さざなみ
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心地の良い風が吹く、とある日の夜八時頃。
恋を含む二十数名が居酒屋に集まっていた。
この日は湘北高校元三年三組の同窓会だった。
仕事帰りの者が多いためか、男性はスーツ姿の者がほとんどだ。
女性もOLといった服装が多く、当時よりも皆大人になったとまざまざと感じとれた。
ある程度の人数が集まると乾杯をし、どこからともなく自然と話しが始まり広がった。
高校生を卒業し社会人となった今の話題は、どこもかしこも似たような話ばかりだ。
しばらくすれば、遅れてやって来た者達も次々と到着し、今しがたも座敷の襖が開かれた所だ。
そこで顔を覗かせたのは三井だった。
「あ、三井だー」
元クラスメイトは三井を見るなり声を張り上げる。
三井がこのような会に参加することは珍しく、皆は懐かしそうに見遣った。
「よう」
「久しぶりだな!」
三井に声をかけるのは高校生の頃、仲の良かった者達だ。
三井は当時、不良の時期もあり皆が遠巻きにしていた。
しかし、バスケ部という名目のもとそれは次第に崩れていった。
元々三井は自信過剰気味ではあるが爽やかスポーツ少年で、口は悪いが人当たりもそう悪くはなかったのだ。
きっかけさえあれば、自然とクラスに馴染むことはできていった。
自然と話しの輪におさまる三井を見て、恋の隣にいた友人が声をかけた。
「ちょっと、恋、三井来たよ?」
「え?何がー?」
他の友人と談笑していた恋は、引っ張られた袖の方向へ振り向いた。
「だから、三井!高校ん時好きだったでしょ?」
唐突に友人はそんなことを言ってのける。
恋は、一瞬沈黙したがプッと吹き出した。
「そうだっけ?忘れちゃった」
「え、恋って三井好きだったの!?」
「違うってば!」
いくつになっても女性というものは恋愛話が好きなようで、友人達は恋達の話に食いついた。
そんな話題で目を輝かせているのは、高校生当時を彷彿させる。
「三井って不良だったよね?」
「でも、途中で何かバスケ凄かったんじゃなかったっけ?」
「あー、流川くんが凄かったバスケ部だ!」
「流川くんって言えばさ…」
次第に話題は三井から流川へと移っていた。
当時、流川は年下ながらファンクラブができるほどで、学校中で知らない者はいなかっただろう。
そうやって、話がどんどん逸れていくことに恋は内心ホッとしているのだった。
それから酒も進み皆がほろ酔いの中、恋ものんびりと酒を口に注いでいた。
一部では異様な盛り上がりも見せていて、皆が楽しそうだ。
恋がテーブルに並ぶ肴に手を伸ばすと隣に影が出来た。
「よう」
そこにいたのは手にジョッキを持つ三井だった。
異様な盛り上がりをみせる席から移動して来たのだ。
「あ、久しぶりー」
「久しぶり。横いいか?」
「うん、いいよ」
二人は高校当時、仲の良い友人関係にあった。
しかし、後に疎遠となり、今日会ったのも卒業式以来で、かなり久しぶりと言える。
二人の間には少し緊張が走っていた。
が、ポツリポツリと話をしていくにつれ、バカな話を真剣に話し笑い合っていた日々が蘇り、ぎこちなさはすぐに消えた。
三井はジョッキを呷ると恋をチラリと見た。
「お前、今何してんの?」
「え?普通に働いてるよ。三井は?もしかして、ニートとか!?」
三井は卒業後大学に進んだと聞いてはいたが、プロにはなってはいないと耳に挟んでいた。
そして、今もスーツ姿でいるため、普通に働いているのだろうと想像は容易い。
だが、恋はニヤニヤとからかうように口を開き、肴を口に入れた。
三井も肴を皿に置くと心外そうに眉を寄せた。
「んなわけあるかよ!ちゃんと働いてるっつーの」
「そうな…」
「そりゃそうだよな!だって三井には、婚約者いるもんなー」
ドンっと三井に寄りかかって、突然そんなことを言い出したのは元クラス一のお調子者だ。
そこまで大きな声ではないので、近場にいた者にしか聞こえてはいないだろうが、皆が一様に驚いていた。
そして、当時からこの男はこうだったなと感慨深くなっている者も少なくなかった。
しかし、恋はそう思う暇もなく驚くだけだ。
「え!?」
「なっ」
「聞いたぜー。大学から同棲してた子と結婚間近なんだろ?」
三井の肩に腕を回しニヤニヤ、そしてどこか羨ましそうに言っている友人を見て、三井は焦りが顔に浮かんだ。
「何で、んなこと知ってんだよ!?」
「そりゃー、元クラスメイトの情報とか噂になるじゃん?」
「ならねぇよ!」
「なぉなぁ、ラブラブ?今ラブラブなの!?」
「うるせー!」
からかう友人に三井は喚くが、恋には衝撃が強くしばらく動けなかった。
皆、年齢的に結婚をしてもおかしくはないのだ。
元クラスメイトの中にも、婚約中の者や結婚をしている者がいる。
ひいては子供のいる者もいる。
だが、三井が結婚となるとどうしてか恋の中では上手く結びつかなかった。
盛り上がり始める隣を尻目に、恋はスッと席を離れた。
三井はすかさずそれに気付いたが、酔っ払い達に絡まれて追いかけることが出来ないでいるのだった。
その後、宴もたけなわにお開きとなった居酒屋の店先で、二次会組と帰宅組に自然と別れ挨拶が始まる。
恋も友人達と集まっていた。
「恋は二次会どうする?」
「私はいいや。明日予定あるから」
恋はしばらく考えるそぶりを見せてそう答えた。
実を言うと予定などない。
だが、今は二次会に行くような気分でもなかったのだ。
友人達は特に気にせず、ほろ酔い気味の顔に笑みを浮かべていた。
「そっか、じゃあまたね」
「うん、また連絡するし、皆にもよろしく言っといてよ」
「了解。またね!」
手を振り別れると、恋は駅に向かって歩き出す。
友人達も、恋を見送れば二次会組の輪へ入って行った。
騒がしい声を背に、しばらく恋が道を進むと、ふいに後ろから声をかけられた。
「恋」
「ん?三井!?二次会は?」
そこに立っていたのは三井で、追いかけて来たのか少しだけ息を乱していた。
てっきり三井は二次会に参加しているのだろうと、恋は勝手に思っていたために驚きを隠せない。
三井は呼吸を整え最後に大きく息を吐いた。
「パス。なぁ、ちょっと他で呑みなおさねぇ?」
「え、…まぁいいけど」
三井の誘いに恋は無意識に言葉を紡いでいた。
そして近場の、遅くまでやっている居酒屋へと入り席に着くと注文は手早く済んだ。
腹はあらかた満たされているので、飲み物と軽い肴さえあれば事足りたのだ。
「じゃ、改めて乾杯」
「かんぱーい」
カツンとグラス同士がぶつかる音を聞き終えると、互いに酒を喉へと流し込む。
そして流れる沈黙。
三井は届いた肴を口に運んでいる。
それをぼんやりと見ながら、ほろ酔い気分の恋は、手持ち無沙汰なのか箸袋を弄ぶとポツリと言った。
「てかいいの?未来の奥さん家で待ってんじゃないの?」
「あー、その話はいいから。それより、俺お前に謝りたかったんだよ」
どこかばつの悪そうな三井に恋は首を傾げた。
恋は謝られることに心当たりがなかったのだ。
「何を?」
「ちゃんと返事してなかったこと」
「返事?」
「これ」
三井がゴソゴソと上着の内ポケットから取り出したのは一通の手紙。
封筒に何も書かれていないそれに恋は見覚えがある。
瞬間、酔いなど一気に吹き飛んだ。
「なっ!?」
「これ書いたのお前だろ?宛名とか差出人くらい書けよ。しかも卒業式に入れるとか…」
三井がため息混じりに言っているのを見て、恋の記憶は一気に蘇った。
卒業式が終わったその日、恋が帰る頃、下駄箱付近には誰もいなかった。
恋は三井の下駄箱の前に立っていた。
高校生活最後の勇気を振り絞って書いたラブレター。
それをそっと下駄箱の中に忍ばせる。
恋はずっと三井のことが好きだったのだ。
ただ、友人関係を壊すのに躊躇して、想いを告げられるはずもなく日々は過ぎた。
そして、とうとう来てしまった卒業式。
恋は前日の夜、思いのたけを紙にしたためた。
といっても、一言書くのが精一杯で、差出人も、まして宛名でさえ書くことができなかった。
結果、当たり前のように返事が来ることもなく、恋はその気持ちに一つの区切りをつけたのだった。
恋は記憶を遡り終えるとその手紙の角に軽く触れた。
瞬間、当時の想いが溢れたように感じてしまい、複雑な表情で手を引いた。
「何でわかったの?」
「字」
「あはは、そりゃそっか」
三井の返事に恋は笑うしかない。
友人の字など、少し考えればわかるだろう。
恋も三井の字ならばすぐに見分けられるのだ。
そんな答えに至らず、宛名も差出人も書かなかったことは滑稽でしかない。
「まぁ分かってもすぐ返事しなかったから、俺も悪りぃんだけどな」
三井は少しだけ声を落とすと手紙を再びポケットにしまった。
恋はそれを止めることもできず、その答えを求めた。
「何でくれなかったの?」
「もし違ったら凹むだろ」
「凹むんだ」
「当たり前だろ!?俺は…」
ドンっと手をつく三井に恋はジッと視線を送る。
その視線に三井は言葉を見失った。
「三井、それ以上は言っちゃダメじゃない?婚約者いるんだし」
「…昔のことだろ」
「それでもダメ」
ピシャリと言い放つ恋に三井はグッと拳を握った。
恋はただ静かに酒を口に流し込んでいた。
それから二人はそれまでの話などなかったかのように、酒を呷り話を弾ませてから店を出た。
終電などとうになくなっている時間。
二人は酔いを体に感じつつタクシー乗り場に向かっていた。
当時と変わってしまった街並みに、恋は少し物悲しい気持ちになる。
三井は少しふらつく恋の足取りを心配そうに見つめていたが、支える手は出せないでいた。
と、恋はある方向を指差し他愛もない言葉を発した。
「あ、バスケットゴール。まだあるんだね」
「あぁ、そうだな」
二人は吸い寄せられるかのように歩く。
学生時代訪れたこともあるそこには、年季の入ったバスケットゴールが当時と変わらずそこにあった。
三井に蘇るのは、不良時代も経験しつつの部活三昧だった高校三年生。
今は会社員となりバスケットボールからは離れている。
楽しい思いも悔しい思いも沢山した、青春という名に相応しいひと時。
将来プロになりたくなかったわけではない。
なれなかったのだ。
それは高校、大学時代に嫌でも思い知らされた。
けれど、バスケットボールというスポーツが嫌いになることなどできず、高校三年生の夏は今も色褪せることなく三井の中にある。
そんな物思いに耽る三井を引き戻したのは恋の声だった。
「ね、見せてよゴールするの。あ、それとも、もう入らない?」
「バカ言え。入るに決まってんだろ」
茶化しながら恋が公園に入り、ゴール横に落ちている誰かの忘れ物のボールを拾うと三井に投げた。
三井はパシリとそのボールを受け取ると、何度かバウンドさせながら定位置に移動した。
何度も何度も打って体が覚えてしまっている得意の3Pシュート。
多少酔ってはいても体は覚えているもので、三井が放ったボールは綺麗な弧を描きゴールを揺らした。
「ほらな」
三井は内心ドキドキと外さないか緊張もしていたのだが、それを感じさせることもなく不敵に笑ってみせた。
恋はその笑みを見て一瞬驚いた表情をしていたが、すぐにそれは笑みへと変わった。
「うん」
「どうした?」
「ううん、懐かしいなって思って。昔もあったよね」
「あぁ、お前が信じなかった時か」
三井は少しだけ呆れた声を出す。
あれはいつだったか。
放課後の校庭で、バスケットボールのシュート練習をしていた恋が、あまりの入らなさ加減にぼやき始めたのだ。
シュートがそう何度も入るはずがないと言い出した恋に、練習に付き合っていた三井はとある賭けを提案した。
合意した恋は、全ては無理だろうと無理難題な回数を提案したのだが、三井はそれを全て決めてしまったのだ。
同じ記憶を思い起こした恋はため息混じりに口を開く。
「そりゃそうだよ。全部入るとか思わないじゃん」
結果、恋は賭けに負けた。
悔しがる恋とは裏腹に三井は誇らしそうにしていたのだ。
そして、その後に記憶は進む。
「そう言えば、あの時約束果たさなかっただろ」
「えー?約束?何だっけー?」
「あん時もそうやって逃げたよな」
「あはは、よく覚えてるね」
当時の記憶は互いに鮮明だ。
『デート一回』
それが当時、三井が提案したものだった。
しかし、それが叶うことはなかった。
恋がのらりくらりとかわし、結局あやふやになったのだ。
「当たり前だろうが。俺がどんだけ勇気振り絞ったと思ってんだ」
「うん、覚えてるよ。三井、凄く顔赤かったよね」
「うるせー」
三井は悪態つくが、当時よりは幾分かマシな色味の頬でそっぽを向いた。
恋はそんな三井を見て懐かしく思う。
三井は気持ちが表情や態度に出やすいのだ。
そんな三井に恋が惹かれた部分もあり、想いが蘇りそうになって恋はかすかに目を伏せた。
三井は何か迷っているのかボールを弄んでいた。
それから二人は、どちらからともなく公園を出て目的地へと向かった。
タクシー乗り場へ着きタクシーを待っていると、ふと何かを決意したのか三井は声を発する。
「なぁ、あの約束、今果たしてくれねぇか」
二人しかいない静かな空間に三井の声は鮮明に耳へと届く。
その瞳は真剣で真っ直ぐに恋を見据えていた。
恋はドキリと胸が脈打つ。
だが、笑って否定した。
「あはは、それはダメ。ムリ」
「それは、俺が婚約してたからか?」
「そりゃー婚約ちゅ…え?してた?」
三井の言葉はさも終わっているかのようで恋は引っかかる。
結婚間近ならば、『婚約しているから』となるだろう。
三井は少しだけ不機嫌そうにため息をついた。
「もうとっくに別れてる。結婚までいってねぇ」
「はぁ!?でも、さっき言わなかったじゃん!」
「言えるかよ、んなダセェこと」
プイッとそっぽを向く三井はますます機嫌が悪そうだ。
いい歳になっても男の沽券に関わるのか、三井はそんなことを気にする男だったと思い返す。
ダサいことを恥と思うのは性格なのか、それは中々治らないのかもしれない。
恋は先程までの妙な緊張感を和らげた。
「はー…本当私の時間返して欲しい」
「はぁ?」
三井は怪訝そうに恋を見るが、恋は結婚と聞いて嫌でも色々考えてしまったのだ。
そして、それは恋の心に悶々としたものを増やしていた。
だが、それは今、いとも簡単に崩された。
「何でもない。…いいよ、一回だけなら」
「いつまでこっちいんだ?」
恋は今仕事の関係で県外に住んでいる。
一人暮らしというのはその辺り気軽に引っ越しができるのだが、このような集まりになると多少の不便は出てしまう。
週明けの仕事に向けて帰る時間は自然と決まるのだ。
「明後日の昼には帰るよ」
「明日は?」
「予定ないから大丈夫」
「じゃあ、明日駅前で待ち合わせな」
「うん」
そこへタクシーが来て互いに乗り込む。
それぞれを乗せたタクシーは逆方向に向かい深夜の街に消えて行った。
翌日の夜、一日デートという名の時間を過ごした恋は、三井の運転する車の助手席にいた。
すっかり辺りは暗くなり、繁華街を抜ければ人通りは極端に少なくなる。
恋の実家まで送るという三井に合意したのは、まだ離れたくない想いからだろうか。
恋はぼんやりと流れる景色を見ていた。
「今日はありがとう。楽しかった」
「あぁ」
「三井の運転、上手くて驚いたよ」
クスクスと笑う恋に、三井は横目で不満を訴えかけた。
「あぁ?」
「何か雑な運転するのかと思ったら凄く丁寧だった。バスケでゴールする時みたいで、カッコ良かった」
三井の運転は、素行とは逆にとても丁寧なもので恋は驚きを隠せなかった。
それは初めて三井の3Pシュートを見た時の感動に近いものがあった。
無骨な手から放たれる三井のシュートは、まるで絵に描いたような切り取られた綺麗さがあった。
吸い寄せられるように何度もゴールに向かうボールは、丁寧なフォームの賜物なのだろう。
その光景は恋の脳裏に強く焼きついていて、運転する三井を見て何故かそのことを思い出してしまったのだ。
三井にしてみれば、運転が丁寧だと思われるのは、今、隣に恋がいることが関係していると言える。
助手席に乗せる相手によって、自然と丁寧な運転をより意識せざるを得なかったのだ。
三井はハンドルを切りながら少しぶっきらぼうに礼を言う。
「…そりゃどーも」
「もうそろそろ家だね」
「あぁ」
「またしばらく会えないけど、元気でね」
「あぁ」
別れの時は近い。
すっかり口数の少なくなった三井に、恋は見覚えのある道を確認すると指を指す。
「あ、そこでい…!?」
車は恋が指差した付近に止まることはなく、グッとアクセルが踏まれて通り過ぎる。
恋は目を見開き三井を見やる。
三井は前方を見つめたまま言った。
「もうちょい付き合え」
「はぁ!?どこ行…」
「海」
ニカッと笑みを携えて三井が恋を見た。
恋はその笑顔に言葉を失い窓の外を見る。
恋の頬は少しだけ赤かったが、三井からは見えないでいた。
拒否されなかったことに内心ホッとしつつ三井は車を走らせた。
沈黙が流れる車内。
ほどなくして着いた海辺に車を停めると、二人は浜辺へとやって来た。
「うわっ、暗っ」
「だな」
辺りは、月明かりと遠くに見える街並みの灯りや街灯くらいしかなく、海は漆黒の色をしていた。
それは妙に胸を騒ぎ立てる。
「夜の海ってなんか怖いよね」
「まぁ、不気味な感じはするな」
「ね。てか、何で海?」
「何となく」
「ふーん」
三井は砂浜を歩いているとふいにしゃがみこんだ。
恋は何か見つけたのかと見るが、特にそういうわけでもないのか三井は砂をサラサラと弄んでいるだけだった。
この暗さの中、何かを見つける方が困難だろう。
恋は三井の隣に佇んで海を見つめていた。
「なぁ、お前彼氏は?」
「さぁ、どうでしょうねぇ?」
「その言い方はいねぇんだろ」
三井はクッと喉で笑う。
恋は、昔から何かを誤魔化す時は妙に白々しい言い方をしていた。
それは、今でも変わっていないのかと懐かしくなる。
ただ、当の恋は無意識で反応しているようで、少しムッとしていた。
「そういう三井はどうなのよ」
「俺はいねぇよ」
静かに、ただハッキリとその言葉は聞き取れた。
恋は少し迷ってから言葉を発する。
「ねぇ、聞いていい?」
「あ?」
三井は恋を見上げた。
恋は海から三井に視線を静かに移すと言った。
「何で結婚までいかなかったの?」
「何で?何で…まぁ向こうが言い出したことだしな」
「え、振られたの!?」
「まぁな。長いこと同棲してたし、何となく流れで結婚するかーってなったけど、上手くいかなかったな」
その事実は、知りたいようで知りたくなかったことでもある。
恋は質問をしておきながら複雑な想いに駆られた。
けれど、質問の波は押し寄せ口は開いてしまう。
「何で?」
「何でだろうな」
「彼女には何て言われたの?」
「あ?あー、まぁいいじゃねぇか」
三井は視線を泳がせるとはぐらかした。
恋はしゃがみこむと三井の顔を覗き込む。
唐突に二人の距離は縮まり見つめ合った。
「何?」
真剣に見つめる恋の瞳から、ふいっと視線を逸らした三井はポツリと言った。
「俺には他に好きな奴がいるってよ」
「え、浮気!?」
「ちげぇよ」
「じゃなけりゃ言わないでしょ、普通」
「…実家に置いてたこの手紙見られた」
三井は今日もポケットにしまっていた手紙に視線を移した。
それは、ただ無機質に三井の胸のそばにある。
「え!?」
「俺は返事してねぇし、お前に会ってもないって言ったんだけどな。何年も経ってんのに持ってるのはおかしいっつって、破ろうとしたから怒ったら、まだ好きなんでしょとか言い出したんだよ」
三井達が結婚を意識しだしたとある日、三井の実家に一緒に訪れた際に部屋で過ごして見つかった手紙。
それは、三井自身どこにしまったか忘れていた物でもある。
何年も開いていなかった一冊の本に挟まっていたそれに、当時修羅場となったのは言うまでもない。
女性側としては、過去の出来事を感じさせる部分が嫌だったのだろう。
三井自身、恋のことは伏せていたのだ。
ただの友達止まりだった二人の関係をわざわざ言うことでもないと思っていた。
それは結果として問題となった。
「え、何それ。私のせいじゃん」
「ちげぇって。俺が捨てなかったのが悪いし。まぁ、未練がなかったとは言わねぇけど」
三井にとっては消化不良のまま過ぎ去った出来事だ。
それは恋にも言えることだが、それが形となって残っていた三井にはひとしおだろう。
恋は、三井の言葉に戸惑い視線を逸らした。
「っ、困る」
「だろうな」
三井には今、恋が何を考えているのかは分からない。
けれど、何となく肯定的には取られていないのだろうと推測はできた。
三井はため息混じりに続けた。
「まぁ同棲も惰性になってたし、お互い配慮もなくなってたから仕方ねぇよ」
「別れて良かったの?」
「まぁ、良い悪いでは判断できねぇよ。楽しい事もあったし、嫌いなわけじゃねぇからな」
付き合い、同棲し、婚約に至るまで十分な期間を過ごした。
それは、楽しいことも苦しいことも二人で乗り越えて来た証拠でもある。
しかし、それは予想外の所から脆く崩れ去った。
結果は仕方ないことで後悔はないが、申し訳ないという想いがないわけではない。
きっと、この手紙を捨てていればまた結果は違ったのだろう。
「…まだ好き?」
「好きとかではねぇな」
「ふーん」
三井の素直な感情に恋は素っ気なく答えた。
それは微かな苛立ちが混じったのかもしれない。
「これから先、結婚はしないの?」
「さぁ。相手によるんじゃねぇ?そういうお前は?」
「結婚願望はあるよ。相手がいないだけで」
互いに適齢期ではあるのだ。
これから結婚をする者もかなり多くなるだろう。
ただ、今は漠然としか想像できずにいる。
三井は、恋をチラリと見て少し遠慮気味に尋ねた。
「今まで彼氏は?」
「いたよ」
「へぇ。何で別れたんだよ?」
「…言いたくない」
「俺は言ったのにか?」
「うっ」
それを言われると恋は困ってしまう。
三井は恋からの質問に虚偽なく答えたのだ。
それで恋だけ答えないのはフェアでないだろう。
「どうなんだよ?」
「浮気された」
「へぇ」
「何?」
恋は不満そうに三井を見返した。
三井は少なからず驚いただけだが、恋にはそう取れない何かがあったのだ。
そう感じるのは元を辿れば、恋が自分自身に思っていることなのだが、それを認めたくはないのだろう。
三井は少しだけ口元を緩めた。
「別に。意外だっただけ」
「私だって、まさか浮気されるとか思ってないし!」
恋は勢いよく立ち上がり大きな声を出す。
三井はクッと喉を鳴らすと立ち上がり、パンパンと手についた砂をはらった。
それから、同じ姿勢で疲れた体をグッと伸ばす。
「まぁ、そりゃそうだよな。じゃあ、お前から振ったのか」
「当たり前でしょ?大体、男ってなんであんなバレバレの嘘つくわけ?」
「バレバレだったのかよ」
ムッとしてそう言い放つ恋に三井は笑ってしまった。
恋には笑い事ではすまないが、三井にはその光景は滑稽に映る。
恋の恋人を知っていたわけではない。
けれど、一般的な状況は想像に容易く、恋が怒っている様も想像できた。
恋は当時の怒りが再燃したのか、わなわなと手を震わせている。
「そうよ。しかもすぐ認めるし、なんなのあいつ!」
「じゃあ、別れて正解だな」
「大正解だから!結構経つけど今でもムカつく」
「へぇ」
怒りに駆られる恋の頭の中は今、元恋人のことでいっぱいだった。
それを見て、三井は恋の手を突如握った。
恋は、急激に今へと呼び戻され握られた手を見る。
「何?」
「いや、海怖いっつったろ?だから手繋げば怖くねぇだろ」
「いや、今更!?別に良いから。歩けないほどじゃないし」
恋が手を離そうとすると、三井がギュッと握りしめそれは叶わなかった。
三井は繋いだ恋の手ごと持ち上げ腕時計を見せる。
「デートの締め」
「え?あ、本当だ。もうこんな時間なんだね」
時刻を見れば午前零時まであとわずかだ。
急速に訪れる別れを感じ取り、恋は抗議を止めた。
「一日デートって約束だったしな」
「うん」
「また明日からは、それぞれの生活だな」
「そうだね」
手は互いに握っていてもそれ以上距離が近づくことはない。
口数も自然と減り耳には波の音が度重なる。
「お前、ちょくちょく帰って来てるのか?」
「年に何回かは」
「ふーん。じゃあ、そん時はまた呑もうぜ」
「うん」
「じゃあ、帰るか」
「うん」
互いに終わりの時間を意識し締め括ろうとする。
しかし、言葉とは裏腹に足は動かなかった。
「何で動かないの?」
「お前もだろ」
淡々と言葉は出るが、互いに動き出そうとしなかったのだ。
それは、別れるのを惜しむ気持ちの表れだろう。
そこから生まれたのは沈黙だけだった。
ただ、波の音が静かに耳へと届き続けている。
それは数十秒のことだが、やけに長く感じられるほどだった。
だが突如、三井が握った手を離すと恋をグッと抱き寄せ、空気は荒々しく破られた。
固まる恋に三井は囁く。
「なぁ」
「…言わないでね」
「別に問題ねぇだろ、お互いフリーなんだし」
「分かってる」
「なら、何だよ。俺に婚約までいった奴がいるからか?」
「違う」
「じゃあ、何だ」
「多分、お互い美化されてると思う。だから、続かないと思うよ」
「本気で言ってんのか?」
三井は腕を緩めると眉を寄せて恋を見つめる。
恋もその瞳を見て言った。
「三井はそう思わないの?」
「思わねぇ。俺は、恋が好きだ。高校ん時からずっと」
三井の想いが恋へと届く。
しかし、恋はそれを容易く受け入れられなかった。
「なら、何で他の子と婚約するのよ」
「諦めれたと思ってたんだよ。会わなかったし、過去のことになるだろって。でも、実家で手紙見つけた時に、未練あるって自覚しちまったんだ」
「本当に困る」
「恋は、俺のこと好きじゃなくなったか?」
「もういいから」
恋はグッと三井の胸を押し返した。
だが、その抵抗は意味もなく恋は再び三井の腕の中におさまってしまう。
「よくねぇだろ」
「だって、遠距離だよ?」
「だから何だよ」
「遠距離とか絶対無理だよ」
「何でそんなこと言えんだよ。今は携帯だってあんだろ。声くらいすぐ聞ける」
「聞けても会えないじゃない。すぐに会いたくても会えない。寂しいだけだよ」
それは本心の一部だろう。
けれど、恋はもっと別の想いから言葉を探してしまっていた。
「なら会いに行ってやる。車もあんだ、行けるだろ」
「そこまでしなくていい」
「何でだよ」
「本当無理だから」
そこで三井の腕が緩められ互いに距離ができた。
三井は真摯な眼差しで恋を射抜く。
「やっぱり、もう好きじゃないからか?」
「何で、今も好きでいるって思うの?」
恋は不思議そうに三井を見やる。
何故、三井は恋が自身を好きでいる前提なのだろうか、と。
それは、三井の言葉の端々からずっと感じていたことだ。
三井は、恋をジッと見つめて言葉を探すように静かに口を開いた。
「…お前が、俺を見る時の目」
「何?」
「お前が俺を見る目ってある時から変わった。その目で見られると、俺はお前を抱きしめたくなる」
「なっ」
カッと頬を赤らめた恋を、三井は再び強く抱きしめた。
「それに、こうしても本気で拒まねぇ。そんなの期待するだろ」
「それは…」
「嫌なら拒めよ」
「っだから」
「もう黙れ」
三井は強引に恋の唇を塞いだ。
何度も重なる口付けに恋の思考は鈍る。
「なぁ、恋。好きだ。すげぇ好きだ」
口付けの合間に紡がれる言葉。
恋は恥ずかしさと葛藤で返事などできない。
「お前に彼氏ができねぇ限り諦めねぇからな。嫌なら彼氏作れよ」
「っ、意地悪なこと言うね」
「嫌ならそれで済む話だろ」
「わかってる」
恋が拒む理由。
それは至極簡単なことで、純粋な心で受け入れられるほど子供ではなくなってしまったからだ。
互いに好きだから付き合う。
それが大人になるにつれ難しくなってきた。
色々なしがらみもある。
付き合えば裏切られることもある。
三井の真っ直ぐな想いは、恋の中に怖さを生んだ。
元々、恋は臆病なのだ。
だから、ラブレターに宛名も名前も書けなかった。
賭けもはぐらかし続け、なかったことにした。
好きならば、ただ素直になれば済む話だ。
けれど、恋にはそれができない。
婚約破棄の原因の一部に、少なからず恋が関わっているのも大きい。
そんな二人が付き合っていいものか。
恋自身三井のことは好きなままだ。
互いに違う者と付き合おうとも時間は解決してくれなかった。
消化不良のままだったツケが今になって強く出た。
当時、面と向かって互いの気持ちを確かめ合えば良かったのだろうか。
そうすれば未来は変わっていたのかもしれず、恋の心は葛藤しか生まれない。
「なぁ、恋」
三井がポツリと名を呼ぶと、恋は静かに見返した。
「好きだ」
その一言は強く恋に響いた。
心を崩されそうで、何故か恋は泣きそうになる。
「恋」
三井が愛おしそうに名を呼び再び距離は縮まる。
そうして重なる唇は何度目だろうか。
恋は強く抵抗などできない。
言葉には出さずとも、恋の行動が示しているのは肯定。
そんな状態で三井が引き下がることなどない。
「なぁ、俺のことどう思ってる?」
静かに三井は言葉を発する。
恋は、長い葛藤の末にある答えを導き出す。
「…っ、好き。私は…三井が好き」
やっとのことで素直に吐露できた言葉。
それは、長く遠回りだった二人が通じ合った瞬間でもあった。
一度肯定してしまえば、想いは溢れ出す。
恋は少し背伸びをして、喜びに浸る三井に唇を重ねた。
「三井、好き」
泣き笑いのような顔で恋が言い、三井は恋の頬を撫でるとはにかんだ。
どちらからともなく距離は近づく。
重なる唇は二人の想いを表すように熱く優しかった。
恋の中に生じたさざ波はいつの間にか消え、月明かりに照らされた海面では波がただ穏やかに流れ続けてているのだった。
→アトガキ
恋を含む二十数名が居酒屋に集まっていた。
この日は湘北高校元三年三組の同窓会だった。
仕事帰りの者が多いためか、男性はスーツ姿の者がほとんどだ。
女性もOLといった服装が多く、当時よりも皆大人になったとまざまざと感じとれた。
ある程度の人数が集まると乾杯をし、どこからともなく自然と話しが始まり広がった。
高校生を卒業し社会人となった今の話題は、どこもかしこも似たような話ばかりだ。
しばらくすれば、遅れてやって来た者達も次々と到着し、今しがたも座敷の襖が開かれた所だ。
そこで顔を覗かせたのは三井だった。
「あ、三井だー」
元クラスメイトは三井を見るなり声を張り上げる。
三井がこのような会に参加することは珍しく、皆は懐かしそうに見遣った。
「よう」
「久しぶりだな!」
三井に声をかけるのは高校生の頃、仲の良かった者達だ。
三井は当時、不良の時期もあり皆が遠巻きにしていた。
しかし、バスケ部という名目のもとそれは次第に崩れていった。
元々三井は自信過剰気味ではあるが爽やかスポーツ少年で、口は悪いが人当たりもそう悪くはなかったのだ。
きっかけさえあれば、自然とクラスに馴染むことはできていった。
自然と話しの輪におさまる三井を見て、恋の隣にいた友人が声をかけた。
「ちょっと、恋、三井来たよ?」
「え?何がー?」
他の友人と談笑していた恋は、引っ張られた袖の方向へ振り向いた。
「だから、三井!高校ん時好きだったでしょ?」
唐突に友人はそんなことを言ってのける。
恋は、一瞬沈黙したがプッと吹き出した。
「そうだっけ?忘れちゃった」
「え、恋って三井好きだったの!?」
「違うってば!」
いくつになっても女性というものは恋愛話が好きなようで、友人達は恋達の話に食いついた。
そんな話題で目を輝かせているのは、高校生当時を彷彿させる。
「三井って不良だったよね?」
「でも、途中で何かバスケ凄かったんじゃなかったっけ?」
「あー、流川くんが凄かったバスケ部だ!」
「流川くんって言えばさ…」
次第に話題は三井から流川へと移っていた。
当時、流川は年下ながらファンクラブができるほどで、学校中で知らない者はいなかっただろう。
そうやって、話がどんどん逸れていくことに恋は内心ホッとしているのだった。
それから酒も進み皆がほろ酔いの中、恋ものんびりと酒を口に注いでいた。
一部では異様な盛り上がりも見せていて、皆が楽しそうだ。
恋がテーブルに並ぶ肴に手を伸ばすと隣に影が出来た。
「よう」
そこにいたのは手にジョッキを持つ三井だった。
異様な盛り上がりをみせる席から移動して来たのだ。
「あ、久しぶりー」
「久しぶり。横いいか?」
「うん、いいよ」
二人は高校当時、仲の良い友人関係にあった。
しかし、後に疎遠となり、今日会ったのも卒業式以来で、かなり久しぶりと言える。
二人の間には少し緊張が走っていた。
が、ポツリポツリと話をしていくにつれ、バカな話を真剣に話し笑い合っていた日々が蘇り、ぎこちなさはすぐに消えた。
三井はジョッキを呷ると恋をチラリと見た。
「お前、今何してんの?」
「え?普通に働いてるよ。三井は?もしかして、ニートとか!?」
三井は卒業後大学に進んだと聞いてはいたが、プロにはなってはいないと耳に挟んでいた。
そして、今もスーツ姿でいるため、普通に働いているのだろうと想像は容易い。
だが、恋はニヤニヤとからかうように口を開き、肴を口に入れた。
三井も肴を皿に置くと心外そうに眉を寄せた。
「んなわけあるかよ!ちゃんと働いてるっつーの」
「そうな…」
「そりゃそうだよな!だって三井には、婚約者いるもんなー」
ドンっと三井に寄りかかって、突然そんなことを言い出したのは元クラス一のお調子者だ。
そこまで大きな声ではないので、近場にいた者にしか聞こえてはいないだろうが、皆が一様に驚いていた。
そして、当時からこの男はこうだったなと感慨深くなっている者も少なくなかった。
しかし、恋はそう思う暇もなく驚くだけだ。
「え!?」
「なっ」
「聞いたぜー。大学から同棲してた子と結婚間近なんだろ?」
三井の肩に腕を回しニヤニヤ、そしてどこか羨ましそうに言っている友人を見て、三井は焦りが顔に浮かんだ。
「何で、んなこと知ってんだよ!?」
「そりゃー、元クラスメイトの情報とか噂になるじゃん?」
「ならねぇよ!」
「なぉなぁ、ラブラブ?今ラブラブなの!?」
「うるせー!」
からかう友人に三井は喚くが、恋には衝撃が強くしばらく動けなかった。
皆、年齢的に結婚をしてもおかしくはないのだ。
元クラスメイトの中にも、婚約中の者や結婚をしている者がいる。
ひいては子供のいる者もいる。
だが、三井が結婚となるとどうしてか恋の中では上手く結びつかなかった。
盛り上がり始める隣を尻目に、恋はスッと席を離れた。
三井はすかさずそれに気付いたが、酔っ払い達に絡まれて追いかけることが出来ないでいるのだった。
その後、宴もたけなわにお開きとなった居酒屋の店先で、二次会組と帰宅組に自然と別れ挨拶が始まる。
恋も友人達と集まっていた。
「恋は二次会どうする?」
「私はいいや。明日予定あるから」
恋はしばらく考えるそぶりを見せてそう答えた。
実を言うと予定などない。
だが、今は二次会に行くような気分でもなかったのだ。
友人達は特に気にせず、ほろ酔い気味の顔に笑みを浮かべていた。
「そっか、じゃあまたね」
「うん、また連絡するし、皆にもよろしく言っといてよ」
「了解。またね!」
手を振り別れると、恋は駅に向かって歩き出す。
友人達も、恋を見送れば二次会組の輪へ入って行った。
騒がしい声を背に、しばらく恋が道を進むと、ふいに後ろから声をかけられた。
「恋」
「ん?三井!?二次会は?」
そこに立っていたのは三井で、追いかけて来たのか少しだけ息を乱していた。
てっきり三井は二次会に参加しているのだろうと、恋は勝手に思っていたために驚きを隠せない。
三井は呼吸を整え最後に大きく息を吐いた。
「パス。なぁ、ちょっと他で呑みなおさねぇ?」
「え、…まぁいいけど」
三井の誘いに恋は無意識に言葉を紡いでいた。
そして近場の、遅くまでやっている居酒屋へと入り席に着くと注文は手早く済んだ。
腹はあらかた満たされているので、飲み物と軽い肴さえあれば事足りたのだ。
「じゃ、改めて乾杯」
「かんぱーい」
カツンとグラス同士がぶつかる音を聞き終えると、互いに酒を喉へと流し込む。
そして流れる沈黙。
三井は届いた肴を口に運んでいる。
それをぼんやりと見ながら、ほろ酔い気分の恋は、手持ち無沙汰なのか箸袋を弄ぶとポツリと言った。
「てかいいの?未来の奥さん家で待ってんじゃないの?」
「あー、その話はいいから。それより、俺お前に謝りたかったんだよ」
どこかばつの悪そうな三井に恋は首を傾げた。
恋は謝られることに心当たりがなかったのだ。
「何を?」
「ちゃんと返事してなかったこと」
「返事?」
「これ」
三井がゴソゴソと上着の内ポケットから取り出したのは一通の手紙。
封筒に何も書かれていないそれに恋は見覚えがある。
瞬間、酔いなど一気に吹き飛んだ。
「なっ!?」
「これ書いたのお前だろ?宛名とか差出人くらい書けよ。しかも卒業式に入れるとか…」
三井がため息混じりに言っているのを見て、恋の記憶は一気に蘇った。
***
卒業式が終わったその日、恋が帰る頃、下駄箱付近には誰もいなかった。
恋は三井の下駄箱の前に立っていた。
高校生活最後の勇気を振り絞って書いたラブレター。
それをそっと下駄箱の中に忍ばせる。
恋はずっと三井のことが好きだったのだ。
ただ、友人関係を壊すのに躊躇して、想いを告げられるはずもなく日々は過ぎた。
そして、とうとう来てしまった卒業式。
恋は前日の夜、思いのたけを紙にしたためた。
といっても、一言書くのが精一杯で、差出人も、まして宛名でさえ書くことができなかった。
結果、当たり前のように返事が来ることもなく、恋はその気持ちに一つの区切りをつけたのだった。
***
恋は記憶を遡り終えるとその手紙の角に軽く触れた。
瞬間、当時の想いが溢れたように感じてしまい、複雑な表情で手を引いた。
「何でわかったの?」
「字」
「あはは、そりゃそっか」
三井の返事に恋は笑うしかない。
友人の字など、少し考えればわかるだろう。
恋も三井の字ならばすぐに見分けられるのだ。
そんな答えに至らず、宛名も差出人も書かなかったことは滑稽でしかない。
「まぁ分かってもすぐ返事しなかったから、俺も悪りぃんだけどな」
三井は少しだけ声を落とすと手紙を再びポケットにしまった。
恋はそれを止めることもできず、その答えを求めた。
「何でくれなかったの?」
「もし違ったら凹むだろ」
「凹むんだ」
「当たり前だろ!?俺は…」
ドンっと手をつく三井に恋はジッと視線を送る。
その視線に三井は言葉を見失った。
「三井、それ以上は言っちゃダメじゃない?婚約者いるんだし」
「…昔のことだろ」
「それでもダメ」
ピシャリと言い放つ恋に三井はグッと拳を握った。
恋はただ静かに酒を口に流し込んでいた。
それから二人はそれまでの話などなかったかのように、酒を呷り話を弾ませてから店を出た。
終電などとうになくなっている時間。
二人は酔いを体に感じつつタクシー乗り場に向かっていた。
当時と変わってしまった街並みに、恋は少し物悲しい気持ちになる。
三井は少しふらつく恋の足取りを心配そうに見つめていたが、支える手は出せないでいた。
と、恋はある方向を指差し他愛もない言葉を発した。
「あ、バスケットゴール。まだあるんだね」
「あぁ、そうだな」
二人は吸い寄せられるかのように歩く。
学生時代訪れたこともあるそこには、年季の入ったバスケットゴールが当時と変わらずそこにあった。
三井に蘇るのは、不良時代も経験しつつの部活三昧だった高校三年生。
今は会社員となりバスケットボールからは離れている。
楽しい思いも悔しい思いも沢山した、青春という名に相応しいひと時。
将来プロになりたくなかったわけではない。
なれなかったのだ。
それは高校、大学時代に嫌でも思い知らされた。
けれど、バスケットボールというスポーツが嫌いになることなどできず、高校三年生の夏は今も色褪せることなく三井の中にある。
そんな物思いに耽る三井を引き戻したのは恋の声だった。
「ね、見せてよゴールするの。あ、それとも、もう入らない?」
「バカ言え。入るに決まってんだろ」
茶化しながら恋が公園に入り、ゴール横に落ちている誰かの忘れ物のボールを拾うと三井に投げた。
三井はパシリとそのボールを受け取ると、何度かバウンドさせながら定位置に移動した。
何度も何度も打って体が覚えてしまっている得意の3Pシュート。
多少酔ってはいても体は覚えているもので、三井が放ったボールは綺麗な弧を描きゴールを揺らした。
「ほらな」
三井は内心ドキドキと外さないか緊張もしていたのだが、それを感じさせることもなく不敵に笑ってみせた。
恋はその笑みを見て一瞬驚いた表情をしていたが、すぐにそれは笑みへと変わった。
「うん」
「どうした?」
「ううん、懐かしいなって思って。昔もあったよね」
「あぁ、お前が信じなかった時か」
三井は少しだけ呆れた声を出す。
あれはいつだったか。
放課後の校庭で、バスケットボールのシュート練習をしていた恋が、あまりの入らなさ加減にぼやき始めたのだ。
シュートがそう何度も入るはずがないと言い出した恋に、練習に付き合っていた三井はとある賭けを提案した。
合意した恋は、全ては無理だろうと無理難題な回数を提案したのだが、三井はそれを全て決めてしまったのだ。
同じ記憶を思い起こした恋はため息混じりに口を開く。
「そりゃそうだよ。全部入るとか思わないじゃん」
結果、恋は賭けに負けた。
悔しがる恋とは裏腹に三井は誇らしそうにしていたのだ。
そして、その後に記憶は進む。
「そう言えば、あの時約束果たさなかっただろ」
「えー?約束?何だっけー?」
「あん時もそうやって逃げたよな」
「あはは、よく覚えてるね」
当時の記憶は互いに鮮明だ。
『デート一回』
それが当時、三井が提案したものだった。
しかし、それが叶うことはなかった。
恋がのらりくらりとかわし、結局あやふやになったのだ。
「当たり前だろうが。俺がどんだけ勇気振り絞ったと思ってんだ」
「うん、覚えてるよ。三井、凄く顔赤かったよね」
「うるせー」
三井は悪態つくが、当時よりは幾分かマシな色味の頬でそっぽを向いた。
恋はそんな三井を見て懐かしく思う。
三井は気持ちが表情や態度に出やすいのだ。
そんな三井に恋が惹かれた部分もあり、想いが蘇りそうになって恋はかすかに目を伏せた。
三井は何か迷っているのかボールを弄んでいた。
それから二人は、どちらからともなく公園を出て目的地へと向かった。
タクシー乗り場へ着きタクシーを待っていると、ふと何かを決意したのか三井は声を発する。
「なぁ、あの約束、今果たしてくれねぇか」
二人しかいない静かな空間に三井の声は鮮明に耳へと届く。
その瞳は真剣で真っ直ぐに恋を見据えていた。
恋はドキリと胸が脈打つ。
だが、笑って否定した。
「あはは、それはダメ。ムリ」
「それは、俺が婚約してたからか?」
「そりゃー婚約ちゅ…え?してた?」
三井の言葉はさも終わっているかのようで恋は引っかかる。
結婚間近ならば、『婚約しているから』となるだろう。
三井は少しだけ不機嫌そうにため息をついた。
「もうとっくに別れてる。結婚までいってねぇ」
「はぁ!?でも、さっき言わなかったじゃん!」
「言えるかよ、んなダセェこと」
プイッとそっぽを向く三井はますます機嫌が悪そうだ。
いい歳になっても男の沽券に関わるのか、三井はそんなことを気にする男だったと思い返す。
ダサいことを恥と思うのは性格なのか、それは中々治らないのかもしれない。
恋は先程までの妙な緊張感を和らげた。
「はー…本当私の時間返して欲しい」
「はぁ?」
三井は怪訝そうに恋を見るが、恋は結婚と聞いて嫌でも色々考えてしまったのだ。
そして、それは恋の心に悶々としたものを増やしていた。
だが、それは今、いとも簡単に崩された。
「何でもない。…いいよ、一回だけなら」
「いつまでこっちいんだ?」
恋は今仕事の関係で県外に住んでいる。
一人暮らしというのはその辺り気軽に引っ越しができるのだが、このような集まりになると多少の不便は出てしまう。
週明けの仕事に向けて帰る時間は自然と決まるのだ。
「明後日の昼には帰るよ」
「明日は?」
「予定ないから大丈夫」
「じゃあ、明日駅前で待ち合わせな」
「うん」
そこへタクシーが来て互いに乗り込む。
それぞれを乗せたタクシーは逆方向に向かい深夜の街に消えて行った。
***
翌日の夜、一日デートという名の時間を過ごした恋は、三井の運転する車の助手席にいた。
すっかり辺りは暗くなり、繁華街を抜ければ人通りは極端に少なくなる。
恋の実家まで送るという三井に合意したのは、まだ離れたくない想いからだろうか。
恋はぼんやりと流れる景色を見ていた。
「今日はありがとう。楽しかった」
「あぁ」
「三井の運転、上手くて驚いたよ」
クスクスと笑う恋に、三井は横目で不満を訴えかけた。
「あぁ?」
「何か雑な運転するのかと思ったら凄く丁寧だった。バスケでゴールする時みたいで、カッコ良かった」
三井の運転は、素行とは逆にとても丁寧なもので恋は驚きを隠せなかった。
それは初めて三井の3Pシュートを見た時の感動に近いものがあった。
無骨な手から放たれる三井のシュートは、まるで絵に描いたような切り取られた綺麗さがあった。
吸い寄せられるように何度もゴールに向かうボールは、丁寧なフォームの賜物なのだろう。
その光景は恋の脳裏に強く焼きついていて、運転する三井を見て何故かそのことを思い出してしまったのだ。
三井にしてみれば、運転が丁寧だと思われるのは、今、隣に恋がいることが関係していると言える。
助手席に乗せる相手によって、自然と丁寧な運転をより意識せざるを得なかったのだ。
三井はハンドルを切りながら少しぶっきらぼうに礼を言う。
「…そりゃどーも」
「もうそろそろ家だね」
「あぁ」
「またしばらく会えないけど、元気でね」
「あぁ」
別れの時は近い。
すっかり口数の少なくなった三井に、恋は見覚えのある道を確認すると指を指す。
「あ、そこでい…!?」
車は恋が指差した付近に止まることはなく、グッとアクセルが踏まれて通り過ぎる。
恋は目を見開き三井を見やる。
三井は前方を見つめたまま言った。
「もうちょい付き合え」
「はぁ!?どこ行…」
「海」
ニカッと笑みを携えて三井が恋を見た。
恋はその笑顔に言葉を失い窓の外を見る。
恋の頬は少しだけ赤かったが、三井からは見えないでいた。
拒否されなかったことに内心ホッとしつつ三井は車を走らせた。
沈黙が流れる車内。
ほどなくして着いた海辺に車を停めると、二人は浜辺へとやって来た。
「うわっ、暗っ」
「だな」
辺りは、月明かりと遠くに見える街並みの灯りや街灯くらいしかなく、海は漆黒の色をしていた。
それは妙に胸を騒ぎ立てる。
「夜の海ってなんか怖いよね」
「まぁ、不気味な感じはするな」
「ね。てか、何で海?」
「何となく」
「ふーん」
三井は砂浜を歩いているとふいにしゃがみこんだ。
恋は何か見つけたのかと見るが、特にそういうわけでもないのか三井は砂をサラサラと弄んでいるだけだった。
この暗さの中、何かを見つける方が困難だろう。
恋は三井の隣に佇んで海を見つめていた。
「なぁ、お前彼氏は?」
「さぁ、どうでしょうねぇ?」
「その言い方はいねぇんだろ」
三井はクッと喉で笑う。
恋は、昔から何かを誤魔化す時は妙に白々しい言い方をしていた。
それは、今でも変わっていないのかと懐かしくなる。
ただ、当の恋は無意識で反応しているようで、少しムッとしていた。
「そういう三井はどうなのよ」
「俺はいねぇよ」
静かに、ただハッキリとその言葉は聞き取れた。
恋は少し迷ってから言葉を発する。
「ねぇ、聞いていい?」
「あ?」
三井は恋を見上げた。
恋は海から三井に視線を静かに移すと言った。
「何で結婚までいかなかったの?」
「何で?何で…まぁ向こうが言い出したことだしな」
「え、振られたの!?」
「まぁな。長いこと同棲してたし、何となく流れで結婚するかーってなったけど、上手くいかなかったな」
その事実は、知りたいようで知りたくなかったことでもある。
恋は質問をしておきながら複雑な想いに駆られた。
けれど、質問の波は押し寄せ口は開いてしまう。
「何で?」
「何でだろうな」
「彼女には何て言われたの?」
「あ?あー、まぁいいじゃねぇか」
三井は視線を泳がせるとはぐらかした。
恋はしゃがみこむと三井の顔を覗き込む。
唐突に二人の距離は縮まり見つめ合った。
「何?」
真剣に見つめる恋の瞳から、ふいっと視線を逸らした三井はポツリと言った。
「俺には他に好きな奴がいるってよ」
「え、浮気!?」
「ちげぇよ」
「じゃなけりゃ言わないでしょ、普通」
「…実家に置いてたこの手紙見られた」
三井は今日もポケットにしまっていた手紙に視線を移した。
それは、ただ無機質に三井の胸のそばにある。
「え!?」
「俺は返事してねぇし、お前に会ってもないって言ったんだけどな。何年も経ってんのに持ってるのはおかしいっつって、破ろうとしたから怒ったら、まだ好きなんでしょとか言い出したんだよ」
三井達が結婚を意識しだしたとある日、三井の実家に一緒に訪れた際に部屋で過ごして見つかった手紙。
それは、三井自身どこにしまったか忘れていた物でもある。
何年も開いていなかった一冊の本に挟まっていたそれに、当時修羅場となったのは言うまでもない。
女性側としては、過去の出来事を感じさせる部分が嫌だったのだろう。
三井自身、恋のことは伏せていたのだ。
ただの友達止まりだった二人の関係をわざわざ言うことでもないと思っていた。
それは結果として問題となった。
「え、何それ。私のせいじゃん」
「ちげぇって。俺が捨てなかったのが悪いし。まぁ、未練がなかったとは言わねぇけど」
三井にとっては消化不良のまま過ぎ去った出来事だ。
それは恋にも言えることだが、それが形となって残っていた三井にはひとしおだろう。
恋は、三井の言葉に戸惑い視線を逸らした。
「っ、困る」
「だろうな」
三井には今、恋が何を考えているのかは分からない。
けれど、何となく肯定的には取られていないのだろうと推測はできた。
三井はため息混じりに続けた。
「まぁ同棲も惰性になってたし、お互い配慮もなくなってたから仕方ねぇよ」
「別れて良かったの?」
「まぁ、良い悪いでは判断できねぇよ。楽しい事もあったし、嫌いなわけじゃねぇからな」
付き合い、同棲し、婚約に至るまで十分な期間を過ごした。
それは、楽しいことも苦しいことも二人で乗り越えて来た証拠でもある。
しかし、それは予想外の所から脆く崩れ去った。
結果は仕方ないことで後悔はないが、申し訳ないという想いがないわけではない。
きっと、この手紙を捨てていればまた結果は違ったのだろう。
「…まだ好き?」
「好きとかではねぇな」
「ふーん」
三井の素直な感情に恋は素っ気なく答えた。
それは微かな苛立ちが混じったのかもしれない。
「これから先、結婚はしないの?」
「さぁ。相手によるんじゃねぇ?そういうお前は?」
「結婚願望はあるよ。相手がいないだけで」
互いに適齢期ではあるのだ。
これから結婚をする者もかなり多くなるだろう。
ただ、今は漠然としか想像できずにいる。
三井は、恋をチラリと見て少し遠慮気味に尋ねた。
「今まで彼氏は?」
「いたよ」
「へぇ。何で別れたんだよ?」
「…言いたくない」
「俺は言ったのにか?」
「うっ」
それを言われると恋は困ってしまう。
三井は恋からの質問に虚偽なく答えたのだ。
それで恋だけ答えないのはフェアでないだろう。
「どうなんだよ?」
「浮気された」
「へぇ」
「何?」
恋は不満そうに三井を見返した。
三井は少なからず驚いただけだが、恋にはそう取れない何かがあったのだ。
そう感じるのは元を辿れば、恋が自分自身に思っていることなのだが、それを認めたくはないのだろう。
三井は少しだけ口元を緩めた。
「別に。意外だっただけ」
「私だって、まさか浮気されるとか思ってないし!」
恋は勢いよく立ち上がり大きな声を出す。
三井はクッと喉を鳴らすと立ち上がり、パンパンと手についた砂をはらった。
それから、同じ姿勢で疲れた体をグッと伸ばす。
「まぁ、そりゃそうだよな。じゃあ、お前から振ったのか」
「当たり前でしょ?大体、男ってなんであんなバレバレの嘘つくわけ?」
「バレバレだったのかよ」
ムッとしてそう言い放つ恋に三井は笑ってしまった。
恋には笑い事ではすまないが、三井にはその光景は滑稽に映る。
恋の恋人を知っていたわけではない。
けれど、一般的な状況は想像に容易く、恋が怒っている様も想像できた。
恋は当時の怒りが再燃したのか、わなわなと手を震わせている。
「そうよ。しかもすぐ認めるし、なんなのあいつ!」
「じゃあ、別れて正解だな」
「大正解だから!結構経つけど今でもムカつく」
「へぇ」
怒りに駆られる恋の頭の中は今、元恋人のことでいっぱいだった。
それを見て、三井は恋の手を突如握った。
恋は、急激に今へと呼び戻され握られた手を見る。
「何?」
「いや、海怖いっつったろ?だから手繋げば怖くねぇだろ」
「いや、今更!?別に良いから。歩けないほどじゃないし」
恋が手を離そうとすると、三井がギュッと握りしめそれは叶わなかった。
三井は繋いだ恋の手ごと持ち上げ腕時計を見せる。
「デートの締め」
「え?あ、本当だ。もうこんな時間なんだね」
時刻を見れば午前零時まであとわずかだ。
急速に訪れる別れを感じ取り、恋は抗議を止めた。
「一日デートって約束だったしな」
「うん」
「また明日からは、それぞれの生活だな」
「そうだね」
手は互いに握っていてもそれ以上距離が近づくことはない。
口数も自然と減り耳には波の音が度重なる。
「お前、ちょくちょく帰って来てるのか?」
「年に何回かは」
「ふーん。じゃあ、そん時はまた呑もうぜ」
「うん」
「じゃあ、帰るか」
「うん」
互いに終わりの時間を意識し締め括ろうとする。
しかし、言葉とは裏腹に足は動かなかった。
「何で動かないの?」
「お前もだろ」
淡々と言葉は出るが、互いに動き出そうとしなかったのだ。
それは、別れるのを惜しむ気持ちの表れだろう。
そこから生まれたのは沈黙だけだった。
ただ、波の音が静かに耳へと届き続けている。
それは数十秒のことだが、やけに長く感じられるほどだった。
だが突如、三井が握った手を離すと恋をグッと抱き寄せ、空気は荒々しく破られた。
固まる恋に三井は囁く。
「なぁ」
「…言わないでね」
「別に問題ねぇだろ、お互いフリーなんだし」
「分かってる」
「なら、何だよ。俺に婚約までいった奴がいるからか?」
「違う」
「じゃあ、何だ」
「多分、お互い美化されてると思う。だから、続かないと思うよ」
「本気で言ってんのか?」
三井は腕を緩めると眉を寄せて恋を見つめる。
恋もその瞳を見て言った。
「三井はそう思わないの?」
「思わねぇ。俺は、恋が好きだ。高校ん時からずっと」
三井の想いが恋へと届く。
しかし、恋はそれを容易く受け入れられなかった。
「なら、何で他の子と婚約するのよ」
「諦めれたと思ってたんだよ。会わなかったし、過去のことになるだろって。でも、実家で手紙見つけた時に、未練あるって自覚しちまったんだ」
「本当に困る」
「恋は、俺のこと好きじゃなくなったか?」
「もういいから」
恋はグッと三井の胸を押し返した。
だが、その抵抗は意味もなく恋は再び三井の腕の中におさまってしまう。
「よくねぇだろ」
「だって、遠距離だよ?」
「だから何だよ」
「遠距離とか絶対無理だよ」
「何でそんなこと言えんだよ。今は携帯だってあんだろ。声くらいすぐ聞ける」
「聞けても会えないじゃない。すぐに会いたくても会えない。寂しいだけだよ」
それは本心の一部だろう。
けれど、恋はもっと別の想いから言葉を探してしまっていた。
「なら会いに行ってやる。車もあんだ、行けるだろ」
「そこまでしなくていい」
「何でだよ」
「本当無理だから」
そこで三井の腕が緩められ互いに距離ができた。
三井は真摯な眼差しで恋を射抜く。
「やっぱり、もう好きじゃないからか?」
「何で、今も好きでいるって思うの?」
恋は不思議そうに三井を見やる。
何故、三井は恋が自身を好きでいる前提なのだろうか、と。
それは、三井の言葉の端々からずっと感じていたことだ。
三井は、恋をジッと見つめて言葉を探すように静かに口を開いた。
「…お前が、俺を見る時の目」
「何?」
「お前が俺を見る目ってある時から変わった。その目で見られると、俺はお前を抱きしめたくなる」
「なっ」
カッと頬を赤らめた恋を、三井は再び強く抱きしめた。
「それに、こうしても本気で拒まねぇ。そんなの期待するだろ」
「それは…」
「嫌なら拒めよ」
「っだから」
「もう黙れ」
三井は強引に恋の唇を塞いだ。
何度も重なる口付けに恋の思考は鈍る。
「なぁ、恋。好きだ。すげぇ好きだ」
口付けの合間に紡がれる言葉。
恋は恥ずかしさと葛藤で返事などできない。
「お前に彼氏ができねぇ限り諦めねぇからな。嫌なら彼氏作れよ」
「っ、意地悪なこと言うね」
「嫌ならそれで済む話だろ」
「わかってる」
恋が拒む理由。
それは至極簡単なことで、純粋な心で受け入れられるほど子供ではなくなってしまったからだ。
互いに好きだから付き合う。
それが大人になるにつれ難しくなってきた。
色々なしがらみもある。
付き合えば裏切られることもある。
三井の真っ直ぐな想いは、恋の中に怖さを生んだ。
元々、恋は臆病なのだ。
だから、ラブレターに宛名も名前も書けなかった。
賭けもはぐらかし続け、なかったことにした。
好きならば、ただ素直になれば済む話だ。
けれど、恋にはそれができない。
婚約破棄の原因の一部に、少なからず恋が関わっているのも大きい。
そんな二人が付き合っていいものか。
恋自身三井のことは好きなままだ。
互いに違う者と付き合おうとも時間は解決してくれなかった。
消化不良のままだったツケが今になって強く出た。
当時、面と向かって互いの気持ちを確かめ合えば良かったのだろうか。
そうすれば未来は変わっていたのかもしれず、恋の心は葛藤しか生まれない。
「なぁ、恋」
三井がポツリと名を呼ぶと、恋は静かに見返した。
「好きだ」
その一言は強く恋に響いた。
心を崩されそうで、何故か恋は泣きそうになる。
「恋」
三井が愛おしそうに名を呼び再び距離は縮まる。
そうして重なる唇は何度目だろうか。
恋は強く抵抗などできない。
言葉には出さずとも、恋の行動が示しているのは肯定。
そんな状態で三井が引き下がることなどない。
「なぁ、俺のことどう思ってる?」
静かに三井は言葉を発する。
恋は、長い葛藤の末にある答えを導き出す。
「…っ、好き。私は…三井が好き」
やっとのことで素直に吐露できた言葉。
それは、長く遠回りだった二人が通じ合った瞬間でもあった。
一度肯定してしまえば、想いは溢れ出す。
恋は少し背伸びをして、喜びに浸る三井に唇を重ねた。
「三井、好き」
泣き笑いのような顔で恋が言い、三井は恋の頬を撫でるとはにかんだ。
どちらからともなく距離は近づく。
重なる唇は二人の想いを表すように熱く優しかった。
恋の中に生じたさざ波はいつの間にか消え、月明かりに照らされた海面では波がただ穏やかに流れ続けてているのだった。
→アトガキ
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