【イヌ→ココ赤】姉弟の話
*アテンション*
・イヌ→ココ赤
・最終軸、赤音さん生存if
・イヌピーがバイク屋、九井が大学生、赤音さんが会社員
・当て馬の名も無きモブ男くんがいます
風呂上がり、リビングで棒アイスを食べながらテレビを見ているとスマホの着信が鳴る。画面には『ココ』の文字。青宗はすぐにスマホをタップして耳に当てた。
「ココ? どうした」
『あのさ、例の件なんだけど……』
「あぁ、それなら大丈夫だ。来週だろ?」
『うん』
「特に予定もないみたいだし。つーか、そんな心配ならさっさとしろよ」
『分かってるって! はぁ、でも……』
「何でもかんでもひとりで悩もうとすんなよ。難しいことは分かんねぇけど」
『はぁー……ありがと、イヌピー』
「おう」
耳元で狼狽える九井の声を聞きいていると、パタパタと背後から足音が聞こえてくる。皿を洗い終えた赤音がソファの背中から青宗をじっと見ていた。電話が終わるのを待っているらしい。
「……じゃあ」
トン、とスマホ画面をタップして通話を切ると、彼女がすかさず声をかけてくる。
「はじめくん?」
「そうだけど」
「何話してたの?」
「別に」
「ねーえー。教えてよ」
「ダメ」
「青宗のケチ」
赤音は頬を膨らませながら青宗の隣にぼすん、と座った。ソファが沈む。彼女は不服そうに自分のスマホ画面を開いて九井とのトーク画面を開く。そこには当たり障りのない、毎日のおはようとおやすみの連絡が羅列されていた。
二人が付き合い始めて数年経つが、マンネリ化するほど時間が経っているわけでもない、はずだ。付き合い始めた当初は毎日のように通話をして、毎週ぎこちないデートを重ねてきたが、ここ最近はこの朝晩のメッセージのやりとりくらいだ。
たまに赤音の方からそれとなくデートのお誘いをするものの、タイミングが悪いのか『また今度』の返事をもらうことが続き、それが3回目になって以降、こちらから誘うのを諦めた。彼の忙しいのが落ち着いたタイミングで、と待つことに決めたのだ。
「来週何かあるの?」
「盗み聞きかよ」
「聞こえてきたの。ねぇ、はじめくんと遊びに行くの?」
「……秘密」
「教えてくれたっていいじゃない!」
赤音から視線を外し棒アイスをかじる青宗に、彼女は側にあったクッションを叩いた。
自分は社会人、九井は大学生。生活リズムの違いは重々承知しているが、ここまで時間が合わないものだろうか。どこか一日くらい、数時間でもいいから一緒にいる時間が取れないものだろうか。そう悶々としていたところに青宗の電話である。
来週、この二人は自分に秘密でどこかに行くらしい。この前だって二人が一緒に青宗の職場であるバイク屋で話している姿を見た。九井は最近、自分より青宗ばかり構っている気がする。そんなのズルすぎる。
「はじめくん、最近青宗とばっか遊んで全然デートしてくれない」
「そうか?」
「そうだよ! 青宗も自覚してよ、私のはじめくんなのに」
青宗は前を見たまましゃく、とアイスをかじった。テレビからはお笑い芸人の声が聞こえているが全然耳に入らない。ぼーっとした顔のまま、また一口アイスをかじる。
「オレは大学行ってねぇから大学生ってよく分かんねぇけど、なんかゼミ? とかナントカで忙しそうだぜ。あとカテキョ? のバイトもしてるとか言ってたし」
「えっ、そうなの? 初めて聞いた」
「あー……生徒が女子高生だから……」
「えっ!」
「あ」
青宗は残りのアイスを口に押し込むとソファから立ち上がって自室に続く階段に足をかけた。考えていたことがポロリと口から出てしまった。女子高生の家に上がり込んで二人きりで勉強を教えてるなんて、彼女には言いたくなかったのだろう。こういう少しでも後ろめたいことは最後まで隠し通すか、最初から正直に話しておくかしかない。理由はどうあれ、だ。
「はじめくん、私のこともう飽きちゃったのかな」
ソファの上でしょんぼりしている彼女を振り返る。このまま逃げてしまうことは簡単だが、ここまで傷心の姉を見るのは初めてで思わず足を止めた。
この事態を招いたのは間違いなく自分である。どうにかフォローできないかとぐるぐると頭の中で考えを巡らせた。
「そんなことないと思うぞ」
「でも、青宗とは遊びに行くのに……」
「あー……うーん……」
それには理由があるが、彼女には言えない理由がある。どう返せばいいのかと煮え切らない彼の態度に、赤音はスマホを握り締めて立ち上がった。
「もういい! 私も好きなように遊ぶ!」
「え?」
「来週、ちょうど会社の人にバーベキュー行かないかって誘われてたの」
「は?」
「正直あんまり気乗りしなかったから断ろうと思ってたけど、行く!」
しおらしい態度から急に元気に、いや、ヤケクソになった姉に呆気に取られていると、彼女はたぷたぷとメッセージを打ち込んであれよあれよと来週末にバーベキューに行くことが決まってしまった。この行動力、別の方向に発揮できなかったものか。青宗は慌てて登りかけの階段を降りる。
「オマエ、バーベキューとか行くタマかよ!」
「行ったことないから行くの!」
「苦手だろ、そういうの」
「もしかしたら楽しいかもしれないでしょ」
「やめとけって、向いてないんだから」
「もう連絡したもん」
青宗は深いため息を吐いた。我が姉は大人数でワイワイ遊ぶのは得意ではない方だ。それは弟である自分がよく知っている。彼女の言い方からして、会社行事ではなく仲間内でプライベートに行われるものであろう。大丈夫なのだろうか、という心配がひとつ。そして、もうひとつ気がかりなこと。それは、そのバーベキューが来週末ということだ。
青宗はこのことを九井に伝えるべきかと彼女に背を向けてスマホを取り出す。しかし、その手が黒い画面を開くことはなかった。
◇
「赤音さんにデート断られたッ!」
翌週水曜日。九井は青宗が働くバイク屋に来ていた。彼がバイクを整備する横で今にも死にそうな顔で項垂れている。それを気まずそうに聞く青宗と、そんな二人を見守る真一郎。他に人はおらず、珍しく三人だけの空間になっていた。
「イヌピー、今週末赤音さん予定ないって言ってたじゃんか」
「……ココがもたもたしてるからだろ」
「それは……そう……ほんとに……全部オレが悪い……」
体中の空気が全部抜けるんじゃないかと思うような深いため息を吐いて、九井はまた俯いた。頭と地面がくっつきそうな勢いだ。
「でもさぁ、今までデート断られたことなかったんだよ。もちろんタイミングが合わない時もあったけど、そういう時は絶対別の日を提案してくれてたし……」
「赤音はなんて?」
「ごめん、その日は無理。だって」
「はー……」
これは彼女も相当意地になっているようだ。いや、怒っている? と言うべきだろうか。これまで九井が赤音のことを疎かにしていたツケが一気に回ってきた。が、それもこれも全部来たる日のための準備期間だったが故であり……。物事がとんとん拍子に進むのは物語の中だけなのかもしれない。現実の厳しさを思い知る。
「なぁ、オレ嫌われた? もしかして避けられてる? ちゃんと赤音さんに謝りたい。会って話したい」
そうぐずる九井の後頭部を見下ろして、青宗はまたひとつため息を吐いた。
「その日、オレん家で待つか? 多分夕方までには帰ってくるだろうし」
「いいのか?」
「おう」
「ありがとなイヌピー」
九井は青宗に軽いハグをして感謝の気持ちを体現する。両手の塞がっている青宗はそれを受け入れつつ動きを止めた。
「おい、危ねぇだろ」
「わり」
へらりと笑う九井は本当に悪いと思っているのだろうか。それでも、彼のこの顔を見ると何でも許してしまう。九井が喜ぶと青宗も嬉しい。だから、こうやって何でも協力してしまうし、こうやって全部許してしまうのだ。
「やっぱりここにいたか」
「あ、稀咲」
九井は青宗からぱっと体を離すと、店先に現われた稀咲の方へ顔を向けた。短い抱擁に一抹の寂しさを覚えるが、それをぐっと押し込んで何でもないフリをする。
「オマエ今日1限だけだっつーのに、どこにもいねぇし。電話も出ねぇし」
「あ、わり。マナーモードになってたっぽいわ」
「頼むぞほんと。乾のこと好きなのもいいが、こっちも忙しいんだからもっと集中してくれ」
「分かってるって。じゃ、イヌピー、また週末な」
「ん」
九井は立ち上がると青宗に軽く手を振って稀咲と共に店を出る。去り際に軽く真一郎にも会釈をすると、彼も笑顔で手を振り返してくれた。
二人きりになった店内に、しばしの静寂が訪れる。
青宗は温もりが消えて自由になった体で再び作業を再開した。ぎ、ぎ、という僅かな鉄の音が静かな店内に響く。手元に意識をやるが、頭の中は先ほどのことでいっぱいだ。
稀咲の言葉を、彼は否定しなかった。
ヤンチャをしていた頃はそれなりに喧嘩もしたけれど、大人になってみればお互いが親友と呼べる存在になっていた。周りからも二人は相棒のような関係だと思われているし、それを否定することもない。
九井の中でも、青宗は好きな人間、なのだろう。それを確認できて嬉しさに舞い上がりそうになる。けれど、彼の言った好きはそういう好きではないし、九井自身もそういうのではないことを分かって何も言わなかった。それは分かっている。分かっているけれど。
頭で理解することはできても、心が勘違いしてしまう。
「休憩行くか?」
静かに彼の背中を見守っていた真一郎が口を開いた。青宗は一瞬だけ手を止めて、再び作業を再開する。
「……これ、まだ途中なんで」
ぎ、ぎ、ぎ。少しだけ鈍い、鉄の音がする。歪な不協和音みたいな、掠れた音。
姉の嫉妬の混じった拗ねた表情。九井の項垂れるうなじ。抱き締められた時に背中に触れた手のひらの感触。ここ数日に起こった色々な出来事と、それにかき乱される自分の感情が、二人を祝福すると決めた心に軋む。
「ありがとう、真一郎くん」
青宗は背後にいる彼に笑顔を向けた。
◇
週末。赤音は予定通りバーベキューに出かけていった。
動きやすい服装がいいかと悩みながら青宗に相談してきた彼女は登山でもするのかといった出で立ちだったため、さすがにもう少し普通の格好でいいのではないかと助言したのは今朝の話。
そして、九井は青宗が仕事を終えて帰宅する時間に合わせて家に来る、ということだったが、九井さえ良ければ店まで来て一緒に帰らないかと提案したのはつい先ほどの話だ。
昼ご飯である双悪ラーメンを啜りながらスマホのトーク画面を開きっぱなししていると、ピロン、という通知音と共に『OK!』という猫のスタンプが送られてきた。この猫が九井にそっくりで少し口角が上がってしまう。
今日は午前中に少しだけ稀咲と会うと話していたから、おそらくこの後にでも店に来るだろう。青宗はラーメンを食べ終わると少し早足で店を出てバイク屋に戻った。
「休憩ありがとうございました」
「おかえり。じゃあオレも昼メシ行くかな」
「ウス」
真一郎と交代で店番に戻る。店内にはかつての不良仲間が数人たむろしていたが、真一郎と一緒に出て行った。どうやら昼食を共にするらしい。人気者は大変だな、とその背中を見送る。静かになった店内で部品の在庫を確認していると、しばらくして九井がやって来た。どうやらあの後すぐに店に向かってくれたらしい。それが嬉しくて自然と笑みがこぼれてしまいそうになるのをぐっと噛み締める。
「イヌピー、来たぜ」
「早ぇじゃん」
「おー、ちょうど稀咲と別れた後で暇だったからな」
「そっか。うまくいきそうか?」
「もーバッチリよ。稀咲となら何でもできる気がするぜ」
「ハハッ。強気だな。じゃあこの後のことも自信満々だ?」
「うー……それは、うーーーーん…………」
九井は途端に背中を丸めた。赤音のことになるとすぐに自信を無くしてしまう。いつもより身綺麗な格好をしているのも、このあと彼女と会うからだろう。彼女と会う時はいつもこんなにオシャレをしているのだろうか。それとも、今日だからだろうか。そんなことを悶々と考えてしまう。
せっかくかっこよく決めているのに、そんなに自信なさげでもったいない。何ひとつ不安に思うことなどないのに。自分なら、彼にこんな顔させないのになぁなんて思って、けれどそれを口に出すわけにもいかなくて、軽く下唇を噛む。
「今日真一郎くんが3時には上がっていいって言ってくれたからさ、あとちょっとだけ待ってて」
「マジ? 早上がりじゃん」
「うん。なんか気ぃ遣わせちまったみてぇで」
「佐野さん、いい人だよなー。オマエが好きなのも分かるわ」
「……うん」
九井は店内に置いてある椅子に座ると青宗の邪魔にならない程度に雑談に興じながら彼の仕事を見守る。少しすると昼食を終えた真一郎たちがぞろぞろと帰ってきて、店内は一気に賑やかになった。
そうして過ごしているうちにあっという間に時間は過ぎ、青宗の退勤時間はすぐやって来る。
「じゃ、九井くんと仲良くな~」
「ウス。お疲れ様でした」
「佐野さん、失礼します」
二人は真一郎に挨拶をして青宗のバイクで一緒に帰路についた。彼女が帰ってくるのは多分夕方。そんなに遅くならないと本人は言っていたが、明確な時間は聞いていない。この時間がもう少し長く続けばいいなと思って、少しだけ遠回りをする。と、ポンポン、と青宗の肩が叩かれた。回り道をしていることに気づかれたらしい。九井は片手で背後にあるタンデムバーを握り、もう片方はそのまま青宗の肩を掴んだ姿勢でバイクに揺られる。青宗は適当に近くにある公園の前にバイクを停めた。エンジン音が止まると、九井はヘルメットを取って青宗に声をかける。
「おい、ツーリングでもする気か?」
その声がよく聞こえるよう、青宗もヘルメットを取って彼の方を振り返った。彼女のために綺麗にセットしてきたであろう髪の毛が、少しだけ乱れている。
「あー……、ごめん。ココ乗せて走るの久々で楽しくなっちまって」
「赤音さんもう帰ってたらどうすんだよ。まぁ、オレも久々にイヌピーの後ろ乗れて楽しいけど」
その言葉に心がキュッとなった。帰りたくない。
それじゃあこのまま二人でどこか遠くまで行こうか、なんて言いかけて口を噤む。
九井はきっと、それを望んでいないのが分かるから。
「でも、今日ちゃんと赤音さんと仲直りしたい」
そう言う彼は立派な男の顔だった。
本当は。本当はこの事態を招いたのが自分だと知ったら、九井はそれでも一緒にいてくれるだろうか。今までと変わらず友達でいてくれるだろうか。
九井に深く愛されていることを知りもせず、勝手に嫉妬してくる姉に余計な一言を言ってしまったこと。言うつもりなんてなかったけれど、青宗の僻んだ心が欠けてポロッと出てしまったことは事実だ。
そして、そんな姉がヤケになって今日出かけてしまうことになったのを九井に告げなかったのも自分。これは意図的なものだ。このまますれ違ってしまえばいいなんて、僅かでも思ってしまった。
九井が今日のために色々準備してきたことを一番近くで見ていたからこそ、それが台無しになってしまった時、真っ先に彼が泣きついてくるのも自分だという確信があった。
赤音のことも九井のことも大好きで大事だ。だから二人のことを応援したいと思うし、協力したいとも思う。そう頭では理解していても、心が追いつかない。そんなのは綺麗事だと駄々をこねる自分がいる。
けれど、実際に泣きついてきた彼に、そんな女やめちまえとも言えず、それじゃあオレにしとけよなんてことも言えず、結局こうして協力してしまうのは、やっぱり二人のことが大好きで大事だからなんだろう。
「ココ」
名前を呼ぶと彼が僅かに首を傾げてこちらを見上げた。
このまま好きだと言えば、彼は困るだろうか。この想いが彼に知られることなく膨れ上がっていくのが苦しい。すべて吐き出して楽になりたい。この一週間の悪事も全部言うから、いっそのことこっぴどく振ってくれ。そうしたらこの体はもっと軽くなるのに。けれど、九井を困らせることを分かって、自分だけが楽になるためにそんなことを言うのは、それこそ最大の悪事だ。青宗はまたキュッと下唇を噛む。
「帰ろう。赤音が来る前に」
「うん」
再びヘルメットを被るとエンジンを吹かした。今度は遠回りせず、一直線に自宅に向かう。翳り始めた太陽の光が二人の背中を照らしていた。
◇
夕方。予定よりも帰路につくのが遅くなってしまった赤音は車の助手席で疲労感に包まれながら窓の外を眺めていた。
「遅くなっちゃいましたね。疲れてないですか?」
「あ、はい。男性陣が片付け率先してやってくれてたので。先輩こそ、わざわざ送ってくださってありがとうございます」
「いえいえ。電車だと時間かかるし、疲れるでしょうから」
男女数人で行われたバーベキューは何事もなく終わった。慣れないアウトドアで準備や片付けなどに時間がかかり、予定よりも遅めの帰宅になってしまったくらいで他に大きなトラブルもない。少し緊張していたが、和気あいあいとした雰囲気で特に苦に感じることもなかった。家に帰ったら青宗に自慢してやろう、と思う反面、心の中では九井のことを考えていた。
バーベキューに行くと言った数日後、彼から来週久々にデートしないかと連絡があったのだ。タイミングが悪い。せめて行くと連絡を入れたその日のうちであればまだ融通が利いたかもしれないが、人数が確定して準備を進めていたところでキャンセルするにも微妙なタイミングだった。
どうしても、と言えばキャンセルできたかもしれないが、あの時は赤音自身も少し意地っ張りになっていた。そうしたことが重なって結局今日彼とのデートを断りバーベキューに来たが、やっぱりデートに行きたかったなと思っている。素直になることは大事だ。帰ったら彼に連絡をして、そっけない返信を謝って、改めてデートの日取りを決めよう。
会社の先輩である男性社員との当たり障りのない世間話をしながら、頭の片隅でそんなことを考える。はやく家に帰りたいなぁ、と思っていると、だんだん外が暗くなってきた。もうすぐ夕方から夜になる。
濃い赤色が薄い紫色と混ざり、頭上が紺色のグラデーションで空が彩られる頃、ようやく家の近くに到着した。
「乾さんの家ってここら辺ですか?」
「あ、はい。そこの角曲がったところで、2軒目の家です」
「了解です。家の前に車停めて大丈夫ですか?」
「はい」
スピードを落とした車はキッという軽い音を立てて乾家の前に停車した。赤音はシートベルトを外すと、膝に置いていた鞄を手に持ってドアハンドルを握る。
「じゃあ、今日はありがとうございました。また会社で」
そう言ってロックの解除を待つが、一向に鍵が開く気配はない。不審に思って先輩の方に顔を向けると、彼が至近距離までこちら側に身を乗り出していた。
「乾さん」
「えっ」
彼の顔が近づいてきて、反射的に手に持っていた鞄を顔の前に持って来る。さっきまで和やかに話をしていたのに、一体いつからそんな雰囲気になった? パニック状態だ。すぐに逃げ出せばいいのに、頭の中はどうしよう、どうしようという、気持ちでいっぱいで何も考えられない。ガードする両手首を掴まれ、男の大きな手に暴かれた。恐怖に身を強張らせてギュッと目を閉じる。心の中で縋るように思い浮かべたのは、九井のことだ。
コンコン。背後の窓ガラスからノックする音がした。おそるおそる振り返ると、そこには車内を睨む九井の姿があった。見知らぬ男の登場に彼も怪訝な顔で窓の外を見ている。と、次いで車体の前方からバイクのコール音が聞こえた。目の前に目を向ければ、バイクに跨がったままの青宗が運転席の彼にガンを飛ばしている。服装こそ普通の男ではあるが、何せ乗っているバイクは暴走族時代から変わらぬデザインだ。厳つい白い単車に彼は思わず固まる。
コンコン。再び窓ガラスが叩かれた。男は赤音から手を離すとゆっくり助手席の窓を3分の1程度だけ開ける。
「……どちら様ですか」
「テメェこそどちら様デスカァ?」
「は、いや……」
目をつり上げて凄んでくる九井に圧倒されて少し後退ると、今度は運転席の窓ガラスが叩かれた。今度はコンコン、なんて優しいもんじゃない。ガンッという、いかにも拳で殴りました、という鈍い音だ。そちらを振り向くと先ほどまで前方にいた金髪の男が運転席の隣まで来ている。
「テメェ、ココの女に手ェ出しといてタダで済むと思ってんの?」
窓越しに睨んでくる男は今にも殴りかからん勢いだ。直感的に、窓を開けたら死ぬ、と思った。
「え……と……お、おんな……?」
ぎ、ぎ、ぎ、という効果音が付きそうな動きで男は赤音の方を見る。その後ろからはあのつり目の男が睨んでいた。どっちを向いても怖い。思わず赤音に助けを求める視線を送る。
「あ……えっと、こっちが今お付き合いしてるはじめくん。で、そっちが弟の青宗」
彼女は丁寧にそう紹介してくれた。情報量が多くて一瞬フリーズする。
この天使のような女性の彼氏、が、目の前の怖い男。
で。この聖母のような女性の弟、が、背後の怖い男。
男は深呼吸をした。そして無言で車のロックを解除する。
「あの……すいませんでした!」
深々と頭を下げる男。赤音がおそるおそる車の外に出ると、彼はドアが閉まるや否や車を急発進させて去って行った。彼はもう、赤音に声をかけることはできまい。
遠くなる車を見送って、赤音はそろりと九井を見上げた。
「あ、えっと、ありがとう、はじめくん」
「今の誰?」
そう言って彼女を見下ろす彼は初めて見る表情をしていた。明らかに怒っている表情だ。彼には今日、誰とどこに行くのかは言っていない。彼女が見知らぬ男と二人きりの車で帰宅、なんて、浮気だと思われてたって仕方のない状況だ。何を言っても言い訳にしかならないだろう。
「えっと……会社の、先輩、で……」
「先輩? あの男と二人きりでドライブするする仲なの?」
「違うの。今日は会社の人たちとバーベキューに行ってて、それで、帰りに送ってくれただけで……」
「何それ? オレ聞いてないんだけど。何で言ってくれなかったの?」
一方的に責めるような言い草に、赤音も少しカチンとくる。
本当はごめんねと言って仲直りがしたい。だけど、これまでだって詳しいことを言わずに自分のことをほったらかしにしていたのはそっちの方だ。
「何でって……だって、はじめくんだって青宗と遊ぶ時私に言わないでしょ」
「イヌピーはオレも赤音さんも知ってる仲じゃん。でも、オレはあの男のこと知らねぇし、知らねぇ男と自分の彼女が一緒にいたら嫌だって分からない?」
「っ、なんでそんな言い方するの!」
思わず大きな声が出てしまった。さっきから赤音だけが悪いみたいに言って、そっちだって、彼女に言っていないことがたくさんあるくせに、とキッと九井を見上げる。
「はじめくん、最近ずっとそっけないし、それなのに青宗とは遊んでるし、それに! ……女子高生の家庭教師してるって、秘密にしてるでしょ!」
その言葉にたじろいだのは九井の方だ。先ほどまでの怒りの表情はどこへやら、急にしどろもどろになる。
「えっ、それどこで聞いたの」
「青宗から聞いた」
九井は反射的に青宗を見た。彼はぷいと目を逸らす。しかしまぁ、赤音が嫌な思いをしないようにとあえて言わなかった自分にも非がある。最初から素直に言っておけば、ここまで怒らなかったかもしれない。
「私に後ろめたいことがあるから隠してたんでしょ? だったら、私だってはじめくんにそうやって言われる筋合いないもん」
むっと頬を膨らませる彼女に、九井は白旗を揚げた。彼女の言う通りだ。最初から自分がすべて素直に言えていればこうはなっていなかっただろう。
「ごめん、赤音さん。オレ、目の前のことで手一杯で、ちゃんと赤音さんのこと見れてなかった」
「……ううん。私も、はじめくんにちゃんと言えなくてごめんね」
しゅん、とした雰囲気で互いに頭を下げる。少しだけ気まずい空気が流れて、九井はおもむろにポケットに手を入れた。その中から小さな箱を取りだして、彼女の前にすっと差し出す。
「その……これを、渡したかったんだ」
小さな箱をパカリと開けた先には、きらりと銀色に輝く指輪があった。赤音はそれを見て思わず口元を覆う。そしてゆっくりと九井に視線を移した。
「ほんとはもっとちゃんとしたところで言いたかったんだけど……。実はオレ、大学卒業したら就職せずに起業することにしたんだ。それの準備とかで忙しくて……。あと、家庭教師は指輪買うために始めたバイトで、今月末で辞めることになってる。起業に向けての資金調達でトレーダーとかもしてるけど、そっちだけだとまだ不安定で、さ。……これでオレが赤音さんに隠してること全部だと思うんだけど……まだ気になること、ある……?」
九井はバツが悪そうに頬を掻きながら赤音の様子を伺う。
彼が最近忙しなくしていたのは起業に向けての準備のため。会社に雇われている赤音には、会社を興すことの大変さは分からない。想像することしかできないが、デートをする暇もないくらい大変だったのだろう。大学の講義を受け、起業の準備をし、さらにそんな多忙な中、この指輪を買うためにバイトまでしていた。その事実を知って胸が締め付けられる。そして、勘違いでなければ、この指輪は……。
「はじめくん……この指輪……」
「あ……えっと、ほんとは、ちゃんと会社が軌道に乗って、安心して赤音さんを養えるくらいしっかり地盤をつくってからの方がいいかなって思ったんだけど、その……。赤音さん、すごい魅力的な人だから……他の人に取られたらやだなって、思って……それで……その……イヌピーとかにも相談乗ってもらって、それで……」
一生懸命言葉を選びながらそう言う彼の告白は拙い。本当はもっと、彼がプランニングしたスマートなプロポーズがあったのだろう。けれど、飾らない言葉で、素直にまっすぐ贈られる言葉はすべて心の隅まで沁み込んでくる。
「オレ、赤音さんと違ってまだまだガキで、頼りない部分もいっぱいあると思うし……正直オレみたいな男にこんなこと言われても困ると思う。でも、オレ赤音さんのこと絶対困らせないし、ちゃんと幸せにしたい。だから……オレと結婚、してください」
すっと腰を90度に折って頭を下げる。目の前には沈みかけの夕焼けに照らされて深い赤色に染まった指輪が煌々と光っていた。赤音は陽で赤くなった顔を綻ばせながら九井の手を両手で優しく包み込む。
「はじめくん」
その温かい声音に九井は首をすっと上げた。彼女は慈しみの溢れる瞳で九井を見つめている。
「はじめくんがやろうとしてること、全部分かった。でも、社会ははじめくんが思ってるほど簡単じゃなくて、たくさん失敗したり、挫折したり、途中で全部投げ出して嫌になっちゃう時がいっぱいあると思う。だから、はじめくんが困った時は、私のことも頼って欲しい。私なんか、はじめくんより頭も悪いし、できることなんて一緒に困ってあげることくらいかもしれないんだけど……。でも、はじめくんが逃げたい時、私も一緒に逃げてあげる。泣きたい時は一緒に泣くし、はじめくんが笑ってる時は私もはじめくんの隣で笑いたい。だから、私のこと幸せにしようなんて思わなくていいよ。私と一緒に、幸せになろう?」
「赤音さん……ッ!」
九井は思わず彼女を抱きすくめた。小さな体がすっぽりと彼の胸の中に収まる。小さくてか細くて、この世で一番愛しい人。そして、頼りなくて自分勝手な自分を包み込んでくれる優しい人。背中に回された彼女の手は小さくて温かい。
「ごめん。勝手に悩んで、突っ走って、結果、赤音さんのこと傷つけて……。もう、隠し事しないって約束する」
「ふふ。私も、はじめくんには何でも言うし、隠し事しないって約束するね」
「……赤音さん、好き」
「私もはじめくんが好きだよ」
抱擁を解くと、お互い自然と見つめ合う形になる。短い喧嘩が終わってまたひとつ好きの気持ちが大きくなった。どちらともなくゆっくり顔を近づけ、瞳を閉じる。もう少しでキスをする、という距離まで近づいた時、青宗の声が上がった。
「オイ、オレの前でイチャつくな」
その声にパッと体を離す。自分たちの世界に入り込みすぎて彼の存在をすっかり忘れてしまっていた。危うい。いや、気まずい。お互い幼い頃から知った仲だ。弟の前で、幼馴染みの前で、姉の前で。身内のラブシーンなど見たくもないし見られたくもない。しかし今のは完全に良い雰囲気だったしキスをする流れだった。悔しいのと恥ずかしいのと気まずいのとでごちゃごちゃだ。
色んな感情がごちゃ混ぜになって深いため息を吐く九井の頭を赤音が撫でる。
「ふふ、はじめくん。髪の毛ぐしゃぐしゃ」
「エッ! アッ! ヘルメット!」
九井は近くに放り捨てていたヘルメットを慌てて拾い上げる。無我夢中ですっかり忘れていたが、ヘルメットを脱ぎ捨ててそのまま車に一直線にダッシュしたのだ。髪の毛を整える時間などなかった。と、いうことは今までのプロポーズも全部、このみっともない格好でやっていたわけで……。思わず頭を抱える。
「つーか、ココ! いくら減速してたからってバイク停める前に飛び降りるなよ。危ねぇだろうが。足折れてたらどうすんだよ」
「いや、だって赤音さんが襲われてたとこ見えたから、思わず……」
「ほんと、オマエは赤音のことになると見境なくなるよな」
「オレ、赤音さんのためなら死んでもいいからな。骨折くらい安いもんだ」
「……ったく、あんまり自分の命を軽く見るなよ。赤音より先に死んだら殺すからな、テメェ」
「オマエも相当なシスコンだよなぁ」
「ちげぇわ!」
やんや言い合う二人を見て赤音は笑った。その笑い声につられて思わず九井も笑い、青宗も頬を緩める。大事な二人が笑っている。幸せだ。幸せなはずなのに、すごく胸が痛い。
「二人はほんとに仲良しだね」
「ははっ。ほんと、コイツとは腐れ縁だって思ってたけど、オレ、イヌピーのこと好きだよ」
その言葉に胸が詰まる。一番聞きたくて、一番聞きたくない言葉だ。どれほど願っても彼から贈られることのなかった好きの言葉。音は同じなのに、込められた想いが、彼女へ贈られるそれとは全然違う。痛い。痛いけど、どうしても溢れてくるこの想いは、愛おしい以外のなにものでもない。青宗は張り裂けそうな胸を押さえて俯く。目頭が熱くなった。
「っ、オレも、オレもココが好きだ」
「……え、何、イヌピーどうした? 泣いてんのか……?」
その濡れた声に九井はパッと笑みを消しておそるおそる彼を覗き込む。急に泣き始めてしまった理由が分からずおろおろしていると、今度は彼女の方からも鼻を啜る音がした。パッと視線をやれば赤音も鼻を赤くして泣いている。もらい笑いの次はもらい泣き。一体何があったのかと九井は二人の間で狼狽えるばかりだ。
「え? 何、オレ何かした……?」
「ううん。嬉しくて。私も、青宗も。ね?」
鼻を赤くして微笑む彼女に、青宗もこくんと首を縦に振った。ぐし、と乱暴に涙を拭うと、目元を赤くして赤音の方を見る。
「……っ、赤音。絶対ぇココと幸せになれよ」
「うん……ありがとう」
ごめんねは、言わない。謝るのは彼に対して失礼だ。だから赤音は彼にありがとうを贈った。ごめんねの籠もったありがとうを。赤音も青宗が大事だ。それと同じくらい、九井のことも好きだ。もし赤音が青宗と同じ立場だったら、きっと同じようにしただろうと思う。だから、赤音にできることは、九井と世界で一番幸せになることだけだ。愛する弟の割れた恋心と一緒に。彼もきっと、そう願っているだろう。
夜の帳が下りる空の下、零れた涙が銀色に光った。
・イヌ→ココ赤
・最終軸、赤音さん生存if
・イヌピーがバイク屋、九井が大学生、赤音さんが会社員
・当て馬の名も無きモブ男くんがいます
風呂上がり、リビングで棒アイスを食べながらテレビを見ているとスマホの着信が鳴る。画面には『ココ』の文字。青宗はすぐにスマホをタップして耳に当てた。
「ココ? どうした」
『あのさ、例の件なんだけど……』
「あぁ、それなら大丈夫だ。来週だろ?」
『うん』
「特に予定もないみたいだし。つーか、そんな心配ならさっさとしろよ」
『分かってるって! はぁ、でも……』
「何でもかんでもひとりで悩もうとすんなよ。難しいことは分かんねぇけど」
『はぁー……ありがと、イヌピー』
「おう」
耳元で狼狽える九井の声を聞きいていると、パタパタと背後から足音が聞こえてくる。皿を洗い終えた赤音がソファの背中から青宗をじっと見ていた。電話が終わるのを待っているらしい。
「……じゃあ」
トン、とスマホ画面をタップして通話を切ると、彼女がすかさず声をかけてくる。
「はじめくん?」
「そうだけど」
「何話してたの?」
「別に」
「ねーえー。教えてよ」
「ダメ」
「青宗のケチ」
赤音は頬を膨らませながら青宗の隣にぼすん、と座った。ソファが沈む。彼女は不服そうに自分のスマホ画面を開いて九井とのトーク画面を開く。そこには当たり障りのない、毎日のおはようとおやすみの連絡が羅列されていた。
二人が付き合い始めて数年経つが、マンネリ化するほど時間が経っているわけでもない、はずだ。付き合い始めた当初は毎日のように通話をして、毎週ぎこちないデートを重ねてきたが、ここ最近はこの朝晩のメッセージのやりとりくらいだ。
たまに赤音の方からそれとなくデートのお誘いをするものの、タイミングが悪いのか『また今度』の返事をもらうことが続き、それが3回目になって以降、こちらから誘うのを諦めた。彼の忙しいのが落ち着いたタイミングで、と待つことに決めたのだ。
「来週何かあるの?」
「盗み聞きかよ」
「聞こえてきたの。ねぇ、はじめくんと遊びに行くの?」
「……秘密」
「教えてくれたっていいじゃない!」
赤音から視線を外し棒アイスをかじる青宗に、彼女は側にあったクッションを叩いた。
自分は社会人、九井は大学生。生活リズムの違いは重々承知しているが、ここまで時間が合わないものだろうか。どこか一日くらい、数時間でもいいから一緒にいる時間が取れないものだろうか。そう悶々としていたところに青宗の電話である。
来週、この二人は自分に秘密でどこかに行くらしい。この前だって二人が一緒に青宗の職場であるバイク屋で話している姿を見た。九井は最近、自分より青宗ばかり構っている気がする。そんなのズルすぎる。
「はじめくん、最近青宗とばっか遊んで全然デートしてくれない」
「そうか?」
「そうだよ! 青宗も自覚してよ、私のはじめくんなのに」
青宗は前を見たまましゃく、とアイスをかじった。テレビからはお笑い芸人の声が聞こえているが全然耳に入らない。ぼーっとした顔のまま、また一口アイスをかじる。
「オレは大学行ってねぇから大学生ってよく分かんねぇけど、なんかゼミ? とかナントカで忙しそうだぜ。あとカテキョ? のバイトもしてるとか言ってたし」
「えっ、そうなの? 初めて聞いた」
「あー……生徒が女子高生だから……」
「えっ!」
「あ」
青宗は残りのアイスを口に押し込むとソファから立ち上がって自室に続く階段に足をかけた。考えていたことがポロリと口から出てしまった。女子高生の家に上がり込んで二人きりで勉強を教えてるなんて、彼女には言いたくなかったのだろう。こういう少しでも後ろめたいことは最後まで隠し通すか、最初から正直に話しておくかしかない。理由はどうあれ、だ。
「はじめくん、私のこともう飽きちゃったのかな」
ソファの上でしょんぼりしている彼女を振り返る。このまま逃げてしまうことは簡単だが、ここまで傷心の姉を見るのは初めてで思わず足を止めた。
この事態を招いたのは間違いなく自分である。どうにかフォローできないかとぐるぐると頭の中で考えを巡らせた。
「そんなことないと思うぞ」
「でも、青宗とは遊びに行くのに……」
「あー……うーん……」
それには理由があるが、彼女には言えない理由がある。どう返せばいいのかと煮え切らない彼の態度に、赤音はスマホを握り締めて立ち上がった。
「もういい! 私も好きなように遊ぶ!」
「え?」
「来週、ちょうど会社の人にバーベキュー行かないかって誘われてたの」
「は?」
「正直あんまり気乗りしなかったから断ろうと思ってたけど、行く!」
しおらしい態度から急に元気に、いや、ヤケクソになった姉に呆気に取られていると、彼女はたぷたぷとメッセージを打ち込んであれよあれよと来週末にバーベキューに行くことが決まってしまった。この行動力、別の方向に発揮できなかったものか。青宗は慌てて登りかけの階段を降りる。
「オマエ、バーベキューとか行くタマかよ!」
「行ったことないから行くの!」
「苦手だろ、そういうの」
「もしかしたら楽しいかもしれないでしょ」
「やめとけって、向いてないんだから」
「もう連絡したもん」
青宗は深いため息を吐いた。我が姉は大人数でワイワイ遊ぶのは得意ではない方だ。それは弟である自分がよく知っている。彼女の言い方からして、会社行事ではなく仲間内でプライベートに行われるものであろう。大丈夫なのだろうか、という心配がひとつ。そして、もうひとつ気がかりなこと。それは、そのバーベキューが来週末ということだ。
青宗はこのことを九井に伝えるべきかと彼女に背を向けてスマホを取り出す。しかし、その手が黒い画面を開くことはなかった。
◇
「赤音さんにデート断られたッ!」
翌週水曜日。九井は青宗が働くバイク屋に来ていた。彼がバイクを整備する横で今にも死にそうな顔で項垂れている。それを気まずそうに聞く青宗と、そんな二人を見守る真一郎。他に人はおらず、珍しく三人だけの空間になっていた。
「イヌピー、今週末赤音さん予定ないって言ってたじゃんか」
「……ココがもたもたしてるからだろ」
「それは……そう……ほんとに……全部オレが悪い……」
体中の空気が全部抜けるんじゃないかと思うような深いため息を吐いて、九井はまた俯いた。頭と地面がくっつきそうな勢いだ。
「でもさぁ、今までデート断られたことなかったんだよ。もちろんタイミングが合わない時もあったけど、そういう時は絶対別の日を提案してくれてたし……」
「赤音はなんて?」
「ごめん、その日は無理。だって」
「はー……」
これは彼女も相当意地になっているようだ。いや、怒っている? と言うべきだろうか。これまで九井が赤音のことを疎かにしていたツケが一気に回ってきた。が、それもこれも全部来たる日のための準備期間だったが故であり……。物事がとんとん拍子に進むのは物語の中だけなのかもしれない。現実の厳しさを思い知る。
「なぁ、オレ嫌われた? もしかして避けられてる? ちゃんと赤音さんに謝りたい。会って話したい」
そうぐずる九井の後頭部を見下ろして、青宗はまたひとつため息を吐いた。
「その日、オレん家で待つか? 多分夕方までには帰ってくるだろうし」
「いいのか?」
「おう」
「ありがとなイヌピー」
九井は青宗に軽いハグをして感謝の気持ちを体現する。両手の塞がっている青宗はそれを受け入れつつ動きを止めた。
「おい、危ねぇだろ」
「わり」
へらりと笑う九井は本当に悪いと思っているのだろうか。それでも、彼のこの顔を見ると何でも許してしまう。九井が喜ぶと青宗も嬉しい。だから、こうやって何でも協力してしまうし、こうやって全部許してしまうのだ。
「やっぱりここにいたか」
「あ、稀咲」
九井は青宗からぱっと体を離すと、店先に現われた稀咲の方へ顔を向けた。短い抱擁に一抹の寂しさを覚えるが、それをぐっと押し込んで何でもないフリをする。
「オマエ今日1限だけだっつーのに、どこにもいねぇし。電話も出ねぇし」
「あ、わり。マナーモードになってたっぽいわ」
「頼むぞほんと。乾のこと好きなのもいいが、こっちも忙しいんだからもっと集中してくれ」
「分かってるって。じゃ、イヌピー、また週末な」
「ん」
九井は立ち上がると青宗に軽く手を振って稀咲と共に店を出る。去り際に軽く真一郎にも会釈をすると、彼も笑顔で手を振り返してくれた。
二人きりになった店内に、しばしの静寂が訪れる。
青宗は温もりが消えて自由になった体で再び作業を再開した。ぎ、ぎ、という僅かな鉄の音が静かな店内に響く。手元に意識をやるが、頭の中は先ほどのことでいっぱいだ。
稀咲の言葉を、彼は否定しなかった。
ヤンチャをしていた頃はそれなりに喧嘩もしたけれど、大人になってみればお互いが親友と呼べる存在になっていた。周りからも二人は相棒のような関係だと思われているし、それを否定することもない。
九井の中でも、青宗は好きな人間、なのだろう。それを確認できて嬉しさに舞い上がりそうになる。けれど、彼の言った好きはそういう好きではないし、九井自身もそういうのではないことを分かって何も言わなかった。それは分かっている。分かっているけれど。
頭で理解することはできても、心が勘違いしてしまう。
「休憩行くか?」
静かに彼の背中を見守っていた真一郎が口を開いた。青宗は一瞬だけ手を止めて、再び作業を再開する。
「……これ、まだ途中なんで」
ぎ、ぎ、ぎ。少しだけ鈍い、鉄の音がする。歪な不協和音みたいな、掠れた音。
姉の嫉妬の混じった拗ねた表情。九井の項垂れるうなじ。抱き締められた時に背中に触れた手のひらの感触。ここ数日に起こった色々な出来事と、それにかき乱される自分の感情が、二人を祝福すると決めた心に軋む。
「ありがとう、真一郎くん」
青宗は背後にいる彼に笑顔を向けた。
◇
週末。赤音は予定通りバーベキューに出かけていった。
動きやすい服装がいいかと悩みながら青宗に相談してきた彼女は登山でもするのかといった出で立ちだったため、さすがにもう少し普通の格好でいいのではないかと助言したのは今朝の話。
そして、九井は青宗が仕事を終えて帰宅する時間に合わせて家に来る、ということだったが、九井さえ良ければ店まで来て一緒に帰らないかと提案したのはつい先ほどの話だ。
昼ご飯である双悪ラーメンを啜りながらスマホのトーク画面を開きっぱなししていると、ピロン、という通知音と共に『OK!』という猫のスタンプが送られてきた。この猫が九井にそっくりで少し口角が上がってしまう。
今日は午前中に少しだけ稀咲と会うと話していたから、おそらくこの後にでも店に来るだろう。青宗はラーメンを食べ終わると少し早足で店を出てバイク屋に戻った。
「休憩ありがとうございました」
「おかえり。じゃあオレも昼メシ行くかな」
「ウス」
真一郎と交代で店番に戻る。店内にはかつての不良仲間が数人たむろしていたが、真一郎と一緒に出て行った。どうやら昼食を共にするらしい。人気者は大変だな、とその背中を見送る。静かになった店内で部品の在庫を確認していると、しばらくして九井がやって来た。どうやらあの後すぐに店に向かってくれたらしい。それが嬉しくて自然と笑みがこぼれてしまいそうになるのをぐっと噛み締める。
「イヌピー、来たぜ」
「早ぇじゃん」
「おー、ちょうど稀咲と別れた後で暇だったからな」
「そっか。うまくいきそうか?」
「もーバッチリよ。稀咲となら何でもできる気がするぜ」
「ハハッ。強気だな。じゃあこの後のことも自信満々だ?」
「うー……それは、うーーーーん…………」
九井は途端に背中を丸めた。赤音のことになるとすぐに自信を無くしてしまう。いつもより身綺麗な格好をしているのも、このあと彼女と会うからだろう。彼女と会う時はいつもこんなにオシャレをしているのだろうか。それとも、今日だからだろうか。そんなことを悶々と考えてしまう。
せっかくかっこよく決めているのに、そんなに自信なさげでもったいない。何ひとつ不安に思うことなどないのに。自分なら、彼にこんな顔させないのになぁなんて思って、けれどそれを口に出すわけにもいかなくて、軽く下唇を噛む。
「今日真一郎くんが3時には上がっていいって言ってくれたからさ、あとちょっとだけ待ってて」
「マジ? 早上がりじゃん」
「うん。なんか気ぃ遣わせちまったみてぇで」
「佐野さん、いい人だよなー。オマエが好きなのも分かるわ」
「……うん」
九井は店内に置いてある椅子に座ると青宗の邪魔にならない程度に雑談に興じながら彼の仕事を見守る。少しすると昼食を終えた真一郎たちがぞろぞろと帰ってきて、店内は一気に賑やかになった。
そうして過ごしているうちにあっという間に時間は過ぎ、青宗の退勤時間はすぐやって来る。
「じゃ、九井くんと仲良くな~」
「ウス。お疲れ様でした」
「佐野さん、失礼します」
二人は真一郎に挨拶をして青宗のバイクで一緒に帰路についた。彼女が帰ってくるのは多分夕方。そんなに遅くならないと本人は言っていたが、明確な時間は聞いていない。この時間がもう少し長く続けばいいなと思って、少しだけ遠回りをする。と、ポンポン、と青宗の肩が叩かれた。回り道をしていることに気づかれたらしい。九井は片手で背後にあるタンデムバーを握り、もう片方はそのまま青宗の肩を掴んだ姿勢でバイクに揺られる。青宗は適当に近くにある公園の前にバイクを停めた。エンジン音が止まると、九井はヘルメットを取って青宗に声をかける。
「おい、ツーリングでもする気か?」
その声がよく聞こえるよう、青宗もヘルメットを取って彼の方を振り返った。彼女のために綺麗にセットしてきたであろう髪の毛が、少しだけ乱れている。
「あー……、ごめん。ココ乗せて走るの久々で楽しくなっちまって」
「赤音さんもう帰ってたらどうすんだよ。まぁ、オレも久々にイヌピーの後ろ乗れて楽しいけど」
その言葉に心がキュッとなった。帰りたくない。
それじゃあこのまま二人でどこか遠くまで行こうか、なんて言いかけて口を噤む。
九井はきっと、それを望んでいないのが分かるから。
「でも、今日ちゃんと赤音さんと仲直りしたい」
そう言う彼は立派な男の顔だった。
本当は。本当はこの事態を招いたのが自分だと知ったら、九井はそれでも一緒にいてくれるだろうか。今までと変わらず友達でいてくれるだろうか。
九井に深く愛されていることを知りもせず、勝手に嫉妬してくる姉に余計な一言を言ってしまったこと。言うつもりなんてなかったけれど、青宗の僻んだ心が欠けてポロッと出てしまったことは事実だ。
そして、そんな姉がヤケになって今日出かけてしまうことになったのを九井に告げなかったのも自分。これは意図的なものだ。このまますれ違ってしまえばいいなんて、僅かでも思ってしまった。
九井が今日のために色々準備してきたことを一番近くで見ていたからこそ、それが台無しになってしまった時、真っ先に彼が泣きついてくるのも自分だという確信があった。
赤音のことも九井のことも大好きで大事だ。だから二人のことを応援したいと思うし、協力したいとも思う。そう頭では理解していても、心が追いつかない。そんなのは綺麗事だと駄々をこねる自分がいる。
けれど、実際に泣きついてきた彼に、そんな女やめちまえとも言えず、それじゃあオレにしとけよなんてことも言えず、結局こうして協力してしまうのは、やっぱり二人のことが大好きで大事だからなんだろう。
「ココ」
名前を呼ぶと彼が僅かに首を傾げてこちらを見上げた。
このまま好きだと言えば、彼は困るだろうか。この想いが彼に知られることなく膨れ上がっていくのが苦しい。すべて吐き出して楽になりたい。この一週間の悪事も全部言うから、いっそのことこっぴどく振ってくれ。そうしたらこの体はもっと軽くなるのに。けれど、九井を困らせることを分かって、自分だけが楽になるためにそんなことを言うのは、それこそ最大の悪事だ。青宗はまたキュッと下唇を噛む。
「帰ろう。赤音が来る前に」
「うん」
再びヘルメットを被るとエンジンを吹かした。今度は遠回りせず、一直線に自宅に向かう。翳り始めた太陽の光が二人の背中を照らしていた。
◇
夕方。予定よりも帰路につくのが遅くなってしまった赤音は車の助手席で疲労感に包まれながら窓の外を眺めていた。
「遅くなっちゃいましたね。疲れてないですか?」
「あ、はい。男性陣が片付け率先してやってくれてたので。先輩こそ、わざわざ送ってくださってありがとうございます」
「いえいえ。電車だと時間かかるし、疲れるでしょうから」
男女数人で行われたバーベキューは何事もなく終わった。慣れないアウトドアで準備や片付けなどに時間がかかり、予定よりも遅めの帰宅になってしまったくらいで他に大きなトラブルもない。少し緊張していたが、和気あいあいとした雰囲気で特に苦に感じることもなかった。家に帰ったら青宗に自慢してやろう、と思う反面、心の中では九井のことを考えていた。
バーベキューに行くと言った数日後、彼から来週久々にデートしないかと連絡があったのだ。タイミングが悪い。せめて行くと連絡を入れたその日のうちであればまだ融通が利いたかもしれないが、人数が確定して準備を進めていたところでキャンセルするにも微妙なタイミングだった。
どうしても、と言えばキャンセルできたかもしれないが、あの時は赤音自身も少し意地っ張りになっていた。そうしたことが重なって結局今日彼とのデートを断りバーベキューに来たが、やっぱりデートに行きたかったなと思っている。素直になることは大事だ。帰ったら彼に連絡をして、そっけない返信を謝って、改めてデートの日取りを決めよう。
会社の先輩である男性社員との当たり障りのない世間話をしながら、頭の片隅でそんなことを考える。はやく家に帰りたいなぁ、と思っていると、だんだん外が暗くなってきた。もうすぐ夕方から夜になる。
濃い赤色が薄い紫色と混ざり、頭上が紺色のグラデーションで空が彩られる頃、ようやく家の近くに到着した。
「乾さんの家ってここら辺ですか?」
「あ、はい。そこの角曲がったところで、2軒目の家です」
「了解です。家の前に車停めて大丈夫ですか?」
「はい」
スピードを落とした車はキッという軽い音を立てて乾家の前に停車した。赤音はシートベルトを外すと、膝に置いていた鞄を手に持ってドアハンドルを握る。
「じゃあ、今日はありがとうございました。また会社で」
そう言ってロックの解除を待つが、一向に鍵が開く気配はない。不審に思って先輩の方に顔を向けると、彼が至近距離までこちら側に身を乗り出していた。
「乾さん」
「えっ」
彼の顔が近づいてきて、反射的に手に持っていた鞄を顔の前に持って来る。さっきまで和やかに話をしていたのに、一体いつからそんな雰囲気になった? パニック状態だ。すぐに逃げ出せばいいのに、頭の中はどうしよう、どうしようという、気持ちでいっぱいで何も考えられない。ガードする両手首を掴まれ、男の大きな手に暴かれた。恐怖に身を強張らせてギュッと目を閉じる。心の中で縋るように思い浮かべたのは、九井のことだ。
コンコン。背後の窓ガラスからノックする音がした。おそるおそる振り返ると、そこには車内を睨む九井の姿があった。見知らぬ男の登場に彼も怪訝な顔で窓の外を見ている。と、次いで車体の前方からバイクのコール音が聞こえた。目の前に目を向ければ、バイクに跨がったままの青宗が運転席の彼にガンを飛ばしている。服装こそ普通の男ではあるが、何せ乗っているバイクは暴走族時代から変わらぬデザインだ。厳つい白い単車に彼は思わず固まる。
コンコン。再び窓ガラスが叩かれた。男は赤音から手を離すとゆっくり助手席の窓を3分の1程度だけ開ける。
「……どちら様ですか」
「テメェこそどちら様デスカァ?」
「は、いや……」
目をつり上げて凄んでくる九井に圧倒されて少し後退ると、今度は運転席の窓ガラスが叩かれた。今度はコンコン、なんて優しいもんじゃない。ガンッという、いかにも拳で殴りました、という鈍い音だ。そちらを振り向くと先ほどまで前方にいた金髪の男が運転席の隣まで来ている。
「テメェ、ココの女に手ェ出しといてタダで済むと思ってんの?」
窓越しに睨んでくる男は今にも殴りかからん勢いだ。直感的に、窓を開けたら死ぬ、と思った。
「え……と……お、おんな……?」
ぎ、ぎ、ぎ、という効果音が付きそうな動きで男は赤音の方を見る。その後ろからはあのつり目の男が睨んでいた。どっちを向いても怖い。思わず赤音に助けを求める視線を送る。
「あ……えっと、こっちが今お付き合いしてるはじめくん。で、そっちが弟の青宗」
彼女は丁寧にそう紹介してくれた。情報量が多くて一瞬フリーズする。
この天使のような女性の彼氏、が、目の前の怖い男。
で。この聖母のような女性の弟、が、背後の怖い男。
男は深呼吸をした。そして無言で車のロックを解除する。
「あの……すいませんでした!」
深々と頭を下げる男。赤音がおそるおそる車の外に出ると、彼はドアが閉まるや否や車を急発進させて去って行った。彼はもう、赤音に声をかけることはできまい。
遠くなる車を見送って、赤音はそろりと九井を見上げた。
「あ、えっと、ありがとう、はじめくん」
「今の誰?」
そう言って彼女を見下ろす彼は初めて見る表情をしていた。明らかに怒っている表情だ。彼には今日、誰とどこに行くのかは言っていない。彼女が見知らぬ男と二人きりの車で帰宅、なんて、浮気だと思われてたって仕方のない状況だ。何を言っても言い訳にしかならないだろう。
「えっと……会社の、先輩、で……」
「先輩? あの男と二人きりでドライブするする仲なの?」
「違うの。今日は会社の人たちとバーベキューに行ってて、それで、帰りに送ってくれただけで……」
「何それ? オレ聞いてないんだけど。何で言ってくれなかったの?」
一方的に責めるような言い草に、赤音も少しカチンとくる。
本当はごめんねと言って仲直りがしたい。だけど、これまでだって詳しいことを言わずに自分のことをほったらかしにしていたのはそっちの方だ。
「何でって……だって、はじめくんだって青宗と遊ぶ時私に言わないでしょ」
「イヌピーはオレも赤音さんも知ってる仲じゃん。でも、オレはあの男のこと知らねぇし、知らねぇ男と自分の彼女が一緒にいたら嫌だって分からない?」
「っ、なんでそんな言い方するの!」
思わず大きな声が出てしまった。さっきから赤音だけが悪いみたいに言って、そっちだって、彼女に言っていないことがたくさんあるくせに、とキッと九井を見上げる。
「はじめくん、最近ずっとそっけないし、それなのに青宗とは遊んでるし、それに! ……女子高生の家庭教師してるって、秘密にしてるでしょ!」
その言葉にたじろいだのは九井の方だ。先ほどまでの怒りの表情はどこへやら、急にしどろもどろになる。
「えっ、それどこで聞いたの」
「青宗から聞いた」
九井は反射的に青宗を見た。彼はぷいと目を逸らす。しかしまぁ、赤音が嫌な思いをしないようにとあえて言わなかった自分にも非がある。最初から素直に言っておけば、ここまで怒らなかったかもしれない。
「私に後ろめたいことがあるから隠してたんでしょ? だったら、私だってはじめくんにそうやって言われる筋合いないもん」
むっと頬を膨らませる彼女に、九井は白旗を揚げた。彼女の言う通りだ。最初から自分がすべて素直に言えていればこうはなっていなかっただろう。
「ごめん、赤音さん。オレ、目の前のことで手一杯で、ちゃんと赤音さんのこと見れてなかった」
「……ううん。私も、はじめくんにちゃんと言えなくてごめんね」
しゅん、とした雰囲気で互いに頭を下げる。少しだけ気まずい空気が流れて、九井はおもむろにポケットに手を入れた。その中から小さな箱を取りだして、彼女の前にすっと差し出す。
「その……これを、渡したかったんだ」
小さな箱をパカリと開けた先には、きらりと銀色に輝く指輪があった。赤音はそれを見て思わず口元を覆う。そしてゆっくりと九井に視線を移した。
「ほんとはもっとちゃんとしたところで言いたかったんだけど……。実はオレ、大学卒業したら就職せずに起業することにしたんだ。それの準備とかで忙しくて……。あと、家庭教師は指輪買うために始めたバイトで、今月末で辞めることになってる。起業に向けての資金調達でトレーダーとかもしてるけど、そっちだけだとまだ不安定で、さ。……これでオレが赤音さんに隠してること全部だと思うんだけど……まだ気になること、ある……?」
九井はバツが悪そうに頬を掻きながら赤音の様子を伺う。
彼が最近忙しなくしていたのは起業に向けての準備のため。会社に雇われている赤音には、会社を興すことの大変さは分からない。想像することしかできないが、デートをする暇もないくらい大変だったのだろう。大学の講義を受け、起業の準備をし、さらにそんな多忙な中、この指輪を買うためにバイトまでしていた。その事実を知って胸が締め付けられる。そして、勘違いでなければ、この指輪は……。
「はじめくん……この指輪……」
「あ……えっと、ほんとは、ちゃんと会社が軌道に乗って、安心して赤音さんを養えるくらいしっかり地盤をつくってからの方がいいかなって思ったんだけど、その……。赤音さん、すごい魅力的な人だから……他の人に取られたらやだなって、思って……それで……その……イヌピーとかにも相談乗ってもらって、それで……」
一生懸命言葉を選びながらそう言う彼の告白は拙い。本当はもっと、彼がプランニングしたスマートなプロポーズがあったのだろう。けれど、飾らない言葉で、素直にまっすぐ贈られる言葉はすべて心の隅まで沁み込んでくる。
「オレ、赤音さんと違ってまだまだガキで、頼りない部分もいっぱいあると思うし……正直オレみたいな男にこんなこと言われても困ると思う。でも、オレ赤音さんのこと絶対困らせないし、ちゃんと幸せにしたい。だから……オレと結婚、してください」
すっと腰を90度に折って頭を下げる。目の前には沈みかけの夕焼けに照らされて深い赤色に染まった指輪が煌々と光っていた。赤音は陽で赤くなった顔を綻ばせながら九井の手を両手で優しく包み込む。
「はじめくん」
その温かい声音に九井は首をすっと上げた。彼女は慈しみの溢れる瞳で九井を見つめている。
「はじめくんがやろうとしてること、全部分かった。でも、社会ははじめくんが思ってるほど簡単じゃなくて、たくさん失敗したり、挫折したり、途中で全部投げ出して嫌になっちゃう時がいっぱいあると思う。だから、はじめくんが困った時は、私のことも頼って欲しい。私なんか、はじめくんより頭も悪いし、できることなんて一緒に困ってあげることくらいかもしれないんだけど……。でも、はじめくんが逃げたい時、私も一緒に逃げてあげる。泣きたい時は一緒に泣くし、はじめくんが笑ってる時は私もはじめくんの隣で笑いたい。だから、私のこと幸せにしようなんて思わなくていいよ。私と一緒に、幸せになろう?」
「赤音さん……ッ!」
九井は思わず彼女を抱きすくめた。小さな体がすっぽりと彼の胸の中に収まる。小さくてか細くて、この世で一番愛しい人。そして、頼りなくて自分勝手な自分を包み込んでくれる優しい人。背中に回された彼女の手は小さくて温かい。
「ごめん。勝手に悩んで、突っ走って、結果、赤音さんのこと傷つけて……。もう、隠し事しないって約束する」
「ふふ。私も、はじめくんには何でも言うし、隠し事しないって約束するね」
「……赤音さん、好き」
「私もはじめくんが好きだよ」
抱擁を解くと、お互い自然と見つめ合う形になる。短い喧嘩が終わってまたひとつ好きの気持ちが大きくなった。どちらともなくゆっくり顔を近づけ、瞳を閉じる。もう少しでキスをする、という距離まで近づいた時、青宗の声が上がった。
「オイ、オレの前でイチャつくな」
その声にパッと体を離す。自分たちの世界に入り込みすぎて彼の存在をすっかり忘れてしまっていた。危うい。いや、気まずい。お互い幼い頃から知った仲だ。弟の前で、幼馴染みの前で、姉の前で。身内のラブシーンなど見たくもないし見られたくもない。しかし今のは完全に良い雰囲気だったしキスをする流れだった。悔しいのと恥ずかしいのと気まずいのとでごちゃごちゃだ。
色んな感情がごちゃ混ぜになって深いため息を吐く九井の頭を赤音が撫でる。
「ふふ、はじめくん。髪の毛ぐしゃぐしゃ」
「エッ! アッ! ヘルメット!」
九井は近くに放り捨てていたヘルメットを慌てて拾い上げる。無我夢中ですっかり忘れていたが、ヘルメットを脱ぎ捨ててそのまま車に一直線にダッシュしたのだ。髪の毛を整える時間などなかった。と、いうことは今までのプロポーズも全部、このみっともない格好でやっていたわけで……。思わず頭を抱える。
「つーか、ココ! いくら減速してたからってバイク停める前に飛び降りるなよ。危ねぇだろうが。足折れてたらどうすんだよ」
「いや、だって赤音さんが襲われてたとこ見えたから、思わず……」
「ほんと、オマエは赤音のことになると見境なくなるよな」
「オレ、赤音さんのためなら死んでもいいからな。骨折くらい安いもんだ」
「……ったく、あんまり自分の命を軽く見るなよ。赤音より先に死んだら殺すからな、テメェ」
「オマエも相当なシスコンだよなぁ」
「ちげぇわ!」
やんや言い合う二人を見て赤音は笑った。その笑い声につられて思わず九井も笑い、青宗も頬を緩める。大事な二人が笑っている。幸せだ。幸せなはずなのに、すごく胸が痛い。
「二人はほんとに仲良しだね」
「ははっ。ほんと、コイツとは腐れ縁だって思ってたけど、オレ、イヌピーのこと好きだよ」
その言葉に胸が詰まる。一番聞きたくて、一番聞きたくない言葉だ。どれほど願っても彼から贈られることのなかった好きの言葉。音は同じなのに、込められた想いが、彼女へ贈られるそれとは全然違う。痛い。痛いけど、どうしても溢れてくるこの想いは、愛おしい以外のなにものでもない。青宗は張り裂けそうな胸を押さえて俯く。目頭が熱くなった。
「っ、オレも、オレもココが好きだ」
「……え、何、イヌピーどうした? 泣いてんのか……?」
その濡れた声に九井はパッと笑みを消しておそるおそる彼を覗き込む。急に泣き始めてしまった理由が分からずおろおろしていると、今度は彼女の方からも鼻を啜る音がした。パッと視線をやれば赤音も鼻を赤くして泣いている。もらい笑いの次はもらい泣き。一体何があったのかと九井は二人の間で狼狽えるばかりだ。
「え? 何、オレ何かした……?」
「ううん。嬉しくて。私も、青宗も。ね?」
鼻を赤くして微笑む彼女に、青宗もこくんと首を縦に振った。ぐし、と乱暴に涙を拭うと、目元を赤くして赤音の方を見る。
「……っ、赤音。絶対ぇココと幸せになれよ」
「うん……ありがとう」
ごめんねは、言わない。謝るのは彼に対して失礼だ。だから赤音は彼にありがとうを贈った。ごめんねの籠もったありがとうを。赤音も青宗が大事だ。それと同じくらい、九井のことも好きだ。もし赤音が青宗と同じ立場だったら、きっと同じようにしただろうと思う。だから、赤音にできることは、九井と世界で一番幸せになることだけだ。愛する弟の割れた恋心と一緒に。彼もきっと、そう願っているだろう。
夜の帳が下りる空の下、零れた涙が銀色に光った。
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