月
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月明かりの照らす道を1人の少女が歩いていた。
少女は空を見上げ歩いているため、どこかフラフラしている。
そして向かいからは、とある少年のグループが歩いていた。
見た目は不良だと言わんばかりで、談笑しながら歩いているためか、月に見惚れている少女には気づいていない。
狭い道幅に互いが他のことに夢中で、それは自然と衝突を生んだ。
「ってぇ!」
「す、すみません!」
「危ねぇだろうが!」
謝る少女に少年は頭上から怒鳴りつける。
背の高い少年から威圧的に凄まれれば、一般的には恐怖するところだろうが、少女はそんな様子もなくただ深く頭を下げた。
「ごめんなさい。月に見惚れてしまって…」
「あぁ?」
「今日は満月なんですよ」
頭を上げた少女は笑みを浮かべて空を指差した。
あまりに突拍子も無いことを言われ、ふいに少年が夜空を見上げると、今日が満月だとそこで初めて気がついた。
「へぇ…」
それはとても綺麗な月だった。
月明かりが周りの雲を照らし幻想的で、見惚れてしまうのが少年にも分かるような気がした。
どこか吸い込まれそうな不思議な気分にさせる。
と、少し先に歩き出していた仲間の青年の一人が少年に声をかけた。
「三井、行くぞ」
「あ、おう。たくっ、気ぃつけろよ」
「はい。ごめんなさい」
三井と呼ばれた少年の物言いに少女は再び深く頭を下げた。
三井はフンと鼻を鳴らすと去って行く。
少女は再び空を見上げて歩き出した。
月はただ静かに輝いていた。
それから1ヶ月ほどして、三井はまたも夜道を歩いていた。
ガラの悪い連中とつるむようになってからは夜間に出歩くことが増え、それに伴い喧嘩も増えていた。
今日も、喧嘩をして虫の居所が悪く、周りにガンをくれながら歩いていると人は避けていった。
三井には、それが余計に腹立たせ忌々しく思った。
「くそっ」
避ける人を睨みつけ舌打ちしたと同時に、前方不注意だったため体に衝撃が走った。
ぶつかった少女は衝撃で数歩下がってしまう。
「わっ」
「あぁ!?」
「すみません!」
「危ねぇだろうが!」
三井は頭ごなしに怒鳴った。
三井自身よく見ていなかったのだが、そんな事は棚に上げる。
周りの人間に無性に腹が立って仕方がないのだ。
それもこれもさっき起こした喧嘩のせいで、もはやただの八つ当たりではあるが、今の三井にそんな事は関係なかった。
「ごめんなさい…あれ?先月もお会いしましたね」
「はぁ?誰だよ、てめぇ」
「覚えていないのも無理ないですよね。前回の満月の日に、今みたいにぶつかったんですよ」
少女は、場違いなほどほわりと笑う。
身なりの良い、どこか気品漂う少女だ。
三井は記憶を辿るがそんな出会いは記憶にない。
意地悪く口元を歪めると三井は言った。
「あー?何だ、それ。ていのいいナンパか?」
少女にずいっと顔を近づければ三井の髪がパサリと垂れる。
少女は至近距離で睨みつけてくる三井に驚く事もなく、場違いなほどふわりとした笑みを浮かべた。
「ナンパ…ですか。ふふ、では月も綺麗ですし外でお茶でもしますか?」
「あぁ?」
「手近でしたら、そこの自動販売機で何か買いましょうか」
「はぁ?」
「一緒にいかがですか?」
少女は誘う。
その提案は、今の三井の心情を妙に馬鹿馬鹿しい気持ちにさせた。
それは本心で言っているのか、少女は屈託無く笑みを向けている。
三井はスッと距離を取ると吐き捨てた。
「誰が行くか」
「そうですか。それは残念です」
そう言って、少女は頭を下げると去って行った。
少女越しに見た夜空は雲ひとつなく、白く丸い月が煌々と輝いている。
それを見て三井は記憶に何か引っ掛かりのようなものを感じたが、それが何かわかる事はなかった。
肌寒い季節も去り、半袖でも出歩けるようになったある夜、ぼんやりと三井は夜道を歩いていた。
現時刻のこの道は、人がまばらで静かなものであり、柄にもなく自然と思考は深くなる。
そんな三井はボストンバッグ片手に考え事をしていたからか、突然何かにぶつかってしまった。
「いてぇ」
「す、すみませ…。あれ?こんばんは」
唐突に気さくな挨拶をされ、三井はその人物を見る。
「はぁ?誰だ、てめぇ」
「2度ほど満月の日にお会いした事があるのですが、覚えてらっしゃいませんか?」
三井は身なりの良い服装と、ふわりと笑うその笑顔に見覚えがある気がした。
そして、記憶を手繰る事数秒、数ヶ月前の出来事がふいに浮かんだ。
それは、数ヶ月前の今日と同じような満月の夜。
その時も少女とぶつかった記憶があったのだ。
「あ?…あー…あぁ、あん時の…」
「ふふ、今度は覚えて下さってたんですね」
少女は何故か嬉しそうに笑った。
その笑みに三井は少し呆れてしまい溜息が漏れる。
「また、月見てたのか」
「はい。綺麗ですよね、満月」
「毎回毎回…ちったぁ気ぃつけろよ」
「そうですね、気を付けているつもりなんですが…」
「気をつけてたら、ぶつからねぇだろ」
「おっしゃる通りです」
微笑む少女に三井は呆れ返るしかない。
どこか浮世離れした雰囲気漂う少女に、これ以上言っても無駄な気がして再び溜息をついた。
ふと、三井は少女からの視線が気になり眉を寄せる。
「何だよ?」
「髪、お切りになられたんですね」
「あ?」
「以前お会いした時は、長髪でいらしたので…」
三井は今月、伸ばしていた髪をバッサリ切っていた。
それもこれも、二年ほど離れていた部活動に復帰したからだ。
再び夢に向かうと決めた三井。
少女の存在は、それを曇らせるかのように以前の影を呼び起こさせた。
「あー…そうだな」
「よく似合っていらっしゃいますね」
「はぁ!?ばっ…」
少女は優しく笑うと、今の三井を素直に褒めた。
ただ髪型を褒められたに過ぎない。
しかし、少女は以前怒鳴り散らした三井に恐怖を抱くでもなく、今の三井をただ真っ直ぐに見ている。
バカなことをしていたと後悔する三井には、気恥ずかしくもどこか嬉しく思う気持ちが湧いた。
「…サンキュ」
「はい」
「お前、名…」
「はい?」
突如、三井は少女の名を尋ねようとして口ごもった。
突然よく知りもしない男に、名前を聞かれるなど不快に思われてしまうのではないか。
いわば、これはナンパになるのではないのか。
そんな事が頭を巡り、三井は言葉を飲み込んだ。
「いや、何でもねぇ」
「そうですか?では、失礼しますね」
「あぁ」
少女は、以前見た時と同じくほわりとした笑みを浮かべて頭を下げた。
所作が丁寧な少女は、三井の横を通り過ぎ歩いて行く。
行く先には月が輝いていた。
まるで少女は月に向かって歩いているかのように見えた。
部活動が急遽休みになったある日の放課後、三井は帰ってからランニングでもしようかと考えながら歩いていた。
ブランクによる体力の衰えをまざまざと感じ、早急に対策する必要があった。
だからと言って、何かをしてすぐに効果が出るなどとは思わないのだが、何かをしないとと気が焦っていた。
部活動での自身の事、すべき事、対戦相手の事などが頭を駆け巡る。
そんな中、満月の日に出会う少女の事が微かに頭を過ぎった。
何故、突然思い起こしたのかもわからない。
ただ、少女のほわりとした笑顔が唐突に思い出されたのだ。
「三井、どうしたんだ?」
道すがら立ち止まった三井に、声をかけたのは木暮だった。
帰るタイミングが同じだった木暮は、歩いていて三井を前方に見つけた。
声をかけようと思った矢先、三井は立ち止まり頭を左右に動かし、何かを振り払おうとしているように見えた。
心配になった木暮は声をかけるが、振り向いた三井は眉を寄せた。
「あ?別に」
「悩み事か?」
「そんなんじゃねぇよ」
「そうか」
それ以上聞けなくなってしまった木暮は、そのまま三井の隣に並んで歩いた。
しばしの沈黙が流れ、木暮が話題を考えていると三井がポツリと口を開いた。
「なぁ、かぐや姫っていねぇよな」
唐突な言葉に、木暮は三井を心底心配した目で見つめた。
「…大丈夫か?」
「うるせぇ!何でもねぇよ!」
カッと頬を赤くした三井は、そう喚くとそっぽを向いた。
木暮はそんな反応に少し懐かしい気分になり、苦笑して前を見据えた。
「まぁ、よく分からないけど、かぐや姫はいないと思うぞ?いたら見てみたいよ」
「そうだよな」
三井は、当たり前だよなと言わんばかりに自身の言葉を確認しているようだった。
「…あ」
木暮は、三井の声に反応して視線を移動させた。
駅付近には、様々な制服姿の学生が歩いている。
その中には、所謂お嬢様学校と呼ばれる学校の制服をまとう女子高生が数人いた。
「ん?知り合いか?」
「んなわけねぇだろ」
「はは、三井がお嬢様学校の子と知り合いなわけないよな」
今までの三井の生活で、そのような人物と関わることはなかっただろうと木暮は想像した。
木暮自身、彼女達は次元の違う人種に見え、平凡な学校に通う自分達と関わりを持つ事の方が少ないと思う。
一歩先を歩く木暮の傍ら、三井は彼女達から視線を外すと空を見上げた。
空は雲一つない青い空と、異様に眩しく直視出来ない太陽があるだけだった。
ある日の部活帰り、三井が疲れた体を引きづりながら歩いていると荒々しい声が耳についた。
視線を移せば、そこにはあの少女がチンピラ風の男に絡まれているところだった。
三井は唖然とすると、無意識に二人の元へ歩き出す。
三井は、一方的に絡まれている少女の腕をぐいっと引いた。
「俺の連れになんか用かよ」
「え?」
唐突な引きに、少女は三井の後ろに隠れる形となりその背中を見上げる。
声を荒げていたチンピラ風の男は、三井に頭上から睨みつけられ怖じ気付いたのか、そそくさと去って行った。
そこで少女が三井に気づいた。
「あ、こんばんは」
「あ?…あぁ…」
今まで何度か見た笑顔が少女に浮かび、三井は戸惑った。
先程まで男に怒鳴られていたのにも関わらず、少女はいつもと変わりなくほわんとした雰囲気をまとっている。
あまりに自然で場違いな態度に、三井は眉を寄せた。
「どうしました?」
「いや」
「今日は夜でも暑いですね」
「あぁ」
そう発言する少女だが、顔に浮かぶのは笑顔で暑さなど物ともしていないように見える。
三井はぶっきら棒に前触れなく言った。
「お前、危ねぇんだよ」
「はい、またぶつかってしまいました」
少女に浮かぶのはあくまで笑顔だ。
それが妙に三井を苛立たせた。
荷物をぎゅっと持つ少女の手は、微かに震えているように見えたからかも知れない。
三井は小さく舌打ちすると、少女の手をガッと掴み歩き出した。
少女は唐突な事に驚き、目を瞬かせながら三井に続く。
「え?あの」
「ちょっと付き合え」
三井はそのまま歩き近くの公園へと入った。
小さなその公園にはベンチと滑り台くらいしかなく、ベンチへと座らせ三井は公園外の自動販売機に向かった。
適当にお茶のボタンを押しベンチへ戻ると、少女に片方を渡す。
少女は立ち上がり受け取ると頭を下げた。
「ありがとうございます」
「お前、満月の日はいっつも人にぶつかってんのか」
三井がベンチに座ると、少女もそれに倣い腰を落とす。
三井がカチンとプルタブを開け、お茶を流し込んだのを見届けてから少女は言った。
「いつもじゃありませんよ!普段よりは増えますけど、片手で数えられるほどで…」
「迷惑だろ」
「…そうですよね、ごめんなさい」
少女は苦笑している。
分かっているのかいないのか。
浮世離れした反応に苛立たしさが増しつつも、三井は話を進めた。
「お前、満月の日はいつも出かけてんのか」
「はい。と言いますか、月に見惚れるのが満月の夜というだけで、出かけている事は多いんですよ」
それは意外な言葉だった。
きっと、少女は所謂お嬢様と言われる部類だろう。
そんな少女が、夜によく出歩いていたなどとは思いもしなかったのだ。
「危ねぇだろ、夜道を女が1人とか」
「そうですね。けれど、迎えが来るまでの数分ですから問題ありませんよ」
「迎え…」
聞き慣れない言葉に、つい三井はポツリと声を漏らした。
少女は気にせず続ける。
「はい。こちらの方には習い事で出向いているのですが、車での送り迎えはして頂いています。ただ、場所が奥まった所にあるもので、大通りの方まで歩いているんですよ。運転手さんも習い事先まで来てくださると仰られるんですが、申し訳ありませんし、近くですから歩かせて頂いてるんです」
少女は品よく笑っていた。
と、同時に合点も行く。
少女が夜に出歩いている理由も分かり、三井はやはり別の世界の人間だと思わずにいられなかった。
「ふーん」
「貴方は…えっと、お名前お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「三井…寿」
「三井寿さん…はい、覚えました!あ、私は、如月 恋と申します」
「あぁ」
恋はペコリと軽くお辞儀をする。
その所作はどこまでも丁寧に見え、妙に目に付いた。
自身とはどこまでも違うんだなと三井は思ってしまう。
途端、会話は途絶え、沈黙が流れた。
手持ち無沙汰になり三井がお茶を喉へ流し込んでいると、恋がカチカチとプルタブと格闘しているのが視界に入る。
爪を短く切っているためか、とっかかりが上手くいかないようで、何度もカチカチと無機質な音が鳴っていた。
次第に恋は真剣な表情でプルタブに向かい、表情がくるくる変化した。
開きそうな気配に喜んだと思うと、失敗して驚き溜息を吐くとまた挑戦する。
その真剣な様に三井の口元には自然と笑みが浮かんでいた。
見かねた三井は、ぶっきら棒に恋の手から缶を奪い開けると、恋は気恥ずかしそうに笑った。
軽く頬を染める恋は、缶を受け取ると一口飲み込んだ。
「ところで、三井さんはこの辺りにお住まいなんですか?」
「いや。この間までは夜遊びで、今は部活帰り」
「夜遊びもして部活もされているのですか!お忙しいのですね」
恋の素直な反応に、三井はどこか居た堪れない思いにかられた。
「いや、あー…。そういうお前は、お嬢様なんだな」
「そう…なんでしょうか?」
キョトンとする恋に、三井は先日見た姿を思い浮かべる。
学校名に加え、恋の所作を見ていれば、所謂一般家庭とはやはり違うのだろうと思わずにはいられない。
「この間、制服着てるとこ見かけた。お嬢様学校だろ、あの制服」
「あまり意識した事がないのですが、世間一般で言われているのならば、そうなのかも知れませんね」
恋はさしたる問題ではないのか、気にした様子もなく笑っていた。
恋にとってはそれが普通の事で、特別意識する機会などなかった。
だから、お嬢様と言われてもいまいちピンとこないのだ。
ただ、裕福な家庭であると自覚はしているので、わざわざそれを否定する必要性も感じない。
「あーその、何で敬語なんだ?疲れねぇの」
恋のよそよそしい言葉遣いが気になった三井は、少し眉間に皺を寄せていた。
こうも丁寧に接されると、むず痒く感じてしまうのだ。
けれど、恋は不思議そうに三井を見返していた。
「疲れる…あまり意識した事がありません。それに、三井さんは私よりも年上だと思いますし…」
恋が何故そう思ったのかはわからないが、それを聞いて、三井は自身の後輩達に爪の垢を煎じて飲ませたい思いに駆られた。
バスケ部後輩である人物達を思い浮かべると、先輩に対する態度がなっていないのだと実感する。
ただ、下手に出た後輩達というのも気持ち悪さが際立ち、三井は頭から消え去るよう首を振った。
脱線した思考を戻そうと、三井は恋に問いかけた。
「ダチにもか?」
「ダチ…?」
「あー、友達」
「友人にはもう少し砕けて話しますよ」
「ふーん」
「どうかしましたか?」
三井の素っ気ない返事に、恋は不可解そうに顔を覗き込ませた。
三井は、居心地悪そうに言葉を発した。
「いや、俺にもタメ口でいいぜ」
「年上の方に砕けた話し方は緊張してしまいますし、この話し方の方が慣れているので…」
「ふーん」
恋の丁寧な言動は、どこか一線を引かれている気がして、三井には少し居心地が悪かった。
ただ、それは当たり前の事で、まだ知り合って間もない三井に砕けて話すのは、恋にとって憚られる事であった。
今までの家庭教育の賜物とでも言えるのか、そう簡単にスタンスを崩せるわけもないのだ。
ふと、恋は腕時計に視線を送ると、驚いたように立ち上がった。
いつの間にか時間が思っていたよりも経っていたのだ。
「あ、すみません。そろそろ帰りますね」
「あぁ」
「話せて楽しかったです。さようなら」
綺麗なお辞儀をした恋が頭を上げると、三井も同じく立ち上がり恋を見下ろしていた。
「あの?」
「…送る」
「でも、すぐそこですし」
公園から大通りまではすぐそこなのだ。
わざわざ送ってもらうほどでもなく、恋は申し訳なく思って断りを入れる。
三井は、眉間に皺を寄せると溜息交じりに言った。
「また月に見惚れてぶつかったら危ねぇだろ」
「…そうですね。ではお言葉に甘えます」
このまま、三井の親切心を無下に断り続けるのも悪い気がして、恋は柔らかく笑った。
承諾を得た三井は、どこかホッとしたような顔つきで歩き出す。
連なり歩き出した恋を見れば、すぐにまた月に見惚れていたのか、夜空を見上げながら歩いていた。
これでは、他人にぶつかるのも無理はないと思わずにいられなかったが、恋の存在がふいにどこか儚げにみえた。
その視線に気づいたのか、恋は空から三井に視線を移した。
「?どうかされました?」
「いや…」
口ごもる三井に恋が言葉を探していると、唐突に恋の名を呼ぶ声が静寂を破った。
「あ、運転手さんです」
声のした方を見れば、恋の姿に安堵した表情を浮かべる男性が駆け寄って来るのが見えた。
恋は、三井に向き直ると笑みを浮かべる。
「どうもありがとうございました。今日は三井さんとお話できてとても楽しかったです」
「あぁ」
「また会えたらいいですね。では、さ…」
「『バイバイ』」
「はい?」
「その方がいい」
恋が、「さようなら」と言葉を発するのを察した三井は、すかさず言葉を挟んだ。
別に普段ならば、「さようなら」と言われても構わないのだが、何故だか今はその言葉を告げられるのが嫌に感じてしまった。
恋は目を丸くすると、三井の真っ直ぐな視線を見て気恥ずかしそうに口を開く。
「えっと、…で、では!バ…バイバイ」
「あぁ。またな」
どこか言い慣れていなさそうな恋に、三井は笑みが溢れた。
恋が照れ臭そうに頭を下げ終えると、すぐに運転手と共に歩いて行ってしまう。
その後ろ姿は、どこか凛としていて目に止まった。
月の光と相まって一際綺麗に見えたその姿から、三井は中々視線が外せないのだった。
少女は空を見上げ歩いているため、どこかフラフラしている。
そして向かいからは、とある少年のグループが歩いていた。
見た目は不良だと言わんばかりで、談笑しながら歩いているためか、月に見惚れている少女には気づいていない。
狭い道幅に互いが他のことに夢中で、それは自然と衝突を生んだ。
「ってぇ!」
「す、すみません!」
「危ねぇだろうが!」
謝る少女に少年は頭上から怒鳴りつける。
背の高い少年から威圧的に凄まれれば、一般的には恐怖するところだろうが、少女はそんな様子もなくただ深く頭を下げた。
「ごめんなさい。月に見惚れてしまって…」
「あぁ?」
「今日は満月なんですよ」
頭を上げた少女は笑みを浮かべて空を指差した。
あまりに突拍子も無いことを言われ、ふいに少年が夜空を見上げると、今日が満月だとそこで初めて気がついた。
「へぇ…」
それはとても綺麗な月だった。
月明かりが周りの雲を照らし幻想的で、見惚れてしまうのが少年にも分かるような気がした。
どこか吸い込まれそうな不思議な気分にさせる。
と、少し先に歩き出していた仲間の青年の一人が少年に声をかけた。
「三井、行くぞ」
「あ、おう。たくっ、気ぃつけろよ」
「はい。ごめんなさい」
三井と呼ばれた少年の物言いに少女は再び深く頭を下げた。
三井はフンと鼻を鳴らすと去って行く。
少女は再び空を見上げて歩き出した。
月はただ静かに輝いていた。
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それから1ヶ月ほどして、三井はまたも夜道を歩いていた。
ガラの悪い連中とつるむようになってからは夜間に出歩くことが増え、それに伴い喧嘩も増えていた。
今日も、喧嘩をして虫の居所が悪く、周りにガンをくれながら歩いていると人は避けていった。
三井には、それが余計に腹立たせ忌々しく思った。
「くそっ」
避ける人を睨みつけ舌打ちしたと同時に、前方不注意だったため体に衝撃が走った。
ぶつかった少女は衝撃で数歩下がってしまう。
「わっ」
「あぁ!?」
「すみません!」
「危ねぇだろうが!」
三井は頭ごなしに怒鳴った。
三井自身よく見ていなかったのだが、そんな事は棚に上げる。
周りの人間に無性に腹が立って仕方がないのだ。
それもこれもさっき起こした喧嘩のせいで、もはやただの八つ当たりではあるが、今の三井にそんな事は関係なかった。
「ごめんなさい…あれ?先月もお会いしましたね」
「はぁ?誰だよ、てめぇ」
「覚えていないのも無理ないですよね。前回の満月の日に、今みたいにぶつかったんですよ」
少女は、場違いなほどほわりと笑う。
身なりの良い、どこか気品漂う少女だ。
三井は記憶を辿るがそんな出会いは記憶にない。
意地悪く口元を歪めると三井は言った。
「あー?何だ、それ。ていのいいナンパか?」
少女にずいっと顔を近づければ三井の髪がパサリと垂れる。
少女は至近距離で睨みつけてくる三井に驚く事もなく、場違いなほどふわりとした笑みを浮かべた。
「ナンパ…ですか。ふふ、では月も綺麗ですし外でお茶でもしますか?」
「あぁ?」
「手近でしたら、そこの自動販売機で何か買いましょうか」
「はぁ?」
「一緒にいかがですか?」
少女は誘う。
その提案は、今の三井の心情を妙に馬鹿馬鹿しい気持ちにさせた。
それは本心で言っているのか、少女は屈託無く笑みを向けている。
三井はスッと距離を取ると吐き捨てた。
「誰が行くか」
「そうですか。それは残念です」
そう言って、少女は頭を下げると去って行った。
少女越しに見た夜空は雲ひとつなく、白く丸い月が煌々と輝いている。
それを見て三井は記憶に何か引っ掛かりのようなものを感じたが、それが何かわかる事はなかった。
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肌寒い季節も去り、半袖でも出歩けるようになったある夜、ぼんやりと三井は夜道を歩いていた。
現時刻のこの道は、人がまばらで静かなものであり、柄にもなく自然と思考は深くなる。
そんな三井はボストンバッグ片手に考え事をしていたからか、突然何かにぶつかってしまった。
「いてぇ」
「す、すみませ…。あれ?こんばんは」
唐突に気さくな挨拶をされ、三井はその人物を見る。
「はぁ?誰だ、てめぇ」
「2度ほど満月の日にお会いした事があるのですが、覚えてらっしゃいませんか?」
三井は身なりの良い服装と、ふわりと笑うその笑顔に見覚えがある気がした。
そして、記憶を手繰る事数秒、数ヶ月前の出来事がふいに浮かんだ。
それは、数ヶ月前の今日と同じような満月の夜。
その時も少女とぶつかった記憶があったのだ。
「あ?…あー…あぁ、あん時の…」
「ふふ、今度は覚えて下さってたんですね」
少女は何故か嬉しそうに笑った。
その笑みに三井は少し呆れてしまい溜息が漏れる。
「また、月見てたのか」
「はい。綺麗ですよね、満月」
「毎回毎回…ちったぁ気ぃつけろよ」
「そうですね、気を付けているつもりなんですが…」
「気をつけてたら、ぶつからねぇだろ」
「おっしゃる通りです」
微笑む少女に三井は呆れ返るしかない。
どこか浮世離れした雰囲気漂う少女に、これ以上言っても無駄な気がして再び溜息をついた。
ふと、三井は少女からの視線が気になり眉を寄せる。
「何だよ?」
「髪、お切りになられたんですね」
「あ?」
「以前お会いした時は、長髪でいらしたので…」
三井は今月、伸ばしていた髪をバッサリ切っていた。
それもこれも、二年ほど離れていた部活動に復帰したからだ。
再び夢に向かうと決めた三井。
少女の存在は、それを曇らせるかのように以前の影を呼び起こさせた。
「あー…そうだな」
「よく似合っていらっしゃいますね」
「はぁ!?ばっ…」
少女は優しく笑うと、今の三井を素直に褒めた。
ただ髪型を褒められたに過ぎない。
しかし、少女は以前怒鳴り散らした三井に恐怖を抱くでもなく、今の三井をただ真っ直ぐに見ている。
バカなことをしていたと後悔する三井には、気恥ずかしくもどこか嬉しく思う気持ちが湧いた。
「…サンキュ」
「はい」
「お前、名…」
「はい?」
突如、三井は少女の名を尋ねようとして口ごもった。
突然よく知りもしない男に、名前を聞かれるなど不快に思われてしまうのではないか。
いわば、これはナンパになるのではないのか。
そんな事が頭を巡り、三井は言葉を飲み込んだ。
「いや、何でもねぇ」
「そうですか?では、失礼しますね」
「あぁ」
少女は、以前見た時と同じくほわりとした笑みを浮かべて頭を下げた。
所作が丁寧な少女は、三井の横を通り過ぎ歩いて行く。
行く先には月が輝いていた。
まるで少女は月に向かって歩いているかのように見えた。
***
部活動が急遽休みになったある日の放課後、三井は帰ってからランニングでもしようかと考えながら歩いていた。
ブランクによる体力の衰えをまざまざと感じ、早急に対策する必要があった。
だからと言って、何かをしてすぐに効果が出るなどとは思わないのだが、何かをしないとと気が焦っていた。
部活動での自身の事、すべき事、対戦相手の事などが頭を駆け巡る。
そんな中、満月の日に出会う少女の事が微かに頭を過ぎった。
何故、突然思い起こしたのかもわからない。
ただ、少女のほわりとした笑顔が唐突に思い出されたのだ。
「三井、どうしたんだ?」
道すがら立ち止まった三井に、声をかけたのは木暮だった。
帰るタイミングが同じだった木暮は、歩いていて三井を前方に見つけた。
声をかけようと思った矢先、三井は立ち止まり頭を左右に動かし、何かを振り払おうとしているように見えた。
心配になった木暮は声をかけるが、振り向いた三井は眉を寄せた。
「あ?別に」
「悩み事か?」
「そんなんじゃねぇよ」
「そうか」
それ以上聞けなくなってしまった木暮は、そのまま三井の隣に並んで歩いた。
しばしの沈黙が流れ、木暮が話題を考えていると三井がポツリと口を開いた。
「なぁ、かぐや姫っていねぇよな」
唐突な言葉に、木暮は三井を心底心配した目で見つめた。
「…大丈夫か?」
「うるせぇ!何でもねぇよ!」
カッと頬を赤くした三井は、そう喚くとそっぽを向いた。
木暮はそんな反応に少し懐かしい気分になり、苦笑して前を見据えた。
「まぁ、よく分からないけど、かぐや姫はいないと思うぞ?いたら見てみたいよ」
「そうだよな」
三井は、当たり前だよなと言わんばかりに自身の言葉を確認しているようだった。
「…あ」
木暮は、三井の声に反応して視線を移動させた。
駅付近には、様々な制服姿の学生が歩いている。
その中には、所謂お嬢様学校と呼ばれる学校の制服をまとう女子高生が数人いた。
「ん?知り合いか?」
「んなわけねぇだろ」
「はは、三井がお嬢様学校の子と知り合いなわけないよな」
今までの三井の生活で、そのような人物と関わることはなかっただろうと木暮は想像した。
木暮自身、彼女達は次元の違う人種に見え、平凡な学校に通う自分達と関わりを持つ事の方が少ないと思う。
一歩先を歩く木暮の傍ら、三井は彼女達から視線を外すと空を見上げた。
空は雲一つない青い空と、異様に眩しく直視出来ない太陽があるだけだった。
***
ある日の部活帰り、三井が疲れた体を引きづりながら歩いていると荒々しい声が耳についた。
視線を移せば、そこにはあの少女がチンピラ風の男に絡まれているところだった。
三井は唖然とすると、無意識に二人の元へ歩き出す。
三井は、一方的に絡まれている少女の腕をぐいっと引いた。
「俺の連れになんか用かよ」
「え?」
唐突な引きに、少女は三井の後ろに隠れる形となりその背中を見上げる。
声を荒げていたチンピラ風の男は、三井に頭上から睨みつけられ怖じ気付いたのか、そそくさと去って行った。
そこで少女が三井に気づいた。
「あ、こんばんは」
「あ?…あぁ…」
今まで何度か見た笑顔が少女に浮かび、三井は戸惑った。
先程まで男に怒鳴られていたのにも関わらず、少女はいつもと変わりなくほわんとした雰囲気をまとっている。
あまりに自然で場違いな態度に、三井は眉を寄せた。
「どうしました?」
「いや」
「今日は夜でも暑いですね」
「あぁ」
そう発言する少女だが、顔に浮かぶのは笑顔で暑さなど物ともしていないように見える。
三井はぶっきら棒に前触れなく言った。
「お前、危ねぇんだよ」
「はい、またぶつかってしまいました」
少女に浮かぶのはあくまで笑顔だ。
それが妙に三井を苛立たせた。
荷物をぎゅっと持つ少女の手は、微かに震えているように見えたからかも知れない。
三井は小さく舌打ちすると、少女の手をガッと掴み歩き出した。
少女は唐突な事に驚き、目を瞬かせながら三井に続く。
「え?あの」
「ちょっと付き合え」
三井はそのまま歩き近くの公園へと入った。
小さなその公園にはベンチと滑り台くらいしかなく、ベンチへと座らせ三井は公園外の自動販売機に向かった。
適当にお茶のボタンを押しベンチへ戻ると、少女に片方を渡す。
少女は立ち上がり受け取ると頭を下げた。
「ありがとうございます」
「お前、満月の日はいっつも人にぶつかってんのか」
三井がベンチに座ると、少女もそれに倣い腰を落とす。
三井がカチンとプルタブを開け、お茶を流し込んだのを見届けてから少女は言った。
「いつもじゃありませんよ!普段よりは増えますけど、片手で数えられるほどで…」
「迷惑だろ」
「…そうですよね、ごめんなさい」
少女は苦笑している。
分かっているのかいないのか。
浮世離れした反応に苛立たしさが増しつつも、三井は話を進めた。
「お前、満月の日はいつも出かけてんのか」
「はい。と言いますか、月に見惚れるのが満月の夜というだけで、出かけている事は多いんですよ」
それは意外な言葉だった。
きっと、少女は所謂お嬢様と言われる部類だろう。
そんな少女が、夜によく出歩いていたなどとは思いもしなかったのだ。
「危ねぇだろ、夜道を女が1人とか」
「そうですね。けれど、迎えが来るまでの数分ですから問題ありませんよ」
「迎え…」
聞き慣れない言葉に、つい三井はポツリと声を漏らした。
少女は気にせず続ける。
「はい。こちらの方には習い事で出向いているのですが、車での送り迎えはして頂いています。ただ、場所が奥まった所にあるもので、大通りの方まで歩いているんですよ。運転手さんも習い事先まで来てくださると仰られるんですが、申し訳ありませんし、近くですから歩かせて頂いてるんです」
少女は品よく笑っていた。
と、同時に合点も行く。
少女が夜に出歩いている理由も分かり、三井はやはり別の世界の人間だと思わずにいられなかった。
「ふーん」
「貴方は…えっと、お名前お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「三井…寿」
「三井寿さん…はい、覚えました!あ、私は、如月 恋と申します」
「あぁ」
恋はペコリと軽くお辞儀をする。
その所作はどこまでも丁寧に見え、妙に目に付いた。
自身とはどこまでも違うんだなと三井は思ってしまう。
途端、会話は途絶え、沈黙が流れた。
手持ち無沙汰になり三井がお茶を喉へ流し込んでいると、恋がカチカチとプルタブと格闘しているのが視界に入る。
爪を短く切っているためか、とっかかりが上手くいかないようで、何度もカチカチと無機質な音が鳴っていた。
次第に恋は真剣な表情でプルタブに向かい、表情がくるくる変化した。
開きそうな気配に喜んだと思うと、失敗して驚き溜息を吐くとまた挑戦する。
その真剣な様に三井の口元には自然と笑みが浮かんでいた。
見かねた三井は、ぶっきら棒に恋の手から缶を奪い開けると、恋は気恥ずかしそうに笑った。
軽く頬を染める恋は、缶を受け取ると一口飲み込んだ。
「ところで、三井さんはこの辺りにお住まいなんですか?」
「いや。この間までは夜遊びで、今は部活帰り」
「夜遊びもして部活もされているのですか!お忙しいのですね」
恋の素直な反応に、三井はどこか居た堪れない思いにかられた。
「いや、あー…。そういうお前は、お嬢様なんだな」
「そう…なんでしょうか?」
キョトンとする恋に、三井は先日見た姿を思い浮かべる。
学校名に加え、恋の所作を見ていれば、所謂一般家庭とはやはり違うのだろうと思わずにはいられない。
「この間、制服着てるとこ見かけた。お嬢様学校だろ、あの制服」
「あまり意識した事がないのですが、世間一般で言われているのならば、そうなのかも知れませんね」
恋はさしたる問題ではないのか、気にした様子もなく笑っていた。
恋にとってはそれが普通の事で、特別意識する機会などなかった。
だから、お嬢様と言われてもいまいちピンとこないのだ。
ただ、裕福な家庭であると自覚はしているので、わざわざそれを否定する必要性も感じない。
「あーその、何で敬語なんだ?疲れねぇの」
恋のよそよそしい言葉遣いが気になった三井は、少し眉間に皺を寄せていた。
こうも丁寧に接されると、むず痒く感じてしまうのだ。
けれど、恋は不思議そうに三井を見返していた。
「疲れる…あまり意識した事がありません。それに、三井さんは私よりも年上だと思いますし…」
恋が何故そう思ったのかはわからないが、それを聞いて、三井は自身の後輩達に爪の垢を煎じて飲ませたい思いに駆られた。
バスケ部後輩である人物達を思い浮かべると、先輩に対する態度がなっていないのだと実感する。
ただ、下手に出た後輩達というのも気持ち悪さが際立ち、三井は頭から消え去るよう首を振った。
脱線した思考を戻そうと、三井は恋に問いかけた。
「ダチにもか?」
「ダチ…?」
「あー、友達」
「友人にはもう少し砕けて話しますよ」
「ふーん」
「どうかしましたか?」
三井の素っ気ない返事に、恋は不可解そうに顔を覗き込ませた。
三井は、居心地悪そうに言葉を発した。
「いや、俺にもタメ口でいいぜ」
「年上の方に砕けた話し方は緊張してしまいますし、この話し方の方が慣れているので…」
「ふーん」
恋の丁寧な言動は、どこか一線を引かれている気がして、三井には少し居心地が悪かった。
ただ、それは当たり前の事で、まだ知り合って間もない三井に砕けて話すのは、恋にとって憚られる事であった。
今までの家庭教育の賜物とでも言えるのか、そう簡単にスタンスを崩せるわけもないのだ。
ふと、恋は腕時計に視線を送ると、驚いたように立ち上がった。
いつの間にか時間が思っていたよりも経っていたのだ。
「あ、すみません。そろそろ帰りますね」
「あぁ」
「話せて楽しかったです。さようなら」
綺麗なお辞儀をした恋が頭を上げると、三井も同じく立ち上がり恋を見下ろしていた。
「あの?」
「…送る」
「でも、すぐそこですし」
公園から大通りまではすぐそこなのだ。
わざわざ送ってもらうほどでもなく、恋は申し訳なく思って断りを入れる。
三井は、眉間に皺を寄せると溜息交じりに言った。
「また月に見惚れてぶつかったら危ねぇだろ」
「…そうですね。ではお言葉に甘えます」
このまま、三井の親切心を無下に断り続けるのも悪い気がして、恋は柔らかく笑った。
承諾を得た三井は、どこかホッとしたような顔つきで歩き出す。
連なり歩き出した恋を見れば、すぐにまた月に見惚れていたのか、夜空を見上げながら歩いていた。
これでは、他人にぶつかるのも無理はないと思わずにいられなかったが、恋の存在がふいにどこか儚げにみえた。
その視線に気づいたのか、恋は空から三井に視線を移した。
「?どうかされました?」
「いや…」
口ごもる三井に恋が言葉を探していると、唐突に恋の名を呼ぶ声が静寂を破った。
「あ、運転手さんです」
声のした方を見れば、恋の姿に安堵した表情を浮かべる男性が駆け寄って来るのが見えた。
恋は、三井に向き直ると笑みを浮かべる。
「どうもありがとうございました。今日は三井さんとお話できてとても楽しかったです」
「あぁ」
「また会えたらいいですね。では、さ…」
「『バイバイ』」
「はい?」
「その方がいい」
恋が、「さようなら」と言葉を発するのを察した三井は、すかさず言葉を挟んだ。
別に普段ならば、「さようなら」と言われても構わないのだが、何故だか今はその言葉を告げられるのが嫌に感じてしまった。
恋は目を丸くすると、三井の真っ直ぐな視線を見て気恥ずかしそうに口を開く。
「えっと、…で、では!バ…バイバイ」
「あぁ。またな」
どこか言い慣れていなさそうな恋に、三井は笑みが溢れた。
恋が照れ臭そうに頭を下げ終えると、すぐに運転手と共に歩いて行ってしまう。
その後ろ姿は、どこか凛としていて目に止まった。
月の光と相まって一際綺麗に見えたその姿から、三井は中々視線が外せないのだった。
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