【イヌココ】偽りから醒めたら傍にいて
◇
九井が失恋してからも青宗のデートのお誘いは続いた。否、疑似デートというよりはただ単に彼のことを励ましたかった。親友として、これまでと同じようにゲームセンターやラーメン屋に誘ってみたりしたけれど、相当落ち込んでいるのかあれから一向にこちらの誘いに乗ってくることはなかった。
今ならいけるかな、と思ってそれとなく誘ってみるも「あー……それ興味なくなったんだよな」とか「そこ、この前ひとりで行ったわ」とか言ってのらりくらりと躱される。まるで故意にこちらを避けているんじゃないかって思うくらいだ。
それでも集会にはちゃんと出ているし、大寿や他の隊員たちと話している姿はいつも通りに見える。いつもと変わらない態度で、いつもと同じようなおすまし顔で、そつなく日常をこなしていく様子は逆に不自然に思えた。
はやく失恋しちゃえばいいのに、と思っていた時期もあったくらい恋というものを軽く見ていた。だって、もしも彼に自分以外の恋人ができてしまったら、なんて考えたら、それはもう想像することもできないくらい悲しくて悔しいに決まっている。
下手したらこの悲しみで死んじゃうかもしれない、この悔しさで体中の血液が逆流しちゃうかもしれない。そんな、自分を保てなくなるような激情を体の中で均して、何でもないような顔をして毎日を過ごしている。九井は今、そんな荒波の中をどうにかこうにか生きているのだ。
それでも、いつもみたいにバカやって些細なことで喧嘩して次の日にはまた親友に戻っているような、そんな彼にはやく戻ってほしいと願う自分がいるのも確かである。だが、それを最初に壊そうとしたのは他でもない自分だというのが、赤音に取って代わろうなんて少しでも考えた自分が酷く愚かに思えた。
だって、今の九井が青宗と一緒にいるのが辛くないわけないじゃないか。こんなにもふたりはそっくりに生まれてしまったのだから。
けれど、今の青宗は彼を親友として励ましたいと思っている。それくらいしかできることがない。ただ黙って彼から距離を置くのは嫌だった。たとえそれが正解だと言われても、好きな子が落ち込んでいたらどうにかしたいって体が動いてしまうのだ。
そうして青宗は今日もめげずに一冊の雑誌を手に九井に挑む。
大寿の家で行われるいつもの黒龍幹部会。一通りの話し合いが終わってソファでケータイをいじる彼の前へ、持ってきた雑誌を広げてずいっと差し出す。
「ココ、新しくできたアウトレットに空中スライダーがあるらしいぞ」
「あ? おー……」
「一緒に行かね?」
「あー……オレそういうのあんましなー……」
九井は雑誌と青宗を見比べた後、すいーっと視線を横に逸らす。案の定、この提案も断るつもりらしい。しかし、今日はちょっとやそっとのことじゃあ引かないと決めている。
「オレが行きたいんだ。ひとりで行くのもつまんねぇし」
「んー……あ、大寿と行けば?」
「えっ?」
青宗が小さく声を上げると同時に、少し離れた場所でお茶を飲んでいた大寿のむせる声が聞こえた。広い家とはいえこれだけ静かならこの会話も筒抜けであろう。九井はそんな大寿のことなど気にも留めずに言葉を続ける。
「オレと行くより楽しいかもよ。オレ、イヌピーより体力ないしさぁ」
「……ボスこそ、こういうの興味ねーだろ」
「あるって。あー、ホラ、大寿と二人で似たようなとこ行ったことあるし」
遠くでコップの落ちる鈍い音がする。多分、手を滑らせたんだろう。しかしそんなことよりも、九井と大寿がアウトレットのような場所に二人で遊びに行ったという話の方が気になってそれどころではなかった。青宗は至極神妙な面持ちで、ひとつひとつ事実確認をするように問いかける。
「似たようなとこって?」
「あー、そう、遊園地、とか。そうそう」
「ボスと? 二人で?」
「うん」
「……遊園地だぞ?」
「うん」
脳内で九井と大寿が頭に愉快な動物のカチューシャを付けて園内を歩いているところを想像した所でタイミング良く彼のケータイが鳴った。気の遠くなりそうなほどの恐ろしくも微笑ましい妄想がばちんっと弾けてどうにか現実に帰ってくる。
「あ、ワリ。電話。そういうことだから」
九井はソファから立ち上がっていそいそとリビングを出ていく。しんと静まり返った室内にはなんとも言えない空気が漂っていた。
青宗は雑誌をくしゃりと握り締めてゆっくりと大寿の方を振り返る。
「ボス」
「…………なんだ」
「ココと遊園地行っ」
「行くわけないだろ。野郎二人で。しかもオレと九井だぞ。想像すらできねぇだろうが」
「……だよな」
食い気味の返答に心から安堵の声が漏れた。九井の話が本当だったら感情の置き所がなさすぎてどうにかなっていたかもしれない。細く長い息を吐き出しながらソファの上に座り込むと、大寿が心底呆れたという顔をしてこちらへ近づいて来る。
「オマエら喧嘩でもしたのか」
「……してねぇ」
つま先を擦り合わせてつんと唇を突き出す。喧嘩はしてない。ただ単に避けられてるだけ。だからこんなにももどかしいのだ。
「なんでもいいが、めんどくせぇことにオレを巻き込むな」
「……ウス」
ぶすくれた顔で返事をすると電話を終えた九井がリビングに戻ってきた。二人の間に漂う微妙な雰囲気を察してか、彼はキュッと猫のように口角を上げてぎこちない笑顔を作る。そんな彼を一瞥して、大寿はわざとらしくため息を吐いた。
「九井。今日はもう帰れ」
「……ん」
「乾と二人でな」
「んっ?」
大寿にシッシッと追いやられて、それはちょっとばかり気まずいなぁという顔の九井と一緒に家を出る。これは大寿なりの配慮なのか、いや、ただ単に厄介払いをされただけな気もしなくはない。どちらにせよ、これを機にハッキリさせてしまうのがよかろう。
青宗はひとりで帰ろうと歩き出した九井の手を掴む。
「一緒に帰れってボスの命令だろ」
「……命令じゃねぇだろ、アレは」
「いいから行くぞ」
半ば無理矢理にバイクに乗せて数週間ぶりに二人きりのツーリングへと繰り出す。家とは反対方向へ走って行くバイクに、九井が後ろでわぁわぁと何事か叫んでいるが全部聞こえないフリをして郊外へと進んでいった。
都会のビルを抜けて小さな街を抜けて、辿り着いたのは一緒に身を寄せ合ったあの海だ。九井はまさか再びこんなところに連れて来られるなんて思いもしなかったようで、なんだなんだと訝しげな顔でこちらを見ている。
西日を受けてキラキラと金色に輝く飛沫はあの夜に見た海とはまったく別のものに見えた。エンジンを切って座ったままじっと海を眺めていると痺れを切らした九井がのそりとこちらへ身を乗り出す。
「どうしたんだよ、急に」
「……急なのはココの方だろ」
「あ?」
「最近ノリ悪ぃし」
バイクから降りて砂浜を歩き出すとあの日と同じように後ろから九井がついてきた。ふたつの長い影が足跡をつけながら追いかけっこをする。
「だからってなんで海なんだよ」
「海、来た後からおかしくなったろ。だから、また来たら戻るかなって」
「あのなぁ……」
青宗はピタリと足を止めると九井の方を振り返る。ポケットに手を突っ込んで、不機嫌そうに眉を寄せる彼に一歩近づいた。
さざ波と、少しべたつくしょっぱい風が二人の間を駆け抜けていく。
「やっぱ、ガタイよくなりすぎたか?」
「……あ?」
「オレじゃ、もう赤音の代わりにはなれない?」
そう言ってふっと目尻を和らげて少し口角を上げると、彼はゆっくりと目を見開いた。
彼の好きな笑顔はこんなに上手になったのに。日に日に高くなっていく身長も、喧嘩で痣だらけの肌も、筋肉のついた広い肩幅も。全部彼女からほど遠い。
どれだけ綺麗に笑えるようになっても、青宗は赤音にはなれない。
そのことにもっとはやく気づいていればこんなこと最初からしなかったのに。今さらそんなことを思ったってもう遅いけれど。それならば最後までこの馬鹿げたごっこ遊びを続けようではないか。そして今ここで答えを出してしまおう。
彼の全部を手に入れられるか。それとも、彼との全部を失うか。
九井はわななく唇を微かに開く。
「オマエ……全部知って……」
はく、はく、と空白を紡いで、狼狽するように口元を手のひらで隠した。揺れる小さな黒目をじっと見つめると、彼は逃げるように視線を逸らす。
「オレ、ほんと、最初はほんとに……そんなつもりは、なく、て……」
「いーよ。オレがそう仕向けたみたいなもんだし。つーか、そのまま流れで付き合えたらって思ってたし」
「えっ」
予想外の言葉に彼は目を丸くして顔を上げた。その表情がいつもよりあどけなくて思わず苦笑する。
「ココって意外と鈍感だよな。まぁ、赤音しか見えてないから仕方ねぇか」
「……イヌピー……、オレ……その……」
懺悔の言葉を探しているかのように彷徨う九井の視線はついに地面に落ちて、斬首を待つ罪人のように項垂れる。
きっと、青宗を避けているこの期間、彼なりに色々と考えていたのだろう。
九井の様子からして青宗に赤音の面影を重ねていたことは明白だ。これまでどんな気持ちで一緒にいてくれたかなんてのは知らないけれど、少なくとも罪悪感を抱いていたことはわかる。それが赤音に対してなのか、青宗に対してなのかはわからない。ただ、そう仕向けたのは他でもない青宗自身だ。
赤音の代わりで良かった。偽りでもいいから好きになってほしかった。そうしなければ手に入れられないって知っていたから。親友としても、恋人としても、彼の隣は全部自分のものじゃなきゃイヤだった。
でも、そのわがままが彼のことを深く悩ませてしまったらしい。
もっと単純明快で、簡単でいいのに。
好きか、好きじゃないか。
赤音に見えるか、見えないか。
彼の全部を手に入れるために、青宗は青宗であることをやめたのだ。
「なぁ、ココ。まだオレが赤音に見えるなら、オレと付き合ってよ」
青宗は九井の両手を取ると、祈りを捧げるかのごとく自身の額を彼の手の甲へ押し当てた。
お願いします、と乞うように深々と頭を下げ、息を止めて彼の返事を待つ。
波の音だけが聞こえる空間に、自分の心音だけが響いていた。このまま心臓が飛び出ちゃうんじゃないかってくらいうるさくて、痛くて、熱くて、それでいて潰れてしまいそうなほど不安だった。
沈黙に彼の緊張した息遣いが混じる。
「……ごめん、オレ……イヌピーのこと、赤音さんに見えない」
「……そっか」
自嘲気味に漏らすと、あぁ、失恋しちゃったんだなって実感がぶわっと体中に広がってじんわりと目頭が熱くなった。わかっていた。いくら顔が似ていても、そっくりに笑えるようになっても、青宗は青宗以外の誰かにはなれない。そうわかってしまったんだ。
悔しい。誰よりも彼のことが好きなのに。彼はそうじゃないんだって事実がただただ悔しかった。胸の奥がつっかえて苦しい。
ゆっくりと首をもたげる。でも、どうしても彼の顔を見ることはできなくて、目を伏せたままそうっと手を離す。すると、今度はその手を九井が掴んだ。離さまいとする力強い手に思わずぱっと顔を上げる。西日に顔を赤くした彼が、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「だって、イヌピーのことが好きだから」
ざぶんっ、と一際大きな波がつま先を濡らす。聞き間違いだったかもしれない。呼吸をするのも忘れて食い入るように彼を見つめ返す。さっきまでうるさかった心臓は嘘みたいに静かで、びっくりしすぎて止まっちゃったかもしれない、なんてぼうっとする頭の片隅で思った。
どこか現実味のない、ぼんやりとしたさざ波のBGMを背景に呆けたように九井を見つめていたら、彼は力の入っていない青宗の手をぎゅっと引き寄せた。
「イヌピー。もしイヌピーがオレのこと好きなら、オレと付き合ってよ」
よろける足元。緊張に強張った九井の顔に水飛沫がかかる。
夏前の冷たい空気が火照った頬を撫でた。
青宗はひと呼吸置いて逃げるように視線を足元へ移す。
「……オレ、男だけど」
「知ってる」
「赤音じゃねぇけど」
「知ってる」
「ココは……赤音じゃなくて、オレが好きってことで、いいのか?」
「そう言ってるだろ」
「……ほんとに?」
震える濡れた声が出たことにびっくりして咄嗟に目元を乱暴に拭う。こんな弱い姿、見せたことないのに。押し潰されそうなくらい苦しくて痛い胸の奥から、どうにも止めようがない感情がせり上がってくる。喉の奥が焼けそうなくらい熱かった。
「オレ……赤音さんのこと、本気で好きだった、と思う。でも、あれから思い出すのイヌピーとのことばっかなんだ。だから……その、すげぇ考えた。わかんなくて。めちゃくちゃ考えた。考えすぎて余計わかんねぇって思ってたけど、今、やっと気づいた」
九井はまだ整理しきれていない己の感情をひとつひとつ、拙いながらもどうにか言葉にして紡ぐ。その声に嘘はない。何でもそつなくこなす彼がこんなにしどろもどろにしゃべるところを見るのは初めてだった。
顔を上げると少しだけぼやける視界の先で金色に光る髪の先が潮風に揺れる。
「オレ、イヌピーが好き。深夜にバイク飛ばして海連れてってくれる男前なとこが好き。地面に這いつくばって野良猫威嚇してるようなアホっぽいとこも好き。しょうもないことで喧嘩する時間も、スゲェくだらねぇことで笑い合える時間も好き。これからもバカやって、オマエとしか過ごせねぇ時間を一緒に生きていきたい」
「ふ……はは。それはたしかに、赤音じゃ無理か」
彼の告白を聞いて青宗はおかしそうに笑った。
赤音の身代わりとして始めた疑似デートのはずだったのに、いつの間にかそれもいつもの二人の時間になっていたのだ。デートっぽいデートをしていたつもりになっていたが、どうやら幼少期から続くバカ騒ぎの延長線みたいな時間を過ごしていたことにようやく気づく。
それじゃあ赤音に見えなくなったって仕方がない。だって、そうだろう。
赤音だったらあの映画を見て泣くだろうし、水族館でチンアナゴって名前をおちょくることもない。バイクに乗ることも、野良猫を威嚇するようなことだってしない。最初から、赤音の身代わりなんてこれっぽっちもできていなかったのだ。
彼女そっくりの笑顔でみてくれは騙せても、赤音そのものに取って代わることはできない。無駄に九井のことをたぶらかしてしまった。もうずっと最初から、青宗は青宗でしかなかったのに。
肩を揺らして泣き笑う青宗に、九井はむず痒そうに唇を尖らせる。
「……で? 返事は?」
答えなんてわかりきってるクセに。それでもまだどこか不安なのかちらちらとこちらの様子を伺う九井がどうにもかわいくって、青宗はニヤニヤと意地悪そうに目を細める。
「いいぜ。付き合ってやるよ。ココ、オレのこと大好きみたいだしな」
「っ……! イヌピーの方がオレのこと好きなくせに!」
「はぁ~? ココの方がオレのこと好きだろ。オレの好きなトコあと百万個言ってみろ」
「そんなに言えるわけねぇだろ!」
「オレは言えるし」
「ウソつけ! このっ!」
わっと飛びかかってきた九井を抱きしめるように受け止めるが、足場の悪い砂浜ではうまく踏ん張りがきかずにそのままどしんっともつれながら倒れ込んでしまう。
ふかふかの温かい砂にまみれて、どちらともなく声を上げて笑った。
いつも通りの、親友としてのやり取り。ふざけ合って、たまに喧嘩して、こうやって笑い合う。でも、今からは親友であり恋人でもある。
腹が痛くなるまで笑ったら、今度はどちらともなくお互い見つめ合って唇を合わせた。不思議なくらい自然と、まるでそうするべきであるかのように体が動いた。少ししょっぱい、キスの味。
砂のついた手で彼の後頭部をぐっと引き寄せて、もう一度触れるだけのキスをする。九井の鼻にかかった声が漏れてゆっくりと唇を離せば、熱っぽい瞳に金色の海がキラキラと反射して綺麗だった。ほんのり色づくまなじりを親指の腹で撫でる。
「……ココ、好き」
「……オレも。イヌピーが好き」
いつもと違う、ちょっぴりざらついた低い声が耳に心地良かった。
これが恋人。親友じゃない彼の表情。好きの響き。温かくて切ない痛みが甘く沁みる。
重なり合った長い影法師を金色の海がざぶんっとさらっていった。
九井が失恋してからも青宗のデートのお誘いは続いた。否、疑似デートというよりはただ単に彼のことを励ましたかった。親友として、これまでと同じようにゲームセンターやラーメン屋に誘ってみたりしたけれど、相当落ち込んでいるのかあれから一向にこちらの誘いに乗ってくることはなかった。
今ならいけるかな、と思ってそれとなく誘ってみるも「あー……それ興味なくなったんだよな」とか「そこ、この前ひとりで行ったわ」とか言ってのらりくらりと躱される。まるで故意にこちらを避けているんじゃないかって思うくらいだ。
それでも集会にはちゃんと出ているし、大寿や他の隊員たちと話している姿はいつも通りに見える。いつもと変わらない態度で、いつもと同じようなおすまし顔で、そつなく日常をこなしていく様子は逆に不自然に思えた。
はやく失恋しちゃえばいいのに、と思っていた時期もあったくらい恋というものを軽く見ていた。だって、もしも彼に自分以外の恋人ができてしまったら、なんて考えたら、それはもう想像することもできないくらい悲しくて悔しいに決まっている。
下手したらこの悲しみで死んじゃうかもしれない、この悔しさで体中の血液が逆流しちゃうかもしれない。そんな、自分を保てなくなるような激情を体の中で均して、何でもないような顔をして毎日を過ごしている。九井は今、そんな荒波の中をどうにかこうにか生きているのだ。
それでも、いつもみたいにバカやって些細なことで喧嘩して次の日にはまた親友に戻っているような、そんな彼にはやく戻ってほしいと願う自分がいるのも確かである。だが、それを最初に壊そうとしたのは他でもない自分だというのが、赤音に取って代わろうなんて少しでも考えた自分が酷く愚かに思えた。
だって、今の九井が青宗と一緒にいるのが辛くないわけないじゃないか。こんなにもふたりはそっくりに生まれてしまったのだから。
けれど、今の青宗は彼を親友として励ましたいと思っている。それくらいしかできることがない。ただ黙って彼から距離を置くのは嫌だった。たとえそれが正解だと言われても、好きな子が落ち込んでいたらどうにかしたいって体が動いてしまうのだ。
そうして青宗は今日もめげずに一冊の雑誌を手に九井に挑む。
大寿の家で行われるいつもの黒龍幹部会。一通りの話し合いが終わってソファでケータイをいじる彼の前へ、持ってきた雑誌を広げてずいっと差し出す。
「ココ、新しくできたアウトレットに空中スライダーがあるらしいぞ」
「あ? おー……」
「一緒に行かね?」
「あー……オレそういうのあんましなー……」
九井は雑誌と青宗を見比べた後、すいーっと視線を横に逸らす。案の定、この提案も断るつもりらしい。しかし、今日はちょっとやそっとのことじゃあ引かないと決めている。
「オレが行きたいんだ。ひとりで行くのもつまんねぇし」
「んー……あ、大寿と行けば?」
「えっ?」
青宗が小さく声を上げると同時に、少し離れた場所でお茶を飲んでいた大寿のむせる声が聞こえた。広い家とはいえこれだけ静かならこの会話も筒抜けであろう。九井はそんな大寿のことなど気にも留めずに言葉を続ける。
「オレと行くより楽しいかもよ。オレ、イヌピーより体力ないしさぁ」
「……ボスこそ、こういうの興味ねーだろ」
「あるって。あー、ホラ、大寿と二人で似たようなとこ行ったことあるし」
遠くでコップの落ちる鈍い音がする。多分、手を滑らせたんだろう。しかしそんなことよりも、九井と大寿がアウトレットのような場所に二人で遊びに行ったという話の方が気になってそれどころではなかった。青宗は至極神妙な面持ちで、ひとつひとつ事実確認をするように問いかける。
「似たようなとこって?」
「あー、そう、遊園地、とか。そうそう」
「ボスと? 二人で?」
「うん」
「……遊園地だぞ?」
「うん」
脳内で九井と大寿が頭に愉快な動物のカチューシャを付けて園内を歩いているところを想像した所でタイミング良く彼のケータイが鳴った。気の遠くなりそうなほどの恐ろしくも微笑ましい妄想がばちんっと弾けてどうにか現実に帰ってくる。
「あ、ワリ。電話。そういうことだから」
九井はソファから立ち上がっていそいそとリビングを出ていく。しんと静まり返った室内にはなんとも言えない空気が漂っていた。
青宗は雑誌をくしゃりと握り締めてゆっくりと大寿の方を振り返る。
「ボス」
「…………なんだ」
「ココと遊園地行っ」
「行くわけないだろ。野郎二人で。しかもオレと九井だぞ。想像すらできねぇだろうが」
「……だよな」
食い気味の返答に心から安堵の声が漏れた。九井の話が本当だったら感情の置き所がなさすぎてどうにかなっていたかもしれない。細く長い息を吐き出しながらソファの上に座り込むと、大寿が心底呆れたという顔をしてこちらへ近づいて来る。
「オマエら喧嘩でもしたのか」
「……してねぇ」
つま先を擦り合わせてつんと唇を突き出す。喧嘩はしてない。ただ単に避けられてるだけ。だからこんなにももどかしいのだ。
「なんでもいいが、めんどくせぇことにオレを巻き込むな」
「……ウス」
ぶすくれた顔で返事をすると電話を終えた九井がリビングに戻ってきた。二人の間に漂う微妙な雰囲気を察してか、彼はキュッと猫のように口角を上げてぎこちない笑顔を作る。そんな彼を一瞥して、大寿はわざとらしくため息を吐いた。
「九井。今日はもう帰れ」
「……ん」
「乾と二人でな」
「んっ?」
大寿にシッシッと追いやられて、それはちょっとばかり気まずいなぁという顔の九井と一緒に家を出る。これは大寿なりの配慮なのか、いや、ただ単に厄介払いをされただけな気もしなくはない。どちらにせよ、これを機にハッキリさせてしまうのがよかろう。
青宗はひとりで帰ろうと歩き出した九井の手を掴む。
「一緒に帰れってボスの命令だろ」
「……命令じゃねぇだろ、アレは」
「いいから行くぞ」
半ば無理矢理にバイクに乗せて数週間ぶりに二人きりのツーリングへと繰り出す。家とは反対方向へ走って行くバイクに、九井が後ろでわぁわぁと何事か叫んでいるが全部聞こえないフリをして郊外へと進んでいった。
都会のビルを抜けて小さな街を抜けて、辿り着いたのは一緒に身を寄せ合ったあの海だ。九井はまさか再びこんなところに連れて来られるなんて思いもしなかったようで、なんだなんだと訝しげな顔でこちらを見ている。
西日を受けてキラキラと金色に輝く飛沫はあの夜に見た海とはまったく別のものに見えた。エンジンを切って座ったままじっと海を眺めていると痺れを切らした九井がのそりとこちらへ身を乗り出す。
「どうしたんだよ、急に」
「……急なのはココの方だろ」
「あ?」
「最近ノリ悪ぃし」
バイクから降りて砂浜を歩き出すとあの日と同じように後ろから九井がついてきた。ふたつの長い影が足跡をつけながら追いかけっこをする。
「だからってなんで海なんだよ」
「海、来た後からおかしくなったろ。だから、また来たら戻るかなって」
「あのなぁ……」
青宗はピタリと足を止めると九井の方を振り返る。ポケットに手を突っ込んで、不機嫌そうに眉を寄せる彼に一歩近づいた。
さざ波と、少しべたつくしょっぱい風が二人の間を駆け抜けていく。
「やっぱ、ガタイよくなりすぎたか?」
「……あ?」
「オレじゃ、もう赤音の代わりにはなれない?」
そう言ってふっと目尻を和らげて少し口角を上げると、彼はゆっくりと目を見開いた。
彼の好きな笑顔はこんなに上手になったのに。日に日に高くなっていく身長も、喧嘩で痣だらけの肌も、筋肉のついた広い肩幅も。全部彼女からほど遠い。
どれだけ綺麗に笑えるようになっても、青宗は赤音にはなれない。
そのことにもっとはやく気づいていればこんなこと最初からしなかったのに。今さらそんなことを思ったってもう遅いけれど。それならば最後までこの馬鹿げたごっこ遊びを続けようではないか。そして今ここで答えを出してしまおう。
彼の全部を手に入れられるか。それとも、彼との全部を失うか。
九井はわななく唇を微かに開く。
「オマエ……全部知って……」
はく、はく、と空白を紡いで、狼狽するように口元を手のひらで隠した。揺れる小さな黒目をじっと見つめると、彼は逃げるように視線を逸らす。
「オレ、ほんと、最初はほんとに……そんなつもりは、なく、て……」
「いーよ。オレがそう仕向けたみたいなもんだし。つーか、そのまま流れで付き合えたらって思ってたし」
「えっ」
予想外の言葉に彼は目を丸くして顔を上げた。その表情がいつもよりあどけなくて思わず苦笑する。
「ココって意外と鈍感だよな。まぁ、赤音しか見えてないから仕方ねぇか」
「……イヌピー……、オレ……その……」
懺悔の言葉を探しているかのように彷徨う九井の視線はついに地面に落ちて、斬首を待つ罪人のように項垂れる。
きっと、青宗を避けているこの期間、彼なりに色々と考えていたのだろう。
九井の様子からして青宗に赤音の面影を重ねていたことは明白だ。これまでどんな気持ちで一緒にいてくれたかなんてのは知らないけれど、少なくとも罪悪感を抱いていたことはわかる。それが赤音に対してなのか、青宗に対してなのかはわからない。ただ、そう仕向けたのは他でもない青宗自身だ。
赤音の代わりで良かった。偽りでもいいから好きになってほしかった。そうしなければ手に入れられないって知っていたから。親友としても、恋人としても、彼の隣は全部自分のものじゃなきゃイヤだった。
でも、そのわがままが彼のことを深く悩ませてしまったらしい。
もっと単純明快で、簡単でいいのに。
好きか、好きじゃないか。
赤音に見えるか、見えないか。
彼の全部を手に入れるために、青宗は青宗であることをやめたのだ。
「なぁ、ココ。まだオレが赤音に見えるなら、オレと付き合ってよ」
青宗は九井の両手を取ると、祈りを捧げるかのごとく自身の額を彼の手の甲へ押し当てた。
お願いします、と乞うように深々と頭を下げ、息を止めて彼の返事を待つ。
波の音だけが聞こえる空間に、自分の心音だけが響いていた。このまま心臓が飛び出ちゃうんじゃないかってくらいうるさくて、痛くて、熱くて、それでいて潰れてしまいそうなほど不安だった。
沈黙に彼の緊張した息遣いが混じる。
「……ごめん、オレ……イヌピーのこと、赤音さんに見えない」
「……そっか」
自嘲気味に漏らすと、あぁ、失恋しちゃったんだなって実感がぶわっと体中に広がってじんわりと目頭が熱くなった。わかっていた。いくら顔が似ていても、そっくりに笑えるようになっても、青宗は青宗以外の誰かにはなれない。そうわかってしまったんだ。
悔しい。誰よりも彼のことが好きなのに。彼はそうじゃないんだって事実がただただ悔しかった。胸の奥がつっかえて苦しい。
ゆっくりと首をもたげる。でも、どうしても彼の顔を見ることはできなくて、目を伏せたままそうっと手を離す。すると、今度はその手を九井が掴んだ。離さまいとする力強い手に思わずぱっと顔を上げる。西日に顔を赤くした彼が、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「だって、イヌピーのことが好きだから」
ざぶんっ、と一際大きな波がつま先を濡らす。聞き間違いだったかもしれない。呼吸をするのも忘れて食い入るように彼を見つめ返す。さっきまでうるさかった心臓は嘘みたいに静かで、びっくりしすぎて止まっちゃったかもしれない、なんてぼうっとする頭の片隅で思った。
どこか現実味のない、ぼんやりとしたさざ波のBGMを背景に呆けたように九井を見つめていたら、彼は力の入っていない青宗の手をぎゅっと引き寄せた。
「イヌピー。もしイヌピーがオレのこと好きなら、オレと付き合ってよ」
よろける足元。緊張に強張った九井の顔に水飛沫がかかる。
夏前の冷たい空気が火照った頬を撫でた。
青宗はひと呼吸置いて逃げるように視線を足元へ移す。
「……オレ、男だけど」
「知ってる」
「赤音じゃねぇけど」
「知ってる」
「ココは……赤音じゃなくて、オレが好きってことで、いいのか?」
「そう言ってるだろ」
「……ほんとに?」
震える濡れた声が出たことにびっくりして咄嗟に目元を乱暴に拭う。こんな弱い姿、見せたことないのに。押し潰されそうなくらい苦しくて痛い胸の奥から、どうにも止めようがない感情がせり上がってくる。喉の奥が焼けそうなくらい熱かった。
「オレ……赤音さんのこと、本気で好きだった、と思う。でも、あれから思い出すのイヌピーとのことばっかなんだ。だから……その、すげぇ考えた。わかんなくて。めちゃくちゃ考えた。考えすぎて余計わかんねぇって思ってたけど、今、やっと気づいた」
九井はまだ整理しきれていない己の感情をひとつひとつ、拙いながらもどうにか言葉にして紡ぐ。その声に嘘はない。何でもそつなくこなす彼がこんなにしどろもどろにしゃべるところを見るのは初めてだった。
顔を上げると少しだけぼやける視界の先で金色に光る髪の先が潮風に揺れる。
「オレ、イヌピーが好き。深夜にバイク飛ばして海連れてってくれる男前なとこが好き。地面に這いつくばって野良猫威嚇してるようなアホっぽいとこも好き。しょうもないことで喧嘩する時間も、スゲェくだらねぇことで笑い合える時間も好き。これからもバカやって、オマエとしか過ごせねぇ時間を一緒に生きていきたい」
「ふ……はは。それはたしかに、赤音じゃ無理か」
彼の告白を聞いて青宗はおかしそうに笑った。
赤音の身代わりとして始めた疑似デートのはずだったのに、いつの間にかそれもいつもの二人の時間になっていたのだ。デートっぽいデートをしていたつもりになっていたが、どうやら幼少期から続くバカ騒ぎの延長線みたいな時間を過ごしていたことにようやく気づく。
それじゃあ赤音に見えなくなったって仕方がない。だって、そうだろう。
赤音だったらあの映画を見て泣くだろうし、水族館でチンアナゴって名前をおちょくることもない。バイクに乗ることも、野良猫を威嚇するようなことだってしない。最初から、赤音の身代わりなんてこれっぽっちもできていなかったのだ。
彼女そっくりの笑顔でみてくれは騙せても、赤音そのものに取って代わることはできない。無駄に九井のことをたぶらかしてしまった。もうずっと最初から、青宗は青宗でしかなかったのに。
肩を揺らして泣き笑う青宗に、九井はむず痒そうに唇を尖らせる。
「……で? 返事は?」
答えなんてわかりきってるクセに。それでもまだどこか不安なのかちらちらとこちらの様子を伺う九井がどうにもかわいくって、青宗はニヤニヤと意地悪そうに目を細める。
「いいぜ。付き合ってやるよ。ココ、オレのこと大好きみたいだしな」
「っ……! イヌピーの方がオレのこと好きなくせに!」
「はぁ~? ココの方がオレのこと好きだろ。オレの好きなトコあと百万個言ってみろ」
「そんなに言えるわけねぇだろ!」
「オレは言えるし」
「ウソつけ! このっ!」
わっと飛びかかってきた九井を抱きしめるように受け止めるが、足場の悪い砂浜ではうまく踏ん張りがきかずにそのままどしんっともつれながら倒れ込んでしまう。
ふかふかの温かい砂にまみれて、どちらともなく声を上げて笑った。
いつも通りの、親友としてのやり取り。ふざけ合って、たまに喧嘩して、こうやって笑い合う。でも、今からは親友であり恋人でもある。
腹が痛くなるまで笑ったら、今度はどちらともなくお互い見つめ合って唇を合わせた。不思議なくらい自然と、まるでそうするべきであるかのように体が動いた。少ししょっぱい、キスの味。
砂のついた手で彼の後頭部をぐっと引き寄せて、もう一度触れるだけのキスをする。九井の鼻にかかった声が漏れてゆっくりと唇を離せば、熱っぽい瞳に金色の海がキラキラと反射して綺麗だった。ほんのり色づくまなじりを親指の腹で撫でる。
「……ココ、好き」
「……オレも。イヌピーが好き」
いつもと違う、ちょっぴりざらついた低い声が耳に心地良かった。
これが恋人。親友じゃない彼の表情。好きの響き。温かくて切ない痛みが甘く沁みる。
重なり合った長い影法師を金色の海がざぶんっとさらっていった。
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