デイモスとヘラ
恐怖、というのは人間の原始的な感情だ。
人は命の危機を回避するために恐れ、怖がり、そこから逃げようとする。
ヒュースにもその感情はある。昔ヴィザ翁を怒らせた時は三日三晩身体の震えが止まらなかった。
ただ、その経験はほとんどない。強大な敵を目の前にしても、覚悟はしても恐怖を覚えたことはないと言っていいだろう。
その、はずなのに。
ヒュースは、今どうしようもなく生きた心地がしなかった。
「ねえ、どういうこと?」
男の声が低い。いつもヒュースに愛を囁く口は、静かに、淡々とヒュースを詰問する。
壁に追い詰められて、腕で逃げ道を塞がれる。暑くもないのにヒュースの頬にたらりと汗が流れた。
「なんのことだ」
「心当たりないの?」
冷たい声に、ここ数日の記憶を思い返す。
特に変わったことはしていない。いつも通りの日常を過ごしていたはずだ。迅が怒るようなことは、何も。
「そんなもの、ない」
唾をごくりと飲み込んで答える。覚えのないことで怒りをぶつけられるのは理不尽だ。
そう思うのに、普段温厚な恋人がこんなにも怒っているという事実が、ヒュースから怒ろうという気を奪っていく。
怖い。恐ろしい。この場から逃げ出したい。
「生駒っちから聞いたんだけど」
迅の顔が近づく。まつ毛が触れそうなほどの距離。普通なら甘い口づけをするくらいのそれなのに、そんな雰囲気は欠片もなかった。
平時はあんなにもヒュースを慈愛のこもった視線で見つめている目は、冷たく、鋭かった。
「ほかの男に抱き締められたって、ほんとう?」
「……!」
ヒュースの身体がぴくりと跳ねる。迅が怒っているのはヒュース自身の行いではなく。
「ねえ、どうなの」
再び、疑問を投げられる。軍事裁判にかけられた時でもこんなに緊張はしないだろうと思った。
『ヒュースさん!』
知らない声に呼び止められる。振り向くと、見覚えのない男が何かの紙を持って立っていた。隊服を見るに、B級隊員のようだ。
『あの、これ読んでください!』
男が差し出したのは手紙。果たし状だろうか。だが、ヒュースは玄界の文字が読めない。それに、果たし状であれなんであれ、こういった類のものはトラブルの元になるので受け取らないようにしていた。
『悪いが、受け取れない』
そう言って背を向ける。はっきりと意思表示をしないとこじれて面倒だ。昔アフトクラトルで立場ある人間に言い寄られた時は苦労したものだ。
だが、男はその一言では諦めなかった。ぐい、と腕を引っ張られて身体のバランスが崩れる。
何を、と振り払おうとした瞬間、男の腕がヒュースをぎゅうと抱き締めた。
『好きなんです、お願いします、付き合ってください!』
男が渡したがったのは恋文だったのだと、その時気づく。
知らない体温、知らない匂い。嫌悪感で背筋がぞくりと震える。
迅以外の人間に抱き締められたのは、エリン家の当主相手くらいだ。そのくらい、ヒュースはほかの人間との過度な接触を好まない。
『っ、離せ!』
肘を相手の胸に叩き込むと、呻き声と共に力が緩まる。その隙をついて男の腕から逃れた。
『なんで、なんで……俺を振るんですか』
男は絶望の表情を見せていた。まるで、拒まれることを想像していなかったかのようだ。
『好きなのに』
虚のような声。男が手のひらからスコーピオンを生やした。
私闘は隊務規定違反のはずだ。今ここでヒュースが剣を抜けば罰則を受けるかもしれない。遠征参加のために、面倒事は起こしたくない。
『うわあああああああああああっ!』
逆上した男が腕を振り上げる。ヒュースは刃が届くその前に、力が入った右足を払った。
『なっ!?』
男がずべしゃ、と地面に落ちる。起き上がる前に素早くその背に膝をのせて、腕を捻りあげる。このくらいは正当防衛に入るだろう。
『ヒュース!』
男の叫び声のせいで辺りに人が集まっていた。その人混みをかき分けてヒュースの元にやってきたのは生駒だった。
『生駒』
『助ける前にカタついてたわ、大丈夫か?』
『いきなり抱きつかれて告白された。抵抗したら逆上してきた。こいつは誰だ?』
『おう、叫び声聞こえたわ。え、知り合いとかではなく?』
『全く知らん。私闘は隊務規定違反だろう。この男はどうすればいい』
『あ、ああ。なら俺が連れてくわ。一緒にいたくないやろ』
『頼む』
『い、嫌だ、ヒュースさん、待って』
『待ってもクソもあるか。好きなら相手の意思を尊重せえ』
涙目の男を生駒に引き渡して、ヒュースはその場を後にする。
どこの世界にも迷惑な人間はいるものだと、小さなため息をついた。
前に生駒と迅は同い年で仲がいいのだと聞いたことがある。ヒュースと迅が付き合っているのを知っているのか分からないが、迅に話したのだろう。
「生駒っちは嘘言うような男じゃないんだけど、ほんとうなの?」
「……抱きつかれた、だけだ」
「攻撃されたって聞いたけど」
「回避したから問題ない」
「そういう問題じゃないでしょ」
迅が拳に力を込める。怒ったヴィザとは別の、敵意にも近い意思が見え隠れする。それは、この場にいないヒュースを抱き締めた男に対してだろう。そうわかっているのに、怖かった。
「なんで、おれに話してくれなかったの」
「……抱き締められたことを忘れていた。それに、わざわざ話すようなことではないだろう」
キスをされたり、抱かれたりしたのならまだしも、抱き締められただけだ。そこまで大きな被害ではない。もちろんその時は気持ち悪いと思ったが、その程度。
「ふーん。じゃあ、ヒュースはおれがほかの人に抱きつかれても平気? なんとも思わない? おれがそのこと言わなくても、全然大丈夫?」
「……それは」
迅がほかの人間に抱きつかれている姿を想像する。ヒュースより柔らかい女、ヒュースよりしっかりとした男、そのどちらでも、胸がざわついた。
嫌だ。ほかの人間が迅に触れるなど。それを、隠されるなど。想像だけでも心臓がつきつきと痛い。
「不快、だ」
「でしょ? おれも同じ」
迅の怒りの理由がようやく理解できた。確かに、今回に関してはヒュースに非があった。
「……すまなかった」
素直に謝罪を口にする。それでも、迅の態度は変わらない。
まだ何か、怒っていることがあるのだろうか。
迅を見上げると、はあ、と小さくため息をつかれた。
「ヒュース、同じことされてもまた隠しそう」
「もう隠さない。ちゃんと貴様に報告する」
「ほんとうに?」
「本当だ」
じっと迅の瞳を見つめる。その中に怒りだけでなく、焦りが混じっているのにようやく気がついた。
「……ちょっとでも、ときめいたりしなかった?」
その言葉に、目を瞬かせる。
ときめく? ヒュースが、見ず知らずの男に?
「するわけないだろう」
「相手、結構イケメンだったって聞いたけど」
「顔など覚えていない」
嫉妬、したのだろうか。誰かに奪われると思ったのだろうか。
そんなこと、あるはずないのに。
迅の頬に手を添えて、目を逸らさずに言葉を紡ぐ。
「オレが好きなのは、迅だ」
そして、軽い口づけをひとつ。ヒュースからされたのが驚きだったのか、迅が僅かに目を見開いたのが見えた。
「……よかったあ、いや、よくないんだけど」
ヒュースを逃がさないようにしていた腕が、ぎゅうとヒュースを抱き締める。
慣れた体温、慣れた匂い。抱き締められただけなのに、安心感が胸を満たした。
やはり、この男がいい。この男でないと嫌だ。
背中に腕を回して、ぽんぽんとあやすように叩く。
「迅が怒っているのを、初めて見た」
「うん、おれも久しぶりに怒ったかも」
迅がこつんと額と額を合わせる。その顔は拗ねた子どものようで、先ほどの怖さはどこにもなかった。
「もうほかのひとに触らせないで。約束」
「……わかった。努力する」
迅は怒らせると怖い。そのことを学んだヒュースは、もう二度と彼の逆鱗には触れまいと肝に銘じて、もう一度唇を食んだ。
人は命の危機を回避するために恐れ、怖がり、そこから逃げようとする。
ヒュースにもその感情はある。昔ヴィザ翁を怒らせた時は三日三晩身体の震えが止まらなかった。
ただ、その経験はほとんどない。強大な敵を目の前にしても、覚悟はしても恐怖を覚えたことはないと言っていいだろう。
その、はずなのに。
ヒュースは、今どうしようもなく生きた心地がしなかった。
「ねえ、どういうこと?」
男の声が低い。いつもヒュースに愛を囁く口は、静かに、淡々とヒュースを詰問する。
壁に追い詰められて、腕で逃げ道を塞がれる。暑くもないのにヒュースの頬にたらりと汗が流れた。
「なんのことだ」
「心当たりないの?」
冷たい声に、ここ数日の記憶を思い返す。
特に変わったことはしていない。いつも通りの日常を過ごしていたはずだ。迅が怒るようなことは、何も。
「そんなもの、ない」
唾をごくりと飲み込んで答える。覚えのないことで怒りをぶつけられるのは理不尽だ。
そう思うのに、普段温厚な恋人がこんなにも怒っているという事実が、ヒュースから怒ろうという気を奪っていく。
怖い。恐ろしい。この場から逃げ出したい。
「生駒っちから聞いたんだけど」
迅の顔が近づく。まつ毛が触れそうなほどの距離。普通なら甘い口づけをするくらいのそれなのに、そんな雰囲気は欠片もなかった。
平時はあんなにもヒュースを慈愛のこもった視線で見つめている目は、冷たく、鋭かった。
「ほかの男に抱き締められたって、ほんとう?」
「……!」
ヒュースの身体がぴくりと跳ねる。迅が怒っているのはヒュース自身の行いではなく。
「ねえ、どうなの」
再び、疑問を投げられる。軍事裁判にかけられた時でもこんなに緊張はしないだろうと思った。
『ヒュースさん!』
知らない声に呼び止められる。振り向くと、見覚えのない男が何かの紙を持って立っていた。隊服を見るに、B級隊員のようだ。
『あの、これ読んでください!』
男が差し出したのは手紙。果たし状だろうか。だが、ヒュースは玄界の文字が読めない。それに、果たし状であれなんであれ、こういった類のものはトラブルの元になるので受け取らないようにしていた。
『悪いが、受け取れない』
そう言って背を向ける。はっきりと意思表示をしないとこじれて面倒だ。昔アフトクラトルで立場ある人間に言い寄られた時は苦労したものだ。
だが、男はその一言では諦めなかった。ぐい、と腕を引っ張られて身体のバランスが崩れる。
何を、と振り払おうとした瞬間、男の腕がヒュースをぎゅうと抱き締めた。
『好きなんです、お願いします、付き合ってください!』
男が渡したがったのは恋文だったのだと、その時気づく。
知らない体温、知らない匂い。嫌悪感で背筋がぞくりと震える。
迅以外の人間に抱き締められたのは、エリン家の当主相手くらいだ。そのくらい、ヒュースはほかの人間との過度な接触を好まない。
『っ、離せ!』
肘を相手の胸に叩き込むと、呻き声と共に力が緩まる。その隙をついて男の腕から逃れた。
『なんで、なんで……俺を振るんですか』
男は絶望の表情を見せていた。まるで、拒まれることを想像していなかったかのようだ。
『好きなのに』
虚のような声。男が手のひらからスコーピオンを生やした。
私闘は隊務規定違反のはずだ。今ここでヒュースが剣を抜けば罰則を受けるかもしれない。遠征参加のために、面倒事は起こしたくない。
『うわあああああああああああっ!』
逆上した男が腕を振り上げる。ヒュースは刃が届くその前に、力が入った右足を払った。
『なっ!?』
男がずべしゃ、と地面に落ちる。起き上がる前に素早くその背に膝をのせて、腕を捻りあげる。このくらいは正当防衛に入るだろう。
『ヒュース!』
男の叫び声のせいで辺りに人が集まっていた。その人混みをかき分けてヒュースの元にやってきたのは生駒だった。
『生駒』
『助ける前にカタついてたわ、大丈夫か?』
『いきなり抱きつかれて告白された。抵抗したら逆上してきた。こいつは誰だ?』
『おう、叫び声聞こえたわ。え、知り合いとかではなく?』
『全く知らん。私闘は隊務規定違反だろう。この男はどうすればいい』
『あ、ああ。なら俺が連れてくわ。一緒にいたくないやろ』
『頼む』
『い、嫌だ、ヒュースさん、待って』
『待ってもクソもあるか。好きなら相手の意思を尊重せえ』
涙目の男を生駒に引き渡して、ヒュースはその場を後にする。
どこの世界にも迷惑な人間はいるものだと、小さなため息をついた。
前に生駒と迅は同い年で仲がいいのだと聞いたことがある。ヒュースと迅が付き合っているのを知っているのか分からないが、迅に話したのだろう。
「生駒っちは嘘言うような男じゃないんだけど、ほんとうなの?」
「……抱きつかれた、だけだ」
「攻撃されたって聞いたけど」
「回避したから問題ない」
「そういう問題じゃないでしょ」
迅が拳に力を込める。怒ったヴィザとは別の、敵意にも近い意思が見え隠れする。それは、この場にいないヒュースを抱き締めた男に対してだろう。そうわかっているのに、怖かった。
「なんで、おれに話してくれなかったの」
「……抱き締められたことを忘れていた。それに、わざわざ話すようなことではないだろう」
キスをされたり、抱かれたりしたのならまだしも、抱き締められただけだ。そこまで大きな被害ではない。もちろんその時は気持ち悪いと思ったが、その程度。
「ふーん。じゃあ、ヒュースはおれがほかの人に抱きつかれても平気? なんとも思わない? おれがそのこと言わなくても、全然大丈夫?」
「……それは」
迅がほかの人間に抱きつかれている姿を想像する。ヒュースより柔らかい女、ヒュースよりしっかりとした男、そのどちらでも、胸がざわついた。
嫌だ。ほかの人間が迅に触れるなど。それを、隠されるなど。想像だけでも心臓がつきつきと痛い。
「不快、だ」
「でしょ? おれも同じ」
迅の怒りの理由がようやく理解できた。確かに、今回に関してはヒュースに非があった。
「……すまなかった」
素直に謝罪を口にする。それでも、迅の態度は変わらない。
まだ何か、怒っていることがあるのだろうか。
迅を見上げると、はあ、と小さくため息をつかれた。
「ヒュース、同じことされてもまた隠しそう」
「もう隠さない。ちゃんと貴様に報告する」
「ほんとうに?」
「本当だ」
じっと迅の瞳を見つめる。その中に怒りだけでなく、焦りが混じっているのにようやく気がついた。
「……ちょっとでも、ときめいたりしなかった?」
その言葉に、目を瞬かせる。
ときめく? ヒュースが、見ず知らずの男に?
「するわけないだろう」
「相手、結構イケメンだったって聞いたけど」
「顔など覚えていない」
嫉妬、したのだろうか。誰かに奪われると思ったのだろうか。
そんなこと、あるはずないのに。
迅の頬に手を添えて、目を逸らさずに言葉を紡ぐ。
「オレが好きなのは、迅だ」
そして、軽い口づけをひとつ。ヒュースからされたのが驚きだったのか、迅が僅かに目を見開いたのが見えた。
「……よかったあ、いや、よくないんだけど」
ヒュースを逃がさないようにしていた腕が、ぎゅうとヒュースを抱き締める。
慣れた体温、慣れた匂い。抱き締められただけなのに、安心感が胸を満たした。
やはり、この男がいい。この男でないと嫌だ。
背中に腕を回して、ぽんぽんとあやすように叩く。
「迅が怒っているのを、初めて見た」
「うん、おれも久しぶりに怒ったかも」
迅がこつんと額と額を合わせる。その顔は拗ねた子どものようで、先ほどの怖さはどこにもなかった。
「もうほかのひとに触らせないで。約束」
「……わかった。努力する」
迅は怒らせると怖い。そのことを学んだヒュースは、もう二度と彼の逆鱗には触れまいと肝に銘じて、もう一度唇を食んだ。