入隊希望者とその親族関係の明記を。
あなたを守ること 沖田
入隊希望者名簿
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慶応四年四月
その後、江戸を出た鶴姫たちは土方の足取りをおった。
新選組は伝習隊と合流し、日光を目指しているらしい。
伝習隊は旧幕府軍の精鋭を集めた隊で洋式化された部隊だということだ。
鶴姫と沖田は陽射しを浴びぬよう、昼間は深い森の奥で眠りについた。
「……もうすぐ夜が明ける、か。今日はこの辺にしておいた方が良さそうだね」
『うん……』
「ちょっとまってて。眠るのにちょうど良さそうな場所を探してくる」
『あ……』
「どうしたの?」
『…………なんでもない』
「そう?それならいいけど、それじゃ、いい子で留守番してるんだよ」
沖田はそう言い残し、休む場所を探しに行ってしまう。
さっきは言わなかったが、沖田が今腰に指している刀はそれまでに使っていた物ではなく、以前近藤に託されたという、あの山城守藤原国清だった。
あの刀を携えて土方の元に向かうということは、きっと何か深い意味がある。
『万が一があった時、私は総司を止められるのかな』
そんなことん思いながら、ふと鶴姫は白み始めた夜空に浮かぶ月を見上げた。
この後、二人は森の中で休息を取っていたが。
「──向こうへ行ったぞ!逃がすな!」
兵の叫び声と共に呼子の音が鳴り響く。
『総司!』
まだ日が高い頃、二人は新政府軍に見つけられてしまった。
木陰から離れた瞬間、身体が酷く重く感じられた。
「逃げ切るのは無理か。迎え撃つしか無さそうだね」
沖田はそう呟いたあと、腰の刀を引き抜いた。
『総司……』
彼の身体を蝕む病は治っていないはず。
そんな状況で羅刹になるなど、自殺行為とさして変わらなかった。
「大丈夫だよ。あの程度の相手なら、すぐに片付けてみせるから。君は木陰にでも隠れてて。いいって言うまで。出てきちゃダメだよ」
『いえ……』
今までの鶴姫なら、きっと沖田の言葉に頷いていた。
だが今は。
『今日は私も戦う』
そう告げて森の中では不利な太刀ではなく、脇差を構えた。
「戦うって……君が?」
『近頃は滅多に前に出ることはなかったけれど、これでも貴方と共に巡察にでていた。それに道場の跡取り息子としても育てられた。それくらいの力量はまだ残ってる。二人で戦えばそれだけ戦いが早く終わる……もう総司にだけ苦しい思いをさせたくない』
風間たちを追い払ったあの時、今まで感じたことがない力が身体の奥から溢れ出てきたのを覚えている。
あの力をもう一度使うことが出来れば。
「まったくもう……どうなっても知らないよ?」
沖田が半ば呆れるように言った瞬間、先程よりも近いところから呼子の笛の音が聞こえてきた。
「いたぞ!こっちだ!」
二人は瞬く間に新政府軍の小隊に取り囲まれる。
「早く片付けるに越したことないよね。こんなところで足止めを食う訳には行かないし」
『ええ』
「それじゃ──行こうか、鶴姫ちゃん!」
沖田に頷き返し鶴姫はとびだした。
「──撃て!」
一人の兵が叫んだ刹那、銃口が二人に向けられるが、沖田は即座に敵兵との間合いを詰めた。
そして人の業とは思えぬほどの剣技で、敵兵を一瞬のうちに斬り伏せる。
「おのれ、仲間を──!」
『ごめんなさい。あなた達も私たちの仲間を大勢殺してきたの』
鶴姫もそうやって一人、またひとりと斬っていく。
人を斬ることは初めてではなかった。
それでも、やはりいい気分にはならなかった。
仲間の兵は沖田を撃ち殺そうとするが、沖田は地を大きく蹴り、次の瞬間には敵兵の間合いの中へと飛び込む。
そして陽光の下、鮮血の華がいくつも爆ぜた。
「あはははっ──、相手にならないね!」
見ているだけで身震いするほどの、凄まじい剣技だった。
驚くべき正確さで敵の弱点を見抜き、瞬時に葬り去っていく。
「ひ、ひるむな!撃て!」
隊長らしき人が号令をかけると一斉に銃声がこだまする。
その時。
『っ……!』
解き放たれた銃弾の一つが鶴姫の足へと食いこんだ。
「鶴姫ちゃん!」
『……く、あ……!』
あまりの痛みに膝を着く。
溢れた血が太腿に血痕を残す。
しかし、次の瞬間にはその傷は塞がっていた。
『……なーんて』
ザシュッ
「ぐあああああー!」
『大丈夫。これくらいの傷、すぐ治るから』
沖田に心配をかけたくない。
ただその一心で地を蹴り、次の敵との間合いを詰めていく。
鶴姫の脇差は銃を構えた敵兵の腕を正確に貫く。
彼の手にあった洋銃が地面へと落ちた。
沖田がすぐさまその銃を遠くへと蹴り飛ばす。
しかし、近くにい並ぶ敵兵が鶴姫へと銃口を向ける。
「よそ見してる余裕なんてあるわけ?あんたたちの相手は僕なんだけど」
沖田が敵兵の注意を引き付けながら一人、またひとりと斬り伏せていく。
敵も銃で応戦するが、それでもこの間合いならば、沖田の剣の方が数段早い。
手近にいる兵を全て斬り捨てた後、沖田は言った。
「鶴姫ちゃん、あんまり前に出過ぎないで。足でまといってほどじゃないけど、心配になるから」
『分かった』
「君は人を斬ったりなんてしなくていい。いくら経験があるからといっても、自分の身を守ることだけ考えて。いいね?」
『…………』
たとえこの身が血にまみれたとしても、鶴姫は沖田と共に戦いたかった。
「……返事は?」
『……はい。わかりました』
鶴姫は沖田の言葉に頷いたとき。
「貴様らが話に聞いた新選組の羅刹か、ならば──」
敵軍の隊長が素早く弾を込めるのが見えた。
『総司!』
そう叫んだ瞬間だった。
どこからか飛んできた苦無が敵兵の身体へと突き刺さる。
「おふたり共、ご無事でしたか」
「山崎くん……君、生きてたんだ?甲府の戦いの時以来姿が見えなかったから、てっきり死んじゃったのかと思ってたのに」
「何者だ!貴様も、新選組の者か!?」
「殿は、俺が務めます。お二人共、どうかご無事で」
「鶴姫ちゃん、こっちへ」
短く言った後、沖田は山道を走り出した。
鶴姫もすぐに沖田の後に続く。
「──逃がすな、撃て!」
号令に応え、敵方の銃が一斉に火を噴くが幸いにして居並ぶ木々が其の弾を阻んでくれる。
「どこを見ている!お前たちの相手はこの俺だ!」
山崎は木々の間を飛び移りながら苦無で敵を仕留めるが銃弾を浴び呻き声をあげた。
そのうめき声に鶴姫は思わず立ち止まった。
「足を……止めないでください!そのまま走って!」
その言葉に押されるように鶴姫は再び走り出した。
そしていつしか日は傾き、西の空が茜色に染まり始める。
「とりあえず、何とか逃げおおせたかな……」
近くに敵の気配は感じられない。
「……にしても、この怪我で走り続けるなんてね。山崎くん、変若水も飲んでないのに、無茶しすぎじゃない?」
「俺は……、こんなところで死ぬ訳にはいきませんから……」
『山崎さん、傷を見せてください。応急手当します』
改めて山崎の傷の具合を調べる。
不幸中の幸いと言うべきか、弾が体内に留まっているわけではなさそうだが、それでも脇腹を撃ち抜かれてしまっている。
そのため、急いで手当をしなくてはならない。
しかしここには満足な医療器具はない。
本当に簡単な手当しかできなかった。
「どうして山崎くんがここにいるの?僕たちが敵に取り囲まれている時にちょうど駆けつけるなんて、いくら何でも間が良すぎない?」
すると山崎は言葉を選んでいる様子で間を置いてから答える。
「甲府城付近であなた方と別れたあと、俺は新選組の本陣に合流しました。ここ数日は新政府側の動向を探るため、本隊を離れていたのですが……」
『ではその時に偶然私たちと?』
その言葉に山崎は表情を曇らせる。
「君たちを見つけたのは数日前だ」
『じゃあどうして今まで……』
「声をかけることが出来なかったんだ。……局長のことは聞いているな?」
「なるほど。僕を土方さんに会わせたくなかったってこと?……僕が、あの人を殺しちゃうかもしれないから」
沖田の言葉を山崎は肯定も否定もしない。
しかし沖田はさして気にしてはいない様子で続けた。
「僕としたことが、迂闊だなあ。何日も君に見張られていたのに、気づかなかったなんて」
「……それだけ、疲れが溜まっておられるということでしょう」
「それは否定しないけどさ。ま、君がいなかったら僕たち、とっくに殺されてただろうし。そのことに関しては、お礼を言ってあげてもいいかな。……ありがとう」
「……」
「どうしたの?」
「いえ……まさか沖田さんの口からそのような言葉を聞くことになるとは思わなかったもので……」
「失礼なことを言ってくれるなあ。じやあ、さっきのは撤回するよ」
少しの間、山崎は慎重な口ぶりで尋ねる。
「……もし副長に会えたら、あなたはどうするおつもりですか?」
「まだ決めてないよ。……実際のところ、僕もまだ分からないんだ。あの人を斬っちゃうかもしれないし、逆に、僕の方が斬られるかもしれない」
「……新選組は、近藤局長と土方副長のお二人で作り上げたもの……、言わばお二人の夢そのものです」
「知ってるよ」
「近藤局長は!何があっても決して、副長を死なせたいとは思っておられないはずです」
「…………うん、それも知ってる」
山崎は少しの間、沖田の瞳をのぞきこんで、そこに宿る光の正体を確かめようとしている様子だった。
「新選組の皆は今、宇都宮城にいます」
そう告げたあと、山崎は瞬きすらせず沖田を見つめ返した。
「あの人を……、土方副長を頼みます」
振り絞るような声で紡がれたその願いを、沖田は無言のまま受け止めている。
『山崎さんは……?』
「俺は、ここで休んでいく。……少し喋りすぎた」
『山崎さん──』
「……鶴姫ちゃん、行こう」
『……』
「いいから、行くよ。山崎くん、今までずっと働き詰めだったんだし、少し休ませてあげなきゃ」
沖田はそう言ったあと、独特の親しみを込めた瞳で山崎を見やる。
「……土方副長に、お伝えください。【少し遅れますが、必ず合流します】と」
山崎の伝言を受け、鶴姫たちは黄昏の山道を再び歩き始めた。
その最中、もう二度と、山崎に会うことは出来ないと、鶴姫は気づいていた。
山崎と別れたあと、鶴姫たちは一路宇都宮城を目指す。
「……敵の気配が無くなったから、ここからは早く進めそうだね」
『…………』
昼間のような戦いをしなくて済むというのは有難かった。
「どうしたの?立ち止まって。……行くよ」
『総司……』
もし宇都宮城に着いてしまったら、沖田はどうするつもりなのか。
土方に再会した後、どうなるかは沖田にも分からないようだ。
場合によっては、どちらかが死んでしまうことだって考えられる。
『……どうしても行くの?』
「今更その質問?ここで江戸に戻ったら、何のためにここまで来たのか分からないじゃない」
『だけど……』
「まあ、どうしても行きたくないんなら、ここで待っててくれてもいいからね」
ここに置き去りにされるのはもちろん嫌だ。
『総司……』
「ん、何?」
『土方さんを、殺さないで』
その言葉で沖田の瞳がにわかに鋭さを増す。
「僕はできない約束はしないことにしてるんだ」
『でも……山崎さんが言っていたように、近藤さんは土方さんを死なせることなんて望んでいないはず。その人を殺してしまって……総司は本当に平気なの?』
鶴姫にはどうしてもそうは思えなかった。
鶴姫が新選組に身を置くことになってからというもの、沖田から【斬る】【殺す】と言った言葉を浴びせられたのは、一度や二度ではない。
しかし、新選組の敵を殺すのと、土方を斬るのでは沖田にとっても、意味合いが全く違うのではないか。
『私は……もうこれ以上、総司に辛い思いをしてほしくない』
「鶴姫ちゃん……」
鶴姫の言葉が予想外だったのか沖田は少し戸惑いながら鶴姫を見つめ返した。
「……これから殺されるかもしれない土方さんじゃなくて、僕の心配をしてくれるんだ?さすがにそれは土方さんに同情しちゃうなあ」
『そういう意味じゃ……。私は……』
「……分かってるよ。でも、僕はあの人に会わなきゃいけない。……それは、分かってくれるよね?」
沖田自身、己の心にある望みを掴みかねているのだろう。
会えばどうなるかなど予想できないから、殺さないとは約束しないのだ。
どうしても不安は拭えなかったが、それでもどうしてもそうしなければならない沖田の気持ちは鶴姫には分かった。
『……分かった』
沖田の言葉に鶴姫は頷くしか無かった。
一時の沈黙が流れた、その直後。
沖田が不意に身を強ばらせた。
「ぐ、うっ……!あ……!」
その髪が白く染まり、瞳が赤く輝き始める。
『総司!』
また発作が起きてしまった。
いや、むしろ今までの発作より明らかに苦しそうな表情を浮かべている。
鶴姫は脇差を引き抜いて、自分の唇を傷つけた。
『総司、私の血。飲んで……』
鶴姫が差し出した唇に沖田は顔を近付ける。
赤い瞳には安堵の色が浮かんでいた。、溢れ出る赤い血を舐め取りながら、彼は囁くような小声で言う。
「…………ありがとう。君がいてくれるから……、僕はまだ、僕のままでいられる……」
『総司……』
胸中に微かに残っていた迷いを沖田の一言が消してくれる。
自分の血を与えることで沖田は正気を保つことが出来る。
沖田が自分の血を必要としてくれている。
鶴姫はただそれだけで救われる気がした。
沖田の発作が治まるのを確かめて二人は再び宇都宮城を目指そうとする。
「……待って、鶴姫ちゃん」
不意に沖田に呼び止められる。
『どうしたの?』
そう問い返した時、地を揺るがすような砲撃の音がこだました。
『なに?今の音。もしかして』
沖田はそれには答えずにそのまま小高い丘の上を目指して走り出した。
鶴姫も急いで後を追い、そして丘から見たものは敵兵に取り囲まれ火の手が上がる宇都宮城だった。
大砲の音が響きわたり、兵たちの号令や叫び声がこだまする。
旧幕府軍は懸命の抵抗を続けるが、押されているのははっきりと分かった。
「……城を取り囲まれているみたいだね。これじゃ、僕たちも近付けそうにないか」
沖田は悔しげに言い捨てた後、丘を降りた。
『これからどうするつもりなの?』
「多分、土方さんたちは撤退するだろうから、逃げ道を予想して周り込もう」
『分かった。でも無理はしないように進むからね』
鶴姫がそう頷き返した時、山道の向こうから大勢の人の靴音が聞こえてくる。
「鶴姫ちゃん、こっちへ」
鶴姫は沖田に手を引かれ茂みの中へ身を隠す。
筒袖を纏った大勢の兵が、二人のすぐ近くを歩きすぎていく。
沖田と鶴姫は息を殺し、彼らが通り過ぎるのを待った。
幸いにして彼らに見咎められることはなく、靴音が遠ざかっていく。
「……行ったみたいだね。やれやれ、見つかると思ったよ。土方さんたちがいないんなら長居は無用だし、さっさと退散しようか」
『うん。ここに誰も来ないとは限らないし』
そう答えた時だった。不意に強い眩暈に襲われる。
頭の芯を締め付けられるような頭痛と得体の知れない吐き気も襲ってきた。
『うっ……』
「鶴姫ちゃん?」
『だ、だいじょう……ぶ……』
ふらついて倒れそうになる鶴姫の身体を沖田の腕が支える。
「全然大丈夫じゃないじゃない。一体どうしたの?もしかして……」
鶴姫は小さく頭を振った。
『……血が欲しいわけじゃないの。多分私の身体が変若水の毒を退けようとしてるんだと思う』
「そっか……」
『っ……!』
再び身体が軋むような痛みが鶴姫を襲う。
短い髪が本来の姿になるために伸び、角も生え、額に赤い印が現れる。
声が出ないように唇を噛み締めて痛みをやりすごし、鶴姫は沖田にほほ笑みかける。
『……ほら、大丈夫』
この程度の痛み、沖田が今まで我慢してきた衝動に比べれば取るに足らないもの。
この程度で弱音を吐いてはいられない。
『ちゃんと歩けるよ。心配かけてごめんなさい』
「……そっか、強いね、君は。ん、……けほっ、こほっ」
『総司?』
「……大丈夫。ちょっと咳き込んだだけだから。とっくに起き上がれなくなっててもおかしくない身体を、羅刹の力で無理矢理動かしてるようなものだから……お互い、もうボロボロだね」
『総司、少し休んだ方が』
そう言いかけた鶴姫の言葉を沖田は遮る。
「君が大丈夫なら、もう行くよ……この機会を逃すと、また土方さんを見失いそうだから」
『……大丈夫。先を急ぎましょ』
「……苦しくなったら、いつでも言って」
優しく告げた後、沖田は鶴姫の手を取って歩き始める。
「けほっ……こほっ」
時折、沖田が嫌な咳をすることはあった。
それでも互いに支え合うようにして道無き道を進んでいく。
ふと、会話が途切れた時。
『総司』
「ん、何?」
『もし、土方さんに会えたら総司はどうするの?まだ決めてない?』
不躾な質問だとは思ったが、沖田は機嫌を損ねる様子もなく優しい表情で答えた。
「僕が近藤さんが初めて会ったのはね、まだ、数えで九つのときだったんだ」
唐突な言葉に、鶴姫は若干戸惑った。
けれど、沖田は胸の内に抱えているものを少しづつ明かしてくれる。
「父上も母上も早くに亡くなって、姉上もお嫁に行くことになって僕の面倒を見たがる人なんて誰もいなかったから内弟子として試衛館に預けられたんだ──捨てられた、って思ったよ。姉上も義兄上も、僕なんて要らなかったんだろうって」
『…………』
沖田のせせら笑うような独白に胸が潰れそうになる。
「……剣術道場って、身体が大きくて気が荒い人ばかりでさ。一番年下で身体が小さかった僕はいつまでたっても下っ端扱いでしょっちゅう嫌がらせや折檻をされてた。そんな中……唯一優しくしてくれたのが、近藤さんだったんだ。」
「姉上に捨てられて、世の中に味方なんて誰もいないって拗ねてた僕に
世の中に意味の無いことなんてない、僕がこんなに運命を辿ることになったのも、
きっと意味があるはずだって言ってくれて何も出来ないって思い込んでた僕に、
剣に生きる道を教えてくれた。
僕……近藤さんに出会えたから、生まれ変われたんだ。
それからしばらくして土方さんが試衛館に出入りするようになってさ。
最初の頃は……って言うか今もだけど、あの人のこと、大嫌いだったよ。
お金持ちの農家のお坊ちゃんで、食べるのに困ったことなんてほとんどなさそうで……
なのに近藤さんは、土方さんのことがだいのお気に入りでさ。
土方さんに【あんたは大名になれる】って言われるたび、嬉しそうな顔になって
近藤さん、土方さんと話す時は目の色が全然違うんだ。」
話し終えた後、沖田は照れくさそうに夜空に瞬く星々を仰いだ。
『総司……』
沖田が抱いている思いが、少しだけ理解出来た気がした。
近藤と過ごした大切な思い出の中には土方の姿もあるに違いない。
土方にきつく当たることもあったが、悪いだけが向いている訳では無いだろう。
『わかった気がする』
沖田にとって土方もまた【特別】なのである。
近藤に及ばなくとも、思いを向ける方向が異なるとしても。
『急いで、土方さんに会いに行こう。またすれ違ってしまわないうちに』
「……君は、僕を止めるつもりでついてきたんじゃないの?」
『正直にいうと、さっきまでは少し悩んでた。でも……今の総司なら大丈夫だと思ったから』
近藤のことを誰よりも大切に思っていて。
近藤が土方にどんな思いを抱いていたのかもよく分かっていて。
重ねてきた彼らとの思い出をあんなに優しい表情で語れる沖田ならば。
『……信じてるから』
「…………」
沖田は驚いたような眼差しでしばらく鶴姫を見つめていた。
だが少しすると不意に鶴姫の腕を掴み自分の方へと引き寄せた。
『総司?』
「……いきなり、ごめん」
戸惑いを含んだささやきが、耳元に触れる。
「どうしてか分からないけど……君を抱きしめたくてたまらない」
沖田の腕はまるで慈しむように鶴姫の身体を包み込んだ。
『…………』
声が出なくなって心臓がにわかに高まりを増す。
「さっきみたいに……誰かに気持ちを分かってもらえたのは、久しぶりな気がして」
震えた声音が、沖田の本音を一つ一つ明かしてくれる。
「切なくて、抑えきれないんだ。本当に、ごめん……」
ぎこちない手付きで抱きしめられた鶴姫は胸の奥から愛しさが込み上げてくる。
『総司……』
抱きしめる温もりが心地よくて、鶴姫は沖田の身体を抱き締め返し、沖田の腕に身を委ねた。
これ以上の幸せなどほかにないと、心の底から思った。
胸の鼓動が沖田に聞こえてしまわないか、真っ赤な顔を見られてしまわないか。
少しだけ心配だったが、そんな思いも心地よい体温に溶けて消えてしまう。
「……君って本当に、不思議な子だね」
腕に込められた力が、ほんの少しだけ強められる。
「いつの間にか、僕の心の中に入り込んできて今みたいに僕が一番欲しい言葉をくれるなんて」
その声音には、微かな照れが混じっていた。
『私、嬉しいよ?』
きっと他の人には明かさずに胸に秘めてきた思いを、語ってくれたこと。
そして、こうして優しく抱きしめてくれたことも。
きっとこの先、何があっても忘れることは無い。
いや、忘れることなんてできない。
そんな風に思いながら、鶴姫はこの上なく幸せな一時を噛み締めたのだった。
「初めて一緒の布団で寝た時も……寂しかった。切なかった。でも、君が僕のことを自分から抱きしめてくれたことが嬉しかった。なんでなんだろう。本当に不思議だ。鶴姫ちゃんのこと、離したらいけない気がするんだ」
『総司……』
やがて沖田は腕をとき、名残惜しそうに身体を離す。
「……それじゃ、行こうか」
『ええ』
二人はしばしの間、視線を交え、やがてどちらともなく歩き出す。
虫の声がこだまする中、沖田はぽつりと漏らした。
「僕はきっと、知りたいだけなんだ。土方さんが何を考えているのかを、ね」
その後、二人は土方の足跡を追って山道をひたすら歩き続けた。
そして、日光に差し掛かったところで、ようやく土方の姿を見つけだす。
「おまえら……こんなところまで来てたのか」
護衛と思しき人を遠ざけたあと、土方は鶴姫たちへと向き直る。
「僕たちが、なんのためにここに来たのかは分かってますよね?」
「……ああ。おまえがわざわざ追ってくる用事なんざ、他にねえだろ」
「土方さんは、もう聞いたんですか?近藤さんが……」
「……斬首されたってことだろ?とっくに知ってるよ」
土方の言葉に沖田は目を剥く。
「……へえ、知ってたんですか。知ってた癖に、土方さんは──何をしてたんですか!」
そして激情に揺さぶられるまま、沖田は土方の胸ぐらを掴む。
「どうして、しがみついてでも近藤さんを止めなかったんです!?助ける方法なんて、いくらでもあったはずでしょう!?他の誰にできなくても──土方さんならできたはずだ!」
「──できなかったんだよ!」
喉が張り裂けんばかりの声で土方は絶叫した。
その瞳は小刻みに震えていて、憤りと悔恨の色が滲んでいる。
「俺は助けたかった、助けようとしたんだよ!好き好んで近藤さんを見捨てた訳じゃねえ!試衛館にいた人間の中で、近藤さんを本物の侍にしてえって、一番思ってたのは誰だと思ってるんだ!」
沖田の、土方の襟元を掴む手が小刻みに震えている。
「それでも……近藤さんは死んじゃったじゃないですか」
瞳を震わせながら、沖田は一瞬、土方から視線を外す。
「総司……」
土方の胸ぐらを掴んでいた手が力無く垂れ下がる。
そして沖田は羅刹の腕力で土方さんを容赦なく殴り飛ばした。
「これで、勘弁してあげますよ……許すわけじゃないですけど」
土方はゆらりと立ち上がり、不機嫌な表情で口元を拭った。
「……前の僕なら、本当に土方さんを斬ってたかもしれませんけど、でも、今は……」
沖田の独白を、土方は弁解も反論もせずに受け止めていた。
「……敵に投降する前、近藤さんは俺に言ったんだ。【もう、楽にさせてくれないか】ってな。結局、俺がやってたことはただの自己満足で……あの人の本心なんざ、全然わかってなかったのかもしれねえな」
「本当ですよね。京なんて行かずに試衛館の道場主のままでいれば、近藤さんだって……酷い殺され方をして、首を晒されたりなんてしなかったはずなのに」
なじるような口調ではあったが、それでも土方ひとりだけを責める口調ではなかった。
「土方さんは、これからどうするんですか?」
「近藤さんに新選組を託されたんだ。今更、放り出す訳には行かねえよ。俺は隊士を連れて北を目指すが、お前らはどうするんだ?」
「僕は土方さんと一緒には行けません」
多分、沖田がこう答えるのは土方も予想出来ていたに違いない。
土方は諦めたような表情で薄く目を閉じる。
「……そうか」
二人の道は今ここで、分かたれてしまうけれど、二人の瞳に後悔の色は無い。
『あの……私の方からも土方さんにお伝えしなければならないことがあります。』
「なんだ?」
『私たち、山崎さんに会ったんです。その時、敵方の銃弾を受けてしまって……離れ離れになってしまいました。でも、【必ず合流する】と、土方さんにお伝えしてほしいと』
その言葉を聞いた土方の目元が、無念そうに歪む。
だが、込み上げてくるものを呑み込むように
「そうか……わざわざ伝えてくれて、ありがとうよ……総司のこと、頼んだぜ」
『はい。土方さんも、皆さんもどうかご無事で』
土方は優しく微笑んだあと、そのまま鶴姫たちに背を向けて歩き出す。
遠ざかっていく背中を見送りながら、沖田がぽつりと言った。
「……馬鹿だよね、土方さんは」
『……』
「近藤さんの本心を全然わかってなかったかもしれないとか、単なる自己満足だったのかもしれないとか言ってたけど……そんなはずないじゃない。ねえ?試衛館にいた人達はみんな、近藤さんのことが大好きだったけど、近藤さんは大名になれる人だって本気で言ってたのは土方さんと山南さんだけだったんだから」
『…………』
「僕が近藤さんに出会って生まれ変われたのと同じで…近藤さんも土方さんに出会ったことで生まれ変わったに決まってるよ……そのせいで罪人として処刑されるなんて、皮肉にも程があるけどさ」
静かに吹く夜風を吸い込んでから、沖田は鶴姫の方を振り返る。
「それじゃ、僕たちもそろそろ行こうか」
『行くってどこに……』
「あれ、進さんを探すため、鶴姫ちゃんの故郷に行くんじゃないの?もしかして、忘れちゃった?」
『いや、そんなことは──でも、いいの?』
「綱道さんは変若水の毒を消す方法を知ってるかもしれないんだよね?もちろん傍にいた進さんも知っている可能性がある」
『あ千はそう言ってたけど』
「……じゃあ僕も一緒に行くよ。変若水の毒に蝕まれて血に狂うなんて君には似合わないから。……僕は君を助けたいんだ。だから最後の最後まで諦めない」
沖田の優しげな微笑みが、何故か儚く見えて鶴姫の胸は不穏なざわめきを帯びた。
『私も総司のこと、助けたい』
『ん……』
鶴姫が目を覚ましたのは東の空から夕闇が近づいてくる頃だった。
軽く瞬きをする鶴姫の顔を覗き込んでいるのは。
「おはよう、鶴姫ちゃん。ちゃんと眠れた?」
『うん、眠れたけど、総司はどう?ゆっくり休めた?』
「うん、ぐっすり眠れたよ」
『嘘。見張り……してたでしょ?』
「ひどいなあ、決めつけなくてもいいのに」
『近頃少しずつだけど総司の本音がわかるようになってきたの』
「そうなの?便利だけど、ちょっとめんどくさくなりそうかなあ」
『面倒臭いってどうして?』
「いちいち怒らなくてもいいじゃない。ただの冗談なんだから」
『もう!ふざけないでよ。私は眠れたから、少し眠って。無理は禁物』
「無理してるつもりは無いんだけどなあ。自分の身体だし」
『総司のそういう言葉は信用ならない』
「じゃあ眠くなるまで、なにか面白い話でもしてくれる?」
『面白い話…んー』
「うん。小さな子供を寝かしつける時、昔話とかするでしょ?」
沖田のその言葉で、鶴姫は小さい頃父親によく昔話を聞かせてもらったことを思い出す。
『総司は子供の頃、誰かに昔話をしてもらったことがあるの?』
「あるよ、毎晩ではなかったけどね。試衛館に来たばかりの頃はしょっちゅう近藤さんが来てくれて、良く面白い話をしてくれた。いつも三国志とか水滸伝ばっかりで、最後の方は筋書きを全部覚えちゃったくらいだったけど」
『……想像できてしまう』
「誰に対しても優しくて、強くて、すごく努力家で……ずっと近藤さんのあとを着いていきたいって、そう思ってた」
『そんなに尊敬できる人と出会えた総司は幸せだね』
「……まあ、近藤さんと出会ってなければ今以上にひねくれたどうしようも無い人間に育ってたのは確かだろうね」
『そう意味ではなく……』
「わかってるよ。でも、僕、こういう性格だし。で、続きは?どうして僕を幸せものだと思うの?」
『……最初に皆と出会った時、私は内心自分の不運を呪った。』
「……だろうね」
『でも、皆のことを知っていくにつれて、今まで知らなかった新選組のことを沢山のことを知ることができた』
「その【知ったこと】って、いいことばかりじゃなかったでしょ?君のお父さんが人を化け物に変える薬の研究を手助けしてたなんて、知らない方が良かったと思うんだけど」
『そんなことはないよ。確かに驚きはしたけれど、父が犯した罪ならば娘の私が見て見ぬふりをするべきではないと思うの。痛みや辛さからしか学べないことも、きっと多いと思うから』
「……君って前向きだよね。もし君が子供の頃の僕と同じように育ったとしてもきっと僕みたいにはならないんだろうな」
『?』
褒められているのか呆れられているのかよく分からなかった。
「世の中にはさ、人の悪いとか醜い感情とかと全然縁がない人がいるんだよね。そういう人は誰からも酷く恨まれたり憎まれたりしない……そういうところ、近藤さんに少し似てるかも」
『そう?』
「あれ、どうしたの?顔が赤いけど」
『あっ、い、いやっ!その、総司にとって近藤さんはとても大きな存在なのに、その近藤さんに似てるなんて凄く勿体ない言葉だと思ったの』
すると沖田はクスッと笑った。
「……君って変わった女の子だよね。近藤さんに似てるって言われて照れるなんてさ」
『それを言えば、女に近藤さんに似てるという総司もすごく変わり者』
「何にしても、人との巡り合わせって不思議だよね。もし君が今ここにいてくれなかったら、僕、とっくに死んでたかもしれないし」
『総司……』
沖田にとって近藤はとても大きな存在だ。
そんな彼を失った今、もしかしたら死んでいたかもしれないという沖田の言葉は決して大袈裟なものでは無いはず。
鶴姫は自分がこうして沖田の傍にいられて本当によかったと、そう考えていた。
「ねえ、鶴姫ちゃん。正直いってまだ、近藤さんが居ない世の中で生きていくのには慣れてないんだけど、それでもまだ僕には戦う理由が残ってる。だから……大丈夫だよ。君が思うほど、僕は弱くないから」
『…………』
この言葉はきっと沖田の本心。
沖田のことを信じていない訳では無いが、それでもまだ沖田は本当の痛みを隠しているのではないかと思ってしまう。
彼がとても強いからこそ。
「楽のことも気になるし、鶴姫ちゃんの故郷にたどり着くにはもうしばらくかかる。安心して。君には僕がついてるから」
沖田は鶴姫の手を取って宥めるように囁いた。
「平気だよ。二人ならきっと、乗り越えられる……ね?」
『総司……』
握られた手を鶴姫はそっと握り返し、両手で包み込んで深く頷いた。
『二人で……乗り越えていこう』
沖田と二人で前に進もう。
沖田が手を引いてくれるなら、きっとどこまでも行けるはず。
どんなに辛い戦いにも打ち勝てるに違いない。
そしてらその先にはきっと私たちが望む未来もあるはずだ。
夕闇に染る風景の中、鶴姫は強く信じたのだった。
To be continued
その後、江戸を出た鶴姫たちは土方の足取りをおった。
新選組は伝習隊と合流し、日光を目指しているらしい。
伝習隊は旧幕府軍の精鋭を集めた隊で洋式化された部隊だということだ。
鶴姫と沖田は陽射しを浴びぬよう、昼間は深い森の奥で眠りについた。
「……もうすぐ夜が明ける、か。今日はこの辺にしておいた方が良さそうだね」
『うん……』
「ちょっとまってて。眠るのにちょうど良さそうな場所を探してくる」
『あ……』
「どうしたの?」
『…………なんでもない』
「そう?それならいいけど、それじゃ、いい子で留守番してるんだよ」
沖田はそう言い残し、休む場所を探しに行ってしまう。
さっきは言わなかったが、沖田が今腰に指している刀はそれまでに使っていた物ではなく、以前近藤に託されたという、あの山城守藤原国清だった。
あの刀を携えて土方の元に向かうということは、きっと何か深い意味がある。
『万が一があった時、私は総司を止められるのかな』
そんなことん思いながら、ふと鶴姫は白み始めた夜空に浮かぶ月を見上げた。
この後、二人は森の中で休息を取っていたが。
「──向こうへ行ったぞ!逃がすな!」
兵の叫び声と共に呼子の音が鳴り響く。
『総司!』
まだ日が高い頃、二人は新政府軍に見つけられてしまった。
木陰から離れた瞬間、身体が酷く重く感じられた。
「逃げ切るのは無理か。迎え撃つしか無さそうだね」
沖田はそう呟いたあと、腰の刀を引き抜いた。
『総司……』
彼の身体を蝕む病は治っていないはず。
そんな状況で羅刹になるなど、自殺行為とさして変わらなかった。
「大丈夫だよ。あの程度の相手なら、すぐに片付けてみせるから。君は木陰にでも隠れてて。いいって言うまで。出てきちゃダメだよ」
『いえ……』
今までの鶴姫なら、きっと沖田の言葉に頷いていた。
だが今は。
『今日は私も戦う』
そう告げて森の中では不利な太刀ではなく、脇差を構えた。
「戦うって……君が?」
『近頃は滅多に前に出ることはなかったけれど、これでも貴方と共に巡察にでていた。それに道場の跡取り息子としても育てられた。それくらいの力量はまだ残ってる。二人で戦えばそれだけ戦いが早く終わる……もう総司にだけ苦しい思いをさせたくない』
風間たちを追い払ったあの時、今まで感じたことがない力が身体の奥から溢れ出てきたのを覚えている。
あの力をもう一度使うことが出来れば。
「まったくもう……どうなっても知らないよ?」
沖田が半ば呆れるように言った瞬間、先程よりも近いところから呼子の笛の音が聞こえてきた。
「いたぞ!こっちだ!」
二人は瞬く間に新政府軍の小隊に取り囲まれる。
「早く片付けるに越したことないよね。こんなところで足止めを食う訳には行かないし」
『ええ』
「それじゃ──行こうか、鶴姫ちゃん!」
沖田に頷き返し鶴姫はとびだした。
「──撃て!」
一人の兵が叫んだ刹那、銃口が二人に向けられるが、沖田は即座に敵兵との間合いを詰めた。
そして人の業とは思えぬほどの剣技で、敵兵を一瞬のうちに斬り伏せる。
「おのれ、仲間を──!」
『ごめんなさい。あなた達も私たちの仲間を大勢殺してきたの』
鶴姫もそうやって一人、またひとりと斬っていく。
人を斬ることは初めてではなかった。
それでも、やはりいい気分にはならなかった。
仲間の兵は沖田を撃ち殺そうとするが、沖田は地を大きく蹴り、次の瞬間には敵兵の間合いの中へと飛び込む。
そして陽光の下、鮮血の華がいくつも爆ぜた。
「あはははっ──、相手にならないね!」
見ているだけで身震いするほどの、凄まじい剣技だった。
驚くべき正確さで敵の弱点を見抜き、瞬時に葬り去っていく。
「ひ、ひるむな!撃て!」
隊長らしき人が号令をかけると一斉に銃声がこだまする。
その時。
『っ……!』
解き放たれた銃弾の一つが鶴姫の足へと食いこんだ。
「鶴姫ちゃん!」
『……く、あ……!』
あまりの痛みに膝を着く。
溢れた血が太腿に血痕を残す。
しかし、次の瞬間にはその傷は塞がっていた。
『……なーんて』
ザシュッ
「ぐあああああー!」
『大丈夫。これくらいの傷、すぐ治るから』
沖田に心配をかけたくない。
ただその一心で地を蹴り、次の敵との間合いを詰めていく。
鶴姫の脇差は銃を構えた敵兵の腕を正確に貫く。
彼の手にあった洋銃が地面へと落ちた。
沖田がすぐさまその銃を遠くへと蹴り飛ばす。
しかし、近くにい並ぶ敵兵が鶴姫へと銃口を向ける。
「よそ見してる余裕なんてあるわけ?あんたたちの相手は僕なんだけど」
沖田が敵兵の注意を引き付けながら一人、またひとりと斬り伏せていく。
敵も銃で応戦するが、それでもこの間合いならば、沖田の剣の方が数段早い。
手近にいる兵を全て斬り捨てた後、沖田は言った。
「鶴姫ちゃん、あんまり前に出過ぎないで。足でまといってほどじゃないけど、心配になるから」
『分かった』
「君は人を斬ったりなんてしなくていい。いくら経験があるからといっても、自分の身を守ることだけ考えて。いいね?」
『…………』
たとえこの身が血にまみれたとしても、鶴姫は沖田と共に戦いたかった。
「……返事は?」
『……はい。わかりました』
鶴姫は沖田の言葉に頷いたとき。
「貴様らが話に聞いた新選組の羅刹か、ならば──」
敵軍の隊長が素早く弾を込めるのが見えた。
『総司!』
そう叫んだ瞬間だった。
どこからか飛んできた苦無が敵兵の身体へと突き刺さる。
「おふたり共、ご無事でしたか」
「山崎くん……君、生きてたんだ?甲府の戦いの時以来姿が見えなかったから、てっきり死んじゃったのかと思ってたのに」
「何者だ!貴様も、新選組の者か!?」
「殿は、俺が務めます。お二人共、どうかご無事で」
「鶴姫ちゃん、こっちへ」
短く言った後、沖田は山道を走り出した。
鶴姫もすぐに沖田の後に続く。
「──逃がすな、撃て!」
号令に応え、敵方の銃が一斉に火を噴くが幸いにして居並ぶ木々が其の弾を阻んでくれる。
「どこを見ている!お前たちの相手はこの俺だ!」
山崎は木々の間を飛び移りながら苦無で敵を仕留めるが銃弾を浴び呻き声をあげた。
そのうめき声に鶴姫は思わず立ち止まった。
「足を……止めないでください!そのまま走って!」
その言葉に押されるように鶴姫は再び走り出した。
そしていつしか日は傾き、西の空が茜色に染まり始める。
「とりあえず、何とか逃げおおせたかな……」
近くに敵の気配は感じられない。
「……にしても、この怪我で走り続けるなんてね。山崎くん、変若水も飲んでないのに、無茶しすぎじゃない?」
「俺は……、こんなところで死ぬ訳にはいきませんから……」
『山崎さん、傷を見せてください。応急手当します』
改めて山崎の傷の具合を調べる。
不幸中の幸いと言うべきか、弾が体内に留まっているわけではなさそうだが、それでも脇腹を撃ち抜かれてしまっている。
そのため、急いで手当をしなくてはならない。
しかしここには満足な医療器具はない。
本当に簡単な手当しかできなかった。
「どうして山崎くんがここにいるの?僕たちが敵に取り囲まれている時にちょうど駆けつけるなんて、いくら何でも間が良すぎない?」
すると山崎は言葉を選んでいる様子で間を置いてから答える。
「甲府城付近であなた方と別れたあと、俺は新選組の本陣に合流しました。ここ数日は新政府側の動向を探るため、本隊を離れていたのですが……」
『ではその時に偶然私たちと?』
その言葉に山崎は表情を曇らせる。
「君たちを見つけたのは数日前だ」
『じゃあどうして今まで……』
「声をかけることが出来なかったんだ。……局長のことは聞いているな?」
「なるほど。僕を土方さんに会わせたくなかったってこと?……僕が、あの人を殺しちゃうかもしれないから」
沖田の言葉を山崎は肯定も否定もしない。
しかし沖田はさして気にしてはいない様子で続けた。
「僕としたことが、迂闊だなあ。何日も君に見張られていたのに、気づかなかったなんて」
「……それだけ、疲れが溜まっておられるということでしょう」
「それは否定しないけどさ。ま、君がいなかったら僕たち、とっくに殺されてただろうし。そのことに関しては、お礼を言ってあげてもいいかな。……ありがとう」
「……」
「どうしたの?」
「いえ……まさか沖田さんの口からそのような言葉を聞くことになるとは思わなかったもので……」
「失礼なことを言ってくれるなあ。じやあ、さっきのは撤回するよ」
少しの間、山崎は慎重な口ぶりで尋ねる。
「……もし副長に会えたら、あなたはどうするおつもりですか?」
「まだ決めてないよ。……実際のところ、僕もまだ分からないんだ。あの人を斬っちゃうかもしれないし、逆に、僕の方が斬られるかもしれない」
「……新選組は、近藤局長と土方副長のお二人で作り上げたもの……、言わばお二人の夢そのものです」
「知ってるよ」
「近藤局長は!何があっても決して、副長を死なせたいとは思っておられないはずです」
「…………うん、それも知ってる」
山崎は少しの間、沖田の瞳をのぞきこんで、そこに宿る光の正体を確かめようとしている様子だった。
「新選組の皆は今、宇都宮城にいます」
そう告げたあと、山崎は瞬きすらせず沖田を見つめ返した。
「あの人を……、土方副長を頼みます」
振り絞るような声で紡がれたその願いを、沖田は無言のまま受け止めている。
『山崎さんは……?』
「俺は、ここで休んでいく。……少し喋りすぎた」
『山崎さん──』
「……鶴姫ちゃん、行こう」
『……』
「いいから、行くよ。山崎くん、今までずっと働き詰めだったんだし、少し休ませてあげなきゃ」
沖田はそう言ったあと、独特の親しみを込めた瞳で山崎を見やる。
「……土方副長に、お伝えください。【少し遅れますが、必ず合流します】と」
山崎の伝言を受け、鶴姫たちは黄昏の山道を再び歩き始めた。
その最中、もう二度と、山崎に会うことは出来ないと、鶴姫は気づいていた。
山崎と別れたあと、鶴姫たちは一路宇都宮城を目指す。
「……敵の気配が無くなったから、ここからは早く進めそうだね」
『…………』
昼間のような戦いをしなくて済むというのは有難かった。
「どうしたの?立ち止まって。……行くよ」
『総司……』
もし宇都宮城に着いてしまったら、沖田はどうするつもりなのか。
土方に再会した後、どうなるかは沖田にも分からないようだ。
場合によっては、どちらかが死んでしまうことだって考えられる。
『……どうしても行くの?』
「今更その質問?ここで江戸に戻ったら、何のためにここまで来たのか分からないじゃない」
『だけど……』
「まあ、どうしても行きたくないんなら、ここで待っててくれてもいいからね」
ここに置き去りにされるのはもちろん嫌だ。
『総司……』
「ん、何?」
『土方さんを、殺さないで』
その言葉で沖田の瞳がにわかに鋭さを増す。
「僕はできない約束はしないことにしてるんだ」
『でも……山崎さんが言っていたように、近藤さんは土方さんを死なせることなんて望んでいないはず。その人を殺してしまって……総司は本当に平気なの?』
鶴姫にはどうしてもそうは思えなかった。
鶴姫が新選組に身を置くことになってからというもの、沖田から【斬る】【殺す】と言った言葉を浴びせられたのは、一度や二度ではない。
しかし、新選組の敵を殺すのと、土方を斬るのでは沖田にとっても、意味合いが全く違うのではないか。
『私は……もうこれ以上、総司に辛い思いをしてほしくない』
「鶴姫ちゃん……」
鶴姫の言葉が予想外だったのか沖田は少し戸惑いながら鶴姫を見つめ返した。
「……これから殺されるかもしれない土方さんじゃなくて、僕の心配をしてくれるんだ?さすがにそれは土方さんに同情しちゃうなあ」
『そういう意味じゃ……。私は……』
「……分かってるよ。でも、僕はあの人に会わなきゃいけない。……それは、分かってくれるよね?」
沖田自身、己の心にある望みを掴みかねているのだろう。
会えばどうなるかなど予想できないから、殺さないとは約束しないのだ。
どうしても不安は拭えなかったが、それでもどうしてもそうしなければならない沖田の気持ちは鶴姫には分かった。
『……分かった』
沖田の言葉に鶴姫は頷くしか無かった。
一時の沈黙が流れた、その直後。
沖田が不意に身を強ばらせた。
「ぐ、うっ……!あ……!」
その髪が白く染まり、瞳が赤く輝き始める。
『総司!』
また発作が起きてしまった。
いや、むしろ今までの発作より明らかに苦しそうな表情を浮かべている。
鶴姫は脇差を引き抜いて、自分の唇を傷つけた。
『総司、私の血。飲んで……』
鶴姫が差し出した唇に沖田は顔を近付ける。
赤い瞳には安堵の色が浮かんでいた。、溢れ出る赤い血を舐め取りながら、彼は囁くような小声で言う。
「…………ありがとう。君がいてくれるから……、僕はまだ、僕のままでいられる……」
『総司……』
胸中に微かに残っていた迷いを沖田の一言が消してくれる。
自分の血を与えることで沖田は正気を保つことが出来る。
沖田が自分の血を必要としてくれている。
鶴姫はただそれだけで救われる気がした。
沖田の発作が治まるのを確かめて二人は再び宇都宮城を目指そうとする。
「……待って、鶴姫ちゃん」
不意に沖田に呼び止められる。
『どうしたの?』
そう問い返した時、地を揺るがすような砲撃の音がこだました。
『なに?今の音。もしかして』
沖田はそれには答えずにそのまま小高い丘の上を目指して走り出した。
鶴姫も急いで後を追い、そして丘から見たものは敵兵に取り囲まれ火の手が上がる宇都宮城だった。
大砲の音が響きわたり、兵たちの号令や叫び声がこだまする。
旧幕府軍は懸命の抵抗を続けるが、押されているのははっきりと分かった。
「……城を取り囲まれているみたいだね。これじゃ、僕たちも近付けそうにないか」
沖田は悔しげに言い捨てた後、丘を降りた。
『これからどうするつもりなの?』
「多分、土方さんたちは撤退するだろうから、逃げ道を予想して周り込もう」
『分かった。でも無理はしないように進むからね』
鶴姫がそう頷き返した時、山道の向こうから大勢の人の靴音が聞こえてくる。
「鶴姫ちゃん、こっちへ」
鶴姫は沖田に手を引かれ茂みの中へ身を隠す。
筒袖を纏った大勢の兵が、二人のすぐ近くを歩きすぎていく。
沖田と鶴姫は息を殺し、彼らが通り過ぎるのを待った。
幸いにして彼らに見咎められることはなく、靴音が遠ざかっていく。
「……行ったみたいだね。やれやれ、見つかると思ったよ。土方さんたちがいないんなら長居は無用だし、さっさと退散しようか」
『うん。ここに誰も来ないとは限らないし』
そう答えた時だった。不意に強い眩暈に襲われる。
頭の芯を締め付けられるような頭痛と得体の知れない吐き気も襲ってきた。
『うっ……』
「鶴姫ちゃん?」
『だ、だいじょう……ぶ……』
ふらついて倒れそうになる鶴姫の身体を沖田の腕が支える。
「全然大丈夫じゃないじゃない。一体どうしたの?もしかして……」
鶴姫は小さく頭を振った。
『……血が欲しいわけじゃないの。多分私の身体が変若水の毒を退けようとしてるんだと思う』
「そっか……」
『っ……!』
再び身体が軋むような痛みが鶴姫を襲う。
短い髪が本来の姿になるために伸び、角も生え、額に赤い印が現れる。
声が出ないように唇を噛み締めて痛みをやりすごし、鶴姫は沖田にほほ笑みかける。
『……ほら、大丈夫』
この程度の痛み、沖田が今まで我慢してきた衝動に比べれば取るに足らないもの。
この程度で弱音を吐いてはいられない。
『ちゃんと歩けるよ。心配かけてごめんなさい』
「……そっか、強いね、君は。ん、……けほっ、こほっ」
『総司?』
「……大丈夫。ちょっと咳き込んだだけだから。とっくに起き上がれなくなっててもおかしくない身体を、羅刹の力で無理矢理動かしてるようなものだから……お互い、もうボロボロだね」
『総司、少し休んだ方が』
そう言いかけた鶴姫の言葉を沖田は遮る。
「君が大丈夫なら、もう行くよ……この機会を逃すと、また土方さんを見失いそうだから」
『……大丈夫。先を急ぎましょ』
「……苦しくなったら、いつでも言って」
優しく告げた後、沖田は鶴姫の手を取って歩き始める。
「けほっ……こほっ」
時折、沖田が嫌な咳をすることはあった。
それでも互いに支え合うようにして道無き道を進んでいく。
ふと、会話が途切れた時。
『総司』
「ん、何?」
『もし、土方さんに会えたら総司はどうするの?まだ決めてない?』
不躾な質問だとは思ったが、沖田は機嫌を損ねる様子もなく優しい表情で答えた。
「僕が近藤さんが初めて会ったのはね、まだ、数えで九つのときだったんだ」
唐突な言葉に、鶴姫は若干戸惑った。
けれど、沖田は胸の内に抱えているものを少しづつ明かしてくれる。
「父上も母上も早くに亡くなって、姉上もお嫁に行くことになって僕の面倒を見たがる人なんて誰もいなかったから内弟子として試衛館に預けられたんだ──捨てられた、って思ったよ。姉上も義兄上も、僕なんて要らなかったんだろうって」
『…………』
沖田のせせら笑うような独白に胸が潰れそうになる。
「……剣術道場って、身体が大きくて気が荒い人ばかりでさ。一番年下で身体が小さかった僕はいつまでたっても下っ端扱いでしょっちゅう嫌がらせや折檻をされてた。そんな中……唯一優しくしてくれたのが、近藤さんだったんだ。」
「姉上に捨てられて、世の中に味方なんて誰もいないって拗ねてた僕に
世の中に意味の無いことなんてない、僕がこんなに運命を辿ることになったのも、
きっと意味があるはずだって言ってくれて何も出来ないって思い込んでた僕に、
剣に生きる道を教えてくれた。
僕……近藤さんに出会えたから、生まれ変われたんだ。
それからしばらくして土方さんが試衛館に出入りするようになってさ。
最初の頃は……って言うか今もだけど、あの人のこと、大嫌いだったよ。
お金持ちの農家のお坊ちゃんで、食べるのに困ったことなんてほとんどなさそうで……
なのに近藤さんは、土方さんのことがだいのお気に入りでさ。
土方さんに【あんたは大名になれる】って言われるたび、嬉しそうな顔になって
近藤さん、土方さんと話す時は目の色が全然違うんだ。」
話し終えた後、沖田は照れくさそうに夜空に瞬く星々を仰いだ。
『総司……』
沖田が抱いている思いが、少しだけ理解出来た気がした。
近藤と過ごした大切な思い出の中には土方の姿もあるに違いない。
土方にきつく当たることもあったが、悪いだけが向いている訳では無いだろう。
『わかった気がする』
沖田にとって土方もまた【特別】なのである。
近藤に及ばなくとも、思いを向ける方向が異なるとしても。
『急いで、土方さんに会いに行こう。またすれ違ってしまわないうちに』
「……君は、僕を止めるつもりでついてきたんじゃないの?」
『正直にいうと、さっきまでは少し悩んでた。でも……今の総司なら大丈夫だと思ったから』
近藤のことを誰よりも大切に思っていて。
近藤が土方にどんな思いを抱いていたのかもよく分かっていて。
重ねてきた彼らとの思い出をあんなに優しい表情で語れる沖田ならば。
『……信じてるから』
「…………」
沖田は驚いたような眼差しでしばらく鶴姫を見つめていた。
だが少しすると不意に鶴姫の腕を掴み自分の方へと引き寄せた。
『総司?』
「……いきなり、ごめん」
戸惑いを含んだささやきが、耳元に触れる。
「どうしてか分からないけど……君を抱きしめたくてたまらない」
沖田の腕はまるで慈しむように鶴姫の身体を包み込んだ。
『…………』
声が出なくなって心臓がにわかに高まりを増す。
「さっきみたいに……誰かに気持ちを分かってもらえたのは、久しぶりな気がして」
震えた声音が、沖田の本音を一つ一つ明かしてくれる。
「切なくて、抑えきれないんだ。本当に、ごめん……」
ぎこちない手付きで抱きしめられた鶴姫は胸の奥から愛しさが込み上げてくる。
『総司……』
抱きしめる温もりが心地よくて、鶴姫は沖田の身体を抱き締め返し、沖田の腕に身を委ねた。
これ以上の幸せなどほかにないと、心の底から思った。
胸の鼓動が沖田に聞こえてしまわないか、真っ赤な顔を見られてしまわないか。
少しだけ心配だったが、そんな思いも心地よい体温に溶けて消えてしまう。
「……君って本当に、不思議な子だね」
腕に込められた力が、ほんの少しだけ強められる。
「いつの間にか、僕の心の中に入り込んできて今みたいに僕が一番欲しい言葉をくれるなんて」
その声音には、微かな照れが混じっていた。
『私、嬉しいよ?』
きっと他の人には明かさずに胸に秘めてきた思いを、語ってくれたこと。
そして、こうして優しく抱きしめてくれたことも。
きっとこの先、何があっても忘れることは無い。
いや、忘れることなんてできない。
そんな風に思いながら、鶴姫はこの上なく幸せな一時を噛み締めたのだった。
「初めて一緒の布団で寝た時も……寂しかった。切なかった。でも、君が僕のことを自分から抱きしめてくれたことが嬉しかった。なんでなんだろう。本当に不思議だ。鶴姫ちゃんのこと、離したらいけない気がするんだ」
『総司……』
やがて沖田は腕をとき、名残惜しそうに身体を離す。
「……それじゃ、行こうか」
『ええ』
二人はしばしの間、視線を交え、やがてどちらともなく歩き出す。
虫の声がこだまする中、沖田はぽつりと漏らした。
「僕はきっと、知りたいだけなんだ。土方さんが何を考えているのかを、ね」
その後、二人は土方の足跡を追って山道をひたすら歩き続けた。
そして、日光に差し掛かったところで、ようやく土方の姿を見つけだす。
「おまえら……こんなところまで来てたのか」
護衛と思しき人を遠ざけたあと、土方は鶴姫たちへと向き直る。
「僕たちが、なんのためにここに来たのかは分かってますよね?」
「……ああ。おまえがわざわざ追ってくる用事なんざ、他にねえだろ」
「土方さんは、もう聞いたんですか?近藤さんが……」
「……斬首されたってことだろ?とっくに知ってるよ」
土方の言葉に沖田は目を剥く。
「……へえ、知ってたんですか。知ってた癖に、土方さんは──何をしてたんですか!」
そして激情に揺さぶられるまま、沖田は土方の胸ぐらを掴む。
「どうして、しがみついてでも近藤さんを止めなかったんです!?助ける方法なんて、いくらでもあったはずでしょう!?他の誰にできなくても──土方さんならできたはずだ!」
「──できなかったんだよ!」
喉が張り裂けんばかりの声で土方は絶叫した。
その瞳は小刻みに震えていて、憤りと悔恨の色が滲んでいる。
「俺は助けたかった、助けようとしたんだよ!好き好んで近藤さんを見捨てた訳じゃねえ!試衛館にいた人間の中で、近藤さんを本物の侍にしてえって、一番思ってたのは誰だと思ってるんだ!」
沖田の、土方の襟元を掴む手が小刻みに震えている。
「それでも……近藤さんは死んじゃったじゃないですか」
瞳を震わせながら、沖田は一瞬、土方から視線を外す。
「総司……」
土方の胸ぐらを掴んでいた手が力無く垂れ下がる。
そして沖田は羅刹の腕力で土方さんを容赦なく殴り飛ばした。
「これで、勘弁してあげますよ……許すわけじゃないですけど」
土方はゆらりと立ち上がり、不機嫌な表情で口元を拭った。
「……前の僕なら、本当に土方さんを斬ってたかもしれませんけど、でも、今は……」
沖田の独白を、土方は弁解も反論もせずに受け止めていた。
「……敵に投降する前、近藤さんは俺に言ったんだ。【もう、楽にさせてくれないか】ってな。結局、俺がやってたことはただの自己満足で……あの人の本心なんざ、全然わかってなかったのかもしれねえな」
「本当ですよね。京なんて行かずに試衛館の道場主のままでいれば、近藤さんだって……酷い殺され方をして、首を晒されたりなんてしなかったはずなのに」
なじるような口調ではあったが、それでも土方ひとりだけを責める口調ではなかった。
「土方さんは、これからどうするんですか?」
「近藤さんに新選組を託されたんだ。今更、放り出す訳には行かねえよ。俺は隊士を連れて北を目指すが、お前らはどうするんだ?」
「僕は土方さんと一緒には行けません」
多分、沖田がこう答えるのは土方も予想出来ていたに違いない。
土方は諦めたような表情で薄く目を閉じる。
「……そうか」
二人の道は今ここで、分かたれてしまうけれど、二人の瞳に後悔の色は無い。
『あの……私の方からも土方さんにお伝えしなければならないことがあります。』
「なんだ?」
『私たち、山崎さんに会ったんです。その時、敵方の銃弾を受けてしまって……離れ離れになってしまいました。でも、【必ず合流する】と、土方さんにお伝えしてほしいと』
その言葉を聞いた土方の目元が、無念そうに歪む。
だが、込み上げてくるものを呑み込むように
「そうか……わざわざ伝えてくれて、ありがとうよ……総司のこと、頼んだぜ」
『はい。土方さんも、皆さんもどうかご無事で』
土方は優しく微笑んだあと、そのまま鶴姫たちに背を向けて歩き出す。
遠ざかっていく背中を見送りながら、沖田がぽつりと言った。
「……馬鹿だよね、土方さんは」
『……』
「近藤さんの本心を全然わかってなかったかもしれないとか、単なる自己満足だったのかもしれないとか言ってたけど……そんなはずないじゃない。ねえ?試衛館にいた人達はみんな、近藤さんのことが大好きだったけど、近藤さんは大名になれる人だって本気で言ってたのは土方さんと山南さんだけだったんだから」
『…………』
「僕が近藤さんに出会って生まれ変われたのと同じで…近藤さんも土方さんに出会ったことで生まれ変わったに決まってるよ……そのせいで罪人として処刑されるなんて、皮肉にも程があるけどさ」
静かに吹く夜風を吸い込んでから、沖田は鶴姫の方を振り返る。
「それじゃ、僕たちもそろそろ行こうか」
『行くってどこに……』
「あれ、進さんを探すため、鶴姫ちゃんの故郷に行くんじゃないの?もしかして、忘れちゃった?」
『いや、そんなことは──でも、いいの?』
「綱道さんは変若水の毒を消す方法を知ってるかもしれないんだよね?もちろん傍にいた進さんも知っている可能性がある」
『あ千はそう言ってたけど』
「……じゃあ僕も一緒に行くよ。変若水の毒に蝕まれて血に狂うなんて君には似合わないから。……僕は君を助けたいんだ。だから最後の最後まで諦めない」
沖田の優しげな微笑みが、何故か儚く見えて鶴姫の胸は不穏なざわめきを帯びた。
『私も総司のこと、助けたい』
『ん……』
鶴姫が目を覚ましたのは東の空から夕闇が近づいてくる頃だった。
軽く瞬きをする鶴姫の顔を覗き込んでいるのは。
「おはよう、鶴姫ちゃん。ちゃんと眠れた?」
『うん、眠れたけど、総司はどう?ゆっくり休めた?』
「うん、ぐっすり眠れたよ」
『嘘。見張り……してたでしょ?』
「ひどいなあ、決めつけなくてもいいのに」
『近頃少しずつだけど総司の本音がわかるようになってきたの』
「そうなの?便利だけど、ちょっとめんどくさくなりそうかなあ」
『面倒臭いってどうして?』
「いちいち怒らなくてもいいじゃない。ただの冗談なんだから」
『もう!ふざけないでよ。私は眠れたから、少し眠って。無理は禁物』
「無理してるつもりは無いんだけどなあ。自分の身体だし」
『総司のそういう言葉は信用ならない』
「じゃあ眠くなるまで、なにか面白い話でもしてくれる?」
『面白い話…んー』
「うん。小さな子供を寝かしつける時、昔話とかするでしょ?」
沖田のその言葉で、鶴姫は小さい頃父親によく昔話を聞かせてもらったことを思い出す。
『総司は子供の頃、誰かに昔話をしてもらったことがあるの?』
「あるよ、毎晩ではなかったけどね。試衛館に来たばかりの頃はしょっちゅう近藤さんが来てくれて、良く面白い話をしてくれた。いつも三国志とか水滸伝ばっかりで、最後の方は筋書きを全部覚えちゃったくらいだったけど」
『……想像できてしまう』
「誰に対しても優しくて、強くて、すごく努力家で……ずっと近藤さんのあとを着いていきたいって、そう思ってた」
『そんなに尊敬できる人と出会えた総司は幸せだね』
「……まあ、近藤さんと出会ってなければ今以上にひねくれたどうしようも無い人間に育ってたのは確かだろうね」
『そう意味ではなく……』
「わかってるよ。でも、僕、こういう性格だし。で、続きは?どうして僕を幸せものだと思うの?」
『……最初に皆と出会った時、私は内心自分の不運を呪った。』
「……だろうね」
『でも、皆のことを知っていくにつれて、今まで知らなかった新選組のことを沢山のことを知ることができた』
「その【知ったこと】って、いいことばかりじゃなかったでしょ?君のお父さんが人を化け物に変える薬の研究を手助けしてたなんて、知らない方が良かったと思うんだけど」
『そんなことはないよ。確かに驚きはしたけれど、父が犯した罪ならば娘の私が見て見ぬふりをするべきではないと思うの。痛みや辛さからしか学べないことも、きっと多いと思うから』
「……君って前向きだよね。もし君が子供の頃の僕と同じように育ったとしてもきっと僕みたいにはならないんだろうな」
『?』
褒められているのか呆れられているのかよく分からなかった。
「世の中にはさ、人の悪いとか醜い感情とかと全然縁がない人がいるんだよね。そういう人は誰からも酷く恨まれたり憎まれたりしない……そういうところ、近藤さんに少し似てるかも」
『そう?』
「あれ、どうしたの?顔が赤いけど」
『あっ、い、いやっ!その、総司にとって近藤さんはとても大きな存在なのに、その近藤さんに似てるなんて凄く勿体ない言葉だと思ったの』
すると沖田はクスッと笑った。
「……君って変わった女の子だよね。近藤さんに似てるって言われて照れるなんてさ」
『それを言えば、女に近藤さんに似てるという総司もすごく変わり者』
「何にしても、人との巡り合わせって不思議だよね。もし君が今ここにいてくれなかったら、僕、とっくに死んでたかもしれないし」
『総司……』
沖田にとって近藤はとても大きな存在だ。
そんな彼を失った今、もしかしたら死んでいたかもしれないという沖田の言葉は決して大袈裟なものでは無いはず。
鶴姫は自分がこうして沖田の傍にいられて本当によかったと、そう考えていた。
「ねえ、鶴姫ちゃん。正直いってまだ、近藤さんが居ない世の中で生きていくのには慣れてないんだけど、それでもまだ僕には戦う理由が残ってる。だから……大丈夫だよ。君が思うほど、僕は弱くないから」
『…………』
この言葉はきっと沖田の本心。
沖田のことを信じていない訳では無いが、それでもまだ沖田は本当の痛みを隠しているのではないかと思ってしまう。
彼がとても強いからこそ。
「楽のことも気になるし、鶴姫ちゃんの故郷にたどり着くにはもうしばらくかかる。安心して。君には僕がついてるから」
沖田は鶴姫の手を取って宥めるように囁いた。
「平気だよ。二人ならきっと、乗り越えられる……ね?」
『総司……』
握られた手を鶴姫はそっと握り返し、両手で包み込んで深く頷いた。
『二人で……乗り越えていこう』
沖田と二人で前に進もう。
沖田が手を引いてくれるなら、きっとどこまでも行けるはず。
どんなに辛い戦いにも打ち勝てるに違いない。
そしてらその先にはきっと私たちが望む未来もあるはずだ。
夕闇に染る風景の中、鶴姫は強く信じたのだった。
To be continued