入隊希望者とその親族関係の明記を。
あなたを守ること 沖田
入隊希望者名簿
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慶応四年一月
鳥羽伏見の戦いが薩長側の勝利で終わり、幕府軍が撤退すると共に新選組も江戸に向かうことになる。
四年前、父や兄を探すために一人で上ってきて新選組と出会った場所。
彼らと共に日々を過ごした京の町を後にする。
彼が──沖田が己の生き方に決心をし鶴姫は共に行く道を選んだのだ。
鶴姫たちは江戸の地を目指す。
この先の運命がどうなるか分からぬまま──。
初めて見る江戸の町、初めて耳にする江戸弁。
だがそれをじっくりと見聞きする暇もなかった。
沖田を起こさぬようそっと戸を開けて中の様子を伺う鶴姫。
鶴姫と沖田は松本が手配した小さな隠れ家にいる。
沖田は今もほとんど寝たきりの状態である。
傷はまだ痛むらしく、体を動かすのも辛いようだった。
あの時、銃で撃たれそうになった鶴姫を庇い、沖田はその身に銃弾を受けた。
もし沖田が羅刹となっていなければ、間違いなく絶命させられていたはず。
こうして一命を取り留めたのはまさに奇跡。
そのこと自体は喜ばしいことだが、気にかかることがひとつある。
「う……」
沖田の表情がふと苦しげなものに変わる。
「ぐっ……、うぅ……!」
『総司……』
沖田の額に浮かんだ汗を鶴姫は濡らした布でそっと拭う。
眠る前に渡した痛み止めが少しでも苦痛を和らげてくれていることを祈るばかり。
『…………』
しかしどうしてなのか。
いくら銃で撃たれたとはいっても羅刹となった沖田ならば、これくらいの傷などすぐ癒えてしまうはずなのに。
山南や藤堂も不思議がっていた。
震えている沖田の指先を鶴姫はそっと包み込むように両手で握りしめた。
『総司……』
ふと昔聞いた話を思い出す。
穐月一族の女鬼にはどんな病も傷も癒す治癒能力があると。
自分の命と引き換えに相手の身体を癒すと。
『そんなこと……出来るの…?』
すると沖田の瞼がうっすらと開いた。
『おはよう』
まだ眠りの中にある茫洋とした眼差しが鶴姫を捕らえる。
やがてその瞳に意思の光が宿った。
目が合うと何だか面映くなってしまいそうになる。
『身体の具合はどう?』
「……まあ、昨日よりは楽になったかな」
『無理してない?』
「信用ないなあ。」
『今まで散々聞いてきた言葉だからね』
鶴姫は困ったように言う。
沖田は自分の身体のことについてあまり外に出したがらないところがある。
「……もう、日は暮れちゃった?」
『ええ。起きてみる?』
「そうしようかな。寝たきりだと、身体も訛っちゃうしね」
傷に障らぬよう気をつけながら鶴姫は起き上がろうとする沖田を支える。
少しの沈黙の後、沖田は不意に視線を鶴姫に向ける。
「……そういえば鶴姫ちゃん、聞きたいことがあるんだけど、いい?」
『どうぞ』
「僕が目を覚ました時、鶴姫ちゃんが必ずそばにいるのはどうして?」
『……』
てっきり近藤や新選組の皆んなの事を聞かれるのだと思っていた。
こんな問いを向けられるとは思わず、鶴姫は答えに詰まってしまう。
けれど、沖田はどこか楽しげに鶴姫を見つめながら
「黙ってないで答えてよ。どうして?」
『…………迷惑?』
「別に、そんなことは言ってないけど。そんなに僕のことが心配なんだ?」
『総司が怪我をしたのは私のせいだから』
すると沖田はつまらなさそうに視線を外してしまう。
「君を庇ったから、ね。僕を看病してくれる理由はそれだけなんだ?」
『?』
何だか残念そうな口ぶりに聞こえたのは気のせいか。
沖田はそんな疑問を口にする暇さえ与えず
「まあ、それならそれでいいけどさ。……君、僕の看病にかまけて、ほとんど寝てないんじゃない?」
『……そんなないよ。きちんと休んでるよ』
「………本当に?」
『本当で。だって──』
そう言いかけた時、山崎が部屋に入ってくる。
「穐月君は連日寝る間を惜しんで沖田さんの看病をしています。少しは休息をとるよう、沖田さんからも言ってください」
『山崎さん……』
「だってさ。休みなよ、鶴姫ちゃん」
『……やはり自分の行動というのは人から見られてるものですね』
普段仲良しとは言えない二人はこういう時は妙に結託してくる。
「鶴姫ちゃんが悪いんだよ?いくら僕のことが気になるからって昼も夜もなく付きっきりなんてさ」
『…………』
「ほら、子供はさっさと寝なよ」
「沖田さんのことは俺が見張っている。君も少しは休んでくれ」
沖田の怪我の具合はもちろん気にかかるところではあるが、これ以上二人に心配をかけるのも心苦しい。
『……それでは少し休んできます。何かあったら声をかけてください』
そう言い残し部屋を出ようとしたその時だった。
沖田の身体が畳の上へと崩れ落ちる音がする。
鶴姫は慌てて駆け寄って沖田を助け起こすが、沖田は顔を苦痛に歪め荒い呼吸を繰り返すばかり。
『山崎さん!総司が……!』
「穐月君、ここを頼む。俺は松本先生を呼んでくる」
『分かりました』
鶴姫が答えるのを聞き届け、山崎は部屋を後にした。
『総司、しっかりして。すぐに松本先生が来てくれるから』
そう声をかけながら鶴姫は苦しげに息を継ぐ沖田の身体を布団へと横たえる。
「先生、どうだったのですか?沖田さんの容態は……」
「傷が開いたわけじゃないから、心配はいらんよ。大方、体力も戻っていないのに無理して起き上がったりしたんだろう。倒れたのはそのせいだ」
『すみません。私が起きますか?と聞いたからです』
そういった時、山崎が難しい顔で尋ねる。
「……松本先生。なぜ沖田さんの傷は今に至るまで言えないのでしょう?羅刹となった身ではあれば、たとえ銃でも傷を負わされても直ぐに塞がってしまうはずですが」
「……こうじゃないかと見当をつけてはいるが、あくまで私の想像に過ぎんぞ?」
「構いません。お聞かせください」
「……おまえさんたちも知っての通り、並の武器で羅刹の身体に傷をおわせることは出来ん。しかし沖田くんの傷は治っておらん。ということは……」
『沖田さんを撃った銃弾になにか仕掛けがある……そういうことですね』
「そういえば沖田さんを撃った弾は銀でできていたと聞いています」
「もしかすると、それが原因かもしれんな。羅刹にも弱点があったってことか」
『ではこれから沖田さんはどうなってしまうのでしょうか』
松本は沖田がいる部屋の方向を振り返りながら答える。
「……幸いにして、命に別状はない。沖田くんの体力を信じるしかないな」
『………』
「何とかしてやりたいが……私の医術はあくまでも人間用なんでな。綱道さんなら、もしかしたら羅刹の傷を癒す方法を知ってるかもしれんが」
そう聞いて鶴姫は一つの考えが脳裏に浮かぶ。
もしかしたら千鶴の家に羅刹に関する資料があるかもしれない。
元々幕府の密命で羅刹の研究をしていたのだから、研究資料がないはずはない。
『千鶴に家の場所を聞いたことがあります。明日にでも行って確かめてきます』
鶴姫はそう言って山崎の方を振り返る。
ずっと新選組に監視されていた身の上だが、沖田の身体に関わること。
山崎も土方もきっと反対しないはずと思った。
山崎は少し考える素振りを見せたが、同行することを申し出てきた。
山崎曰く沖田だけでなく鶴姫の警護も役目だという。
沖田のことは気になるが松本の勧めもあって明日の早朝に出ることになった。
翌日の朝には山崎と二人で雪村家を訪ねる鶴姫。
『ここですね』
四年も手入れされていない家は埃だらけだった。
それは同時に綱道が帰ってきていないことも意味している。
『あるとしたらこの辺りだと思います。』
「わかった。手分けして探すことにしよう」
その後、二人は目に付く書類を片っ端から確かめ羅刹に関する資料を探し出した。
やがて、とある書物に目をとめた山崎が愕然とした様子で漏らす。
「なんだと?羅刹の力の源は」
『何が書かれているのですか?』
「変若水は飲んだ者の肉体を活性化させ、野生の獣を凌駕する体力と比類な気治癒力をもたらす。だがその力の代償はその人間の命そのもの。羅刹の力を使えば使うほど、その者の寿命は削られていく。つまり」
『沖田さんの寿命が…』
「他にもまだいくつか資料がある。てわけして確かめることにしよう」
「羅刹に関する資料は、これで全部……だな」
『……はい』
羅刹に関することが記された資料に目を通してわかったことが幾つかある。
まず羅刹と化した者は比類なき強さを手に入れるということ。
二つ目は、強さを手に入れた代償は肉体への多大な負担。
三つめがその歪みが羅刹を血に狂わせる吸血衝動を生んでしまうこと。
「吸血衝動が出てしまうと、次第に変若水の毒が体を蝕んでいく。血を飲まなくては正気を保てなくなり、やがては獣のようになり狂い死ぬ……か」
『…………吸血衝動を抑える薬の調合の仕方がここに書いてあります。発作を抑えることが出来れば、沖田さんもだいぶ楽になるのでは無いでしょうか』
「しかし……調合できるのか?」
『見たところ用意しなくてはならない材料がいくつかありますけど、山崎さん手伝ってくださいますか?』
「わかった。なんでも言ってくれ」
二人はそのあと、綱道の走り書き通りに薬を調合し吸血衝動を抑える薬をつくりだした。
だが、結局沖田の傷を治す方法は分からないままだった。
薬の調合を終えて家を出る頃には日は既に沈みかけていた。
『すっかり遅くなってしまいましたね』
「日が沈む前に戻らなくてはな。急ぐぞ」
山崎に急かされ、歩き出そうとした時だった。
横合いから人影のようなものが飛び出してきて、うめき声とともに山崎がなぎ倒される。
倒れた山崎に慌てて駆け寄ろうとしたが、鶴姫は近くに人の気配を感じ足を止める。
夕日が落とした影のせいではっきりと顔を確かめることは出来なかったが、この顔だけは絶対に忘れない。
『楽……どうしてここに?』
「どうしてって?決まってるじゃないか。可愛い妹の顔を見に来たんだよ」
腰の脇差に手をかけ、鶴姫は楽を──自分に似た顔をしている兄を睨みつけた。
「なんだ、そんな怖い顔で睨まなくてもいいだろう。そんなヤツ、殺しても良かったんだぞ?殴って気を失わせるだけで済ませてやったんだ。ところで沖田の様子はどうだ?……そろそろ死んだか?」
『喋るな!』
楽の嘲るような言葉に独りでに声が荒くなった。
「怒らなくてもいいじゃないか。ただの冗談なんだから。羅刹になったアイツが簡単に死ぬはずないさ。……死にたいくらい苦しい思いをしてるんだろうけど」
『冗談でも言っていいことと悪いことくらいある……!』
この場で怒りを露わにしても楽を喜ばせるだけだった。
それでも、平静ではいられない。
「……沖田もいつまで正気を保っていられるんだろうな。そのうち血を求めて江戸の人間を見境なく斬り殺すようになったりしてね」
『総司はそんな風にはならないし、そんなことさせない』
「おまえらがここに来た理由は察しがつく。大方、吸血衝動を抑える方法がないか綱道殿の資料を漁りにきたんだろ?」
『答える義理はない』
「お生憎様だな。あの薬はほんの短い時間しか効果はないし、酷い発作は抑えられないんだ。まさに無駄足ってやつだ。あははははは!」
鶴姫は全身から血の気が引いた。
もちろん気休めに過ぎないということはよく分かっている。
「……いい顔だな。お前のその顔が見たかったんだ。沖田のこと、好きなんでだろう?どうしても、あいつを治してやりたい?」
酷薄な笑みを浮かべながら楽は不意に間合いを詰めてくる。
「あいつを助ける方法、教えてやろうか?」
『……!?』
不意をつかれ、思わず目を見開く。
変若水の時のこともある。また罠である可能性もある。
鶴姫を騙して楽しむつもりなのかもしれない。
それでも楽の言葉に抗い難く、鶴姫は次に続く一言を待った。
やがて楽はおもむろに唇をうごめかせる。
「鬼の血を与えればいいんだ。人間を遥かに凌駕する力を持ち、傷が一瞬のうちに治るー羅刹って、俺たち鬼の一族に似てると思わないか?まがい物の羅刹共に、俺たち本物の鬼の血を分けてやればもしかしたら変若水の毒が身体から消えるかもしれない。あいつを助けてやれるかもな?……特にお前は全国の鬼の中でも治癒能力に特化した鬼だからな」
『あっ、待て!』
鶴姫は楽を呼び止めようとするが、彼はそのまま夕闇に溶けるように姿を消した。
自分の血を沖田に飲ませれば変若水の毒を消すことが出来るかもしれない。
楽のことだ。鶴姫の動揺を誘うために言っているのだろうと考えられる。
しかし、万が一今の言葉が本当だとしたら。
「う……」
その時倒れていた山崎がうめき声とともに身を起こす。
『山崎さん、大丈夫ですか?』
「……俺のことはいい。それより、何があったのか説明してくれ」
『分かりました』
鶴姫は、兄である穐月楽と何度か対面していることや今回のことを話した。
話を聞いた山崎はひとまず沖田や松本がいる隠れ家に戻ることを提示。
二人は日が沈むなか急ぎ足で千駄ヶ谷へと戻った。
しかしその間も楽
からかけられた言葉が脳裏にこびりついて離れない。
隠れ家に戻ってきた二人は早速先程起きた出来事を松本に告げる。
山崎は楽が沖田を羅刹に変えた張本人であることを指摘、それに続いて松本は前例がないことをあげた。
「効き目がないだけで済めばいいが、もしかしたら毒となることだって十分に考えられるんだぞ」
『……』
「ひとまず、薬は調合できたんだろう?なら、当分はそれで凌ぐしかないんじゃないか?」
『ですが、いずれ免疫ができて効き目も薄くなります。このままでは……』
「わかってる。しかし酷な話だな。労咳にかかっただけじゃなく、羅刹となったせいで残りの寿命をますます削る羽目になるなんて、因果な話もあったもんだ」
『…………』
「もう少しここにいてやりたいが、私もそろそろ戻らんとな」
『はい。今日は遅くまで本当にありがとうございました』
「いや。くれぐれも無茶はせんよう、沖田くんによく言い聞かせておいてくれ。君も疲れているだろう?今日は早めに休むんだぞ」
『はい。わかりました』
松本は山崎に送られ玄関へと歩いていく。
早めに休むよう言われたものの眠れる気はしなかった。
羅刹の力の源は人間の寿命だと、綱道が残した資料には書かれていた。
しかし、いつ書かれたものか分からないし、もしかしたら最新の治療法が今は見つかっているのかもしれない。
そうじゃなくても、沖田は今己の命を削りながら懸命に傷を癒している最中のはず。
『一目だけでも、様子を見てこよう』
音を立てないように気をつけながら鶴姫は襖をそっと引き開ける。
『……総司?』
奥にしかれている布団に何故か沖田の姿がない。
一体どこに行ってしまったのだと思ったその時。
「……おかえり、鶴姫ちゃん」
開けた襖の傍から声をかけられる。
『何してるの……』
「だって、寝てるだけなんて退屈だし」
沖田はいつもの軽い調子でそう答えた。
『もしかして、廊下で私たちが話していたこと……』
「自分のことについてこそこそ話してたら誰でも気になるでしょ、普通」
『…………』
沖田の態度はいつもと全く変わらない。
「……まあ、あの時変若水を飲んでなかったら、どっちにせよ死んでただろうしね。布団の上で血を吐きながら死ぬのと、こうして刀を取る事ができるようになったのとどっちがマシかって言えば、答えなんて分かりきってるし」
全てをありのままに受け入れているようなその瞳があまりに穏やかで、鶴姫はかける言葉を見つけられなかった。
「……でも、不思議な話だよね。病気でも何でもなかった源さんが鳥羽伏見の戦いで死んじゃったのに、労咳にかかってる上、変若水まで飲んだ僕がこうして生きてるなんて。運がいいのか悪いのか、分からないな」
『総司……』
胸の奥が激しく軋んだ。
滅びゆく定めを理解しながら、世の無情さも許してしまえる。
鶴姫は沖田のそんな所に惹かれていたのかもしれない。
『諦めないで。総司はまだ生きているんだから』
たとえ沖田が既に近い将来の死を受け入れてしまっているとしても、それでも鶴姫は沖田に死んでほしくなかった。
「当たり前じゃない。僕にはまだしなきゃならないことがあるんだから」
顔色は相変わらず良くないが、それでも沖田の瞳には力強い光が宿っている。
『安心した』
沖田のたった一言で嬉しくて頬が緩んでしまう。
先が見えない状況ではあるが、それでも沖田はまだ生きることを諦めていない。
『総司。そろそろ布団に戻って休もう。身体に障るから』
「はいはい、わかってるよ。君って本当、うるさいんだから……」
沖田がそう言いかけた矢先
「うっ……」
沖田は苦しげに顔をゆがめ畳に膝をつく。
『総司!?』
鶴姫は崩れそうになる沖田の身体を慌てて支えた。
『どうしたの?傷が痛むの??』
けれど沖田は苦しげに呻きながら首を左右に振るばかり。
「ぐ、うっ……う……!」
そして次の瞬間には沖田の髪から一気に色が抜け瞳が真紅へと変じる。
『羅刹化……』
今まで沖田が傷の痛みを訴えたことは何度もあった。
しかしこんな風に己の意志以外で羅刹化したことはなかったはずだ。
「ぐっ……!平気だよ……。すぐに、治まる……から……」
沖田の口振りは、まるで今までに何度もこの苦しみを経験しているかのようだ。
『総司、まさか……血が欲しいの?』
その言葉に沖田は目を剥く。
「──欲しくなんかない!」
その剣幕が何より明瞭に彼の本心を物語っている。
「……僕は嫌だ。嫌なんだよ。血なんて要らない。狂いたくない……!」
その瞳には明らかな狂気の色が見えていた。
血に狂う羅刹の姿は鶴姫も沖田も今まで幾度となく目にしている。
『こんなに苦しんでいるのに……』
「もし、理性を失ったら……自分を保てなくなったら、近藤さんの役に立てなくなる……」
『…………だからずっと耐えていたの?私が総司の刀を握った時も?』
たった一人で、誰にも言わず。
まともに息もできないほどの苦痛に耐え続けていたのだろうか。
「平気だよ、我慢出来る。僕は近藤さんの弟弟子なんだから……こんなものに負けるほど、弱くない……」
このまま自らの精神力のみで発作をやり過ごそうというのだろうか。
『平気そうには見えない…』
込み上げてくる涙を堪えながら、鶴姫は沖田の身体にしがみついた。
楽は言っていた。鬼の血を飲ませればもしかしたら変若水の毒を消すことが出来るかもしれないと。
眉唾だと松本はいうが、手段を選んでいる余裕などなかった。
鶴姫は服を肌蹴させると腰の脇差を引き抜きそれを己の首へと宛がった。
『いっ……』
鋭い痛みと共に真っ赤な血が傷口から溢れ出す。
「鶴姫ちゃん、何を──」
『……飲んで』
鶴姫は己の首を沖田の眼前へと突き出した。
傷は既に塞がったが、流れ出た血はまだ首を真紅に染めている。
『もしかしたら私の血で変若水の毒を消すことが出来るかもしれないと聞いた』
「…………」
血の香りに毒されてか、沖田の瞳が飢えた色を宿す。
楽の言葉がどこまで本当なのかは分からない。
それでも、今この瞬間だけでも沖田の乾きを癒すことが出来るのならば。
『私は総司の助けになりたい……だから飲んで。お願い──』
沖田は何も言わなまま、恐る恐る鶴姫の首へと顔を近づけた。
そして流れ出た血にそっと舌を這わせる。
鶴姫の傷に障らないよう、沖田は慎重に血を舐めとった。
「…………ごめん」
やがて漏れた呟きに、鶴姫は思わず目を見開く。
こんなに弱々しい沖田の声を耳にしたのは初めてかもしれない。
鶴姫は小さく被りを振った。
『総司が謝ることなんてない。気にしないで』
「でも……ごめん」
沖田はまるで近藤に叱られた直後のように神妙な顔をしていた。
そんな沖田を優しく撫でる鶴姫。
沖田はまだ顔色は青ざめているが、それでも羅刹の発作は治まったらしい。
やがて髪や瞳も元の色を取り戻す。
『今日はもう休んで。怪我には養生が一番だから』
「……うん、わかってる。ごめんね、色々と」
『謝らないでってば』
「……うん。」
鶴姫は抱きしめていた沖田の身体を離した。
沖田を布団に寝かし部屋を出ようとする鶴姫の腕を、沖田は掴んだ。
『どこか痛む?』
「もう少しだけ……ここにいて」
まるで母親に甘えるように沖田は言った。
目の前から母親が消えることに恐怖し、どこにも行かせないような掴み方に、酷く心が脈打つ。
『わかった』
「ありがとう」
『総司が眠るまでここにいる。起きてもここにいる。安心して』
布団の上に横になった沖田は鶴姫の手を握りながら目を閉じた。
鶴姫はそんな沖田を見て、熱を出して倒れた時には母がこうして看病してくれていた気がすると、遥か昔の記憶を思い出す。
母はいつもこうして鶴姫が眠るまで手を握っていてくれた。
時折目を覚ましても手を握っていてくれた。
「鶴姫ちゃん……」
『ここにいるよ。どうしたの?』
「……なんでもない」
『ふふ』
「笑った」
『あ、ごめんね』
「鶴姫ちゃんは……笑った時が一番可愛いよ」
『……』
不意に告げられる可愛いの言葉に胸がドキッとする。
「ありがとう鶴姫ちゃん」
『お役に立ててなにより。おやすみなさい』
そう言うと沖田はゆっくりとまぶたを閉じた。
鶴姫は沖田が確実に寝たのを確認すると静かに部屋を出た。
沖田は血なんて飲みたくないと言っていた。
それなのに無理矢理飲ませてしまったことに胸が軋んだ。
それでも、僅かながらでも苦痛を和らげることは出来たはず。
『本当に私の血で毒を消すことが出来たんだろうか』
今はただ見守るしかできない状況に、鶴姫は息を吐いた。
そして翌日。
沖田の体調はここ数日の様子からは信じられないほどに回復していた。
楽の狙いは分からないままであったが、今はただ沖田の回復を喜んだ。
時は流れ慶応四年二月。
『ふあ、いいお湯だった〜』
風呂上がりの熱っぽい身体を夜気で冷やされるのが心地よくてつい言葉を漏らしてしまう。
気にかかることはいくつもあるが、この頃は沖田の怪我の経過もよく完治まで後少しと言ったところだ。
もちろん予断を許さぬ状況であることに変わりは無い。
それでも、沖田が多少なりとも元気を取り戻したことは喜ばしい。
そんなことを考えていると「いい加減にしてください!」と沖田の部屋から声が飛んでくる。
今のは山崎の声だ。
鶴姫は声が聞こえてくる方へと急いだ。
「……山崎くんって、新選組に入ってから何年になるんだっけ?上役を怒鳴りつけるなんて、新入り隊士でもしないと思うんだけど」
「……言葉がすぎたというのは俺も自覚しています。ですが、それならば沖田さんも上役として振舞って下さらなくては」
部屋の中は物凄く険悪な雰囲気が漂っていた。
「上役として振る舞うって何?僕に土方さんの真似をしろっていうの?」
「少なくとも、松本先生のご指示を無視するような真似をされては困ります」
「僕の体のことは僕自身がいちばんよく知っているつもりだよ。もう労咳だって治ったし、寝たきりでいる理由もないでしょ」
「ですから、まだ先生からのお許しが出ていないと!」
『お二人共、落ち着いてください』
「僕は落ち着いてるよ。冷静じゃないのは山崎くんだけ」
「俺は言うべきことを言っているだけです」
『……とにかく一体何があったのか説明してください』
お互いがお互いを悪いという状況に鶴姫は頭を抱えた。
山崎によると、少し目を離した隙に沖田が庭へ出て剣術の稽古を始めようとしたとのこと。
沖田曰くずっと寝たきりだと身体がなまるからだという。
何時隊に合流できるか分からない以上、勘を取り戻しておかないといけないからと。
「……これだ。君の方からも沖田さんに言ってやってくれ」
『……確かに山崎さんは少し厳しすぎるかもしれません』
「穐月君、君は本気で言っているのか?」
『えっと……』
「本気に決まってるじゃない。山崎くんは頭が固すぎるんだよ。前々からそういうところに内心うんざりしてたんだよね?鶴姫ちゃん」
『私はそんなこと一言も言っていません!勝手に言葉を付け加えない!』
「君も沖田さんも事態を軽くとらえすぎだ!彼に無茶をさせるなと言うのは松本先生の言いつけなんだぞ!」
『すみません。ですが、体を動かすことも養生の一つだと思うのです』
食べていても体を動かしていなければ体力の戻りも遅くなってしまう。
動けるならほんの少しでも動いていたほうがいいとおもぅていた。
「……まったく。そうやって聞く耳を持たないところ、ご主人様そっくりだよね」
「とにかく沖田さんは怪我の養生に専念してください。もし守れないようであれば、今日のことを遠慮なく副長に報告させてもらいますから」
最後に釘を指したあと、山崎は部屋を後にした。
『……山崎さん、いい方だね』
「悪人じゃないのは確かだけど、いい人ってほどかな?」
『いい方だと思うけどなぁ。土方さんの命令でここにいるんでしょうけれど、それでも総司のことを心配しているのは事実だと思う』
「山崎くんに心配される筋合いはないんだけどね」
『またそんなこと言って……』
沖田はまだちょっと拗ねているようだ。
『それはともかくとして、総司もう夜も遅いから、そろそろ布団に入らない?』
「ええ、もう?もう少し起きてたっていいんじゃない?」
『だーめ。怪我の治療に専念しなくては』
「……わかったよ。君って本当、融通がきかないんだなあ。入ってあげてもいいけど、その代わり……」
『【その代わり……】?』
すると沖田は意味深な表情で鶴姫の顔をのぞき込む。
悪戯っぽい眼差しがすぐ近くまで迫ってきた。
「せっかくだから、添い寝してくれる?」
『何を言ってるの……悪い冗談はよして』
「……君って鈍いよね。普段は妙に察しがいいのに」
『そう?』
鶴姫が戸惑っていると、沖田は罰が悪そうに視線を逸らしながら呟いた。
「僕が言いたいのは、君ともう少し話したいってことなんだけど」
『そうだったの?』
「駄目?」
『そんなわけない。ただ、お話するような内容をもちあわせているかどうか……』
鶴姫が知っている沖田は近藤にしか関心がなく、こうして近藤以外の人の話に興味を示すことなんて有り得なかった。
『なにか心境の変化でもあった?』
「……僕がこういうこと言うのっておかしい?」
『そんなことないけど……』
すると沖田はどこかもどかしそうにため息をつく。
「どれくらいはっきり言えば、わかってくれるのかな……」
沖田は少し頬を赤らめて言った。
『……もしかして、寂しいの?』
「……うん。一人は寂しいから傍にいてほしいってこと。分かってるんじゃない」
『ただの勘』
「……でも、無理しなくていいよ。僕と一緒は嫌なんでしょう?」
『なんでそんなふうに思うの?今までもそんな風にしてた?』
「してない……かな」
『してないよ。総司の気が済むまで一緒にいる』
そう微笑むと、沖田は安堵したように微笑んで鶴姫の髪にそっと触れる。
「……そう、それじゃ許してあげる」
前髪を擽るように弄ばれ、鶴姫の胸は高鳴った。
「どうしてかな。近頃、鶴姫ちゃんに甘えるのが心地よくなってきた……ありがとう、鶴姫ちゃん」
沖田の穏やかな声音に心臓を鷲掴みにされた心地になる。
『なんの話をしようか』
「そうだな。まずは鶴姫ちゃんの僕に対する気持ちかな」
『総司への気持ち……?』
「うん。もう五年くらい一緒にいるんだし、最初よりは仲良くなったでしょ?だからもっと親しくなれると思うんだよね」
『……もっと親しく?』
唐突な発案に戸惑ってしまう鶴姫。
沖田はそんなこともお構い無しに「質問していくね」と言い出す始末。
「好きな物は?」
『好きな物?部類は?』
「なんでもいいよ」
『食べ物ならばお饂飩、動物は犬か猫なら犬』
「そうなんだ。」
『総司は猫っぽいよ』
「そう?」
『気まぐれで、甘えたい時にしか甘えてこなくて、そうじゃない時は無関心』
「僕のことそんなふうに見てたんだ」
『そういう風にしか見えないもの』
沖田は楽しくなってきたのかそのまま話し続ける。
「もう四年になるんだね」
『そう。でも、初めて会った時は怖かったよ』
「そんな風には見えなかったけどなあ。物怖じせずに噛み付いてきてさ」
『…………』
「僕たちを目の前にして怖気付かないなんて、男でもそうそういないよ」
こんな話をどれほど続けただろう。
少しづつ沖田の返事が遅くなってきてそのまま沖田は寝入ってしまっていた。
鶴姫はその様子を見届けても沖田の傍を離れられなかった。
死病に冒され、戦えない自分に焦がれていた頃の沖田は
【刀として役に立てない】
【近藤さんの役に立てない】
そのことを常に恐れていた。
今は変若水を飲み羅刹となったことで再び隊の役に立てるようになった。
しかしそれでも、憎まれ口やからかいの中に彼の本音が垣間見える時がある。
人でないものになったことを、不安に思わぬはずがない。
『私、頑張るから。もっと総司の役に立たせて』
沖田が少しでも自分に心を許しているのならば、沖田の力になりたいと鶴姫は願った。
今までよりも強く、そう願ってやまなかった。
沖田の傷がようやく癒えた頃、山崎が柳や竹などで編んだ衣類などを納める籠である行李を手にして隠れ家を訪れた。
「これが、西洋の服か。随分と窮屈なんだね。まあ、刀を振るうには都合が良さそうだけど」
「副長の指示です。鳥羽伏見の戦いで薩長側は洋装に身を固めていましたから」
「……それ嫌味?あの時ずっと大坂城にいた僕がそんなこと知るはずないでしょう」
山崎に毒づいたあと、沖田は不意に鶴姫を振り返る。
「どうしたの?ぼーっとして。この格好、そんなに変?」
『見慣れないから不思議な感じだけど、とても動きやすそうな格好だね』
「……そういうことを聞いてるんじゃないんだけど。もしかしてわざととぼけてる?」
『ごめんね。不思議な感じなのは間違いではないけれど、とても良く似合ってるから……』
なぜだか分からないが、言い続けるうちに視線がどんどんと畳に落ちていく。
「どうして目をそらすの?ちゃんと目を見て言ってくれなきゃ」
『それは、自分でもよく分からなくて……』
ちらりと沖田の方を見ようとすると何故か胸が高鳴って視線を合わせることが出来なかった。
「要するに僕に惚れ直したってことでいいのかな?」
『っ!』
とんでもない不意打ちに鶴姫の心臓が跳ね上がる。
『ほ、惚れ直すなんて……そんなことない!』
「……そんなに力いっぱい否定しなくてもいいじゃない。ただの冗談なのに」
『え、あ……』
沖田の悲しげな表情に凍りつく。
いくら何でもキツすぎたかもしれない。
『あ、あの……総司』
名前を呼ぶけれど、沖田は鶴姫と目を合わせようとしない。
『キツい言い方をしてしまって、ごめんなさい。とても素敵だから……直視出来なくて……』
鶴姫が懸命にそう言うと
「そう、ありがとう。今の君の顔、見ものだったよ」
『……嵌められた』
この勝ち誇った顔。なんど似たような手口で騙されてきただろう。
何度も遊ばれて、その度に子供みたいに笑う沖田。
『……そういえば髷、落としたんだ』
すると沖田は名残惜しそうに髷があったところに手を伸ばす。
「近藤さんと同じ形にしてたんだけどね。……大事なのは形じゃなくて気持ちだから」
沖田は大切な髷を落としてまで、この筒袖を着ることにしたのだ。
きっと近藤のため、次の戦いには絶対に勝たなくてはいけないという決意の表れだった。
「穐月くんの分も用意してある。着替えてきてくれないか?」
『私のもですか?隊士でもないのに』
「土方さんからの命令だ」
『副長権限はお強いです』
そうして鶴姫も自室で着替えることになった。
初めての洋装は慣れないもので、釦とやらもどう通したらいいのか皆目検討もつかない。
袖が広くない服も初めてであるから何かに引っかかることがないのは違和感であった。
『……よし』
せっかくならと、ずっと伸ばし続けていた髪も肩の高さで切り落とす。
立派に伸びた髪はそれだけここにいた長さを物語るようだった。
『お待たせしました』
なれない着心地にムズムズしながら沖田と山崎が待つ部屋へと戻った。
二人共ぽかんとした様子で鶴姫の方を見ていた。
『やはり変でしょうか』
「いや、変では無い」
「すごく似合ってるよ。いい体型してるね」
『も、もしかして太ってる?』
「そうじゃないよ。程よい肉付きしてるよ」
冗談なのか本気で褒めているのかよく分からない言葉に鶴姫は戸惑う。
「髪、落としちゃったんだ」
『ええ。皆さんこうするでしょうし、これからの戦いで長すぎるのは邪魔になるだけかと思って』
「……僕、鶴姫ちゃんの長くて綺麗な髪、好きだったのに」
消えてしまいそうな声で呟かれた言葉は鶴姫の耳には届かなかった。
「山崎くん、出立は何日なの?もう体調は万全だし、今すぐにでもここを出たいんだけど。確か次は甲府で戦うんでしょ?」
なんでも幕府から命令が下り、新選組は新政府軍から甲府城を守ることになった。
大手柄を立てる絶好の機会だと近藤はとても張りきっているとのこと。
「それを決めるのは明日、松本先生に傷の様子を診ていただいてからです」
「また?松本先生の診察ならもう散々受けたじゃない」
「念には念を入れて、です。もし傷が治っていなければ、参戦させぬようにと副長から言われていますから」
「何それ?僕が一緒に行くと邪魔だってこと?」
『総司、邪魔だなんてそんな……』
「だって、そうでしょ?いざという時、僕以外の誰が近藤さんを守れるっていうの」
『土方さんは総司の体調を気遣ってるんだと思うよ』
「何を気遣ってるのさ?傷だって、労咳だってもう治ったのに」
不機嫌に呟いたあと、沖田は独り言のように言った。
「にしても土方さん、全然反省してないよね。あんな大怪我をさせたのに、まだ近藤さんを戦場へ連れ出すなんて」
背筋が凍るような冷ややかな怒りがその瞳には宿っている。
しかし、その口ぶりは妙に幼くて、まるで仲間はずれにされたことをすねている子供のよう。
「副長は私情で隊を動かすことなどありません。新選組の為に必要だと判断なさったからこそ、近藤局長にご同行を求めたのです」
「新選組の為に必要なら、剣を持てない人を戦場に連れ出してもいいんだ?」
沖田の言葉に山崎は声を呑んだ。
近藤は昨年肩におった傷のせいで刀を振るうことが出来なくなってしまった。
「……近藤局長のお役目は隊の指揮です。実践の場に出る訳ではありません」
「そんなの、戦況次第でどうなるかわからないでしょ?見栄と体裁は気になるけど、近藤さん本人のことはどうでもいいっていうのが、土方さんの本音なんだろうね」
『総司!』
窘めるように言葉をかける鶴姫の声は沖田の耳には届いていない様子だった。
「近藤さんは、僕が守る。土方さんにも、他の誰にも利用なんてさせない」
沖田は近藤が絡むと周りが見えなくなり土方に対しては誰よりも辛く当たる。
近藤と土方は沖田にとってそれだけ特別な存在だということなんだろう。
そして翌日、沖田の診察を終えた松本は頷く仕草をしながら言った。
「傷はふさがったみたいだな。この様子なら問題は無さそうだが」
「だから言ったじゃないですか。山崎くんもこの子も心配性なんですよ」
『おめでとう、総司!これで近藤さんのために戦えるね』
「鶴姫ちゃん、僕本人よりも喜んでるよね。僕が治ったことがそんなに嬉しい?」
『もちろん』
「……沖田くん、本当に甲府へ行くつもりなのかね?」
「なんです?まさか今更ダメだなんて言うつもりじゃないでしょうね」
「そういうわけじゃない。だが……」
「止めても無駄ですよ。置き去りにされるのは、もう嫌ですから」
「……そうか。そうだろうな……」
『松本先生?』
松本の歯切れの悪い言葉に引っ掛かりを覚えてそう呼びかけた。
「彼女も連れていくつもりなのか?置いていくなら、私が面倒を見るが」
すると沖田はちらりと鶴姫へ目配せする。
「そんなの聞くまでもないよね?一緒に来るでしょ?【ここにいて】って言ってもどうせ前みたいに僕の後を追いかけてくるに決まってるし」
『……はは』
「ん、どういうことだね?」
「鶴姫ちゃん、僕のことが心配でしょうがないらしいですよ。片時も目を離せないみたいで、皆を振り切って僕を追いかけてきたこともあるんです」
『わー!やめてやめて!』
「あれ、どうして狼狽えてるの?本当の事じゃない」
『そ、それはそうだけど、何も先生の前で言わなくてもいいじゃない……』
「……顔真っ赤だよ。もしかして風邪?その様子じゃ、一緒に連れて行ってあげられないかなあ」
沖田の瞳が悪戯めいた光を宿す。
絶対にからかっている。鶴姫はそう思っていた。
『総司は本当に意地悪な人』
「あれ、今頃気づいたの?僕は前からこうだったじゃない」
『んもー!ああ言えばこうかえってくる!』
松本は沈黙したまま二人のやり取りを眺めていたが、やがてぽつりと呟く。
「穐月君は沖田くんのことを憎からず思っているのかね?」
『松本先生、誤解しないでください。今のはただの冗談で』
「冗談なんかじゃないですよ。具合が悪い時もずっと、付きっきりで看病してくれましたし」
沖田は得意そうに答えるけど、松本の表情は沈んだまま。
「そうか。沖田くんのことを……」
厳しい表情を浮かべたまま黙り込む松本に鶴姫は再び違和感を覚えた。
『松本先生?何かまだ誤解されていませんか?』
「……いや、なんでもないんだ。怪我が治ったとはいえ、無理は禁物だからな。沖田くんに無茶をさせないよう、くれぐれも気をつけてやってくれよ」
『はい!分かってます』
「……やれやれ。僕ってそんなに信用ないんですかね?ここ数ヶ月は先生の言うことを聞いて、大人しくしてたと思うんですけど」
こうして松本からの許可が降り、甲府城を目指すこととなった。
To be continued
鳥羽伏見の戦いが薩長側の勝利で終わり、幕府軍が撤退すると共に新選組も江戸に向かうことになる。
四年前、父や兄を探すために一人で上ってきて新選組と出会った場所。
彼らと共に日々を過ごした京の町を後にする。
彼が──沖田が己の生き方に決心をし鶴姫は共に行く道を選んだのだ。
鶴姫たちは江戸の地を目指す。
この先の運命がどうなるか分からぬまま──。
初めて見る江戸の町、初めて耳にする江戸弁。
だがそれをじっくりと見聞きする暇もなかった。
沖田を起こさぬようそっと戸を開けて中の様子を伺う鶴姫。
鶴姫と沖田は松本が手配した小さな隠れ家にいる。
沖田は今もほとんど寝たきりの状態である。
傷はまだ痛むらしく、体を動かすのも辛いようだった。
あの時、銃で撃たれそうになった鶴姫を庇い、沖田はその身に銃弾を受けた。
もし沖田が羅刹となっていなければ、間違いなく絶命させられていたはず。
こうして一命を取り留めたのはまさに奇跡。
そのこと自体は喜ばしいことだが、気にかかることがひとつある。
「う……」
沖田の表情がふと苦しげなものに変わる。
「ぐっ……、うぅ……!」
『総司……』
沖田の額に浮かんだ汗を鶴姫は濡らした布でそっと拭う。
眠る前に渡した痛み止めが少しでも苦痛を和らげてくれていることを祈るばかり。
『…………』
しかしどうしてなのか。
いくら銃で撃たれたとはいっても羅刹となった沖田ならば、これくらいの傷などすぐ癒えてしまうはずなのに。
山南や藤堂も不思議がっていた。
震えている沖田の指先を鶴姫はそっと包み込むように両手で握りしめた。
『総司……』
ふと昔聞いた話を思い出す。
穐月一族の女鬼にはどんな病も傷も癒す治癒能力があると。
自分の命と引き換えに相手の身体を癒すと。
『そんなこと……出来るの…?』
すると沖田の瞼がうっすらと開いた。
『おはよう』
まだ眠りの中にある茫洋とした眼差しが鶴姫を捕らえる。
やがてその瞳に意思の光が宿った。
目が合うと何だか面映くなってしまいそうになる。
『身体の具合はどう?』
「……まあ、昨日よりは楽になったかな」
『無理してない?』
「信用ないなあ。」
『今まで散々聞いてきた言葉だからね』
鶴姫は困ったように言う。
沖田は自分の身体のことについてあまり外に出したがらないところがある。
「……もう、日は暮れちゃった?」
『ええ。起きてみる?』
「そうしようかな。寝たきりだと、身体も訛っちゃうしね」
傷に障らぬよう気をつけながら鶴姫は起き上がろうとする沖田を支える。
少しの沈黙の後、沖田は不意に視線を鶴姫に向ける。
「……そういえば鶴姫ちゃん、聞きたいことがあるんだけど、いい?」
『どうぞ』
「僕が目を覚ました時、鶴姫ちゃんが必ずそばにいるのはどうして?」
『……』
てっきり近藤や新選組の皆んなの事を聞かれるのだと思っていた。
こんな問いを向けられるとは思わず、鶴姫は答えに詰まってしまう。
けれど、沖田はどこか楽しげに鶴姫を見つめながら
「黙ってないで答えてよ。どうして?」
『…………迷惑?』
「別に、そんなことは言ってないけど。そんなに僕のことが心配なんだ?」
『総司が怪我をしたのは私のせいだから』
すると沖田はつまらなさそうに視線を外してしまう。
「君を庇ったから、ね。僕を看病してくれる理由はそれだけなんだ?」
『?』
何だか残念そうな口ぶりに聞こえたのは気のせいか。
沖田はそんな疑問を口にする暇さえ与えず
「まあ、それならそれでいいけどさ。……君、僕の看病にかまけて、ほとんど寝てないんじゃない?」
『……そんなないよ。きちんと休んでるよ』
「………本当に?」
『本当で。だって──』
そう言いかけた時、山崎が部屋に入ってくる。
「穐月君は連日寝る間を惜しんで沖田さんの看病をしています。少しは休息をとるよう、沖田さんからも言ってください」
『山崎さん……』
「だってさ。休みなよ、鶴姫ちゃん」
『……やはり自分の行動というのは人から見られてるものですね』
普段仲良しとは言えない二人はこういう時は妙に結託してくる。
「鶴姫ちゃんが悪いんだよ?いくら僕のことが気になるからって昼も夜もなく付きっきりなんてさ」
『…………』
「ほら、子供はさっさと寝なよ」
「沖田さんのことは俺が見張っている。君も少しは休んでくれ」
沖田の怪我の具合はもちろん気にかかるところではあるが、これ以上二人に心配をかけるのも心苦しい。
『……それでは少し休んできます。何かあったら声をかけてください』
そう言い残し部屋を出ようとしたその時だった。
沖田の身体が畳の上へと崩れ落ちる音がする。
鶴姫は慌てて駆け寄って沖田を助け起こすが、沖田は顔を苦痛に歪め荒い呼吸を繰り返すばかり。
『山崎さん!総司が……!』
「穐月君、ここを頼む。俺は松本先生を呼んでくる」
『分かりました』
鶴姫が答えるのを聞き届け、山崎は部屋を後にした。
『総司、しっかりして。すぐに松本先生が来てくれるから』
そう声をかけながら鶴姫は苦しげに息を継ぐ沖田の身体を布団へと横たえる。
「先生、どうだったのですか?沖田さんの容態は……」
「傷が開いたわけじゃないから、心配はいらんよ。大方、体力も戻っていないのに無理して起き上がったりしたんだろう。倒れたのはそのせいだ」
『すみません。私が起きますか?と聞いたからです』
そういった時、山崎が難しい顔で尋ねる。
「……松本先生。なぜ沖田さんの傷は今に至るまで言えないのでしょう?羅刹となった身ではあれば、たとえ銃でも傷を負わされても直ぐに塞がってしまうはずですが」
「……こうじゃないかと見当をつけてはいるが、あくまで私の想像に過ぎんぞ?」
「構いません。お聞かせください」
「……おまえさんたちも知っての通り、並の武器で羅刹の身体に傷をおわせることは出来ん。しかし沖田くんの傷は治っておらん。ということは……」
『沖田さんを撃った銃弾になにか仕掛けがある……そういうことですね』
「そういえば沖田さんを撃った弾は銀でできていたと聞いています」
「もしかすると、それが原因かもしれんな。羅刹にも弱点があったってことか」
『ではこれから沖田さんはどうなってしまうのでしょうか』
松本は沖田がいる部屋の方向を振り返りながら答える。
「……幸いにして、命に別状はない。沖田くんの体力を信じるしかないな」
『………』
「何とかしてやりたいが……私の医術はあくまでも人間用なんでな。綱道さんなら、もしかしたら羅刹の傷を癒す方法を知ってるかもしれんが」
そう聞いて鶴姫は一つの考えが脳裏に浮かぶ。
もしかしたら千鶴の家に羅刹に関する資料があるかもしれない。
元々幕府の密命で羅刹の研究をしていたのだから、研究資料がないはずはない。
『千鶴に家の場所を聞いたことがあります。明日にでも行って確かめてきます』
鶴姫はそう言って山崎の方を振り返る。
ずっと新選組に監視されていた身の上だが、沖田の身体に関わること。
山崎も土方もきっと反対しないはずと思った。
山崎は少し考える素振りを見せたが、同行することを申し出てきた。
山崎曰く沖田だけでなく鶴姫の警護も役目だという。
沖田のことは気になるが松本の勧めもあって明日の早朝に出ることになった。
翌日の朝には山崎と二人で雪村家を訪ねる鶴姫。
『ここですね』
四年も手入れされていない家は埃だらけだった。
それは同時に綱道が帰ってきていないことも意味している。
『あるとしたらこの辺りだと思います。』
「わかった。手分けして探すことにしよう」
その後、二人は目に付く書類を片っ端から確かめ羅刹に関する資料を探し出した。
やがて、とある書物に目をとめた山崎が愕然とした様子で漏らす。
「なんだと?羅刹の力の源は」
『何が書かれているのですか?』
「変若水は飲んだ者の肉体を活性化させ、野生の獣を凌駕する体力と比類な気治癒力をもたらす。だがその力の代償はその人間の命そのもの。羅刹の力を使えば使うほど、その者の寿命は削られていく。つまり」
『沖田さんの寿命が…』
「他にもまだいくつか資料がある。てわけして確かめることにしよう」
「羅刹に関する資料は、これで全部……だな」
『……はい』
羅刹に関することが記された資料に目を通してわかったことが幾つかある。
まず羅刹と化した者は比類なき強さを手に入れるということ。
二つ目は、強さを手に入れた代償は肉体への多大な負担。
三つめがその歪みが羅刹を血に狂わせる吸血衝動を生んでしまうこと。
「吸血衝動が出てしまうと、次第に変若水の毒が体を蝕んでいく。血を飲まなくては正気を保てなくなり、やがては獣のようになり狂い死ぬ……か」
『…………吸血衝動を抑える薬の調合の仕方がここに書いてあります。発作を抑えることが出来れば、沖田さんもだいぶ楽になるのでは無いでしょうか』
「しかし……調合できるのか?」
『見たところ用意しなくてはならない材料がいくつかありますけど、山崎さん手伝ってくださいますか?』
「わかった。なんでも言ってくれ」
二人はそのあと、綱道の走り書き通りに薬を調合し吸血衝動を抑える薬をつくりだした。
だが、結局沖田の傷を治す方法は分からないままだった。
薬の調合を終えて家を出る頃には日は既に沈みかけていた。
『すっかり遅くなってしまいましたね』
「日が沈む前に戻らなくてはな。急ぐぞ」
山崎に急かされ、歩き出そうとした時だった。
横合いから人影のようなものが飛び出してきて、うめき声とともに山崎がなぎ倒される。
倒れた山崎に慌てて駆け寄ろうとしたが、鶴姫は近くに人の気配を感じ足を止める。
夕日が落とした影のせいではっきりと顔を確かめることは出来なかったが、この顔だけは絶対に忘れない。
『楽……どうしてここに?』
「どうしてって?決まってるじゃないか。可愛い妹の顔を見に来たんだよ」
腰の脇差に手をかけ、鶴姫は楽を──自分に似た顔をしている兄を睨みつけた。
「なんだ、そんな怖い顔で睨まなくてもいいだろう。そんなヤツ、殺しても良かったんだぞ?殴って気を失わせるだけで済ませてやったんだ。ところで沖田の様子はどうだ?……そろそろ死んだか?」
『喋るな!』
楽の嘲るような言葉に独りでに声が荒くなった。
「怒らなくてもいいじゃないか。ただの冗談なんだから。羅刹になったアイツが簡単に死ぬはずないさ。……死にたいくらい苦しい思いをしてるんだろうけど」
『冗談でも言っていいことと悪いことくらいある……!』
この場で怒りを露わにしても楽を喜ばせるだけだった。
それでも、平静ではいられない。
「……沖田もいつまで正気を保っていられるんだろうな。そのうち血を求めて江戸の人間を見境なく斬り殺すようになったりしてね」
『総司はそんな風にはならないし、そんなことさせない』
「おまえらがここに来た理由は察しがつく。大方、吸血衝動を抑える方法がないか綱道殿の資料を漁りにきたんだろ?」
『答える義理はない』
「お生憎様だな。あの薬はほんの短い時間しか効果はないし、酷い発作は抑えられないんだ。まさに無駄足ってやつだ。あははははは!」
鶴姫は全身から血の気が引いた。
もちろん気休めに過ぎないということはよく分かっている。
「……いい顔だな。お前のその顔が見たかったんだ。沖田のこと、好きなんでだろう?どうしても、あいつを治してやりたい?」
酷薄な笑みを浮かべながら楽は不意に間合いを詰めてくる。
「あいつを助ける方法、教えてやろうか?」
『……!?』
不意をつかれ、思わず目を見開く。
変若水の時のこともある。また罠である可能性もある。
鶴姫を騙して楽しむつもりなのかもしれない。
それでも楽の言葉に抗い難く、鶴姫は次に続く一言を待った。
やがて楽はおもむろに唇をうごめかせる。
「鬼の血を与えればいいんだ。人間を遥かに凌駕する力を持ち、傷が一瞬のうちに治るー羅刹って、俺たち鬼の一族に似てると思わないか?まがい物の羅刹共に、俺たち本物の鬼の血を分けてやればもしかしたら変若水の毒が身体から消えるかもしれない。あいつを助けてやれるかもな?……特にお前は全国の鬼の中でも治癒能力に特化した鬼だからな」
『あっ、待て!』
鶴姫は楽を呼び止めようとするが、彼はそのまま夕闇に溶けるように姿を消した。
自分の血を沖田に飲ませれば変若水の毒を消すことが出来るかもしれない。
楽のことだ。鶴姫の動揺を誘うために言っているのだろうと考えられる。
しかし、万が一今の言葉が本当だとしたら。
「う……」
その時倒れていた山崎がうめき声とともに身を起こす。
『山崎さん、大丈夫ですか?』
「……俺のことはいい。それより、何があったのか説明してくれ」
『分かりました』
鶴姫は、兄である穐月楽と何度か対面していることや今回のことを話した。
話を聞いた山崎はひとまず沖田や松本がいる隠れ家に戻ることを提示。
二人は日が沈むなか急ぎ足で千駄ヶ谷へと戻った。
しかしその間も楽
からかけられた言葉が脳裏にこびりついて離れない。
隠れ家に戻ってきた二人は早速先程起きた出来事を松本に告げる。
山崎は楽が沖田を羅刹に変えた張本人であることを指摘、それに続いて松本は前例がないことをあげた。
「効き目がないだけで済めばいいが、もしかしたら毒となることだって十分に考えられるんだぞ」
『……』
「ひとまず、薬は調合できたんだろう?なら、当分はそれで凌ぐしかないんじゃないか?」
『ですが、いずれ免疫ができて効き目も薄くなります。このままでは……』
「わかってる。しかし酷な話だな。労咳にかかっただけじゃなく、羅刹となったせいで残りの寿命をますます削る羽目になるなんて、因果な話もあったもんだ」
『…………』
「もう少しここにいてやりたいが、私もそろそろ戻らんとな」
『はい。今日は遅くまで本当にありがとうございました』
「いや。くれぐれも無茶はせんよう、沖田くんによく言い聞かせておいてくれ。君も疲れているだろう?今日は早めに休むんだぞ」
『はい。わかりました』
松本は山崎に送られ玄関へと歩いていく。
早めに休むよう言われたものの眠れる気はしなかった。
羅刹の力の源は人間の寿命だと、綱道が残した資料には書かれていた。
しかし、いつ書かれたものか分からないし、もしかしたら最新の治療法が今は見つかっているのかもしれない。
そうじゃなくても、沖田は今己の命を削りながら懸命に傷を癒している最中のはず。
『一目だけでも、様子を見てこよう』
音を立てないように気をつけながら鶴姫は襖をそっと引き開ける。
『……総司?』
奥にしかれている布団に何故か沖田の姿がない。
一体どこに行ってしまったのだと思ったその時。
「……おかえり、鶴姫ちゃん」
開けた襖の傍から声をかけられる。
『何してるの……』
「だって、寝てるだけなんて退屈だし」
沖田はいつもの軽い調子でそう答えた。
『もしかして、廊下で私たちが話していたこと……』
「自分のことについてこそこそ話してたら誰でも気になるでしょ、普通」
『…………』
沖田の態度はいつもと全く変わらない。
「……まあ、あの時変若水を飲んでなかったら、どっちにせよ死んでただろうしね。布団の上で血を吐きながら死ぬのと、こうして刀を取る事ができるようになったのとどっちがマシかって言えば、答えなんて分かりきってるし」
全てをありのままに受け入れているようなその瞳があまりに穏やかで、鶴姫はかける言葉を見つけられなかった。
「……でも、不思議な話だよね。病気でも何でもなかった源さんが鳥羽伏見の戦いで死んじゃったのに、労咳にかかってる上、変若水まで飲んだ僕がこうして生きてるなんて。運がいいのか悪いのか、分からないな」
『総司……』
胸の奥が激しく軋んだ。
滅びゆく定めを理解しながら、世の無情さも許してしまえる。
鶴姫は沖田のそんな所に惹かれていたのかもしれない。
『諦めないで。総司はまだ生きているんだから』
たとえ沖田が既に近い将来の死を受け入れてしまっているとしても、それでも鶴姫は沖田に死んでほしくなかった。
「当たり前じゃない。僕にはまだしなきゃならないことがあるんだから」
顔色は相変わらず良くないが、それでも沖田の瞳には力強い光が宿っている。
『安心した』
沖田のたった一言で嬉しくて頬が緩んでしまう。
先が見えない状況ではあるが、それでも沖田はまだ生きることを諦めていない。
『総司。そろそろ布団に戻って休もう。身体に障るから』
「はいはい、わかってるよ。君って本当、うるさいんだから……」
沖田がそう言いかけた矢先
「うっ……」
沖田は苦しげに顔をゆがめ畳に膝をつく。
『総司!?』
鶴姫は崩れそうになる沖田の身体を慌てて支えた。
『どうしたの?傷が痛むの??』
けれど沖田は苦しげに呻きながら首を左右に振るばかり。
「ぐ、うっ……う……!」
そして次の瞬間には沖田の髪から一気に色が抜け瞳が真紅へと変じる。
『羅刹化……』
今まで沖田が傷の痛みを訴えたことは何度もあった。
しかしこんな風に己の意志以外で羅刹化したことはなかったはずだ。
「ぐっ……!平気だよ……。すぐに、治まる……から……」
沖田の口振りは、まるで今までに何度もこの苦しみを経験しているかのようだ。
『総司、まさか……血が欲しいの?』
その言葉に沖田は目を剥く。
「──欲しくなんかない!」
その剣幕が何より明瞭に彼の本心を物語っている。
「……僕は嫌だ。嫌なんだよ。血なんて要らない。狂いたくない……!」
その瞳には明らかな狂気の色が見えていた。
血に狂う羅刹の姿は鶴姫も沖田も今まで幾度となく目にしている。
『こんなに苦しんでいるのに……』
「もし、理性を失ったら……自分を保てなくなったら、近藤さんの役に立てなくなる……」
『…………だからずっと耐えていたの?私が総司の刀を握った時も?』
たった一人で、誰にも言わず。
まともに息もできないほどの苦痛に耐え続けていたのだろうか。
「平気だよ、我慢出来る。僕は近藤さんの弟弟子なんだから……こんなものに負けるほど、弱くない……」
このまま自らの精神力のみで発作をやり過ごそうというのだろうか。
『平気そうには見えない…』
込み上げてくる涙を堪えながら、鶴姫は沖田の身体にしがみついた。
楽は言っていた。鬼の血を飲ませればもしかしたら変若水の毒を消すことが出来るかもしれないと。
眉唾だと松本はいうが、手段を選んでいる余裕などなかった。
鶴姫は服を肌蹴させると腰の脇差を引き抜きそれを己の首へと宛がった。
『いっ……』
鋭い痛みと共に真っ赤な血が傷口から溢れ出す。
「鶴姫ちゃん、何を──」
『……飲んで』
鶴姫は己の首を沖田の眼前へと突き出した。
傷は既に塞がったが、流れ出た血はまだ首を真紅に染めている。
『もしかしたら私の血で変若水の毒を消すことが出来るかもしれないと聞いた』
「…………」
血の香りに毒されてか、沖田の瞳が飢えた色を宿す。
楽の言葉がどこまで本当なのかは分からない。
それでも、今この瞬間だけでも沖田の乾きを癒すことが出来るのならば。
『私は総司の助けになりたい……だから飲んで。お願い──』
沖田は何も言わなまま、恐る恐る鶴姫の首へと顔を近づけた。
そして流れ出た血にそっと舌を這わせる。
鶴姫の傷に障らないよう、沖田は慎重に血を舐めとった。
「…………ごめん」
やがて漏れた呟きに、鶴姫は思わず目を見開く。
こんなに弱々しい沖田の声を耳にしたのは初めてかもしれない。
鶴姫は小さく被りを振った。
『総司が謝ることなんてない。気にしないで』
「でも……ごめん」
沖田はまるで近藤に叱られた直後のように神妙な顔をしていた。
そんな沖田を優しく撫でる鶴姫。
沖田はまだ顔色は青ざめているが、それでも羅刹の発作は治まったらしい。
やがて髪や瞳も元の色を取り戻す。
『今日はもう休んで。怪我には養生が一番だから』
「……うん、わかってる。ごめんね、色々と」
『謝らないでってば』
「……うん。」
鶴姫は抱きしめていた沖田の身体を離した。
沖田を布団に寝かし部屋を出ようとする鶴姫の腕を、沖田は掴んだ。
『どこか痛む?』
「もう少しだけ……ここにいて」
まるで母親に甘えるように沖田は言った。
目の前から母親が消えることに恐怖し、どこにも行かせないような掴み方に、酷く心が脈打つ。
『わかった』
「ありがとう」
『総司が眠るまでここにいる。起きてもここにいる。安心して』
布団の上に横になった沖田は鶴姫の手を握りながら目を閉じた。
鶴姫はそんな沖田を見て、熱を出して倒れた時には母がこうして看病してくれていた気がすると、遥か昔の記憶を思い出す。
母はいつもこうして鶴姫が眠るまで手を握っていてくれた。
時折目を覚ましても手を握っていてくれた。
「鶴姫ちゃん……」
『ここにいるよ。どうしたの?』
「……なんでもない」
『ふふ』
「笑った」
『あ、ごめんね』
「鶴姫ちゃんは……笑った時が一番可愛いよ」
『……』
不意に告げられる可愛いの言葉に胸がドキッとする。
「ありがとう鶴姫ちゃん」
『お役に立ててなにより。おやすみなさい』
そう言うと沖田はゆっくりとまぶたを閉じた。
鶴姫は沖田が確実に寝たのを確認すると静かに部屋を出た。
沖田は血なんて飲みたくないと言っていた。
それなのに無理矢理飲ませてしまったことに胸が軋んだ。
それでも、僅かながらでも苦痛を和らげることは出来たはず。
『本当に私の血で毒を消すことが出来たんだろうか』
今はただ見守るしかできない状況に、鶴姫は息を吐いた。
そして翌日。
沖田の体調はここ数日の様子からは信じられないほどに回復していた。
楽の狙いは分からないままであったが、今はただ沖田の回復を喜んだ。
時は流れ慶応四年二月。
『ふあ、いいお湯だった〜』
風呂上がりの熱っぽい身体を夜気で冷やされるのが心地よくてつい言葉を漏らしてしまう。
気にかかることはいくつもあるが、この頃は沖田の怪我の経過もよく完治まで後少しと言ったところだ。
もちろん予断を許さぬ状況であることに変わりは無い。
それでも、沖田が多少なりとも元気を取り戻したことは喜ばしい。
そんなことを考えていると「いい加減にしてください!」と沖田の部屋から声が飛んでくる。
今のは山崎の声だ。
鶴姫は声が聞こえてくる方へと急いだ。
「……山崎くんって、新選組に入ってから何年になるんだっけ?上役を怒鳴りつけるなんて、新入り隊士でもしないと思うんだけど」
「……言葉がすぎたというのは俺も自覚しています。ですが、それならば沖田さんも上役として振舞って下さらなくては」
部屋の中は物凄く険悪な雰囲気が漂っていた。
「上役として振る舞うって何?僕に土方さんの真似をしろっていうの?」
「少なくとも、松本先生のご指示を無視するような真似をされては困ります」
「僕の体のことは僕自身がいちばんよく知っているつもりだよ。もう労咳だって治ったし、寝たきりでいる理由もないでしょ」
「ですから、まだ先生からのお許しが出ていないと!」
『お二人共、落ち着いてください』
「僕は落ち着いてるよ。冷静じゃないのは山崎くんだけ」
「俺は言うべきことを言っているだけです」
『……とにかく一体何があったのか説明してください』
お互いがお互いを悪いという状況に鶴姫は頭を抱えた。
山崎によると、少し目を離した隙に沖田が庭へ出て剣術の稽古を始めようとしたとのこと。
沖田曰くずっと寝たきりだと身体がなまるからだという。
何時隊に合流できるか分からない以上、勘を取り戻しておかないといけないからと。
「……これだ。君の方からも沖田さんに言ってやってくれ」
『……確かに山崎さんは少し厳しすぎるかもしれません』
「穐月君、君は本気で言っているのか?」
『えっと……』
「本気に決まってるじゃない。山崎くんは頭が固すぎるんだよ。前々からそういうところに内心うんざりしてたんだよね?鶴姫ちゃん」
『私はそんなこと一言も言っていません!勝手に言葉を付け加えない!』
「君も沖田さんも事態を軽くとらえすぎだ!彼に無茶をさせるなと言うのは松本先生の言いつけなんだぞ!」
『すみません。ですが、体を動かすことも養生の一つだと思うのです』
食べていても体を動かしていなければ体力の戻りも遅くなってしまう。
動けるならほんの少しでも動いていたほうがいいとおもぅていた。
「……まったく。そうやって聞く耳を持たないところ、ご主人様そっくりだよね」
「とにかく沖田さんは怪我の養生に専念してください。もし守れないようであれば、今日のことを遠慮なく副長に報告させてもらいますから」
最後に釘を指したあと、山崎は部屋を後にした。
『……山崎さん、いい方だね』
「悪人じゃないのは確かだけど、いい人ってほどかな?」
『いい方だと思うけどなぁ。土方さんの命令でここにいるんでしょうけれど、それでも総司のことを心配しているのは事実だと思う』
「山崎くんに心配される筋合いはないんだけどね」
『またそんなこと言って……』
沖田はまだちょっと拗ねているようだ。
『それはともかくとして、総司もう夜も遅いから、そろそろ布団に入らない?』
「ええ、もう?もう少し起きてたっていいんじゃない?」
『だーめ。怪我の治療に専念しなくては』
「……わかったよ。君って本当、融通がきかないんだなあ。入ってあげてもいいけど、その代わり……」
『【その代わり……】?』
すると沖田は意味深な表情で鶴姫の顔をのぞき込む。
悪戯っぽい眼差しがすぐ近くまで迫ってきた。
「せっかくだから、添い寝してくれる?」
『何を言ってるの……悪い冗談はよして』
「……君って鈍いよね。普段は妙に察しがいいのに」
『そう?』
鶴姫が戸惑っていると、沖田は罰が悪そうに視線を逸らしながら呟いた。
「僕が言いたいのは、君ともう少し話したいってことなんだけど」
『そうだったの?』
「駄目?」
『そんなわけない。ただ、お話するような内容をもちあわせているかどうか……』
鶴姫が知っている沖田は近藤にしか関心がなく、こうして近藤以外の人の話に興味を示すことなんて有り得なかった。
『なにか心境の変化でもあった?』
「……僕がこういうこと言うのっておかしい?」
『そんなことないけど……』
すると沖田はどこかもどかしそうにため息をつく。
「どれくらいはっきり言えば、わかってくれるのかな……」
沖田は少し頬を赤らめて言った。
『……もしかして、寂しいの?』
「……うん。一人は寂しいから傍にいてほしいってこと。分かってるんじゃない」
『ただの勘』
「……でも、無理しなくていいよ。僕と一緒は嫌なんでしょう?」
『なんでそんなふうに思うの?今までもそんな風にしてた?』
「してない……かな」
『してないよ。総司の気が済むまで一緒にいる』
そう微笑むと、沖田は安堵したように微笑んで鶴姫の髪にそっと触れる。
「……そう、それじゃ許してあげる」
前髪を擽るように弄ばれ、鶴姫の胸は高鳴った。
「どうしてかな。近頃、鶴姫ちゃんに甘えるのが心地よくなってきた……ありがとう、鶴姫ちゃん」
沖田の穏やかな声音に心臓を鷲掴みにされた心地になる。
『なんの話をしようか』
「そうだな。まずは鶴姫ちゃんの僕に対する気持ちかな」
『総司への気持ち……?』
「うん。もう五年くらい一緒にいるんだし、最初よりは仲良くなったでしょ?だからもっと親しくなれると思うんだよね」
『……もっと親しく?』
唐突な発案に戸惑ってしまう鶴姫。
沖田はそんなこともお構い無しに「質問していくね」と言い出す始末。
「好きな物は?」
『好きな物?部類は?』
「なんでもいいよ」
『食べ物ならばお饂飩、動物は犬か猫なら犬』
「そうなんだ。」
『総司は猫っぽいよ』
「そう?」
『気まぐれで、甘えたい時にしか甘えてこなくて、そうじゃない時は無関心』
「僕のことそんなふうに見てたんだ」
『そういう風にしか見えないもの』
沖田は楽しくなってきたのかそのまま話し続ける。
「もう四年になるんだね」
『そう。でも、初めて会った時は怖かったよ』
「そんな風には見えなかったけどなあ。物怖じせずに噛み付いてきてさ」
『…………』
「僕たちを目の前にして怖気付かないなんて、男でもそうそういないよ」
こんな話をどれほど続けただろう。
少しづつ沖田の返事が遅くなってきてそのまま沖田は寝入ってしまっていた。
鶴姫はその様子を見届けても沖田の傍を離れられなかった。
死病に冒され、戦えない自分に焦がれていた頃の沖田は
【刀として役に立てない】
【近藤さんの役に立てない】
そのことを常に恐れていた。
今は変若水を飲み羅刹となったことで再び隊の役に立てるようになった。
しかしそれでも、憎まれ口やからかいの中に彼の本音が垣間見える時がある。
人でないものになったことを、不安に思わぬはずがない。
『私、頑張るから。もっと総司の役に立たせて』
沖田が少しでも自分に心を許しているのならば、沖田の力になりたいと鶴姫は願った。
今までよりも強く、そう願ってやまなかった。
沖田の傷がようやく癒えた頃、山崎が柳や竹などで編んだ衣類などを納める籠である行李を手にして隠れ家を訪れた。
「これが、西洋の服か。随分と窮屈なんだね。まあ、刀を振るうには都合が良さそうだけど」
「副長の指示です。鳥羽伏見の戦いで薩長側は洋装に身を固めていましたから」
「……それ嫌味?あの時ずっと大坂城にいた僕がそんなこと知るはずないでしょう」
山崎に毒づいたあと、沖田は不意に鶴姫を振り返る。
「どうしたの?ぼーっとして。この格好、そんなに変?」
『見慣れないから不思議な感じだけど、とても動きやすそうな格好だね』
「……そういうことを聞いてるんじゃないんだけど。もしかしてわざととぼけてる?」
『ごめんね。不思議な感じなのは間違いではないけれど、とても良く似合ってるから……』
なぜだか分からないが、言い続けるうちに視線がどんどんと畳に落ちていく。
「どうして目をそらすの?ちゃんと目を見て言ってくれなきゃ」
『それは、自分でもよく分からなくて……』
ちらりと沖田の方を見ようとすると何故か胸が高鳴って視線を合わせることが出来なかった。
「要するに僕に惚れ直したってことでいいのかな?」
『っ!』
とんでもない不意打ちに鶴姫の心臓が跳ね上がる。
『ほ、惚れ直すなんて……そんなことない!』
「……そんなに力いっぱい否定しなくてもいいじゃない。ただの冗談なのに」
『え、あ……』
沖田の悲しげな表情に凍りつく。
いくら何でもキツすぎたかもしれない。
『あ、あの……総司』
名前を呼ぶけれど、沖田は鶴姫と目を合わせようとしない。
『キツい言い方をしてしまって、ごめんなさい。とても素敵だから……直視出来なくて……』
鶴姫が懸命にそう言うと
「そう、ありがとう。今の君の顔、見ものだったよ」
『……嵌められた』
この勝ち誇った顔。なんど似たような手口で騙されてきただろう。
何度も遊ばれて、その度に子供みたいに笑う沖田。
『……そういえば髷、落としたんだ』
すると沖田は名残惜しそうに髷があったところに手を伸ばす。
「近藤さんと同じ形にしてたんだけどね。……大事なのは形じゃなくて気持ちだから」
沖田は大切な髷を落としてまで、この筒袖を着ることにしたのだ。
きっと近藤のため、次の戦いには絶対に勝たなくてはいけないという決意の表れだった。
「穐月くんの分も用意してある。着替えてきてくれないか?」
『私のもですか?隊士でもないのに』
「土方さんからの命令だ」
『副長権限はお強いです』
そうして鶴姫も自室で着替えることになった。
初めての洋装は慣れないもので、釦とやらもどう通したらいいのか皆目検討もつかない。
袖が広くない服も初めてであるから何かに引っかかることがないのは違和感であった。
『……よし』
せっかくならと、ずっと伸ばし続けていた髪も肩の高さで切り落とす。
立派に伸びた髪はそれだけここにいた長さを物語るようだった。
『お待たせしました』
なれない着心地にムズムズしながら沖田と山崎が待つ部屋へと戻った。
二人共ぽかんとした様子で鶴姫の方を見ていた。
『やはり変でしょうか』
「いや、変では無い」
「すごく似合ってるよ。いい体型してるね」
『も、もしかして太ってる?』
「そうじゃないよ。程よい肉付きしてるよ」
冗談なのか本気で褒めているのかよく分からない言葉に鶴姫は戸惑う。
「髪、落としちゃったんだ」
『ええ。皆さんこうするでしょうし、これからの戦いで長すぎるのは邪魔になるだけかと思って』
「……僕、鶴姫ちゃんの長くて綺麗な髪、好きだったのに」
消えてしまいそうな声で呟かれた言葉は鶴姫の耳には届かなかった。
「山崎くん、出立は何日なの?もう体調は万全だし、今すぐにでもここを出たいんだけど。確か次は甲府で戦うんでしょ?」
なんでも幕府から命令が下り、新選組は新政府軍から甲府城を守ることになった。
大手柄を立てる絶好の機会だと近藤はとても張りきっているとのこと。
「それを決めるのは明日、松本先生に傷の様子を診ていただいてからです」
「また?松本先生の診察ならもう散々受けたじゃない」
「念には念を入れて、です。もし傷が治っていなければ、参戦させぬようにと副長から言われていますから」
「何それ?僕が一緒に行くと邪魔だってこと?」
『総司、邪魔だなんてそんな……』
「だって、そうでしょ?いざという時、僕以外の誰が近藤さんを守れるっていうの」
『土方さんは総司の体調を気遣ってるんだと思うよ』
「何を気遣ってるのさ?傷だって、労咳だってもう治ったのに」
不機嫌に呟いたあと、沖田は独り言のように言った。
「にしても土方さん、全然反省してないよね。あんな大怪我をさせたのに、まだ近藤さんを戦場へ連れ出すなんて」
背筋が凍るような冷ややかな怒りがその瞳には宿っている。
しかし、その口ぶりは妙に幼くて、まるで仲間はずれにされたことをすねている子供のよう。
「副長は私情で隊を動かすことなどありません。新選組の為に必要だと判断なさったからこそ、近藤局長にご同行を求めたのです」
「新選組の為に必要なら、剣を持てない人を戦場に連れ出してもいいんだ?」
沖田の言葉に山崎は声を呑んだ。
近藤は昨年肩におった傷のせいで刀を振るうことが出来なくなってしまった。
「……近藤局長のお役目は隊の指揮です。実践の場に出る訳ではありません」
「そんなの、戦況次第でどうなるかわからないでしょ?見栄と体裁は気になるけど、近藤さん本人のことはどうでもいいっていうのが、土方さんの本音なんだろうね」
『総司!』
窘めるように言葉をかける鶴姫の声は沖田の耳には届いていない様子だった。
「近藤さんは、僕が守る。土方さんにも、他の誰にも利用なんてさせない」
沖田は近藤が絡むと周りが見えなくなり土方に対しては誰よりも辛く当たる。
近藤と土方は沖田にとってそれだけ特別な存在だということなんだろう。
そして翌日、沖田の診察を終えた松本は頷く仕草をしながら言った。
「傷はふさがったみたいだな。この様子なら問題は無さそうだが」
「だから言ったじゃないですか。山崎くんもこの子も心配性なんですよ」
『おめでとう、総司!これで近藤さんのために戦えるね』
「鶴姫ちゃん、僕本人よりも喜んでるよね。僕が治ったことがそんなに嬉しい?」
『もちろん』
「……沖田くん、本当に甲府へ行くつもりなのかね?」
「なんです?まさか今更ダメだなんて言うつもりじゃないでしょうね」
「そういうわけじゃない。だが……」
「止めても無駄ですよ。置き去りにされるのは、もう嫌ですから」
「……そうか。そうだろうな……」
『松本先生?』
松本の歯切れの悪い言葉に引っ掛かりを覚えてそう呼びかけた。
「彼女も連れていくつもりなのか?置いていくなら、私が面倒を見るが」
すると沖田はちらりと鶴姫へ目配せする。
「そんなの聞くまでもないよね?一緒に来るでしょ?【ここにいて】って言ってもどうせ前みたいに僕の後を追いかけてくるに決まってるし」
『……はは』
「ん、どういうことだね?」
「鶴姫ちゃん、僕のことが心配でしょうがないらしいですよ。片時も目を離せないみたいで、皆を振り切って僕を追いかけてきたこともあるんです」
『わー!やめてやめて!』
「あれ、どうして狼狽えてるの?本当の事じゃない」
『そ、それはそうだけど、何も先生の前で言わなくてもいいじゃない……』
「……顔真っ赤だよ。もしかして風邪?その様子じゃ、一緒に連れて行ってあげられないかなあ」
沖田の瞳が悪戯めいた光を宿す。
絶対にからかっている。鶴姫はそう思っていた。
『総司は本当に意地悪な人』
「あれ、今頃気づいたの?僕は前からこうだったじゃない」
『んもー!ああ言えばこうかえってくる!』
松本は沈黙したまま二人のやり取りを眺めていたが、やがてぽつりと呟く。
「穐月君は沖田くんのことを憎からず思っているのかね?」
『松本先生、誤解しないでください。今のはただの冗談で』
「冗談なんかじゃないですよ。具合が悪い時もずっと、付きっきりで看病してくれましたし」
沖田は得意そうに答えるけど、松本の表情は沈んだまま。
「そうか。沖田くんのことを……」
厳しい表情を浮かべたまま黙り込む松本に鶴姫は再び違和感を覚えた。
『松本先生?何かまだ誤解されていませんか?』
「……いや、なんでもないんだ。怪我が治ったとはいえ、無理は禁物だからな。沖田くんに無茶をさせないよう、くれぐれも気をつけてやってくれよ」
『はい!分かってます』
「……やれやれ。僕ってそんなに信用ないんですかね?ここ数ヶ月は先生の言うことを聞いて、大人しくしてたと思うんですけど」
こうして松本からの許可が降り、甲府城を目指すこととなった。
To be continued