【イヌココ+ココ赤】恋を待たぬ少年、春を駆ける

   ◇

 “次の土曜日、家で一緒に勉強しない?”
 一通のメールを受け取ってすぐに了承の返事を送る。
 大学受験を控えているというのに、赤音は以前よりも九井に頻繁にメールをくれるようになった。別に恋人同士というわけではないが、共に過ごす時間は増えた気がする。デートらしいデートをしたわけでもないし、二人で一緒にすることなんて勉強か読書くらいではあるが、それでも受験生という多忙な時期にこうして九井との時間を少しでも作ってくれようとする彼女の気持ちは純粋に嬉しかった。
 誰かと一緒に勉強する方が捗るから、と彼女は言うが、それは九井でなくともいいはずだ。受験生ならなおのこと、同い年の子と一緒に勉強した方がいいに決まっている。それなのに彼女がこうして九井を誘ってくるのは、やはりこの火傷痕のせいだろうか。
 くるぶしからふくらはぎにかけて所々茶色く変色した足。変色と言ったってそこまで目立つものでもない。なんなら日焼けした皮が剥けてる時の方が目立つ。負傷した当初はそれなりに痛みもしたが、今ではすっかり完治してなんともないし、大仰に心配してもらうような傷痕でもない。ただ、この傷が赤音を救出した際にできたものだという一点が彼女を気に病ませているのだろう。
 いくら九井が「気にしないで」と言ったところで、本人にとってはそう簡単な話でもあるまい。九井に誠意を尽くすことを義務のように感じていないか心配であるが、それをどう本人に伝えればいいのかもわからない。言葉を尽くせば尽くすほど、彼女を追い詰めてしまいそうで。
 それに、彼女が本当に忖度なく九井を好いていてくれているのであれば、九井の気遣いは逆に彼女を傷つけてしまうだろう。人の心は難しいものである。
「あ」
 学校からの帰り道。30メートルほど先に見知った背中を見つけて駆け出す。あと5メートル、というところまで近づくと足音に気づいた彼がぱっとこちらを振り返った。
「イヌピー! 今帰り?」
「おー」
 隣に並んで歩幅を合わせて歩く。気だるげに鞄を肩にかけて歩く彼はチラチラと周りを見渡した後、こてん、と首を傾げて九井の様子を伺う。
「ココは今から図書館か?」
「え? なんで?」
「赤音、今日寄ってくって言ってたから」
「今日遅くなるってさっきメールあった。代わりに土曜日一緒に勉強する約束したから今日はこのまま帰るとこだったんだけど……」
 少し冷たい秋風が青宗の髪の毛をふわふわと攫っていく。目線の少し上にある色素の薄い睫毛がぱちぱちと瞬いて、小学生の頃までは九井の方が少し勝っていた身長がいつの間にか追い越されていたことに気づいた。
「な、今からイヌピーん家遊びに行っていい?」
「あ? 赤音帰り遅くなるんだろ?」
「イヌピーと遊ぶのに赤音さんカンケーなくね?」
 二言目には赤音の名を出す彼に九井はムッと眉間に皺を寄せる。
 もちろん赤音のことは好きだ。だが、青宗と一緒に過ごす時間だって大事なのだ。彼は何かと九井と赤音がうまくいくようにと取り計らってくれているような振舞いをする。別に、青宗に恋の応援を頼んだわけではない。これは彼なりの優しさで気遣いなのだろうが、だからと言って青宗との時間が減るのは嫌だった。
「なぁ、イヌピー」
「オレ真一郎くんのトコ行きてぇからまた今度な」
 ぴしゃりと言い放たれて思わず口を噤む。ここまであからさまに距離を置かれてしまうと、もはや赤音のことはただの口実で、本当は九井のことを避けているのではないかとさえ思ってしまう。何か気に障るようなことをしてしまっただろうか。ただ彼と一緒の時間を過ごしたいだけなのに、それさえも難しいことなのだろうか。
「そっか……じゃあオレもついてこーかなー……」
「ココ、バイクのことわかんねーだろ」
「わかんねーけどさぁ」
 しつこく食い下がっているとぴたりと青宗の歩みが止まる。どこか怒ったような顔の彼が一歩先で立ち止まった九井を睨んだ。
「オマエさぁ、オレ誘うくらいなら赤音のこと誘えよ」
「え……?」
「オマエらがよく一緒に勉強してんのは知ってっけど、二人で遊びに行ったりとかしたことねーだろ」
「あー……まぁ、たしかに……?」
「ちんたらしてっと他の男に取られちまうぞ」
「他の男って」
「……ッ、もっと必死になれっつってんだよ……! ココは、バカみてぇに赤音が好きで、赤音のことだけ見てて、もう……ずっと、……ずっと赤音だけだったじゃねぇか……」
 くしゃりと歪む彼の顔に九井はどうしていいかわからずただ青宗を見つめてその場に立ち尽くす。あまりにも彼が一生懸命で、悔しそうだから。どうして彼が九井のためにここまで必死になっているのかわからなかった。他人の恋は所詮他人のものだ。実らなくて悲しむのも、苦しむのも本人だけ。他人とは分かち合えない痛み。なのに、どうして彼はそんなに辛そうなのだろう。
「イヌピー……?」
「……オマエが…………っ、じゃなきゃ……オレ……」
 赤くなった鼻先にぐっと力を入れた青宗は九井を無視して大股出歩き出す。九井を追い越し、そのままずんずんと彼を置いてけぼりにして逃げるように帰路を進んで行く。
「イヌピー」
「うっせー。ついてくんな」
 慌てて青宗の後ろをついて行こうとするが、突き放されるようにそう言われてしまいそれ以上彼を追いかけることはできなかった。ぽつんと立ち尽くして彼の背が小さくなっていくのをじっと見つめながら、彼が苦しそうに吐き出した言葉を頭の中で反芻する。
 あの言い草も、あの態度も。どこか腑に落ちない部分がある。そう、まるで――
「はじめくん?」
 名前を呼ばれて弾かれるように振り返ると赤音が立っていた。彼女も少し驚いたような顔をしているが、ふっと朗らかに微笑むと九井の側まで近づいてくる。
「赤音さん……」
「奇遇だね。今日帰り遅くなったから会えないと思ってた」
 隣に並ぶ彼女はじっと九井を上目遣いで見つめてくる。自分より少し低い所にある彼女の長い睫毛がゆくりと瞬いた。
「私、これから図書館に行くんだけど、はじめくんも一緒に行く?」
「……オレ、は……」
 彼女の優しい声。いつもならすぐに返事をしただろうが、今は青宗のことが気になって仕方がない。本当は今すぐにでも彼を追いかけたい。でも、彼はそんなこと望んでいない。
 彼の気持ちを汲むなら、今、九井が返すべき答えは。
「……うん。一緒に行こうかな」
 そう答えると赤音はにこりと笑って九井の手を引く。青宗がひとりで消えていった方とは別の道を、彼女と二人で歩く。少しだけ足が重い。
「じゃあ、今日はちょっとだけ勉強して帰ろ。青宗にもね、はじめくんとの時間もっと作れって言われちゃって」
「赤音さん受験生なのに」
「そうやって気を遣うからーって。青宗ったらなんでもお見通しよね」
 彼女のまぁるい目が細まって桜色の唇が弧を描いた。
 青宗は、九井に対して「もっと必死になれ」と言ったように赤音にも同じようなことを言っていたのだろう。
 彼は二人の仲を取り持とうと必死になっている。赤音もそれに応えようとしている。二人をそうさせてしまっているのは自分なのだろうか。この傷痕のせいなのだろうか。それとも、これは彼らの真に純粋な気持ちなのだろうか。
 考えれば考えるほどわからなくなる。彼女の気持ちも、彼の気持ちも。本心はどこにあって彼らは九井に何を望んでいるのか。彼らが本当に笑えているのかさえわからない。
 赤音を助けたかった。ただそれだけだ。ただそれだけなのに、九井の行動も、青宗の言葉も、赤音の気持ちも、まるで方程式に代入されるxとyみたいに役割が決まっている。数式の答えがひとつしか存在しないのと同じように、ただひとつしかない正しい未来に向かって進んでいくための要因として自分たちが存在しているような、そんな感覚。
 選択肢は無限にあって、可能性も、その先の未来も自分で選べるはずなのに。定められた未来のために生きるのは窮屈だ。それでも、その道から外れてやろうという踏ん切りがつかないのは、ひとえに九井自身が赤音のことも青宗のことも大事にしたいと強く思うが故だ。二人の気持ちを無下にしたくない。誰かのことを慮るということは、自分の気持ちを抑え込むということなのかもしれない。
 青宗の本心も、赤音の本心も、九井には見えない。見えないから、見えているものでしか判断ができない。
「……じゃあ今度さ、勉強の息抜きにちょっと出かけようよ」
「え、いいの? 嬉しい。たまには羽伸ばさないとって思ってたの」
「じゃあどこ行きたいか考えといてよ。オレ、頑張ってエスコートする」
「えー、はじめくん、大人みたい」
「ちょっとは大人になったかも」
 ふっと笑うと彼女も笑顔を返してくれた。
 観たい映画があったとか、行ってみたい雑貨屋さんがあったとか、新しくできたカフェのケーキがおいしそうだったとか。まるで恋人同士がデートの行先を決めるような会話をしながら図書館への道を進む。
 彼女との初めてのデートらしいデート。本来であれば飛び跳ねるくらい嬉しいはずなのに、胸の奥にかかるモヤモヤが晴れることはなかった。

   ◇

 11月。短い秋が終わり、来たる冬に備えて衣替えを終えた今日この頃。九井は冷える首元をマフラーで包みながらひとり校門前で赤音を待っていた。
 まばらに生徒たちが下校していくこの時間。他の生徒たちにチラチラと見られながら制服のポケットに手を突っ込んで暖を取る。
 この時期になると受験生たちは最後の追い込み期間に入る。自主学習だけでなく、学校の先生にも色々教えを乞うたりしているのか赤音と共に図書館に行く回数は減り、今では放課後に同じ帰り道を歩くのが日課となった。
 それと言うのも、赤音と初めてデートらしいデートをしてからは九井自身も赤音との時間を一番に優先するようになったからだ。少しでも彼女と一緒にいられる時間をつくろうとして自然とこうなった。明確に「じゃあ付き合いましょう」なんてやり取りがあったわけではないが、そういう肩書がないだけでこの距離感は恋人同士のソレに近いと思う。恋人なんていたことないが。
 ただ、恋人同士がするようなキスやハグはしたことがない。手を繋いで、デートして。じゃあ、その次は? それっぽい雰囲気がまったくなかったわけじゃない。けれど、お互いその次の段階に踏み込めずにいる。付き合うにはまだはやいとか、受験が終わってからとか、もう少し大人になったらとか。それっぽい理由をつけて逃げているだけ。
 臆病なだけと言えばまだ可愛げがあるかもしれないが、結局、好きっぽいのに好きっぽくないのだ。お互いに。それを隠して恋人っぽい関係に収まっている。恋愛の教科書があるなら『これは恋人として模範解答だろう』みたいな行動をして安心している。恋人っぽいのに全然恋人にはなれない。そんな関係。
 ぼうっと校門を眺めていると校舎から赤音が駆けてくるのが見えた。そんなに走ったら危ないよ、なんて思いながらも彼女に手を振る。いつもより少しぎこちない笑顔。一歩、二歩、と校門に近づくと、こちらに向かう赤音を引き留める人物が現れた。
 名前を呼ばれて立ち止まる彼女。それを追いかける男子生徒。二人は少し話をしてすぐに離れた。赤音は気まずそうに校門を出る。
「はじめくん、お待たせ」
「ううん」
 ちらりと赤音の背後に視線をやると、先ほどの男子生徒と目が合った。言いたいことを言えずにぐっと我慢しているような、何とも言えないぶすくれ顔である。
「行こっか」
「うん」
 九井は男から視線を外すと赤音の隣に並んで歩幅を合わせて歩き始めた。
「寒いね~」
「もう冬だもんね。赤音さん、模試どうだった?」
「あのね! この前の模試A判定だったの!」
 赤音はぱっと笑顔でこちらを振り向いた。よほど嬉しかったのか、彼女はいつもよりも少し早口に言葉を続ける。
「たまたまクラスに同じ大学目指してる子がいてね、その子塾に通ってて、私にも色々教えてくれて……」
 なるほど、それで最近帰るのが遅かったのか。同じクラスに共闘できる仲間がいるのは心強いことだが、受験生は仲間であると同時にライバルでもある。自身が塾で得た情報も惜しみなく赤音に共有してくれるなんてとんでもなくいいヤツだ。ただの善人か、あるいは。
 九井はすっと目を細め、彼女の赤らんだ横顔を盗み見る。
「……ね、その人ってさっきの人?」
「えっ」
 わかりやすく動揺する彼女に、やっぱり、と心の中で小さく苦笑する。
 彼女が自分以外の男と放課後よく一緒に勉強をしていたというのに嫉妬心は微塵もなく、むしろどこかほっとしてしまった。それが己の本心なのだろう。
 九井はいたずらっぽく笑うと赤音を下から覗き込む。
「なんかオレ、スゲー睨まれたんだけど。さっき何話してたの?」
「……え、と……その……一緒に勉強、してたんだけど……、帰り際に……こっ、告白、されて……」
 怒っている風などない九井の様子を見て、赤音はおどおどしながらも正直に白状する。じんわりと耳の先が赤くなっていく彼女はいつもよりちょっぴり幼く見えて、いつもよりとびきりにかわいかった。
 あの男もこんな顔の彼女を見たら、そりゃあ九井のことを睨みもするか。
「OKしたの?」
「ううん! 断ったの! でも、もう一回よく考えてみてほしいって言われて……」
 必死に弁明するがだんだん尻すぼみになる彼女の言葉に隠しきれぬ恋の予感を察知する。推測するに、おそらく教室かどこかで一緒に勉強をした後、そのまま告白されて逃げるように校舎を出たが男が諦めきれずに追いかけてきたのだろう。それが先ほどの校門前での出来事だ。
 誰にも取られたくなくて、必死になって追いかけて、プライドもなく歳下の男を牽制する。傍から見たらダサいと言われるかもしれない。けれど、ただ恋に一直線なあの男が少し羨ましかった。
「ふぅん。ソイツ赤音さんのこと大好きなんだね」
「ぅ……、そ、そう、かな……」
 赤音は照れ隠しでもするように前髪を撫でる。困ったような恥ずかしいような顔をして指先で前髪を整える彼女を、九井は愛しそうに見つめた。
「赤音さんも実はソイツのこと好きでしょ?」
「えっ」
「わかるよ。オレ、赤音さんと付き合い長いし。いいじゃん、付き合いなよ」
「え……? でも……」
 好き同士なのに付き合わない理由。
 もちろん、まだ早いとか、受験が終わってからとか、それっぽい理由を挙げようと思えばいくらだって挙げられる。九井と赤音がそうであったように。けれど、それはあくまでの自分たちの間柄はそうだったというだけの話だ。彼と赤音はそうじゃない。それくらい九井にだってわかる。
「オレさぁ、赤音さんにいっこ謝らなきゃいけないことがあるんだ」
「なに?」
「オレ、小学生の頃さ、赤音さんのこと一生好きって言ったじゃん」
「うん」
「もちろん赤音さんのこと一生好きだよ。でも、それって恋愛とはちょっと違ってたかもしれない」
 自分で言ってちくり、と胸が痛む。これは嘘。彼女を好きだった気持ちは本物だ。小学生の頃の自分は彼女だけが好きで、彼女だけを見ていた。狭い世界の中で憧れとも呼べる対象が彼女しかいなかったからだ。
 だが、世界は九井が思っていたよりもずっと広くて、過去にも未来にも繋がっていることを知った。
「よくあるじゃん。将来大きくなったらパパと結婚するー、みたいなの。多分、アレに近いと思う」
 大人になったら彼女と付き合うんだって漠然と思っていた子供時代。今でもまだ九井は子供のままだけれど、あれから少し大人になって、誰かのことを想えるようになった今となっては、好きな人の幸せを願うこともまた、ひとつの愛の形だと気づかされた。あのどうしようもない世話焼きの幼馴染が九井にそうしてくれたように。
「赤音さんもそうじゃない? オレのこと、好きだけど好きじゃないでしょ」
「……なんか難しいこと言うね。大人みたい」
「もうすぐ大人になるよ、オレ」
 そう言って笑えば赤音は寂しそうに微笑んだ。一足先に大人になった彼女へ、これから大人になる少年の精一杯の背伸びだと思ってくれるだろうか。
「オレら、無理して恋愛しようとしてたよね。ごめん」
「……ううん。私、ほんとにはじめくんのこと大好きなの。大好きだから、傷つけたくなかったの」
「知ってる。そういう赤音さんの優しいところ、オレも大好きだよ」
 たしかに恋だったはずの気持ちはいつの間にか愛になっていた。二人の間にあるのは友愛にも家族愛にも似た誰かを想う心。想うが故に恋であり続けようとした。けれど、互いの恋心はそれをよしとしなかった。
 赤音には未来へ続く新しい想いが、九井には過去から持ち越した途絶えぬ想いがある。
「ねぇ、オレも好きな人いるんだけど聞いてくれる?」
 九井は内緒話をするように赤音にそうっと身を寄せた。

   ◇

 春。無事に志望大学への合格を決めた赤音は、その後例の男と正式に付き合うことにしたらしい。彼も今年の4月から同じ大学に通うと言うのだから、楽しいキャンパスライフになるだろう。
 桜が咲き誇る彼女からの報告メールに、九井はお祝いの言葉をしたためると共に『もし泣かされたりしたらすぐ言ってね。オレが絶対許さないから』と添えて返信した。文面からでも彼女が喜んでいるのが伝わってきて九井も嬉しくなる。できることなら彼女がおばあちゃんになるまで見守っていたい。きっとかわいいおばあちゃんになるだろうな、なんて思っていると何やら自宅の玄関先が騒がしくなった。
 ドタバタと慌ただしい足音が近づいて、壊れるんじゃないかってくらいの勢いで自室の扉が開く。扉の先には息を切らした青宗。走って来たのか顔も真っ赤だ。
「ココ……! どういうことだよ……!」
「何が」
「赤音のこと!」
 半ばコケるように九井の目の前に滑り込んで来る彼に、九井は吞気に「あー」と返す。赤音本人から彼氏ができたことを聞いたのだろう。この様子だと赤音に何か強い言葉を言っていないか心配だ。何せ、九井と赤音が結ばれることを誰よりも強く願っていたのは青宗だろうから。
「赤音さん、同じクラスの男子と付き合いだしたんだろ? オレも聞いた」
「なっ、んでそんな落ち着いてんだよ……! オマッ……! ……アァッ?」
 まるで他人事のような態度の九井に青宗は酷く混乱した様子で詰め寄って来る。汗が滴るほど急いでやって来た彼の赤い頬に手の甲をぴたりと添えてやると、そのひんやりとした感触に青宗は目を細めた。
「赤音さんとソイツ両想いなんだろ? 別に付き合ったっておかしくねぇじゃん」
「……っ、だから意味わかんねぇんだろ……オマエらだってどう見ても両想いだったろうが……」
 ため息にも似た長い呼吸。自分たちに恋人っぽい関係だった自覚があるように、彼の目にもそう見えていた。その中に温かい感情がまったくなかったわけではない。九井も、赤音も、お互いのことを大事に思っていて、同じように青宗のことも大切に思っていた。だから自分たちは、彼にとって正しくあろうとしたのだ。
「そういう瞬間もあったのかもな。でも、結局オレらは両想いにはなれなかった」
「……っ、ココはそれでいいのかよ……オマエ、ずっと赤音のこと好きだったくせに……」
 “好き”という気持ちを表す時、人は“恋”とひとことで言ってしまうが、それを明確に恋であると定義するのは難しい。“好き”と“恋”はすごく似ているものの、その中には「これは恋だ」と思い込もうとする人もいるだろうし“好き”を“恋”だと勘違いしたまま生涯を終える人だっているかもしれない。
 誰かが誰かに恋をするのはすごく稀で、その中で両想いになるのはもっと難しい。
 瞬きの間さえも惜しいくらい相手のことだけを見ていたいと思う。そんな奇跡みたいな一瞬を生きる彼女のことを邪魔するつもりもないし、九井自身も決して長くはないこの一瞬を後悔なく生きたい。
「うん。意外と平気っつーかなんつーか……ほんとは、ちゃんと諦めたかっただけなのかも」
「あ?」
「オレ、赤音さんをずっと好きでいなきゃいけない、みたいな、変な固定概念に縛られてただけだったなって。前の人生ではさ、オレはずっと赤音さんが好きで、この人生でもそうじゃなきゃいけないんだろうなって思ってた。でも、こうやって赤音さんがいる人生を歩んでみて改めて思ったんだ。オレは、前の人生を生きたオレも含めて今のオレなんだって」
「……まさか、オマエ……いつから……」
 青宗の瞳が揺らめく。
 九井はやはりそうだったかと言うようにふっと笑った。彼に過去の記憶があるように、九井にもまた、過去の記憶がある。お互いどれくらいの記憶を有しているのかはあずかり知らぬが、少なくとも、過去の九井は赤音のことが好きで、青宗はそれを知った上で九井と共に生きたという過去は共通認識のようだ。その記憶さえあれば、この想いは届くだろう。
「オレ、赤音さんとの約束に縛られてばっかで、オマエの気持ちを考えるどころか自分の気持ちにすら正直になれなくて、イヌピーのこといっぱい傷つけてたと思う。そんなオレと一緒に生きてくれたんだよな、オマエは」
「……ココ」
 青宗は僅かに震える指先で自身の頬の火照りを宥める九井の手を掴んだ。まだ全身に忙しなく血が巡っているようで九井の手が冷たく感じる。
 この手を取れなかった過去も、この手を握ったまま何も言えなかった過去も、全部この心が覚えている。何度生きても、ただ彼のことが好きだと変わらず叫ぶこの想いが、痛いほどせり上がってくるのだ。
「この人生は花垣がくれたチャンスだったんだ。アイツが背中を押してくれたからオレは赤音さんを助けられた。それで褒められたかったわけでも、見返りが欲しかったわけでもない。オレはオレのリベンジを果たしただけ。赤音さんを救えなかったっつー後悔とか、未練とか、しがらみとか。そういうの全部取っ払って、胸を張ってオマエの隣にいたかった。オレは……ただの乾青宗が好きな、ただの九井一になりたかったんだ」
 とめどなく溢れる涙が九井の手の甲を濡らす。火照った頬はどうにも冷めることはなくて、それどことか、鼻も、耳も、頭の後ろまでじんわりと熱くなっていった。
 掴んだままの手を強く握り締めると、九井は困ったようにはにかむ。
「やっぱオレ、この世界でもイヌピーのことが好きみたい」
 くしゃりと顔を歪めると同時に九井にしがみついて声を押し殺して泣いた。
 恋だの愛だのは難しくて複雑でよくわからない。わからないけれど、己の幸福など二の次で構わないと思えるほど愛しく思う。それを恋と定義するのか愛と呼ぶのか、そんな些末なこと考える余裕などなく、ただ、今は彼のことが好きだということで胸がいっぱいだった。
「イヌピーは? この人生じゃ、オレのこと好きじゃない?」
「バカ。オレもずっとココが好きだ。その前の、その前の前も、そのもっと前からも、ずっと、ココだけが好きだ」
 いたずらっぽく笑う九井の胸ぐらを掴み、おでことおでこをくっつけてはっきりと言い放つ。鼻声で格好悪いけど、こちらをまっすぐに見つめる彼の目は窓の外の桜を反射して眩いくらいに華やいでいた。
 九井はそんな青宗の後頭部をぐっと引き寄せ、赤くなった鼻先を擦り合わせた。
「……で? この人生でも黒龍やんの?」
「……やる!」
「じゃあ大寿んとこカチコミ行くか!」
 桜の花びらが散る住宅街を駆け抜けて新しい春を祝う。
 変わったこと、変わらないもの。生きた過去も諦めた未来もすべてを背負い込んで歩くにはこの体はまだ幼い。だからと言ってすべてを手放せるほど強くもいられなかった。
 過去を思い出して辛くなることも、泣きたくなることも、彼のことを信じられなくなる瞬間もあるだろう。それでも、彼と共に生きたというこの記憶が大切な宝物であることに変わりはない。
 これから生きる未来が、二人にとってかけがえのない光となるように。
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