【春ココ】火傷の話

 深夜23時を回った頃、梵天事務所の扉が開いた。ソファでひとりパソコンを眺めていた九井はおもむろに扉の方に顔を向ける。硝煙と鉄の臭いを僅かに纏った彼らは、先ほど本日最後の任務を終えて帰還したところだ。三者三様の表情でズカズカと部屋に入って来ると、竜胆が九井に気づいて声をかけた。
「あれ、まだいたんだ」
「おー」
 そう生返事をすると次いで蘭も会話に混ざって来る。
「仕事熱心だねぇ」
「仕事は終わってる」
「……あぁ、ナルホド」
 武器庫に火器を収めながら特に中身のない会話をする。こんな遅い時間まで九井が残っていたのは、同居人である三途を待っていたからなのだろう。先に帰っていればいいものを、彼を待つのはふたりの間にそういうルールがあるからなのだろうか。それは灰谷たちの預かり知らぬところだ。
「イテッ」
 重たい鉄の音と一緒に小さく三途が呻いた。ソファの背中から彼らの方を見やると、三途の背中が少し丸まっている。やや首を傾げた九井を見て、蘭がニヤニヤしながら三途を指差した。
「コイツ、さっきポカしてさぁ」
「あっ、テメ!」
「六発全部撃った直後のマズルに触っちまったんだと」
「それはこのバカがぶつかって来たからだろ!」
「はぁ~? オマエが袖なんかめくってるからだろ」
「竜胆は悪くないもんなー?」
 あぁ言えばこう言う。ぎゃんぎゃん騒ぐ彼らの会話から、三途がどこかに火傷を負ったことを理解した九井は血相を変えて立ち上がった。
「お、おい! すぐ冷やしたか⁉」
「あ? んな時間あるわけ、」
「バカ!」
 九井は三途の手首を掴むと早足で給湯室に向かった。三途の制止の声も聞かず青い顔をして部屋を出ていく背中をポカンと眺める。しばしの沈黙の後、竜胆がおずおずと口を開いた。
「……九井もあんな焦ることあるんだぁ」
「あー……まぁ、なんとなく予想はつくかなぁ」
「……オレも」
「じゃ、さっさと帰ろっか」
 全ての武器をしまい終った灰谷たちは、給湯室に消えたふたりを残して早々に事務所を出た。

   ◇

「一体なんだってんだよ」
 半ば押さえつけられるようにして右腕をシンクに突っ込まれた後、問答無用で水道水を浴びせられること数分。九井は無言のまま、ただただその火傷跡を見つめていた。右腕の内側、刺青の黒丸模様の周りが赤く腫れ上がっている。爛れてはいないので本当に一瞬触れただけのようだ。それでも九井を襲う激しい動悸は治まらない。瞳孔が開いて息が苦しくなる。いい加減右腕が冷たくなった三途は九井の肩を掴んだ。
「おい、もういいだろ」
「……」
「九井」
 竜胆が連射した直後のリボルバー。そのマズルがたまたま三途の腕に当たった。仲間に向けて誤射したわけでもない、命に関わるような傷でもない、ただの小さな火傷。放っておいても治る、だからそんなに心配することじゃない。と、思っていても口に出せない。きっとそこは、触れてはいけない部分だからだと、感じているからなのだろう。
「……なぁ、あと何年こうしてれば傷は無くなるんだ?」
 三途の腕から目を離さない彼の耳元でそう呟くと、彼はようやくハッと顔を上げた。こつん、と軽く頭同士がぶつかる。揺れる彼の小さな黒い瞳を見て小さく溜息を吐くと、三途は茶化すように言った。
「ずっとこうしてるわけにもいかねぇだろ。そろそろ切り上げて帰ろうぜ。薬塗っときゃ治んだろ」
「あ、……あぁ、そうだな」
 九井の手が離れると、三途は蛇口を捻って水を止めた。適当にタオルで腕を拭くが、やはり冷やしていないと少し痛い。ヒリヒリとした熱が肌の下を刺激してくる。だが、ここで痛い素振りを見せれば一晩中流水の刑に処される未来が見える。三途は無表情のまま九井の手を引いて明かりを落とした給湯室を出た。

   ◇

 軟膏を塗って、ガーゼを当てて。ついでに包帯も巻いてみたりして。小さな小さな火傷には大仰すぎるくらいの手当をされたけれど、こんなにしなくてもいい、なんて言えず。最初こそ灰谷たちには笑われたが、九井の神妙な顔を見れば彼らも開いた口を閉じた。その後万次郎に右腕を凝視されたが「や・け・ど」と小さく口パクすれば、彼もひとつ頷いてそれ以上追及しなかった。
 誰にだって不可侵領域のひとつやふたつ、あるものだ。
 九井は健気にも毎日三途の包帯を変えた。その目で確認したいのだろう、この傷が完治するのかどうか。初日はヒリヒリと痛みもしたが、2日目には皮膚が赤くなっているだけに治まった。だが、3日目には自己治癒力が働いたのかぷっくりとした茶色い水膨れができた。強く触られると少し痛い。九井はゆっくりと傷跡をなぞりながら白い軟膏をそうっと塗る。労わるような、慈しむような優しい手付き。誰と重ねられているのか分かって苛立ちが募った。
「綺麗に治ったら、もう隠さなくて良くなるなぁ、コレ」
 白が混じってやや霞がかったような黒い月にふぅと息を吹きかけた。九井は軟膏を塗る手を止めて白んだ月を見つめる。マズルの丸い形をした水膨れがまるで月暈のように重なっていた。幻の月が無くなれば、本物の月だけになる。重ねられる月が消える。ひたり、と心の冷たい部分に指紋がついた。
「……なぁ、知ってるか。オレらのタトゥーは全部、命を奪える場所にある」
 九井は脈絡もなくそんなことを言い出すが、三途は幹部メンバーの刺青箇所を思い出そうと視線を上にやった。九井は頭、灰谷と万次郎は首、鶴蝶は心臓……他の幹部はどうだったろう。だが、少なくとも彼らは人間の急所と呼べる場所に彫っていることは確かだ。
「ここを弾丸で射抜けば簡単に死ぬ。これは命だ。オレらの……命だ」
 トン、と九井の指先が三途の右腕に浮かぶ白い月を軽く叩いた。軟膏がよれて黒い月が顔を出す。
「……オマエがマイキーにあげられるのは、腕一本だけか?」
 ゆっくりと顔を上げる九井と目が合った。息が、止まる。思わず生唾を飲み込んだ。
 あぁ、人には誰にだって侵されたくない領域がある。あんな揶揄、するんじゃなかった。ひたり、と、九井の指先がはいってくる。
「オマエ、ほんとは誰に忠誠誓ってんだ」
 細められた目に見据えられて真っ先に思い浮かんだのは他でもない、万次郎の兄、佐野真一郎の少し困ったような笑顔だ。あの日、三途の見舞いに来た彼と病室で交わした約束が、今でも三途の手のひらに残っている。万次郎は一生友達だ。世界が変わっても、一生、一緒にいなければならない。そうでなければならない。
「……おれ、は……」
 三途は右腕に浮かぶふたつの月を見た。幻の月と、本物の月。どっちにどっちを重ねているのか、今となってはもう曖昧だ。
 九井は俯いて黙ってしまった三途の右腕にガーゼを乗せた。
「ウソ。オマエのマイキーへの忠誠心疑ったことなんざねぇよ」
 そう言って九井はべっと舌を出すと、救急箱から包帯を取り出した。いつもの調子に戻った彼に、三途は小さく声をかける。
「……ありがとな」
「あ?」
「包帯」
「あぁ。明日も巻いてやるよ。綺麗に治るまで」
 人には誰にだって侵されたくない領域がある。今回は心の冷たい部分に小指ひとつ分の跡を残して痛み分けとなった。
 月暈を剝がして、剝がして、剥がした先にある月が本物なのか、お互いにまだ知らない。彼の本物の月が誰なのかまだ教えてもらえない。生きているうちにそれを知ることはないだろうけれど、自分たちはケガをしたら薬を塗ってくれるくらいの間柄でいい。
 あと何日繰り返せば傷跡は無くなるだろうか。新しいガーゼを用意しておかなければなぁなんて考えながらふたつの月を包帯で覆い隠した。
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