【イヌココ+ココ赤】その傷を愛と名づけた
*アテンション*
・最終軸イヌ→ココ赤
・赤音さんに火傷がある
・イヌココはほんのり
◇
「一生好き!」
キラキラと目を輝かせて、赤い頬を夕日で染めて、まだ小さな少年はそう言った。
子供の言うことだから、なんて言ってしまえばそれまでだけれど、今この瞬間、噓偽りなくそう思っていることは、彼の顔を見ればわかる。彼がもう少し大きくなって、恋を恋だと認識できるくらいまで心と体が成長した時、もしかしたら今日のことなんて「子供の頃はさぁ」って、少し恥ずかしい過去の思い出になっているかもしれない。
それでも、今は。ぎゅっと拳を握りしめてしっかりとこちらを見上げる彼の気持ちに向き合ってあげるのが、お姉さんとしてできることだと思った。
赤音は九井に見送られて家の中に入ると、彼の精一杯の告白を心の中で反芻してふふっと笑う。少しほっぺたが熱い気がした。
「ただいまぁ」
廊下の先に続くリビングからはテレビゲームの音がする。青宗が宿題もせずにゲームに没頭しているのだろう。赤音が九井と図書館に寄って帰った日はいつもこうだ。
普段なら、このままリビングに行って、への字になった青宗の口から「おかえり」を引き出すまでしつこく構い倒すのだが。今日は、さっきからずっと心の中がざわざわして。
赤音は少し早い歩調で階段を登り自室へと入る。カバンを置いて、勉強机の一番下の引き出しに入れておいた小さなアロマキャンドルを取り出した。箱に入ったままのソレはプレゼント用のリボンがかけられたままだ。もらってから1度も開封していない、誕生日プレゼント。
薄いピンクのリボンを解いて箱を開ける。ふんわりと甘い匂いがした。
『あかねさんへ おたんじょうび おめでとう』
ボールペンで書かれた丁寧な黒い文字。
握りしめられた彼の小さな手が一生懸命したためたのだと思うと頬が緩む。
ガラスの中に入った白いキャンドルはつやつやと輝いていた。何をプレゼントしようか一生懸命考えて、お母さんとも相談したんだろうなぁと思うとそれだけでもう嬉しくて。使うのがもったいなくてずっとしまっておいたキャンドル。今日、初めて火をつけたくなった。
キャンドルライターの先にくゆる灯りを白い芯へ近づけると、ぽうっと火が移った。
あたたかくて小さな火が簡素な勉強机をオレンジ色に彩る。
赤音はその灯をじっと見つめながら、九井のことを思い返す。
一生好き。一生守る。
小学生の言いそうな、何の飾り気のない、ストレートな告白。
約束、と言う彼の一生懸命な顔を思い出すだけで自然と口角が上がってしまう。もう、顔ぜんぶふにゃふにゃだ。
子供にだけゆるされた『一生のお願い』みたいなものだと思う。一生、なんて簡単に言うけれど、一生ものの約束を守るなんて到底現実的ではない。それくらいずっとずーっと好きですよ、という言葉の綾。言葉の綾なんて知らない子供が言う戯れ。
「大人になっても、まだ好きでいてくれるかなぁ。はじめくん」
もう少し大きくなったら、こんな初恋なんて覚えてないくらいたくさんの恋をして、同い年のかわいい女の子と付き合ったりするんだろうなって思うと、ちょっとだけ妬けてしまった。
ゆっくりと燃えるキャンドルからいい香りがして、なんだか眠たくなってきた。なんだっけ、リラックスとか、そういう効果があるんだっけ。
ぱち、ぱち。重たくなる瞼をしばたたかせる。あったかくて、いいにおい。今日はすごく、素敵な日だったなぁ。
赤音は机の上に腕枕を作ってのそりとうつぶせになる。オレンジ色の灯りがぼんやり頬を温めてくれる感覚が心地よい。
そのまま瞼を閉じて、甘い匂いの中をまどろんだ。
◇
次に目を開けると見慣れない白い天井があった。鼻をつくような消毒液の臭い。視線を彷徨わせると、顔のあちこちを黒くした九井が目に涙の膜を張ってこちらを見下ろしていた。
隣のベッドには同じように、少し汚れた青宗が寝ていた。
狭い視界と、ヒリヒリとした痛み。白衣を着た大人たちが右往左往している。次いで紺色の制服を着た大人が数名、両親と共に部屋に入ってきた。
大人たちの話を聞いた赤音は自分の家が火事になったのだと知る。そういえば、ぼやぼやする意識の中、誰かに助けられたような気がするがあまり覚えていない。詳しいことは現在も調査中であるが、出火元は赤音の私室だと見られているらしい。
事故のことは鮮明な記憶がない。けれど、その前のことならよく覚えている。
今日は素敵な日だと思いながらまどろんだあの心地よさを。
この火事は、赤音の不注意で起こしてしまったものだと悟り、焼けた喉で小さく謝罪を繰り返した。
◇
赤音が事故の全貌を知ったのは退院してから少し経ってからだった。
1階にいた青宗は別の少年がすぐに助けてくれたことにより目立った外傷もなく、数日で日常生活に復帰できたが、赤音は出火元の部屋にいたことや青宗よりも救出が遅かったこともあり、顔に傷が残った。あんな近くでキャンドルを見つめていたのだから、一番酷いのが顔なのも理解はできる。だが、はいそうですかと簡単に受け入れられるものでもなかった。
体のあちこちにあった薄い火傷の痕は、長い時間がかかるかもしれないが自然と消えていくらしい。だが、この顔の火傷痕だけは、手術を受けねば一生残ると、担当の医師に言われた。
包帯の取れた、つるりとした赤い肌。まだ少し突っ張るような痛みがある。鏡を見る度、顔の左側が自分のものじゃないみたいで心底気持ちが悪かった。
こんな顔じゃあ、もう。
髪の毛が伸びるまであと何年かかるだろう。髪の毛が伸びる頃には、もう少しマシな顔になっていやしないだろうか。消えてくれないだろうか。
赤音はマスクをして、フレームの太い伊達メガネをかけ、肩掛けカバンを手に家を出る。わざと目元が隠れるくらいにカットしたファッションウィッグも、学校には事前に許可を得た。事情が事情だから、と。憐れまれているのもなんだか居心地が悪い。
まだ、赤音だけが日常に戻れないでいる。
「赤音さん、おはよう」
仮設住宅の前にはランドセルを背負った九井が立っていた。
まさか九井がいるとは露ほども思っておらず、赤音は目を丸くする。そして、パッと下を向いた。
「お、おはよう。はじめくん。どうしたの?」
「今日から赤音さんも学校行くって聞いて、途中まで一緒に行きたくて待ってたんだ」
「学校遅刻しない? 青宗、先行っちゃったよ」
「走って行けば間に合うよ! イヌピーにもあとから行くって言っといた!」
小学校から仮設住宅までは少し遠い。青宗は赤音よりも少し早めに家を出たから、九井が待っていたのは彼ではなく赤音だろう。
嬉しい、けど。いちばん、会いたくなかった。
「そっか。じゃあ……途中まで」
「うん!」
顔の大半部分を隠して学校へ続く道を歩く。九井の歩幅に合わせて、けど、彼が遅刻しないようにほんの少し、急ぎ足で。
「赤音さん、もう学校行って大丈夫なの?」
「うん。でもしばらくは保健室登校にするんだ。ほら、受験もあるし、あんまり休めないし」
「そっか……」
九井は落ち込んだように地面に視線を移す。せっかく助けてもらったのに、こんなことでは彼の恩に報いることもできないだろう。彼の前では明るく振舞いたいのに。でも。どうしたって。
「……ごめんね。オレがもっとはやく助けてれば、赤音さん、こんな嫌な気持ちにならなかったよね」
気落ちした声に赤音はパッと九井の方を見る。ランドセルの肩ベルトをぎゅっと握る彼の足取りは重い。
「そんなことないよ! はじめくんが助けてくれなかったら、私、きっと今頃学校にも行けなかった。もっと酷かったら、死んでたかもしれないもん。はじめくんが助けてくれたから、私、今もはじめくんとこうしておしゃべりできてるんだよ」
「……でも、母さんたちが……女の子なのにかわいそうって……言ってたんだ。それって、赤音さんが嫌な気持ちになってるってことだよね。火傷の痕が、あるから」
「それは……」
この火傷痕のせいで気分が沈んでいるのは事実だ。命が助かっただけありがたいことなのに。でも、命が助かったらその次は元の生活に戻ることを望んでいる自分がいる。教室に行って、友達と普通におしゃべりをして、休日はお気に入りの服を着て、お出かけを楽しむ。そんな日常に。
「……はじめくんが助けてくれたの、私、ほんとに嬉しかったの。ありがとうって100回言っても足りないくらいだよ。それはほんとう。でも……この傷が残らなかったらいいなって思ってるのも、ほんとう」
つり上がった大きな猫目が赤音をじいっと見上げる。きゅっと下唇を噛む小さな歯と、悔しそうに眉間に皺を刻む眉毛。
「でも、それは贅沢言い過ぎって神様に怒られちゃうよ。だからね、はじめくんにはもっと笑ってほしいな」
赤音は九井の眉間を人差し指の腹で優しくさすった。ゆるゆると眉間のしわが薄くなっていくのを確認して、赤音は九井の額から手を離す。もうすぐ分かれ道だ。
「ありがとね、はじめくん。学校遅刻しないようにね」
九井から離れようとした時、彼の小さな柔らかい手が赤音の手を掴んだ。
「オレ! 赤音さんのこと一生好きだから! ずっと!」
「はじめくん……」
「赤音さんが火傷の傷消したいって言うなら、オレが消したげる! 赤音さんのお願いは、ぜんぶ、オレが叶えるから! だから、赤音さんも笑って!」
その必死の訴えに赤音は思わずマスクの上から自分の頬に手を添えた。あの火事の日から、笑った記憶がない。陰鬱とした空気を纏ったまま。この瞬間も、私は不幸な少女です、みたいな顔をして彼に会っていたことに、今になって気づいた。
「じゃないと、オレも、わらえない、から……」
尻すぼみになる声は震えている。自分よりもずっとずっと小さい男の子が、涙を必死に堪えている。赤音の幸せを願って。
「……はじめくんは優しいね」
「赤音さんのことが好きなだけだよ」
九井は泣きそうな顔をして、でも恥ずかしさを隠すようにはにかんだ。
赤音はしゃがみ込んで九井と目線を合わせると、そっとマスクをずらした。赤く醜い肌が空気に触れる。彼の目じりを親指の腹で撫でると少しだけ濡れた。
「じゃあ、はじめくんが大人になるの、私もずっと待ってるね」
まだ少しだけ突っ張る頬。うまく笑えているだろうか。もう、前みたいに綺麗な顔じゃなくなっちゃったけど。この顔でも、まだ好きだと言ってくれるのが、嬉しかった。それがたとえ慰めだったとしても。
「うん。大人になったらね、たくさんお金を稼いで病院代なんか簡単に払えるようになるよ。オレ、中学受験して頭のいい学校に行くんだ。それがいいって父さんも言ってるし。そしたらね、いい大学に行っていい会社に就職できるんだって」
「ふふ。はじめくん、頭いいもんね」
「お医者さんにもなれるかもね」
「わぁ、はじめ先生だ」
「そしたら、オレが赤音さんの火傷消してあげられるから、だからね」
「はじめくん」
必死に言葉を紡ぐ小さな少年を、赤音はぎゅうっと抱きしめる。抱きしめたくなってしまった。あまりにも、まっすぐで、純粋なその姿に胸がいっぱいになって。
体を離すと彼は耳まで赤くしてきゅっと口を閉じていた。さっきまであんなにおしゃべりだったのに、と思わず口元が緩む。
「……学校、遅刻しちゃうから行こっか」
「う、うんっ。 じゃあまたね、赤音さん!」
九井はパタパタと小学校へ続く道を駆けていく。あんなに前のめりに走ったらこけてしまうんじゃないかって少し心配しながら、その背中が見えなくなるまで見送った。
赤音も目の下までマスクをつけ直すと反対の道を進む。憂鬱だった道のりも、ほんの少しだけ心が軽くなった気がした。
◇
青宗は殴られて赤くなった鼻をゴシゴシと擦りながら九井の通う中学校の校門前に立った。
放課後。下校時間。ブレザーを着た生徒たちがじろじろとこちらを見てくるのに、ひとつひとつ丁寧にガンを飛ばし返していると頭にチョップが刺さる。
「コラ。威嚇すんな」
「ココが遅ぇからだぞ」
校則に則り正しく制服を着用する九井と、片や短ランボンタンに改造した制服を着た青宗。おまけに顔には殴られた跡があり、綺麗な金髪も少し乱れていた。傍から見れば不良に絡まれる優等生の図である。
「また喧嘩したのか?」
「ふっ。安心しろ。勝った」
「勝ち負けの話してねーよ」
九井はスクールバッグからポケットティッシュを取り出すと、青宗の鼻の下をごしごしとこすった。どうやら鼻血がついていたらしい。顔ぜんぶが痛くて気づかなかった。
「喧嘩すんなら怪我すんなよ。せっかく赤音さんそっくりのキレーな顔なのに」
「カンケーねーだろ」
青宗は九井の手からティッシュを奪い取ると、ふんっとそっぽを向いて鼻の穴にこよりを突っ込んだ。もう止まってるかもしれないけれど。
「オレ図書館寄って帰るケド、イヌピーは?」
「えぇ、またかよ。ここんとこ毎日図書館行くじゃん。たまにはゲーセン行こ~ぜ~」
コツコツと規則正しい足音を立てて帰り道を歩く九井の後ろを追いかける。
綺麗に手入れされた革靴と、かかとの潰れたスニーカーが並んで同じ歩幅を刻んだ。
「もうすぐ中間だろ。勉強しねぇと」
「つまんなくねぇの? 勉強」
「つまんねーよ。つまんねーけど必要なことだろ」
「なにに?」
「将来に」
「ふぅん?」
将来なんて言われてもよくわからず、青宗はつまらなそうに地面を蹴る。自分が大人になることも、学校じゃなくて会社に行く姿も、まだ全然想像できない。だって、まだほんの中学生なのだ。
なのに九井ときたら。同い年のくせに将来がどうとか言って。頭のいいヤツはもうそんな未来のことまで見据えているのかなぁと、なんだか少し距離があるように感じてしまう。
「な、真一郎くんのトコ行こうぜ」
「話聞いてたのかよ。図書館行くっつってんだろ」
「大人の話聞けばココも考え方変わるって。真一郎くんがバイク屋始めたのさ、まだ19とか20の時だって聞いたぜ! 若いのにスゲーよな!」
「その歳で社長か……」
今まで青宗をあしらっていた九井は、ふと興味を引かれたように青宗の方を振り向く。これはチャンス、と、青宗はこれまでの真一郎の武勇伝を自慢げに彼に話して見せた。しかし、九井が興味があるのは黒龍の歴史でも、バイクの性能でもない。
「でもやっぱさー、金稼ぐにはいい大学出ていい会社に就職するもんだろ? 社長もいいけど、金になんなきゃ意味ねぇしなぁ……」
このままコツコツと手堅い道を歩むか、一念発起して一攫千金を狙うか。九井は脳内であらゆる未来を思い描いている。つまらない。今は将来の話より憧れの男の話がしたい。
「……んだよ。それも全部約束のためか?」
「……それこそ、イヌピーにはカンケーねーだろ」
むすっとした顔で歩みを止めると、数歩先に進んだ九井が足を止めてこちらを振り返った。
「オレは金持ちになるのが将来の夢なんだよ。そんだけ。イヌピーも夢くらいあるだろ。なんだっけ、ナントカドラゴン?」
「黒龍!」
「そうそう、ブラックドラゴン」
青宗の夢は黒龍を復活させること。襲名制の黒龍は数年前にその歴史に幕を下したが、僅か1年で天下統一を果たした初代黒龍は今や不良たちの間で伝説である。当時の総長であった真一郎から黒龍の話を聞くのが、青宗にとって生きがいのひとつでもあった。そしていつしか黒龍の名を背負いたいという小さな野望を抱くようになったのである。
彼のようにかっこいいピカピカのバイクに乗って、かっこいい特攻服をはためかせて、黒いコンクリートの上を風を切って走りたい。だが、その夢は遠くて。
「……あんま言いたくねぇけど、ウチってあんま金に余裕ねーからさ。バイクとか買えねーし」
「あー……うん」
青宗が九井との距離を詰めると、二人は再び足並みを揃えて歩き出した。青宗の家の事情を知っているからこそ、九井も言葉を濁して足を動かす。少しだけ気まずくなった空気を払拭するように九井は声をワントーン上げた。
「てか、そもそも中学生ってまだバイクの免許取れねーじゃん」
「バカ。不良が免許とか気にするかよ」
「不良怖ぇ~」
九井がくつくつと喉を鳴らして笑うのを横から肩をぶつけて小突く。口元を緩ませてやめろだのなんだの言ってくる九井とのやり取りが好きだ。彼と過ごすどうでもいい時間が宝物だ。
けれど、九井はきっとそうじゃない。彼が将来の夢と言って語る未来は全部、彼女のためにある。
この時間も。過去も、未来も。全部。赤音のことを想って過ごしている。
そのことが少し悔しかった。
「……でもさ、やりたいことがあるだけまだ、いいなって。思ってんだ」
「ん?」
「……年頃の女ってさ、化粧してかわいい服着るじゃん。赤音、全部諦めてるんだ。いくらかわいい服着ても、こんな顔じゃ、って」
九井の愛を一身に受けてもなお、彼女はすっかり気落ちしている。気持ちはわからなくもない。顔に大きな傷があるとそれだけで他人の目を引く。ただ傷があるというだけで、途端に異端者扱いされてしまうんだ。けれど、いつまでもそんな態度を取られてしまうとこっちだって辟易としてくる。それに、今でも赤音が好きだと言う九井の気持ちまで拒絶しているような気がして。余計に悔しくなる。
九井自身はそんなこと思っていないのかもしれないけれど。
「いつか、赤音にも夢ができたらいいなって思うんだ」
今は大学生になった彼女であるが、まだ将来の夢らしきものは見つけられていないらしい。それもこれも、あの傷のせいであらゆることをマイナスに考えてしまうからだろう。今が一番楽しい時期だろうに。浮かれた話のひとつも聞かない。
あの頃の、いつも笑っていた姉に戻ってほしい。そして諦めさせてほしいんだ。このどうしようもない片想いを。
「イヌピー」
「ん?」
「黒龍復活、オレにも一枚かませろ」
「…………あ?」
何の脈絡もない九井の言葉に、青宗はたっぷり5秒ほど間を使った後、まぬけな声で返事をした。今は将来の夢の話をしていたのであって黒龍は関係ない。いや、あるか。黒龍復活が青宗の夢だ。だが九井は黒龍復活に興味など微塵もないはずである。一体何がどうなってそういう話になったのか、と青宗は目を細めながら隣を歩く九井を見た。
「オマエの夢もオレの夢も、まとめて叶えてやる」
九井は少し怖い顔をしてギラリと空を睨んでいた。
◇
九井の紹介で柴大寿と出会い、彼を新生黒龍総長に据えてしばらく。
優等生だった二人が今では不良の世界でしっかり名を轟かせている。暴力の大寿と財力の九井だ。知力と暴力があれば自然と財力もついてくるのだからもはや怖いものなしである。
たった三人で立ち上げたチームはそこそこの大所帯になって、関東の暴走族では三本の指に入るくらいのチームになった。初代黒龍が成し遂げた天下統一も、二人がいれば夢じゃないだろう。
集会の後、青宗は九井を家まで送ると自分の家へバイクを走らせた。
時計の針がてっぺんに差し掛かる時間。青宗はしんと寝静まった家の扉を開く。と、リビングにぼんやりと明かりがついていた。
親が起きてたらめんどくさいな、と思いながらリビングの扉を開く。そこには、コップを片手にキッチンに立つ赤音がいた。シンクの上の照明しか点いていないのを見るに、どうやら喉が渇いて起きてきたらしい。赤音は少し驚きながらも、帰ってきたのが青宗ということに少し安心しているようでもあった。
「青宗。最近、夜遅いけど。毎日何してるの?」
「ダチとつるんでるだけだよ」
「悪いお友達じゃないの? はじめくんも巻き込んで、危ないことしないでよ」
「赤音には関係ねーだろ」
「あるよ。お姉ちゃんだもん」
コップを置いた赤音は暗いリビングへと足を進める。色の濃い顔の左側が暗闇に溶けた。
「オレはやめねーからな」
「青宗」
「そもそも、黒龍を再建しようって提案してくれたのはココの方だ。何も知らねぇクセに口出すなよ」
「はじめくんが……?」
赤音が驚くのも無理はない。青宗だって初めて言われた時はそれなりに驚いたのだ。
簡単に言うと、彼が黒龍復活に協力してくれたのは赤音のためだった。
赤音が全部諦めていると聞いた九井は、自分が大人になるのを待つばかりでは遅いと感じた。赤音の青春は今しかない。九井が大人になって、金持ちになるという夢を叶えた頃、赤音は一体何歳だ? そこから皮膚の再生手術を繰り返して、その痣が消えるのは一体何年後だ?
時間は誰しも平等に流れていく。残酷なくらいに。
だから九井は、黒龍という組織を使って金を荒稼ぎしている。1日でもはやく赤音が笑える日を願っている。彼が不良の道に進んだのは、赤音のためだ。
それを知りもしないで。
「赤音はさぁ、ずるいよな」
「えっ?」
「その痣は、ココに助けてもらった証だろ」
命の危険も顧みずに、燃え盛る炎の中に飛び込んで。必死に赤音を探し回って。一番火の強い場所から彼女を救い出した。くさい言い方をすれば、その傷は、愛の証だった。
なのに彼女はその傷を隠すのに必死で。この傷があるからおしゃれもできないとか言って。贅沢なんだ。彼女がつらい思いをしているのは理解している。それでも、九井に深く愛されている赤音に嫉妬せずにはいられなかった。
「そんな顔するくらいなら、オレが欲しかったよ。ソレ」
青宗は赤音を置いて自室に入る。電気も付けず、床に座り込むと頭を搔き毟った。
こんなことを言いたいわけじゃない。赤音は大事な姉だ。大好きだ。でも。
あの時、九井が助け出してくれたのが自分だったら。そんなありもしないもしもを想像してしまう。
もし自分に彼女と同じ傷があれば。きっと、その傷を見るたびに九井のことを思い出すだろう。どれだけ必死になって助け出してくれたのか。生涯忘れることはないだろう。
やっぱり赤音はずるい。贅沢だ。
ココに好きになってもらって。たくさん愛されて。深く想われて。
ぜんぶ。ぜんぶ、オレがほしいものばかりなのに。
いらないなら、せめて、その傷だけでも欲しかったなぁ。
冷たい部屋の中で膝を抱えると、鼻の奥がツンとした。
◇
大学の帰り。マンションの前にぼうっと立っていた人影は、この1年ですっかり容姿が変わってしまった九井だった。
久々に会う彼に赤音は前髪を整えて小走りに近寄る。
化粧で隠しているとは言え、近くで見たらまだ少し違和感がある顔の左側。この生活にも慣れてきたとは言えど、今でも伊達メガネとマスクはマストアイテムだった。
九井は赤音の姿を見つけると微笑みながらこちらに向かって手を挙げる。
「赤音さん。コレ、手術費用の足しにしてよ」
突然、彼はそう言いながら赤音にそこそこ厚みのある封筒を差し出してきた。彼の言葉と封筒のサイズからして、中身はおそらく現金だろう。もし中身が全部千円札だとしても、一介の中学生が持っているとは思えないくらいの金額だ。
「これ、どうしたの?」
「……ちょっと、ね」
言葉を濁し視線を彷徨わせる彼に、これは決して綺麗なお金じゃないことを悟る。そこでふと、気づいてしまった。あの夜、青宗が言っていた言葉の意味を。
突然暴走族になったのも、チームの復活に自ら乗り出したのも。
彼に、こんなことをさせてしまったのは自分だ。
赤音はやんわりと九井の手を押し戻す。
「受け取れないよ」
「……なんで」
「それははじめくんが一番よくわかってるでしょ?」
そう返せば、九井はふぅーっと深く息を吐き出して封筒を持つ手を下した。
申し訳なさそうにこちらを見つめる彼は困ったように眉を下げている。
「あー、うん。なんとなく、突き返されるかな、とは、思ってた。……赤音さん、イヌピーが不良やってんのも心配してたし、あんまいい印象なんだろうなって。でも、オレ……ガキだから。手っ取り早く金稼ぐの、コレしか思いつかなくて」
子供なりに一生懸命考えて、実行して、得たお金。赤音を幸せにしたくてかき集められた想いの形。
でも、それは九井の人生を犠牲にして手にしたものだ。
「はじめくん。この痣は、はじめくんのせいじゃないよ」
頭ひとつぶん上にある彼の目をじっと見つめる。
数年前にこの話をした時は自分よりもずっと小さかったのに。ランドセルを背負っていた純粋な彼は、もういない。目をキラキラさせながら、一生好きだと言ってくれた彼は、もう。
「ねぇ。はじめくんはさ、私のこと好きって言ってくれるけど、それは、罪悪感なんじゃないかな。私の顔にあるこの痣を消さなきゃっていう義務感に駆られてるんだよ」
「ッ、そんなことない! オレ、今も、昔も、ずっと赤音さんが好きで……」
「はじめくんがいくらそう言ってくれても、……もしそれが本当なんだとしても、私がはじめくんの言葉を信じきれないの。私のこと好きって言ってくれるはじめくんのこと、疑っちゃうの」
「……っ、赤音さんのことが好きって、何回言ったら、……どうやって伝えたら、信じてくれる……?」
九井は黒い瞳を揺らしながら狼狽する。
そんな九井を優しく見つめ返して、赤音はふっと目元を緩めた。
「……私のことなんて忘れちゃったらいいんじゃないかな」
噓と本当が半分ずつ。彼の想いを信じたい気持ちも、彼を自由にしてあげたい気持ちもどっちもある。選ぶなら、彼がより幸せになれる方。今日までずっと彼に想われてきた分だけ、彼の未来を思いやりたい。
「そんなの……無理だよ……。だって、好きなのに」
「……はじめくんがそう言うから、私、あまえちゃうんだな」
「あまえてよ。そうじゃないと、オレ、」
「この火傷を見る度に、はじめくんが悲しそうな顔をするのが嫌なの」
九井の言葉を遮ってそう言えば、彼は目を見開いて言葉を飲み込んだ。
赤音は一呼吸置いて、優しい笑顔を浮かべる。
「私ね、大学卒業したら県外に就職しようと思ってるの」
「えっ」
「関東じゃないよ。そうだなぁ……中学生のお小遣いじゃ、全然行けない距離」
九井はぐっと顔の中心に力を込めて悔しそうに地面に視線を落とす。
赤音よりもずいぶん大きい自分の足。身長は追い越せても年齢だけは追いつけない。一生縮まらない距離。
「……オレ、バイトするし」
「中学生はまだバイトできないでしょ」
「……じゃあ、」
「また危ないことするならもう二度とおしゃべりしてあげないんだから」
「……高校に入ったらちゃんとしたバイト、するし。シフトいっぱい入れてもらえば」
「はじめくん」
名前を呼ぶと彼は泣きそうな顔で赤音を見つめた。
九井が赤音を想う気持ちが溢れて伝わってくる。その視線が痛い。受け止めきれない感情が切ない。
「ねぇ、赤音さん。覚えてる? その火傷、オレが消してあげるって言ったの。オレ、今でも諦めてないよ。もちろん今度はちゃんと働いて稼ぐ。だから、その時は……また、会いに行ってもいいかな」
赤音はマスクの上から自分の左頬を撫でる。何度も塗り重ねたコンシーラーと、ファンデーション。それでも綺麗に消えない傷痕。皮膚の再生手術を何回繰り返せば元通りになるのかも分からない。何千万かけたって元通りにはならないかもしれない。消えない傷痕。
赤音にとっては忌まわしい傷痕。
でも、青宗にとっては。
この傷を愛と呼んだ彼にとっては。
この傷を消してあげると彼に言わせてしまっている自分が、酷い人間に思えた。
「……はじめくんはきっと、私のことなんか忘れちゃって、もっとかわいい子と付き合うよ。例えば……はじめくんのことが大好きな、同い年の子、とか」
実は結構近くにいるかもね、なんて。言わないけれど。
そうなったらいいなとも思うし、そうならなければいいなとも思う。
だって、あの子と私の顔はそっくりだから。それってなんか悔しいじゃない?
でも、彼は大事な弟でもあるから。好きな人と幸せになってほしいって思う。それはほんとう。
「オレ、10年後も20年後も赤音さんのこと好きだと思うよ」
「……はじめくんって意外と頑固だよね」
「赤音さんのことが好きなだけだよ」
五つ年下の男の子は、いつかの少年と同じような顔をして、泣きそうな顔ではにかんだ。
◇
黒龍の集会終わり。今日の青宗はいつもと少し雰囲気が違う。いつもなら集会が終わったあと彼のバイクで家まで送ってもらうのだが、今日は珍しく寄り道をして帰った。
なんてことない河川敷。すっかり暗くなって、静かに揺蕩う水面が月明りを反射している。蛍でも飛んでいればもっと幻想的な景色だったろうが、生憎季節外れだ。
彼に連れられるまま、無言で雑草の上に腰を下す。いつもより口数の少ない青宗はどこか怒っているようにも、落ち込んでいるようにも見えた。
「赤音となんかあった?」
「あ? なんだよ急に」
「ココが落ち込むのって、だいたい赤音のことだから」
「……落ち込んでねーし」
何も考えていなさそうなこの幼馴染は、ぼうっとしているように見えて実は結構周りを見ているのかもしれない。九井が赤音にフられてからそう経っていない。正直まだ引きずっている。小学生の頃からずっと好きで、今でも好きだから。その分立ち直るのにも時間がかかりそうで。
「当ててやろうか。赤音が県外行くって聞いて落ち込んでんだろ」
「だから落ち込んでねーし」
こつん、と隣に座る彼の肩に自分の肩をぶつける。青宗はふふんと笑って肩を小突き返してきた。いつものなんてことない小さな喧嘩。傍から見ればじゃれ合いかもしれない。
「つっても、赤音もそんな遠くまで行くわけじゃねーよ。多分。だからそんな落ち込むなよ」
からかうようにそう言う彼に、あぁ、彼女はまだ話していないんだ。フッたことを、と悟る。彼女が少し遠くに行くだけなら、ぜんぜん、こんなに落ち込まない。こちとら、フられた日から毎日、明日世界が終わればいいのにって思ってる。今は彼女の名前を聞くのも辛い。
「もーいーって。その話」
「んだよ。励ましてやってんだろ」
「お節介。ありがた迷惑。善意の押し付け。厚かましい」
「それは言いすぎだろッ!」
わっ、と青宗が飛びかかって来て九井はどさりと芝生の上に押し倒された。そのままぐりぐりと頭を撫で回される。あぁ、もう。セットした髪の毛が台無しだ。
仕返しと言わんばかりに九井も青宗の頭をぐしゃぐしゃとかき乱す。乱れた髪の毛で前がよく見えないけれど、彼は楽しそうに笑っていた。
草の匂いと、少し冷たい空気。湿った土の温度。頭を撫で回す大きな手。
「だーもー! いい加減放せって!」
九井は青宗の両手首を掴むとぐーっと外側に引っ張った。乱れた金色の髪の毛が青白く光っている。青宗は、ふふっといたずらっ子のように目を細めて笑った。揉み合ったせいかほんのり頬が上気している。その無邪気さは、彼女によく似たかんばせも相まってどこか少女のようでもあった。
九井は両手をそっと彼の白い頬に伸ばす。
碧い瞳が少し緊張したように揺れた。
「……オレ、赤音さんにフられたんだ。火傷を見るたびに、オレ、悲しい顔してるんだって。この罪悪感を、好きって気持ちに変えてるだけだって」
青宗はふっと息を止める。
綺麗な肌。淡い唇。長いまつげ。少女のようなかんばせをした男の子。
恋したあの人と同じ顔。少しだけ、心臓が痛い。滲む月光に視界が歪む。
あの時。自分がもっとはやく彼女を助け出していれば。
彼女も、こんな綺麗な顔で笑ってくれたのかなぁ。
「……なんで、イヌピーだったんだよ」
玄関に近い場所にいたのが彼女じゃなくて。もし彼と彼女の居場所が逆だったら。そうしたら。
瞬きをすると視界がクリアになる。そうして、目に映ったのは傷ついた顔をした少年のかんばせだった。
「あっ……ちが……」
咄嗟に取り繕う。しかし。
心のどこかで思っていた。
これは本心だ。違わない。何も、違わない。
自分は決して綺麗な人間ではない。目的のためには手段を選ばないし、聖人君主には到底なれない。こんな最低なことを心の底に秘めている、卑しい人間だ。
けれど、彼にだけは言ってはいけない言葉だった。
「……ごめ、ん……イヌピー……」
おずおずとその頬から手を離す。と、彼の手がそれを引き止めた。
彼の左頬に添えられた右手に、青宗の左手が重なる。
「オレだって、ずっと思ってた。赤音がオレだったらよかったのに、って。火傷を負ったのも、ココに助けられたのも、……ココが好きなのも。ぜんぶ、オレだったらよかったのに。オレだったら、ココを泣かせないのに」
覆い被さったままの彼が距離を縮めてくる。
「……イヌピー?」
こつん、とおでこがくっついた。至近距離にある彼の顔は、夜だというのに夕焼けに照らされたみたいに赤い。
「好きだ、ココ」
「えっ……」
「赤音のことばっかで全然気付かなかったろ」
「えっと……あ、……その……」
その視線から逃げようとうろうろと目を彷徨わせるが、この距離ではどうにもなりそうになかった。
告白。したことはあるけれど、されるのは初めてだ。これは、結構恥ずかしい。というより、どうしていいかわからない。返事をするべきなんだろうけど、でも。どうしよう。勇気が。いや、勇気ってなんだ。するのも勇気がいったがされるのも勇気がいるのは今日初めて知った。
九井が身を固くしていると、青宗はすっと体を起こした。ほっと息を吐くと、彼が手を差し出してくる。素直にその手を取って身を起こせば、青宗も恥ずかしそうにそっぽを向いた。
「ごめん。困らせた。でも、返事、……ほし、い……から……」
「うん……」
「その、……また、今度、聞かせて」
「わ、かった」
「じゃあ、えっと……帰る、か」
「お、おう……」
なんだか二人、よそよそしい雰囲気のままバイクに跨る。正直、このまま走って帰るからここで解散にしよう。って、言いたい。でも、はやく乗れって恥ずかしさを隠したむすくれ顔で手招きをされたら、そんなの断れないじゃないか。
冷たい風が火照った頬に気持ちがいい。少しだけはやい心臓の音が、彼に聞こえていなかったらいいなって思った。
◆
寝心地の悪いソファの上で目覚めた。傷んだ革はべろべろに剝がれかけていて柔らかい。腹の上には見慣れた白い特攻服がかかっていた。布団の代わりだろうか。
九井はぐーっと体を伸ばして周りを見渡した。全然知らない場所だ。割れた窓ガラスに雑に貼られたガムテープ。埃の舞う床。錆びついた工具。廃墟、っていう言葉がぴったりかもしれない。
さて、ここはどこだったか。
たしか昨日は青宗にバイクで送ってもらったあと、そのまま風呂に入ってすぐ寝てしまった。そわそわして寝つきは悪かったけれど、布団の中で目を閉じたのが最後の記憶だ。
「あ、ココ。起きた?」
「ん……」
後ろから聞き慣れた声がする。なんだ、彼も一緒か。
ここで寝ている経緯がうまく思い出せないんだ。イヌピーは何か覚えてる?
そう聞こうと思って声のした方を振り返る。が、その違和感に言葉を飲み込んだ。
「どうした。変な顔して」
「あ……っと……」
「もしかして体痛いか? 悪ぃ。無理させた」
「や、全然。ん? うん。痛くない」
九井は両腕を回して自分の体の調子を確認する。痛みはない。が、身につけている黒いTシャツは汗でもかいたのかしっとりと濡れていた。
「そうか。体大丈夫なら風呂行くか?」
「ん?」
「帰りにコンビニでメシ買って帰ろ」
まるで一緒に住んでるみたいな口ぶりにまた違和感を覚える。彼は黙々と着替えとタオルの準備をしていた。適当に袋の中に投げ込んでいるのを見るに、多分銭湯に行くつもりなのだろう。
いつもより少し大人びて見える彼の横顔。声も、しゃべり方も、九井の知る青宗だ。なのに。
「ん」
青宗がこっちにパーカーを投げて寄こした。たぶん、着替え。オマエも準備しろ、ということかもしれない。
「これオレのじゃねーけど」
蛍光色のピンクをしたそれは間違いなく彼のものだ。彼はキツイ色の服を好んで着るが、九井はもう少し落ち着いた色味の服しか持っていない。
「それ着とけよ。寒ぃだろ」
青宗は着替えの詰まった袋を小脇に抱えるとバイクの鍵をチャリンと鳴らした。もう準備万端らしい。
「やっぱ体しんどいか?」
「いや、大丈夫。行く」
ソファから立ち上がる。しかし、九井の足はどこかおぼつかなくて、そのまま不格好に床の上に膝をついた。半ばコケるようにソファの陰に隠れた九井に、青宗がせわしない足音を立てて近づく。
「ココッ」
ソファの背からこちらを心配そうに覗き込む彼。
たしかにコケたのに、全然痛くてなくて。そうしてようやく、あぁ、これは夢だと悟った。
痛みのない体も、見慣れない場所も、少し雰囲気の違う青宗も。
伸ばされた手を掴んで、彼の碧い瞳と目を見つめた。
「……なぁ、イヌピー」
「あ?」
「その痣、どうしたんだ?」
彼の顔の左側には、彼女と同じ火傷の痕が刻まれていた。一生消えない傷。九井の罪。
それは、彼女のものだった。
「あー……」
青宗は九井を引っ張って再びソファの上に座らせると、自身もその隣に腰掛けた。少し寂しそうに微笑む彼は、やっぱり、少しだけ大人っぽい。
青宗はふっと目を細めて九井の肩に頭を乗せてきた。その甘えたような態度にびくりと跳ねて身を固くする。その反応に青宗はくすくすと笑いを噛みしめた。
「オレさぁ、すげーズルしてたんだ。アイツの好きって気持ちにつけこんで。だから……これはオレのワガママかもしんねーけど、オマエらが幸せになる未来がひとつでもあるなら、その未来を見てみたいって思うんだ」
突然何を言い出すんだろう。そう思ってそうっと彼の顔を盗み見る。
穏やかで、でも、少しだけ傷ついている。愛しい記憶に想いを馳せるような。どこか寂しい表情。
「オレは……オレたちは、たくさん間違えて、傷つけて、それでも、今がいちばん幸せだって思える道を歩いて来たから。だから、オマエにも、今がいちばん幸せだって思える未来に向かって、歩いてほしい」
夢の中の彼は、九井の知らない誰かのことを好きなんだろうと思った。けれど、それはいい思い出ばかりではなくて。喧嘩したり、すれ違ったり、色々あったんだろうなぁって想像する。今の自分だって、たくさん悩んで、それでも彼女を好きでいることをやめられなくて、辛いから。想像だけど、少しくらいは彼の気持ちがわかる気がした。
彼の言う幸せな未来ってなんだろう。
誰かにとっての幸せも、自分にとっては不幸せかもしれない。誰かの受けるはずだった不幸が、巡り巡って自分に降りかかるかもしれない。そういうつじつま合わせを、神様がどこかでしている。
選んだもの。選べなかったもの。こぼれ落ちたもの。大事に抱きかかえたもの。
つじつま合わせの世界を生きてきた十数年。
まだほんの子供だけれど、今日に至るまでの間に後悔してきたことはそれなりにある。
テスト勉強もっとがんばっとけばよかったなぁ、みたいな小さなことから、誰かの人生を左右するような大きなことまで。
これまで選び取ってきたものはすべて、幸せな未来に繋がる選択だっただろうか。正直、今がいちばん幸せかと問われれば素直に頷けない部分がある。やっぱり悩みは尽きないし、うまくいかないことだらけだし。でも、これからの選択が今を変えるかもしれない。それを選ぶのは、九井自身だ。
青宗もきっと、そうやって過去を歩いてきたんだろう。
傷ついて、傷つけて、それでも歩幅を合わせて。
その傷すらも愛おしいと思えるくらいの痛みと共に。
「折れねぇ心があれば未来は変えられるって、教えてくれた男がいたんだ。だからココも、最後まで、かっこわるくても、しつこく足掻けよ」
赤紫色の肌の上で、彼の綺麗な碧い瞳がふっと細まった。
青宗はソファから立ち上がると、着替えの入った袋を持って出口の方へ向かう。たてつけの悪そうな扉。割られたガラス窓を塞ぐようにガムテープが乱雑に貼られている。本当に、ここはどこなんだか。
「じゃあな、ココ」
彼はバイクの鍵を鳴らして手を振った。なんだよ、一緒に銭湯に行くんじゃなかったのか、って、思ったけど。うまく声が出ない。あ、たぶん、もう起きる。
ちょっと残念かも。
だって、これを逃したら、もう。彼には会えない気がしたから。
九井はソファの背に身を乗り出してカビ臭い空気を吸った。
「じゃあな、イヌピー!」
彼は綺麗な顔で笑う。好きな人によく似た、あの美しいかんばせ。
でも、夢の中の彼に、あの少女の面影はなかった。
◆
目覚めると見慣れた天井があった。間違いない、自分の部屋だ。
九井はベッドから起き上がってぐーっと背伸びをする。ぽき、と首の骨が鳴ると同時に気持ちのいい痛みが走った。うん、現実だ。
ベッドから降りて、制服に着替えて、鞄を持って一階に降りる。
洗面所で身支度を整えて、両親と顔を合わせることもなく玄関を出た。朝の冷たい空気が清々しい。
「ココ」
玄関先には寝癖をつけたままの青宗があくびを嚙みしめながら九井のことを待っていた。
もちろん、彼の顔に痣はない。いつも通りの朝。彼のバイクで学校まで行く日常。
「あ……今日は来ないかと思った」
「……実はちょっと迷った」
そうしてどちらともなくくつくつと笑う。
昨日あんなことがあったから、もう友人関係を継続していくのは無理かもしれないって、実はちょっとだけ不安だった。だが、それは杞憂だったようだ。
二人を乗せたバイクはゆったりとしたスピードで走り出す。
「オレさー、昨日変な夢見て」
「夢ぇ?」
「そー。イヌピーが出てくんの。他に好きなヤツいるみたいだった」
「はぁっ!? 二股じゃねーか!」
「二股?」
「あっ? 浮気か!?」
どっちも違うだろ、と青宗の背中で笑うが、当の本人は許せねぇだのなんだの言っている。夢の中の自分に怒ってどうするんだ。
でも、痣のことは言わなかった。
その痣がなぜ彼にあったのかはわからない。夢の中の彼も結局答えてはくれなかった。
昨日彼からあんなことを聞いたからかもしれないし。夢って支離滅裂だし、そんなもんなんだろう。
「イヌピー!」
バイクの走行音に負けないように大きな声で彼の名を呼ぶ。
少しの勇気と、覚悟。
「オレ! 好きな人いるから! イヌピーとは付き合えない! ごめん!」
ぐわん、と車体が大きく振れた。まさか今日、しかもこんな時に告白の返事をされるとは思っていなかったのだろう。かなりの動揺が伺える。
ぐらり、ぐらり、と蛇行運転をする白いバイクはやがて真っ直ぐに走り出す。少し、スピードが上がった。
「……クソーーーッ! フられたぁ!」
初めて聞くような大声に、びくん、と、今度は九井の方が驚く番だった。バイクはぐんぐんと加速して学校とは反対の方向へ走り出す。九井はばしばしと青宗の背中を叩くが、彼は振り返らずにバイクを走らせた。
「ココ! 今日は学校サボって付き合え!」
「あ?」
「ダチがフられたんだから慰めろっつってんの! マブだろ!」
「ふ、はは! なんだよそれぇ!」
大声に大声で返す。風に混じって冷たい水滴が九井の頬を叩いた。
二人を乗せたバイクは青宗の気の向くままコンクリートをひた走る。ゲームセンターで遊んで、ファミレスで腹を満たし、ボーリング場でガーターを連発して青宗にケラケラと笑われた。
学校が終わる時間になると大寿から「今日の集会は出られるのか」という電話が来て「イヌピーが失恋して傷心中だから出られない」と返すと怒鳴り声が聞こえてきた。さすがに明日は二人で正座になりそうだ。
日が沈むと昨日と同じ河川敷で雑草の上に寝転がった。久々に一日中遊んだ気がする。何も考えないでただ友達とバカみたいに笑い合ったのは何年ぶりだろうか。
「はー……なんかいつもより疲れたな」
「ココ、明日筋肉痛かもな」
「いやいや。運動会じゃあるまいし」
「……? 運動会でも別に筋肉痛なんねーだろ」
「……聞いたオレがバカだったな」
こちとら毎年ちゃんと筋肉痛である。これは彼の言う通り明日は筋肉痛かもしれない、と明るい月を見上げた。
「今日、悪かったな。学校サボらせて」
「あ? いいよ、別に。ダチが泣いて頼んでんの、断るわけねーじゃん」
「泣いてねーし」
「ククッ。つーか、フった本人に頼むか? 普通」
「……だって、ココしかいねぇだろ」
寂しい時に隣にいてほしいと思うのも、悲しみを共有したいと思うのも。それくらい、彼の中で九井という存在は大きい。
彼を好きになれたら、きっと、幸せなんだろうなぁ、なんて。昨日の夢を反芻する。
「あーあ。初恋ってうまくいかねーな」
「ほんと。悔しいぜ」
他人事みたいに言い合って、また笑った。
隣に寝転がる青宗の方を向くと、九井の視線に気づいた彼もこちらへ顔を向けた。
彼の金色の髪の毛が月明りに煌めいている。
「でもさ、オレ。諦めねぇで頑張ろうと思うんだ」
「あ? フられたのに?」
「100回フられても101回目にはOKしてもらえるかもしんねーじゃん」
「それはさすがにしつこすぎるだろ」
「うるせ~」
しつこく足掻けと言ったのはそっちのくせに。あぁ、それは夢の中の彼が言ったんだっけ。
「じゃあ、オレもまだ頑張ろうかな」
「ん?」
「ココがフられる度にオレが慰めてやるよ。そしたら、100回目にはココがオレを好きになるかもしんねーだろ」
「人のこと言えねぇじゃん」
ケラケラ笑うと彼も目を細めて笑った。
さっきフってフられてがあったばかりとは思えないくらい、なんてことない、ただの友達みたいな空気感。当たり前のように軽口を言い合っているが、よく考えたらたぶんちょっとだけ変な関係だ。
「もし、初恋が実ったら……その時は……祝ってやるよ。ま、無理だろうけど」
そう言って青宗はいじわるそうに笑う。腹いせにそのニヤついた左頬を引っ張ると、彼は昨日と同じように九井の頭を撫で回した。
・最終軸イヌ→ココ赤
・赤音さんに火傷がある
・イヌココはほんのり
◇
「一生好き!」
キラキラと目を輝かせて、赤い頬を夕日で染めて、まだ小さな少年はそう言った。
子供の言うことだから、なんて言ってしまえばそれまでだけれど、今この瞬間、噓偽りなくそう思っていることは、彼の顔を見ればわかる。彼がもう少し大きくなって、恋を恋だと認識できるくらいまで心と体が成長した時、もしかしたら今日のことなんて「子供の頃はさぁ」って、少し恥ずかしい過去の思い出になっているかもしれない。
それでも、今は。ぎゅっと拳を握りしめてしっかりとこちらを見上げる彼の気持ちに向き合ってあげるのが、お姉さんとしてできることだと思った。
赤音は九井に見送られて家の中に入ると、彼の精一杯の告白を心の中で反芻してふふっと笑う。少しほっぺたが熱い気がした。
「ただいまぁ」
廊下の先に続くリビングからはテレビゲームの音がする。青宗が宿題もせずにゲームに没頭しているのだろう。赤音が九井と図書館に寄って帰った日はいつもこうだ。
普段なら、このままリビングに行って、への字になった青宗の口から「おかえり」を引き出すまでしつこく構い倒すのだが。今日は、さっきからずっと心の中がざわざわして。
赤音は少し早い歩調で階段を登り自室へと入る。カバンを置いて、勉強机の一番下の引き出しに入れておいた小さなアロマキャンドルを取り出した。箱に入ったままのソレはプレゼント用のリボンがかけられたままだ。もらってから1度も開封していない、誕生日プレゼント。
薄いピンクのリボンを解いて箱を開ける。ふんわりと甘い匂いがした。
『あかねさんへ おたんじょうび おめでとう』
ボールペンで書かれた丁寧な黒い文字。
握りしめられた彼の小さな手が一生懸命したためたのだと思うと頬が緩む。
ガラスの中に入った白いキャンドルはつやつやと輝いていた。何をプレゼントしようか一生懸命考えて、お母さんとも相談したんだろうなぁと思うとそれだけでもう嬉しくて。使うのがもったいなくてずっとしまっておいたキャンドル。今日、初めて火をつけたくなった。
キャンドルライターの先にくゆる灯りを白い芯へ近づけると、ぽうっと火が移った。
あたたかくて小さな火が簡素な勉強机をオレンジ色に彩る。
赤音はその灯をじっと見つめながら、九井のことを思い返す。
一生好き。一生守る。
小学生の言いそうな、何の飾り気のない、ストレートな告白。
約束、と言う彼の一生懸命な顔を思い出すだけで自然と口角が上がってしまう。もう、顔ぜんぶふにゃふにゃだ。
子供にだけゆるされた『一生のお願い』みたいなものだと思う。一生、なんて簡単に言うけれど、一生ものの約束を守るなんて到底現実的ではない。それくらいずっとずーっと好きですよ、という言葉の綾。言葉の綾なんて知らない子供が言う戯れ。
「大人になっても、まだ好きでいてくれるかなぁ。はじめくん」
もう少し大きくなったら、こんな初恋なんて覚えてないくらいたくさんの恋をして、同い年のかわいい女の子と付き合ったりするんだろうなって思うと、ちょっとだけ妬けてしまった。
ゆっくりと燃えるキャンドルからいい香りがして、なんだか眠たくなってきた。なんだっけ、リラックスとか、そういう効果があるんだっけ。
ぱち、ぱち。重たくなる瞼をしばたたかせる。あったかくて、いいにおい。今日はすごく、素敵な日だったなぁ。
赤音は机の上に腕枕を作ってのそりとうつぶせになる。オレンジ色の灯りがぼんやり頬を温めてくれる感覚が心地よい。
そのまま瞼を閉じて、甘い匂いの中をまどろんだ。
◇
次に目を開けると見慣れない白い天井があった。鼻をつくような消毒液の臭い。視線を彷徨わせると、顔のあちこちを黒くした九井が目に涙の膜を張ってこちらを見下ろしていた。
隣のベッドには同じように、少し汚れた青宗が寝ていた。
狭い視界と、ヒリヒリとした痛み。白衣を着た大人たちが右往左往している。次いで紺色の制服を着た大人が数名、両親と共に部屋に入ってきた。
大人たちの話を聞いた赤音は自分の家が火事になったのだと知る。そういえば、ぼやぼやする意識の中、誰かに助けられたような気がするがあまり覚えていない。詳しいことは現在も調査中であるが、出火元は赤音の私室だと見られているらしい。
事故のことは鮮明な記憶がない。けれど、その前のことならよく覚えている。
今日は素敵な日だと思いながらまどろんだあの心地よさを。
この火事は、赤音の不注意で起こしてしまったものだと悟り、焼けた喉で小さく謝罪を繰り返した。
◇
赤音が事故の全貌を知ったのは退院してから少し経ってからだった。
1階にいた青宗は別の少年がすぐに助けてくれたことにより目立った外傷もなく、数日で日常生活に復帰できたが、赤音は出火元の部屋にいたことや青宗よりも救出が遅かったこともあり、顔に傷が残った。あんな近くでキャンドルを見つめていたのだから、一番酷いのが顔なのも理解はできる。だが、はいそうですかと簡単に受け入れられるものでもなかった。
体のあちこちにあった薄い火傷の痕は、長い時間がかかるかもしれないが自然と消えていくらしい。だが、この顔の火傷痕だけは、手術を受けねば一生残ると、担当の医師に言われた。
包帯の取れた、つるりとした赤い肌。まだ少し突っ張るような痛みがある。鏡を見る度、顔の左側が自分のものじゃないみたいで心底気持ちが悪かった。
こんな顔じゃあ、もう。
髪の毛が伸びるまであと何年かかるだろう。髪の毛が伸びる頃には、もう少しマシな顔になっていやしないだろうか。消えてくれないだろうか。
赤音はマスクをして、フレームの太い伊達メガネをかけ、肩掛けカバンを手に家を出る。わざと目元が隠れるくらいにカットしたファッションウィッグも、学校には事前に許可を得た。事情が事情だから、と。憐れまれているのもなんだか居心地が悪い。
まだ、赤音だけが日常に戻れないでいる。
「赤音さん、おはよう」
仮設住宅の前にはランドセルを背負った九井が立っていた。
まさか九井がいるとは露ほども思っておらず、赤音は目を丸くする。そして、パッと下を向いた。
「お、おはよう。はじめくん。どうしたの?」
「今日から赤音さんも学校行くって聞いて、途中まで一緒に行きたくて待ってたんだ」
「学校遅刻しない? 青宗、先行っちゃったよ」
「走って行けば間に合うよ! イヌピーにもあとから行くって言っといた!」
小学校から仮設住宅までは少し遠い。青宗は赤音よりも少し早めに家を出たから、九井が待っていたのは彼ではなく赤音だろう。
嬉しい、けど。いちばん、会いたくなかった。
「そっか。じゃあ……途中まで」
「うん!」
顔の大半部分を隠して学校へ続く道を歩く。九井の歩幅に合わせて、けど、彼が遅刻しないようにほんの少し、急ぎ足で。
「赤音さん、もう学校行って大丈夫なの?」
「うん。でもしばらくは保健室登校にするんだ。ほら、受験もあるし、あんまり休めないし」
「そっか……」
九井は落ち込んだように地面に視線を移す。せっかく助けてもらったのに、こんなことでは彼の恩に報いることもできないだろう。彼の前では明るく振舞いたいのに。でも。どうしたって。
「……ごめんね。オレがもっとはやく助けてれば、赤音さん、こんな嫌な気持ちにならなかったよね」
気落ちした声に赤音はパッと九井の方を見る。ランドセルの肩ベルトをぎゅっと握る彼の足取りは重い。
「そんなことないよ! はじめくんが助けてくれなかったら、私、きっと今頃学校にも行けなかった。もっと酷かったら、死んでたかもしれないもん。はじめくんが助けてくれたから、私、今もはじめくんとこうしておしゃべりできてるんだよ」
「……でも、母さんたちが……女の子なのにかわいそうって……言ってたんだ。それって、赤音さんが嫌な気持ちになってるってことだよね。火傷の痕が、あるから」
「それは……」
この火傷痕のせいで気分が沈んでいるのは事実だ。命が助かっただけありがたいことなのに。でも、命が助かったらその次は元の生活に戻ることを望んでいる自分がいる。教室に行って、友達と普通におしゃべりをして、休日はお気に入りの服を着て、お出かけを楽しむ。そんな日常に。
「……はじめくんが助けてくれたの、私、ほんとに嬉しかったの。ありがとうって100回言っても足りないくらいだよ。それはほんとう。でも……この傷が残らなかったらいいなって思ってるのも、ほんとう」
つり上がった大きな猫目が赤音をじいっと見上げる。きゅっと下唇を噛む小さな歯と、悔しそうに眉間に皺を刻む眉毛。
「でも、それは贅沢言い過ぎって神様に怒られちゃうよ。だからね、はじめくんにはもっと笑ってほしいな」
赤音は九井の眉間を人差し指の腹で優しくさすった。ゆるゆると眉間のしわが薄くなっていくのを確認して、赤音は九井の額から手を離す。もうすぐ分かれ道だ。
「ありがとね、はじめくん。学校遅刻しないようにね」
九井から離れようとした時、彼の小さな柔らかい手が赤音の手を掴んだ。
「オレ! 赤音さんのこと一生好きだから! ずっと!」
「はじめくん……」
「赤音さんが火傷の傷消したいって言うなら、オレが消したげる! 赤音さんのお願いは、ぜんぶ、オレが叶えるから! だから、赤音さんも笑って!」
その必死の訴えに赤音は思わずマスクの上から自分の頬に手を添えた。あの火事の日から、笑った記憶がない。陰鬱とした空気を纏ったまま。この瞬間も、私は不幸な少女です、みたいな顔をして彼に会っていたことに、今になって気づいた。
「じゃないと、オレも、わらえない、から……」
尻すぼみになる声は震えている。自分よりもずっとずっと小さい男の子が、涙を必死に堪えている。赤音の幸せを願って。
「……はじめくんは優しいね」
「赤音さんのことが好きなだけだよ」
九井は泣きそうな顔をして、でも恥ずかしさを隠すようにはにかんだ。
赤音はしゃがみ込んで九井と目線を合わせると、そっとマスクをずらした。赤く醜い肌が空気に触れる。彼の目じりを親指の腹で撫でると少しだけ濡れた。
「じゃあ、はじめくんが大人になるの、私もずっと待ってるね」
まだ少しだけ突っ張る頬。うまく笑えているだろうか。もう、前みたいに綺麗な顔じゃなくなっちゃったけど。この顔でも、まだ好きだと言ってくれるのが、嬉しかった。それがたとえ慰めだったとしても。
「うん。大人になったらね、たくさんお金を稼いで病院代なんか簡単に払えるようになるよ。オレ、中学受験して頭のいい学校に行くんだ。それがいいって父さんも言ってるし。そしたらね、いい大学に行っていい会社に就職できるんだって」
「ふふ。はじめくん、頭いいもんね」
「お医者さんにもなれるかもね」
「わぁ、はじめ先生だ」
「そしたら、オレが赤音さんの火傷消してあげられるから、だからね」
「はじめくん」
必死に言葉を紡ぐ小さな少年を、赤音はぎゅうっと抱きしめる。抱きしめたくなってしまった。あまりにも、まっすぐで、純粋なその姿に胸がいっぱいになって。
体を離すと彼は耳まで赤くしてきゅっと口を閉じていた。さっきまであんなにおしゃべりだったのに、と思わず口元が緩む。
「……学校、遅刻しちゃうから行こっか」
「う、うんっ。 じゃあまたね、赤音さん!」
九井はパタパタと小学校へ続く道を駆けていく。あんなに前のめりに走ったらこけてしまうんじゃないかって少し心配しながら、その背中が見えなくなるまで見送った。
赤音も目の下までマスクをつけ直すと反対の道を進む。憂鬱だった道のりも、ほんの少しだけ心が軽くなった気がした。
◇
青宗は殴られて赤くなった鼻をゴシゴシと擦りながら九井の通う中学校の校門前に立った。
放課後。下校時間。ブレザーを着た生徒たちがじろじろとこちらを見てくるのに、ひとつひとつ丁寧にガンを飛ばし返していると頭にチョップが刺さる。
「コラ。威嚇すんな」
「ココが遅ぇからだぞ」
校則に則り正しく制服を着用する九井と、片や短ランボンタンに改造した制服を着た青宗。おまけに顔には殴られた跡があり、綺麗な金髪も少し乱れていた。傍から見れば不良に絡まれる優等生の図である。
「また喧嘩したのか?」
「ふっ。安心しろ。勝った」
「勝ち負けの話してねーよ」
九井はスクールバッグからポケットティッシュを取り出すと、青宗の鼻の下をごしごしとこすった。どうやら鼻血がついていたらしい。顔ぜんぶが痛くて気づかなかった。
「喧嘩すんなら怪我すんなよ。せっかく赤音さんそっくりのキレーな顔なのに」
「カンケーねーだろ」
青宗は九井の手からティッシュを奪い取ると、ふんっとそっぽを向いて鼻の穴にこよりを突っ込んだ。もう止まってるかもしれないけれど。
「オレ図書館寄って帰るケド、イヌピーは?」
「えぇ、またかよ。ここんとこ毎日図書館行くじゃん。たまにはゲーセン行こ~ぜ~」
コツコツと規則正しい足音を立てて帰り道を歩く九井の後ろを追いかける。
綺麗に手入れされた革靴と、かかとの潰れたスニーカーが並んで同じ歩幅を刻んだ。
「もうすぐ中間だろ。勉強しねぇと」
「つまんなくねぇの? 勉強」
「つまんねーよ。つまんねーけど必要なことだろ」
「なにに?」
「将来に」
「ふぅん?」
将来なんて言われてもよくわからず、青宗はつまらなそうに地面を蹴る。自分が大人になることも、学校じゃなくて会社に行く姿も、まだ全然想像できない。だって、まだほんの中学生なのだ。
なのに九井ときたら。同い年のくせに将来がどうとか言って。頭のいいヤツはもうそんな未来のことまで見据えているのかなぁと、なんだか少し距離があるように感じてしまう。
「な、真一郎くんのトコ行こうぜ」
「話聞いてたのかよ。図書館行くっつってんだろ」
「大人の話聞けばココも考え方変わるって。真一郎くんがバイク屋始めたのさ、まだ19とか20の時だって聞いたぜ! 若いのにスゲーよな!」
「その歳で社長か……」
今まで青宗をあしらっていた九井は、ふと興味を引かれたように青宗の方を振り向く。これはチャンス、と、青宗はこれまでの真一郎の武勇伝を自慢げに彼に話して見せた。しかし、九井が興味があるのは黒龍の歴史でも、バイクの性能でもない。
「でもやっぱさー、金稼ぐにはいい大学出ていい会社に就職するもんだろ? 社長もいいけど、金になんなきゃ意味ねぇしなぁ……」
このままコツコツと手堅い道を歩むか、一念発起して一攫千金を狙うか。九井は脳内であらゆる未来を思い描いている。つまらない。今は将来の話より憧れの男の話がしたい。
「……んだよ。それも全部約束のためか?」
「……それこそ、イヌピーにはカンケーねーだろ」
むすっとした顔で歩みを止めると、数歩先に進んだ九井が足を止めてこちらを振り返った。
「オレは金持ちになるのが将来の夢なんだよ。そんだけ。イヌピーも夢くらいあるだろ。なんだっけ、ナントカドラゴン?」
「黒龍!」
「そうそう、ブラックドラゴン」
青宗の夢は黒龍を復活させること。襲名制の黒龍は数年前にその歴史に幕を下したが、僅か1年で天下統一を果たした初代黒龍は今や不良たちの間で伝説である。当時の総長であった真一郎から黒龍の話を聞くのが、青宗にとって生きがいのひとつでもあった。そしていつしか黒龍の名を背負いたいという小さな野望を抱くようになったのである。
彼のようにかっこいいピカピカのバイクに乗って、かっこいい特攻服をはためかせて、黒いコンクリートの上を風を切って走りたい。だが、その夢は遠くて。
「……あんま言いたくねぇけど、ウチってあんま金に余裕ねーからさ。バイクとか買えねーし」
「あー……うん」
青宗が九井との距離を詰めると、二人は再び足並みを揃えて歩き出した。青宗の家の事情を知っているからこそ、九井も言葉を濁して足を動かす。少しだけ気まずくなった空気を払拭するように九井は声をワントーン上げた。
「てか、そもそも中学生ってまだバイクの免許取れねーじゃん」
「バカ。不良が免許とか気にするかよ」
「不良怖ぇ~」
九井がくつくつと喉を鳴らして笑うのを横から肩をぶつけて小突く。口元を緩ませてやめろだのなんだの言ってくる九井とのやり取りが好きだ。彼と過ごすどうでもいい時間が宝物だ。
けれど、九井はきっとそうじゃない。彼が将来の夢と言って語る未来は全部、彼女のためにある。
この時間も。過去も、未来も。全部。赤音のことを想って過ごしている。
そのことが少し悔しかった。
「……でもさ、やりたいことがあるだけまだ、いいなって。思ってんだ」
「ん?」
「……年頃の女ってさ、化粧してかわいい服着るじゃん。赤音、全部諦めてるんだ。いくらかわいい服着ても、こんな顔じゃ、って」
九井の愛を一身に受けてもなお、彼女はすっかり気落ちしている。気持ちはわからなくもない。顔に大きな傷があるとそれだけで他人の目を引く。ただ傷があるというだけで、途端に異端者扱いされてしまうんだ。けれど、いつまでもそんな態度を取られてしまうとこっちだって辟易としてくる。それに、今でも赤音が好きだと言う九井の気持ちまで拒絶しているような気がして。余計に悔しくなる。
九井自身はそんなこと思っていないのかもしれないけれど。
「いつか、赤音にも夢ができたらいいなって思うんだ」
今は大学生になった彼女であるが、まだ将来の夢らしきものは見つけられていないらしい。それもこれも、あの傷のせいであらゆることをマイナスに考えてしまうからだろう。今が一番楽しい時期だろうに。浮かれた話のひとつも聞かない。
あの頃の、いつも笑っていた姉に戻ってほしい。そして諦めさせてほしいんだ。このどうしようもない片想いを。
「イヌピー」
「ん?」
「黒龍復活、オレにも一枚かませろ」
「…………あ?」
何の脈絡もない九井の言葉に、青宗はたっぷり5秒ほど間を使った後、まぬけな声で返事をした。今は将来の夢の話をしていたのであって黒龍は関係ない。いや、あるか。黒龍復活が青宗の夢だ。だが九井は黒龍復活に興味など微塵もないはずである。一体何がどうなってそういう話になったのか、と青宗は目を細めながら隣を歩く九井を見た。
「オマエの夢もオレの夢も、まとめて叶えてやる」
九井は少し怖い顔をしてギラリと空を睨んでいた。
◇
九井の紹介で柴大寿と出会い、彼を新生黒龍総長に据えてしばらく。
優等生だった二人が今では不良の世界でしっかり名を轟かせている。暴力の大寿と財力の九井だ。知力と暴力があれば自然と財力もついてくるのだからもはや怖いものなしである。
たった三人で立ち上げたチームはそこそこの大所帯になって、関東の暴走族では三本の指に入るくらいのチームになった。初代黒龍が成し遂げた天下統一も、二人がいれば夢じゃないだろう。
集会の後、青宗は九井を家まで送ると自分の家へバイクを走らせた。
時計の針がてっぺんに差し掛かる時間。青宗はしんと寝静まった家の扉を開く。と、リビングにぼんやりと明かりがついていた。
親が起きてたらめんどくさいな、と思いながらリビングの扉を開く。そこには、コップを片手にキッチンに立つ赤音がいた。シンクの上の照明しか点いていないのを見るに、どうやら喉が渇いて起きてきたらしい。赤音は少し驚きながらも、帰ってきたのが青宗ということに少し安心しているようでもあった。
「青宗。最近、夜遅いけど。毎日何してるの?」
「ダチとつるんでるだけだよ」
「悪いお友達じゃないの? はじめくんも巻き込んで、危ないことしないでよ」
「赤音には関係ねーだろ」
「あるよ。お姉ちゃんだもん」
コップを置いた赤音は暗いリビングへと足を進める。色の濃い顔の左側が暗闇に溶けた。
「オレはやめねーからな」
「青宗」
「そもそも、黒龍を再建しようって提案してくれたのはココの方だ。何も知らねぇクセに口出すなよ」
「はじめくんが……?」
赤音が驚くのも無理はない。青宗だって初めて言われた時はそれなりに驚いたのだ。
簡単に言うと、彼が黒龍復活に協力してくれたのは赤音のためだった。
赤音が全部諦めていると聞いた九井は、自分が大人になるのを待つばかりでは遅いと感じた。赤音の青春は今しかない。九井が大人になって、金持ちになるという夢を叶えた頃、赤音は一体何歳だ? そこから皮膚の再生手術を繰り返して、その痣が消えるのは一体何年後だ?
時間は誰しも平等に流れていく。残酷なくらいに。
だから九井は、黒龍という組織を使って金を荒稼ぎしている。1日でもはやく赤音が笑える日を願っている。彼が不良の道に進んだのは、赤音のためだ。
それを知りもしないで。
「赤音はさぁ、ずるいよな」
「えっ?」
「その痣は、ココに助けてもらった証だろ」
命の危険も顧みずに、燃え盛る炎の中に飛び込んで。必死に赤音を探し回って。一番火の強い場所から彼女を救い出した。くさい言い方をすれば、その傷は、愛の証だった。
なのに彼女はその傷を隠すのに必死で。この傷があるからおしゃれもできないとか言って。贅沢なんだ。彼女がつらい思いをしているのは理解している。それでも、九井に深く愛されている赤音に嫉妬せずにはいられなかった。
「そんな顔するくらいなら、オレが欲しかったよ。ソレ」
青宗は赤音を置いて自室に入る。電気も付けず、床に座り込むと頭を搔き毟った。
こんなことを言いたいわけじゃない。赤音は大事な姉だ。大好きだ。でも。
あの時、九井が助け出してくれたのが自分だったら。そんなありもしないもしもを想像してしまう。
もし自分に彼女と同じ傷があれば。きっと、その傷を見るたびに九井のことを思い出すだろう。どれだけ必死になって助け出してくれたのか。生涯忘れることはないだろう。
やっぱり赤音はずるい。贅沢だ。
ココに好きになってもらって。たくさん愛されて。深く想われて。
ぜんぶ。ぜんぶ、オレがほしいものばかりなのに。
いらないなら、せめて、その傷だけでも欲しかったなぁ。
冷たい部屋の中で膝を抱えると、鼻の奥がツンとした。
◇
大学の帰り。マンションの前にぼうっと立っていた人影は、この1年ですっかり容姿が変わってしまった九井だった。
久々に会う彼に赤音は前髪を整えて小走りに近寄る。
化粧で隠しているとは言え、近くで見たらまだ少し違和感がある顔の左側。この生活にも慣れてきたとは言えど、今でも伊達メガネとマスクはマストアイテムだった。
九井は赤音の姿を見つけると微笑みながらこちらに向かって手を挙げる。
「赤音さん。コレ、手術費用の足しにしてよ」
突然、彼はそう言いながら赤音にそこそこ厚みのある封筒を差し出してきた。彼の言葉と封筒のサイズからして、中身はおそらく現金だろう。もし中身が全部千円札だとしても、一介の中学生が持っているとは思えないくらいの金額だ。
「これ、どうしたの?」
「……ちょっと、ね」
言葉を濁し視線を彷徨わせる彼に、これは決して綺麗なお金じゃないことを悟る。そこでふと、気づいてしまった。あの夜、青宗が言っていた言葉の意味を。
突然暴走族になったのも、チームの復活に自ら乗り出したのも。
彼に、こんなことをさせてしまったのは自分だ。
赤音はやんわりと九井の手を押し戻す。
「受け取れないよ」
「……なんで」
「それははじめくんが一番よくわかってるでしょ?」
そう返せば、九井はふぅーっと深く息を吐き出して封筒を持つ手を下した。
申し訳なさそうにこちらを見つめる彼は困ったように眉を下げている。
「あー、うん。なんとなく、突き返されるかな、とは、思ってた。……赤音さん、イヌピーが不良やってんのも心配してたし、あんまいい印象なんだろうなって。でも、オレ……ガキだから。手っ取り早く金稼ぐの、コレしか思いつかなくて」
子供なりに一生懸命考えて、実行して、得たお金。赤音を幸せにしたくてかき集められた想いの形。
でも、それは九井の人生を犠牲にして手にしたものだ。
「はじめくん。この痣は、はじめくんのせいじゃないよ」
頭ひとつぶん上にある彼の目をじっと見つめる。
数年前にこの話をした時は自分よりもずっと小さかったのに。ランドセルを背負っていた純粋な彼は、もういない。目をキラキラさせながら、一生好きだと言ってくれた彼は、もう。
「ねぇ。はじめくんはさ、私のこと好きって言ってくれるけど、それは、罪悪感なんじゃないかな。私の顔にあるこの痣を消さなきゃっていう義務感に駆られてるんだよ」
「ッ、そんなことない! オレ、今も、昔も、ずっと赤音さんが好きで……」
「はじめくんがいくらそう言ってくれても、……もしそれが本当なんだとしても、私がはじめくんの言葉を信じきれないの。私のこと好きって言ってくれるはじめくんのこと、疑っちゃうの」
「……っ、赤音さんのことが好きって、何回言ったら、……どうやって伝えたら、信じてくれる……?」
九井は黒い瞳を揺らしながら狼狽する。
そんな九井を優しく見つめ返して、赤音はふっと目元を緩めた。
「……私のことなんて忘れちゃったらいいんじゃないかな」
噓と本当が半分ずつ。彼の想いを信じたい気持ちも、彼を自由にしてあげたい気持ちもどっちもある。選ぶなら、彼がより幸せになれる方。今日までずっと彼に想われてきた分だけ、彼の未来を思いやりたい。
「そんなの……無理だよ……。だって、好きなのに」
「……はじめくんがそう言うから、私、あまえちゃうんだな」
「あまえてよ。そうじゃないと、オレ、」
「この火傷を見る度に、はじめくんが悲しそうな顔をするのが嫌なの」
九井の言葉を遮ってそう言えば、彼は目を見開いて言葉を飲み込んだ。
赤音は一呼吸置いて、優しい笑顔を浮かべる。
「私ね、大学卒業したら県外に就職しようと思ってるの」
「えっ」
「関東じゃないよ。そうだなぁ……中学生のお小遣いじゃ、全然行けない距離」
九井はぐっと顔の中心に力を込めて悔しそうに地面に視線を落とす。
赤音よりもずいぶん大きい自分の足。身長は追い越せても年齢だけは追いつけない。一生縮まらない距離。
「……オレ、バイトするし」
「中学生はまだバイトできないでしょ」
「……じゃあ、」
「また危ないことするならもう二度とおしゃべりしてあげないんだから」
「……高校に入ったらちゃんとしたバイト、するし。シフトいっぱい入れてもらえば」
「はじめくん」
名前を呼ぶと彼は泣きそうな顔で赤音を見つめた。
九井が赤音を想う気持ちが溢れて伝わってくる。その視線が痛い。受け止めきれない感情が切ない。
「ねぇ、赤音さん。覚えてる? その火傷、オレが消してあげるって言ったの。オレ、今でも諦めてないよ。もちろん今度はちゃんと働いて稼ぐ。だから、その時は……また、会いに行ってもいいかな」
赤音はマスクの上から自分の左頬を撫でる。何度も塗り重ねたコンシーラーと、ファンデーション。それでも綺麗に消えない傷痕。皮膚の再生手術を何回繰り返せば元通りになるのかも分からない。何千万かけたって元通りにはならないかもしれない。消えない傷痕。
赤音にとっては忌まわしい傷痕。
でも、青宗にとっては。
この傷を愛と呼んだ彼にとっては。
この傷を消してあげると彼に言わせてしまっている自分が、酷い人間に思えた。
「……はじめくんはきっと、私のことなんか忘れちゃって、もっとかわいい子と付き合うよ。例えば……はじめくんのことが大好きな、同い年の子、とか」
実は結構近くにいるかもね、なんて。言わないけれど。
そうなったらいいなとも思うし、そうならなければいいなとも思う。
だって、あの子と私の顔はそっくりだから。それってなんか悔しいじゃない?
でも、彼は大事な弟でもあるから。好きな人と幸せになってほしいって思う。それはほんとう。
「オレ、10年後も20年後も赤音さんのこと好きだと思うよ」
「……はじめくんって意外と頑固だよね」
「赤音さんのことが好きなだけだよ」
五つ年下の男の子は、いつかの少年と同じような顔をして、泣きそうな顔ではにかんだ。
◇
黒龍の集会終わり。今日の青宗はいつもと少し雰囲気が違う。いつもなら集会が終わったあと彼のバイクで家まで送ってもらうのだが、今日は珍しく寄り道をして帰った。
なんてことない河川敷。すっかり暗くなって、静かに揺蕩う水面が月明りを反射している。蛍でも飛んでいればもっと幻想的な景色だったろうが、生憎季節外れだ。
彼に連れられるまま、無言で雑草の上に腰を下す。いつもより口数の少ない青宗はどこか怒っているようにも、落ち込んでいるようにも見えた。
「赤音となんかあった?」
「あ? なんだよ急に」
「ココが落ち込むのって、だいたい赤音のことだから」
「……落ち込んでねーし」
何も考えていなさそうなこの幼馴染は、ぼうっとしているように見えて実は結構周りを見ているのかもしれない。九井が赤音にフられてからそう経っていない。正直まだ引きずっている。小学生の頃からずっと好きで、今でも好きだから。その分立ち直るのにも時間がかかりそうで。
「当ててやろうか。赤音が県外行くって聞いて落ち込んでんだろ」
「だから落ち込んでねーし」
こつん、と隣に座る彼の肩に自分の肩をぶつける。青宗はふふんと笑って肩を小突き返してきた。いつものなんてことない小さな喧嘩。傍から見ればじゃれ合いかもしれない。
「つっても、赤音もそんな遠くまで行くわけじゃねーよ。多分。だからそんな落ち込むなよ」
からかうようにそう言う彼に、あぁ、彼女はまだ話していないんだ。フッたことを、と悟る。彼女が少し遠くに行くだけなら、ぜんぜん、こんなに落ち込まない。こちとら、フられた日から毎日、明日世界が終わればいいのにって思ってる。今は彼女の名前を聞くのも辛い。
「もーいーって。その話」
「んだよ。励ましてやってんだろ」
「お節介。ありがた迷惑。善意の押し付け。厚かましい」
「それは言いすぎだろッ!」
わっ、と青宗が飛びかかって来て九井はどさりと芝生の上に押し倒された。そのままぐりぐりと頭を撫で回される。あぁ、もう。セットした髪の毛が台無しだ。
仕返しと言わんばかりに九井も青宗の頭をぐしゃぐしゃとかき乱す。乱れた髪の毛で前がよく見えないけれど、彼は楽しそうに笑っていた。
草の匂いと、少し冷たい空気。湿った土の温度。頭を撫で回す大きな手。
「だーもー! いい加減放せって!」
九井は青宗の両手首を掴むとぐーっと外側に引っ張った。乱れた金色の髪の毛が青白く光っている。青宗は、ふふっといたずらっ子のように目を細めて笑った。揉み合ったせいかほんのり頬が上気している。その無邪気さは、彼女によく似たかんばせも相まってどこか少女のようでもあった。
九井は両手をそっと彼の白い頬に伸ばす。
碧い瞳が少し緊張したように揺れた。
「……オレ、赤音さんにフられたんだ。火傷を見るたびに、オレ、悲しい顔してるんだって。この罪悪感を、好きって気持ちに変えてるだけだって」
青宗はふっと息を止める。
綺麗な肌。淡い唇。長いまつげ。少女のようなかんばせをした男の子。
恋したあの人と同じ顔。少しだけ、心臓が痛い。滲む月光に視界が歪む。
あの時。自分がもっとはやく彼女を助け出していれば。
彼女も、こんな綺麗な顔で笑ってくれたのかなぁ。
「……なんで、イヌピーだったんだよ」
玄関に近い場所にいたのが彼女じゃなくて。もし彼と彼女の居場所が逆だったら。そうしたら。
瞬きをすると視界がクリアになる。そうして、目に映ったのは傷ついた顔をした少年のかんばせだった。
「あっ……ちが……」
咄嗟に取り繕う。しかし。
心のどこかで思っていた。
これは本心だ。違わない。何も、違わない。
自分は決して綺麗な人間ではない。目的のためには手段を選ばないし、聖人君主には到底なれない。こんな最低なことを心の底に秘めている、卑しい人間だ。
けれど、彼にだけは言ってはいけない言葉だった。
「……ごめ、ん……イヌピー……」
おずおずとその頬から手を離す。と、彼の手がそれを引き止めた。
彼の左頬に添えられた右手に、青宗の左手が重なる。
「オレだって、ずっと思ってた。赤音がオレだったらよかったのに、って。火傷を負ったのも、ココに助けられたのも、……ココが好きなのも。ぜんぶ、オレだったらよかったのに。オレだったら、ココを泣かせないのに」
覆い被さったままの彼が距離を縮めてくる。
「……イヌピー?」
こつん、とおでこがくっついた。至近距離にある彼の顔は、夜だというのに夕焼けに照らされたみたいに赤い。
「好きだ、ココ」
「えっ……」
「赤音のことばっかで全然気付かなかったろ」
「えっと……あ、……その……」
その視線から逃げようとうろうろと目を彷徨わせるが、この距離ではどうにもなりそうになかった。
告白。したことはあるけれど、されるのは初めてだ。これは、結構恥ずかしい。というより、どうしていいかわからない。返事をするべきなんだろうけど、でも。どうしよう。勇気が。いや、勇気ってなんだ。するのも勇気がいったがされるのも勇気がいるのは今日初めて知った。
九井が身を固くしていると、青宗はすっと体を起こした。ほっと息を吐くと、彼が手を差し出してくる。素直にその手を取って身を起こせば、青宗も恥ずかしそうにそっぽを向いた。
「ごめん。困らせた。でも、返事、……ほし、い……から……」
「うん……」
「その、……また、今度、聞かせて」
「わ、かった」
「じゃあ、えっと……帰る、か」
「お、おう……」
なんだか二人、よそよそしい雰囲気のままバイクに跨る。正直、このまま走って帰るからここで解散にしよう。って、言いたい。でも、はやく乗れって恥ずかしさを隠したむすくれ顔で手招きをされたら、そんなの断れないじゃないか。
冷たい風が火照った頬に気持ちがいい。少しだけはやい心臓の音が、彼に聞こえていなかったらいいなって思った。
◆
寝心地の悪いソファの上で目覚めた。傷んだ革はべろべろに剝がれかけていて柔らかい。腹の上には見慣れた白い特攻服がかかっていた。布団の代わりだろうか。
九井はぐーっと体を伸ばして周りを見渡した。全然知らない場所だ。割れた窓ガラスに雑に貼られたガムテープ。埃の舞う床。錆びついた工具。廃墟、っていう言葉がぴったりかもしれない。
さて、ここはどこだったか。
たしか昨日は青宗にバイクで送ってもらったあと、そのまま風呂に入ってすぐ寝てしまった。そわそわして寝つきは悪かったけれど、布団の中で目を閉じたのが最後の記憶だ。
「あ、ココ。起きた?」
「ん……」
後ろから聞き慣れた声がする。なんだ、彼も一緒か。
ここで寝ている経緯がうまく思い出せないんだ。イヌピーは何か覚えてる?
そう聞こうと思って声のした方を振り返る。が、その違和感に言葉を飲み込んだ。
「どうした。変な顔して」
「あ……っと……」
「もしかして体痛いか? 悪ぃ。無理させた」
「や、全然。ん? うん。痛くない」
九井は両腕を回して自分の体の調子を確認する。痛みはない。が、身につけている黒いTシャツは汗でもかいたのかしっとりと濡れていた。
「そうか。体大丈夫なら風呂行くか?」
「ん?」
「帰りにコンビニでメシ買って帰ろ」
まるで一緒に住んでるみたいな口ぶりにまた違和感を覚える。彼は黙々と着替えとタオルの準備をしていた。適当に袋の中に投げ込んでいるのを見るに、多分銭湯に行くつもりなのだろう。
いつもより少し大人びて見える彼の横顔。声も、しゃべり方も、九井の知る青宗だ。なのに。
「ん」
青宗がこっちにパーカーを投げて寄こした。たぶん、着替え。オマエも準備しろ、ということかもしれない。
「これオレのじゃねーけど」
蛍光色のピンクをしたそれは間違いなく彼のものだ。彼はキツイ色の服を好んで着るが、九井はもう少し落ち着いた色味の服しか持っていない。
「それ着とけよ。寒ぃだろ」
青宗は着替えの詰まった袋を小脇に抱えるとバイクの鍵をチャリンと鳴らした。もう準備万端らしい。
「やっぱ体しんどいか?」
「いや、大丈夫。行く」
ソファから立ち上がる。しかし、九井の足はどこかおぼつかなくて、そのまま不格好に床の上に膝をついた。半ばコケるようにソファの陰に隠れた九井に、青宗がせわしない足音を立てて近づく。
「ココッ」
ソファの背からこちらを心配そうに覗き込む彼。
たしかにコケたのに、全然痛くてなくて。そうしてようやく、あぁ、これは夢だと悟った。
痛みのない体も、見慣れない場所も、少し雰囲気の違う青宗も。
伸ばされた手を掴んで、彼の碧い瞳と目を見つめた。
「……なぁ、イヌピー」
「あ?」
「その痣、どうしたんだ?」
彼の顔の左側には、彼女と同じ火傷の痕が刻まれていた。一生消えない傷。九井の罪。
それは、彼女のものだった。
「あー……」
青宗は九井を引っ張って再びソファの上に座らせると、自身もその隣に腰掛けた。少し寂しそうに微笑む彼は、やっぱり、少しだけ大人っぽい。
青宗はふっと目を細めて九井の肩に頭を乗せてきた。その甘えたような態度にびくりと跳ねて身を固くする。その反応に青宗はくすくすと笑いを噛みしめた。
「オレさぁ、すげーズルしてたんだ。アイツの好きって気持ちにつけこんで。だから……これはオレのワガママかもしんねーけど、オマエらが幸せになる未来がひとつでもあるなら、その未来を見てみたいって思うんだ」
突然何を言い出すんだろう。そう思ってそうっと彼の顔を盗み見る。
穏やかで、でも、少しだけ傷ついている。愛しい記憶に想いを馳せるような。どこか寂しい表情。
「オレは……オレたちは、たくさん間違えて、傷つけて、それでも、今がいちばん幸せだって思える道を歩いて来たから。だから、オマエにも、今がいちばん幸せだって思える未来に向かって、歩いてほしい」
夢の中の彼は、九井の知らない誰かのことを好きなんだろうと思った。けれど、それはいい思い出ばかりではなくて。喧嘩したり、すれ違ったり、色々あったんだろうなぁって想像する。今の自分だって、たくさん悩んで、それでも彼女を好きでいることをやめられなくて、辛いから。想像だけど、少しくらいは彼の気持ちがわかる気がした。
彼の言う幸せな未来ってなんだろう。
誰かにとっての幸せも、自分にとっては不幸せかもしれない。誰かの受けるはずだった不幸が、巡り巡って自分に降りかかるかもしれない。そういうつじつま合わせを、神様がどこかでしている。
選んだもの。選べなかったもの。こぼれ落ちたもの。大事に抱きかかえたもの。
つじつま合わせの世界を生きてきた十数年。
まだほんの子供だけれど、今日に至るまでの間に後悔してきたことはそれなりにある。
テスト勉強もっとがんばっとけばよかったなぁ、みたいな小さなことから、誰かの人生を左右するような大きなことまで。
これまで選び取ってきたものはすべて、幸せな未来に繋がる選択だっただろうか。正直、今がいちばん幸せかと問われれば素直に頷けない部分がある。やっぱり悩みは尽きないし、うまくいかないことだらけだし。でも、これからの選択が今を変えるかもしれない。それを選ぶのは、九井自身だ。
青宗もきっと、そうやって過去を歩いてきたんだろう。
傷ついて、傷つけて、それでも歩幅を合わせて。
その傷すらも愛おしいと思えるくらいの痛みと共に。
「折れねぇ心があれば未来は変えられるって、教えてくれた男がいたんだ。だからココも、最後まで、かっこわるくても、しつこく足掻けよ」
赤紫色の肌の上で、彼の綺麗な碧い瞳がふっと細まった。
青宗はソファから立ち上がると、着替えの入った袋を持って出口の方へ向かう。たてつけの悪そうな扉。割られたガラス窓を塞ぐようにガムテープが乱雑に貼られている。本当に、ここはどこなんだか。
「じゃあな、ココ」
彼はバイクの鍵を鳴らして手を振った。なんだよ、一緒に銭湯に行くんじゃなかったのか、って、思ったけど。うまく声が出ない。あ、たぶん、もう起きる。
ちょっと残念かも。
だって、これを逃したら、もう。彼には会えない気がしたから。
九井はソファの背に身を乗り出してカビ臭い空気を吸った。
「じゃあな、イヌピー!」
彼は綺麗な顔で笑う。好きな人によく似た、あの美しいかんばせ。
でも、夢の中の彼に、あの少女の面影はなかった。
◆
目覚めると見慣れた天井があった。間違いない、自分の部屋だ。
九井はベッドから起き上がってぐーっと背伸びをする。ぽき、と首の骨が鳴ると同時に気持ちのいい痛みが走った。うん、現実だ。
ベッドから降りて、制服に着替えて、鞄を持って一階に降りる。
洗面所で身支度を整えて、両親と顔を合わせることもなく玄関を出た。朝の冷たい空気が清々しい。
「ココ」
玄関先には寝癖をつけたままの青宗があくびを嚙みしめながら九井のことを待っていた。
もちろん、彼の顔に痣はない。いつも通りの朝。彼のバイクで学校まで行く日常。
「あ……今日は来ないかと思った」
「……実はちょっと迷った」
そうしてどちらともなくくつくつと笑う。
昨日あんなことがあったから、もう友人関係を継続していくのは無理かもしれないって、実はちょっとだけ不安だった。だが、それは杞憂だったようだ。
二人を乗せたバイクはゆったりとしたスピードで走り出す。
「オレさー、昨日変な夢見て」
「夢ぇ?」
「そー。イヌピーが出てくんの。他に好きなヤツいるみたいだった」
「はぁっ!? 二股じゃねーか!」
「二股?」
「あっ? 浮気か!?」
どっちも違うだろ、と青宗の背中で笑うが、当の本人は許せねぇだのなんだの言っている。夢の中の自分に怒ってどうするんだ。
でも、痣のことは言わなかった。
その痣がなぜ彼にあったのかはわからない。夢の中の彼も結局答えてはくれなかった。
昨日彼からあんなことを聞いたからかもしれないし。夢って支離滅裂だし、そんなもんなんだろう。
「イヌピー!」
バイクの走行音に負けないように大きな声で彼の名を呼ぶ。
少しの勇気と、覚悟。
「オレ! 好きな人いるから! イヌピーとは付き合えない! ごめん!」
ぐわん、と車体が大きく振れた。まさか今日、しかもこんな時に告白の返事をされるとは思っていなかったのだろう。かなりの動揺が伺える。
ぐらり、ぐらり、と蛇行運転をする白いバイクはやがて真っ直ぐに走り出す。少し、スピードが上がった。
「……クソーーーッ! フられたぁ!」
初めて聞くような大声に、びくん、と、今度は九井の方が驚く番だった。バイクはぐんぐんと加速して学校とは反対の方向へ走り出す。九井はばしばしと青宗の背中を叩くが、彼は振り返らずにバイクを走らせた。
「ココ! 今日は学校サボって付き合え!」
「あ?」
「ダチがフられたんだから慰めろっつってんの! マブだろ!」
「ふ、はは! なんだよそれぇ!」
大声に大声で返す。風に混じって冷たい水滴が九井の頬を叩いた。
二人を乗せたバイクは青宗の気の向くままコンクリートをひた走る。ゲームセンターで遊んで、ファミレスで腹を満たし、ボーリング場でガーターを連発して青宗にケラケラと笑われた。
学校が終わる時間になると大寿から「今日の集会は出られるのか」という電話が来て「イヌピーが失恋して傷心中だから出られない」と返すと怒鳴り声が聞こえてきた。さすがに明日は二人で正座になりそうだ。
日が沈むと昨日と同じ河川敷で雑草の上に寝転がった。久々に一日中遊んだ気がする。何も考えないでただ友達とバカみたいに笑い合ったのは何年ぶりだろうか。
「はー……なんかいつもより疲れたな」
「ココ、明日筋肉痛かもな」
「いやいや。運動会じゃあるまいし」
「……? 運動会でも別に筋肉痛なんねーだろ」
「……聞いたオレがバカだったな」
こちとら毎年ちゃんと筋肉痛である。これは彼の言う通り明日は筋肉痛かもしれない、と明るい月を見上げた。
「今日、悪かったな。学校サボらせて」
「あ? いいよ、別に。ダチが泣いて頼んでんの、断るわけねーじゃん」
「泣いてねーし」
「ククッ。つーか、フった本人に頼むか? 普通」
「……だって、ココしかいねぇだろ」
寂しい時に隣にいてほしいと思うのも、悲しみを共有したいと思うのも。それくらい、彼の中で九井という存在は大きい。
彼を好きになれたら、きっと、幸せなんだろうなぁ、なんて。昨日の夢を反芻する。
「あーあ。初恋ってうまくいかねーな」
「ほんと。悔しいぜ」
他人事みたいに言い合って、また笑った。
隣に寝転がる青宗の方を向くと、九井の視線に気づいた彼もこちらへ顔を向けた。
彼の金色の髪の毛が月明りに煌めいている。
「でもさ、オレ。諦めねぇで頑張ろうと思うんだ」
「あ? フられたのに?」
「100回フられても101回目にはOKしてもらえるかもしんねーじゃん」
「それはさすがにしつこすぎるだろ」
「うるせ~」
しつこく足掻けと言ったのはそっちのくせに。あぁ、それは夢の中の彼が言ったんだっけ。
「じゃあ、オレもまだ頑張ろうかな」
「ん?」
「ココがフられる度にオレが慰めてやるよ。そしたら、100回目にはココがオレを好きになるかもしんねーだろ」
「人のこと言えねぇじゃん」
ケラケラ笑うと彼も目を細めて笑った。
さっきフってフられてがあったばかりとは思えないくらい、なんてことない、ただの友達みたいな空気感。当たり前のように軽口を言い合っているが、よく考えたらたぶんちょっとだけ変な関係だ。
「もし、初恋が実ったら……その時は……祝ってやるよ。ま、無理だろうけど」
そう言って青宗はいじわるそうに笑う。腹いせにそのニヤついた左頬を引っ張ると、彼は昨日と同じように九井の頭を撫で回した。
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