【イヌココ】哀に触れる

*アテンション*
・中学~15巻幹部軸イヌココ。ココ赤前提。
・弊イヌココ(15巻幹部軸)はふたり揃って天竺に属した設定が基盤にあります。
⇒詳しくはこれ(【イヌココ】刹那に永遠を閉じ込めて)
※読まなくても読めます。
・花吐き病パロ。追加の自己設定あり。
・嘔吐表現注意。イヌココ以外のキャラクターの死亡描写アリ。
・その他いろいろなんでも読める人向け。



   ◇

 九井が初めて花を吐いたのは中学生の頃だった。白くなった唇から小さな淡い藤色の花びらを吐き出したのを見た時は驚いたものだ。赤音が死んでしばらく経った頃のことだったから、てっきり彼が誰か別の女の子を好きになったんじゃないかと思って心臓がぎゅうっとなったのを今でもよく覚えている。
 けれど、図書館の窓際で心地よい風に吹かれながらまどろんでいた時、彼が自分の足元で赤音の名前を呼びながら泣いているのを聞いて、あぁ、やっぱり彼はまだ赤音が好きなんだなって思った。それと同時に、その花は叶うことのない恋のなれ果てなのだと思った。
 彼は一生完治しない恋の病を患ったのだ。

   ◇

 嘔吐中枢花被性疾患-オウトチュウスウカヒセイシッカン-
 通称花吐き病。片想いを拗らせると花を吐くらしい。それ以外特に症状はなく、別段命に関わるような病でもない。片想いの相手と両想いになるまで花を吐き続けるだけの病気だ。なんともメルヘンチックな恋の病である。
 嘔吐、と言ってもその程度には個人差があるようで、最初こそ九井もえずくように花を吐いていたが、中学を卒業する頃には空咳でもするみたいに花びらを吐くようになった。慣れたのか、それとも病状が良くなっているのかは不明だけれど、けそけそと空気を吐く度に淡藤色の花びらが舞うのはまさにメルヘンそのものだった。
 この奇病に罹ったからといって特別困るようなこともないが、特効薬や治療法はないため完治するまでは日常生活が煩わしいくらいだろうか。
 あとひとつ厄介なことと言えば、この病は伝染する。患者の吐いた花に触れれば自分も感染してしまうのだ。そのため、九井はいつも吐いた花びらを1枚残らず紙袋に搔き集めて丁寧に焼却していた。花びらが灰になるまで、その様をじっと眺めて待つ姿はどこか不気味だった。
 いくら花びらを燃やしても、九井の中にある恋心は灰にならないのに。
「最近調子いいな」
「ん?」
「花」
「あぁ。言われてみればたしかに」
 年が明けてすぐのまだ寒い季節だというのに、お互いシャツ1枚でアジトから出て近くのコンビニに向かう。どうせすぐそこだし。すぐ帰るし。おでんとか、肉まんとか、何か温かい物が食べたいなぁと考えながらコンビニまでの短い道を行く。
「実はもう治ってたりして」
「完治する時には百合を吐くらしいけど、まだ吐いたことねぇな」
「ココが人類初のユリを吐かずに完治した花吐き病患者かもな」
「お、やべぇなそりゃ。歴史に残るかも」
「教科書にも載るな」
 そんな冗談を交わしながらブーツの先で小石を蹴とばす。
 ここ1年ほど九井の嘔吐症状は落ち着いている。どうにも、好きという感情のメーターが大きく振れた時に花がせり上がってくるらしいのだが、黒龍としての活動を始めてからはそっちの方に気を取られているようであまり赤音への恋心に向き合うタイミングが少ないようだ。いいことなのか、悪いことなのか。治るのなら治してやりたいけれど、残念ながらそれは青宗にはできない。だって、青宗はもうずっと前から九井のことが好きだから。今この瞬間も、彼に恋をしている。他の誰かを想って花を吐く彼に。
 もうすぐコンビニだ、というところで目の前にぬっと影が現れた。

   ◇

 東京卍會伍番隊隊長、武藤泰宏。
 この男は腹心である三途春千夜と共に天竺へ寝返った。東京卍會を裏切ったのだ。
 裏切り者たちと共に天竺へ行くと言った九井について青宗も東京卍會を抜けることにした。ほんとうは、抜けたくはなかったけれど。九井と東京卍會を天秤にかけるなら迷わず九井を選ぶ。彼のためなら死んだっていいと思えるくらい、彼に盲目的な恋をしているのだ。
 結局、あの朴訥とした図体のでかい男に拉致られて、殴られるだけ殴られて、解放されたのはすっかり陽が沈んだ頃だった。
 おでんも肉まんもないまま、体中の痛みだけを引きずってアジトに帰る。寒さが傷口に凍みて痛かった。
 汚れを拭うことも億劫で、アジトのボロいソファに倒れるように横たわるとそのまま眠りにつく。かろうじて九井の方が傷が少ないようで、彼が薄い毛布をかけてくれるのを暗闇の中で感じた。
 彼がいる。側にいてくれる。柔らかい温かみに包まれる。
 そのまま心地よい温もりの中にいると、遠くで咳き込む声が聞こえた。
 どれくらい寝ていただろう。けそけそと乾いた咳をする彼の声。何度も隣でその背をさすった。メルヘンチックな恋の病の音。
「ココ……?」
 まだ少し眠たい目を擦りながら起き上がると、肩から毛布が落ちた。やっぱり、彼がかけてくれてた。
 青宗は声のする方へとふらふら歩み寄ると、小さく丸まった背中をそっとさする。
「大丈夫か? なんか、いつもより酷い……?」
「っ、はぁ……久々、だからか、もっ……ぅ、」
 九井の白い唇から花びらが舞う。淡い藤色の、小さくて細い花びらが。褪せたアジトの床へ雪のように積もる。
 けそけそ、げほげほ。彼の嘔吐症状はどんどん酷くなる。
 そんなになるまで何を想っているの。
 口をついて出そうになる言葉を飲み込む。
 苦しそうに目を瞑って、懸命に咳を抑え込もうとする彼の背を、青宗は撫でてやることしかできない。悔しい。彼の病を治してやれるだけの感情は持ち合わせているのに、この想いは彼にとって無意味で、無価値だ。薬にも毒にもなれない恋心。
「はぁ……はぁ……悪ぃ、イヌピー……量、多いから、もう、離れてろ。感染る」
 彼は吐いた花びらを搔き集めるといつものように紙袋の中へと放り込んだ。ふわり、ふわり。重みのないそれは羽のように舞って九井の指の隙間からこぼれ落ちる。
 淡藤色の花びら。何の花なのかは知らない。どこかの公園にでも咲いていそうなくらい平凡な見た目の花だし。図鑑でも引っ張り出してひとつずつ見比べない限りわからないだろう。
 青宗は、九井の周囲に舞うそれにおもむろに手を伸ばす。
 触れてみたかった。彼の想いに。叶わない恋のなれ果てに。
「っ、オイ!」
 制止の声を振り切ってその花弁に触れる。触れば何かわかるかと思ったけれど、それは何の変哲もないただの花びらだった。人が吐き出したということ以外、何も。
「ぅ、」
 腹の奥からせり上がってくる嘔吐感。これが彼の抱える苦しみ。叶わない恋のなれ果て。
「ぅえっ」
 青宗の口から吐き出されたのは紺青色の花びらと黄色の花びら。どちらも美しいひし形をしているが形が微妙に違う。青い方が若干でぶっちょだ。たぶん、色違いとかじゃなくて種類が違う花。けれど、これが何の花なのかはわからなかった。
「はぁ……花って個人差あるのか……」
 自分の吐いた花を見て最初に思ったのがそれだった。てっきり自分からも小さな淡藤色の花びらが出てくると思ったのに。次に吐く時は赤とかピンクになっているかもしれない。やっぱりメルヘンチックな病気だ。
「イヌピー……」
 声のした方を振り向く。九井が紙袋を片手に目を丸くしてこちらを見ていた。
「オマエ、好きなヤツいたのか……?」

   ◇

 花吐き病には潜伏期間がある。患者の吐いた花に触れたからといってすぐに発症するわけではない。感染者が片想いを拗らせるまで、その病気は体内で息を潜める。花の開花を今か今かと待ちながら。
 花に触れた直後に青宗が花を吐いた、ということに衝撃を受けたらしい九井はそれから少し口数が減った。バイクと黒龍にしか興味がないと思っていた幼馴染が、花を吐くくらいの恋愛をしていたのだ。まぁ彼の気持ちもわからなくはない。しかし、青宗が永いこと九井に恋をしていたのがこれっぽっちも届いていなかったようで、なんだか悔しいような、安心するような。
 いっそのこと告白してしまおうか。結果などわかりきっているけれど。
 だが、これで晴れて青宗も一生完治しない恋の病患者である。彼とお揃いだ。それはそれで悪くなかった。
「ココ。そろそろアジトを出ねぇか?」
「えっ」
 関東事変から数年。天竺と東京卍會がひとつの組織になってから東京卍會のチームの色はガラリと変わった。名前こそ東京卍會と謳っているが、内情は天竺の政治色が強い。
 それどころか、元東京卍會のメンバーの粛清計画があるという噂だ。
 もしあの時九井を東京卍會に引き留めることに成功していたら。もしあの時九井と一緒に天竺へ行かなければ。自分たちもその粛清対象に入っていたかもしれない。
 そう思うとゾッとした。
「なんで」
「なんでって。さすがにそろそろガタが来てんだろ。それに、オレらを幹部にってイザナと稀咲から話もあったし。東卍の幹部がこんなボロ屋に住んでるなんて、部下に示しがつかねぇ」
「あ……そう……そうだな、うん」
 九井は青宗の突然の提案に驚きつつも、その理由になるほどとゆっくり頷く。
 しかしその顔はまだどこかしら納得がいっていないような感じだった。
「んだよ、変な顔して」
「いや、別に」
 青宗とて思い出深いこのバイク屋を出るのは嫌だ。何せ幼少期からの思い出が詰まっている。けれど、よくよく考えてみれば青宗の居場所はここでなくったっていい。初めて九井を失いそうになったあの日によくわかった。
 青宗がいちばんほしいものは九井の隣だ。彼さえいれば、場所はどこだっていいのだ。
「新しい家どこら辺がいいかな。二人だしそんな広くなくてもいいけど。ココは個室ほしい? オレはなくてもいい」
 できれば都内がいいけれど、都内の家賃がどれくらいするのか全然知らない。新宿とか渋谷に住めたらかっこいいなぁって思ったけど、ちょっと騒がしいだろうか。新しい新居に思いを馳せていると、九井はまだ変な顔のままこちらを不思議そうに見ている。
「ココ?」
「あっ、うん」
「なんだよさっきから」
「いや……ここ出ても、オレと一緒に暮らすつもりなんだなって……思って」
「あ? イヤかよ」
「いやじゃ、ない、けど」
「けど?」
「オレとずっと一緒だと、治らないだろ、ソレ」
 ソレ、とはつまり。このメルヘンチックな恋の病のことである。彼は青宗が誰に想いを寄せているのか知らない。だからこの病はいつか治ると思っている。
 ここを出たら病を治して、その想い人と一緒にでもなればいいだろう、なんて思っているんだろう。九井の考えていることなど丸わかりなのだ。
「……オレはココと一緒がいいんだよ。一緒にいても、いなくても、どうせ治んないから」
「どういう意味だ?」
「そのまんまの意味」
「は? 本当に治らないのか? ずっと? 1ミリの可能性だってないのか?」
「1ミリの可能性だってねぇよ。治んない。一生」
 きっぱりと言い切ると、彼は目に見えてしょぼんと落ち込んだ。もしも彼の頭に動物の耳がついていたらぺったんこになっているくらいの落ち込み具合だ。
 青宗の恋が叶わないことを残念に思っていてくれることを、喜べばいいのか、悲しめばいいのか。
 この病を治せるのは九井だけだと知ったら、彼はどんな反応をするだろう。
「わかってて触ったんだ。ココのせいじゃねぇよ」
 そう言っていつもの癖で九井の背中をさすると、彼はふぅっと短い息を吐き出した。
「……少し羨ましいな」
「何が?」
「イヌピーにそこまで想われてる相手」
 それはオマエだよ。って、言えたらいいのに。その羨ましいって気持ちは誰に向かっているんだろう。赤音なのか、それとも赤音のレプリカなのか。どちらにせよ、ニセモノでは本物の愛を救えない。
 九井が花を吐き続ける限り、青宗は赤音のレプリカでしかないのだ。
「両想いだったら良かったのにな。オレも、オマエも」
「お互い不毛だねぇ」
 けほ、というなき声と共に青い花びらが舞った。

   ◇

 大寿を殺した。
 命令だった。
 彼は自分たちのボスだった時から海の生き物が好きで、クリスチャンだなんてところも意外で。顔に似合わない趣味だな、って九井と一緒に話したのを昨日のことのように思い出せる。あの店には彼の理想が詰まっているような、大きな水槽があった。きれいだな、って素直に思ったのと同時に少し羨ましくなった。自分たちは最良の選択を続けて、この場所に辿り着いたはずなのに。理想郷を背に自分たちと対峙する彼が、いつかに見たヒーローのようにかっこよく思えたのだ。
 けれどそれも束の間で。結局、いくら理想郷を築いても死んでしまっては元も子もない。そう、どこにいるかではなく、誰といるか。それを選べなかったから大寿も最愛の弟を喪った。大事なものからは絶対に手を離してはいけないのに。
 あの日からずっと、青宗の手には九井だけがいる。後悔はしていない。過去も、今も。
「花垣と橘の方も終わったそうだ」
「じゃあ今日の仕事は終わりだな」
「あぁ、あとは処理班に任せる」
 九井が電話をしているのを待つ間、血の気が失せていくかつてのボスを見下ろす。強くて、到底敵わないと思っていた男。圧倒的な暴力も、鉛玉の前には意味をなさない。無常の理だ。
「イヌピー?」
「あ、電話おわった?」
「終わった。なんかボーっとしてたけど、さっき大寿に言われたこと気にしてんのか?」
 少し心配そうにこちらを伺う彼に、大寿の言葉を思い返す。
 心を満たしたか、と。彼は問うた。
 それに少しも揺らがなかったのか、と聞かれれば嘘になる。それでも、青宗の答えは変わらない。
「気にしてねぇよ。しょせん過去の男なんだろ?」
「ククッ。そーだな」
 九井が笑うのを見て青宗は、けほ、と黄色い花びらを吐き出す。めんどくさいなぁと思いながら落ちた花びらを靴底ですり潰した。
 結局、赤もピンクも出なくて。あれからずっと紺青と黄色の花だけを吐き続けている。何の花なのか気になって調べようかとも思ったけれど、何せ出てくるのは花びらだけで花そのものは出てこない。花びらから花の種類を特定できるほど詳しくはなかったから、調べることは諦めてしまった。まぁ、メルヘンチックな恋の病だし。実在する花かどうかも怪しいし。
 外に待機させていた車に乗り込む。あとは家に帰るだけだから、運転手は自分、同乗者は九井の二人だけだ。
「今日は黄色だな」
「最近黄色ばっかだけど」
「ガキの頃は青が多かったよなぁ」
「そうか? ……そうかも。ココは同じのしか吐かねぇよな」
「な。なんの差なんだろうな、これ」
 走行音が響く車内。花を吐くことが日常になった今ではこんな会話も世間話の一種だ。花を吐くようになってそろそろ12年になる。九井はもう少し長い。お互い、10年以上も片想いを拗らせているなんて滑稽なことだ。
「ずっと気になってたんだけどさぁ……。イヌピーの好きな人って、誰」
「今さらすぎねぇ?」
「いや、うん。オレもそう思う」
 ずっと気になっていた、というのがちょっとだけ嬉しかった。気になりすぎて逆に聞けなかったヤツだ。九井は考えすぎてしまう一面があるし、12年もずっとソワソワ気になるまんまだったんだろう。それはちょっとかわいすぎやしないか。
 青宗はムッと唇に力を込める。破顔してしまいそうだ。
「言いたくねぇならいいんだけど。ただ、一生治んなくなるってわかってんのにオレの吐いた花に触ったのがさ、最近になってちょっと、なんつーか、変だなぁって……改めて思って。それってイヌピーの好きなヤツと関係あんのかなぁって気になってさ」
「余計なこと考えんなよ」
「考えるだろ。どう考えても謎行動だったし、アレは」
 たしかにそうかもしれない。あれは事故でもなんでもなく、青宗が自ら望んでやったことだ。彼の制止を振り切って、何の脈絡もなく急に花に触れた。奇行と取られたって仕方ない。
 もう、正直に話してみようか。実に12年だ。12年、否、それ以上秘めてきた恋だ。
「……触ってみたかったんだよ」
「花に?」
「あぁ」
 九井の恋に。
 ブレーキを踏んで車を停める。二人が住んでいるマンションの駐車場に着いた。エンジン音のなくなった静かな車内で、九井の方を振り向いてふっと目を細める。
「オレ、ココが好きだ」
 たとえ、赤音のことを好きでも。
 ぐっと嘔吐感が押し寄せてくる。口元を押さえると同時に青と黄色の花びらがまろび出た。痛い。恋の涙みたいだ。叶うことのない恋のなれの果て。心臓が痛い。叶わない片想いが燃えて灰になってるんじゃないかってくらい、胸が熱かった。紙袋と一緒に燃えていた、あの、淡藤色の花びらのように。
「……イヌピー」
 九井の震える手が青宗の背中をさする。ぎこちなくて遠慮がちなその手のひらに目の奥がじんとした。
 好きだなぁ、あぁ、やっぱり好きだなぁ。
 けほけほと花びらを吐き出す。こんなに苦しいのに、どうして片想いってのはやめることができないのだろう。リタイアできれば楽なのに。けれど、九井のことを好きでなくなる自分より、苦しくても痛くても、九井のことを好きでいる自分の方が何倍もいい。
 九井のことが好きだって、青宗の体ぜんぶがそう叫んでいる。
「ごめん。ココ。でも、ほんとにココのせいじゃねぇから。オレが勝手に好きになっただけだから。ごめん」
 顔を上げると揺れる黒い瞳とかち合った。どうしたらいいのか、どうすべきなのか、わからないといった表情だ。
「……ごめん。イヌピー……ごめん。……ごめん……」
 それは何に対しての謝罪なのか。
 これまで青宗の気持ちに気づけなかったことへなのか、病をうつしてしまったことへなのか、それとも、青宗の気持ちに応えられないということに対してなのか。
 九井にこんな顔をさせるために、花を触ったわけじゃなかったんだけどなぁ。
 少し血なまぐさい車内に、甘い花の香が充満した。

   ◇

 あれから。住居を別にしようか、と九井に提案してみたがのらりくらりと返答を先延ばしにされている。
 一緒にいるのが嫌じゃないなら青宗としては願ったり叶ったりだけれど、九井がもし無理をしているのだとしたら、それはいただけない。
 二人暮らしのマンションはそこそこの面積があり、広々としたリビングの他に個人の寝室や九井の執務室、青宗のトレーニングルームなどがある。贅沢で快適な生活を送っているが、自分に想いを寄せる相手とひとつ屋根の下というのもあまりいい気分はしないだろう。
「ココー?」
 彼の寝室の扉をノックする。もうお昼を過ぎているというのに彼はまだ起きて来ない。ぐっすり眠っているだけならいいのだが、もうすぐおやつ時だ。さすがに寝すぎである。
「昼飯食わねぇのか?」
 コンコン。もう一度ノックする。返事はない。
「開けるぞー」
 ドアノブを捻って室内に入ると、かさ、と何かを踏んづけた。
「ココ……!?」
 彼はベッドの脇でゴミ箱を抱えながら花を吐いていた。あちこちに花弁が飛んでいる。さっき踏んづけたのも彼が吐いた花びらだ。だが、その花びらは。小さくて愛らしい、淡い藤色の花は。
「なんだよ、この花……」
 茶色く乾いた、枯れ葉のような花びらだった。かさ、かさ、と音を立てる。みずみずしさのない、枯れてかさかさに乾いた花。
「ココッ、大丈夫か……?」
 ごほごほと咳を繰り返し、そして吐瀉物を撒き散らすように枯れ花を吐き出す。こんなのはメルヘンチックな恋の病でもなんでもない。あきらかに異常だ。
「医者呼ぶから」
 震える手でポケットの中からスマホを取り出す。だが、その手を九井に止められた。
「ココ……?」
「その、ぅ……ち、おさま……っ、から……」
「一体いつから吐いてたんだよ!」
「っ……ぁ、ぅ、」
 額に汗を浮かべながら花を吐く。これが恋のなれの果てだというのか。苦しんで、苦しんだ先にあるのが、こんなものだというのか。
 青宗は九井の背中をさする。子供の頃から変わらない手つきで、ゆっくりと。
 九井は深呼吸を繰り返しながらおもむろに顔を上げた。どうやら少し落ち着いたらしい。
「大丈夫か……?」
「はぁ……悪ぃ……、いつもは、もっとはやくおさまんだけど……っ、はぁ……」
「この花、なんだ。いつからだ」
 青宗は生気のない茶色く乾いた花弁を鷲掴んで九井の目前に突き出した。彼は気まずそうに目を逸らす。
「……少し前から」
「少し前っていつだ」
「……イヌピーに、告白された日から」
 ぐしゃり、と花弁を握りしめる。乾いたそれはバラバラに割れて、塵のように床に落ちた。
 彼を苦しめるためにこの病に罹ったわけじゃない。彼に寄り添いたかった。彼の悲しみに触れたかった。
 その身勝手な想いが、彼の恋を狂わせた。
「やっぱり、オレ出てくよ。荷物まとめて、すぐ。今日にでも」
「っ、イヌピー……!」
 立ち上がる青宗の服の裾を、九井の白い指先が捕らえる。
 そんなになってまで一緒にいなくてもいい。九井さえ側にいてくれればもう何もいらないけれど、それは九井を苦しめてまで欲しいものではない。最初から、彼の隣を望んではいけなかったのだ。
 九井が欲しがったのは赤音で、青宗じゃない。レプリカで満足できなくなった青宗はいらない。あの頃からずっと、この恋は無意味で、無価値だ。薬にはなれなかったけれど、毒にはなれた。有害な恋。
 げほげほ、と九井の咳が酷くなる。ここからいなくなれば彼は楽になるだろうか。また、あの淡い藤色の花を吐けるようになるだろうか。
 弱々しく裾を掴む手。簡単に振り払えるのに。そうできないのは、彼がまるで、青宗を求めているように縋るから。
 心臓が痛い。この期に及んでもまだこの体は花を吐こうとする。消えてなくなればいいのに。燃えて、灰になって。この恋、ぜんぶ。
「イヌピー、っ、……いぬ、」
 花びらの隙間から苦しそうに喘ぐ九井を見下ろす。彼の顔を見ているとどうしようもなく好きという気持ちがあふれてしまうのだ。花が。想いが。叶わない恋が。せり上がってくる。
「ココ。ごめん。好きだ。好きだから、だから。ごめん」
 愛してほしいんだなんて言ったら、今度こそ彼がどうなってしまうのかわからない。この想いは消えない。だから離れよう。十分伝わっているはずなのに、彼の手は強く青宗の服の裾を掴む。
「ぅ、……ぁ、おぇっ」
 九井の背が苦しそうに丸まると同時に大きくえずいた。吐き終えて肩で息をしながらゆっくりと体を起こす。
「……な、に……?」
 フローリングの上に転がる花。今までの花びらとは違う。花だ。花が、咲いている。
 初めてのことに青宗も驚いて足元を凝視する。九井は自分の吐き出した花をそっと手に取った。特徴的なその形には見覚えがある。
「……蓮?」
 小さく呟く九井の声を聞いてその花の名を思い出した。
 蓮の花。黒い、蓮の花だ。炭みたいに全部、余すところなく真っ黒になっている。こんな色の蓮があるのだろうか。それとも、この奇病特有の花だろうか。
「ココが今まで吐いてたのとは違う花、だよな?」
「あぁ……。オレのはもっとこう、公園とかに咲いてそうなくらい小さい花だった。蓮じゃない」
 九井の手の上に咲く蓮は黒々と輝いていた。
 この病は完治する時に白銀の百合を吐く。だが、九井が吐き出したのは漆黒の蓮。漆黒の蓮を吐き出すなんて症例、少なくとも青宗は知らない。
「ココ、体は大丈夫なのか?」
「え、あ……あぁ……。なんか、平気みたいだ」
 先ほどまで酷く咳き込んでいた彼は、今はそれが嘘みたいにケロッとしている。あの枯れ花はこの花を吐き出すためのものだったのだろうか。初恋みたいな淡藤色の愛らしい花弁も、命を終えたような枯れた細い花弁も、全部この黒い蓮に飲み込まれてしまったのだろうか。
「……花は、まだ出るか?」
「花、は……」
 青宗はしゃがみ込んで九井と目を合わせた。彼の小さな黒目が、揺れる。
「……ぅ、」
 途端、青宗は口元を押さえて蹲る。腹の奥から急に嘔吐感が押し寄せて来たのだ。苦しい。でも、痛くない。なぜだかすごく泣きたい気持ちになった。胸の奥につっかえていたものが取り払われていくような感覚。
「ぅえ、」
 吐き出したのは百合の花だった。銀色の、百合の花。初めて見るその花はパールのように細やかな光の粒子を纏っている。美しい花だった。不思議と涙が溢れる。なんで、という疑問を押しのけるように胸の内側がぐわんと熱くなって、満たされた気持ちになっていった。
「イヌピー。オレ、好きって気持ちになっても花吐かなくなった。イヌピーは?」
「……オレも。ココのこと、好きで好きで苦しいのに、全然、痛くない」
 九井の手が青宗の頬を撫でる。こぼれた涙が彼の白い指先を濡らした。
「イヌピー。オレ、イヌピーのことが好きみたいだ。多分、結構前から。ごめん、気づくの遅くて」
「……謝んなよ。元々オレは……ココの隣にいられりゃ、それだけで十分だったんだ」
「好きだ。イヌピー。好き。死ぬまで一緒にいて」
「言われなくても」
 瞼を閉じて唇を合わせる。少ししょっぱくて、柔らかい。このあたたかな温もりを知っている気がした。どこか遠くに置き忘れてきた恋が実を結ぶ。そんな懐かしさにも似た慈しみの心に触れて、百合がころんと蓮の方へ転がった。
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