【イヌココ+春ココ】沈黙に降る雪

*アテンション*
・梵天軸イヌココ+春ココ。
・ココ赤・ム三前提。
・イヌココも春ココも付き合ってない。
・幣春ココは天竺時代にムーチョくんの家で二人暮らしをしていた設定が基盤にあります。
⇒詳しくはこれ(オマエの居場所、オレが作ってやる)とこれ(【春ココ】火鉢の金魚【非公開】)
※読まなくても読めます。
・瞳石症候群パロ。追加の自己設定あり。
・死ネタ・メリバ。
・その他いろいろなんでも読める人向け。



   ◇

 “ソレ”は突然訪れた。何の前触れもなく、足音ひとつ立てないで、ひっそりと、九井の中に亀裂を生む。違和感、と呼ぶには“ソレ”の輪郭ははっきりとしていて、不思議なくらい自分の体に馴染んでいた。“ソレ”の正体なんて知らないはずなのに、ただ、漠然と、自分に死期が訪れたことだけは鮮明に理解した。ある種の清々しさまで感じる、なんともへんてこな感覚だった。
「……どしたぁ……?」
 のそり、と隣で寝ていた三途が寝返りを打つ。突然起き上がった九井のせいで目が覚めてしまったらしい。寝起きの少し掠れた声が九井を探してまどろんでいる。
「……悪ぃ、三途」
「ん?」
「オレ、明日のフライト……キャンセルで」
「…………あ?」
 上瞼と下瞼がくっついたままの三途は、大変ゆっくりではあるが、九井の言葉を懸命に取り込んで脳の中でぐるんぐるんと引っ掻き回す。そうして1テンポ、否、3テンポくらい遅れて飛び上がった。
「アァ!?」
 佐野万次郎が花垣武道とビルの屋上から飛び降り自殺をして数日。崩壊の一途を辿る梵天組織の混乱に乗じて幹部たちはそれぞれ海外逃亡の計画を企てていた。ひとりでどこか遠くに発つ者もいれば、三途たちのように二人連れ立ってどこかへ発つ者もいる。皆行き先はバラバラであったが、互いの健闘を祈り合うくらいの仲ではあった。
 三途と九井は明日の便で日本を脱出する予定であった。荷造りももう済ませており、あとは警察の目をかいくぐって飛行機に乗るだけである。が、ここに来て九井のこの発言。それはもうびっくりするだろう。なにせあと数時間後にはここを出るのだから。
「ホームシックにゃはやすぎねぇかぁ? ふざけてんのかオイ」
「いや。オレは邪魔になる。置いて行け」
「あ? どういう意味だよ」
「……オレ、たぶん、もうすぐ死ぬ」
「はぁ? 寝言は寝て言えカス」
 さっきまでピンピンしていた人間が、いきなり「もうすぐ死にます」なんてのはたしかに現実味に欠ける話だ。悪い夢でも見たのではないかと揶揄われたって仕方がない。けれど、九井の中にはたしかに“ソレ”があった。
「……三途、オレの目、見てくれねぇか」
「目ぇ?」
 三途はシーツの上をまさぐって枕元に置いてあったスマホに手を伸ばす。ぶぅん、と液晶の画面をつけて九井の顔に近づけた。そして、彼の言う通りにその瞳を覗き込む。
「……は、なんだ、ソレ……」
 そこには、キラキラと輝く黒い宝石が埋まっていた。

   ◇

 瞳石症候群-トウセキショウコウグン-
 稀少な奇病であり、発症すれば1ヶ月以内に死に至るとされている。致死率は100%。症例も少なく、治療法はない上にこの病に罹った者で生存者がいた事例もない。
 症状は主に2つ。瞳が宝石に変化していくことと、骨が異常に脆くなり日常生活を送ることが困難になる、ということ。発症から3週間後には体が灰になってしまうらしい。
 三途は暗闇の中で光るスマホの画面にかじりついてその奇病についての記事を熟読していく。
「恋の病ぃ? んな、漫画じゃあるまいし」
 片想いを拗らせてしまった人がなるらしい、と知って思わず声が出た。恋の病と言えば聞こえはいいかもしれないが、これは死に至る病だ。しかも最後は灰になる。なんとも残酷で恐ろしい病である。そんなのが恋の病なんてメルヘンチックなひとことで片付けられていいはずがない。
「いやー、ほんと。変なタイミングだよな」
「んでテメェはそんな落ち着いてんだよ! 死ぬんだぞ? 分かってんのか?」
「わぁってるよ。うるせぇな。テメェの大声で骨が折れちまったらどうすんだよ」
「アァ? んな大声出してねぇわボケカス!」
 言って、三途はぐっと口を噤んだ。日常生活に支障をきたすレベルがどれくらいなのかとんと見当もつかないが、大声で骨が折れることだってもしかしたらありえるのかもしれない。なんてったって九井は今、メルヘンチックな奇病にかかっているのだから。
「どうせ1ヶ月後には死ぬし、オマエはひとりで逃げろ」
「テメェはどうすんだよ」
「そうだなぁ……逃げるっつっても、この体じゃ無理だろうし……大人しく刑務所で灰になるかな」
 あっけらかんとしてそういう彼に、三途は腹の奥がムカムカと煮えたぎる。ここまで一緒に生きてきたのに、どうしてこうもあっさりとそんなことが言えるのか。どうしてもっと、悔しがらないのか。どうしてもっと、一緒にいてくれと懇願しないのか。
 そこまで考えてはたと思考を止める。彼は今、恋の病を患っている。そう、それはつまり、九井が誰かに叶わない恋をしている証。
「……なぁ、その片想い、叶えたら治らねぇのか」
「さぁ、どうだろなぁ。つーか、叶う可能性が1ミリでもあるんならそもそも発症しねぇんじゃねぇの?」
「……そうか……そう、だよな……」
 絶対に叶わない恋をした時になる病。
 叶う可能性が1ミリでもあるなら。きっと、彼の恋の相手は自分じゃない。
 そう理解してずきりと胸が痛んだ。治せるなら、治してやりたかったのかもしれない。そう思うのはおこがましいだろうか。
 三途はちらりと暗闇の中に浮かぶ九井に問いかける。
「じゃあつまり、昨日までは叶う可能性があった、ってことか?」
「……は。ふざけすぎだろ。それは……」
 そう呟く九井の表情は怒りにも悲しみにも見えるし、諦めとも呆れとも取れた。何か複雑な思いがあるらしい。
 けれど、このタイミングでこの類稀なる病を発症したということはそういうことなのだろう。
 昨日までは同じで、今日から違うこと。
 パッと思い当たる節があるとすれば、夜が明ければ九井はもう日本に戻らないということだ。未来永劫、えいえんに。
 多分、その片想いの相手は高飛びする九井の後を追ってでも結ばれようとは思わない程度の間柄なのだろう。それが同じ梵天組織内の、他の国に逃げた誰かなのか。それとも、日本のどこかにいる誰かなのかは知らないが。
 前者だとすればまぁ納得はできるかもしれないが、九井の普段の様子からしてその線は薄いように思う。なぜなら、その立ち位置に一番近いのは三途本人であると図々しくも自負しているからだ。
 だが、もし後者だというなら、九井が反社の世界に身を置いてもなお、まだその可能性が1ミリでもあったことの方が驚きである。海外までは追えなくて、反社には突っ込めるようなヤツなのだろうか。色々ちぐはぐだし破天荒だ。
「オレが知ってるヤツ? ソレ」
 三途は九井の懸想相手が気になり、思わず本人に問うた。実に12年、衣食住を共にしてきたのだ。九井の交友関係はある程度知っている。もしそれでも三途が知らないとすれば、彼は三途にも言えないくらいその人への恋心を宝物みたいに大事にしまい込んでいるということだ。
「……さぁ、どうだろな」
 そうやってはぐらかしたりして。けれど、傷ついた顔してそんなに優しく微笑むくらい、大事な人なんだろう。余計に気になるが、思い当たるのはひとりしかない。そして、それはたぶん、合っている。と、思う。たぶん。
「……あーあ、せっかく苦労して取ったチケットだったのによ」
「悪ぃ。でも、オマエの逃亡の足枷にならねぇよう動くから」
「オイ。オレが、いつ、ひとりで逃げるっつったよ」
「あ?」
「オレも残る。国内逃亡、やれるだけやってみようじゃねぇか」
 得意げに笑う三途とは対照的に、九井は小さな目をぱちぱちと瞬かせて三途を見つめる。そして、はじかれたように三途の方へと身を乗り出した。
「っ、話聞いてたのか? オレは、もうあと数週間、いや、数日のうちにでも走れなくなるかもしんねぇんだぞ」
「わぁってるよ。そのリスクを承知で、オマエと逃げるっつってんの」
「バカか?」
「バカだよ。バカになっちまうくらい、テメェが情けねぇ顔してんだよ。バァカ」
 煽るように舌を出せば、九井はぐっと眉間に皺を寄せてうつむいた。長い銀糸が九井の顔を覆い隠す。
「ひとまず、身を置ける場所探さねぇとな」
 そうして九井と三途の短い国内逃亡生活が始まった。

   ◇

 梵天組織は幹部を中心にほとんどが自宅等を警察に特定されている。逮捕だなんだと乗り込まれる前に逃げるべく、なるはやで飛行機を用意したわけだが、それに乗り込むわけにもいかなくなった。かと言ってホテルと転々とするのは九井の身体的に無理であろう。最初の方はそれでいいかもしれないが、後々移動ができなくなる。
 一晩考え、慣れ親しんだマンションを出て三途が向かった先はもう取り壊しを待つばかりになった小さな古い古い木造アパートだった。
 一階の角部屋。土埃を被って黒くなった室外洗濯機が静かに二人を迎える。
「……ここ電気通ってんのか?」
「バカ言え。どう見ても電気も水道も通ってねぇだろ」
 だからこそ身を隠すにはちょうどいいのかもしれないが。二人は建付けの悪い玄関をこじ開けて中に入った。
「おー懐かしい」
「あの後誰も入らなかったのか? そのまんまじゃねぇか」
 ぼこぼこにへこんだヤカンも、壁に立てかけられたちゃぶ台も、壊れかけの扇風機も。12年前、三途と九井が一緒に暮らしていた時のままそこにあった。
「退去手続きとかもしてねぇしな」
「つーか、家賃の支払いなかったら大家とか来るもんだろ、普通」
「なまぐさ大家だな」
 12年ぶりに部屋に上がり込み、すっかり陽に焼けた畳の上に腰を下ろす。ぐるりと部屋を見渡せば、本当に、何ひとつ変わることなくあの時の生活がそこに佇んでいた。押し入れの前に積まれている二組の敷布団。干せばそれなりに使えるだろうか。部屋の隅の方には新聞紙が丸まっている。何かと思って広げれば、中からバラバラに割れた金魚鉢が出てきた。これは使えそうにないなとゴミ箱に放り入れる。
 他にも何かは残っていないだろうか、と見て回っていると、台所にいる九井が三途を呼ぶ。
「おい! 三途!」
「んだよ」
 ひょこりと顔を出せば九井が嬉々としてこちらを振り返った。
「水! 水出るぞ!」
「なまぐさ大家バンザイ!」
 思わず三途も拳を上げた。
 蛇口から流れる水がちょろちょろと乾いたシンクを濡らす。こんなものに全力で喜んでいる自分たちがおかしくて、思わず吹き出してしまった。
 なんだか12年前にタイムスリップしたような、変な感覚だ。あの頃とは全然、見た目も違うのに。自分たちはまだ10代の雪の降る夜にいて、血の匂いがする夏の夕暮れをさ迷っている。金魚鉢を前に二人で棒アイスをかじっていたあの日が懐かしい。けれど、あの頃と同じ金魚鉢も棒アイスも、もうない。同じ季節はもう二度と巡って来ないのだ。
 その夜、二人は薄い煎餅布団の上に寝転がって湿気た寝苦しい時間を過ごした。
「なぁ」
「ん?」
 三途は隣で天井を見上げている九井の方をそっと振り向く。
「なんで高飛びやめたんだよ」
「そりゃ、もうすぐ死ぬのにわざわざ高飛びしなくてもいいだろ」
「少なくとも、海外に逃げりゃサツに追われる余生にはならなかったはずだ。空調の効いた綺麗な部屋で死ねたのによ」
「はは。たしかに」
「なんで日本に残ったんだよ」
 その問いには沈黙しか返ってこない。
 彼の横顔を見て、やっぱりなぁ、と呟く。叶わないと知っているのに、それでも諦めきれないから、好きでいることをやめられないから、片想いなんだ。
「会いに行かねぇの?」
 誰に、とは言わなかった。多分、それは九井自身が一番よくわかっているから。
「行かねぇよ。こっちは警察に追われてんだぞ。それに」
「それに?」
「宝石化っつーのは、意外と進行がはやいらしい」
 三途は昨夜と同じようにスマホの光を使って九井の顔を照らす。
 昨日までは瞳の表面を覆うように薄い黒い氷の膜が張っているような感じであったが、それにやや厚みが増したような気がする。両方の目が同じ速度で同じように宝石になっていく。きょろり、とこちらへ黒い小さな瞳が動くと同時に、表面がきらりと緑色に輝いた。
「だんだん目が見えづらくなってるんだ。多分、視力を失うんだと思う。まぁ、宝石になるんだからそりゃそうか、って感じだけど」
「骨も脆くなんのに目も見えなくなんのか。容赦ねぇ恋の病だな」
「恋の病という名の天罰だったりしてな」
「あ?」
「いいからもう寝ろよ。疲れた」
 九井は目を瞑る。
 宝石の瞳も夢を見るのだろうか。
 その瞳に誰を思い浮かべるのだろうか。
 三途は自分の布団の上に戻ると背中を丸めて寝転がる。静かに死を待つ男が隣で眠っていると思うと、なんだか少し不気味だった。

   ◇

 最初の1週間は目が見えづらいくらいで他の不便はなかった。2週目に差し掛かったくらいから骨の脆さが顕著になった。少し手をぶつけただけでも九井は額に脂汗を浮かべて酷く痛がった。視界も悪く、骨も脆い。いつ折れるかもわからず、そのうちあまり部屋の中を歩かなくなった。3週目には自重を支えることができなくなり、彼は薄い布団の上に寝ているだけになった。その頃にはもう瞳もほとんど宝石になっていて、目も見えていなさそうだった。
 彼がぱちぱちと瞬きをする度に、透き通った黒い宝石はきらきらと緑色の光を放つ。彼によく似合う、美しい宝石だった。
「三途、最期にひとつ頼んでもいいか」
「……いいぜ。聞いてやるよ」
 見えているのかいないのか。九井は焦点の合わない宝石の瞳で三途を見上げた。
「……オレが死んだら、イヌピーに片目を渡してくれないか。できれば24時間以内。なるべくはやく行ってほしい。もう片方はオマエにやる。灰は金になんねぇけど、宝石は換金できんだろ」
 ふっと目を細める彼は冗談を言っている様子でもない。あれだけ会わないと言っておきながら、やっぱり九井は最期まで叶わない片想いをやめられないらしい。
「……大した値もつかねぇかもしんねぇのに、ずいぶんとまぁリスキーな依頼だな」
 そう揶揄えば、彼はいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
 九井はその日の晩に音もなく灰になった。真夏日を間近に控えた、湿気て寝苦しい夜だったのに今日という日だけはどこかひんやりとした空気を纏っていた。
 特に別れの言葉も、愛の告白もない、平凡で静かな夜。彼が消えたからと言って別段三途に何か変化があるわけでもなく、彼のために流す涙も持ち合わせていなかった。それもこれも「私は病人なのです。もうすぐ死ぬのです」という様をありありと見せつけられていたせいだ。日に日に弱る九井は、ほんとうに、明日にでも死んでしまうんじゃないかってくらい弱々しかったから。彼の死を受け入れる準備っていうものを気づかないうちに済ませていたのかもしれない。そんなのぜんぜん、まったくもって、これっぽっちもできやしないはずだったのだけれど。結構薄情だったのかもなぁと思って、三途は灰の山を見て笑った。
 朝日が昇って台所で顔を洗って着替えると、カビ臭い布団に手を伸ばす。つい数時間前まで九井一という男が眠っていたそこはまだ少し温かい気がした。灰が、まだ、少し。人肌よりもほんのすこうしだけ、ぬるい温かみを残したまま。
 枕の上に散らばる灰の中から小さな宝石を掘り出す。人の眼球程、いや、それよりもひとまわり小さいだろうか。丸くて黒い、彼の瞳と同じ色をした宝石。
 窓から差し込む陽の光に翳せば、彼の眼窩に埋まっていた頃と同じようにきらきらと緑色に輝いた。そういう宝石なのだろう。現実にある宝石なのかは知らないけれど。人体から生成されたわけだし。
 さて、三途がやらねばならないことがあとひとつだけある。これが終わったらどうしようか、どこへ行こうかなんてのはまだ考えていないけれど。事が終わってから考えたって遅くはないだろう。
 三途は二つの黒い宝石を握りしめてD&D MOTORSに向かった。あの頃と変わっていなければ、彼は今もなおあのバイク屋を営んでいるはずだ。むしろそこくらいしか情報がない。もしいなければ……それもその時に考えよう。
 帽子を目深に被り、一般人を装って商店街を歩く。こんな所に元梵天幹部が歩いているなんて誰も思わないのだろう。商店街は実に平和そのものだった。
 久々に訪れる三途としても思い出深いそのバイク屋は、たしかにそこにあった。だが、店のガラス扉はぴったりと閉められ、取っ手部分には『CLOSED』のプレートがかかっている。
 ドアの内側に張られた、A4サイズの白いコピー用紙にマジックペンで書かれた張り紙を読む。

【閉店のお知らせ】
7月7日で閉店します。
ありがとうございました。

 実に簡素でシンプルな、素人が書いたということがわかりすぎる張り紙だ。おおよそイチ企業の出す文面とは思えないが、まぁ、個人営業の店なんてこんなものだろう。特にあの男なら、なおさら。
 閉店の理由は明記されていない。どういうわけかはわからないけれど、少なくとも、もうここに来たってあの男には会えないということだ。
 ではどうやって彼の居場所を特定しようか、と店の前で考え込んでいると、お節介な商店街の住人が声をかけてきた。
「そのバイク屋さんに用事?」
 人の好さそうな大仏パーマのおばさんだ。三途が指名手配犯であることにも気づいていないらしい。三途はそれっぽく話を合わせてみる。
「……えぇ。久々に来たら閉店してたみたいで、残念です。またバイク見てもらいたかったんですけど」
 またも何もないが。おばさんは三途の大嘘にも親身になって答えてくれる。そうして何度か会話のラリーを返しているうちに、彼が入院中だということがわかった。なんでも不治の病らしい。
 そんなところまで一緒なのか、アイツらは。そんなことがあってたまるか。
 心の中で悪態をつきながらおしゃべりすぎるおばさんに教えてもらった病院へ向かう。院内へ侵入して病室のネームプレートを片っ端から見て歩く。なるべく一般人を装って、見舞客のように。
 そしてフロアの隅にある個室に、あの男の名前があるのを見つけた。
 周りに誰もいないのを確認してそうっと扉を開く。扉の隙間から室内を覗き込むが、ベッドの上で横たわっている男以外人影はなかった。そのまま部屋に侵入してベッドの脇へと歩みを進める。
「誰だ……?」
 三途の気配に気づいた彼が、ゆっくりと目を開きながら三途の方を振り向いた。
「オマエ……」
 その顔に息を呑む。ほんとうに、どこまでもこの二人はムカつくくらい仲がいいらしい。12年も連絡を取らなかったくせに、こんなところまで、お揃いだなんて。
「誰だ? 松野か? 悪ぃ、オレ、もうほとんど目が見えねぇんだ」
 深い湖のような、広い森のような、美しい緑色をした二つの宝石が三途を見上げる。夏の新緑をそのまま嵌め込んだみたいな、美しい碧だった。元々の彼の瞳もこんな色だっただろうか。あんまりよく覚えていないけれど、似たような色だった気はする。たぶん。
「……九井のパシリだよ」
 身分は明かさず、短くそう言うと彼がハッと表情を変えた。
「ココ……? そこにいるのか? まさか……あぁ、ごめん……オレが……オレがこの病気に罹ったから……。なんでこのタイミングなのか、全然わからねぇんだ。ごめん、ココ」
 彼はもうこの世にいない九井を探して必死に顔を巡らせる。本当に、もう目が見えていないらしい。
 症状の進行に個人差はあるだろうが、だとしてもここまで進行しているということは、彼の死期も近いということだ。そう、つい数時間前に死んだ九井と同じように。
「九井はいねぇ」
「……そ、うか……。そっか、そう……だよな……悪ぃ」
「オレに謝られても」
「ココは元気か?」
 問われて少し迷う。ついさっき死にました、と教えてやるのは簡単だが、もう死にゆくこの男にわざわざ九井の瞳を渡してやるのが惜しくなった。それに、この男も九井が死んだと思いながら死んでいくのもかわいそうだろう。そう、これは気まぐれな慈悲だ。そう言い聞かせる。
「……あぁ。それなりに」
「そっか。良かった。それで、オマエはココに何をパシられたんだ?」
「……オマエが元気か、見てこいって」
「ふっ。はは。そっか。心配はしてくれてんだな、一応」
 その言葉に三途は首を傾げた。まるで九井が青宗の病状を知っているかのような口ぶりだ。九井は発症から死に至るまで、ずっと三途と一緒にいた。だから彼のことなど知る由もない、はずなのに。
「どういうことだ?」
「あ? オレがもうすぐ死ぬから来たんじゃねぇのか?」
「オマエが死ぬなんてこと聞いてねぇよ」
「そっか……。ココは、何も言わなかったんだな」
 そうして彼はこの恋の病について教えてくれた。三途がネットで調べたこととは別にわかった事実がふたつ。
 ひとつは、宝石になった瞳を覗き込むと患者の記憶を覗けるということ。そしてもうひとつは、この病気に罹ったことに気づけるのは患者本人と、その人の想い人である二人だけだということ、だ。
 彼の言葉はつまり、青宗の片想いの相手が九井であるという告白に他ならなかった。
「ココのところに帰るんだろ? ついでにオレにもパシられてくれよ」
「はぁ。めんどくせぇ」
「オレ、多分今日か明日には灰になるはずなんだ。だから、さ。オレが死んだら、右目をココに渡してくれないか」
 三途は青宗を見つめる。考えてることまで一緒。ほんとうにうんざりだ。
 しかし今の話が本当だとしたら、九井は多分、青宗が同じ病気に罹ったことを知っていたはずだ。しかも同時期に。これは三途の憶測でしかないが、おそらく、青宗よりも先に九井の方が発症している。それの差は数秒かもしれないし、数日かもしれない。けれども九井の方が先に灰になったのだからその可能性は高い。
 だから、青宗が三途にこの瞳を託す意味がないのだ。彼はもう、この世にいない。九井が24時間以内に行けと念を押したのもこのためだろう。
 九井の片想いの相手が青宗なのだとすれば、彼もまた、九井が同じ病に罹っていることを知っているはずだ。だが、彼はこの瞳を九井に渡せと言う。それはつまり、彼の瞳と同じ場所に連れて行ってくれということか、或いは、彼が同じ病に罹ったことを知らないか。
「右目?」
「そう。左はダメだ。右目」
「どういうこだわりだよ」
「こっちは……左側は、オレ、だから。アイツじゃなくて、オレだから」
「あ?」
 相変わらずこの男の言うことは的を得ないな、と疑問の声を上げる。青宗は寂しそうに微笑んだ。
「傷のないきれいな方を渡してやってくれ」
「ふぅん。ま、なんでもいいけど。仕方なくパシられてやるからとっとと灰になれよ」
「容赦ねぇな」
「左目はどうすんだ?」
「そうだな。燃えればいいんだけど、宝石だし。遺骨と一緒に埋葬してもらうよ」
「遺骨通り越して遺灰だけどな」
「ハハッ。ほんと、デリカシーねぇのな、オマエ」
「オレはテメェのことなんざどうでもいいからな」
 それから夜を迎える前に彼は灰になった。九井と同じように、音もなく、静かにその命を終える。人肌に暖かい灰の中から澄んだ緑の宝石をひとつ拾い上げるとポケットに突っ込んだ。そして足早に病室を出る。
 多分彼の遺灰は親族によって埋葬されるだろう。片方しかない宝石と一緒に。もう片方の行方について追跡されたらどうしようか。これってもしかして宝石泥棒になるのかな、なんて考えながら立ち入り禁止のテープを乗り越えて斜めったアパートに帰った。
 薄い布団の上には今朝と同じように灰色の山が静かに積もっている。三途はその遺灰の前に胡坐をかくと茶色く焼け褪せた畳の上に宝石を三つ並べた。
「……オマエの元カレ、オマエと同じ病気で死んじまったぞ。ったく、どうなってんだよ。奇病じゃねぇのかよ」
 類稀なる恋の病。の、患者が、こんな身近に二人。両想いのくせに片想いだったのか、それとも一方通行の片想いをしていたのか。
 九井が誰を想って灰になっていったのか、結局わからなくなってしまった。
「……なんで渡さなかったかなぁ。まぁ、渡したところで、アイツ、これ見えなかったわけだけど」
 九井は自分の瞳を彼に覗いてほしかったのだろうか。それとも、ただただその手に握りしめてほしかったのだろうか。灰になった彼にいくら問うたところで、もうわからないけれど。真実はすべて灰の中だ。
 三途は強い西日に宝石を透かす。オレンジ色の光を反射するその黒い宝石は、やっぱり緑色に輝いていた。不思議な宝石だ。
 これを覗けば、九井の好きな人がわかるのだろうか。彼の記憶に、その想い人がいるのだろうか。
 三途はしばし迷って、その宝石をそうっと覗き込む。黒い氷の奥に、彼の記憶が。彼の恋が、垣間見えた。
 そうして、しばらくして宝石を下ろすと、乾いた笑いをひとつこぼした。
 あの二人は、三途が思っていたよりも結構フクザツで、そこそこサイテーな恋をしていた。いや、それは恋なんてものではなかったのかもしれない。
「はは……なんだソレ」
 三途は三つの石を手のひらの上で転がす。黒い宝石と碧い宝石。両方からキラキラと同じ緑色の光が漏れて手のひらを彩る。その小さな石を一粒ずつ摘まみ上げると、そうっと舌の上に乗せた。ひんやりとした無機物の感触。味も、ニオイもない。人間だったはずの鉱物。
 口を閉じてそのままごくりと飲み込んだ。二つの石は胃の中に落ちていく。いっそ、溶けてひとつになればいいのに。これはそういう嫌がらせだったりして。
 腹の奥にふたつの恋が沈むのと同時に、骨の軋む音がした。
「……奇病ってぇのは伝染病かなんかかぁ?」
 或いは呪いか。天罰ってヤツかもしれない。
 宝石を飲み込んだ瞬間に訪れた“ソレ”が何なのか、はっきりとわかった。多分、あの時の九井も同じ感じだったのだろう。底冷えの死がゆっくりと体内を侵食していくような、安らかな慈愛がひんやりと足を忍ばせてくる感覚。
 三途はそっと浴室の鏡を覗き込む。
 右目はまだヒトの眼球をしている。慣れ親しんだ碧眼だ。だが、宝石化が始まった左目の瞳は膜を張ったようにうっすらと白く乳化していた。顔を傾けるとキラキラと眼球の表面が虹色に光る。多分、こういう宝石なのだろう。
 九井の宝石は、彼の瞳によく似た漆黒の宝石だった。陽に透かすとほんのり緑色になるし、夜になってろうそくの灯りに透かすと赤色にも見える。まるで闇の中にタマムシを飼っているかのような不思議な宝石だ。名前は知らない。
 あの男の宝石も、彼の瞳によく似た碧色の宝石だった。その色は翡翠よりも透き通る緑色をしており、海というよりは湖のような色合い。その緑は不純物ひとつなく、眼窩の奥まで見通せそうなくらいにどこまでも澄んでいた。これも、名前は知らない。
 三途の宝石は、彼らとは違い半分だけ濁った石だ。半透明、というのがしっくりくるだろう。白い入浴剤を入れた湯船のようなまろやかな白。だが、青にも黄色にも緑にも輝く石の表面は、鏡の中から海を覗き込んでいるような不思議な神秘さがあった。海面から陽の光を浴びて海中がキラキラと輝く、あの感じ。それを乳白色の真珠の中に閉じ込めて、表面だけを透明に磨いて眺めているような。濁っているのに、どこまでも透き通っている。自分には全然似合わないくらいに美しい石だ。例外なく、これも名前は知らない。
 宝石の種類に規則性はない、と言われているらしいが、九井も青宗も瞳の色と似た宝石に変化したから、きっと自分自身もそうなるのだろうと思った。だが、この宝石は全然、まったく、三途の瞳の色と似ていない。やはり生まれる宝石に特別な意味はないらしい。
 どうせならエメラルドとか、サファイアとか、九井と同じでもっと透き通った宝石が良かった。よりによって白。例えるなら真珠が近いだろうか。けれど、この虹色に光る石は真珠ではないだろう。
 三途はひとつだけ残った黒い宝石を握りしめ、畳の上に横になると瞼を閉じた。
 深い眠りにつく前のまどろみの中で、残り1ヶ月をどう過ごすべきかを考える。けれど、何かすべきことなんてひとつもなくて。あとは朽ちていくのを待つばかりで。
 何をするでもなく1日、1日と時が過ぎていく。半月が経つ頃にはストックしてあった食料も底を尽きて、けれど出歩けるほどの骨力ももうなくて。そうなってしまえばもう、ただ訪れるその日を待つばかりになった。
「そろそろかなぁ」
 ちょっと動くだけでも骨が崩れてしまう今となってはどこにも行きようがない。九井と同じように、この小さなアパートの一室で灰になる。三途は黒い宝石を握りしめたまま九井だった灰の上に寝転がった。ぶわっと灰が舞い、きらきらと銀色の粒子になって三途の上に降り注ぐ。
「……これは、誰への恋心だってんだよ。なぁ、九井」
 指の間をすり抜けて畳の上に消えていく灰に手を伸ばす。
 この残酷なる恋の病に罹ったということは、三途も叶わない恋をしているということ。その心がどこの誰に向かっているのか、三途自身曖昧で不明瞭だ。遠くの昔に置いて来た恋心のような気もするし、つい最近失った愛情のような気もする。
 誰が誰のことを想って灰になるのか。知っているのはこの瞳に埋まった宝石だけだろう。自分の瞳など、覗く術もないが。
「オレもオマエも、散々な人生だったなァ、九井」
 瞼を閉じる。誰に恋をしたのかわからないまま、恋の病で死んでいく。
 多分、九井もそうやって死んでいったのだろう。自分が本当に好きなのは誰で、この心は誰に向かっていて、誰を想っているのか。曖昧で、不明瞭で。恋を恋だと自覚しないように。最初に愛したあの人以外を好きにならないように。そうやって言い聞かせて。こんな奇病に罹ってもなお、この恋心が誰宛なのかすらわからないくらい酩酊して。自分を誤魔化して生きて、そのまま死んでいった。
「あぁ……でも、オマエは、まだ、チャンスあったのに。オレと違って」
 バカだなぁ、惨めだなぁとクツクツと喉を鳴らしてシーツの上に散らばった灰を引っ搔く。
「こんなクソみてぇな病気移しやがって。ぜってぇ殺す。……あぁ、もう死んでたか」
 もう目は見えない。けれど、たしかに、手のひらの中には小さな宝石があった。
「これは、オレの」
 縋るように握りしめた拳を瞼に擦り付ける。
 瞬間、畳の上に灰色の雪が積もった。
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