番外編
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ジワジワと鳴く蝉の声が耳に届く中、その暑さに顔を顰めながら歩いていた恋は、同じく下校しようとしていた那岐と下駄箱前で会い、何となくファーストフード店へ向かう流れになった。
学校近くの店内に入れば中は涼しく、少しの移動で汗の吹き出る季節となった今、空調の快適さには極楽と言えるほどの喜びが湧いてくる。
二人は簡単に注文を済ませ、席に着くと会話に花を咲かせ始めた。
しばらく話していると、唐突に那岐が尋ねる。
「ねぇ、最近、牧さんと会ってる?」
「えっ!?えっと…あんまり…」
「やっぱり忙しいの?」
「みたいです」
近頃の牧は大学生活にも慣れたが忙しく、中々会えない日々が続いている。
連絡は取り合っているが、会えない事で寂しさは募るばかりで、けれど会いたいと言えず恋は悶々とした時間を過ごしていた。
那岐は、恋の答えとしょんぼりとした態度に少しだけ思案する。
「そっかー。あ、門の前で待ってみるとかは?急に来たら牧さんも嬉しいんじゃない?」
「えっ!?でも、目立ちませんか?」
那岐の提案に、恋は驚きとともに不安そうな顔をした。
高校生が大学前で立っていれば、周りは稀有な存在として見るだろうと思ったのだ。
しかし、那岐はフフッと軽く笑い答える。
「私服で行ったら分からないと思うよ?」
「そう…なんですかね…」
大学生と高校生、私服であればそこまで厳格な違いなど見破る者は中々いないだろう。
牧が通う大学は一般人が歩いていたり、学食を利用したりもしているのだが、恋はそれを知らないようで、中々その考えには至らなかったようだ。
「あ、でも帰るの遅いのかな?それだと無理だよね」
「そうですよね…」
「早く会えると良いね」
牧が、部活で夜遅く帰っている事は以前から知っていた。
だからこそ、那岐の言葉は正しいのだが、少しの期待が失望へと変わり、恋はしょんぼりと頷くしかなかった。
その日、恋は学校から急いで帰り、私服に着替えると電車に揺られ、とある場所に来ていた。
門前でキョロキョロと視線を彷徨わせるが、目的の人物の姿は見当たらない。
恋は今、牧の大学前に来ていた。
那岐に触発されたと言い聞かせながらも、実際は会いたい衝動が抑えきれずやって来たのだ。
私服でいるからか、恋を気にした素振りをする者も特段おらず、恋は時間と辺りを何度も見比べる。
緊張か不安か、恋の心臓はドキドキと脈打っていた。
と、その時どこからともなく声が聞こえた。
「ねぇねぇ、牧くん!」
その名に反射的な視線を移すと、そこには前を歩く牧に声をかけている一つのグループがあった。
牧は振り返り立ち止まると、その中の一人と会話を始める。
それは、綺麗に着飾られた見るからに大学生らしい、どこか大人びた雰囲気の女だった。
「これから遊びに行かない?今日、この後予定ないって言ってたでしょ?」
「珍しー。なら、行こうぜ」
女の言葉に、隣にいた男が笑みを浮かべて肯定的な誘いをする。
今日は大学側の都合で部活がなくなり、牧はこの後の予定もなく、それは前もって恋にも知らせていた事だった。
ただその時は、恋の方に予定があり会う約束はしなかったのだが、当日になってみれば恋の当初の約束は延期となっていた。
だからこそ、今恋はここにいる。
「ん?あー、そうだな……」
「何か予定あるのか?」
「いや、ないにはないんだが……」
牧の言葉は歯切れが悪く、何かと迷っているようだった。
女は、煮え切らない牧の腕に自身の腕を絡ませると距離を縮めた。
「えー、行こうよー。てか、牧くんってフリーでしょ?ならいいじゃん!二人でも良いよ!」
「ははは、お前積極的すぎ!」
「いいでしょー。だって、牧くんタイプなんだもん」
ベーッと舌を出す女の反応に、友人達は勝手に盛り上がり始めた。
仲良くしている者達ではあるのだが、牧が彼女持ちである事をこの者達は知らない。
それは、今まで特にそんな話題にもならずに来たからで、好意を持っているのであろう女の態度に牧は少しだけ困った表情を浮かべて、女の腕を解こうとその腕に手を伸ばした。
と、その時だった。
「あの!」
恋は、ツカツカとそのグループに歩み寄ると牧の伸ばしかけていた腕をグッと掴み、そのまま牧の腕を抱き締め女の方に視線を送る。
突然の出来事に、その場にいた全員が呆気に取られた。
「ん?」
「誰?」
戸惑う友人達に失礼を承知で、恋は思いの丈を宣言した。
「急にすみません!牧さんは譲れません!」
「へ?」
「えっ、何、誰?牧くんの知り合い?」
「牧さんは私のです!取らないで下さい!」
「えっ?何、牧の彼女とか……?」
その言葉にますます戸惑う友人達と、プルプルと震えながらも威嚇する犬のような恋の態度が牧の目に写る。
戸惑う女の手は自然と解けていた。
「っははははは!」
「えっ、今度は何!?牧が爆笑してんだけど」
「っ、はは。すまん、…ククッ」
ギョッとする友人達をよそに、牧は腹を抱えて爆笑していたが、何とか抑えると恋の腕を解き、腰に腕を回して抱きしめるようにグッと自身に近づけた。
「可愛いだろう?俺の彼女なんだ」
牧の表情は柔らかく、どこか誇らしげでもあった。
それは珍しい光景で、友人達は驚きが隠せない。
「えっ!?彼女いたの!?」
「話題にならなかったから、話した事はなかったかもしれないな」
「何だよ、言えよー。じゃあ、この後彼女とデート?」
「……そうだな」
その質問に、牧は少しだけ迷ってからそう答える。
チラリと見た恋は、現状に頭が追いつかないのか顔を真っ赤にしたまま固まっていた。
それを見つめる愛おしそうな牧の視線に呆れつつも、友人達はその場を切り上げる。
「なーんだ。じゃ、また今度なー」
「ほら、行くよー」
「えー、超ショックなんだけどー…」
「あはは、次の出会いあるってー」
落ち込む女を励ましながらも去っていく面々に、牧は少しだけホッとすると恋の腰に回した腕を離した。
我ながら、大胆な事をしたと牧は思う。
だが、それは恋の大胆さに触発されたのかも知れないと、まだ固まったままだったその顔を覗き込んだ。
「恋」
「は、はい!」
恋は名を呼ばれ我に返ると、姿勢を正し大きく返事をした。
まるで先生に名指しされた時かのような言動で、牧は思わず口元が緩む。
恋にとって牧が名を呼ぶのは、その時と同じ様な緊張感が生まれるのだろうかと思い、牧は出来るだけ優しい声音を意識した。
早く慣れて欲しいものだと思いながらも、それが可愛らしくも感じていて、不思議なものだとも思う。
「どうしたんだ?今日は」
「あの、今日は帰りが早いと聞いていたので、驚かせようと…」
恋は、ゴニョゴニョと言葉尻を濁すと視線を外した。
牧は素直に嬉しいと思いながらも、口から出たのは少しの意地悪を込めた言葉だった。
「この間の仕返しか?」
「えっ!?」
恋にはそのつもりなど毛頭なく、思わず視線を戻すと、牧はフッと柔和な笑みに変えた。
「成功だな。会えて嬉しいよ」
「は、はい」
その笑みに、恋は一瞬見惚れてから、慌ててまたも視線を外した。
牧の笑みは、何度見ても心臓に悪いと恋は思う。
ただでさえうるさい心臓が、更にうるさくなるからだ。
それは、恋が牧を好きだという証拠でもあるのだが、両想いになってからの方がよりそれは強くなっていて、ますます好きになっているのだと実感せずにはいられない。
同時に、恋ばかり想いが大きくなっているように感じてもいたが、それを口にする事はなかった。
「結構待っていたのか?」
「そうでもないですよ?30分くらい…かな?」
「連絡をすれば良かっただろう?」
互いに連絡手段の機器は持っていた。
しかし、それを使えば恋の思惑とは外れてしまう為に使えなかったのだ。
「サプライズだったので…」
「会えなかったら、どうしていたんだ?」
「その時は、そのまま帰るつもりでした」
それは事実考えていた事で、恋は牧に会えなければ、また今度はちゃんと会う約束をしようと思っていた。
ただ、会いたい衝動に駆られてやって来たのだから、そんな場合も想定済みだ。
けれど、牧はその答えに納得がいかなそうな表情を浮かべた。
「感心しないな」
「えっ?ご、ごめんなさい」
恋は、牧が怒っているのかと慌てて謝る。
牧は、少し呆れつつも優しく諭すように声を発する。
「いや、一人でこんな所に立っていたら危ないだろう?」
「えっ、大丈夫でしたけど…」
「それは、結果論だ。恋は絡まれやすいんだから、危ないだろう」
「でも、最近は絡まれる事が本当に少なくなってて…」
「少なくなっただけで、絡まれる事もあるんだろう?」
「それは…」
牧の言葉に、恋は思わず詰まってしまう。
最近そんな事は極端に減っていたが、全くなくなったと胸を張って言えるほどでもなく、恋が口ごもったのを牧は見逃さず、頭にポンと優しく手を置いた。
「俺は恋が心配なんだ。サプライズは嬉しかったが、三分待って会えなければ連絡しろ」
「えっ、短くないですか?」
「その分早く会えるんだから、良いだろう?」
ごく当たり前のように言う牧に、恋は言葉を完全に見失う。
牧も恋と同じく、会えるならば少しでも早く会いたいと思っていた事を感じ取れ、じわじわと胸が熱くなり、恋はどんな顔をしていいか分からなくなった。
牧は、恋の頭に置いたままの手で数回撫でると続けて問いかける。
「恋は、この後予定はあるのか?」
「あ、何もないです。予定潰れて、会いたくて来ただけなので」
恋がはにかみながらそう答えると、牧は一瞬言葉に詰まる。
それから、ため息が溢れた。
「……それは、狡いな」
「えっ?」
恋は意味が分からなかったのか聞き返すが、牧の少しだけ照れたような笑みがそこにはあった。
「じゃあ、今からデートしないか?」
「えっ!?いいんですか?」
「あぁ。ご飯でも食べていくか」
「はい!」
その誘いに恋がとても嬉しそうに返事をすると、牧も柔らかく微笑む。
と、牧のポケットが震え、機器を取り出すと着信画面が出ていた。
「ん?ちょっとだけ待ってくれるか?母からだ」
「はい、どうぞ出てください」
「もしもし。ん?あぁ、今日はそのつもりだったが少し遅くなりそうなんだ。あぁ、予定ができて…あぁ、それは分かって…分かった、分かったから。ちょっと待ってくれ」
牧は少しだけ戸惑ったような声で耳から機器を離すと、恋を見る。
「どうしたんですか?」
「恋、今から家に来ないか?」
「えっ!?」
「母が、今日は俺の帰りが早い予定だったから夕飯の用意を張り切ったらしくてな……。今凄く怒っているんだ」
牧は、少し困ったような呆れたような表情をしていて、牧でも親に怒られるのかと恋は驚きと心配で言葉を発した。
「えっ、でも私が行って良いんですか?あれだったら、また今度で…」
恋の遠慮に、牧は小さく笑うと再び恋の頭を撫でて通話を再開した。
「大丈夫だ。……あぁ、母さん、今から帰るよ。それで、彼女を連れて行くから…ん?そうだ、今一緒なんだ。何だ、どっちにしろ怒るのか?分かった分かった……あぁ…じゃあ出来るだけ早く帰るよ」
通話を終えると、牧は恋に笑みを向けてから手を繋ぎ歩き出す。
恋は絡む無骨な指にドキドキしているのか、突然の訪問に緊張しているのか、よく分からないままその後をついて行くしかなかった。
それから電車を乗り継ぎ牧の家の前に着くと、恋の表情はますます強張り、牧はそれに気づき立ち止まった。
「どうした?」
「いえ、心の準備が…」
以前にも、牧の家の前まで来た事はあった。
けれど、その時は家に上がる事も、ましてやその家族に会う事もなかったのだ。
初めての機会に緊張しないわけがない。
電話でさらりと言って退けていた、牧の彼女として会うのだと思うと、粗相をして印象を下げるわけにもいかないと恋は思う。
牧の親なのだからきっとしっかりした人で、息子に相応しい彼女を想像している事だろうと勝手に思考は巡る。
「ははは、気楽にしてくれ。母は人懐っこい人だから、すぐ打ち解けると思うぞ」
牧は、恋の心配などよそに鍵を回して玄関のドアを開けた。
「ただいま」
「お、お邪魔します」
緊張しながらもそう声を発すると、パタパタと奥から可愛らしい女性がやって来た。
満面の笑みを浮かべている。
「あらあらあら、いらっしゃい!貴方が紳一の彼女の恋ちゃんね?話だけは前から聞いてたのよ」
「えっ?」
「ほらほら、上がって上がって。ご飯は食べて行けるんでしょ?」
「あ、はい」
「今日は、紳一が久しぶりに早く帰るって言うから張り切ったのに、急に遅くなるなんて言うんだから、もう!」
「ご、ごめんなさい」
牧の母親が、少しだけ怒っているのかそう言うと、恋は思わず謝ってしまう。
牧の都合など考えず、突然会いに行ったのは恋だ。
だから牧が悪いわけではないと言いたいのだが、どこから話すべきかと説明の言葉がすぐに浮かばない。
「あら、恋ちゃんが謝る事はないのよ?紳一の連絡不足なんだから」
「悪かったよ」
「本当に反省してる?私、今日すっごく楽しみにしてたのよ?」
「分かった分かった。恋、部屋へ行こうか」
「夕飯できたら呼ぶわね」
「あぁ」
牧は慣れているのか母親との会話を切り上げると、戸惑う恋の手を引き階段を上がった。
牧は上がりきると、部屋のドアを開けて恋を招き入れる。
電気を点けて荷物を定位置に置くと、エアコンのリモコンを触り苦笑混じりに言った。
「すまないな、騒々しい人だろう」
「いえ、そんな事ないです」
恋は、可愛らしい母親だと思っていた。
自身の母親とは違う、他所のお母さんだなと実感もして、牧の息子という立場を見たのも新鮮だったのだ。
「ありがとう。その辺にでも座ってくれ」
「えっ、はい」
促されて恋は床に座ると、戸惑いつつも部屋を見回した。
「どうした?」
「えっ、いや、物が少ないんだなと思って…」
牧の部屋は、思っていた以上に物が少なかった。
無駄な物を溜め込むタイプでもないだろうとは思っていたが、それにしては簡素な部屋だと思わずにはいられない。
恋の感想に、牧はあぁと合点がいったようだった。
「あぁ、今引っ越し用に少しずつ片付けているんだ」
淡々と出た言葉に、恋は大きな声で反応してしまう。
「えっ、引っ越すんですか!?」
牧は、少し照れたように頭を掻きながら言葉を続けた。
「一人暮らしを始めようと思っててな。だから、母の態度が余計にあぁなんだ」
「どうして急に…?」
「いや、以前から考えてはいたんだ。ただ、入学したての頃はそれどころじゃなかったからな。今は大分ペースも掴めてきたし、一人暮らしも良いなと思って最近部屋が決まったんだ」
「そうなんですね」
そんな事を決めていたのだとは知らず、恋はどこか寂しく感じた。
牧は恋の隣に座ると、その機微を感じ取ったのか恋の肩に腕を回し引き寄せた。
反動で恋の頭は牧の肩に倒れるも、離れようという気は互いに起きない。
「恋には引っ越してから伝えようと思ってたんだが、突然だったな。すまない」
「えっ!?いえ、大丈夫です!」
恋は慌てて牧に視線を合わせると、牧は探るようにその瞳をジッと見つめ返した。
「本当に?」
真っ直ぐ向けられた瞳に、恋は思わず本音が漏れる。
「えっと、少し寂しいと思いました」
「だよな。ごめんな?」
「大丈夫ですよ、今話してくれましたし!」
「そうか」
恋が笑みを浮かべた事にホッとして、牧は恋の頭に自身の頭を寄せる。
恋は緊張か手持ち無沙汰なのか、組んだ自身の指を動かしながら問いかけた。
「あの、引っ越し先は近いんですか?」
「大学には近くなるな。ここから大学へ通うのは、少し時間がかかるのも引っ越しをする理由なんだ。恋の家からは少し遠くなるだろう」
「そうなんですね…」
声のトーンが落ちると牧は恋の顔を覗き込み、微かに触れるだけの口付けを頬に落とした。
「そんな寂しそうな顔をするな」
「顔に出てましたか?」
「前にも言ったが、恋は分かりやすい。寂しいと顔に書いているぞ?」
「はい、寂しいです」
少しだけからかいを含めた牧の言葉だったが、恋はさらりと返していた。
牧は驚いたが、それが愛おしいとも思った。
「はは、今日はやけに素直だな。どうした?」
「会えない時間が長かったので…」
「そうだな、すまない。中々時間に都合がつかなくて」
「大丈…夫ではないかもしれません」
「ごめんな?」
恋が素直な想いを吐き出すたびに、以前との違いが感じられ、牧は嬉しく思った。
付き合う前や、付き合いたての頃よりも素直に想いを伝えてくれるのは嬉しく、どこか特別感がある。
恋の変化が会えなかった時間で実感できるようになったのは皮肉だが、それもよしと思えていた。
が、そんな牧の思考とは違い、恋はずっと気になっていた事を口にする。
「あの、牧さんは今日みたいに、女の人によく迫られたりしてるんですか?」
恋の頭に引っかかっていたのは、先程のやり取りだ。
牧が魅力的である事は恋自身痛いほどに分かっていたが、言い寄られたりする事もあるのだと実感させられた出来事でもあった。
牧に告白する人物も見た事はあったし、隠れファンが多かった事は在学中から知ってはいたが、あそこまで露骨に好意を表す積極的な人物は珍しく、恋は瞬間焦ったのだ。
そして、恋自身の中の負の感情が見え隠れした瞬間でもある。
「いや、今日はたまたまだろう。不安になったのか?」
「だって、牧さんに触るから…」
「ふっ、今日の恋はいつもに増して可愛いな」
少しだけむくれたような恋の態度に、牧の口角は自然と上がる。
だが、恋はその独占欲を持て余していて、口をついて出たのは謝罪の言葉だった。
「ごめんなさい」
「何故謝るんだ?俺は嬉しいぞ?」
「迷惑じゃないですか?」
「はは、俺は恋に迷惑という言葉を使った事はないな。今までも、きっとこれからも」
恋の嫉妬心とも独占欲とも取れる言動は、牧にとってみれば喜ばしい事にすぎない。
そう思ってくれるほどには好意を継続しているのと同時に、会えない事の多い牧自身に愛想を尽かしていない証拠でもあるのだと安堵していた。
牧は姿勢を変えると、恋をギュッと抱きしめ小さく息を吐く。
「久しぶりに恋を補給した気分だ」
「私もです。…っん」
照れた笑みを浮かべる恋に、牧は静かに口付けを落とす。
熱を持った口付けが離れると、牧は恋の表情を見てため息が漏れた。
「その顔は本当に狡いんだがな」
「えっ?」
「いや、何でもないよ」
「んっ!?」
再び落とされた口付けは更に熱を込めたもので、恋は戸惑い声を上げる。
「っ、牧さ……」
「少しの間だけ声抑えられるか?」
「でも…」
「少しだけだ」
塞がれた唇に、恋の吐息が漏れ牧の衝動が掻き立てられる。
口付けながらスルスルと体を這う牧の手がくすぐったく、恋は身を捩るが、中々その手は体を解放してくれない。
互いの熱が上がり見つめ合っていた時、階下から声が聞こえた。
「紳一!ご飯出来たわよ!」
その声に一瞬で引き戻された牧は、小さくため息をしてから立ち上がり、ドアから顔を出すと返事をした。
「分かった、すぐ降りるよ」
再びパタンと閉まったドアの前で、牧は少しの間だけその場で立ち止まる。
少しだけ乱れた服を正すと、恋はその背に声をかける。
「あの、牧さ…」
恋の声に切り替えたのか、牧は振り返った。
「ん?あぁ、悪い、顔が真っ赤だな。もう少ししてから降りようか」
牧は弱った顔をするが、恋は戸惑いながら必死に言葉を探す。
「でも…」
「俺も頭を冷やそう。先に降りるから、少ししたら降りてくると良い」
「えっ!?」
「足が痺れてて動けないとでも言っておくよ」
そう言いながらも、牧は手にかけていたドアノブを離すと恋の元へやって来た。
そして、恋の耳元へ唇を近づけると内緒話をするかのような小さな声を出す。
「続きは、引っ越してからしても良いか?」
恋が息を呑んだ気配を感じ、牧は小さく吹き出してから恋をそっと抱きしめた。
その温もりからは熱が冷めやらぬ様子が垣間見えるも、恋を落ち着かせるように背を撫でる。
「ははは、すまない。俺はわりと理性が効く方だと自覚していたんだが、流石にそろそろ待てそうにはなくなってきた。今日は仕方ないが、何度もおあずけはごめんだ。俺は、恋の全てに触れたいと思っている」
「なっ…」
刹那、ボボボッと恋の頬は赤く染まり言葉を発せなくなる。
牧はそっと距離を取ると、恋の左手を取りそのまま自身の唇に寄せ、薬指付近に軽く口付けた。
それはどこか色を持った特別な仕草で、恋はドキリと心臓が痛くなる。
「恋」
「は、はい」
「好きだよ」
「えっ!?私もです!」
「知っている」
「なっ、私だって知ってます!」
「あぁ」
どこか余裕そうな牧に、恋は負けた気になり悔しさが込み上げる。
牧は、いつまで経っても余裕が見え隠れする。
それは、恋にとって、対等でないと感じるが、まだまだ自身にはそんな余裕を持つ事ができない事も分かっていた。
牧のように、相手を翻弄したいという欲も僅かに恋には出てくるも、それが上手くできるとも思えず、敵わないなと心底思う。
そんな恋の想いをよそに、すぐ返ってきた恋の言葉に牧は内心安堵と幸福を感じていたが、同時に不甲斐なさも感じていた。
何度かおあずけをくらってはいたが、それは牧自身先に進めずにいた証でもあった。
きっと事に進めば、牧は自身を抑える自信など皆目なかったのだ。
好きな相手に欲情するのは、当然の事だろう。
しかし、同時に恋を大切に扱いたいと思うのも当然で、自身の欲だけを投げ付けて恋に拒否されるのも嫌だった。
それは、付き合う以前に手を振り払われた時と同じか、それ以上にショックな事と想像でき、そんな事を考えれば恋に再び触れるのは怖くなる。
だからこそ、徐々に仕草を変えて触れ、拒絶されない事を確認する。
意外にも臆病な所があるのだと、自身の今まで知らなかった部分を知らされた気分にもなっていて、複雑だがどこか新鮮な気持ちにもなっていた。
と、不意に恋が牧の唇を奪った。
それは一瞬すぎる出来事で、牧は目を丸くする。
「牧さん、大好きです。ずっとずっと大好きです」
気恥ずかしさを含んだ笑みで、恋は真っ直ぐにそう宣言する。
牧もつられて笑顔になると、どちらからともなく額を寄せ合う。
その瞬間は、確かな幸福の形を表しているのだった。
学校近くの店内に入れば中は涼しく、少しの移動で汗の吹き出る季節となった今、空調の快適さには極楽と言えるほどの喜びが湧いてくる。
二人は簡単に注文を済ませ、席に着くと会話に花を咲かせ始めた。
しばらく話していると、唐突に那岐が尋ねる。
「ねぇ、最近、牧さんと会ってる?」
「えっ!?えっと…あんまり…」
「やっぱり忙しいの?」
「みたいです」
近頃の牧は大学生活にも慣れたが忙しく、中々会えない日々が続いている。
連絡は取り合っているが、会えない事で寂しさは募るばかりで、けれど会いたいと言えず恋は悶々とした時間を過ごしていた。
那岐は、恋の答えとしょんぼりとした態度に少しだけ思案する。
「そっかー。あ、門の前で待ってみるとかは?急に来たら牧さんも嬉しいんじゃない?」
「えっ!?でも、目立ちませんか?」
那岐の提案に、恋は驚きとともに不安そうな顔をした。
高校生が大学前で立っていれば、周りは稀有な存在として見るだろうと思ったのだ。
しかし、那岐はフフッと軽く笑い答える。
「私服で行ったら分からないと思うよ?」
「そう…なんですかね…」
大学生と高校生、私服であればそこまで厳格な違いなど見破る者は中々いないだろう。
牧が通う大学は一般人が歩いていたり、学食を利用したりもしているのだが、恋はそれを知らないようで、中々その考えには至らなかったようだ。
「あ、でも帰るの遅いのかな?それだと無理だよね」
「そうですよね…」
「早く会えると良いね」
牧が、部活で夜遅く帰っている事は以前から知っていた。
だからこそ、那岐の言葉は正しいのだが、少しの期待が失望へと変わり、恋はしょんぼりと頷くしかなかった。
***
その日、恋は学校から急いで帰り、私服に着替えると電車に揺られ、とある場所に来ていた。
門前でキョロキョロと視線を彷徨わせるが、目的の人物の姿は見当たらない。
恋は今、牧の大学前に来ていた。
那岐に触発されたと言い聞かせながらも、実際は会いたい衝動が抑えきれずやって来たのだ。
私服でいるからか、恋を気にした素振りをする者も特段おらず、恋は時間と辺りを何度も見比べる。
緊張か不安か、恋の心臓はドキドキと脈打っていた。
と、その時どこからともなく声が聞こえた。
「ねぇねぇ、牧くん!」
その名に反射的な視線を移すと、そこには前を歩く牧に声をかけている一つのグループがあった。
牧は振り返り立ち止まると、その中の一人と会話を始める。
それは、綺麗に着飾られた見るからに大学生らしい、どこか大人びた雰囲気の女だった。
「これから遊びに行かない?今日、この後予定ないって言ってたでしょ?」
「珍しー。なら、行こうぜ」
女の言葉に、隣にいた男が笑みを浮かべて肯定的な誘いをする。
今日は大学側の都合で部活がなくなり、牧はこの後の予定もなく、それは前もって恋にも知らせていた事だった。
ただその時は、恋の方に予定があり会う約束はしなかったのだが、当日になってみれば恋の当初の約束は延期となっていた。
だからこそ、今恋はここにいる。
「ん?あー、そうだな……」
「何か予定あるのか?」
「いや、ないにはないんだが……」
牧の言葉は歯切れが悪く、何かと迷っているようだった。
女は、煮え切らない牧の腕に自身の腕を絡ませると距離を縮めた。
「えー、行こうよー。てか、牧くんってフリーでしょ?ならいいじゃん!二人でも良いよ!」
「ははは、お前積極的すぎ!」
「いいでしょー。だって、牧くんタイプなんだもん」
ベーッと舌を出す女の反応に、友人達は勝手に盛り上がり始めた。
仲良くしている者達ではあるのだが、牧が彼女持ちである事をこの者達は知らない。
それは、今まで特にそんな話題にもならずに来たからで、好意を持っているのであろう女の態度に牧は少しだけ困った表情を浮かべて、女の腕を解こうとその腕に手を伸ばした。
と、その時だった。
「あの!」
恋は、ツカツカとそのグループに歩み寄ると牧の伸ばしかけていた腕をグッと掴み、そのまま牧の腕を抱き締め女の方に視線を送る。
突然の出来事に、その場にいた全員が呆気に取られた。
「ん?」
「誰?」
戸惑う友人達に失礼を承知で、恋は思いの丈を宣言した。
「急にすみません!牧さんは譲れません!」
「へ?」
「えっ、何、誰?牧くんの知り合い?」
「牧さんは私のです!取らないで下さい!」
「えっ?何、牧の彼女とか……?」
その言葉にますます戸惑う友人達と、プルプルと震えながらも威嚇する犬のような恋の態度が牧の目に写る。
戸惑う女の手は自然と解けていた。
「っははははは!」
「えっ、今度は何!?牧が爆笑してんだけど」
「っ、はは。すまん、…ククッ」
ギョッとする友人達をよそに、牧は腹を抱えて爆笑していたが、何とか抑えると恋の腕を解き、腰に腕を回して抱きしめるようにグッと自身に近づけた。
「可愛いだろう?俺の彼女なんだ」
牧の表情は柔らかく、どこか誇らしげでもあった。
それは珍しい光景で、友人達は驚きが隠せない。
「えっ!?彼女いたの!?」
「話題にならなかったから、話した事はなかったかもしれないな」
「何だよ、言えよー。じゃあ、この後彼女とデート?」
「……そうだな」
その質問に、牧は少しだけ迷ってからそう答える。
チラリと見た恋は、現状に頭が追いつかないのか顔を真っ赤にしたまま固まっていた。
それを見つめる愛おしそうな牧の視線に呆れつつも、友人達はその場を切り上げる。
「なーんだ。じゃ、また今度なー」
「ほら、行くよー」
「えー、超ショックなんだけどー…」
「あはは、次の出会いあるってー」
落ち込む女を励ましながらも去っていく面々に、牧は少しだけホッとすると恋の腰に回した腕を離した。
我ながら、大胆な事をしたと牧は思う。
だが、それは恋の大胆さに触発されたのかも知れないと、まだ固まったままだったその顔を覗き込んだ。
「恋」
「は、はい!」
恋は名を呼ばれ我に返ると、姿勢を正し大きく返事をした。
まるで先生に名指しされた時かのような言動で、牧は思わず口元が緩む。
恋にとって牧が名を呼ぶのは、その時と同じ様な緊張感が生まれるのだろうかと思い、牧は出来るだけ優しい声音を意識した。
早く慣れて欲しいものだと思いながらも、それが可愛らしくも感じていて、不思議なものだとも思う。
「どうしたんだ?今日は」
「あの、今日は帰りが早いと聞いていたので、驚かせようと…」
恋は、ゴニョゴニョと言葉尻を濁すと視線を外した。
牧は素直に嬉しいと思いながらも、口から出たのは少しの意地悪を込めた言葉だった。
「この間の仕返しか?」
「えっ!?」
恋にはそのつもりなど毛頭なく、思わず視線を戻すと、牧はフッと柔和な笑みに変えた。
「成功だな。会えて嬉しいよ」
「は、はい」
その笑みに、恋は一瞬見惚れてから、慌ててまたも視線を外した。
牧の笑みは、何度見ても心臓に悪いと恋は思う。
ただでさえうるさい心臓が、更にうるさくなるからだ。
それは、恋が牧を好きだという証拠でもあるのだが、両想いになってからの方がよりそれは強くなっていて、ますます好きになっているのだと実感せずにはいられない。
同時に、恋ばかり想いが大きくなっているように感じてもいたが、それを口にする事はなかった。
「結構待っていたのか?」
「そうでもないですよ?30分くらい…かな?」
「連絡をすれば良かっただろう?」
互いに連絡手段の機器は持っていた。
しかし、それを使えば恋の思惑とは外れてしまう為に使えなかったのだ。
「サプライズだったので…」
「会えなかったら、どうしていたんだ?」
「その時は、そのまま帰るつもりでした」
それは事実考えていた事で、恋は牧に会えなければ、また今度はちゃんと会う約束をしようと思っていた。
ただ、会いたい衝動に駆られてやって来たのだから、そんな場合も想定済みだ。
けれど、牧はその答えに納得がいかなそうな表情を浮かべた。
「感心しないな」
「えっ?ご、ごめんなさい」
恋は、牧が怒っているのかと慌てて謝る。
牧は、少し呆れつつも優しく諭すように声を発する。
「いや、一人でこんな所に立っていたら危ないだろう?」
「えっ、大丈夫でしたけど…」
「それは、結果論だ。恋は絡まれやすいんだから、危ないだろう」
「でも、最近は絡まれる事が本当に少なくなってて…」
「少なくなっただけで、絡まれる事もあるんだろう?」
「それは…」
牧の言葉に、恋は思わず詰まってしまう。
最近そんな事は極端に減っていたが、全くなくなったと胸を張って言えるほどでもなく、恋が口ごもったのを牧は見逃さず、頭にポンと優しく手を置いた。
「俺は恋が心配なんだ。サプライズは嬉しかったが、三分待って会えなければ連絡しろ」
「えっ、短くないですか?」
「その分早く会えるんだから、良いだろう?」
ごく当たり前のように言う牧に、恋は言葉を完全に見失う。
牧も恋と同じく、会えるならば少しでも早く会いたいと思っていた事を感じ取れ、じわじわと胸が熱くなり、恋はどんな顔をしていいか分からなくなった。
牧は、恋の頭に置いたままの手で数回撫でると続けて問いかける。
「恋は、この後予定はあるのか?」
「あ、何もないです。予定潰れて、会いたくて来ただけなので」
恋がはにかみながらそう答えると、牧は一瞬言葉に詰まる。
それから、ため息が溢れた。
「……それは、狡いな」
「えっ?」
恋は意味が分からなかったのか聞き返すが、牧の少しだけ照れたような笑みがそこにはあった。
「じゃあ、今からデートしないか?」
「えっ!?いいんですか?」
「あぁ。ご飯でも食べていくか」
「はい!」
その誘いに恋がとても嬉しそうに返事をすると、牧も柔らかく微笑む。
と、牧のポケットが震え、機器を取り出すと着信画面が出ていた。
「ん?ちょっとだけ待ってくれるか?母からだ」
「はい、どうぞ出てください」
「もしもし。ん?あぁ、今日はそのつもりだったが少し遅くなりそうなんだ。あぁ、予定ができて…あぁ、それは分かって…分かった、分かったから。ちょっと待ってくれ」
牧は少しだけ戸惑ったような声で耳から機器を離すと、恋を見る。
「どうしたんですか?」
「恋、今から家に来ないか?」
「えっ!?」
「母が、今日は俺の帰りが早い予定だったから夕飯の用意を張り切ったらしくてな……。今凄く怒っているんだ」
牧は、少し困ったような呆れたような表情をしていて、牧でも親に怒られるのかと恋は驚きと心配で言葉を発した。
「えっ、でも私が行って良いんですか?あれだったら、また今度で…」
恋の遠慮に、牧は小さく笑うと再び恋の頭を撫でて通話を再開した。
「大丈夫だ。……あぁ、母さん、今から帰るよ。それで、彼女を連れて行くから…ん?そうだ、今一緒なんだ。何だ、どっちにしろ怒るのか?分かった分かった……あぁ…じゃあ出来るだけ早く帰るよ」
通話を終えると、牧は恋に笑みを向けてから手を繋ぎ歩き出す。
恋は絡む無骨な指にドキドキしているのか、突然の訪問に緊張しているのか、よく分からないままその後をついて行くしかなかった。
それから電車を乗り継ぎ牧の家の前に着くと、恋の表情はますます強張り、牧はそれに気づき立ち止まった。
「どうした?」
「いえ、心の準備が…」
以前にも、牧の家の前まで来た事はあった。
けれど、その時は家に上がる事も、ましてやその家族に会う事もなかったのだ。
初めての機会に緊張しないわけがない。
電話でさらりと言って退けていた、牧の彼女として会うのだと思うと、粗相をして印象を下げるわけにもいかないと恋は思う。
牧の親なのだからきっとしっかりした人で、息子に相応しい彼女を想像している事だろうと勝手に思考は巡る。
「ははは、気楽にしてくれ。母は人懐っこい人だから、すぐ打ち解けると思うぞ」
牧は、恋の心配などよそに鍵を回して玄関のドアを開けた。
「ただいま」
「お、お邪魔します」
緊張しながらもそう声を発すると、パタパタと奥から可愛らしい女性がやって来た。
満面の笑みを浮かべている。
「あらあらあら、いらっしゃい!貴方が紳一の彼女の恋ちゃんね?話だけは前から聞いてたのよ」
「えっ?」
「ほらほら、上がって上がって。ご飯は食べて行けるんでしょ?」
「あ、はい」
「今日は、紳一が久しぶりに早く帰るって言うから張り切ったのに、急に遅くなるなんて言うんだから、もう!」
「ご、ごめんなさい」
牧の母親が、少しだけ怒っているのかそう言うと、恋は思わず謝ってしまう。
牧の都合など考えず、突然会いに行ったのは恋だ。
だから牧が悪いわけではないと言いたいのだが、どこから話すべきかと説明の言葉がすぐに浮かばない。
「あら、恋ちゃんが謝る事はないのよ?紳一の連絡不足なんだから」
「悪かったよ」
「本当に反省してる?私、今日すっごく楽しみにしてたのよ?」
「分かった分かった。恋、部屋へ行こうか」
「夕飯できたら呼ぶわね」
「あぁ」
牧は慣れているのか母親との会話を切り上げると、戸惑う恋の手を引き階段を上がった。
牧は上がりきると、部屋のドアを開けて恋を招き入れる。
電気を点けて荷物を定位置に置くと、エアコンのリモコンを触り苦笑混じりに言った。
「すまないな、騒々しい人だろう」
「いえ、そんな事ないです」
恋は、可愛らしい母親だと思っていた。
自身の母親とは違う、他所のお母さんだなと実感もして、牧の息子という立場を見たのも新鮮だったのだ。
「ありがとう。その辺にでも座ってくれ」
「えっ、はい」
促されて恋は床に座ると、戸惑いつつも部屋を見回した。
「どうした?」
「えっ、いや、物が少ないんだなと思って…」
牧の部屋は、思っていた以上に物が少なかった。
無駄な物を溜め込むタイプでもないだろうとは思っていたが、それにしては簡素な部屋だと思わずにはいられない。
恋の感想に、牧はあぁと合点がいったようだった。
「あぁ、今引っ越し用に少しずつ片付けているんだ」
淡々と出た言葉に、恋は大きな声で反応してしまう。
「えっ、引っ越すんですか!?」
牧は、少し照れたように頭を掻きながら言葉を続けた。
「一人暮らしを始めようと思っててな。だから、母の態度が余計にあぁなんだ」
「どうして急に…?」
「いや、以前から考えてはいたんだ。ただ、入学したての頃はそれどころじゃなかったからな。今は大分ペースも掴めてきたし、一人暮らしも良いなと思って最近部屋が決まったんだ」
「そうなんですね」
そんな事を決めていたのだとは知らず、恋はどこか寂しく感じた。
牧は恋の隣に座ると、その機微を感じ取ったのか恋の肩に腕を回し引き寄せた。
反動で恋の頭は牧の肩に倒れるも、離れようという気は互いに起きない。
「恋には引っ越してから伝えようと思ってたんだが、突然だったな。すまない」
「えっ!?いえ、大丈夫です!」
恋は慌てて牧に視線を合わせると、牧は探るようにその瞳をジッと見つめ返した。
「本当に?」
真っ直ぐ向けられた瞳に、恋は思わず本音が漏れる。
「えっと、少し寂しいと思いました」
「だよな。ごめんな?」
「大丈夫ですよ、今話してくれましたし!」
「そうか」
恋が笑みを浮かべた事にホッとして、牧は恋の頭に自身の頭を寄せる。
恋は緊張か手持ち無沙汰なのか、組んだ自身の指を動かしながら問いかけた。
「あの、引っ越し先は近いんですか?」
「大学には近くなるな。ここから大学へ通うのは、少し時間がかかるのも引っ越しをする理由なんだ。恋の家からは少し遠くなるだろう」
「そうなんですね…」
声のトーンが落ちると牧は恋の顔を覗き込み、微かに触れるだけの口付けを頬に落とした。
「そんな寂しそうな顔をするな」
「顔に出てましたか?」
「前にも言ったが、恋は分かりやすい。寂しいと顔に書いているぞ?」
「はい、寂しいです」
少しだけからかいを含めた牧の言葉だったが、恋はさらりと返していた。
牧は驚いたが、それが愛おしいとも思った。
「はは、今日はやけに素直だな。どうした?」
「会えない時間が長かったので…」
「そうだな、すまない。中々時間に都合がつかなくて」
「大丈…夫ではないかもしれません」
「ごめんな?」
恋が素直な想いを吐き出すたびに、以前との違いが感じられ、牧は嬉しく思った。
付き合う前や、付き合いたての頃よりも素直に想いを伝えてくれるのは嬉しく、どこか特別感がある。
恋の変化が会えなかった時間で実感できるようになったのは皮肉だが、それもよしと思えていた。
が、そんな牧の思考とは違い、恋はずっと気になっていた事を口にする。
「あの、牧さんは今日みたいに、女の人によく迫られたりしてるんですか?」
恋の頭に引っかかっていたのは、先程のやり取りだ。
牧が魅力的である事は恋自身痛いほどに分かっていたが、言い寄られたりする事もあるのだと実感させられた出来事でもあった。
牧に告白する人物も見た事はあったし、隠れファンが多かった事は在学中から知ってはいたが、あそこまで露骨に好意を表す積極的な人物は珍しく、恋は瞬間焦ったのだ。
そして、恋自身の中の負の感情が見え隠れした瞬間でもある。
「いや、今日はたまたまだろう。不安になったのか?」
「だって、牧さんに触るから…」
「ふっ、今日の恋はいつもに増して可愛いな」
少しだけむくれたような恋の態度に、牧の口角は自然と上がる。
だが、恋はその独占欲を持て余していて、口をついて出たのは謝罪の言葉だった。
「ごめんなさい」
「何故謝るんだ?俺は嬉しいぞ?」
「迷惑じゃないですか?」
「はは、俺は恋に迷惑という言葉を使った事はないな。今までも、きっとこれからも」
恋の嫉妬心とも独占欲とも取れる言動は、牧にとってみれば喜ばしい事にすぎない。
そう思ってくれるほどには好意を継続しているのと同時に、会えない事の多い牧自身に愛想を尽かしていない証拠でもあるのだと安堵していた。
牧は姿勢を変えると、恋をギュッと抱きしめ小さく息を吐く。
「久しぶりに恋を補給した気分だ」
「私もです。…っん」
照れた笑みを浮かべる恋に、牧は静かに口付けを落とす。
熱を持った口付けが離れると、牧は恋の表情を見てため息が漏れた。
「その顔は本当に狡いんだがな」
「えっ?」
「いや、何でもないよ」
「んっ!?」
再び落とされた口付けは更に熱を込めたもので、恋は戸惑い声を上げる。
「っ、牧さ……」
「少しの間だけ声抑えられるか?」
「でも…」
「少しだけだ」
塞がれた唇に、恋の吐息が漏れ牧の衝動が掻き立てられる。
口付けながらスルスルと体を這う牧の手がくすぐったく、恋は身を捩るが、中々その手は体を解放してくれない。
互いの熱が上がり見つめ合っていた時、階下から声が聞こえた。
「紳一!ご飯出来たわよ!」
その声に一瞬で引き戻された牧は、小さくため息をしてから立ち上がり、ドアから顔を出すと返事をした。
「分かった、すぐ降りるよ」
再びパタンと閉まったドアの前で、牧は少しの間だけその場で立ち止まる。
少しだけ乱れた服を正すと、恋はその背に声をかける。
「あの、牧さ…」
恋の声に切り替えたのか、牧は振り返った。
「ん?あぁ、悪い、顔が真っ赤だな。もう少ししてから降りようか」
牧は弱った顔をするが、恋は戸惑いながら必死に言葉を探す。
「でも…」
「俺も頭を冷やそう。先に降りるから、少ししたら降りてくると良い」
「えっ!?」
「足が痺れてて動けないとでも言っておくよ」
そう言いながらも、牧は手にかけていたドアノブを離すと恋の元へやって来た。
そして、恋の耳元へ唇を近づけると内緒話をするかのような小さな声を出す。
「続きは、引っ越してからしても良いか?」
恋が息を呑んだ気配を感じ、牧は小さく吹き出してから恋をそっと抱きしめた。
その温もりからは熱が冷めやらぬ様子が垣間見えるも、恋を落ち着かせるように背を撫でる。
「ははは、すまない。俺はわりと理性が効く方だと自覚していたんだが、流石にそろそろ待てそうにはなくなってきた。今日は仕方ないが、何度もおあずけはごめんだ。俺は、恋の全てに触れたいと思っている」
「なっ…」
刹那、ボボボッと恋の頬は赤く染まり言葉を発せなくなる。
牧はそっと距離を取ると、恋の左手を取りそのまま自身の唇に寄せ、薬指付近に軽く口付けた。
それはどこか色を持った特別な仕草で、恋はドキリと心臓が痛くなる。
「恋」
「は、はい」
「好きだよ」
「えっ!?私もです!」
「知っている」
「なっ、私だって知ってます!」
「あぁ」
どこか余裕そうな牧に、恋は負けた気になり悔しさが込み上げる。
牧は、いつまで経っても余裕が見え隠れする。
それは、恋にとって、対等でないと感じるが、まだまだ自身にはそんな余裕を持つ事ができない事も分かっていた。
牧のように、相手を翻弄したいという欲も僅かに恋には出てくるも、それが上手くできるとも思えず、敵わないなと心底思う。
そんな恋の想いをよそに、すぐ返ってきた恋の言葉に牧は内心安堵と幸福を感じていたが、同時に不甲斐なさも感じていた。
何度かおあずけをくらってはいたが、それは牧自身先に進めずにいた証でもあった。
きっと事に進めば、牧は自身を抑える自信など皆目なかったのだ。
好きな相手に欲情するのは、当然の事だろう。
しかし、同時に恋を大切に扱いたいと思うのも当然で、自身の欲だけを投げ付けて恋に拒否されるのも嫌だった。
それは、付き合う以前に手を振り払われた時と同じか、それ以上にショックな事と想像でき、そんな事を考えれば恋に再び触れるのは怖くなる。
だからこそ、徐々に仕草を変えて触れ、拒絶されない事を確認する。
意外にも臆病な所があるのだと、自身の今まで知らなかった部分を知らされた気分にもなっていて、複雑だがどこか新鮮な気持ちにもなっていた。
と、不意に恋が牧の唇を奪った。
それは一瞬すぎる出来事で、牧は目を丸くする。
「牧さん、大好きです。ずっとずっと大好きです」
気恥ずかしさを含んだ笑みで、恋は真っ直ぐにそう宣言する。
牧もつられて笑顔になると、どちらからともなく額を寄せ合う。
その瞬間は、確かな幸福の形を表しているのだった。
fin
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