入隊希望者とその親族関係の明記を。
あなたを守ること 沖田
入隊希望者名簿
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「もうすぐ夜が明けるし、今日は、この辺で休むことにしようか」
『……』
「思ったより、時間かからなかったね。こういう時、羅刹の身体って便利だなあ」
二人は穐月一族の里があった場所……鶴姫の生まれ故郷まであと少しのところにいる。
「明日には、君のお父さんや楽と再会できるだろうけど、彼らになんて返事をするか、決めた?」
『それは……』
「その様子だと、まだ決めてないんだ?迷う必要なんてなさそうなのに」
『総司は……』
「ん、何?」
『……いや、なんでもない』
鶴姫は沖田ならどうするか、聞いてみたかった。
しかし、楽にどう答えるかは自分で考えなければならないことだ。
そうでなくては、きっと……楽に気持ちは届かない。
「鶴姫ちゃん、ちょっと一緒に来てくれる?」
『えっ?一緒に、って……一体どこへ……』
「ついてくればわかるよ。ほら」
沖田は戸惑う鶴姫の手を取って歩き出す。
尋ねる間も与えず、沖田は歩き続ける。
そしてたどり着いたのは木々の合間から夜空が綺麗に見える場所だった。
爽やかな夜風が、二人の頬を優しく撫でる。
『わあ……!』
「今日はよく晴れてるから、君の気分も変えてあげられると思って。昼間の景色もいいけど……、こういう眺めも悪くないでしょ?」
『ええ……とても綺麗。』
ひんやりとした夜気や、夜空に冴え渡る星々の姿。
そして眠りの中に沈んでいるような葉擦れの音は、昼間とはまた違う横顔を見せていた。
些細な喜びも今なら深く感じられる気がした。
『……ありがとう。少し、気持ちが楽になった。』
「どういたしまして。って、なんか水くさいな」
軽く茶化したあと、沖田は再び鶴姫の瞳を覗き込んでくる。
「話してごらん。……君は、どうしたいの?」
『私、は……楽がああいう望みを抱くのも無理は無いと思う。故郷や家族、一族の皆を理不尽に奪われたからこそ、誰にも奪われない自分たちの居場所を作りたい。私も楽と同じ立場だったら、きっと……。もちろん楽にされたことを忘れたわけではないけれど』
楽は沖田を羅刹へと変え、自分にも変若水を飲ませた。
『でも……それでも楽は、私の兄だから』
楽にされたことを許せるのか、それはまた鶴姫にも分からなかった。
しかし、もし沖田がこうして傍にいてくれなければ。
もしかしたら鶴姫も、楽のように周りにあるもの全てを呪って生きてきたのかもしれなかった。
そう思うと、どうしても楽を憎みきれなかったのだ。
「君は、彼等と一緒に生きたい?」
その問いに答えることを、鶴姫は少し躊躇う。
『……そうすることを、考えなかった訳ではないの。私たち鬼は普通の人間のように暮らすことなどできない。人目を忍んで生きなくてはならないのなら、共に暮らすのも一つの手かもしれない。けれど、楽は自分たちの安住の地を築くため、他の誰かを傷つけようとしている。それだけは絶対に賛成できない。だからもし、楽が鬼の王国を作るなんて夢を諦めてくれるなら──』
「……随分と都合のいい話だね。邪魔者を根絶やしにしててでも、自分たちの居場所を作りたいと思っている彼らがそんな甘い願いなんて、聞き入れてくれると思う?」
『思えない……』
「世の中にはね、人の醜い部分や汚い部分ばかりを見せつけられながら生きてきた人間っていうのがいるんだよ。前々から鶴姫ちゃんだって分かってるはずだよ。そんな相手に甘っちょろい綺麗事なんて通用しないと思うけどね」
『………』
「……僕は、君の望みを叶えてあげたかったんだ」
『え……?』
「だからもし君がどうしてもって言うんなら、少しだけ付き合ってあげようかとも思った。だって君がいてくれなかったら、僕は、こうして生きてるかどうかも分からないから」
この言葉がただの慰めでないことは、鶴姫にもよく分かった。
沖田にとって近藤がとても大きな存在で。
近藤を失ってしまった今、沖田はきっといつ死んでも構わないと思っているに違いない。
そんな彼がこうして生きていられるのは……。
「僕は、君が望むものを与えてあげたい。本当に欲しいと思ってるものをね……だから、楽の誘いには絶対に乗っちゃだめだ。人間を根絶やしに来て自分たちの王国を築くなんて君は望んでないでしょ?」
沖田は鶴姫以上に明瞭な言葉で鶴姫の本心を言い当てる。
「それとも、化け物になっちゃったからって何もかも諦めて、ずっと暗い闇の中で生きていく?」
『…………』
咄嗟に言葉が出ない鶴姫。
しかし、沖田は鶴姫の答えを待たずに言い放つ。
「そんな生き方、鶴姫ちゃんには似合わないよ。……君が良くても、僕が絶対に許さない。世の中にはね、絶対に暗闇に堕ちちゃいけない人っていうのがいるんだ」
『総司……』
鶴姫は羅刹としての未来など望んでいない。
人間を滅ぼしたいとも思っていない。
ただ平和に暮らしたいだけだった。
沖田はそのことを鶴姫に思い出させる。
既に羅刹になってしまったことを悲観し、どこか諦めていた鶴姫の弱さすら見抜いて。
「変若水の毒を消す方法さえわかればら君も僕も狂気から開放される……君は、君のままだ。化け物なんかじゃない」
羅刹となった身体を治すなど、夢のような話だった。
新選組にいた頃、山南が何年もかけて研究していた。
しかし、結局その方法を見つけ出すことは出来なかった。
そのことは沖田もよく知っている。
それでも彼は残された希望を信じ続けている。
「それでも、もしも君が全て諦めて、願いを放り出すっていうんなら──」
沖田の手が優しく鶴姫に触れた。
慈しむような眼差しに鶴姫の心は捕えられてしまう。
「──僕が、君を殺してあげるよ。君が前に進むことまで諦めるつもりなら、どこにも行けないように、僕が終わらせてあげる」
今まで【斬る】【殺す】と数え切れないほど言われていたが、こんなに優しく【殺す】と言われたのは、今日が初めてだった。
その言葉に込められた気持ちに、鶴姫は胸が温かくなる。
『総司……』
「殺されたくないなら、諦めることなんて考えちゃ駄目だよ。僕だってその後、君なしで生きていけるほど強くないんだから。僕は、最後まで諦めない。だから鶴姫ちゃんも、僕と一緒に……」
少しだけ、沖田の声が揺らいで聞こえた。
鶴姫の内心を見極めかねているのか、沖田はじっと鶴姫を見つめている。
その表情を見ていると、鶴姫はどうしても沖田の願いを叶えたいと思った。
『私……諦めない』
熱に浮かされたように、身体が熱く、悲しみとは違う涙が止めどなく溢れてくる。
沖田が鶴姫は闇に堕ちるのは似合わないと言ってくれたのだから。
諦めてしまう方が楽だとしても、鶴姫は前を向いて歩かなくては。
『総司と一緒に、ずっと……ずっと前を向いて歩き続けるから』
堪えきれずに鶴姫は沖田の広い胸に縋り付いた。
「……ありがとう。君ならそう言ってくれると思ってたよ」
沖田は優しい仕草で鶴姫を抱きしめる。
くすぐるような吐息と共に、耳元に微かな囁きが触れた。
「ずっと一緒にいよう。何があっても、ずっと僕から離れないで」
沖田の手が鶴姫の頬にそっと触れた。
その仕草に誘われるように……、鶴姫は静かに目を閉じる。
沖田は小さく息を詰めた後、緩やかな動きで唇を重ねてきた。
ぎこちなく震える指先はまるで壊れ物のように大切そうに鶴姫に触れる。
いつもの憎まれ口や皮肉とは裏腹なその仕草から……。
沖田の、言葉にしきれない想いが伝わってきた。
(……私は今、とても大切にされている。)
胸がいっぱいになって、涙がこぼれそうだった。
重なり合っている唇が震える。
(きっと今、総司も私と同じ想いを抱いてくれているに違いない)
その事がただ嬉しく、沖田を恋い慕う気持ちがより強くなる。
(このままずっと、総司の傍にいたい。愛しいこの人と、片時も離れたくない……)
彼と共に、生きていきたい……。
熱い胸の奥から、その想いが際限なく込み上げてくるのだった。
それと同時に、ある思いも胸に抱く。
血を飲む以外の初めての口付けを終えて、二人はそっと身体を離す。
静かな中、聞こえてくるのは鶴姫と沖田の二人の足音と、たまに吹き付ける夜風の音だけ。
沈黙がやけに気詰まりに思えて、口を開こうとするが、つないだ手の温もりを意識した途端、言葉を見失ってしまう。
「……名残惜しいけど、ずっとこのままってわけにもいかないんだよね。少し、寝た方がいいんだろうけど……目が冴えちゃったなあ」
『そうだね……』
沖田が夜空を見上げているのに気づき、鶴姫も空を仰ぐ。
鶴姫は明日、血を分けた父と兄と、二人の夢を断ち切らなくてはならない。
本当に自分に出来るのか、彼らを止められるだろうか。
そんな不安を抱えていた。
「……ねえ、鶴姫ちゃん」
傍らから声をかけられ、鶴姫は沖田の方を振り返る。
「そんな不安な顔しなくていいよ。気持ちは、もう決まってるでしょ?」
『それは……もちろん』
「君は、どう考えているか分からないけど、僕は戦うのを怖いと思ったことなんて一度もないし、彼らを殺すことへの躊躇いもない」
その言葉に鶴姫は頷いた。
沖田が戦うところを何度も目にしてきた。
その剣技の冴えも、迷いのなさも、見ていて怖いほど真っ直ぐだったから。
「……近藤さんが生きていた頃は目的なんて別にいらなかった。新選組の剣として、命じられるまま、ただ目の前の敵を斬ればよかっただけだから。だから、どんな汚い役目だって、堂々と胸を張ってこなせたんだ。でも、近藤さんがいなくなった今……僕が剣を振るう理由は、たった一つしかない」
そう言って沖田は鶴姫へと視線を移す。
「……君のためだよ、鶴姫ちゃん」
『総司……』
「こういう生き方を選んだのは僕だし、迷いなんてない。後悔もしない。だけど……今までは、先を望んだことなんてなかったから」
ぽうりと呟かれたその一言に、鶴姫は虚を突かれる思いになる。
「別に、生き急いでたわけじゃないし、寂しい生き方をしてたとは思わないんだけど、結局今まで僕は、先のことなんて何一つ考えてなかったってことだろうね」
沖田が抱えている戸惑いの正体が、朧気に見えてきた気がした。
これからの戦いは沖田がこれまで経験してきたものとは意味が違う。
『父と楽との戦いは、私たちが共に生きるための戦い……一緒に生きていく時間を勝ち取るための戦い』
沖田はその言葉に静かに頷く。
「……この僕が、未来のために戦うことになるなんて思わなかったけどね。今まで思ってもみなかったことが、次々と浮かんでくるんだ」
『思ってもみなかったこと?』
「たとえば……この戦いが終わったら、どこで生きていけばいいんだろう、とか」
『あ……』
今の二人には帰る場所などない。
住処を探すにしても、元新選組幹部の沖田が果たして、身を隠す場所を見つけられるだろうか。
「そんな顔しなくてもいいじゃない。君を落ち込ませるために言ったんじゃないんだから。」
『そうだね。ごめんなさい』
「……ねえ、鶴姫ちゃん」
『ん?』
だが沖田は何も言わないまま、鶴姫をじっと見つめてくる。
鶴姫は彼の言葉を待っていた。
しかし、目を合わせていると、我知らず鼓動が高まってしまって頬がひとりでに熱を帯びてしまう。
鶴姫を見つめる瞳の奥底に密やかな熱が垣間見えた気がして。
「どうして目を逸らしちゃうの?もしかして、警戒してる?」
『……意地悪言わないでよ』
「意地悪って言われても、僕はずっと前からこんな感じだったでしょ。でもまあ、どうせ意地悪って言われるんなら、もう一度、君に口付けしてもいい?」
『えっ!?』
唐突な申し出に鶴姫は絶句してしまう。
『く、口付けならさっき、もう……』
「さっき口付けしたら、もうしちゃいけないいの?」
『そういうわけじゃ……』
「僕が聞きたいのは、君が僕を受けていれくれるのかくれないのか、それだけなんだけど。ちゃんと答えて……どっち?」
『それは、時と場合によると思う…』
「時と場合?どんな時ならいいの?」
『え?え、えっと……』
当然のように詰め寄ってくる沖田に鶴姫はたじろぐことしか出来なくなる。
『だから、その……』
困り果てて黙り込む鶴姫を見て、沖田は苦笑いになった。
「……そういう姿を見てると、ますますいじめたくなるんだよ」
やがて沖田はすっと手を伸ばし鶴姫の両腕をそれぞれ捕える。
『そ、総司……?』
鶴姫が戸惑いながら沖田を見つめ返す。
「いいから。……何も言わないで」
真摯な瞳が鶴姫のすぐ近くにあった。
慌てて身を引こうとするも沖田の手がそれを許さない。
「君は、本当ならもっと優しくて、穏やかな未来を与えてくれる相手を選んだ方が、幸せだったのかもね」
『え……?』
沖田の声音が沈んでいたことに気づいて、鶴姫は身動きが取れなくなる。
沖田の瞳に宿っていたのはさっきまでの切実な色とは違う、熱を帯びた眼差しだった。
「鶴姫ちゃん、僕はね、きっと君をとても困らせると思う。もし君がいつか、僕を選んだことを後悔する日が来たとしても……手放してはあげられない」
からかうような笑みが、彼の瞳から消えた。
代わりに表れたのは、胸の内の覚悟と不安、全てを含んだ沖田の本音だった。
「……僕は、君が死ぬまで一緒にいてあげることは出来ないかもしれない。ほんの僅かな未来はあげられても、その先までは分からない。それでも──」
耳たぶをくすぐるその囁き声が、微かに震えている気がした。
「それでも僕は、君を求めるよ。命ある限り、こうして君に触れ続ける。君を傷つけることになっても……、どうしても止められないんだ」
その言葉に込められた思いが、強く迫ってくる。
『そうj──』
鶴姫が沖田に応えようとした時。
続く言葉を彼の唇で遮られる。
何も言わせない、言われたくない。
そんな心の声が唇を通して直接伝わってきた。
重ねられた唇の熱は、先程交した唇とは違っていて、どこか苦く切なく、そして甘いものだった。
彼は戦いを恐れてはいない。
たとえ相手が鶴姫の縁者であろうとも、躊躇せずに剣を振るえるだろう。
それでもきっと、その事で鶴姫が深く傷つくことだろうことも、よくわかっているに違いない。
そのことが、言葉にするよりはっきりと伝わってきた。
永遠のようにも思える時間を費やして沖田が確かめたかったのはきっとただ一つ。
だから鶴姫は唇が離れた瞬間、迷わずに答えた。
『……本当なら、総司の相手はもっと器量よしで、口うるさくなくて、わがままももっと聞いてくれる人がいいのかもしれない。でも…総司は私を選んでくれた。……総司になら、何をされても構わない。私はいつだって、総司を許す。たとえこうして一緒にいられる時間が、限られていたとしても──』
「……そんなこと言って、僕がいなくなったら絶対泣くくせに」
『…うん。泣いてしまう。でもきっと、後悔だけはしない。たとえこの先、何があったとしても』
「そういうの、殺し文句って言うんだよ」
『総司だっていつも【殺す】【殺す】と言っていたんだから、おあいこ』
「まったく、君って子は……」
沖田は名残惜しそうに鶴姫の髪に触れた。
いつか鶴姫を置き去りにしてしまう自分を責めるみたいに。
「きちんと接吻をしたのは今回が初めてだね」
『そういえば…』
「本当はね、もっと前からしたかったんだ」
『そうなの?』
「うん。でも、鶴姫ちゃんが自分の気持ちにまだ気づいていないみたいだったから」
沖田はそう言うとクスクス笑う。
『総司はいつから私の事を?』
「いつからだろう。気がついたら好意を持ってたんだよね。だから病が進むにつれて甘えたいと思うことが増えていった。」
僕らしくないねとまた笑う。
その様子は愛しいものを見つけて嬉しいというようにみえた。
「早く鶴姫ちゃんも僕のことを好きにならないかな、って思ったりもしたよ」
『本当?』
「うん。でも、僕と居ても幸せにはしてあげられないから好きにならないでとも思った」
『それでも私の事好きでいてくれたんだね』
「うん。やっぱり鶴姫ちゃんが僕の傍から居なくなるのは嫌だったから」
『ありがとう総司』
「僕の方こそ。僕のことを好きになってくれて、傍にいてくれてありがとう」
再び自然と距離が近づく二人。
近づく唇は優しく合わさり一時の癒しを与える。
『……そろそろ眠ろう。明日のため、身体を休めなくちゃ』
「そうだね……」
この後、二人は身を寄せあって、一時の休息をとった。
明日の戦いが終われば、明るい未来が待っている訳では無い。
けれど、それでも──二人は互いに支えながら故郷を目指す。
たとえどんな苦境が待ち受けていたとしても、沖田が傍にいる限り、何も怖くない。
揺るぎないその思いが鶴姫を強くした。
そして翌日の夜、二人はとうとう鶴姫の生まれ故郷──穐月の里があった場所へとたどり着いた。
そこには鶴姫がよく知っている人達の姿がある。
「おかえり、鶴姫。随分久しぶりだな。まさかこの里でお前と再会できるとは思わなかった」
『お父さん……』
五年ぶりに目にした父の姿に、懐かしさが込み上げてくる。
しかし、何も知らなかった頃とは違い、今は父の元に駆け寄ることは出来ない。
「こうしてここに来てくれたってことは、答えは出たということなんだろうが、どうする?俺たちと共に来るか?」
『………』
「楽から話は聞いているな。私たちが再びこの日本の支配者となる日が来たんだ。共に新たな鬼の王国を作り上げよう」
『父様……』
父の言葉から鶴姫は不穏なものを感じとる。
まるで穐月一族の再興よりも、自分たちが支配者となることを優先しているかのようだった。
「鶴姫、顔色が良くないようだな。まさかお前血を絶っているんじゃないだろうな?」
『えっ……?』
「わかってるだろうが、お前の身体は変若水によって作り変えられてしまっている。血を飲まないとたちまち、正気を失ってしまうぞ」
父の声は子供の頃、鶴姫の不注意を叱っていた時のような声音。
それでも感傷に浸れないのは、父の言葉に狂気の色が含まれているから。
「何を躊躇っているのんだ。せっかくだから、沖田を殺して血を吸えばよかったのに」
「……そうだな。そうするべきだ。羅刹なんていくらでも作り出せるんだからな」
二人の物言いを聞いていた沖田は苦笑いを混じえながら尋ねる。
「……鶴姫ちゃん、どうしようか?君のためなら僕の命くらい、あげてもいいんだけど」
『……私は、最後まで諦めない。そう約束したじゃない』
鶴姫たちは一緒に変若水の呪縛をとく。
何より──沖田を失ってしまえば鶴姫は正気でいることなどできない。
「そうだね。君はこんな馬鹿げた提案に乗るような女の子じゃない」
「鶴姫、まさか……」
楽は無言のまま、冷ややかな眼差しで鶴姫を睨みつけている。
多分、これから鶴姫が口にする言葉を予想しているのだ。
鶴姫は彼らの顔を見据えながら告げた。
『私はふたりと一緒には行きません』
楽の唇から、呆れを含んだため息が漏れる。
「鶴姫、おまえは……血を分けた父や兄も故郷も、何もかも捨てるつもりか?そこまでして男を選ぶなんて、とんだ薄情者だな」
『それは──』
「沖田などただの人間じゃないか。しかも病で近い内にくたばる上、変若水のせいで狂い始めてる……」
『楽……、総司を悪く言わないで』
楽の言葉に、黙って聞いていることが出来なかった。
進や楽に次の言葉を言うのに、躊躇いが無いわけではなかった。
『私は総司のことが好きなの。お父さんや楽の事が大切じゃないわけじゃない。でも、総司は……総司だけは、特別なの』
その思いを貫くためなら、彼らとの決別しなくてはならない。
『私は……総司のために生きていたい。羅刹の軍も鬼の王国も私たちの世界には要らない。』
「……俺たちのやり方は、間違ってるって言うのか。母様を殺され、里を奪われ、女鬼じゃないって理由で同じ鬼にまで散々虐げられたのに──俺の人生を無茶苦茶にしたヤツらへの復讐すら考えるなと?俺たちは一生、虐げられる側に甘んじてろというのか?」
『楽……』
「おまえらだけ何も無かったように幸せに暮らすなんて、兄さんはどうしても許せないなあ……」
楽もまた、鶴姫たちの望みを認められない。
同じ両親から生まれたのに、鶴姫と楽は同じ夢を抱けない。
「俺は、俺の目的を果たす。たとえ可愛い妹を泣かせることになっても」
『知ってる。だから、私たちは──』
「力ずくでも、君達を止めさせてもらうよ。僕たちにも叶えなきゃならない夢があるから」
──鶴姫たちは今この時、完全に決別した。
『お願い、お父さん。目を覚まして。私たちの居場所を作るため、関係ない人を傷つけていいはずがない。お母さんが常々言っていたことじゃない。』
「それは……」
進は人間全てを恨んでいる訳では無い。
ならば、過去の恨みさえ捨ててしまえば、人の中で生きていくことが出来るはず。
『鬼と人でも、きっと仲良く暮らせる。堺で静かに暮らしていた時のように』
「鶴姫、おまえ……」
進の瞳は揺らいでいる。
彼は良心を全くなくしてしまったわけではない。
「はははははっ、お前は本当に甘い。人間たちとの争いを避けようとして俺たちの一族は滅ぼされたんだぞ!」
『だからといってこのままでは同じことの繰り返しじゃない!もし羅刹を使って人間たちを滅ぼしてしまえば、残された人たちは私たちを深くう恨むことになる。楽、あなたは昔の私たちのような不幸な子供を……不幸な人たちをまた作り出したいの?』
「……じゃあ、どうしろってんだ?!俺一人が過去にされた理不尽な所業を忘れて、我慢すればいいって言うのか?悪いが、俺はそこまで善人にはなれない。前にも言っただろう。強い人が報われるんじゃない。正しい人が成功するんじゃない──最後に笑うのはどんな時でも手段を選ばずに小狡く立ち回ったやつだけだと!」
楽はそう叫ぶと懐から何かを取りだした。
その瓶を目にした瞬間、鶴姫は心の底から戦慄した。
『楽──!』
楽は不敵な笑みを浮かべた後、瓶の蓋を開け、一気に変若水をあおる。
「うっ、ぐ──あぁああっ!」
彼は苦しげに己の胸元を掴んだ。
白く変じた髪の合間から白い角が四本覗いている。
『なぜ……なぜ、変若水なんて……!』
「変若水で鬼の肉体を強化するには、どれくらいの濃さが必要になるか……確かめるのは簡単だったらしい。可愛い妹が実験台になってくれたから」
『そんな……』
強くなるため、ただそれだけのために楽は変若水を飲んだ。
選びとった道の先にあるものが何なのか、分からないはずがないのに──。
「……沖田が弱くないことは、俺だってよく知っているからな。だからといって、ここで負けるわけにはいかない。こんなところで殺されたら──今までの僕の人生が本当に無意味になる!」
楽は腰の刀に手をかけ一気に引き抜いた。
沖田もそれに応えるように刀を構える。
「……よくわかるよ、その気持ち。もし負けたら、僕を捨てた姉上、そして僕を虐げた兄弟子たちや、僕を哀れんで見下した奴らを喜ばせるだけだ。僕も──近藤さんに会うまでは、ずっとそうやって生きてきたから……だからこそ、彼女に同じ思いをさせるわけにはいかない。僕は、この子と生きなくちゃいけない。だから絶対に負けられない……それだけだ」
『総司…』
その言葉に込められた力強い想いに胸が熱くなる。
鶴姫の心にも沖田と同じ想いがある。
「──馬鹿じゃないのか!?」
楽は全力で斬撃を見舞った。
鋼がぶつかる音と共に火花が散る。
羅刹化したことで、腕力が以前より高められたのだろう。
恐るべき速さと力で続けざまに刃を叩き込む。
「ぐっ……!」
けれど楽の力を上手く受け流し、再び間合いを取り直す。
「たとえ俺に勝ったところで、お前などすぐにくたばる。羅刹の力は寿命を削ると知っているだろう?ただでさえ労咳で残り少ない寿命があとどれくらい残っているだろうな?はははははっ──」
狂ったように見舞われる刺突と斬撃を沖田は全てみきって払った。
「……知ってるよ。だけど残り少ない命なら、なおさら君に渡す訳にはいかない」
既にこの戦いは、人が立ち入れるものでは無かった。
場に漂う殺気で、身動きすら儘ならぬほど。
「……次の一刀で決めさせてもらう。死に損ないに、これ以上時間を取られる訳にはいかないのでね」
「望むところだ」
そして──二人は同時に地を蹴った。
二人は再び切り結んで。
「ぐうっ……!」
僅かに押し負けた沖田の腕から血が溢れ出す。
けれど沖田は怯むことなく返す刀で一刀を見舞った。
「がっ……!」
沖田が放った刺突が今度は楽の身体に傷を作る。
まさに、死力を尽くした戦いだった。
互いの傷が癒えきるのを待たず、凄まじいまでの闘気を放ちながら二人は戦い続ける。
「……勝負あったみたいだな」
「っ…………」
楽はまだ余力を残しているようだった。
しかし沖田は立っているのがやっとという体だった。
「それじゃあな、沖田。せめて、最後は楽にあの世へ送ってやるさ!」
楽は血にまみれた刀をおおきく振りあげる。
『楽、やめて!』
黙っていることなどできず、鶴姫は絶叫する。
『戦う必要なんてもうない!あなたはこれから先もずっとこんなことを繰り返すの?!私だって、総司だって、あなたを殺したいわけじゃない!人を悲しませる戦いをやめて、変若水の毒を消したいだけなの……!それなのに……』
「──うるさい、黙れ!それとも沖田より先に死にたいのか!?」
凄絶な剣幕で叫び散らしたあと、楽は鶴姫との間合いを詰めてくる。
──よけなければ。そう思い太刀に手をかけるが楽の動きは今までの羅刹とは比べ物にならないほどの速さで──
「待て、楽──!」
沖田も楽に追いすがろうとするが、楽は既に鶴姫の目の前まで迫っている。
そして──鶴姫が死を覚悟したその瞬間、誰かが飛び出して鶴姫は突き飛ばされた。
「ぬぐあっ……!」
鶴姫がよく知っている人の叫び声が目の前で上がった。
『──お父さん!』
自分を育ててくれた父親の身体を血に濡れた刀が深々と刺し貫いている。
『お父さん、私を庇って……』
進は答えなかった。
ただ振り返った眼差しは鶴姫がよく知っている父のもので。
「この……!邪魔しやがって!」
楽は苛立った様子で進を蹴り飛ばし、くい込んだ刀を引き抜く。
倒れ込んできた進の身体を鶴姫は手を伸ばして抱きとめた。
「……救いようがないやつっていうのも、世の中にはいるんだね。憎んだ相手はいくらでもいたけど……ここまで嫌いになったのは、君が初めてだよ」
次の瞬間、沖田の刀の剣尖は、恐ろしいほど正確に楽の心臓を貫いていた。
楽の身体が地面へと突っ伏す。
もはや起き上がることさえ叶わない様子だった。
「……救いようがないやつ、か。別に構わないさ。俺は生まれてこの方、救われたいなんて思ったことは無いからな……」
楽はどこか遠くの闇へと目を向け、微かな息を吐き出して……。
そのまま静かに事切れた。
『楽……』
覚悟はしていたつもりだった。
それでも血を分けた家族の死はあまりに耐え難く。
胸に大きな穴が空いてしまったような悲しみに襲われる。
結局最後まで分かり合えなかった。
本当は分かり合いたかった。
永遠に失われてしまった兄を思い、鶴姫は奥歯を噛み締める。
その時だった。
「……鶴姫ちゃん」
沖田に名を呼ばれて振り返る。
「……鶴姫、そこにいるのか……?」
蒼白な顔色になった進が鶴姫の名を呼んでいる。
「答えてあげなよ」
なにか言葉を口にすると、涙が零れてしまいそうになる。
しかし、それを懸命にこらえて鶴姫は進の呼びかけに応える。
『……はい。お父さん。私は、ここにいます』
「そうか……」
進は、ホッとしたように眼を開いた。
「悪いな、こんなに近くにいるのに……おまえの顔が見えない」
『…………』
鶴姫は何も言わずに進の手を取った。
その手は氷のように冷たく進の身体から、たくさんの血が失われていることを表していた。
おそらくどんな名医でも、癒せないほどに。
「……鶴姫、お前に伝えなければならないことがある……」
『身体に障ります。もう喋らないでください』
「いや……、この身体ではもう助からない。そんなことよりも……この地の清き水は、変若水を薄めることが出来る……」
『え……?』
「その力を使えば、変若水の毒をも……浄化できるかも、しれん……」
進が最後の力を振り絞って口にした言葉は、鶴姫たちの切なる願いを叶えてくれる方法だった。
「おまえの父親としての行いが、最後に……できたか……?」
『お父さん……お父さんは私に残った、たった二人の家族でした。私をこんなに立派に育ててくれた一人でした』
その言葉に、進は微かに笑みを浮かべて安らかに、息を引き取った。
この結末は覚悟していたものだった。
しかし、だからといって悲しみが消えてなくなる訳では無い。
最期まで分かり合えないまま逝ってしまった楽。
最期の瞬間まで、鶴姫のことを想っていた父。
複雑な思いこそあれど、二人とも鶴姫の人生に欠かすことが出来ない人達だったのは確かだった。
これから先何があっても彼らのことを忘れることなどできない。
沖田の手がそっと鶴姫の肩へと回された。
そして鶴姫の髪を指先ですき、子供をあやす様に頭を撫でる。
「……泣いてもいいよ、鶴姫ちゃん」
『総司……』
次の瞬間、沖田の腕が強く強く鶴姫を抱きしめた。
悲しみや弱さごと、鶴姫を包み込んでくれるように。
『総司……、総司……!』
たくさんのものを失った悲しみと、大切なものが残ってくれた喜び。
様々な思いが、胸の中で交じり合う。
『ああああっ……!』
堪えきれずに鶴姫は泣きじゃくった。
『私……わたし…』
「……今日は、よく頑張ったね。君は本当に強い子だ。剣じゃなくて心の強さだったら……、僕なんかよりずっと強くなっちゃったかもしれないね」
まるで、年が離れた子供をあやすような口振りだったが、この言葉は鶴姫が今一番欲しい言葉で。
その言葉を惜しみなくかけてくれる彼の存在が鶴姫にはただ愛しくて、涙が止まらなくなった。
To be continued
『……』
「思ったより、時間かからなかったね。こういう時、羅刹の身体って便利だなあ」
二人は穐月一族の里があった場所……鶴姫の生まれ故郷まであと少しのところにいる。
「明日には、君のお父さんや楽と再会できるだろうけど、彼らになんて返事をするか、決めた?」
『それは……』
「その様子だと、まだ決めてないんだ?迷う必要なんてなさそうなのに」
『総司は……』
「ん、何?」
『……いや、なんでもない』
鶴姫は沖田ならどうするか、聞いてみたかった。
しかし、楽にどう答えるかは自分で考えなければならないことだ。
そうでなくては、きっと……楽に気持ちは届かない。
「鶴姫ちゃん、ちょっと一緒に来てくれる?」
『えっ?一緒に、って……一体どこへ……』
「ついてくればわかるよ。ほら」
沖田は戸惑う鶴姫の手を取って歩き出す。
尋ねる間も与えず、沖田は歩き続ける。
そしてたどり着いたのは木々の合間から夜空が綺麗に見える場所だった。
爽やかな夜風が、二人の頬を優しく撫でる。
『わあ……!』
「今日はよく晴れてるから、君の気分も変えてあげられると思って。昼間の景色もいいけど……、こういう眺めも悪くないでしょ?」
『ええ……とても綺麗。』
ひんやりとした夜気や、夜空に冴え渡る星々の姿。
そして眠りの中に沈んでいるような葉擦れの音は、昼間とはまた違う横顔を見せていた。
些細な喜びも今なら深く感じられる気がした。
『……ありがとう。少し、気持ちが楽になった。』
「どういたしまして。って、なんか水くさいな」
軽く茶化したあと、沖田は再び鶴姫の瞳を覗き込んでくる。
「話してごらん。……君は、どうしたいの?」
『私、は……楽がああいう望みを抱くのも無理は無いと思う。故郷や家族、一族の皆を理不尽に奪われたからこそ、誰にも奪われない自分たちの居場所を作りたい。私も楽と同じ立場だったら、きっと……。もちろん楽にされたことを忘れたわけではないけれど』
楽は沖田を羅刹へと変え、自分にも変若水を飲ませた。
『でも……それでも楽は、私の兄だから』
楽にされたことを許せるのか、それはまた鶴姫にも分からなかった。
しかし、もし沖田がこうして傍にいてくれなければ。
もしかしたら鶴姫も、楽のように周りにあるもの全てを呪って生きてきたのかもしれなかった。
そう思うと、どうしても楽を憎みきれなかったのだ。
「君は、彼等と一緒に生きたい?」
その問いに答えることを、鶴姫は少し躊躇う。
『……そうすることを、考えなかった訳ではないの。私たち鬼は普通の人間のように暮らすことなどできない。人目を忍んで生きなくてはならないのなら、共に暮らすのも一つの手かもしれない。けれど、楽は自分たちの安住の地を築くため、他の誰かを傷つけようとしている。それだけは絶対に賛成できない。だからもし、楽が鬼の王国を作るなんて夢を諦めてくれるなら──』
「……随分と都合のいい話だね。邪魔者を根絶やしにしててでも、自分たちの居場所を作りたいと思っている彼らがそんな甘い願いなんて、聞き入れてくれると思う?」
『思えない……』
「世の中にはね、人の醜い部分や汚い部分ばかりを見せつけられながら生きてきた人間っていうのがいるんだよ。前々から鶴姫ちゃんだって分かってるはずだよ。そんな相手に甘っちょろい綺麗事なんて通用しないと思うけどね」
『………』
「……僕は、君の望みを叶えてあげたかったんだ」
『え……?』
「だからもし君がどうしてもって言うんなら、少しだけ付き合ってあげようかとも思った。だって君がいてくれなかったら、僕は、こうして生きてるかどうかも分からないから」
この言葉がただの慰めでないことは、鶴姫にもよく分かった。
沖田にとって近藤がとても大きな存在で。
近藤を失ってしまった今、沖田はきっといつ死んでも構わないと思っているに違いない。
そんな彼がこうして生きていられるのは……。
「僕は、君が望むものを与えてあげたい。本当に欲しいと思ってるものをね……だから、楽の誘いには絶対に乗っちゃだめだ。人間を根絶やしに来て自分たちの王国を築くなんて君は望んでないでしょ?」
沖田は鶴姫以上に明瞭な言葉で鶴姫の本心を言い当てる。
「それとも、化け物になっちゃったからって何もかも諦めて、ずっと暗い闇の中で生きていく?」
『…………』
咄嗟に言葉が出ない鶴姫。
しかし、沖田は鶴姫の答えを待たずに言い放つ。
「そんな生き方、鶴姫ちゃんには似合わないよ。……君が良くても、僕が絶対に許さない。世の中にはね、絶対に暗闇に堕ちちゃいけない人っていうのがいるんだ」
『総司……』
鶴姫は羅刹としての未来など望んでいない。
人間を滅ぼしたいとも思っていない。
ただ平和に暮らしたいだけだった。
沖田はそのことを鶴姫に思い出させる。
既に羅刹になってしまったことを悲観し、どこか諦めていた鶴姫の弱さすら見抜いて。
「変若水の毒を消す方法さえわかればら君も僕も狂気から開放される……君は、君のままだ。化け物なんかじゃない」
羅刹となった身体を治すなど、夢のような話だった。
新選組にいた頃、山南が何年もかけて研究していた。
しかし、結局その方法を見つけ出すことは出来なかった。
そのことは沖田もよく知っている。
それでも彼は残された希望を信じ続けている。
「それでも、もしも君が全て諦めて、願いを放り出すっていうんなら──」
沖田の手が優しく鶴姫に触れた。
慈しむような眼差しに鶴姫の心は捕えられてしまう。
「──僕が、君を殺してあげるよ。君が前に進むことまで諦めるつもりなら、どこにも行けないように、僕が終わらせてあげる」
今まで【斬る】【殺す】と数え切れないほど言われていたが、こんなに優しく【殺す】と言われたのは、今日が初めてだった。
その言葉に込められた気持ちに、鶴姫は胸が温かくなる。
『総司……』
「殺されたくないなら、諦めることなんて考えちゃ駄目だよ。僕だってその後、君なしで生きていけるほど強くないんだから。僕は、最後まで諦めない。だから鶴姫ちゃんも、僕と一緒に……」
少しだけ、沖田の声が揺らいで聞こえた。
鶴姫の内心を見極めかねているのか、沖田はじっと鶴姫を見つめている。
その表情を見ていると、鶴姫はどうしても沖田の願いを叶えたいと思った。
『私……諦めない』
熱に浮かされたように、身体が熱く、悲しみとは違う涙が止めどなく溢れてくる。
沖田が鶴姫は闇に堕ちるのは似合わないと言ってくれたのだから。
諦めてしまう方が楽だとしても、鶴姫は前を向いて歩かなくては。
『総司と一緒に、ずっと……ずっと前を向いて歩き続けるから』
堪えきれずに鶴姫は沖田の広い胸に縋り付いた。
「……ありがとう。君ならそう言ってくれると思ってたよ」
沖田は優しい仕草で鶴姫を抱きしめる。
くすぐるような吐息と共に、耳元に微かな囁きが触れた。
「ずっと一緒にいよう。何があっても、ずっと僕から離れないで」
沖田の手が鶴姫の頬にそっと触れた。
その仕草に誘われるように……、鶴姫は静かに目を閉じる。
沖田は小さく息を詰めた後、緩やかな動きで唇を重ねてきた。
ぎこちなく震える指先はまるで壊れ物のように大切そうに鶴姫に触れる。
いつもの憎まれ口や皮肉とは裏腹なその仕草から……。
沖田の、言葉にしきれない想いが伝わってきた。
(……私は今、とても大切にされている。)
胸がいっぱいになって、涙がこぼれそうだった。
重なり合っている唇が震える。
(きっと今、総司も私と同じ想いを抱いてくれているに違いない)
その事がただ嬉しく、沖田を恋い慕う気持ちがより強くなる。
(このままずっと、総司の傍にいたい。愛しいこの人と、片時も離れたくない……)
彼と共に、生きていきたい……。
熱い胸の奥から、その想いが際限なく込み上げてくるのだった。
それと同時に、ある思いも胸に抱く。
血を飲む以外の初めての口付けを終えて、二人はそっと身体を離す。
静かな中、聞こえてくるのは鶴姫と沖田の二人の足音と、たまに吹き付ける夜風の音だけ。
沈黙がやけに気詰まりに思えて、口を開こうとするが、つないだ手の温もりを意識した途端、言葉を見失ってしまう。
「……名残惜しいけど、ずっとこのままってわけにもいかないんだよね。少し、寝た方がいいんだろうけど……目が冴えちゃったなあ」
『そうだね……』
沖田が夜空を見上げているのに気づき、鶴姫も空を仰ぐ。
鶴姫は明日、血を分けた父と兄と、二人の夢を断ち切らなくてはならない。
本当に自分に出来るのか、彼らを止められるだろうか。
そんな不安を抱えていた。
「……ねえ、鶴姫ちゃん」
傍らから声をかけられ、鶴姫は沖田の方を振り返る。
「そんな不安な顔しなくていいよ。気持ちは、もう決まってるでしょ?」
『それは……もちろん』
「君は、どう考えているか分からないけど、僕は戦うのを怖いと思ったことなんて一度もないし、彼らを殺すことへの躊躇いもない」
その言葉に鶴姫は頷いた。
沖田が戦うところを何度も目にしてきた。
その剣技の冴えも、迷いのなさも、見ていて怖いほど真っ直ぐだったから。
「……近藤さんが生きていた頃は目的なんて別にいらなかった。新選組の剣として、命じられるまま、ただ目の前の敵を斬ればよかっただけだから。だから、どんな汚い役目だって、堂々と胸を張ってこなせたんだ。でも、近藤さんがいなくなった今……僕が剣を振るう理由は、たった一つしかない」
そう言って沖田は鶴姫へと視線を移す。
「……君のためだよ、鶴姫ちゃん」
『総司……』
「こういう生き方を選んだのは僕だし、迷いなんてない。後悔もしない。だけど……今までは、先を望んだことなんてなかったから」
ぽうりと呟かれたその一言に、鶴姫は虚を突かれる思いになる。
「別に、生き急いでたわけじゃないし、寂しい生き方をしてたとは思わないんだけど、結局今まで僕は、先のことなんて何一つ考えてなかったってことだろうね」
沖田が抱えている戸惑いの正体が、朧気に見えてきた気がした。
これからの戦いは沖田がこれまで経験してきたものとは意味が違う。
『父と楽との戦いは、私たちが共に生きるための戦い……一緒に生きていく時間を勝ち取るための戦い』
沖田はその言葉に静かに頷く。
「……この僕が、未来のために戦うことになるなんて思わなかったけどね。今まで思ってもみなかったことが、次々と浮かんでくるんだ」
『思ってもみなかったこと?』
「たとえば……この戦いが終わったら、どこで生きていけばいいんだろう、とか」
『あ……』
今の二人には帰る場所などない。
住処を探すにしても、元新選組幹部の沖田が果たして、身を隠す場所を見つけられるだろうか。
「そんな顔しなくてもいいじゃない。君を落ち込ませるために言ったんじゃないんだから。」
『そうだね。ごめんなさい』
「……ねえ、鶴姫ちゃん」
『ん?』
だが沖田は何も言わないまま、鶴姫をじっと見つめてくる。
鶴姫は彼の言葉を待っていた。
しかし、目を合わせていると、我知らず鼓動が高まってしまって頬がひとりでに熱を帯びてしまう。
鶴姫を見つめる瞳の奥底に密やかな熱が垣間見えた気がして。
「どうして目を逸らしちゃうの?もしかして、警戒してる?」
『……意地悪言わないでよ』
「意地悪って言われても、僕はずっと前からこんな感じだったでしょ。でもまあ、どうせ意地悪って言われるんなら、もう一度、君に口付けしてもいい?」
『えっ!?』
唐突な申し出に鶴姫は絶句してしまう。
『く、口付けならさっき、もう……』
「さっき口付けしたら、もうしちゃいけないいの?」
『そういうわけじゃ……』
「僕が聞きたいのは、君が僕を受けていれくれるのかくれないのか、それだけなんだけど。ちゃんと答えて……どっち?」
『それは、時と場合によると思う…』
「時と場合?どんな時ならいいの?」
『え?え、えっと……』
当然のように詰め寄ってくる沖田に鶴姫はたじろぐことしか出来なくなる。
『だから、その……』
困り果てて黙り込む鶴姫を見て、沖田は苦笑いになった。
「……そういう姿を見てると、ますますいじめたくなるんだよ」
やがて沖田はすっと手を伸ばし鶴姫の両腕をそれぞれ捕える。
『そ、総司……?』
鶴姫が戸惑いながら沖田を見つめ返す。
「いいから。……何も言わないで」
真摯な瞳が鶴姫のすぐ近くにあった。
慌てて身を引こうとするも沖田の手がそれを許さない。
「君は、本当ならもっと優しくて、穏やかな未来を与えてくれる相手を選んだ方が、幸せだったのかもね」
『え……?』
沖田の声音が沈んでいたことに気づいて、鶴姫は身動きが取れなくなる。
沖田の瞳に宿っていたのはさっきまでの切実な色とは違う、熱を帯びた眼差しだった。
「鶴姫ちゃん、僕はね、きっと君をとても困らせると思う。もし君がいつか、僕を選んだことを後悔する日が来たとしても……手放してはあげられない」
からかうような笑みが、彼の瞳から消えた。
代わりに表れたのは、胸の内の覚悟と不安、全てを含んだ沖田の本音だった。
「……僕は、君が死ぬまで一緒にいてあげることは出来ないかもしれない。ほんの僅かな未来はあげられても、その先までは分からない。それでも──」
耳たぶをくすぐるその囁き声が、微かに震えている気がした。
「それでも僕は、君を求めるよ。命ある限り、こうして君に触れ続ける。君を傷つけることになっても……、どうしても止められないんだ」
その言葉に込められた思いが、強く迫ってくる。
『そうj──』
鶴姫が沖田に応えようとした時。
続く言葉を彼の唇で遮られる。
何も言わせない、言われたくない。
そんな心の声が唇を通して直接伝わってきた。
重ねられた唇の熱は、先程交した唇とは違っていて、どこか苦く切なく、そして甘いものだった。
彼は戦いを恐れてはいない。
たとえ相手が鶴姫の縁者であろうとも、躊躇せずに剣を振るえるだろう。
それでもきっと、その事で鶴姫が深く傷つくことだろうことも、よくわかっているに違いない。
そのことが、言葉にするよりはっきりと伝わってきた。
永遠のようにも思える時間を費やして沖田が確かめたかったのはきっとただ一つ。
だから鶴姫は唇が離れた瞬間、迷わずに答えた。
『……本当なら、総司の相手はもっと器量よしで、口うるさくなくて、わがままももっと聞いてくれる人がいいのかもしれない。でも…総司は私を選んでくれた。……総司になら、何をされても構わない。私はいつだって、総司を許す。たとえこうして一緒にいられる時間が、限られていたとしても──』
「……そんなこと言って、僕がいなくなったら絶対泣くくせに」
『…うん。泣いてしまう。でもきっと、後悔だけはしない。たとえこの先、何があったとしても』
「そういうの、殺し文句って言うんだよ」
『総司だっていつも【殺す】【殺す】と言っていたんだから、おあいこ』
「まったく、君って子は……」
沖田は名残惜しそうに鶴姫の髪に触れた。
いつか鶴姫を置き去りにしてしまう自分を責めるみたいに。
「きちんと接吻をしたのは今回が初めてだね」
『そういえば…』
「本当はね、もっと前からしたかったんだ」
『そうなの?』
「うん。でも、鶴姫ちゃんが自分の気持ちにまだ気づいていないみたいだったから」
沖田はそう言うとクスクス笑う。
『総司はいつから私の事を?』
「いつからだろう。気がついたら好意を持ってたんだよね。だから病が進むにつれて甘えたいと思うことが増えていった。」
僕らしくないねとまた笑う。
その様子は愛しいものを見つけて嬉しいというようにみえた。
「早く鶴姫ちゃんも僕のことを好きにならないかな、って思ったりもしたよ」
『本当?』
「うん。でも、僕と居ても幸せにはしてあげられないから好きにならないでとも思った」
『それでも私の事好きでいてくれたんだね』
「うん。やっぱり鶴姫ちゃんが僕の傍から居なくなるのは嫌だったから」
『ありがとう総司』
「僕の方こそ。僕のことを好きになってくれて、傍にいてくれてありがとう」
再び自然と距離が近づく二人。
近づく唇は優しく合わさり一時の癒しを与える。
『……そろそろ眠ろう。明日のため、身体を休めなくちゃ』
「そうだね……」
この後、二人は身を寄せあって、一時の休息をとった。
明日の戦いが終われば、明るい未来が待っている訳では無い。
けれど、それでも──二人は互いに支えながら故郷を目指す。
たとえどんな苦境が待ち受けていたとしても、沖田が傍にいる限り、何も怖くない。
揺るぎないその思いが鶴姫を強くした。
そして翌日の夜、二人はとうとう鶴姫の生まれ故郷──穐月の里があった場所へとたどり着いた。
そこには鶴姫がよく知っている人達の姿がある。
「おかえり、鶴姫。随分久しぶりだな。まさかこの里でお前と再会できるとは思わなかった」
『お父さん……』
五年ぶりに目にした父の姿に、懐かしさが込み上げてくる。
しかし、何も知らなかった頃とは違い、今は父の元に駆け寄ることは出来ない。
「こうしてここに来てくれたってことは、答えは出たということなんだろうが、どうする?俺たちと共に来るか?」
『………』
「楽から話は聞いているな。私たちが再びこの日本の支配者となる日が来たんだ。共に新たな鬼の王国を作り上げよう」
『父様……』
父の言葉から鶴姫は不穏なものを感じとる。
まるで穐月一族の再興よりも、自分たちが支配者となることを優先しているかのようだった。
「鶴姫、顔色が良くないようだな。まさかお前血を絶っているんじゃないだろうな?」
『えっ……?』
「わかってるだろうが、お前の身体は変若水によって作り変えられてしまっている。血を飲まないとたちまち、正気を失ってしまうぞ」
父の声は子供の頃、鶴姫の不注意を叱っていた時のような声音。
それでも感傷に浸れないのは、父の言葉に狂気の色が含まれているから。
「何を躊躇っているのんだ。せっかくだから、沖田を殺して血を吸えばよかったのに」
「……そうだな。そうするべきだ。羅刹なんていくらでも作り出せるんだからな」
二人の物言いを聞いていた沖田は苦笑いを混じえながら尋ねる。
「……鶴姫ちゃん、どうしようか?君のためなら僕の命くらい、あげてもいいんだけど」
『……私は、最後まで諦めない。そう約束したじゃない』
鶴姫たちは一緒に変若水の呪縛をとく。
何より──沖田を失ってしまえば鶴姫は正気でいることなどできない。
「そうだね。君はこんな馬鹿げた提案に乗るような女の子じゃない」
「鶴姫、まさか……」
楽は無言のまま、冷ややかな眼差しで鶴姫を睨みつけている。
多分、これから鶴姫が口にする言葉を予想しているのだ。
鶴姫は彼らの顔を見据えながら告げた。
『私はふたりと一緒には行きません』
楽の唇から、呆れを含んだため息が漏れる。
「鶴姫、おまえは……血を分けた父や兄も故郷も、何もかも捨てるつもりか?そこまでして男を選ぶなんて、とんだ薄情者だな」
『それは──』
「沖田などただの人間じゃないか。しかも病で近い内にくたばる上、変若水のせいで狂い始めてる……」
『楽……、総司を悪く言わないで』
楽の言葉に、黙って聞いていることが出来なかった。
進や楽に次の言葉を言うのに、躊躇いが無いわけではなかった。
『私は総司のことが好きなの。お父さんや楽の事が大切じゃないわけじゃない。でも、総司は……総司だけは、特別なの』
その思いを貫くためなら、彼らとの決別しなくてはならない。
『私は……総司のために生きていたい。羅刹の軍も鬼の王国も私たちの世界には要らない。』
「……俺たちのやり方は、間違ってるって言うのか。母様を殺され、里を奪われ、女鬼じゃないって理由で同じ鬼にまで散々虐げられたのに──俺の人生を無茶苦茶にしたヤツらへの復讐すら考えるなと?俺たちは一生、虐げられる側に甘んじてろというのか?」
『楽……』
「おまえらだけ何も無かったように幸せに暮らすなんて、兄さんはどうしても許せないなあ……」
楽もまた、鶴姫たちの望みを認められない。
同じ両親から生まれたのに、鶴姫と楽は同じ夢を抱けない。
「俺は、俺の目的を果たす。たとえ可愛い妹を泣かせることになっても」
『知ってる。だから、私たちは──』
「力ずくでも、君達を止めさせてもらうよ。僕たちにも叶えなきゃならない夢があるから」
──鶴姫たちは今この時、完全に決別した。
『お願い、お父さん。目を覚まして。私たちの居場所を作るため、関係ない人を傷つけていいはずがない。お母さんが常々言っていたことじゃない。』
「それは……」
進は人間全てを恨んでいる訳では無い。
ならば、過去の恨みさえ捨ててしまえば、人の中で生きていくことが出来るはず。
『鬼と人でも、きっと仲良く暮らせる。堺で静かに暮らしていた時のように』
「鶴姫、おまえ……」
進の瞳は揺らいでいる。
彼は良心を全くなくしてしまったわけではない。
「はははははっ、お前は本当に甘い。人間たちとの争いを避けようとして俺たちの一族は滅ぼされたんだぞ!」
『だからといってこのままでは同じことの繰り返しじゃない!もし羅刹を使って人間たちを滅ぼしてしまえば、残された人たちは私たちを深くう恨むことになる。楽、あなたは昔の私たちのような不幸な子供を……不幸な人たちをまた作り出したいの?』
「……じゃあ、どうしろってんだ?!俺一人が過去にされた理不尽な所業を忘れて、我慢すればいいって言うのか?悪いが、俺はそこまで善人にはなれない。前にも言っただろう。強い人が報われるんじゃない。正しい人が成功するんじゃない──最後に笑うのはどんな時でも手段を選ばずに小狡く立ち回ったやつだけだと!」
楽はそう叫ぶと懐から何かを取りだした。
その瓶を目にした瞬間、鶴姫は心の底から戦慄した。
『楽──!』
楽は不敵な笑みを浮かべた後、瓶の蓋を開け、一気に変若水をあおる。
「うっ、ぐ──あぁああっ!」
彼は苦しげに己の胸元を掴んだ。
白く変じた髪の合間から白い角が四本覗いている。
『なぜ……なぜ、変若水なんて……!』
「変若水で鬼の肉体を強化するには、どれくらいの濃さが必要になるか……確かめるのは簡単だったらしい。可愛い妹が実験台になってくれたから」
『そんな……』
強くなるため、ただそれだけのために楽は変若水を飲んだ。
選びとった道の先にあるものが何なのか、分からないはずがないのに──。
「……沖田が弱くないことは、俺だってよく知っているからな。だからといって、ここで負けるわけにはいかない。こんなところで殺されたら──今までの僕の人生が本当に無意味になる!」
楽は腰の刀に手をかけ一気に引き抜いた。
沖田もそれに応えるように刀を構える。
「……よくわかるよ、その気持ち。もし負けたら、僕を捨てた姉上、そして僕を虐げた兄弟子たちや、僕を哀れんで見下した奴らを喜ばせるだけだ。僕も──近藤さんに会うまでは、ずっとそうやって生きてきたから……だからこそ、彼女に同じ思いをさせるわけにはいかない。僕は、この子と生きなくちゃいけない。だから絶対に負けられない……それだけだ」
『総司…』
その言葉に込められた力強い想いに胸が熱くなる。
鶴姫の心にも沖田と同じ想いがある。
「──馬鹿じゃないのか!?」
楽は全力で斬撃を見舞った。
鋼がぶつかる音と共に火花が散る。
羅刹化したことで、腕力が以前より高められたのだろう。
恐るべき速さと力で続けざまに刃を叩き込む。
「ぐっ……!」
けれど楽の力を上手く受け流し、再び間合いを取り直す。
「たとえ俺に勝ったところで、お前などすぐにくたばる。羅刹の力は寿命を削ると知っているだろう?ただでさえ労咳で残り少ない寿命があとどれくらい残っているだろうな?はははははっ──」
狂ったように見舞われる刺突と斬撃を沖田は全てみきって払った。
「……知ってるよ。だけど残り少ない命なら、なおさら君に渡す訳にはいかない」
既にこの戦いは、人が立ち入れるものでは無かった。
場に漂う殺気で、身動きすら儘ならぬほど。
「……次の一刀で決めさせてもらう。死に損ないに、これ以上時間を取られる訳にはいかないのでね」
「望むところだ」
そして──二人は同時に地を蹴った。
二人は再び切り結んで。
「ぐうっ……!」
僅かに押し負けた沖田の腕から血が溢れ出す。
けれど沖田は怯むことなく返す刀で一刀を見舞った。
「がっ……!」
沖田が放った刺突が今度は楽の身体に傷を作る。
まさに、死力を尽くした戦いだった。
互いの傷が癒えきるのを待たず、凄まじいまでの闘気を放ちながら二人は戦い続ける。
「……勝負あったみたいだな」
「っ…………」
楽はまだ余力を残しているようだった。
しかし沖田は立っているのがやっとという体だった。
「それじゃあな、沖田。せめて、最後は楽にあの世へ送ってやるさ!」
楽は血にまみれた刀をおおきく振りあげる。
『楽、やめて!』
黙っていることなどできず、鶴姫は絶叫する。
『戦う必要なんてもうない!あなたはこれから先もずっとこんなことを繰り返すの?!私だって、総司だって、あなたを殺したいわけじゃない!人を悲しませる戦いをやめて、変若水の毒を消したいだけなの……!それなのに……』
「──うるさい、黙れ!それとも沖田より先に死にたいのか!?」
凄絶な剣幕で叫び散らしたあと、楽は鶴姫との間合いを詰めてくる。
──よけなければ。そう思い太刀に手をかけるが楽の動きは今までの羅刹とは比べ物にならないほどの速さで──
「待て、楽──!」
沖田も楽に追いすがろうとするが、楽は既に鶴姫の目の前まで迫っている。
そして──鶴姫が死を覚悟したその瞬間、誰かが飛び出して鶴姫は突き飛ばされた。
「ぬぐあっ……!」
鶴姫がよく知っている人の叫び声が目の前で上がった。
『──お父さん!』
自分を育ててくれた父親の身体を血に濡れた刀が深々と刺し貫いている。
『お父さん、私を庇って……』
進は答えなかった。
ただ振り返った眼差しは鶴姫がよく知っている父のもので。
「この……!邪魔しやがって!」
楽は苛立った様子で進を蹴り飛ばし、くい込んだ刀を引き抜く。
倒れ込んできた進の身体を鶴姫は手を伸ばして抱きとめた。
「……救いようがないやつっていうのも、世の中にはいるんだね。憎んだ相手はいくらでもいたけど……ここまで嫌いになったのは、君が初めてだよ」
次の瞬間、沖田の刀の剣尖は、恐ろしいほど正確に楽の心臓を貫いていた。
楽の身体が地面へと突っ伏す。
もはや起き上がることさえ叶わない様子だった。
「……救いようがないやつ、か。別に構わないさ。俺は生まれてこの方、救われたいなんて思ったことは無いからな……」
楽はどこか遠くの闇へと目を向け、微かな息を吐き出して……。
そのまま静かに事切れた。
『楽……』
覚悟はしていたつもりだった。
それでも血を分けた家族の死はあまりに耐え難く。
胸に大きな穴が空いてしまったような悲しみに襲われる。
結局最後まで分かり合えなかった。
本当は分かり合いたかった。
永遠に失われてしまった兄を思い、鶴姫は奥歯を噛み締める。
その時だった。
「……鶴姫ちゃん」
沖田に名を呼ばれて振り返る。
「……鶴姫、そこにいるのか……?」
蒼白な顔色になった進が鶴姫の名を呼んでいる。
「答えてあげなよ」
なにか言葉を口にすると、涙が零れてしまいそうになる。
しかし、それを懸命にこらえて鶴姫は進の呼びかけに応える。
『……はい。お父さん。私は、ここにいます』
「そうか……」
進は、ホッとしたように眼を開いた。
「悪いな、こんなに近くにいるのに……おまえの顔が見えない」
『…………』
鶴姫は何も言わずに進の手を取った。
その手は氷のように冷たく進の身体から、たくさんの血が失われていることを表していた。
おそらくどんな名医でも、癒せないほどに。
「……鶴姫、お前に伝えなければならないことがある……」
『身体に障ります。もう喋らないでください』
「いや……、この身体ではもう助からない。そんなことよりも……この地の清き水は、変若水を薄めることが出来る……」
『え……?』
「その力を使えば、変若水の毒をも……浄化できるかも、しれん……」
進が最後の力を振り絞って口にした言葉は、鶴姫たちの切なる願いを叶えてくれる方法だった。
「おまえの父親としての行いが、最後に……できたか……?」
『お父さん……お父さんは私に残った、たった二人の家族でした。私をこんなに立派に育ててくれた一人でした』
その言葉に、進は微かに笑みを浮かべて安らかに、息を引き取った。
この結末は覚悟していたものだった。
しかし、だからといって悲しみが消えてなくなる訳では無い。
最期まで分かり合えないまま逝ってしまった楽。
最期の瞬間まで、鶴姫のことを想っていた父。
複雑な思いこそあれど、二人とも鶴姫の人生に欠かすことが出来ない人達だったのは確かだった。
これから先何があっても彼らのことを忘れることなどできない。
沖田の手がそっと鶴姫の肩へと回された。
そして鶴姫の髪を指先ですき、子供をあやす様に頭を撫でる。
「……泣いてもいいよ、鶴姫ちゃん」
『総司……』
次の瞬間、沖田の腕が強く強く鶴姫を抱きしめた。
悲しみや弱さごと、鶴姫を包み込んでくれるように。
『総司……、総司……!』
たくさんのものを失った悲しみと、大切なものが残ってくれた喜び。
様々な思いが、胸の中で交じり合う。
『ああああっ……!』
堪えきれずに鶴姫は泣きじゃくった。
『私……わたし…』
「……今日は、よく頑張ったね。君は本当に強い子だ。剣じゃなくて心の強さだったら……、僕なんかよりずっと強くなっちゃったかもしれないね」
まるで、年が離れた子供をあやすような口振りだったが、この言葉は鶴姫が今一番欲しい言葉で。
その言葉を惜しみなくかけてくれる彼の存在が鶴姫にはただ愛しくて、涙が止まらなくなった。
To be continued