【イヌココ】片想いの話
乾家の玄関の扉を開くと、目の前に赤音がいた。扉を開くタイミングが重なったのだろう、彼女の右手はドアノブを掴もうと中途半端に九井の方へ伸ばされていた。少しだけ驚いたような顔はすぐに綻ぶ。
「はじめくんいらっしゃい。青宗に用事?」
「あっ、う、うん。赤音さんはどっか行くの?」
「そう、友達と買い物」
「へぇ~そっか。今日オシャレしてるもんね」
「えへへ、分かる? 実はこのスカート今日初めて着たんだ。かわいい?」
「か、かわ、いい……」
「でしょ? ふわっとしてるのが気に入ってて」
赤音はシフォンスカートをちょん、とつまみ上げると半身をくるっと捻った。ふんわりと裾が広がって彼女の足元に花が咲く。九井はその光景を心ここにあらずといった表情で眺めていた。綺麗だ、と純粋に思う。彼女の声、仕草、笑顔、そのすべてがまるで天使そのものだ。
「ね? かわいいでしょ」
「……うん、すごく」
男ならここでひとつ気の利いたことでも言えればいいのだが、今の九井にそんな余裕はない。彼女への好きの感情を抑え込むのでいっぱいいっぱいだ。もうだいぶ、溢れてしまっているかもしれないが。
「おい、時間いいのか」
そんな永遠とも呼べる一瞬の時間に水を差したのは部屋着を着崩した青宗だ。寝起きなのか寝癖もそのままになっている。赤音は慌ててスマホの時計を確認した。
「あっ、ほんとだ! じゃあはじめくんまたね!」
「うん。また」
九井の横を通り過ぎていく柔らかい風。花のような香りは柔軟剤か、それともシャンプーか。
「いや、天使からは花の匂いがするのかもしれない」
「何言ってんだオマエ」
そんな九井の独り言に青宗はうんざりしたした顔でつっかかる。九井という男は、普段は賢いくせに赤音が絡むとどこかポンコツになる。有り体に言えば、恋は盲目というやつだろうか。
「オマエさ~ほんと赤音のこと好きだよな」
「っ、なんだよ急に……まぁ、そうだけど……」
青宗は眠たそうな目で九井を一瞥し、大きなあくびをしながら二階の部屋に戻っていく。九井も靴を脱いで家に上がった。
乾家と九井家は母親同士が元々仲が良く、家族ぐるみの付き合いだ。幼い頃から一緒に遊んだふたりにとっては勝手知ったる家、というよりももはや第二の実家のような感覚だ。九井は冷蔵庫から2リットルのペットボトルを取り出すと、グラスを2つ片手に持って青宗の部屋に向かう。半開きの扉を行儀悪くつま先でつついて中に入った。部屋の主は大の字になってベッドの上に寝転んでいる。もう昼だというのにまだ寝足りないのだろうか。
「おいおい、人を呼んどいて自分は昼寝ってか」
「起きてる」
「目ぇ閉じてんぞ」
「起きてる~」
ごろんと寝返りを打つとうっすらと目を開けた。ぱち、ぱち、とゆっくり瞬きを繰り返す横で、九井は手に持っていたペットボトルとグラスを小さなローテーブルに置く。キャップを捻るとプシュッと炭酸の抜ける音がした。とぽぽぽ、と濃い紫の液体を注ぐと甘いグレープの香りが鼻腔をくすぐる。その様子をぼんやりと眺めていた青宗は、自分に向けられている視線に気づいて九井を見上げた。ぱち、とまたひとつ瞬きをすると、彼は大層深いため息を吐く。
「オマエが赤音さんと同じ遺伝子を持ってることが残念だ、ほんと」
「あ?」
「顔だけは瓜二つなのに、性格は全然似てねぇもんな」
「好きでこの顔に生まれたんじゃねぇよ」
「今世の中の数千人を敵に回したな」
九井はグラスに淹れたジュースをあおった。パチパチとした刺激物が喉を駆け抜けていく。青宗は静かにその上下する喉仏を見上げていた。
「……ココはさぁ、いつから赤音が好きなんだ?」
「んんっ、また急になんだよ」
「ん? 別に、ただ気になったから。少なくとも小学生ん時にはもう好きだったろ?」
「まぁ……」
「飽きねぇの?」
「飽きねぇよ! 飽きるって何だ!」
好きじゃなくなった、とか、冷めた、とかならまだ分かるが、飽きるとは何だ。恋に飽きることなどあるのだろうか。いや、それを飽きると言うのか? そう言えば、このぼんやりした男が恋をしているところなど見たことがない。
思春期にもなれば恋に恋する同級生も少なからずいた。それほど恋愛は少年少女を浮つかせる。何組の誰それが誰々のことを好きだ、とか、同じクラスの誰それが先輩に告白した、とか、誰と誰が付き合って別れた、とか。本気でもない恋愛に一生懸命になったりする時期がある。カレシとかカノジョはひとつのステータスだ。特に女子なんかは恋バナが話題の主体なことも珍しくない。好きな人がいなくても「○○くんが好き」だなんて嘘をつく。それで話が盛り上がるのだ。それを鼻にかけている勘違い男子生徒諸君は滑稽でしかない。脈アリだと唆されて告白したら玉砕したなんて泣き言に付き合ったこともしばしばある。かく言う九井も、長い片想いに身を焦がしている憐れな青少年のひとりだ。
青宗とはそれこそ物心がつく頃から一緒にいる仲である。幼稚園から現在に至るまで、今は違う高校に通っているがなんやかんやでずっと一緒にいる、言わば腐れ縁だ。思えば、この男がバイクと喧嘩以外に興味を示したことがあっただろうか。いや、ない。あったらこんなこと言わないだろう。
「オマエには分かんねぇよ」
恋したことないヤツに片想いの辛さなんて分かりっこない。九井は頬杖をついて寝転がったままの青宗を見下ろす。この男が恋に浮かれる姿が想像できなくて思わず苦笑した。
「……分かんねぇな。オレはもう、飽きたから」
「は?」
予想外の言葉に目を丸くする。その物言いはまるで、青宗が恋に飽きたとでも言っているかのようだ。
「飽きたって……何に?」
「片想い」
「はぁ!?」
九井は思わず机を叩く。ガチャンとグラスが数ミリ浮いた。この男、九井の知らないところで育んでいた恋心があったらしい。初耳だ。こんな面白いことあってたまるか、と、身を乗り出した。
「なんだよオマエもいっちょ前に恋とかしてんのかよ! 相手誰? 同じ学校?」
「違う」
「あー分かった、すぐ近くの女子校の生徒だろ?」
「違う」
「んだよ、照れてんのか? あ、でも飽きたってことはもう好きじゃないのか……? なら時効だって、全部吐け!」
九井は彼が横たわるベッドに腰掛けると、青宗の上半身を跨ぐように片手をついて顔を覗き込む。彼は心底面倒くさそうにあくびをしてうつ伏せになった。逃げの体勢だ。
「イヌピ~」
さわさわと脇をくすぐると彼の肩が震える。意地でも聞き出したい。バイクと喧嘩以外に興味がなかったこの男が、一体どんな女子に片想いをしていたのか知りたい。
「バッカ、この、テメッ」
くすぐり攻撃に負けた青宗は身を捩って彼の手から逃れる。それと同時に九井の両肩を掴んで押し倒すと馬乗りになった。形勢逆転だ。両手を押さえ込めばもうこれ以上攻撃されることはない。少し上がった息を落ち着けようと数回深呼吸を繰り返した。九井はちぇっ、と文句を言ってくる。
「意地っ張り」
「テメェがしつこすぎんだよ」
「なんだよ、どうせこっぴどくフラれたとかだろ? オマエ、愛想ねぇもんな」
くつくつと小馬鹿にしたような笑いを噛み締めている九井にムッとした青宗は掴んでいた手首を捻り上げる。すぐに九井からギブアップの声が上がった。
「フラれてねぇ。告ってねぇから」
「んだよ、勝負する前に逃げてんのか。意外と恋愛は奥手か?」
「……そいつ、他に好きな奴、いるから」
「あー、負け戦はしない主義ね」
ふっと鼻で笑われる。ムカつく、ムカつく。人の気も知らないで、と青宗は腹いせにわざと体重をかけた。九井から、ぐえ、という鈍い声が上がる。
「じゃあココは、もし赤音に彼氏ができたらどうすんだよ。それでも告白すんのか?」
「ぅ、……は? あー……うーん……」
九井は負荷に耐えながら、もし、好きな人が他の誰かのものになってしまったら、と考える。そうなってしまったらもう手遅れかもしれない。きっと彼女を困らせてしまうだろう。困らせたいわけじゃない。好きな人には幸せになってほしい。けれど、その幸せが自分の隣にないのは嫌だ。
唸り声を上げて煮え切らない返事をする九井に、青宗は「ほらな」と吐息をひとつ零す。
「……でも、そいつに彼氏いないなら、まだチャンスはあるだろ」
「ねぇよ、1ミリも」
「そうか?」
「ココだって、赤音にそっくりの別のヤツに告られてもOKしねぇだろ?」
「そりゃ、いくらそっくりでも赤音さんじゃないんだったら意味ねぇし……」
「だろ」
傷ついた表情の青宗に、恋愛とは実に難儀なものだと九井の心も曇る。片想いはもっと楽しいものだと思っていた。けれど、それは相手がフリーの場合に限る。他の誰かに心奪われている人に想いを寄せ続けるのは、すごくしんどいのかもしれない。
「……ココはさ、もし赤音が他のヤツと結婚したら、赤音のこと諦められるか?」
俯いた青宗の表情は陰っていてよく見えない。これは、彼なりの相談なのだろう。飽きたと言った恋心を未だに切り捨てられずにいる、憐れな青少年。九井は想像を膨らませる。もし、彼女が自分以外の誰かと結婚してしまったら、と。
「……オレは、赤音さんが好きだ。だから……赤音さんの幸せを一番に応援する。そうなったらちゃんと諦める。……でも……」
「……でも?」
「好きでいることは、やめられないかもしれない」
ぎゅうっと両目を閉じて渋い顔でそう返した。苦渋の決断だ。正直諦めたくない。どこの馬の骨とも分からない男に彼女を渡したくない。けれど、それが彼女にとって最上級の幸福ならそれを見送ることもひとつの愛の形だ。みっともなくてもダサくても、せめて好きでいることだけは許されたい。
しわくちゃになった九井の顔を見た青宗は思わずぷっと吹き出した。
「それって諦めたって言えんの?」
「感情は理屈でどうにもなんねぇんだ。好きでいることくらい別にいいだろ、誰にも言わなきゃ」
バツが悪そうに唇を尖らせながら顔を逸らす九井に意地悪な笑顔を向ける。今度はこっちがからかう番だ。
「いつまで?」
「あ? いつまでって……そんなの、好きじゃなくなるまでじゃねぇの?」
「いつなくなんの?」
「分かんねぇ」
「じゃあ、どうやったらなくなる?」
「あー……他に好きな人ができる、とか……?」
「赤音以外を好きになれんのかよ」
「だから分かんねぇって」
突然そんな質問攻めをされたところで、初恋を拗らせたまま今日まで生きてきたのだからそんなの分かるわけがない。もしかしたら死ぬまで好きかもしれない。それはさすがに重すぎる。潔く諦められるスマートな男でありたいと思うが、それはその時にならないと分からないだろう。
口をへの字に歪める九井を見下ろす青宗はどこか楽しそうだ。コイツ、こんな顔もできたのか、と黙って見上げると、彼はすぅっと目を伏せた。長いまつげの間からきらりと碧色が光る。
「じゃあ、試してみようぜ」
「は?」
青宗はそのままゆっくり体を倒す。彼女によく似た綺麗な顔が近づいて来て九井の体が強張った。両手を塞がれている上に馬乗り状態だ。身動きひとつ取れない。何をされるのか分からない緊張感と現状への羞恥心に耐えきれず彼の名前を呼ぼうと口を開くが、その吐息が言葉になる前にすべて飲み込まれてしまった。
ふんわりと触れ合う唇は想像よりもずっと柔らかいのに少しだけかさついている。どんなに顔がそっくりでも、今口づけを交わしているのは紛れもなく青宗であるのだと実感した。
時間にして僅か数秒、いや、もっと短かったのかもしれない。けれど、その瞬間だけまるで切り取られたみたいに時間が止まった感覚だった。
ゆっくりと青宗が離れていく。至近距離でぼやけた顔がだんだんはっきりと見えて、彼の上気した頬と、乱れたままの前髪から覗いた濡れた瞳を認めた瞬間、体中の血液が沸騰した。
「どう?」
「は……、なに、今の……」
「キス?」
「ば! バカ! キスは好きな人とするもんだ!」
「だからしたんだけど」
「あ!?」
思わず声が裏返った。今、ありえないくらい体が熱くなっているのが分かる。多分とても恥ずかしい顔をしているはずだ。彼に見せられない、見せたくないくらい恥ずかしい。顔を隠したいのに青宗が両手を離してくれない。馬鹿力もいいところだ。同じ男なのに何で振り払えないのだろうと焦りが募る。
「……あー、やっぱさっき言ったのナシな」
「何がッ!?」
「ん? チャンス、ありそうだから」
「何の!?」
「片想い飽きたし」
「オレと会話する気ある!?」
ひとり焦り騒ぐ九井とは対照的に青宗はどこか余裕がありそうな雰囲気だ。それに加え、彼の表情は先ほどとは打って変わってどこか嬉しそうで。にんまりと上がる口角を隠しもせず、白い頬をほんのり桃色に染めて九井を見下ろした。その笑顔はさっき見た彼女の綻んだ笑顔によく似ているようで全然似ていない。何だろう、彼からはもっと、彼女とは違う何かが滲み溢れている。その正体を九井は知っている。そう、それはきっと……。
「ココも片想いやめて、オレと両想い、しよ?」
青宗はこてん、と少しだけ首を傾けた。その破壊力たるや、九井は再び両目を瞑ってしわくちゃの顔になる。乾家の遺伝子は強い。いや、九井が乾家の遺伝子に弱いだけかもしれない。もちろん顔だけが好きなわけじゃない。全部引っくるめて好きだ。ふわふわした雰囲気も、マイペースな性格も、こうやって無自覚に九井を攻撃してくるところも、何もかもが似ている。似てないなんてウソ。ほんとは似てないところを一生懸命探してただけだったのかもしれない。
「っ……! ~~~~! ッ、いっ、一旦、保留……で……」
九井はしわくちゃのまま、ようやくそれだけ絞り出した。今すぐ逃げ出したいが青宗が九井を解放しない限りそれは叶わないだろう。イエスの返事をもらえなかった青宗は追い討ちをかけるように再び九井に顔を寄せた。思わず小さな悲鳴が上がる。そして、いたずらっ子のような笑顔で囁いた。
「もっかいしてやっろか?」
「なに……」
「き、」
「しねぇ!」
ぷい、とそっぽを向く九井に青宗はまた笑った。やっぱり、その笑顔は彼女にそっくりなのに全然似ていない。彼女と同じ天使みたいな顔なのに、こんなにも違うのはきっと、彼が九井に向ける瞳から恋心が溢れているからだろう。いつからだろう、全然気づかなかった。彼の瞳からこんなにも分かりやすい恋心が溢れていればすぐに変化に気づけそうなのに、今の今まで気付けなかった。少なくとも、小学生の時くらいから、ずっと……。そのことにはたと気づいて、九井は苦笑した。
自分も、この男も、大概な片想いをしてきたらしい。そんなところまで幼馴染みじゃなくてもいいのに。九井は逸らしていた顔を青宗の方へ向き直す。綺麗な碧い瞳とかち合った。溢れる恋心に、飲み込まれそうになる。
「……イヌピー、」
片想いが終わるまで、あと、少し。
「はじめくんいらっしゃい。青宗に用事?」
「あっ、う、うん。赤音さんはどっか行くの?」
「そう、友達と買い物」
「へぇ~そっか。今日オシャレしてるもんね」
「えへへ、分かる? 実はこのスカート今日初めて着たんだ。かわいい?」
「か、かわ、いい……」
「でしょ? ふわっとしてるのが気に入ってて」
赤音はシフォンスカートをちょん、とつまみ上げると半身をくるっと捻った。ふんわりと裾が広がって彼女の足元に花が咲く。九井はその光景を心ここにあらずといった表情で眺めていた。綺麗だ、と純粋に思う。彼女の声、仕草、笑顔、そのすべてがまるで天使そのものだ。
「ね? かわいいでしょ」
「……うん、すごく」
男ならここでひとつ気の利いたことでも言えればいいのだが、今の九井にそんな余裕はない。彼女への好きの感情を抑え込むのでいっぱいいっぱいだ。もうだいぶ、溢れてしまっているかもしれないが。
「おい、時間いいのか」
そんな永遠とも呼べる一瞬の時間に水を差したのは部屋着を着崩した青宗だ。寝起きなのか寝癖もそのままになっている。赤音は慌ててスマホの時計を確認した。
「あっ、ほんとだ! じゃあはじめくんまたね!」
「うん。また」
九井の横を通り過ぎていく柔らかい風。花のような香りは柔軟剤か、それともシャンプーか。
「いや、天使からは花の匂いがするのかもしれない」
「何言ってんだオマエ」
そんな九井の独り言に青宗はうんざりしたした顔でつっかかる。九井という男は、普段は賢いくせに赤音が絡むとどこかポンコツになる。有り体に言えば、恋は盲目というやつだろうか。
「オマエさ~ほんと赤音のこと好きだよな」
「っ、なんだよ急に……まぁ、そうだけど……」
青宗は眠たそうな目で九井を一瞥し、大きなあくびをしながら二階の部屋に戻っていく。九井も靴を脱いで家に上がった。
乾家と九井家は母親同士が元々仲が良く、家族ぐるみの付き合いだ。幼い頃から一緒に遊んだふたりにとっては勝手知ったる家、というよりももはや第二の実家のような感覚だ。九井は冷蔵庫から2リットルのペットボトルを取り出すと、グラスを2つ片手に持って青宗の部屋に向かう。半開きの扉を行儀悪くつま先でつついて中に入った。部屋の主は大の字になってベッドの上に寝転んでいる。もう昼だというのにまだ寝足りないのだろうか。
「おいおい、人を呼んどいて自分は昼寝ってか」
「起きてる」
「目ぇ閉じてんぞ」
「起きてる~」
ごろんと寝返りを打つとうっすらと目を開けた。ぱち、ぱち、とゆっくり瞬きを繰り返す横で、九井は手に持っていたペットボトルとグラスを小さなローテーブルに置く。キャップを捻るとプシュッと炭酸の抜ける音がした。とぽぽぽ、と濃い紫の液体を注ぐと甘いグレープの香りが鼻腔をくすぐる。その様子をぼんやりと眺めていた青宗は、自分に向けられている視線に気づいて九井を見上げた。ぱち、とまたひとつ瞬きをすると、彼は大層深いため息を吐く。
「オマエが赤音さんと同じ遺伝子を持ってることが残念だ、ほんと」
「あ?」
「顔だけは瓜二つなのに、性格は全然似てねぇもんな」
「好きでこの顔に生まれたんじゃねぇよ」
「今世の中の数千人を敵に回したな」
九井はグラスに淹れたジュースをあおった。パチパチとした刺激物が喉を駆け抜けていく。青宗は静かにその上下する喉仏を見上げていた。
「……ココはさぁ、いつから赤音が好きなんだ?」
「んんっ、また急になんだよ」
「ん? 別に、ただ気になったから。少なくとも小学生ん時にはもう好きだったろ?」
「まぁ……」
「飽きねぇの?」
「飽きねぇよ! 飽きるって何だ!」
好きじゃなくなった、とか、冷めた、とかならまだ分かるが、飽きるとは何だ。恋に飽きることなどあるのだろうか。いや、それを飽きると言うのか? そう言えば、このぼんやりした男が恋をしているところなど見たことがない。
思春期にもなれば恋に恋する同級生も少なからずいた。それほど恋愛は少年少女を浮つかせる。何組の誰それが誰々のことを好きだ、とか、同じクラスの誰それが先輩に告白した、とか、誰と誰が付き合って別れた、とか。本気でもない恋愛に一生懸命になったりする時期がある。カレシとかカノジョはひとつのステータスだ。特に女子なんかは恋バナが話題の主体なことも珍しくない。好きな人がいなくても「○○くんが好き」だなんて嘘をつく。それで話が盛り上がるのだ。それを鼻にかけている勘違い男子生徒諸君は滑稽でしかない。脈アリだと唆されて告白したら玉砕したなんて泣き言に付き合ったこともしばしばある。かく言う九井も、長い片想いに身を焦がしている憐れな青少年のひとりだ。
青宗とはそれこそ物心がつく頃から一緒にいる仲である。幼稚園から現在に至るまで、今は違う高校に通っているがなんやかんやでずっと一緒にいる、言わば腐れ縁だ。思えば、この男がバイクと喧嘩以外に興味を示したことがあっただろうか。いや、ない。あったらこんなこと言わないだろう。
「オマエには分かんねぇよ」
恋したことないヤツに片想いの辛さなんて分かりっこない。九井は頬杖をついて寝転がったままの青宗を見下ろす。この男が恋に浮かれる姿が想像できなくて思わず苦笑した。
「……分かんねぇな。オレはもう、飽きたから」
「は?」
予想外の言葉に目を丸くする。その物言いはまるで、青宗が恋に飽きたとでも言っているかのようだ。
「飽きたって……何に?」
「片想い」
「はぁ!?」
九井は思わず机を叩く。ガチャンとグラスが数ミリ浮いた。この男、九井の知らないところで育んでいた恋心があったらしい。初耳だ。こんな面白いことあってたまるか、と、身を乗り出した。
「なんだよオマエもいっちょ前に恋とかしてんのかよ! 相手誰? 同じ学校?」
「違う」
「あー分かった、すぐ近くの女子校の生徒だろ?」
「違う」
「んだよ、照れてんのか? あ、でも飽きたってことはもう好きじゃないのか……? なら時効だって、全部吐け!」
九井は彼が横たわるベッドに腰掛けると、青宗の上半身を跨ぐように片手をついて顔を覗き込む。彼は心底面倒くさそうにあくびをしてうつ伏せになった。逃げの体勢だ。
「イヌピ~」
さわさわと脇をくすぐると彼の肩が震える。意地でも聞き出したい。バイクと喧嘩以外に興味がなかったこの男が、一体どんな女子に片想いをしていたのか知りたい。
「バッカ、この、テメッ」
くすぐり攻撃に負けた青宗は身を捩って彼の手から逃れる。それと同時に九井の両肩を掴んで押し倒すと馬乗りになった。形勢逆転だ。両手を押さえ込めばもうこれ以上攻撃されることはない。少し上がった息を落ち着けようと数回深呼吸を繰り返した。九井はちぇっ、と文句を言ってくる。
「意地っ張り」
「テメェがしつこすぎんだよ」
「なんだよ、どうせこっぴどくフラれたとかだろ? オマエ、愛想ねぇもんな」
くつくつと小馬鹿にしたような笑いを噛み締めている九井にムッとした青宗は掴んでいた手首を捻り上げる。すぐに九井からギブアップの声が上がった。
「フラれてねぇ。告ってねぇから」
「んだよ、勝負する前に逃げてんのか。意外と恋愛は奥手か?」
「……そいつ、他に好きな奴、いるから」
「あー、負け戦はしない主義ね」
ふっと鼻で笑われる。ムカつく、ムカつく。人の気も知らないで、と青宗は腹いせにわざと体重をかけた。九井から、ぐえ、という鈍い声が上がる。
「じゃあココは、もし赤音に彼氏ができたらどうすんだよ。それでも告白すんのか?」
「ぅ、……は? あー……うーん……」
九井は負荷に耐えながら、もし、好きな人が他の誰かのものになってしまったら、と考える。そうなってしまったらもう手遅れかもしれない。きっと彼女を困らせてしまうだろう。困らせたいわけじゃない。好きな人には幸せになってほしい。けれど、その幸せが自分の隣にないのは嫌だ。
唸り声を上げて煮え切らない返事をする九井に、青宗は「ほらな」と吐息をひとつ零す。
「……でも、そいつに彼氏いないなら、まだチャンスはあるだろ」
「ねぇよ、1ミリも」
「そうか?」
「ココだって、赤音にそっくりの別のヤツに告られてもOKしねぇだろ?」
「そりゃ、いくらそっくりでも赤音さんじゃないんだったら意味ねぇし……」
「だろ」
傷ついた表情の青宗に、恋愛とは実に難儀なものだと九井の心も曇る。片想いはもっと楽しいものだと思っていた。けれど、それは相手がフリーの場合に限る。他の誰かに心奪われている人に想いを寄せ続けるのは、すごくしんどいのかもしれない。
「……ココはさ、もし赤音が他のヤツと結婚したら、赤音のこと諦められるか?」
俯いた青宗の表情は陰っていてよく見えない。これは、彼なりの相談なのだろう。飽きたと言った恋心を未だに切り捨てられずにいる、憐れな青少年。九井は想像を膨らませる。もし、彼女が自分以外の誰かと結婚してしまったら、と。
「……オレは、赤音さんが好きだ。だから……赤音さんの幸せを一番に応援する。そうなったらちゃんと諦める。……でも……」
「……でも?」
「好きでいることは、やめられないかもしれない」
ぎゅうっと両目を閉じて渋い顔でそう返した。苦渋の決断だ。正直諦めたくない。どこの馬の骨とも分からない男に彼女を渡したくない。けれど、それが彼女にとって最上級の幸福ならそれを見送ることもひとつの愛の形だ。みっともなくてもダサくても、せめて好きでいることだけは許されたい。
しわくちゃになった九井の顔を見た青宗は思わずぷっと吹き出した。
「それって諦めたって言えんの?」
「感情は理屈でどうにもなんねぇんだ。好きでいることくらい別にいいだろ、誰にも言わなきゃ」
バツが悪そうに唇を尖らせながら顔を逸らす九井に意地悪な笑顔を向ける。今度はこっちがからかう番だ。
「いつまで?」
「あ? いつまでって……そんなの、好きじゃなくなるまでじゃねぇの?」
「いつなくなんの?」
「分かんねぇ」
「じゃあ、どうやったらなくなる?」
「あー……他に好きな人ができる、とか……?」
「赤音以外を好きになれんのかよ」
「だから分かんねぇって」
突然そんな質問攻めをされたところで、初恋を拗らせたまま今日まで生きてきたのだからそんなの分かるわけがない。もしかしたら死ぬまで好きかもしれない。それはさすがに重すぎる。潔く諦められるスマートな男でありたいと思うが、それはその時にならないと分からないだろう。
口をへの字に歪める九井を見下ろす青宗はどこか楽しそうだ。コイツ、こんな顔もできたのか、と黙って見上げると、彼はすぅっと目を伏せた。長いまつげの間からきらりと碧色が光る。
「じゃあ、試してみようぜ」
「は?」
青宗はそのままゆっくり体を倒す。彼女によく似た綺麗な顔が近づいて来て九井の体が強張った。両手を塞がれている上に馬乗り状態だ。身動きひとつ取れない。何をされるのか分からない緊張感と現状への羞恥心に耐えきれず彼の名前を呼ぼうと口を開くが、その吐息が言葉になる前にすべて飲み込まれてしまった。
ふんわりと触れ合う唇は想像よりもずっと柔らかいのに少しだけかさついている。どんなに顔がそっくりでも、今口づけを交わしているのは紛れもなく青宗であるのだと実感した。
時間にして僅か数秒、いや、もっと短かったのかもしれない。けれど、その瞬間だけまるで切り取られたみたいに時間が止まった感覚だった。
ゆっくりと青宗が離れていく。至近距離でぼやけた顔がだんだんはっきりと見えて、彼の上気した頬と、乱れたままの前髪から覗いた濡れた瞳を認めた瞬間、体中の血液が沸騰した。
「どう?」
「は……、なに、今の……」
「キス?」
「ば! バカ! キスは好きな人とするもんだ!」
「だからしたんだけど」
「あ!?」
思わず声が裏返った。今、ありえないくらい体が熱くなっているのが分かる。多分とても恥ずかしい顔をしているはずだ。彼に見せられない、見せたくないくらい恥ずかしい。顔を隠したいのに青宗が両手を離してくれない。馬鹿力もいいところだ。同じ男なのに何で振り払えないのだろうと焦りが募る。
「……あー、やっぱさっき言ったのナシな」
「何がッ!?」
「ん? チャンス、ありそうだから」
「何の!?」
「片想い飽きたし」
「オレと会話する気ある!?」
ひとり焦り騒ぐ九井とは対照的に青宗はどこか余裕がありそうな雰囲気だ。それに加え、彼の表情は先ほどとは打って変わってどこか嬉しそうで。にんまりと上がる口角を隠しもせず、白い頬をほんのり桃色に染めて九井を見下ろした。その笑顔はさっき見た彼女の綻んだ笑顔によく似ているようで全然似ていない。何だろう、彼からはもっと、彼女とは違う何かが滲み溢れている。その正体を九井は知っている。そう、それはきっと……。
「ココも片想いやめて、オレと両想い、しよ?」
青宗はこてん、と少しだけ首を傾けた。その破壊力たるや、九井は再び両目を瞑ってしわくちゃの顔になる。乾家の遺伝子は強い。いや、九井が乾家の遺伝子に弱いだけかもしれない。もちろん顔だけが好きなわけじゃない。全部引っくるめて好きだ。ふわふわした雰囲気も、マイペースな性格も、こうやって無自覚に九井を攻撃してくるところも、何もかもが似ている。似てないなんてウソ。ほんとは似てないところを一生懸命探してただけだったのかもしれない。
「っ……! ~~~~! ッ、いっ、一旦、保留……で……」
九井はしわくちゃのまま、ようやくそれだけ絞り出した。今すぐ逃げ出したいが青宗が九井を解放しない限りそれは叶わないだろう。イエスの返事をもらえなかった青宗は追い討ちをかけるように再び九井に顔を寄せた。思わず小さな悲鳴が上がる。そして、いたずらっ子のような笑顔で囁いた。
「もっかいしてやっろか?」
「なに……」
「き、」
「しねぇ!」
ぷい、とそっぽを向く九井に青宗はまた笑った。やっぱり、その笑顔は彼女にそっくりなのに全然似ていない。彼女と同じ天使みたいな顔なのに、こんなにも違うのはきっと、彼が九井に向ける瞳から恋心が溢れているからだろう。いつからだろう、全然気づかなかった。彼の瞳からこんなにも分かりやすい恋心が溢れていればすぐに変化に気づけそうなのに、今の今まで気付けなかった。少なくとも、小学生の時くらいから、ずっと……。そのことにはたと気づいて、九井は苦笑した。
自分も、この男も、大概な片想いをしてきたらしい。そんなところまで幼馴染みじゃなくてもいいのに。九井は逸らしていた顔を青宗の方へ向き直す。綺麗な碧い瞳とかち合った。溢れる恋心に、飲み込まれそうになる。
「……イヌピー、」
片想いが終わるまで、あと、少し。
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