【イヌココ+ココ赤】その傷を愛と名づけた
◇
25歳。春。
ようやくこの時が来た、と九井は玄関の前で深呼吸を繰り返した。
実に10年ぶり、くらいになるだろうか。九井が赤音にフられてから。九井に言った通り、彼女は大学を卒業後に県外へ引っ越した。
落ち込みはしたものの、大人の男になるべくへこたれている時間はない。
そんな九井の運命を大きく左右したのは卍天黒大決戦の後。東京卍會所属の稀咲鉄太との出会いだった。
まさか不良にここまで頭の切れるヤツがいるとは、と意気投合。話をしているうちに仲が深まり大学卒業のタイミングで一緒に会社を立ち上げた。
いい大学に行っていい会社に就職して堅実な道を歩むという将来設計は、この1人の男との出会いで覆る。漠然と、彼とならできる、と思った。
ベンチャー企業は軌道に乗るまでが大変だ。もちろん、軌道に乗ってからも油断はできないが。
険しい道のりを進む途中、やはり堅実な道を歩む方が良かっただろうか、今からでも引き返そうか、と思った夜もあった。よれよれの九井に青宗がコンビニ飯を届けてくれたことも数えきれないくらいある。それでも、すべてを投げ出したくなった時、九井を支えてくれたのは「折れねぇ心があれば未来は変えられる」と教えてくれた夢の中の彼の言葉だった。
稀咲となら絶対やれる。できる。そう確信して今を選んだ過去の自分に後悔がないよう、進むしかない。がむしゃらに働いていると何のために今日を生きているのかわからなくなる時もある。その度に、遠くの地で頑張っている彼女を思い出すと、あぁ、やっぱりまだ好きだなぁ。と思って、また少し気力が戻る。
幸せを掴むための道のりは思っていたよりも険しい。こんだけ頑張ったって、その先にあるのが本当に幸せかどうかなんてわからないのに。それでも、選ぶのは自分だから。
「緊張しすぎじゃね? 赤音だぜ?」
「赤音さんだから緊張するんだろ!」
扉の前でインターホンを押すか押さまいかうんうん唸る九井の隣で青宗はわざとらしいため息を吐く。
赤音へのプロポーズをリベンジするにあたり、悩んだ末、九井は青宗に協力を仰いだ。
なぜなら、彼女が引っ越した先の住所を知らなかったからだ。彼女の家族に聞き出し単身会いに行くこともできたが、さすがにそれは怖いだろうと弟である彼に同行を頼むことにしたのだ。
もちろん、九井が赤音の元へ行くその理由も、青宗ならば言わずともわかるだろう。
それでも彼は快く引き受けてくれたし、なんなら今日この日に行くとアポまで取ってくれていた。
持つべきものはマブダチである。
「あー、日が暮れるわもう」
人差し指を彷徨わせる九井を尻目に、青宗はインターホンを押した。軽い呼び鈴の音がして、スピーカーから雑音がする。青宗はずいっとカメラに顔を近づけた。
『あっ、青宗』
「来た」
『開けるね~』
短いやり取り。久々に聞く彼女の声。口から心臓がまろび出そうだ。あわあわと衣服を整えたり前髪をいじったりしていると青宗がばんっと背中を叩く。いやもう、だって勝手に押すから。こっちはまだぜんぜん、心の準備とかできてなくて。でも時間は止まってくれない。そうこうしているうちにガチャリ、と扉が開いた。
「えっ…………はじめくん……?」
ラフな格好の彼女はびっくりしたように目を丸くしてぽかんとこちらを見ていたが、すぐにサッと顔を隠した。
今日の彼女は化粧をしていないようで、左側には痛々しい火傷の痕が見えていた。
アポは取っておいたはずなのに、なんかへんだ。と青宗を伺う。
「あ、今日ココも一緒だから」
「今言う!?」
どうやら九井が同行するということまでは伝えていなかったらしい。
思わず青宗の肩を小突いたら、赤音がくすくすと笑った。
してやられた気分だが、心なしか緊張もほぐれた気がする。
偶然なのか、わざとなのか。
九井は咳払いをして赤音に向き直った。
「えっと、今日来たのは、その。オレ、もっかい赤音さんに告白したくて」
「……うん」
「10年後も、やっぱ、オレ……赤音さんのこと好きだったし、たぶん、あと10年後も……好き、だと思う」
だから、えっと。
準備してきたはずの言葉がうまく出てこない。なんて言おうと思っていたのか忘れてしまった。あぁ、情けない。
ただ、この10年間も赤音のことが好きだった。それだけだった。立派な大人になって、彼女の前に自信を持って立ちたかった。
でも、この気持ちがうまく伝わらなかったら。彼女を不安な気持ちにさせてしまったら。どうすればこの気持ちが伝わるのか、10年経っても適切な言葉は見つからない。
「……ココ、しつけーよな」
不意に青宗が口を開いた。
赤音は顔を隠したまま、火傷の痕が見えないように俯いている。青宗は構わず言葉を続けた。
「でもさ、罪悪感? とか、責任感? みたいなもんだけで、10年もおんなじ女のケツ追っかけたりできねーって、オレは思う。ほんとに好きなんだろ、赤音のこと。オレもココのこと好きだから、よくわかる」
どき、として青宗の方を振り向くが、彼はただ真っ直ぐに赤音を見つめていた。
その静かな横顔はずいぶんと大人っぽくて、まるで、自分の知らない青宗みたいだった。
「あと、ねーちゃんのことも好きだから。よくわかるよ、オレ。赤音がどうしたいのか」
沈黙が落ちる。
赤音の表情は見えない。その白い手の下で、どんな顔をしているのか。何を思って、彼の言葉を聞いていたのか。
不安は拭えない。またフられるかもしれない。
でも、九井ができることと言えば、しつこく彼女を好きでいることだけで。
赤音は小さく息を吸うと、震える声で答える。
「……もう、なんで教えておいてくれなかったの。はじめくんが来るって。そしたら、私……」
ゆっくりと顔を上げた彼女の丸い目からぼろぼろと大粒の涙が流れる。
「私、もっとかわいい服着て待ってたのに」
おしゃれも、恋愛も、ぜんぶ諦めていた彼女が、そう言ってくれたことが嬉しくて。
九井は抱きしめたくなる気持ちを抑えて、真っ直ぐに手を伸ばし頭を下げた。
「赤音さん。オレと付き合ってください」
「はいっ」
差し出した手を掴まれる。柔らかい感触。ぱっと顔を上げると、ずっと見たかった彼女の笑顔があった。何年越しの初恋だ。体の奥がぶわっと熱くなる。
「あークソ。ココに先越されたぁ」
隣で青宗が後頭部を搔きながら悔しそうにぼやく。
彼は怒っているのか笑っているのかよくわからない顔で手を差し出してくる。
「おめでと。ココ」
「……ありがと、イヌピー」
右手は赤音の手を、左手は青宗の手を握って、なんだか妙な三角形ができた。なんだろう、これは。どういう状況なんだろう。そう思っているのは九井だけじゃないようで、赤音が肩を震わせて笑えば、つられて青宗も笑い出して。おかしくなって三人で笑ってたらご近所さんにうるさいって怒られて慌てて家の中に入った。ほんとに、なにしてるんだろうって、家の中でまた笑った。
三人でひとしきり泣き笑ったら、今後の話をしよう。幸せな未来の話を。
最初は、彼女の顔にある傷を消すために金を稼ぎ始めた。
今ではその傷を消すことだってできる。けれど、その傷が消えたからってこの愛がなくなることはない。もちろん、彼女がこのままでも構わないと言うならそれでもいい。
彼女の顔に傷があろうがなかろうが、九井の気持ちが変わることはないのだ。
ただ、彼女が笑える未来を選択してくれれば。
あの火事の日の選択が後悔にならなければ、今はきっと幸せと呼べるのかもしれない。
諦めるなと言ってくれた彼の見たかった未来は、もうすぐそこまで来ている。そんな気がした。
25歳。春。
ようやくこの時が来た、と九井は玄関の前で深呼吸を繰り返した。
実に10年ぶり、くらいになるだろうか。九井が赤音にフられてから。九井に言った通り、彼女は大学を卒業後に県外へ引っ越した。
落ち込みはしたものの、大人の男になるべくへこたれている時間はない。
そんな九井の運命を大きく左右したのは卍天黒大決戦の後。東京卍會所属の稀咲鉄太との出会いだった。
まさか不良にここまで頭の切れるヤツがいるとは、と意気投合。話をしているうちに仲が深まり大学卒業のタイミングで一緒に会社を立ち上げた。
いい大学に行っていい会社に就職して堅実な道を歩むという将来設計は、この1人の男との出会いで覆る。漠然と、彼とならできる、と思った。
ベンチャー企業は軌道に乗るまでが大変だ。もちろん、軌道に乗ってからも油断はできないが。
険しい道のりを進む途中、やはり堅実な道を歩む方が良かっただろうか、今からでも引き返そうか、と思った夜もあった。よれよれの九井に青宗がコンビニ飯を届けてくれたことも数えきれないくらいある。それでも、すべてを投げ出したくなった時、九井を支えてくれたのは「折れねぇ心があれば未来は変えられる」と教えてくれた夢の中の彼の言葉だった。
稀咲となら絶対やれる。できる。そう確信して今を選んだ過去の自分に後悔がないよう、進むしかない。がむしゃらに働いていると何のために今日を生きているのかわからなくなる時もある。その度に、遠くの地で頑張っている彼女を思い出すと、あぁ、やっぱりまだ好きだなぁ。と思って、また少し気力が戻る。
幸せを掴むための道のりは思っていたよりも険しい。こんだけ頑張ったって、その先にあるのが本当に幸せかどうかなんてわからないのに。それでも、選ぶのは自分だから。
「緊張しすぎじゃね? 赤音だぜ?」
「赤音さんだから緊張するんだろ!」
扉の前でインターホンを押すか押さまいかうんうん唸る九井の隣で青宗はわざとらしいため息を吐く。
赤音へのプロポーズをリベンジするにあたり、悩んだ末、九井は青宗に協力を仰いだ。
なぜなら、彼女が引っ越した先の住所を知らなかったからだ。彼女の家族に聞き出し単身会いに行くこともできたが、さすがにそれは怖いだろうと弟である彼に同行を頼むことにしたのだ。
もちろん、九井が赤音の元へ行くその理由も、青宗ならば言わずともわかるだろう。
それでも彼は快く引き受けてくれたし、なんなら今日この日に行くとアポまで取ってくれていた。
持つべきものはマブダチである。
「あー、日が暮れるわもう」
人差し指を彷徨わせる九井を尻目に、青宗はインターホンを押した。軽い呼び鈴の音がして、スピーカーから雑音がする。青宗はずいっとカメラに顔を近づけた。
『あっ、青宗』
「来た」
『開けるね~』
短いやり取り。久々に聞く彼女の声。口から心臓がまろび出そうだ。あわあわと衣服を整えたり前髪をいじったりしていると青宗がばんっと背中を叩く。いやもう、だって勝手に押すから。こっちはまだぜんぜん、心の準備とかできてなくて。でも時間は止まってくれない。そうこうしているうちにガチャリ、と扉が開いた。
「えっ…………はじめくん……?」
ラフな格好の彼女はびっくりしたように目を丸くしてぽかんとこちらを見ていたが、すぐにサッと顔を隠した。
今日の彼女は化粧をしていないようで、左側には痛々しい火傷の痕が見えていた。
アポは取っておいたはずなのに、なんかへんだ。と青宗を伺う。
「あ、今日ココも一緒だから」
「今言う!?」
どうやら九井が同行するということまでは伝えていなかったらしい。
思わず青宗の肩を小突いたら、赤音がくすくすと笑った。
してやられた気分だが、心なしか緊張もほぐれた気がする。
偶然なのか、わざとなのか。
九井は咳払いをして赤音に向き直った。
「えっと、今日来たのは、その。オレ、もっかい赤音さんに告白したくて」
「……うん」
「10年後も、やっぱ、オレ……赤音さんのこと好きだったし、たぶん、あと10年後も……好き、だと思う」
だから、えっと。
準備してきたはずの言葉がうまく出てこない。なんて言おうと思っていたのか忘れてしまった。あぁ、情けない。
ただ、この10年間も赤音のことが好きだった。それだけだった。立派な大人になって、彼女の前に自信を持って立ちたかった。
でも、この気持ちがうまく伝わらなかったら。彼女を不安な気持ちにさせてしまったら。どうすればこの気持ちが伝わるのか、10年経っても適切な言葉は見つからない。
「……ココ、しつけーよな」
不意に青宗が口を開いた。
赤音は顔を隠したまま、火傷の痕が見えないように俯いている。青宗は構わず言葉を続けた。
「でもさ、罪悪感? とか、責任感? みたいなもんだけで、10年もおんなじ女のケツ追っかけたりできねーって、オレは思う。ほんとに好きなんだろ、赤音のこと。オレもココのこと好きだから、よくわかる」
どき、として青宗の方を振り向くが、彼はただ真っ直ぐに赤音を見つめていた。
その静かな横顔はずいぶんと大人っぽくて、まるで、自分の知らない青宗みたいだった。
「あと、ねーちゃんのことも好きだから。よくわかるよ、オレ。赤音がどうしたいのか」
沈黙が落ちる。
赤音の表情は見えない。その白い手の下で、どんな顔をしているのか。何を思って、彼の言葉を聞いていたのか。
不安は拭えない。またフられるかもしれない。
でも、九井ができることと言えば、しつこく彼女を好きでいることだけで。
赤音は小さく息を吸うと、震える声で答える。
「……もう、なんで教えておいてくれなかったの。はじめくんが来るって。そしたら、私……」
ゆっくりと顔を上げた彼女の丸い目からぼろぼろと大粒の涙が流れる。
「私、もっとかわいい服着て待ってたのに」
おしゃれも、恋愛も、ぜんぶ諦めていた彼女が、そう言ってくれたことが嬉しくて。
九井は抱きしめたくなる気持ちを抑えて、真っ直ぐに手を伸ばし頭を下げた。
「赤音さん。オレと付き合ってください」
「はいっ」
差し出した手を掴まれる。柔らかい感触。ぱっと顔を上げると、ずっと見たかった彼女の笑顔があった。何年越しの初恋だ。体の奥がぶわっと熱くなる。
「あークソ。ココに先越されたぁ」
隣で青宗が後頭部を搔きながら悔しそうにぼやく。
彼は怒っているのか笑っているのかよくわからない顔で手を差し出してくる。
「おめでと。ココ」
「……ありがと、イヌピー」
右手は赤音の手を、左手は青宗の手を握って、なんだか妙な三角形ができた。なんだろう、これは。どういう状況なんだろう。そう思っているのは九井だけじゃないようで、赤音が肩を震わせて笑えば、つられて青宗も笑い出して。おかしくなって三人で笑ってたらご近所さんにうるさいって怒られて慌てて家の中に入った。ほんとに、なにしてるんだろうって、家の中でまた笑った。
三人でひとしきり泣き笑ったら、今後の話をしよう。幸せな未来の話を。
最初は、彼女の顔にある傷を消すために金を稼ぎ始めた。
今ではその傷を消すことだってできる。けれど、その傷が消えたからってこの愛がなくなることはない。もちろん、彼女がこのままでも構わないと言うならそれでもいい。
彼女の顔に傷があろうがなかろうが、九井の気持ちが変わることはないのだ。
ただ、彼女が笑える未来を選択してくれれば。
あの火事の日の選択が後悔にならなければ、今はきっと幸せと呼べるのかもしれない。
諦めるなと言ってくれた彼の見たかった未来は、もうすぐそこまで来ている。そんな気がした。
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