【イヌココ】偽りから醒めたら傍にいて

*アテンション*
・最終軸ココ→赤前提イヌココ。
・赤音さんに彼氏ができる(名前なしモブ)
・ココイヌっぽい表現があるかもしれませんがイヌココです。

   ◇

 日がな一日を九井と過ごすのは毎週末のお決まりと言ってもいい。
 小学生の頃は学校が一緒だったからほぼ毎日一緒にいたけれど、中学が分かれてからはこうして休日に会うことが多くなった。
 特に何をするでもないが、することがないから九井と一緒にいるとも言える。
 今日も今日とて何をするでもなく外に繰り出してはのんびりと街中を散策する。陽が高くなる頃合い。隣を歩く九井がいじっていた携帯をポケットに仕舞いながらこちらを振り返った。
「昼何食べるー?」
「んー、なんかガツンとしたモン食いてぇな。味濃いヤツ」
「近くにあんのだとラーメンか牛丼……」
「オレとんこつがいいー」
「家系しかねーけどそこでいい?」
「おー」
 どこへ行こうか。今日はゲーセンで遊ぼうか。その前に腹が減ったかも。などと、どうでもいい会話をしながら成り行きで今日の昼飯を決める。いつもファストフード店やファミレスが多いからラーメンを食べるのは久々かもしれない。味玉トッピングしようかなぁ、いや家系ならほうれん草を追加してもいい、なんて考えていたら余計に腹が減ってきた。もうこの口はすっかり家系ラーメンを迎える準備ができている。
「そういや預けてたメダルあと何枚残ってっかなー」
 ふとそんなことを思い出して彼の方を振り向いた。が、隣には誰もいない。きょろきょろを周りを見渡すと三歩後ろにそっぽを向いてぽつんと立っている九井がいた。急に立ち止まってどこを見ているんだ、と彼の視線の先を追いかけるとオシャレなカフェが一軒。
『木こりのお店』なんていう愛らしい看板が掛かっている。樹木のオブジェと所々アクセントにあしらわれた緑がいかにもな感じだ。
 客層も女性がメインのようだが、誰か知り合いでもいたのだろうか。
「どした?」
 青宗は九井の隣まで戻ると一緒になって店内の様子を伺う。しかし、青宗の見知った顔はいない。だとすれば気になるメニューでもあるのだろうかと店先の立て看板を覗き込む。そこには『大人気!』という宣伝文句と共にクマの顔を模したチョコレートケーキの写真が全面に載っていた。
「あ、いや。別にィ」
 青宗の声にハッと我に返った九井は取り繕うようにポケットの中に両手を突っ込む。ちょっとだけ上ずった声。そして、どこかで見たことあるようなこのケーキ。
 そこでようやく思い出した。この店、赤音と三人でテレビを見てた時に話題になってた店に似ている。というか多分そうだと思う。
 行列のできるくまさんケーキのお店、なんて紹介されていたが、今では客足も落ち着いているのか行列はできていない。まぁ数ヶ月前の話だし、世のミーハーたちは別のカワイイスイーツに夢中なのだろう。それでも店内は混み合っているようで、何組かのグループがレジ付近にある椅子に座って案内を待っていた。
 客層の7割は若い女の子。残りの3割はカップルといったところか。どう見たってイカつい野郎二人が入れるような雰囲気ではない。
 もしかして、と青宗はじとーっと九井を横目で見る。
「そういやこの店、赤音が行きてぇって言ってたな」
 そう言えば九井はぴくりと片眉を上げた。どうやら正解だったようだ。よくそんな些細なことまで覚えているもんだと感心するが、彼のことだからどうせこれまでも赤音がなんとなしに言ったことを逐一メモにでも取っているんだろう。赤音と恋人になったら行きたい場所とか、赤音が好きなものとか、そういうの全部。
 さっさと告白すればいいものを、この男は「もっと大人になってから」なんて言って関係が進展することもない。見てるこっちがイライラするのだ。とっととフられてしまえば、こっちだってアプローチのしようがあるのに。
「やっぱケーキ食おうぜ」
 青宗は九井の手を取ると迷わずカフェに一歩踏み出す。
「えっ? ラーメンは?」
「気が変わった」
 そんなのウソ。全然、今でもこの口はラーメンを今か今かと待っている。
 だけどなんだか無性に腹立たしかったのだ。せっかく二人で一緒にラーメンを食おうと話していたのに、もう忘れてしまっていてもおかしくないような些細なケーキのことを気にしている彼にイラついた。今一緒にいる自分よりも、記憶の中にいる彼女の方が大きな存在だって言われているような気がして。
 カランコロン。涼しげな音と共に店内に入ると、愛想のいい店員さんが「こちらに座ってお待ちください」とメニュー表をひとつ渡してきた。
 案内に従って空いた椅子に腰掛け、こじゃれたメニュー表を開く。九井は少し居心地悪そうに小さく縮こまると静かにちょこんと青宗の隣に座った。周りが女子だらけという環境に委縮しているらしい。別に、男子禁制でもないんだからそんな気にすることもないのに。
「ココ何食いたい?」
 ソワソワした様子の彼に開いたメニュー表を寄せる。九井はこちらに頭を傾けて上から下へと視線を滑らせて何を食べようかと吟味し始めた。
「えーと……あ、パスタとかもあんのか」
「ほんとだ。ピザとかドリアもあるし、結構色々あんだな」
「このランチセットとか結構いいかも。足りなかったら単品でピザ頼んでもいいし」
 彼の声を聞きながらランチセットの詳細内容をじっくり読んでいく。パスタとサラダとスープ。デザートのケーキは全部で3種類から選べるのだが、300円追加すればこの店の看板商品であるくまさんケーキに変更できるらしい。ドリンクはメニュー表の右側の一覧から選べて、こちらも課金オプションで選べるドリンクが増える仕様だ。自由度の高いランチセットである。
 青宗はくまさんケーキの写真を指差してちらりと九井の様子を伺う。
「デザート、プラス300円であのクマケーキにできるってよ。食う?」
「えー……オレはいいかなぁ……」
 おや、と無言で瞬きを繰り返す。てっきり、赤音が食べたがっていたケーキだから九井も食べたいんだと思っていたが、どうやらそうじゃないらしい。
 だとすればアレか。将来赤音と恋人同士になった時の妄想でもしていたのか。告白する勇気はないクセに脳内シミュレーションはいっちょ前ってか。
 そう思い至って己の心の奥でムクムクといたずら心が顔を出す。
「ふーん……じゃあオレが食おうかな」
「えっ。イヌピーこういうの好きだっけ……?」
「……今日はなんとなくそういう気分なだけ」
 これもウソ。全然、チョコレートケーキよりもショートケーキが食べたいですケド。と心の中でぼやくと同時に店員さんから声がかかる。窓際のこじんまりとした席に案内されると同時にランチセットを二人分注文した。
 ランチが運ばれてくるまでの間、親とか教師の愚痴とか、最近隣の学校のあのヤンキーに絡まれたとか、そんなことを話していると待ち時間もあっという間に過ぎていった。二人分のランチセットが並ぶと机の上はもういっぱいで、ドリンクとデザートは食後に運ばれてくるシステムらしい。
 大きな皿へ上品に盛り付けられたパスタはすごく少なく見えるが、いざ食べてみると意外と食べ応えがあった。でも満腹には程遠くて、やっぱりピザも頼んでおけば良かったかもなぁなんてフォークを咥えながら目の前の九井を見やると、彼はおかしそうに目を細めてそうっとこちらに耳打ちしてくる。
「でもこの机にはピザ乗らなかったよな」
 その言葉に顔を突き合わせてお互い噛み締めるように笑った。たしかに、今の状態ではどこにもピザを置くスペースはない。そもそも、普通のありふれた女の子ってヤツはこれっぽっちのランチセットで満腹になってしまうんだろう。やっぱり場違いだよなぁってまた小声で笑い合った。
 すべての皿がからっぽになると、程よいタイミングで店員さんがドリンクとデザートを運んできてくれた。綺麗に片付けられた目の前にかわいいくまさんのケーキが鎮座する。茶色いドーム型のチョコレートの表面にクマの顔が描かれていて、中はスポンジケーキのようだ。
 プラス300円の価値はあるだろうか。九井の目の前に置かれたショートケーキよりもちょっと大きく見える。
「思ったよりデケェ」
 くるくると皿を回して彼の方にクマの顔を向けると、大きさを比較できるようにケーキの乗った皿を自分の顔の横に持ってきてみせた。そこではたと、いや、比べるなら顔同士じゃなくてケーキ同士で比べるものだろう、と気づいて思わずふふっとはにかむ。
 ひとりで何やってんだか、と九井の反応を伺うが、彼はどこか呆けた顔でこちらをじっと見ていた。
「ココ?」
「あっ、う、うん。そうだな」
 ハッと我に返ったようにアイスティーにささったストローを咥える彼はどこか焦った様子で、耳の先がほんのちょっぴり赤かった。
 あ。この感じ。この顔。知ってる。

 今、オレのこと見て赤音のこと思い出しただろ。

 そう思ってさぁっと腹の底が冷えていく感覚がした。
 もう何年、赤音に恋し続けている彼のことを見てきたと思っているんだ。
 自分ではよくわからないけれど、姉弟なんだからそれなりに似ている部分もあるんだと思う。実際、親戚のおばちゃんなんかには「お姉ちゃんにそっくりねぇ」なんて言われるし。
 でも、だからって。それはないんじゃないか。
 今一緒にいるのは青宗であって赤音じゃない。なのに、この顔を見て赤音のことを思い出すのは、それは反則じゃないのか。
 青宗は皿を机の上に置いてニコニコと笑っているクマの後頭部にフォークを突き刺す。
 赤音との思い出になるはずだった時間を横取りしてしまおうなんて、そんな意地悪なことを考えてしまったからバチが当たったんだ。どう足掻いたって彼が恋しているのは赤音で、自分は友達のうちのひとりでしかない。最初から取って代わるなんてできやしないのに。
 ……いや、できるかもしれない。
 ぱくり、とひとくちケーキを頬張る。ほろ苦いチョコの染みたスポンジと甘いクリームが口の中に広がった。
 青宗はパリパリと薄いチョコを噛み砕きながらもう一度フォークの先でケーキをひとくちサイズに切り分ける。
「ココもひとくち食えよ」
 ずいっと九井の目の前にフォークを差し出すと、彼は、おいおいマジかよ、という目で辺りをきょろきょろと見渡した。
 ただでさえ浮いているというのに、ヤンキーが二人、こんな女子ウケするカフェでくまさんケーキを分け合っている、なんて奇妙な光景、目立つに決まっている。
 それでも青宗は「ん」とさらにフォークの先を彼の唇に近づけた。周りの視線が気になるのだろうか、彼は固く口を閉ざしたままクッと顎を引いてじぃっとこちらを睨む。これは友達としての目。青宗を見ている目。
 青宗は小首を傾げてふっと柔らかく微笑んだ。するとどうだ、彼はまたぽうっと耳の先を赤くして口をへの字に曲げている。分かりやすい。どうやら朗らかに笑った顔が似ているらしい。日々生活する中で穏やかな笑顔を浮かべる瞬間はそう多くない故に気づかなかった。
 彼は変な汗を額に浮かべながら逡巡した後、ぱくりとフォークの先を咥えた。ゆっくりとフォークを引き抜きながら小さな声で問いかける。
「おいしい?」
 九井は無言でこくんっと首を縦に振った。上目遣いでこちらを伺う彼の目は赤音を見る目。恋する少年の顔だ。途端に、赤音に対する嫉妬心がめらりと燃え上がる。しかし、この顔が赤音に似ているのだとしたら、それを最大限利用すればいいだけの話じゃないか。
 九井は恥ずかしさを誤魔化すようにまたちゅうっとアイスティーを飲み、いそいそとショートケーキを食べ始めた。まだほんのりと耳の先が赤い。
 青宗は窓に映る自分の顔を眺める。ふっと軽く微笑んでみたが、どう見たって赤音に似ているとは思えない。どこをどう見たら、この顔が赤音に見えるのか。それは他人にしかわからないのかもしれない。このチョコレートケーキも、赤音とデートしたらこんな感じなんだろうなって思いながら食べたんだろうか。それはやっぱり嫉妬してしまう。でも、そうでもしなければ彼とこんな時間を過ごすこともなかったわけで。
 複雑な感情を甘すぎるケーキと一緒に紅茶で流し込むと、半分に欠けたくまさんケーキの隣にころんっとイチゴが転がってきた。ぱっと顔を上げると九井が目を細めて口角を上げる。
「イヌピーイチゴ好きだろ。やるよ」
 ショートケーキのてっぺんにある、たったひとつしかないイチゴ。ショートケーキの主役と言ってもいい部分。それをくれるなんて、というじんわりとした嬉しさと一緒に、その優しさは赤音に向けられたものかもしれないという悔しさがついてきて喉の奥が熱くなった。言葉がつっかえて出てこないような、そんな感覚。
 黙ったまま白いクリームのついたイチゴを凝視していると、九井がぷっと吹き出した。
「なんだよ、変な顔して」
「んー……紅茶って変な味だな」
「えぇ?」
 けらけらと笑う彼は“恋する少年”と“友達”の狭間にいるような顔をしていた。
 今、彼の目の前にいる自分はどっちなんだろう。赤音か、それとも青宗か。
 そして、自分はどっちになりたいんだろう。恋人か、それとも親友か。
 もし恋人になれるならそれに越したことはないが、この方法では赤音の身代わりでしかない。そんなトリックアートみたいな恋愛ってアリなんだろうか。それで己の心は満たされるのだろうか。それだったら親友のままでいた方がまだマシなんじゃないだろうか。でも、今のままじゃ満足できない自分もいる。
 答えの出ない自問を繰り返してイチゴにフォークを突き刺す。口に放り込むとじゅわりとした酸味が舌に染みた。甘味を感じないのはチョコの甘さに慣れてしまったせいだろうか。いつもより酸っぱいイチゴを飲み込むと、腹の奥がしゅわっと冷えた。

   ◇

 それから、赤音と行きたいんだろうなって場所を先回りして見つけてはそれとなしに九井を疑似デートに誘ってみることにした。
「コレ、今流行ってるヤツ」
 そう言って春に新しく公開された映画を観に行った。余命数ヶ月の女子高校生の恋愛模様を描いた作品で、めちゃくちゃ感動するとか泣けるとからしく今世間で大ブームになっている。彼氏役の俳優が空港で主人公の女の子を抱きかかえて泣き叫ぶ姿が印象的だと、テレビでよくそのシーンが流れてるっけ。映画を見たことがないおじさんでさえタイトルを知っているくらいには有名な作品だ。
 流行りの恋愛物の映画、なんてカップルはもちろん、やはり客層は女性が多い。シアターに入った九井はこれまた居心地悪そうにしてたが、映画が始まるとそれも気にならなくなるくらいには食い入るようにスクリーンを観ていた。
 病気の女の子を連れて飛行機に乗ろうなんて無茶をする彼氏に全然感情移入できなくて、バカだなーくらいしか感想が出てこなかったが、意外にも隣から鼻をすする音が聞こえて少し驚いた。そのせいで途中からはそっちばかりに気を取られてどんなエンディングだったかよく覚えていない。
 映画が終わった後に「泣いてたろ」なんてからかってみたけれど、彼がそれを素直に認めることはなかった。

 夏になると涼しさを求めて水族館に誘ってみた。水中を歩いてるような体験ができるドーム型水槽の通路には二人して年甲斐もなくはしゃいだ。暗い照明が続くゾーンではうつらうつらと眠気が襲ってきたが、部屋を出てペンギンソフトなる白黒のアイスを食べながら散歩するペンギンを眺めていたら眠気なんてものはいつの間にか吹き飛んでいた。
 ちびっ子が群がる水槽には砂から顔を出す奇妙な生き物がいた。下の方に生き物の名前が書いてあって、思わず「おいココ、チンアナゴだってよ。チンアナゴ」とニヤニヤしながら彼を振り返ったらぺしっと後頭部を叩かれてしまった。さすがに今のは周りの小学生よりもガキっぽかったかもしれない。
 赤音に渡す土産物を探している彼の背中を見ているのは、ちょっぴり苦しかった。

 夏も終わって少し肌寒くなってきた頃、ちょっと遠出してオータムフェスに行った。催事イベント会場では赤レンガ倉庫の近くにある広場の前にたくさんの店が出ていて、様々な秋の味覚が堪能できるようになっている。
 王道の焼き芋から始まり、かぼちゃのコロッケやマロンシェイクなど。惣菜からスイーツまで多種多様な品揃えでそれなりに長い時間うろついていた気がする。芋などの腹に溜まりやすい食材がメインなこともあって早々に満腹になった青宗とは反対に、九井があれもこれもと楽しげに店を見て回るからだ。そんな細い体にどんだけ入るんだよ、なんてもう何度思ったかわからない。
「相変わらずよく食うな」と言えば、彼はどこか自慢気に鼻を鳴らした。

 冬はバイクを流すにも寒くて、たまにはどっちかの家でゲームでもするか、なんて話しながら家路を歩いていると、どこからか猫の鳴き声が聞こえてきた。
 ミーミーと、か細い声の方へふらふらと歩いていくと、公園の奥にある茂みに猫が5匹ほど身を寄せ合って暖を取っていた。
「おー、猫も集会とかすんのか」
「猫集会?」
 人馴れしているのか猫たちは特に逃げる様子もなく、むしろ何か食い物を持っているなら寄こせと言わんばかりにこちらに向かって鳴いてくる。子猫と成猫の中間くらいの大きさの猫たちは、こちらの衣服に穴が開くのもお構いなしに体をよじ登ってきた。
「わっ、バカ!」
 太ももに張り付いた猫を剝がして地面に置いてやるとなぜかシャーッと威嚇される。こっちは最大限の配慮をしてやったというのに何だその態度は、とムキになって地面に伏せて猫と同じ目線でギッと睨みつける。
「バカはオマエだバカ」
 呆れ半分の九井の声と一緒に、こつんっとげんこつが落ちてきて渋々起き上がった。猫たちはミーミーと周りをうろついて離れる気配はない。仕方なく二人で地面の上にあぐらをかくと、九井の膝の間で1匹の黒猫がのそりのそりと丸くなる。それを皮切りに、ぼくも、ぼくも、と言わんばかりに他の猫も彼の膝の中へと吸い込まれて行って、数十秒後には立派な猫鍋が完成していた。猫同士身を寄せ合っている方が温かいから自然とそうなったのかもしれないが、反対に青宗の膝では閑古鳥が鳴いている。
「ココの膝、マタタビでも仕込んでんのか」
「んなわけねぇだろ」
 ほとほと困り果てたように浅く息を吐く彼は、言葉に反して穏やかな表情をしていた。丸くなった黒猫の頭を九井がそうっと撫でると、ぐるぐると喉を鳴らす音が聞こえる。そして金色の目を細めて満足そうにニャアとひと鳴きした。どうやらお気に召したらしい。
「猫、あったけー……」
 マフラーに口元を隠しながらぼそりと呟く彼はどこか眠たそうに目を細めた。それが膝の上の黒猫と重なって見えてなんだかムズムズしてくる。
 黒いのと、白と黒のブチのと、それから三毛っぽいのもいる。兄弟なのかどうなのかはわからないが、どうにも彼が六匹目の兄弟猫に見えてしまうのだ。
「ふ、はは。ウケる」
「何ひとりでウケてんだよ」
 猫をびっくりさせないようにくつくつと笑いを嚙み締めていると九井がこれまた小声で返してくる。猫を抱えているせいで身動きが取れないのもまた、彼らしくなくて余計におもしろいというか。
「さみぃからオレも混ざろ」
「テメェは猫じゃねぇだろ」
 猫で暖が取れたらいいのだが、生憎彼の膝に入り込む余地はない。青宗は九井の背後に回るとぴたりと背中をくっつけた。じんわりとした温もりが心地良い。膝も背中も温かくなったせいか、九井はうつらうつらと舟を漕ぎ始める。左右に揺れる後頭部にぐりぐりと自身の頭を擦りつけるとハッと彼の体が跳ねた。それがまたおかしくって肩を震わせていると、ごちんっと後頭部に鋭い衝撃が走る。お互い後頭部を押さえて、でも猫がびっくりしないように静かに痛みに耐えていると自然と笑いが込み上げてきた。こんなどうでもいいことでどうしてこんなにおもしろがってるんだってのも相まって、もうしばらくはこのトンチキな状態をどうにかするのは難しそうだった。笑い声は出てないのに笑いすぎてお腹の底がじんわりと熱い。冬なのに体中がぽかぽかしていた。肺に沁みる乾いた空気が気持ちいい。
 結局、この日猫たちから解放されたのは陽が落ちてからだった。

   ◇

 あれから二度目の春がやってきた。世の中は平和ボケなんて言葉が似合うくらいにのんびりとした空気が漂っていて、歩いているのに眠ってしまいそうなくらいうららかな陽気に包まれていた。
 いつものように九井と二人で遊びに出かけ、小腹が空いたなんて言いながらコンビニの前にバイクを停めて買い食いをする。そんな、なんてことない日常の一コマに差す影がふたつ。
「あれ、青宗?」
 コンビニから出てバイクのハンドルを握ると同時に名前を呼ばれる。聞きなれた声にぱっと振り返ると、そこには赤音が立っていた。生活圏が同じだし、たまたまコンビニの駐車場で鉢合わせることだってあるだろう。それに関してはさほど不思議でもない。彼女の一歩後ろにいるイレギュラーな存在を除いては。
「……あ?」
 顔の中心にキュッと力を入れながら彼女の背後に立つ男を睨み上げる。青宗よりも頭一つ分大きいだろうか。眼鏡をかけたひょろりと背の高い男は吹けば飛びそうなほど弱々しかった。青宗は持ったままのハンドルを隣にいた九井に預け、ずこずことその男との距離を縮める。傍からはヤンキーに絡まれるガリ勉クンに見えなくもないだろう。こちらの圧に押されてじりじりと後退する男を庇うように、赤音はぽんっと青宗の肩を叩いた。
「もう、やめてよ。怖がってるでしょ」
 誠に遺憾ながら、我が姉は世間的に言えば美人の部類に入るようで、それなりに変な虫がつきやすい。それを知ったのは彼女がバイト先からの帰宅時に青宗に送り迎えをお願いしてきた時だ。なんでも変な客に付きまとわれていたんだとか。青宗が一緒に歩くようになってからは1ヶ月ほどでその男の気配もなくなったが、そういった男関係のトラブルが半年に1回はあった。
 今回もまた変なストーカーに纏わりつかれているのかと思ったが、彼女の口ぶりからしてどうやらそうではないらしい。だとすれば同じ大学の人だろうか。赤音の交友関係はそこまで詳しくないが、こんな男バイト先にはいなかったし。
「コイツ、赤音の友達?」
 警戒心を解いてじろりと男を下から覗き込む。すると、耳を疑うような答えが聞こえてきた。
「あっ、えっと……彼氏、です」
 一瞬、時が止まったかと思った。
 ゆっくりと赤音の方へ顔を向ければ、彼女は少し照れくさそうに笑った。いや、弟に彼氏を紹介するのがちょっぴり恥ずかしいのはわかる。身内の恋愛事情なんてそりゃあこっ恥ずかしいだろう。しかし今青宗が聞きたいのはそういうことじゃなくて。
「ハッ……? 赤音、おま……は……?」
 こちらが何か聞き出す前に、背後でガサリとビニール袋が落ちる音が聞こえた。
 息を止めて後ろを振り向く。春だというのに顔を真っ青にした九井が、白い指先に目一杯力を入れてバイクのハンドルを握り締めていた。
「……あ、ごめん、イヌピー。オレ、急用思い出したわ」
 視線を泳がせながら覚束ない足取りでバイクをこちらに引き渡すと、彼は一目散に駆けて行った。
「ココッ!」
 重たいバイクと、コンクリートの上に転がるアイスと、何が何だかわかっていないカップルが一組。
「あ~~、もうっ」
 青宗はガシガシと乱暴に頭を搔き毟るとバイクに跨ってぶおんっとエンジンを吹かす。そのままぐるりと円を描いて彼が走って行った方へと向き直った。何か言いたげにこちらを見ている二人を置いて青宗は手首を捻る。タイヤがコンクリートの上を駆けると同時にぐしゃりとアイスがひしゃげる感触がした。低く嘶きながら白いバイクは狭い道を走る。
 心の中ではよくわからない感情がぐるぐると渦巻いていた。赤音に彼氏ができたことは喜ばしいことなのに、九井のあの表情には酷く心臓が締め付けられた。嬉しいはずなのに悔しい。痛くて悲しいのに興奮している。この感情をどう表現すればいいのかわからない。
 けれど今は、ただただ彼のことを抱きしめたくて仕方なかった。
 バイクを走らせること数十秒。懸命に走る彼の背中に追いついて、そして数メートル先まで追い抜いてから地面に足を付けた。
 青宗に気づいた九井は全速力で駆けていた足を次第に緩めていく。ぱたぱたと力ない足音がエンジン音に紛れた。肩で息をする彼の額からぶわっと汗が吹き出して、そうしてへなへなと地面に崩れ落ちた。青宗は道脇にバイクを停めると彼の前にしゃがみ込む。
「ココ……」
 ゼェゼェと心配になるくらい心許ない呼吸音。額から流れる汗が地面に黒いシミをつくった。上下に揺れる肩に手を伸ばす。だが、その手は彼に触れる前にピタリと止まった。戸惑う指先はきゅうっと拳を作ってゆっくりと地面へと垂れていく。
 抱きしめたくて追いかけて来たはずなのに、急に怖気づいてしまったのだ。自分には彼を慰める権利なんかない気がして、ただじっと彼の側で座っていることしかできない。そんな自分が歯痒かった。
「……な、ケツ乗れよ。どっか遠くまで行こうぜ。赤音がいないとこまで」
 返事はない。ただただ静かに、ぽたりぽたりと汗の落ちる音が遠くのエンジン音に搔き消える。俯いたままの彼は青宗の言葉に数拍遅れてこくんと首を縦に振った。
 そっと手を差し出すと汗ばんだ手が握り返してくる。少し、震えていた。
 彼の手を引いてバイクまで戻ると今度は二人で走り出す。行く当てはない。でも、こういう時どこに行けばいいかはなんとなくわかる。泣きたい時、叫びたい時。人は何か心の内にあるものを吐き出したい時に海へ行く。ドラマやマンガでよくあるお決まりのコースだ。別に行く場所が決まっていないならどこを目的地に定めたっていいだろう。青宗はハンドルを切って海を目指す。
 そういえば、彼と海に行くのは初めてかもしれない。またひとつ思い出ができてしまうなぁ。こんな悲しい思い出にしたくなかったなぁ。そんな小さな切り傷を隠しながら沈みゆく太陽に背を向けた。
 海に着く頃にはすっかり陽も落ちていて、春だというのに身震いするほどに寒かった。
 九井は特に何を言うでもなく砂浜を歩く青宗の後ろをついてきた。誰もいない夜の海辺をふたつの影が無言で歩く。
 海岸は地球の裏側にまで行けてしまいそうなくらいどこまでも続いていて、このまま朝なんて来ないんじゃないかってくらい暗かった。
 ざく、ざく。ざく、ざく。ざく。
 変わらない風景。黒く塗り潰された水平線。ぴたりと歩みを止めると波の音だけが聞こえた。砂浜に勢い良くどすんっと座り込むと、九井は少し目を丸くして、それから黙って青宗の隣に腰を下した。体の右側だけがほんのり温かい。
 映画ではこの後どうしてたっけ。泣いてる好きな子を海まで連れてって、それから。抱きしめたり、キスしたりするんだっけ。でも、彼とはそういうんじゃないし。慰めの言葉をかけようにも、そんな言葉は持ち合わせていないし、かと言って「赤音なんて忘れちまえよ」なんて言えるほど勇敢でもない。
 所詮映画はただのエンタメで、フィクションで、都合のいい妄想の世界なんだ。これが恋愛映画だったら、今、告白したりとかできたのかなぁ。
「……オレさぁ」
 沈黙を破る低い声にびくりと体が跳ねる。隣で体を丸める九井は、じっと海を見つめながら独り言でもこぼすように滔々と語り始めた。
「小学生の時、赤音さんに1回告白してんだよね」
「……えっ⁉」
 思いもよらぬ言葉に大きな声が出た。今、地球から1センチくらい浮いた気がする。九井は青宗の大袈裟なまでの反応にくつくつと笑いを噛み締めて肩を揺らした。青宗はごくりと生唾を飲み込んで、神妙な面持ちで問いかける。
「……ふられたのか」
「フラれてねぇ」
 じゃあなんで付き合ってないんだ、と言いかけた言葉を飲み込む。よくよく考えなくても、自分が小学生だった頃は付き合うとか付き合わないとかそんなマセた話はあまりしなかった。付き合いたくて告白するというよりは、お互い両想いだったら嬉しい、みたいな、そういう感じだったと思う。
「大人になるまで待ってるって、言われた」
「……あー……そういう……」
 九井の言わんとすることを理解してしまい背中が丸くなる。
 大人と子供。そう、高校生なんて半分大人みたいなものだ。対して小学生なんて心身共に正真正銘の子供である。子供から大人への好きの言葉なんて、告白としてカウントしてもらえるかさえあやしいところだ。大きくなったら忘れてしまう「私、将来パパのお嫁さんになる」的なアレと同じ類のものだと受け取られてもおかしくない。
 だから彼女はあえてその言葉を選んだのだろう。大人ならそういう気遣いだってする。子供ながらにも本気で告白してきた少年の心を傷つけない、最大限の配慮。
 けれどもこの男は、バカ正直に、律儀に、真っ直ぐにその言葉を信じてしまった。彼女の言葉を忘れることなくずっと抱えて今日この日まで生きてしまったのだ。
「赤音さん、大学生だし。美人だし。彼氏くらいいてもおかしくねぇよな。何年も前のガキの戯言なんか覚えてるわけねぇし。それに、オレ……まだ、子供だし」
 尻すぼみになっていく言葉は黒い波にざぶんと飲み込まれていった。
 大人と子供の距離はそう簡単に縮まらない。まだ自分たちは親の保護下におかれている、ひとりでは何もできない子供でしかなかった。大人はこんな時間にひとりで外出していてもまったく問題ないのに、子供だったらすごく怒られてしまう。何をするにも『子供だから』が枕詞についてしまうくらいには、不自由で、不便で、不平等で、窮屈なお年頃を生きているのだ。
「もっとはやく、大人になりたかったなぁ」
 濡れた瞳で天上を見上げる九井の鼻先はほんのり赤い。寒さに震える白い息が溶けていく。朧気な月明かりに縁取られた彼の横顔が黒い景色の中でくっきりと浮かび上がっていた。
 大人になるまであと数年が遠すぎる。先にひとりで大人になっていく彼女を、彼はどんな気持ちで追いかけていたのだろうか。一生縮むことのないこの距離を、たったひとつの言葉をお守りみたいに握り締めて、今でもまだ彼女の背中を見つめているのだろうか。
 九井はこちらに肩を預けて遠慮なしに体重をかけてくる。少ししょっぱい海の空気を肺いっぱいに吸い込んで息を止めると、意地悪そうに細まった彼の目がきょろりとこちらを見上げた。
「つーか、海とかベタすぎ。ドラマか?」
「……うるせーな。思いつかなかったんだよ」
 さっきまでこの世を憂うような顔をしていたくせに、もうすっかりいつもの調子だ。失恋の傷がそう簡単に癒えるはずない。これじゃあ、まるでこっちが気を遣われているみたいじゃないか。子供なんだから、もっと子供っぽく振舞えばいいのに。
「ココこそ、ベタに海に向かって叫んでもいいんだぜ」
「んなことしねーよ」
「じゃあ泣いとくか?」
「誰が」
「じゃあ……」
 こつん、と九井の額に自分の額を押し当てた。驚いたように目を丸くする彼の瞳がじっとこちらを見つめる。
「あんなヤツやめて、オレにしとく……?」
 低くざらついた声で囁くと、急に喉の奥が熱くなって口の中が乾いた。
 あと数センチ。彼が少しでも頷けば今すぐに奪える距離にいる。けれど、この数センチを縮めるには何もかもが足りていない。彼の目に映る自身の顔が酷く臆病に見えた。
「とか、言ってやろうか?」
 ドラマみてぇに、と付け加えれば、彼は止めていた息を大きく吐き出して顔を赤くした。
「バッカじゃねーの!」
 ばしんっと力強い平手が青宗の背中を叩く。九井はすっくと立ち上がるとズボンについた砂をぱたぱたとはたき落とした。
「つーか喉乾いた」
「どっか近くに自販機あんだろ」
「腹も減った」
「じゃあコンビニか」
「アイス食い損なったし」
「ココが落としてったんだろ」
 二人分の足跡がついた砂浜を辿りながら、白く浮かぶバイクに向かって海岸沿いを歩き始める。夜空に浮かんだ月はどこまでも後をついてきて、少年たちの心許ない足元を照らしていた。
 冷たい風を切って少年たちを乗せたバイクは海から遠ざかる。
 街中から離れた場所にもコンビニはあるもので、広い駐車場には人っ子ひとりいなかった。適当にバイクを停めるとしんとした静寂に包まれる。青宗はバイクから降りる気配のない九井をくるりと振り返った。
「何食う?」
「んー……イヌピーに任せる」
「え、一緒に行かねぇの?」
「うん。待ってっからオレのも適当に買ってきてよ。財布預けてるだろ」
「……わかった」
 どうやら、ひとりになりたいらしい。強がってみてるもののやっぱり相当堪えているのだろう。
 青宗はひとりで店内に入ると、店員の気だるげな挨拶を背に飲食物の置いてあるコーナーへ進む。喉が乾いたと言っていたから適当にジュース、いや、彼は甘いものよりもお茶やコーヒーが好きだ。あと、寒いからアイスよりは温かい物の方がいいだろう。ペットボトル飲料を2本手に取って、それからスカスカの商品棚を物色する。時間も時間だし、場所も場所だし、ロクな物が残っていない。しばし迷って、カップラーメンを2つ持ってレジに立つ。ついでに売れ残っていた適当なホットスナックも一緒に買った。
 コンビニに常備されているポットからカップ麵にお湯を入れて外に出ると、ぶわっと頬が冷える。まだ少しだけ空気にしょっぱさが混じっているのは海が近いからだろうか。
 寒かったのか、九井はバイクの側で丸くなって手を擦り合わせていた。
「ココ」
「おー……めっちゃ腹減るにおい」
「しょうゆとシーフード、どっちがいい?」
「カレー」
「バカ」
 こつん、と足の先で彼のつま先を軽く蹴ると彼はけらけらと笑った。お湯をこぼさないようにゆっくりと彼の隣に腰掛ける。
「ウソウソ、しょうゆ」
「じゃあシーフードな」
「聞けよ」
「カレーとか言うヤツにしょうゆはもったいねぇ」
「なんだよそれ」
 そんなやり取りをしながらも赤い方のカップを渡してやると、彼は目を細めて「サンキュ」と言った。ビニール袋から割り箸を取り出して、コンクリートの上にペットボトルを置けば立派な晩餐会場の出来上がりだ。カップ麵のフタを開けるとシーフードのいいにおいがしてぐぅっと腹が鳴る。
 まだ少しだけ硬い麵をほぐして豪快にすすった。空腹の体に塩気が沁みる。内側から温かくなっていくこの感じを幸せと表現するのかもしれない。
「うまぁ」
 ひとくち、ふたくちと食べていくうちに麵をすする音が聞こえなくなってちらりと隣を見やれば、彼は静かに大粒の涙を流しながら口いっぱいの麵をゆっくりと咀嚼していた。
 一瞬ぎょっとしたものの、同時に安心してしまった。だって、さっきまでの彼はどこか無理して大人っぽく振舞っていた気がしたから。大人だって失恋したら泣くし、子供ならなおのこと、もっと大声で駄々こねたっていいんだ。
「やっぱ泣くんじゃん」
「うるせーな。見てんじゃねーよ」
「カミチキあるけど食う?」
「……食う」
 寒空の下、好きな子と深夜のコンビニ駐車場で食べるカップラーメンはいつもよりしょっぱくて、なんだか特別な味がした。
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