入隊希望者とその親族関係の明記を。
あなたを守ること 沖田
入隊希望者名簿
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元治二年二月――
ある日の朝食後。
大量のお茶をお盆に乗せて、千鶴と鶴姫は屯所の広間へ戻った。
『お茶が入りました』
「おお、すまないね、雪村君に穐月君。やっぱり寒い日には熱めのお茶がうまいねえ」
『ありがとうございます。美味く入れられてるといいんですけど』
このように言ってもらえると内心で少し誇らしくなる。
些細なことかもしれないが、少ししか出られない巡察以外で皆の役に立てているんだと思えるのだ。
父と兄を探しに京に来てから早くも一年が経つ。
屯所での暮らしは不自由で決して楽しいことばかりではない。
自分の父や兄も、千鶴の父も探しても探しても見つからず心が挫けてしまいそうになったことも少なくない。
しかし新選組の皆は決して諦めなかった。
皆が励ましてくれたから二人ともあきらめずに頑張り続けることが出来た。
そんな日々を過ごしている間に、どうやら二人はここが好きになっていたらしい。
鶴姫に関しては、初めは凄く新選組が憎かった。京を守るはずなのに不安に貶める新選組が。
しかし、一緒に過ごすうちに悪い人たちではないことが分かってきた。
千鶴や鶴姫、それぞれ池田屋や元治甲子の変、日常生活において少しだけ皆の手伝いができたと感じていた。
少しだけみんなに認められた気がしていたのである。
少しずつここに馴染んできたつもりだった。
だいそれた思いだとはわかっているが、自分の居場所ができたような気がしていた。
帰る場所のない鶴姫にとっては特に。
しかし、そんな中、土方が不意にぽつりと呟いた。
「八木さんたちにも世話になったが、この屯所もそろそろ手狭になってきたか。」
「まあ、確かに狭くなったなぁ。隊士の数も増えてきたし……」
永倉がしみじみと言う。
実際現時点でかなりの隊士人数になっている。
脱走した者も少なくないが、入ってくる者たちも多かった。
「隊士さんの数は……多分、まだまだ増えますよね」
今も藤堂が江戸に出張して新隊士の募集を頑張っている。
この新隊士募集が、後に事件を引き起こすことになるとはまだ誰も知らない。
『隊士が増えるのはいいことですが、屯所の広さには限りがありますものね。実際八木邸だけでなく前川邸にもお世話になっていますし』
「広いところに移れるならそれがいいんだけどな。雑魚寝してる連中、かなり辛そうだしな」
平隊士の皆は毎晩すし詰め状態での雑魚寝を強いられているのが現状だ。
やむを得ない事情があるとはいえ、個室を使ってる鶴姫たちはかなり申し訳ない。
「だけど、僕たち新選組を受け入れてくれる場所なんて、なにか心当たりでもあるんですか?」
軽い口調で沖田が尋ねると、ある男は薄く笑って返答した。
「西本願寺……、というのはどうかしら?」
「西本願寺ですと?……先方の同意を得られるとは思えませんが」
「でも、数百の隊士が寝起きできるほど広い場所なんて、ほかにないでしょう。それにあの場所なら、いざというときにも動きやすいと思うのだけれど」
そういうのは伊東甲子太郎。
新選組参謀兼文学師範。勤皇思想を持ちつつ、新選組に協力する人物。
江戸で北辰一刀流の道場主を務めていて学識も確か。先日藤堂の誘いで入隊。
当の藤堂はまだ江戸で募集をかけていて、ひと足早く帰ってきた近藤によって迎え入れられた。
伊東は藤堂とも親交のある北辰一刀流剣術道場の先生とのこと。
元々道場の先生をしてた訳ではなく、相続してのことらしい。
初めて伊東を紹介された時、皆はあんまりいい顔をしなかった。
もちろん鶴姫もその一人だ。
そんな男の言葉を聞いて沖田は楽しげに笑った。
「あははは!それ、絶対嫌がられるじゃないですか!」
「えっと……」
巡察以外に外出しない千鶴は相変わらず京の地理に疎い。
「確かにあの寺なら充分広いな。……ま、坊主共は嫌がるだろうが。それに西本願寺ならなら、いざと言う時にも動きやすい位置にある」
原田の言葉は千鶴には半分だけ理解出来た。
屯所がある【壬生】は京外れに位置しているし、大通りからは少し遠い。
市中巡察に出るにも少し不便な場所なのである。
「……そんなに嫌がられそうなんですか?」
おずおず質問した千鶴に斎藤が淡々とした口調で答える。
「西本願寺は長州に協力的だ。何度か浪士を匿っていたこともある」
『だから新選組がくると匿える場所が減る。協力しようにも出来なくなる』
「あ……」
「………向こうの同意を得るのは、決して容易なことではないだろう。しかし我々が西本願寺に移転すれば、穐月の言う通り長州は身を隠す場所をひとつ失うことになる」
「あ……!」
斎藤や鶴姫の解説に千鶴は思わず目を見開いた。
『広くて立地条件が良いだけじゃなく、移転すれば長州の動きを押えられます』
「そこまで考えての選定というわけですか。なるほど……!」
その時、山南が口を開く。
「僧侶の動きを武力で押さえつけるなど、見苦しいとは思いませんか?」
たしなめるような口調には、隠しきれない苛立ちが覗いている。
たいして土方はなだめるような声音でいう。
「寺と坊さんを隠れ蓑にして今まで好き勝手してきたのは長州だろ?」
「京の治安を乱す不逞浪士に配慮して差し上げるなんて、山南さんもお優しいこと」
「……過激な浪士を押さえる必要があるという点に関しては同意しますが」
山南はまだ不機嫌そうな顔をしている。
だが苦言を続けないあたり、納得はしているようだった。
「じゃあ、なんだ?斬り合うときは【やあやあ、我こそは】って名乗りを上げて、正々堂々とやるべきだとでもいうつもりか?不逞浪士がそんな、鎌倉武士みたいなご作法に付き合ってくれりゃいいがな」
「……三郎、口を慎みなさい」
「おっと、悪い。つい本音が出た。」
この男は伊東と一緒に入隊してきた三木三郎。
伊藤の実の弟で伊藤とともに入隊。九番組組長。
「皆さん方、ごめんなさいね。この子は昔から口が悪くて……山南さんもお気を悪くなさらないでくださいな。あなたのような方も、新選組を大きくしていく上では必要な方だと思いますし、たとえ左腕が使い物にならなくとも、その才覚と学識は隊のために大いに役立つはずですわ」
伊東の言葉に山南が唇をかむ。
「伊東さん、今のはどういう意味だ」
それまで沈黙していた土方が敵を詰問するときのような声色で言った。
伊東は少し驚いた様子で目を見開いている。
「あんたが言うように、山南さんは優秀な論客だ。……けどな、剣客としてもこの新選組に必要な人間なんだよ」
この言葉は紛れもなく土方の本音なのだろうが。
「ですが、私の腕は……」
土方の言葉で山南はますます気落ちした様子だった。
自分の言葉で山南さんをより落ち込ませてしあったと土方は苦い表情になる。
「……ごめんあそばせ。私としたことが、失言でしたわ。山南さんは、皆さん方の大事なお仲間ですものね。仲がよろしくて結構なことですわ……新たに入隊した隊士たちも同じ気持ちでいてくれるといいのですけど」
伊東の言葉はいちいち癇に障る。
土方が再び目を剥いた。
険悪になった雰囲気を取り繕うように近藤が言う。
「とりあえず、屯所移転の件に関しては、もう少し話し合ってから決めるということで……伊東さん、この後お付き合いを願えますかな。先ほどの件に関してもう少し詳しい話をお聞きしたいので」
「ええ、喜んで」
二人の様子を見て、端にいた武田も慌てた様子で立ち上がった。
近藤と伊東、武田が席を立つと、三木も広間を出ていった。
彼らの足音が聞こえなくなってから、沖田がうんざりした様子でつぶやく。
「……まったく。誰なのさ?あんな人たちを連れてきたのは」
「犯人は、まだ江戸にいるだろ。……平助の野郎、帰ってきたらとっちめてやる」
『あんな性格の人は、勧誘の段階では本性を隠すものと思います……』
「伊東さんは尊王攘夷派の人間と聞いたが、よく新選組に名を連ねる気になったものだな」
「長州のヤツらと同じ考えってことか。そんな人間が俺らと相いれられるのかね」
『尊皇攘夷派と言っても、色々いるということでしょう』
土方も不満げにため息を吐いたが、彼が口にするのは不平ではなかった。
「………佐幕攘夷派の近藤さんと【攘夷】の面では合意したんだろ」
外国勢力を打ち払いたいというのは、確かに二人とも同じ考えなのかもしれない。
その攘夷の仕方にあった。天皇によってなのか幕府によってなのかだ。
「それに近藤さんの佐幕には、幕府による尊王を目指してる面もあるしな」
尊王や佐幕と一口に言っても人によって色々と違いがある。
「つぅか伊東さんが来て喜んでるのって実は山南さんじゃねえの?」
不意に永倉が山南へ話題を振る。
「まー、一刀流つながりだしな」
「伊東さんとも知り合いなんだろ?それに、山南さんも尊王派だもんな」
伊東と山南には思わぬ繋がりがあった。
しかし山南はあまり嬉しそうな顔をせず、曖昧な微笑を浮かべるに留めた。
「確かに伊東さんとは以前から面識があります。学識も高く、弁舌に優れた方ですよ。……秀でた参謀の加入でついに総長はお役御免という訳ですね」
続けられた山南の言葉はとても重たい沈黙を招いた。
七月の元治甲子の変を経て、幕府の矛先が長州に向い、長州征伐が現実味を帯びるなか、新選組では出兵を意識した行軍録が編まれた。
元治元年十二月時点では、局長に近藤、総長に山南、副長に土方、沖田や永倉などが就いていた。
今までの副長助勤は組頭と呼称を変え、小荷駄雑具方には原田があたり、諸役が置かれた。
この時点では伊東は二番隊組頭であった。
参謀の記録があるのは慶応元年六月とされている。
「………伊東さんさえいてくれれば、私がここでなすべきことも残りわずかだ」
山南は独り言のような口調で呟きを洩らす。
伊東の出現は山南にとって自己の存在意義をゆるがすものらしい。
山南はそれだけ言うと広間から出ていった。
「……ま、確かにな。嫌な目をしたやつだとは思う。」
「だよなぁ。気取ってるっつうか、人を見下してるっつうか……」
原田と永倉も沖田の意見に同調する。
鶴姫や千鶴自身も正直なところ伊東は得意じゃない。
「………山南さんも可哀想だよな。最近隊士連中からも避けられてる」
「え……!?避けられてるなんて、初耳です……」
『私たちにさえあんな態度ですから、隊士たちはより避けますよね……』
「そうそう。隊士も怯えちまって近寄りたがらねぇんだ」
「昔はああじゃなかったんだけどなぁ。表面的には親切で面倒見が良かったし」
「だな。あんなに優しかった外面が今は見る影もねぇや……」
あれから土方や沖田が伊東を返品するだのしないだのと話をした。
伊東は同士を連れて新選組に加入したため、そんなことをしたら同士が納得しないだろうと、話は終わった。
外に出てみると夕陽は赤々と燃えて、何だかとても綺麗に見えた。
気分転換のつもりで外に出てみたのはいいが
『寒い……』
腕を擦りながら山南の腕が治る方法について考えてみる。
鬼でもない限り、使えなくなった腕が使えるようになるなんて話は無さそうだ。
もしそんなことができれば、長州が目をつけるはず。
その時、ふと過去に沖田が言っていたことを思い出す。
「薬でも何でも使ってもらうしかないですね。山南さんも、納得してくれるんじゃないかなあ」
「総司。……滅多なことを言うもんじゃねぇ。幹部が【羅刹】になってどうすんだよ?」
この発言から新選組にやはり秘密の【薬】があることはわかった。
ただ、皆の口振りからして使い勝手のいいものでは無さそうだ。
血に狂った隊士とも何らかの関わりがあるのかもしれない。
もし山南があのような血に飢えた化け物になれば手をつけられなくなるだろう。
それに、千鶴や鶴姫が知ってはいけないこと。
勝手に調べているところが見つかれば、まず間違いなく怒られる。
鶴姫だけでなく千鶴も殺される可能性だって出てくる。
『私一人の動きで千鶴まで巻き込むことになるのはまずい。我慢我慢』
鶴姫は何もせずに部屋に戻ってきた。
勝手に動いて千鶴に迷惑をかける訳にもいかない。
だが、千鶴が同じことを考えをもっていたら。
そうなれば必ず調べる。そうなれば処遇だってどうなるかわからない。
そう考えて鶴姫は薬について調べることにしたのだった。
八木邸には立ち入りが認められていない部屋もある。
それに新選組には八木邸以外にも屯所を構成する建物はある。
日が完全に沈んだ頃。
鶴姫は八木邸にいる隊士たちが眠りにつくのを待った。
横に千鶴が寝ているのを確認すると#NAME1##はひそかに部屋を抜け出した。
周りを注意深く探しながら八木邸の玄関へとたどり着く。
『なんとかつけた……よかった』
そうと思った時だった。
「こんばんは、鶴姫ちゃん。何がよかったの?」
『……総司。その、眠れなくて』
「本当に?」
『……うん』
「こんな時間に人目を盗んで部屋を抜け出すなんて、脱走以外考えられないんだけど」
『ここに来て今更そんなこと考えてないって』
そう食ってかかるが、沖田はいつものようにニコニコして言う。
「……冗談だよ。もし鶴姫ちゃんが本当に脱走したら斬っちゃえばいいだけだし」
『……』
「だけど、もし怖いものを見たら、すぐに声を上げて助けを呼ぶんだよ。いくら鶴姫ちゃんでも危ないこともあるでしょ」
一応心配はしてくれるらしい。
「一人でなにかしようなんて思わなくていいから。……わかった?」
『わかった。でも、怖いものって……?』
「怖い夢とか、怖いお化けとか、あ、大穴で鬼副長なんでどうかな?」
『………からかわないで。でも鬼副長は怖いかな』
とはいうものの、薬のこと、できるなら調べたい。
『じゃ、部屋に戻るね』
「いい子だね、鶴姫ちゃん。じゃ僕は中庭を一周してこようかな」
そう言って沖田は先に行ってしまう。
(とは言ったけど……部屋に戻るわけないの。ごめんね)
そう心の中でつぶやくと、鶴姫は部屋に戻るふりをしてまず八木邸を調べることにした。
すると、広間に入っていった人影が見えた。
それを追っていくと、そこには山南の姿があった。
手には何やら赤い液体の入った硝子の小瓶。
「穐月君、そこにいるのでしょう?出てきなさい」
『気づいておられたのですか…』
「ええ。それに叱るつもりはありませんよ。夜中に怪しい人影を見たら気にかかるのは当然でしょうしね」
山南の様子に鶴姫は少なからず違和感を覚える。
まるで、すべての悩みが解決したような爽やかな微笑。
腕を怪我してからというもの、見たことのない表情だ。
『山南さん、その液体は何ですか』
この液体は千鶴の父である綱道が幕府の密旨を受けて作った【薬】だという。
鶴姫は驚いた。千鶴の父親が幕府から命じられて訳の分からない【薬】を作っていたのだ。
人間に激的な変化をもたらす秘薬として西洋から渡来したものだそう。
激的な変化とは、主に筋力と自己治癒力の増強。
しかし、これには致命的な欠陥があったという。
強すぎる薬の効果が、人の精神を狂わすに至ったのだ。
投薬された人間がどうなるか、その姿は鶴姫たちが一度目にしたものだった。
山南の言葉が何を指しているのか、鶴姫には直感的に理解できた。
と同時に千鶴の父親がが幕府の命令だからといってそんなものに関わっていたのかと困惑した。
千鶴にどう説明する…
其ればかりが頭の中をぐるぐるとめぐる。
だが、綱道が行方不明となり【薬】の研究は中断された。
その綱道が残した資料を元にして山南なりに手を加えたのが、【これ】だという。
綱道の作った原液を可能な限り薄めて作られた【これ】を飲むことは大丈夫なのか、体にどのような変化が起こるのか。
鶴姫はまくし立てるように問いただした。
山南自身、誰にも試したことがないから分からないと言う。
山南は【薬】の調合が成功さえしていれば腕は治るといった。
『考え直すつもりはありませんか?』
「こんなものに頼らないと自分の腕は治らないのですよ!私は最早、用済みとなった人間です。普通の隊士まで陰口をたたいてるのは、知っています。あなたにはわからないでしょうね。大いなる志を持って、同士とともに江戸から上ってきたというのに……何の役にも立てぬまま、お情けで重職を与えられ続けている私の気持ちなど」
どう説得しても聞き入れてくれない山南。
どうすると考えて、鶴姫は沖田の言葉を思い出す。
『総司!!』
そう叫んだのと同時に山南が液体を一気に飲み干してしまう。
山南は苦しげに顔を歪め、その場に膝をついた。
髪の毛がどんどん白く染まっていく。
「ぐぁ……が……!」
『山南さん!しっかりしてください!』
崩れ落ちる山南に、鶴姫はすぐさま駆け寄った。
指の間からは赤く染まった狂気の瞳がみえる。
鶴姫が千鶴と出会った日に見たのと同じ瞳。
すると背後に沖田がやってきた。
「沖田くん……ですか……」
「こんばんは、山南さん。鶴姫ちゃんは大丈夫?」
『ええ……』
「……教えてくれてありがとう鶴姫ちゃん。ちょっとさがってて」
「見ての通り………実験は、失敗です……沖田くん……お願いできますか?」
苦悶の混じる山南の声を受け、沖田が小さく頷く。
細い瞳、柔らかく曲げた唇、そっと緩めた頬。
どれをとってもいつもの沖田の笑顔なのに。
それなのに。その笑顔が酷くつらそうに見えた。
「……ええ、わかってます。安心してください。……きちんと、僕が介錯してあげますよ」
沖田は躊躇することなく刀に手をかける。
その動きに鶴姫は体をびくりと身を震わせた。
『山南さんを斬るの……?また仲間を斬る道しかないの!?』
「………鶴姫ちゃんさ」
止めようとした鶴姫に沖田の煩わしげな視線が向けられる。
それは恐ろしいほど冷たい視線だった。
「やめてくれないかな、そういうの……部外者は黙っててほしいんだ」
部外者。その言葉が鶴姫に突き刺さる。
「君は新選組の一員にじゃないんだ」
氷の視線に頬をはられた気分だった。
屯所で暮らすようになってから随分たった。
当初感じていた不安や怒りも薄れて、すっかり馴染んだ気になっていた。
「忘れたって言うならもう一度言ってあげるよ。君たちは利用価値があるから生かしてるだけで、別に僕たちの仲間とかじゃない。よくからかったりもしたけどさ、別に仲良い訳でもないし」
そう、私たちは仲間なんかじゃない━━。
それでも、仲間内で殺生をするなど許せない。
そう小さくつぶやいた鶴姫の声は沖田には届かない。
「……っぐぁぁ!」
白髪と化した山南が床を蹴るのも
沖田が構えた白刃に身をさらすのも
手を伸ばせば触れられそうな距離なのに触れられない。
その様子は、腕がたとうとも鶴姫が近づけない、どこか遠くの世界の出来事に感じられた。
「……が……!」
鶴姫からは沖田の背しか見えなかった。
涙にも似た紅が宙を舞う姿しか見えなかった。
この瞬間、沖田がどんな表情だったかを知る唯一の人は、静かに崩れ落ちる。
『山南さんっ!』
床に血が拡がっていく。
悲鳴をあげて駆け寄ろうとした鶴姫を、沖田が手で制した。
「……近づかない方がいいよ」
『……』
「……近づかない方がいい。動かないように深手をおわせたけど、また襲いかかってこないとは限らないしね。知ってると思うけど、あの薬を使ったのなら、この程度の傷では死にはしないし……死ねもしないんだよ」
山南さんが倒れたとの声を聞き付けた幹部たちがばたばたと広間にやってきた。
みんなが何か言っていたような気がする。
『…………』
山南が斬られた時、ただただ立ち尽くすしか出来なかった鶴姫は、幹部たちの集合と同時に意識を手放した。
手放す時、一瞬瞳にあの時とおなじ痛みが走った。
さらに意識を手放す時、みんなが名前を呼んでいたような気がする。
うっすらと遠のいていく声と、瞼を閉じる時に一瞬だけ沖田の悲しげな表情が見えた。
この日の最後に見たのはそんな景色だった。
『………』
ふと我に返ったとき、鶴姫は自分の部屋にいた。
「……手間がかかる子だよね、君って」
『!』
意識を失う直前の記憶が蘇る。
”仲間なんかじゃない””仲間なんかじゃない”
この言葉と沖田の酷く冷たい表情を思い出す。
「説明してくれるかな。どうして山南さんと一緒にいたの」
『部屋に戻る途中、広間から人の気配がしたの……気になったから後をつけたら山南さんがいて』
「ふうん……」
自分から聞いておいて興味がなさそうに漏らす。
そんな沖田に視線を合わさず鶴姫は問うた。
『山南さんが飲んだ薬に、千鶴の父親が関わっていたのは本当?』
「……山南さんから聞いたの、それ?あの【薬】についても?」
『うん。人を強くする代わりに精神を狂わせてしまうと』
沖田は物憂げな表情でしばらく天井を見上げていたが、やがて口を開いた。
「君は狂った隊士とも実際に会ってるし、少しくらいなら聞かせてあげてもいいかな……本当なら殺しちゃいたいところだけど」
沖田の目は決して笑っていなかった。
沖田はいつだって鶴姫たちのことを殺せるのだと、改めて思い知った。
「……【薬】のこと、なにか質問ある?ひとつくらいなら答えてあげるけど」
『どうして新選組はそんな【薬】に関わったの?』
「治安を守るために浪士を取り締まる……、なんて言うほど簡単じゃないのは君もわかってるよね」
『ええ』
「最初の頃はとにかく人手が足りなかったんだ。僕たちの名前なんて全然知られてないし、給金だって満足に出なかったからさ。入隊希望者なんて滅多にいないし、たまに来ても得体のしれない破落戸ばっかり。そんな時幕府の偉い人が、【薬】の実験をもちかけてきたんだ」
幕府の偉い人からの提案など、幕府のために働いている新選組には断りたくても断りきれなかったに違いない。
何より双方の利害が一致してしまった。
幕府は【薬】の調整を行うため、新選組は人手不足を解消するために。
『総司たちは副作用を知っていて、隊士に【薬】を使わせたの?』
「彼らも合意の上だよ。新選組の規則に背いたら即座に切腹なんだけど、──切腹するか薬を飲むか、好きな方を選ばせただけだよ。……ね?可哀想でしょう。簡単に強くなれる薬なんて便利だよね。実際は全然大したこと無かったんだけど」
笑みをたやさない沖田の瞳には、ほのかないらだちが紛れているように見えた。
きっと山南のことを気にしているのだと思う。
『……』
鶴姫はただただ黙って聞いていた。
色々と感じてはいたが、【薬】が本人同意の元で飲まれていたこと。
千鶴の父親がその開発に携わっていたこと。
そして、自分たちは仲間なんかじゃないこと。
『一人にしてほしい』
「わかった」
いつもとは違い、素直に部屋を出ていく沖田。
「……ごめんね」
小さく呟かれた声は鶴姫には届かなかった。
沖田は中庭に出て空を見上げる。
「やだなあ、立ち聞きなんて」
「穐月の様子がおかしかったからな」
「ああ、そう」
「何か言ったのか」
「仲間なんかじゃないって言ったよ」
「……あんたは穐月のことを特に気にかけていただろ。一人にしておくと壊れてしまいそうだと」
「そんなこと言ったかなあ」
斎藤に顔を向けずに月を見て話す沖田。
その背中はどこか寂しげにも見えた。
「思ってもないことは口には出さぬ事だ。鶴姫は冗談が効く時が少ないだろう」
「やだなあ。冗談なんかで言ってないよ」
斎藤はそれには答えずその場を去っていった。
一人残された沖田はそのまま月を見上げる。
「ほんと、本気で言ったんだよ……接していくうちにわかったけど、鶴姫ちゃんといると、僕が壊れそうなんだ」
この言葉も、夜風に乗って誰に伝わるわけでもなく空へと舞い上がっていった。
To be continued
ある日の朝食後。
大量のお茶をお盆に乗せて、千鶴と鶴姫は屯所の広間へ戻った。
『お茶が入りました』
「おお、すまないね、雪村君に穐月君。やっぱり寒い日には熱めのお茶がうまいねえ」
『ありがとうございます。美味く入れられてるといいんですけど』
このように言ってもらえると内心で少し誇らしくなる。
些細なことかもしれないが、少ししか出られない巡察以外で皆の役に立てているんだと思えるのだ。
父と兄を探しに京に来てから早くも一年が経つ。
屯所での暮らしは不自由で決して楽しいことばかりではない。
自分の父や兄も、千鶴の父も探しても探しても見つからず心が挫けてしまいそうになったことも少なくない。
しかし新選組の皆は決して諦めなかった。
皆が励ましてくれたから二人ともあきらめずに頑張り続けることが出来た。
そんな日々を過ごしている間に、どうやら二人はここが好きになっていたらしい。
鶴姫に関しては、初めは凄く新選組が憎かった。京を守るはずなのに不安に貶める新選組が。
しかし、一緒に過ごすうちに悪い人たちではないことが分かってきた。
千鶴や鶴姫、それぞれ池田屋や元治甲子の変、日常生活において少しだけ皆の手伝いができたと感じていた。
少しだけみんなに認められた気がしていたのである。
少しずつここに馴染んできたつもりだった。
だいそれた思いだとはわかっているが、自分の居場所ができたような気がしていた。
帰る場所のない鶴姫にとっては特に。
しかし、そんな中、土方が不意にぽつりと呟いた。
「八木さんたちにも世話になったが、この屯所もそろそろ手狭になってきたか。」
「まあ、確かに狭くなったなぁ。隊士の数も増えてきたし……」
永倉がしみじみと言う。
実際現時点でかなりの隊士人数になっている。
脱走した者も少なくないが、入ってくる者たちも多かった。
「隊士さんの数は……多分、まだまだ増えますよね」
今も藤堂が江戸に出張して新隊士の募集を頑張っている。
この新隊士募集が、後に事件を引き起こすことになるとはまだ誰も知らない。
『隊士が増えるのはいいことですが、屯所の広さには限りがありますものね。実際八木邸だけでなく前川邸にもお世話になっていますし』
「広いところに移れるならそれがいいんだけどな。雑魚寝してる連中、かなり辛そうだしな」
平隊士の皆は毎晩すし詰め状態での雑魚寝を強いられているのが現状だ。
やむを得ない事情があるとはいえ、個室を使ってる鶴姫たちはかなり申し訳ない。
「だけど、僕たち新選組を受け入れてくれる場所なんて、なにか心当たりでもあるんですか?」
軽い口調で沖田が尋ねると、ある男は薄く笑って返答した。
「西本願寺……、というのはどうかしら?」
「西本願寺ですと?……先方の同意を得られるとは思えませんが」
「でも、数百の隊士が寝起きできるほど広い場所なんて、ほかにないでしょう。それにあの場所なら、いざというときにも動きやすいと思うのだけれど」
そういうのは伊東甲子太郎。
新選組参謀兼文学師範。勤皇思想を持ちつつ、新選組に協力する人物。
江戸で北辰一刀流の道場主を務めていて学識も確か。先日藤堂の誘いで入隊。
当の藤堂はまだ江戸で募集をかけていて、ひと足早く帰ってきた近藤によって迎え入れられた。
伊東は藤堂とも親交のある北辰一刀流剣術道場の先生とのこと。
元々道場の先生をしてた訳ではなく、相続してのことらしい。
初めて伊東を紹介された時、皆はあんまりいい顔をしなかった。
もちろん鶴姫もその一人だ。
そんな男の言葉を聞いて沖田は楽しげに笑った。
「あははは!それ、絶対嫌がられるじゃないですか!」
「えっと……」
巡察以外に外出しない千鶴は相変わらず京の地理に疎い。
「確かにあの寺なら充分広いな。……ま、坊主共は嫌がるだろうが。それに西本願寺ならなら、いざと言う時にも動きやすい位置にある」
原田の言葉は千鶴には半分だけ理解出来た。
屯所がある【壬生】は京外れに位置しているし、大通りからは少し遠い。
市中巡察に出るにも少し不便な場所なのである。
「……そんなに嫌がられそうなんですか?」
おずおず質問した千鶴に斎藤が淡々とした口調で答える。
「西本願寺は長州に協力的だ。何度か浪士を匿っていたこともある」
『だから新選組がくると匿える場所が減る。協力しようにも出来なくなる』
「あ……」
「………向こうの同意を得るのは、決して容易なことではないだろう。しかし我々が西本願寺に移転すれば、穐月の言う通り長州は身を隠す場所をひとつ失うことになる」
「あ……!」
斎藤や鶴姫の解説に千鶴は思わず目を見開いた。
『広くて立地条件が良いだけじゃなく、移転すれば長州の動きを押えられます』
「そこまで考えての選定というわけですか。なるほど……!」
その時、山南が口を開く。
「僧侶の動きを武力で押さえつけるなど、見苦しいとは思いませんか?」
たしなめるような口調には、隠しきれない苛立ちが覗いている。
たいして土方はなだめるような声音でいう。
「寺と坊さんを隠れ蓑にして今まで好き勝手してきたのは長州だろ?」
「京の治安を乱す不逞浪士に配慮して差し上げるなんて、山南さんもお優しいこと」
「……過激な浪士を押さえる必要があるという点に関しては同意しますが」
山南はまだ不機嫌そうな顔をしている。
だが苦言を続けないあたり、納得はしているようだった。
「じゃあ、なんだ?斬り合うときは【やあやあ、我こそは】って名乗りを上げて、正々堂々とやるべきだとでもいうつもりか?不逞浪士がそんな、鎌倉武士みたいなご作法に付き合ってくれりゃいいがな」
「……三郎、口を慎みなさい」
「おっと、悪い。つい本音が出た。」
この男は伊東と一緒に入隊してきた三木三郎。
伊藤の実の弟で伊藤とともに入隊。九番組組長。
「皆さん方、ごめんなさいね。この子は昔から口が悪くて……山南さんもお気を悪くなさらないでくださいな。あなたのような方も、新選組を大きくしていく上では必要な方だと思いますし、たとえ左腕が使い物にならなくとも、その才覚と学識は隊のために大いに役立つはずですわ」
伊東の言葉に山南が唇をかむ。
「伊東さん、今のはどういう意味だ」
それまで沈黙していた土方が敵を詰問するときのような声色で言った。
伊東は少し驚いた様子で目を見開いている。
「あんたが言うように、山南さんは優秀な論客だ。……けどな、剣客としてもこの新選組に必要な人間なんだよ」
この言葉は紛れもなく土方の本音なのだろうが。
「ですが、私の腕は……」
土方の言葉で山南はますます気落ちした様子だった。
自分の言葉で山南さんをより落ち込ませてしあったと土方は苦い表情になる。
「……ごめんあそばせ。私としたことが、失言でしたわ。山南さんは、皆さん方の大事なお仲間ですものね。仲がよろしくて結構なことですわ……新たに入隊した隊士たちも同じ気持ちでいてくれるといいのですけど」
伊東の言葉はいちいち癇に障る。
土方が再び目を剥いた。
険悪になった雰囲気を取り繕うように近藤が言う。
「とりあえず、屯所移転の件に関しては、もう少し話し合ってから決めるということで……伊東さん、この後お付き合いを願えますかな。先ほどの件に関してもう少し詳しい話をお聞きしたいので」
「ええ、喜んで」
二人の様子を見て、端にいた武田も慌てた様子で立ち上がった。
近藤と伊東、武田が席を立つと、三木も広間を出ていった。
彼らの足音が聞こえなくなってから、沖田がうんざりした様子でつぶやく。
「……まったく。誰なのさ?あんな人たちを連れてきたのは」
「犯人は、まだ江戸にいるだろ。……平助の野郎、帰ってきたらとっちめてやる」
『あんな性格の人は、勧誘の段階では本性を隠すものと思います……』
「伊東さんは尊王攘夷派の人間と聞いたが、よく新選組に名を連ねる気になったものだな」
「長州のヤツらと同じ考えってことか。そんな人間が俺らと相いれられるのかね」
『尊皇攘夷派と言っても、色々いるということでしょう』
土方も不満げにため息を吐いたが、彼が口にするのは不平ではなかった。
「………佐幕攘夷派の近藤さんと【攘夷】の面では合意したんだろ」
外国勢力を打ち払いたいというのは、確かに二人とも同じ考えなのかもしれない。
その攘夷の仕方にあった。天皇によってなのか幕府によってなのかだ。
「それに近藤さんの佐幕には、幕府による尊王を目指してる面もあるしな」
尊王や佐幕と一口に言っても人によって色々と違いがある。
「つぅか伊東さんが来て喜んでるのって実は山南さんじゃねえの?」
不意に永倉が山南へ話題を振る。
「まー、一刀流つながりだしな」
「伊東さんとも知り合いなんだろ?それに、山南さんも尊王派だもんな」
伊東と山南には思わぬ繋がりがあった。
しかし山南はあまり嬉しそうな顔をせず、曖昧な微笑を浮かべるに留めた。
「確かに伊東さんとは以前から面識があります。学識も高く、弁舌に優れた方ですよ。……秀でた参謀の加入でついに総長はお役御免という訳ですね」
続けられた山南の言葉はとても重たい沈黙を招いた。
七月の元治甲子の変を経て、幕府の矛先が長州に向い、長州征伐が現実味を帯びるなか、新選組では出兵を意識した行軍録が編まれた。
元治元年十二月時点では、局長に近藤、総長に山南、副長に土方、沖田や永倉などが就いていた。
今までの副長助勤は組頭と呼称を変え、小荷駄雑具方には原田があたり、諸役が置かれた。
この時点では伊東は二番隊組頭であった。
参謀の記録があるのは慶応元年六月とされている。
「………伊東さんさえいてくれれば、私がここでなすべきことも残りわずかだ」
山南は独り言のような口調で呟きを洩らす。
伊東の出現は山南にとって自己の存在意義をゆるがすものらしい。
山南はそれだけ言うと広間から出ていった。
「……ま、確かにな。嫌な目をしたやつだとは思う。」
「だよなぁ。気取ってるっつうか、人を見下してるっつうか……」
原田と永倉も沖田の意見に同調する。
鶴姫や千鶴自身も正直なところ伊東は得意じゃない。
「………山南さんも可哀想だよな。最近隊士連中からも避けられてる」
「え……!?避けられてるなんて、初耳です……」
『私たちにさえあんな態度ですから、隊士たちはより避けますよね……』
「そうそう。隊士も怯えちまって近寄りたがらねぇんだ」
「昔はああじゃなかったんだけどなぁ。表面的には親切で面倒見が良かったし」
「だな。あんなに優しかった外面が今は見る影もねぇや……」
あれから土方や沖田が伊東を返品するだのしないだのと話をした。
伊東は同士を連れて新選組に加入したため、そんなことをしたら同士が納得しないだろうと、話は終わった。
外に出てみると夕陽は赤々と燃えて、何だかとても綺麗に見えた。
気分転換のつもりで外に出てみたのはいいが
『寒い……』
腕を擦りながら山南の腕が治る方法について考えてみる。
鬼でもない限り、使えなくなった腕が使えるようになるなんて話は無さそうだ。
もしそんなことができれば、長州が目をつけるはず。
その時、ふと過去に沖田が言っていたことを思い出す。
「薬でも何でも使ってもらうしかないですね。山南さんも、納得してくれるんじゃないかなあ」
「総司。……滅多なことを言うもんじゃねぇ。幹部が【羅刹】になってどうすんだよ?」
この発言から新選組にやはり秘密の【薬】があることはわかった。
ただ、皆の口振りからして使い勝手のいいものでは無さそうだ。
血に狂った隊士とも何らかの関わりがあるのかもしれない。
もし山南があのような血に飢えた化け物になれば手をつけられなくなるだろう。
それに、千鶴や鶴姫が知ってはいけないこと。
勝手に調べているところが見つかれば、まず間違いなく怒られる。
鶴姫だけでなく千鶴も殺される可能性だって出てくる。
『私一人の動きで千鶴まで巻き込むことになるのはまずい。我慢我慢』
鶴姫は何もせずに部屋に戻ってきた。
勝手に動いて千鶴に迷惑をかける訳にもいかない。
だが、千鶴が同じことを考えをもっていたら。
そうなれば必ず調べる。そうなれば処遇だってどうなるかわからない。
そう考えて鶴姫は薬について調べることにしたのだった。
八木邸には立ち入りが認められていない部屋もある。
それに新選組には八木邸以外にも屯所を構成する建物はある。
日が完全に沈んだ頃。
鶴姫は八木邸にいる隊士たちが眠りにつくのを待った。
横に千鶴が寝ているのを確認すると#NAME1##はひそかに部屋を抜け出した。
周りを注意深く探しながら八木邸の玄関へとたどり着く。
『なんとかつけた……よかった』
そうと思った時だった。
「こんばんは、鶴姫ちゃん。何がよかったの?」
『……総司。その、眠れなくて』
「本当に?」
『……うん』
「こんな時間に人目を盗んで部屋を抜け出すなんて、脱走以外考えられないんだけど」
『ここに来て今更そんなこと考えてないって』
そう食ってかかるが、沖田はいつものようにニコニコして言う。
「……冗談だよ。もし鶴姫ちゃんが本当に脱走したら斬っちゃえばいいだけだし」
『……』
「だけど、もし怖いものを見たら、すぐに声を上げて助けを呼ぶんだよ。いくら鶴姫ちゃんでも危ないこともあるでしょ」
一応心配はしてくれるらしい。
「一人でなにかしようなんて思わなくていいから。……わかった?」
『わかった。でも、怖いものって……?』
「怖い夢とか、怖いお化けとか、あ、大穴で鬼副長なんでどうかな?」
『………からかわないで。でも鬼副長は怖いかな』
とはいうものの、薬のこと、できるなら調べたい。
『じゃ、部屋に戻るね』
「いい子だね、鶴姫ちゃん。じゃ僕は中庭を一周してこようかな」
そう言って沖田は先に行ってしまう。
(とは言ったけど……部屋に戻るわけないの。ごめんね)
そう心の中でつぶやくと、鶴姫は部屋に戻るふりをしてまず八木邸を調べることにした。
すると、広間に入っていった人影が見えた。
それを追っていくと、そこには山南の姿があった。
手には何やら赤い液体の入った硝子の小瓶。
「穐月君、そこにいるのでしょう?出てきなさい」
『気づいておられたのですか…』
「ええ。それに叱るつもりはありませんよ。夜中に怪しい人影を見たら気にかかるのは当然でしょうしね」
山南の様子に鶴姫は少なからず違和感を覚える。
まるで、すべての悩みが解決したような爽やかな微笑。
腕を怪我してからというもの、見たことのない表情だ。
『山南さん、その液体は何ですか』
この液体は千鶴の父である綱道が幕府の密旨を受けて作った【薬】だという。
鶴姫は驚いた。千鶴の父親が幕府から命じられて訳の分からない【薬】を作っていたのだ。
人間に激的な変化をもたらす秘薬として西洋から渡来したものだそう。
激的な変化とは、主に筋力と自己治癒力の増強。
しかし、これには致命的な欠陥があったという。
強すぎる薬の効果が、人の精神を狂わすに至ったのだ。
投薬された人間がどうなるか、その姿は鶴姫たちが一度目にしたものだった。
山南の言葉が何を指しているのか、鶴姫には直感的に理解できた。
と同時に千鶴の父親がが幕府の命令だからといってそんなものに関わっていたのかと困惑した。
千鶴にどう説明する…
其ればかりが頭の中をぐるぐるとめぐる。
だが、綱道が行方不明となり【薬】の研究は中断された。
その綱道が残した資料を元にして山南なりに手を加えたのが、【これ】だという。
綱道の作った原液を可能な限り薄めて作られた【これ】を飲むことは大丈夫なのか、体にどのような変化が起こるのか。
鶴姫はまくし立てるように問いただした。
山南自身、誰にも試したことがないから分からないと言う。
山南は【薬】の調合が成功さえしていれば腕は治るといった。
『考え直すつもりはありませんか?』
「こんなものに頼らないと自分の腕は治らないのですよ!私は最早、用済みとなった人間です。普通の隊士まで陰口をたたいてるのは、知っています。あなたにはわからないでしょうね。大いなる志を持って、同士とともに江戸から上ってきたというのに……何の役にも立てぬまま、お情けで重職を与えられ続けている私の気持ちなど」
どう説得しても聞き入れてくれない山南。
どうすると考えて、鶴姫は沖田の言葉を思い出す。
『総司!!』
そう叫んだのと同時に山南が液体を一気に飲み干してしまう。
山南は苦しげに顔を歪め、その場に膝をついた。
髪の毛がどんどん白く染まっていく。
「ぐぁ……が……!」
『山南さん!しっかりしてください!』
崩れ落ちる山南に、鶴姫はすぐさま駆け寄った。
指の間からは赤く染まった狂気の瞳がみえる。
鶴姫が千鶴と出会った日に見たのと同じ瞳。
すると背後に沖田がやってきた。
「沖田くん……ですか……」
「こんばんは、山南さん。鶴姫ちゃんは大丈夫?」
『ええ……』
「……教えてくれてありがとう鶴姫ちゃん。ちょっとさがってて」
「見ての通り………実験は、失敗です……沖田くん……お願いできますか?」
苦悶の混じる山南の声を受け、沖田が小さく頷く。
細い瞳、柔らかく曲げた唇、そっと緩めた頬。
どれをとってもいつもの沖田の笑顔なのに。
それなのに。その笑顔が酷くつらそうに見えた。
「……ええ、わかってます。安心してください。……きちんと、僕が介錯してあげますよ」
沖田は躊躇することなく刀に手をかける。
その動きに鶴姫は体をびくりと身を震わせた。
『山南さんを斬るの……?また仲間を斬る道しかないの!?』
「………鶴姫ちゃんさ」
止めようとした鶴姫に沖田の煩わしげな視線が向けられる。
それは恐ろしいほど冷たい視線だった。
「やめてくれないかな、そういうの……部外者は黙っててほしいんだ」
部外者。その言葉が鶴姫に突き刺さる。
「君は新選組の一員にじゃないんだ」
氷の視線に頬をはられた気分だった。
屯所で暮らすようになってから随分たった。
当初感じていた不安や怒りも薄れて、すっかり馴染んだ気になっていた。
「忘れたって言うならもう一度言ってあげるよ。君たちは利用価値があるから生かしてるだけで、別に僕たちの仲間とかじゃない。よくからかったりもしたけどさ、別に仲良い訳でもないし」
そう、私たちは仲間なんかじゃない━━。
それでも、仲間内で殺生をするなど許せない。
そう小さくつぶやいた鶴姫の声は沖田には届かない。
「……っぐぁぁ!」
白髪と化した山南が床を蹴るのも
沖田が構えた白刃に身をさらすのも
手を伸ばせば触れられそうな距離なのに触れられない。
その様子は、腕がたとうとも鶴姫が近づけない、どこか遠くの世界の出来事に感じられた。
「……が……!」
鶴姫からは沖田の背しか見えなかった。
涙にも似た紅が宙を舞う姿しか見えなかった。
この瞬間、沖田がどんな表情だったかを知る唯一の人は、静かに崩れ落ちる。
『山南さんっ!』
床に血が拡がっていく。
悲鳴をあげて駆け寄ろうとした鶴姫を、沖田が手で制した。
「……近づかない方がいいよ」
『……』
「……近づかない方がいい。動かないように深手をおわせたけど、また襲いかかってこないとは限らないしね。知ってると思うけど、あの薬を使ったのなら、この程度の傷では死にはしないし……死ねもしないんだよ」
山南さんが倒れたとの声を聞き付けた幹部たちがばたばたと広間にやってきた。
みんなが何か言っていたような気がする。
『…………』
山南が斬られた時、ただただ立ち尽くすしか出来なかった鶴姫は、幹部たちの集合と同時に意識を手放した。
手放す時、一瞬瞳にあの時とおなじ痛みが走った。
さらに意識を手放す時、みんなが名前を呼んでいたような気がする。
うっすらと遠のいていく声と、瞼を閉じる時に一瞬だけ沖田の悲しげな表情が見えた。
この日の最後に見たのはそんな景色だった。
『………』
ふと我に返ったとき、鶴姫は自分の部屋にいた。
「……手間がかかる子だよね、君って」
『!』
意識を失う直前の記憶が蘇る。
”仲間なんかじゃない””仲間なんかじゃない”
この言葉と沖田の酷く冷たい表情を思い出す。
「説明してくれるかな。どうして山南さんと一緒にいたの」
『部屋に戻る途中、広間から人の気配がしたの……気になったから後をつけたら山南さんがいて』
「ふうん……」
自分から聞いておいて興味がなさそうに漏らす。
そんな沖田に視線を合わさず鶴姫は問うた。
『山南さんが飲んだ薬に、千鶴の父親が関わっていたのは本当?』
「……山南さんから聞いたの、それ?あの【薬】についても?」
『うん。人を強くする代わりに精神を狂わせてしまうと』
沖田は物憂げな表情でしばらく天井を見上げていたが、やがて口を開いた。
「君は狂った隊士とも実際に会ってるし、少しくらいなら聞かせてあげてもいいかな……本当なら殺しちゃいたいところだけど」
沖田の目は決して笑っていなかった。
沖田はいつだって鶴姫たちのことを殺せるのだと、改めて思い知った。
「……【薬】のこと、なにか質問ある?ひとつくらいなら答えてあげるけど」
『どうして新選組はそんな【薬】に関わったの?』
「治安を守るために浪士を取り締まる……、なんて言うほど簡単じゃないのは君もわかってるよね」
『ええ』
「最初の頃はとにかく人手が足りなかったんだ。僕たちの名前なんて全然知られてないし、給金だって満足に出なかったからさ。入隊希望者なんて滅多にいないし、たまに来ても得体のしれない破落戸ばっかり。そんな時幕府の偉い人が、【薬】の実験をもちかけてきたんだ」
幕府の偉い人からの提案など、幕府のために働いている新選組には断りたくても断りきれなかったに違いない。
何より双方の利害が一致してしまった。
幕府は【薬】の調整を行うため、新選組は人手不足を解消するために。
『総司たちは副作用を知っていて、隊士に【薬】を使わせたの?』
「彼らも合意の上だよ。新選組の規則に背いたら即座に切腹なんだけど、──切腹するか薬を飲むか、好きな方を選ばせただけだよ。……ね?可哀想でしょう。簡単に強くなれる薬なんて便利だよね。実際は全然大したこと無かったんだけど」
笑みをたやさない沖田の瞳には、ほのかないらだちが紛れているように見えた。
きっと山南のことを気にしているのだと思う。
『……』
鶴姫はただただ黙って聞いていた。
色々と感じてはいたが、【薬】が本人同意の元で飲まれていたこと。
千鶴の父親がその開発に携わっていたこと。
そして、自分たちは仲間なんかじゃないこと。
『一人にしてほしい』
「わかった」
いつもとは違い、素直に部屋を出ていく沖田。
「……ごめんね」
小さく呟かれた声は鶴姫には届かなかった。
沖田は中庭に出て空を見上げる。
「やだなあ、立ち聞きなんて」
「穐月の様子がおかしかったからな」
「ああ、そう」
「何か言ったのか」
「仲間なんかじゃないって言ったよ」
「……あんたは穐月のことを特に気にかけていただろ。一人にしておくと壊れてしまいそうだと」
「そんなこと言ったかなあ」
斎藤に顔を向けずに月を見て話す沖田。
その背中はどこか寂しげにも見えた。
「思ってもないことは口には出さぬ事だ。鶴姫は冗談が効く時が少ないだろう」
「やだなあ。冗談なんかで言ってないよ」
斎藤はそれには答えずその場を去っていった。
一人残された沖田はそのまま月を見上げる。
「ほんと、本気で言ったんだよ……接していくうちにわかったけど、鶴姫ちゃんといると、僕が壊れそうなんだ」
この言葉も、夜風に乗って誰に伝わるわけでもなく空へと舞い上がっていった。
To be continued