入隊希望者とその親族関係の明記を。
あなたを守ること 沖田
入隊希望者名簿
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文久三年十二月
「ここが、京の都……」
男装をした子が我知らず唇から、ほう、と感嘆の息を洩らす。
京に暮らす人々は誰も彼も優しげな笑顔を浮かべている。
交わされる柔らかな言葉たちさえ、この都にはしっくりと似合っているような気がするのだ。
しかし……。
京の市中に漂っている空気は、不思議と冷えているように思われる。
田舎者を排泄しようとする高い壁が密やかに存在しているかのようだ。
「なんだか……」
少し居心地が悪いような……とその子は思う。
「ううん……、気のせいだよね」
京まで歩き通しだったから心も身体も疲れているのかもしれない。
けれども、もちろん疲れているからと言って、ただ立ち尽くしているわけにはいかなかった。
「あの、すみません!」
その子は少しの勇気を出して町の人に声をかけた。
「道をお尋ねしたいんですが━━」
道を聞いたのは松本と呼ばれる幕府に仕えている医者のところだ。
道を聞いたはいいものの、当の本人は留守。
夕焼けのなか、その子は立ち尽くしていた。
父である雪村綱道がしばらくの間京の都へ行くことになったと、心配しないように手紙を書くといって出かけて行った。
もし何かあれば松本を頼れと言っていた。
なぜ松本を頼り京に出てきたのかと言うと、約束通り手紙を送ってくれた父からの手紙が途切れたからだ。
それが一ヶ月前の話。
あちこちから浪士たちが集まっている今の京は、決して平穏な場所ではない。
武士に生活していけるだけのお金をくれるのは、彼らが仕えている主家だ。
しかし、主家を持たない浪士たちは、人々から無理矢理金を巻き上げることもある。
侍という権力を笠に着て、暴力を振るう乱暴者たち。
そんな浪士たちが今集まっているのが京の都。
実際、夷狄船が横浜湾や大坂湾に入ってきて国内は騒然としている。
幕府はそれらに何らまともな対処が取れなかったため、ここに来て天皇・朝廷が再び政治の表舞台へと引きずり出されようとしている。
それに伴い二百三十年間途切れていた将軍の上洛が決まり、それに付随する大名達が続々と京へ入ってきている。
それにかこつけて草莽の浪士たちや軍事改革派たちも京へと入ってきているのだ。
父のことを心配するその子は、まず今日泊まる宿を探す。
気がつけば日は落ち、夜も更けている。
しかし、ここは京の都。男装しているからとて安心していてはいけない。
「おい、そこの小僧」
さらに狭い路地を駆け抜ける。
すると
『こっち!』
暗闇でよく見えないが"誰かが"声をかけてきた。
浪士三人が追い付いてこないのを確認すると、その人は家と家との間に入るように促す。
立て掛けられた木の板たちが、しゃがみこんだ二人の姿を覆い隠してくれる。
「あの…貴方は?」
『私は赭月茜といいます。最近ここらは辻斬りとかが多いから、見回りしていたんです』
「そうなんですか」
『始終見ていましたが、災難でしたね』
「はい。あの、助けていただき、ありがとうございました」
『いえ。頼りない腕で、貴方みたいな"女の子"が三人も相手取れると思えませんから』
「わかるんですか?!」
『少し見れば分かります。動作や仕草が女の子ですし、喋り方なども柔らかい。なんせ顔がかわいすぎます』
バレていたのかと少し残念に思った子の名前は雪村千鶴という。
これからこの雪村千鶴と茜の運命は狂い咲く。
『おかしいですね』
「もっと声をあらげる場面を想像してました…」
『現れないどころか声すらないなんて…』
とそのとき
「ぎゃあああああああああっ!?」
彼らの絶叫が聞こえてきた。
「な、何……!?」
『……向こうで誰かに襲われているのは間違いありません』
本来なら隠れ続けているのが一番賢い行動だ、と千鶴は考えた。
しかし茜は一人で出ていこうとする。
「赭月さん!」
すると男達の方からさらに声がする。
「畜生、やりやがったな!」
「くそ、なんで死なねぇんだよ!……ダメだ、コイツら刀がきかねえ!」
千鶴は恐怖を感じた。
人の命を刈り取る可能性を秘めた、得体の知れないなにかが間近に存在している。
その可能性を考え始めると怖くて怖くてたまらなかったのだ。
茜は恐怖を感じていないようで、鋭い目付きで声のする方向を見ている。
茜は【何か】を知ろうと路地から顔を出して千鶴がかけてきた道をのぞき込む。
茜の目に映っているのは、月光に照らされた白刃の閃きに翻る浅葱色の羽織。
「ひ、ひひひひひ………」
「た、助け━━━」
浪士は命乞いをしながら後ずさる。
浅葱色の羽織をきた人々はなんのためらいもなく刀を振るった。
血が飛び散る音と浪士の叫ぶ声が千鶴の耳に届く。
それと同時にたか笑う薄気味悪い声。
暴力に任せて刀を振るう、技巧もなにもない滅多切り。
耳をつんざく絶叫が次第に弱々しく消えていく。
何があったのかと鶴姫に聞こうと立ち上がった千鶴は足に力が入らずにその場にへたりこむ。
茜は相変わらず鋭い眼差しで見つめているだけである。
"得たいの知れないなにか"は息絶えた浪士を、何度も何度も何度も何度も繰り返し斬って刺して突いて裂いた。
肉を切り、骨を断ち、血を流す。
他者の命を暴力で浸したい、ただそれだけの狂気。
彼らは人ではない、壊れてしまっている。
喉がつまるようで息ができない千鶴。
鼻先をかすめた濃い気配こそ、溢れかえる血の臭いなのだとようやく気づく。
『怖いですか?』
「怖いです……赭月さん、早く逃げなきゃ…」
震える唇はなんとか息を吐き出した。
しかし、恐怖に痺れた身体はうまく動かず木の板を倒してしまう。
浅葱の羽織を赤黒く染めた彼らが振り返る。
新たな獲物を見付けた歓喜にうち震える。
「━━━っ!」
怖い、まだ死にたくないという感情が千鶴を襲う。
狂った殺意は笑いながらかけてきた。
その彼らに茜が一太刀浴びせたと同時に、"別のだれか"も一太刀浴びせていた。
化け物たちは私や千鶴に触れる寸前でより鋭い白光に両断された。
びしゃり、と音を立てて地面に広がる鮮血。
熱くて生臭くて、ぬるりとしたもの。
私の胸に生まれた嫌悪感はその直後より強い風に吹き飛ばされた。
「あーあ、残念だなあ……」
言葉の持つ意味とは裏腹に、その声はおかしげに弾んでいた。
「僕一人で始末しちゃうつもりだったのに。一くん、こんな時に限って仕事が早いよね」
その人は恨み言を告げながら、楽しそうに微笑む。
「俺は務めを果たすべく動いたまでだ。……あんたと違って、俺に戦闘狂の気は無い」
「うわ、酷い言い草だなあ。まるで僕が戦闘狂みたいだ」
「……否定はしないのか」
一くんと呼ばれた人は呆れ混じりのため息を吐き、そして、私たちに視線をなげかけてきた。
その声、髪、手に持つ刀。全てに覚えがあった。
「でもさ、あいつらがこの子達を殺しちゃうまで黙って見てれば僕たちの手間も省けたんじゃないかな?」
固まる私たちを置いて話す茶髪の妙に無邪気な男の言葉で私は自分たちが追い込まれていることを改めて理解する。
異様な状況はまだ続いているのだ、と。
「さあな。……少なくとも、その判断は俺たちが下すべきものではない。」
「え?」
『判断を下す人がまだ他にいるということか』
静かに話す男への疑念を捨てきれないまま、私は彼らの他に複数人の気配を感じると共に浅葱色の隊服を着込んだ集団の話を思い出す。
その時、不意に影が差した。
見上げると一人の長髪の男が茜たちに刀を向ける。
刀の輝きが私には何故か舞い散る花びらを思い起こさせた。
まるで、狂い咲く桜のよう。
「……運のないやつだ。」
氷の刃にも似た、静かで冷たい声音。
星あかりに照らし出された端正な顔は言う。
「いいか、逃げるなよ。背を向ければ斬る」
静かな宣告が脅しではないとわかったから、私たちは何度も頷いた。
すると男は思い切り眉間に皺を寄せて、苦々しげに深いため息を吐いたのだった。
「あれ?いいんですか、土方さん。この子達、さっきの見ちゃったんですよ?」
茶髪の男が不思議そうに目を細めると、土方と呼ばれた男はますます渋い顔をする。
「いちいち余計なことを喋るんじゃねえよ。下手な話を聞かせちまうと、始末せざるを得なくなるだろうが」
話によると、やはりあの普通ではない人間たちは見てはいけないものだったらしい。
そして、隠しておきたい存在。
こんな状況下だというのに、私は彼らが嫌がるだろう方向へ理解を進めてしまう。
「この子達を生かしておいても、厄介なことにしかならないと思いますけどね」
ちらりと茜たちに目を向けた茶髪の男はまるで私の心を読んだような発言をする。
「とにかく殺せばいいってもんじゃねえだろ。……こいつらの処分は帰ってから決める。」
「俺は副長の判断に賛成です。ここに長く留まれば他のものに見つかるかもしれない」
そう言うと、一くんと呼ばれた男はついでのような仕草で自らが斬り殺した死体へと目を落とす。
「こうも血に狂うとは……やはり実務に使える代物ではないようです」
「……頭の痛ぇ話だ」
彼は感情の宿らない眼差しを足元に向けた。
そして不意に顔を歪めると、苛立たしげに他のふたりを睨みつけた。
「つうか、お前ら。土方とか副長とか呼んでんじゃねえよ。伏せろ」
「ええー?伏せるも何もこの隊服を着てる時点でバレバレだと思いますけど」
「……死体の処理は如何様に?肉体的な異常は特に現れていないようですが」
声をかけられた土方という男は短い思案を挟んだ後に口を開く。
「羽織だけ脱がせとけ。……あとは監察の方でなんとかする」
「承知しました」
「新選組の隊士が斬り殺されてるなんて、僕たちにとっても一大事ですしね」
茶髪の男はクスクスと笑いながら同意する。
「ま、後はここにいた奴が黙ってりゃ世間も勝手に納得してくれるだろうよ」
さりげなく圧をかけられたことは伝わってくる。
人が死ぬくらい京ではよくあることだ。
特に近頃では天誅と称して与力や奉行関係者、手を貸した一般市民たちが晒し首にされる事件が多く発生している。
そうだとしても、内輪の問題をそれに偽装してことを隠すなんてことは私には許せなかった。
一体なんの実験をしているのか。実務で使えるようにするために生身の人間を改造しているというのか。
そう考えると苛立たしさが込み上げて茜は唇をかんだ。
「ねえ、ところでさ。助けてあげたのにお礼のひとつも無いの?」
「え?」
唐突に話しかけられて千鶴が目を瞬いた。
「そんな、助けてあげたのにって……」
『自分たちがそんな化け物を生み出し、外にはなっておきながら助けてあげたのにとは随分な言い方だな』
「赭月さん……」
『隊服さえ着ていなければただの辻斬りとして世間は納得してくれる?そんな甘ったれた考えで市民を騙すのか!』
千鶴が怖がっているのはよく分かる。
ただ、ことを有耶無耶にしていいとは思わない。
そもそもこんな実験をしなければこんなことにはならなかった。
そういう思いが茜を突き動かしていた。
そんな茜を千鶴は落ち着かせようと立ち上がり、袴についた土を払い身だしなみを整えてから頭を下げた。
「あの、ありがとうございました。お礼を言うのが遅くなってすみません。……色々あって混乱していたもので」
そんな千鶴の様子を見たは衝撃を受けたように目を見開いていた。
土方と呼ばれた男は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「わ、私もおかしいかなとは思いました!でも、この人がお礼をいえとーー」
そう千鶴が茶髪の男をふと見ると言った当人までもが腹を抱えて笑っていた。
「あ……ごめんごめん。そうだよね、僕が言ったんだもんね」
ひいひい笑いすぎて涙目になった男は少しだけ背筋を正して千鶴に向き直る。
「どういたしまして。僕は沖田総司と言います。礼儀正しい子は嫌いじゃないよ?」
「ご丁寧に、どうも……」
千鶴はそう言うともう一度ぺこりと頭を下げた。
それを見た沖田総司は未だ礼を言わず立っている私の方を見る。
「で、君は?」
『三人いたうちの一人を斬り伏せていますし、あなた方がそもそもの事の発端だ。その責任を取らずして礼をいえとは些かおかしいように思うが。礼を言えの前にあんなものを世に出したことの謝罪をすべきじゃないのか?』
「へぇ……まあ、いいや。君みたいな強気な子も嫌いじゃないよ?君たちを助けてくれたのが斎藤一くん。それで、こっちの偉そうなのがーー」
「……わざわざ紹介してんじゃねえよ」
「副長。お気持ちはわかりますが、まず移動を」
斎藤は呆れ返った声に対して移動を促す。
沖田は千鶴の手首を掴むとそのまま笑顔で歩き始める。
「己のために最悪を想定しておけ。……刺していいようには転ばない」
斎藤はそういうと茜の刀を取ると歩き出した。
こうして二人は新選組の屯所へと連行されることとなった。
To be continued
「ここが、京の都……」
男装をした子が我知らず唇から、ほう、と感嘆の息を洩らす。
京に暮らす人々は誰も彼も優しげな笑顔を浮かべている。
交わされる柔らかな言葉たちさえ、この都にはしっくりと似合っているような気がするのだ。
しかし……。
京の市中に漂っている空気は、不思議と冷えているように思われる。
田舎者を排泄しようとする高い壁が密やかに存在しているかのようだ。
「なんだか……」
少し居心地が悪いような……とその子は思う。
「ううん……、気のせいだよね」
京まで歩き通しだったから心も身体も疲れているのかもしれない。
けれども、もちろん疲れているからと言って、ただ立ち尽くしているわけにはいかなかった。
「あの、すみません!」
その子は少しの勇気を出して町の人に声をかけた。
「道をお尋ねしたいんですが━━」
道を聞いたのは松本と呼ばれる幕府に仕えている医者のところだ。
道を聞いたはいいものの、当の本人は留守。
夕焼けのなか、その子は立ち尽くしていた。
父である雪村綱道がしばらくの間京の都へ行くことになったと、心配しないように手紙を書くといって出かけて行った。
もし何かあれば松本を頼れと言っていた。
なぜ松本を頼り京に出てきたのかと言うと、約束通り手紙を送ってくれた父からの手紙が途切れたからだ。
それが一ヶ月前の話。
あちこちから浪士たちが集まっている今の京は、決して平穏な場所ではない。
武士に生活していけるだけのお金をくれるのは、彼らが仕えている主家だ。
しかし、主家を持たない浪士たちは、人々から無理矢理金を巻き上げることもある。
侍という権力を笠に着て、暴力を振るう乱暴者たち。
そんな浪士たちが今集まっているのが京の都。
実際、夷狄船が横浜湾や大坂湾に入ってきて国内は騒然としている。
幕府はそれらに何らまともな対処が取れなかったため、ここに来て天皇・朝廷が再び政治の表舞台へと引きずり出されようとしている。
それに伴い二百三十年間途切れていた将軍の上洛が決まり、それに付随する大名達が続々と京へ入ってきている。
それにかこつけて草莽の浪士たちや軍事改革派たちも京へと入ってきているのだ。
父のことを心配するその子は、まず今日泊まる宿を探す。
気がつけば日は落ち、夜も更けている。
しかし、ここは京の都。男装しているからとて安心していてはいけない。
「おい、そこの小僧」
さらに狭い路地を駆け抜ける。
すると
『こっち!』
暗闇でよく見えないが"誰かが"声をかけてきた。
浪士三人が追い付いてこないのを確認すると、その人は家と家との間に入るように促す。
立て掛けられた木の板たちが、しゃがみこんだ二人の姿を覆い隠してくれる。
「あの…貴方は?」
『私は赭月茜といいます。最近ここらは辻斬りとかが多いから、見回りしていたんです』
「そうなんですか」
『始終見ていましたが、災難でしたね』
「はい。あの、助けていただき、ありがとうございました」
『いえ。頼りない腕で、貴方みたいな"女の子"が三人も相手取れると思えませんから』
「わかるんですか?!」
『少し見れば分かります。動作や仕草が女の子ですし、喋り方なども柔らかい。なんせ顔がかわいすぎます』
バレていたのかと少し残念に思った子の名前は雪村千鶴という。
これからこの雪村千鶴と茜の運命は狂い咲く。
『おかしいですね』
「もっと声をあらげる場面を想像してました…」
『現れないどころか声すらないなんて…』
とそのとき
「ぎゃあああああああああっ!?」
彼らの絶叫が聞こえてきた。
「な、何……!?」
『……向こうで誰かに襲われているのは間違いありません』
本来なら隠れ続けているのが一番賢い行動だ、と千鶴は考えた。
しかし茜は一人で出ていこうとする。
「赭月さん!」
すると男達の方からさらに声がする。
「畜生、やりやがったな!」
「くそ、なんで死なねぇんだよ!……ダメだ、コイツら刀がきかねえ!」
千鶴は恐怖を感じた。
人の命を刈り取る可能性を秘めた、得体の知れないなにかが間近に存在している。
その可能性を考え始めると怖くて怖くてたまらなかったのだ。
茜は恐怖を感じていないようで、鋭い目付きで声のする方向を見ている。
茜は【何か】を知ろうと路地から顔を出して千鶴がかけてきた道をのぞき込む。
茜の目に映っているのは、月光に照らされた白刃の閃きに翻る浅葱色の羽織。
「ひ、ひひひひひ………」
「た、助け━━━」
浪士は命乞いをしながら後ずさる。
浅葱色の羽織をきた人々はなんのためらいもなく刀を振るった。
血が飛び散る音と浪士の叫ぶ声が千鶴の耳に届く。
それと同時にたか笑う薄気味悪い声。
暴力に任せて刀を振るう、技巧もなにもない滅多切り。
耳をつんざく絶叫が次第に弱々しく消えていく。
何があったのかと鶴姫に聞こうと立ち上がった千鶴は足に力が入らずにその場にへたりこむ。
茜は相変わらず鋭い眼差しで見つめているだけである。
"得たいの知れないなにか"は息絶えた浪士を、何度も何度も何度も何度も繰り返し斬って刺して突いて裂いた。
肉を切り、骨を断ち、血を流す。
他者の命を暴力で浸したい、ただそれだけの狂気。
彼らは人ではない、壊れてしまっている。
喉がつまるようで息ができない千鶴。
鼻先をかすめた濃い気配こそ、溢れかえる血の臭いなのだとようやく気づく。
『怖いですか?』
「怖いです……赭月さん、早く逃げなきゃ…」
震える唇はなんとか息を吐き出した。
しかし、恐怖に痺れた身体はうまく動かず木の板を倒してしまう。
浅葱の羽織を赤黒く染めた彼らが振り返る。
新たな獲物を見付けた歓喜にうち震える。
「━━━っ!」
怖い、まだ死にたくないという感情が千鶴を襲う。
狂った殺意は笑いながらかけてきた。
その彼らに茜が一太刀浴びせたと同時に、"別のだれか"も一太刀浴びせていた。
化け物たちは私や千鶴に触れる寸前でより鋭い白光に両断された。
びしゃり、と音を立てて地面に広がる鮮血。
熱くて生臭くて、ぬるりとしたもの。
私の胸に生まれた嫌悪感はその直後より強い風に吹き飛ばされた。
「あーあ、残念だなあ……」
言葉の持つ意味とは裏腹に、その声はおかしげに弾んでいた。
「僕一人で始末しちゃうつもりだったのに。一くん、こんな時に限って仕事が早いよね」
その人は恨み言を告げながら、楽しそうに微笑む。
「俺は務めを果たすべく動いたまでだ。……あんたと違って、俺に戦闘狂の気は無い」
「うわ、酷い言い草だなあ。まるで僕が戦闘狂みたいだ」
「……否定はしないのか」
一くんと呼ばれた人は呆れ混じりのため息を吐き、そして、私たちに視線をなげかけてきた。
その声、髪、手に持つ刀。全てに覚えがあった。
「でもさ、あいつらがこの子達を殺しちゃうまで黙って見てれば僕たちの手間も省けたんじゃないかな?」
固まる私たちを置いて話す茶髪の妙に無邪気な男の言葉で私は自分たちが追い込まれていることを改めて理解する。
異様な状況はまだ続いているのだ、と。
「さあな。……少なくとも、その判断は俺たちが下すべきものではない。」
「え?」
『判断を下す人がまだ他にいるということか』
静かに話す男への疑念を捨てきれないまま、私は彼らの他に複数人の気配を感じると共に浅葱色の隊服を着込んだ集団の話を思い出す。
その時、不意に影が差した。
見上げると一人の長髪の男が茜たちに刀を向ける。
刀の輝きが私には何故か舞い散る花びらを思い起こさせた。
まるで、狂い咲く桜のよう。
「……運のないやつだ。」
氷の刃にも似た、静かで冷たい声音。
星あかりに照らし出された端正な顔は言う。
「いいか、逃げるなよ。背を向ければ斬る」
静かな宣告が脅しではないとわかったから、私たちは何度も頷いた。
すると男は思い切り眉間に皺を寄せて、苦々しげに深いため息を吐いたのだった。
「あれ?いいんですか、土方さん。この子達、さっきの見ちゃったんですよ?」
茶髪の男が不思議そうに目を細めると、土方と呼ばれた男はますます渋い顔をする。
「いちいち余計なことを喋るんじゃねえよ。下手な話を聞かせちまうと、始末せざるを得なくなるだろうが」
話によると、やはりあの普通ではない人間たちは見てはいけないものだったらしい。
そして、隠しておきたい存在。
こんな状況下だというのに、私は彼らが嫌がるだろう方向へ理解を進めてしまう。
「この子達を生かしておいても、厄介なことにしかならないと思いますけどね」
ちらりと茜たちに目を向けた茶髪の男はまるで私の心を読んだような発言をする。
「とにかく殺せばいいってもんじゃねえだろ。……こいつらの処分は帰ってから決める。」
「俺は副長の判断に賛成です。ここに長く留まれば他のものに見つかるかもしれない」
そう言うと、一くんと呼ばれた男はついでのような仕草で自らが斬り殺した死体へと目を落とす。
「こうも血に狂うとは……やはり実務に使える代物ではないようです」
「……頭の痛ぇ話だ」
彼は感情の宿らない眼差しを足元に向けた。
そして不意に顔を歪めると、苛立たしげに他のふたりを睨みつけた。
「つうか、お前ら。土方とか副長とか呼んでんじゃねえよ。伏せろ」
「ええー?伏せるも何もこの隊服を着てる時点でバレバレだと思いますけど」
「……死体の処理は如何様に?肉体的な異常は特に現れていないようですが」
声をかけられた土方という男は短い思案を挟んだ後に口を開く。
「羽織だけ脱がせとけ。……あとは監察の方でなんとかする」
「承知しました」
「新選組の隊士が斬り殺されてるなんて、僕たちにとっても一大事ですしね」
茶髪の男はクスクスと笑いながら同意する。
「ま、後はここにいた奴が黙ってりゃ世間も勝手に納得してくれるだろうよ」
さりげなく圧をかけられたことは伝わってくる。
人が死ぬくらい京ではよくあることだ。
特に近頃では天誅と称して与力や奉行関係者、手を貸した一般市民たちが晒し首にされる事件が多く発生している。
そうだとしても、内輪の問題をそれに偽装してことを隠すなんてことは私には許せなかった。
一体なんの実験をしているのか。実務で使えるようにするために生身の人間を改造しているというのか。
そう考えると苛立たしさが込み上げて茜は唇をかんだ。
「ねえ、ところでさ。助けてあげたのにお礼のひとつも無いの?」
「え?」
唐突に話しかけられて千鶴が目を瞬いた。
「そんな、助けてあげたのにって……」
『自分たちがそんな化け物を生み出し、外にはなっておきながら助けてあげたのにとは随分な言い方だな』
「赭月さん……」
『隊服さえ着ていなければただの辻斬りとして世間は納得してくれる?そんな甘ったれた考えで市民を騙すのか!』
千鶴が怖がっているのはよく分かる。
ただ、ことを有耶無耶にしていいとは思わない。
そもそもこんな実験をしなければこんなことにはならなかった。
そういう思いが茜を突き動かしていた。
そんな茜を千鶴は落ち着かせようと立ち上がり、袴についた土を払い身だしなみを整えてから頭を下げた。
「あの、ありがとうございました。お礼を言うのが遅くなってすみません。……色々あって混乱していたもので」
そんな千鶴の様子を見たは衝撃を受けたように目を見開いていた。
土方と呼ばれた男は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「わ、私もおかしいかなとは思いました!でも、この人がお礼をいえとーー」
そう千鶴が茶髪の男をふと見ると言った当人までもが腹を抱えて笑っていた。
「あ……ごめんごめん。そうだよね、僕が言ったんだもんね」
ひいひい笑いすぎて涙目になった男は少しだけ背筋を正して千鶴に向き直る。
「どういたしまして。僕は沖田総司と言います。礼儀正しい子は嫌いじゃないよ?」
「ご丁寧に、どうも……」
千鶴はそう言うともう一度ぺこりと頭を下げた。
それを見た沖田総司は未だ礼を言わず立っている私の方を見る。
「で、君は?」
『三人いたうちの一人を斬り伏せていますし、あなた方がそもそもの事の発端だ。その責任を取らずして礼をいえとは些かおかしいように思うが。礼を言えの前にあんなものを世に出したことの謝罪をすべきじゃないのか?』
「へぇ……まあ、いいや。君みたいな強気な子も嫌いじゃないよ?君たちを助けてくれたのが斎藤一くん。それで、こっちの偉そうなのがーー」
「……わざわざ紹介してんじゃねえよ」
「副長。お気持ちはわかりますが、まず移動を」
斎藤は呆れ返った声に対して移動を促す。
沖田は千鶴の手首を掴むとそのまま笑顔で歩き始める。
「己のために最悪を想定しておけ。……刺していいようには転ばない」
斎藤はそういうと茜の刀を取ると歩き出した。
こうして二人は新選組の屯所へと連行されることとなった。
To be continued
