぶと、柔らかくて優しい匂いがしたのを今でも忘れられずにいる。
まだ、声も、顔も、覚えている。あと10年、20年、100年経っても、忘れたくない。このまま記憶の中で彼女を永遠にしたいとさえ思っているのに。忘れられるはずがない。
三途はムスッとした顔のまま九井の隣に腰掛けた。
「柔軟剤、服の素材とかでニオイ変わるらしいから、全く同じニオイにはなんねーと思うぞ」
「……マジ?」
「マジ」
ようやく三途の方を振り返った九井に、ふふん、と得意気に鼻を鳴らす。九井は細い目を数回しばたたかせ、息を深く吐きながら右手で顔を覆った。
「マジかぁ……なんか、無駄なことしてたんだな、オレ……」
「だからコレ使い終わったらアレに戻しとけ、ピンクのヤツ」
三途は手に持ったままのボトルをコツコツと二回指先でつついた。
「ピンク?」
「前に使ってたヤツ。オレはアレが良かった」
九井はどれのことかと頭をひねる。一番記憶に新しいピンクのボトルは、たしか……。
「……あぁ、サクランボの絵が描いてたヤツか」
「多分ソレ」
「わかった、次からはソレにするわ」
どこかスッキリした顔の九井は再びノートパソコンを開いた。
別に、三途自身そのサクランボの柔軟剤のニオイが特別好きなわけではない。完成された九井の世界に三途が入り込める余地はない。けれど、同じ香りの柔軟剤を使い続けていればいつか忘れる時が来るかもしれない。彼の好きなニオイが上書きされればいいなと思っただけ。そういう些細なことでしか記憶に残れないのだから。ひとつくらい、もらってもいいだろう。
オマエが九井を捨てたんだから、と、ぼんやりとした記憶の中にいるあの男に中指を立てた。
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