頬に触れて
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不快な気温が続く夏休み、恋は日暮れの慌ただしい飲食店でのバイトを終え休憩室に入った。
賑わいから遠ざさかったそこには先客がいて、恋は明るく声を出す。
「お疲れ様」
「おー、お疲れ。お前も上がり?」
椅子に座り頭だけで振り向いたのはバイト先の先輩である水戸洋平だった。
先輩と言っても水戸は同い年で、恋より数ヶ月前にこの店で働いているに過ぎないのだが。
それでも水戸の働きぶりは先輩と呼ぶに相応しく、恋は一目置いていた。
「うん。水戸くんも?」
「あぁ。やっと連勤終わったー」
簡素な机の上で、ぐでっと伸びをする水戸に恋は自然と笑みがこぼれてしまう。
水戸は、近寄りがたい見た目に反し中身はごく普通の良い人だと恋は知っているからだ。
「あはは、本当お疲れ様。明日休みなんだっけ?」
「おう、2連休。恋ちゃんは?」
「私も同じく!」
この時期の飲食店の忙しさは、目が回るほどだった。
連勤で疲れた体を癒すための休暇に、恋は逸る気持ちを抑えながら笑みを向けた。
水戸は微笑むと世間話を広げていった。
「へー、じゃあどっか行くのか?」
「んー、どっか行きたいんだけど、友達みんな部活とかバイトで都合つかなかったんだよね。だから、どうしようか迷い中」
「へー。じゃあ、俺も暇してるし一緒にどっか行くか?」
「え!?」
ごく自然に誘われて恋は戸惑いが生じた。
別に嫌なわけではないが、誘われる事など想定もしていなかったのだ。
そんな恋の反応を見てか、水戸は苦笑して頬をかいた。
「あ?あー、悪ぃ、馴れ馴れしいか」
どこか気落ちした風に見えた水戸に、恋は慌てて手と首を左右に振って否定した。
「ううん!そんな事ないよ、大丈夫!行こ!」
あまりの否定しぶりに水戸は目が点になる。
そして場に少しの安堵が広がった。
「いいのかよ。じゃあどっか行きたいとこは?」
「えーと…海は?私、今年まだ行ってないんだよね」
「お、いいじゃん。じゃあ、海に決定な」
「うん」
潔く答えてから、恋の思考回路はいったん停止してしまう。
男女で海に行くのはデートになるのだろうかと考えてしまったのだ。
きっと、水戸にはそんなつもりもなく、何となく誘ったに過ぎないと思っていても、やはり軽率すぎたかと考えずにはいられない。
そして、海に行けば水着姿にならざるを得ない。
今更ながら恋は自身の発言を後悔した。
だが、撤回できるはずもない。
恋は、家にある水着の選択肢を思い起こすのだった。
翌日早朝に海までやって来た恋と水戸は、いったん別れて更衣室へ向かった。
まだ早朝ということもあり人はまばらで、日射しもそこまでではないこの時間帯に来て正解だったと恋は思う。
恋は着替えを終えると変な所はないかと自身を確認した。
丁度、今年買ったばかりの水着をおろし、昨夜何度も確認していたのだが、いざその時となると不安しかなかった。
うーんと唸ってしばらく経つ。
だが、これ以上水戸を待たせるのも、今更水着を変えることもできないため、覚悟を決めるしかないのだ。
意を決して、恋は水戸と待ち合わせた場所へ向かった。
「ごめん、お待たせ」
「あー、んな待ってねぇから気にすんなって」
水戸が座る砂浜には、シートが敷かれ頭上には大きく日除けがされていた。
「あれ?パラソル…」
「あっちーだろ?あっこの海の家の人が知り合いでさ、値段サービスしてもらった」
水戸がどこか誇らしそうに海の家の方を指差すと、パラソルを立ててくれた人なのか、とある男性が手を振ってくれた。
見た目は水戸と似て、どこか不良の雰囲気はあるが、笑顔で手を振る姿に恋は会釈を返す。
そこで、ビーチパラソル代に気付き恋が財布を取り出すと、水戸はやんわりそれを制した。
恋は申し訳なく思いつつも礼を言って、水戸の隣に荷物を置いた。
「水戸くんって顔広いんだね」
「そうでもねぇよ。それより可愛いじゃん」
「へ?」
「水着姿。いつもと違ぇから新鮮」
普段、バイト先か学校の制服を着ている時にしか水戸とは会っていないので、その感想もごく当たり前のことだろう。
しかし、それは恋が照れてしまうには十分な言葉で、恋は頬を赤らめると勢いのままに返した。
「あ、ありがとう。み、水戸くんも腹筋とか割れてるんだね!凄いね!」
男性の裸を見る機会などそうそうなく、恋は視界に入った部分を褒めたつもりだった。
しかし、何故か水戸からすぐに言葉が出て来ず、恋は不思議そうに水戸を見返した。
「水戸くん?」
恋は急に黙られて居心地が悪くなってしまったのだが、水戸はプッと小さく吹き出すと、意地悪く笑った。
「ハハ、どこ見てんだよ。恋ちゃんエロいな」
どこか、からかいを含んでいるような言葉に恋は血の気が引いた。
確かに褒めるにしても直接的すぎる言葉で、それを意識すると羞恥が恋を覆い尽くす。
苦し紛れに出た言葉は否定しかできない。
「エ、エロくなんてないよ!」
「はいはい。さーて、海入るか」
水戸が立ち上がり伸びをして歩き出そうとすると、恋は少し頬を膨らませてそれに続いた。
「もう!エロくないからね!」
「分かったって。ほらよ」
笑みを浮かべる水戸は、横に置いていた浮き輪を恋に差し出した。
「わ、大きな浮き輪」
「持ってきた。よくダチと海は行ってたからな」
「今年も来たの?」
「あー、まだだな。俺のツレも部活で忙しかったからよ。だから、俺もこれが今年初の海」
その言葉に何故か恋は少し嬉しくなった。
互いに、今年初めての海という時間を共有できた事への喜びかもしれないと恋は思う。
「そうなんだ。部活するお友達とかちょっと意外」
「不良だから?」
「え、やっぱり不良なの?」
「さー、どうだろうな。ほら、乗れよ」
意地悪く笑う水戸は、波打ち際に浮き輪を浮かべるとタシタシとそれを軽く叩いた。
恋は驚き足を止める。
「え、中に入るんじゃないの?」
「あ?それでもいいけど、あーいう風に乗った方が楽じゃねぇ?」
水戸は先に海に入って楽しんでいる人を指差した。
そこには手足を放り出し、浮き輪にお尻だけを入れて浮かんでいる人がいる。
「でも移動とか大変そうだし」
「ハハ、俺が押してやるよ」
恋は一瞬戸惑ったものの、気持ち良さそうだという思いが強くなり素直に従った。
水戸は恋が浮き輪に収まると沖の方へと進むのだった。
しばらく進むと、水戸も恋の乗る浮き輪にもたれかかり波に揺られていた。
浮力に身を任せ漂う時間はとても心地良い。
空には入道雲があり、徐々に高くなる太陽からはサンサンと光が降り注いでいた。
それは海水に阻まれ水温をわずかに上げている。
恋は天を仰ぎ目を閉じると声を絞り出した。
「はー、気持ち良い」
その心の底からの声に水戸は思わず笑いがこぼれた。
「は、おっさんかよ」
「だって水温もちょっと温かくて丁度良くない?」
「まぁなー」
水戸は水温を確かめるように腕をパシャパシャさせてから返事をした。
確かに水温は波打ち際にいた頃より暖かく感じた。
体が水温に慣れて来たとも言えるのだろう。
水戸がふいに恋を見れば、恋の視線は砂浜に向かっていた。
「どした?」
「え?あ、何でもないよ!」
「そうか?」
「あ、ねぇ、あっちの方行こうよ」
「りょーかい」
水戸は恋が指差した方へと浮き輪を押しながら泳いでいく。
その後、恋が再び砂浜を見ることはなかった。
太陽が頭上に来る頃、2人は散々漂い泳いだ海から上がり、昼食をとろうと海の家へと向かった。
混み始めた店内を歩き空いた席を探すが、その間にも言葉は漏れ出した。
「あー、お腹空いた!」
「何食べんだ?」
「焼きそば!」
「定番だなー。俺はラーメンにすっかな」
水戸はチラリとメニューを見てそう答える。
けれど、あまりに普通の答えが返ってきて恋はツッコミを入れてしまった。
「水戸くんも変わんないじゃん!あー、アメリカンドッグかフランクフルトも食べたいなー。あ、カキ氷もいいなぁ」
「どんだけ食べんだよ。まぁ、それはまた後で食べろ」
恋が食欲全開な言葉を発していると水戸は笑ってレジへと向かった。
丁度空いた席に座ると、水戸が程なくしてテーブルへと2人分の食料を持ち戻って来た。
「ほら、恋ちゃんの分」
「あ、ありがとう」
恋は用意していたお金を水戸に渡すと、改めて座り直し手を合わせた。
「いただきます」
賑やかな声が至る所から聞こえる店内で2人がしばらく黙々と食べていると、ふいに思いついたのか水戸が口を開いた。
「そういやよ、恋ちゃんって彼氏いねぇの?」
「え!?」
「いや、いそうだなーって思ってたから」
「…いないよー」
一瞬の間はあったが、恋が笑みを浮かべてそう答えるので水戸はそれ以上踏み込めなかった。
「ふーん。恋ちゃんって他の店で働いてたんだよな?」
「うん」
水戸は、恋が今働いているチェーン店の他店を辞めてこちらに来たと聞いていた。
恋が今の店に来たのは7月初め。
同じく高校1年生である恋がバイトを4月から始めたとしても、3ヶ月足らずで他の店へと働く場所を変えたことは仲間内でも少し話題になっていた。
理由は何なのだろうと。
「何でこっち来たんだ?家近いとか?」
「あ、家はあっちのが近いよ。学校がこっちの方が近くて」
「へー。あっちの店ってどう?雰囲気いい?」
「どうかな。あんまり変わんないけど、私はこっちの方が好きかも」
「ふーん。そりゃ良かった」
どこか複雑そうな笑みを浮かべて恋は答えた。
気にはなるものの、水戸はあまり深く聞かないことにしたのだった。
昼食後、しばらくしてから再び海に入った2人は、午前中と同じく波に漂いながら世間話に花を咲かせていた。
時間と共に気温が上がり始め海の中は人が増え、声を聞き取るためにか自然と2人の距離は近づいていた。
「そう言えば、水戸くんって彼女いないの?」
「いねーいねー。そんなモテねぇし」
ハハハと軽く笑い飛ばして言う水戸に、恋は意外そうな顔を向けた。
「え、水戸くんってモテそうだけど。優しいし頼りになるし」
「何だよ、いきなり褒めだして。何もでねぇぜ?」
ククッと笑う水戸に恋は心外といった風に言葉を紡ぐ。
「違うよー。ただ…」
「…恋ちゃん?」
急に止まった言葉に水戸が恋を見ると、ある一点を見てから恋はキョロキョロと視線を動かした。
その表情はどこか焦っているようにも見え、恋は上半身を起こした。
「っ!?」
「おわっ」
その時、恋が体勢を崩した。
恋は水戸の腕にしがみ付く形で体を支えてもらい、水戸はその体を起こし立て直そうとした。
途端、恋は水戸の首に腕を回し、しがみ付くように抱きついた。
「えー、ラブラブだね、あそこ」
「お前もしたいの?」
「やだ、もうっ」
すれ違いざま聞こえた声。
水戸達と同年代くらいの恋人同士だろうか。
水戸達の事を茶化したのだとすぐに分かったが、水戸は怒りよりも先に羞恥の気持ちが勝った。
直に触れる肌の感触に妙な焦りも生まれてしまう。
そして、恋は今の言葉を聞いたのだろうかと気になり始めた。
水戸は少し遠慮がちに恋の背に手を回して顔を覗き込んだ。
「恋ちゃん?」
「ごめん。後少しだけ」
恋はギュッと腕に力を込めると水戸からは顔が見えないよう反対側に顔を背けた。
ただならぬ恋の雰囲気に水戸は成すすべなく、優しく恋を支えるのだった。
それから幾ばくもしないうちに、恋が力を緩め体勢を整えると笑みを向けた。
「ごめんね」
「いや、いいけど。大丈夫か?」
恋の笑みは力なく大丈夫そうには見えなかった。
恋は視線を落とすとポツリと漏らした。
「…さっきの知り合いなの」
「あ?」
「ごめん、今日はもう帰ってもいいかな?」
「あ?あぁ」
突然の出来事に水戸は戸惑うが、恋の表情を見ては受け入れるしかなかった。
それから着替えを済ませ、最寄りの駅に到着すると恋は深く頭を下げた。
「ごめんね、今日は。今度埋め合わせするね!」
「いや、いいけど」
「じゃあね!」
「…あぁ」
明るく笑う恋はタタッと構内へ向かい走っていってしまう。
水戸は、1度はそのまま別れようと考えたが、気付けば恋の後を追っていた。
すぐに追いついた恋の腕を掴むと、驚きの表情が振り向いた。
「っ!?」
「カキ氷食いに行かねぇ?」
「…うん」
水戸が笑みを浮かべてそう誘うと、恋は一瞬迷ったものの、無碍に断ることも出来ず小さく頷いた。
雑踏の中を歩いてくと、恋はぼんやりとしていて危なっかしく思えた。
水戸は恋の手首を掴む。
恋は戸惑った顔をしたがそれを振り払う事はなかった。
それから近くの公園に行き、露天で見つけたカキ氷を買う。
「何食う?」
「イチゴ」
「了解。ちょっとここで待ってな」
店の近くの椅子に恋を座らせると、水戸はカキ氷を買いに行った。
程なくして戻って来た水戸の手にはカキ氷が2つ。
「ほい」
「ありがとう。あ、お金」
恋はカキ氷を受け取り横に置くと、財布を取り出そうと鞄を開く。
水戸はカキ氷に口をつけると笑みを浮かべた。
「いいってこれくらい」
静止する水戸に恋も1度は食い下がるも、引き下がりそうにない水戸に礼を言い、パクリと氷を口へ運んだ。
「…おいしい」
妙に乾ききっていた喉に潤いが戻ると共にホッとした声が自然と漏れた。
水戸はそれを見て微笑むとまたカキ氷を食べる。
無言で食べていると、ポツリと恋が言葉を漏らした。
「世間って狭いね」
「何だよ唐突に」
「さっきの元彼なの」
「…そっか」
水戸は、さっきの男女が少なからず恋にとっていい思い出ではないのだろうと感じていた。
それは恋の反応を見ていれば明らかだった。
恋は小さく溜息をつくと続けた。
「前のバイト先で同じだったの。てか中学の頃から付き合ってて。高校は別なんだけど、バイト一緒に出来たら良いよねってなって働いてたんだ。でも、そこで今の彼女に奪られちゃった」
「はぁ?」
聞き捨てならない言葉に水戸は怪訝そうに恋を見た。
恋は予想内の反応だったのか苦笑していた。
「私は居づらくて辞めちゃった。2人もしばらくして辞めたとは聞いたんだけどね。でもバイトはしたくて、学校から近いし多少やり方わかるこっちにしたの」
「ふーん。勿体ねぇな」
水戸は食べ終わった器をぐしゃりと潰すとそんな言葉を漏らす。
恋は意味がわからなかったのか不思議そうに水戸を見返した。
水戸は側にあるゴミ箱へそれを捨てると、ニッと笑ってみせた。
「恋ちゃんと別れた事」
「ありがとう」
恋は微かに照れたのか頬を染めて俯いた。
水戸は恋の隣に再び座ると天を仰いだ。
空には相変わらず入道雲があり、真っ青な空が広がっている。
「なぁ」
「ん?」
「夏休みの間、都合つけば遊ばねぇ?」
「どうして?」
水戸の提案に恋は複雑そうにしていた。
恋に送る水戸の視線は優しい。
自然と湧いてきた想いを水戸は言葉にした。
「恋ちゃんと思い出作りたいから」
「うん?」
「良い思い出作ったらそんな顔しなくてすむようになるだろ?」
「ごめん、気遣わせてるね」
「いや、俺がそうしたいだけだし。どうだ?」
「うん」
ニッと空みたいに笑う水戸に、恋は甘えたくなり気付けば頷いていた。
それから夏休みの間、休みが合えば2人は遊ぶようになった。
バイト先で顔を合わせることも多く予定も立てやすくなり、そうすれば必然と会話をする機会も増えていた。
水戸と過ごす時間を恋は楽しく思っていた。
それは水戸も同じであった。
そんな距離が縮まった夏、今日も2人は出かけていた。
「今日で休みも終わりだね」
この夏最後の休みの日、2人は海へ来ていた。
前回とは違い地平線に夕日が沈む時間までめいいっぱい遊び尽くした。
もうあとわずかで完全に沈んでしまう太陽を2人で並んで見つめていると、ふいに恋はそんな事を言った。
水戸は、少しだけ恋に視線を送ってから笑みを浮かべた。
「あぁ。いい思い出になったか?」
「うん!元彼と別れて今年はついてないとか思ってたけど、凄く楽しい夏だった」
「そりゃ良かった」
水戸自身、この夏は有意義な時間を過ごせたと思っていた。
恋と過ごす時間が増えるにつれどんどん楽しさが増していき、純粋に心嬉しいと思える夏だった。
笑みを携える水戸とは打って変わって、恋はさっきまでの笑みを消すと、口元に寂しさが滲んだ笑みを浮かべて膝を立てた。
三角座りになり頬を膝の上に乗せると水戸を眩しそうに見つめた。
「水戸くんの時間貰ってごめんね?それとありがとう」
「はは、何だよそれ」
「だって、本当都合つくたびに遊んでくれたから。お友達との中にも誘ってくれて楽しかった」
「あー、見舞い行った時な。ごめんな、急に」
水戸の友人である桜木が怪我で入院しているので見舞いに行く時、楽しいだろうと思い水戸は恋を連れて行ったのだ。
水戸が女の子を連れて来たことに周りがうるさくなったのは言うまでもないのだが、それ以上にその場は楽しかった。
見た目はいかにも不良軍団なのだが、皆気さくで初めて会う恋にも優しかったのだ。
「ううん、楽しかった。皆楽しい人だね」
「バカばっかだからな」
水戸は溜息をつくが、どこか嬉しそうにしていた。
いい友人関係なのだろうとその表情から十分すぎるほど伝わってきて、恋の心も何故か温かい気持ちになった。
「また明日からはバイトだけだね、会えるの」
「…その方がいいか?」
「ん?だってそういう話だったでしょ?」
「俺はこれからも遊びてぇと思ってるけど」
水戸自身これで終わりというのは寂しく思っていた。
そして、恋もそう思っていてくれたらと、微かな期待を込めて言葉は出てしまう。
水戸の言葉に、恋はガバッと上体を起こした。
「え?いいの?」
「当たり前だろ?」
「ありがとう」
満面の笑みを浮かべてとても嬉しそうな恋を見て、水戸の胸はドクリと高鳴った。
その淡い胸の温もりに、水戸は言い知れず大きなため息が漏れた。
「水戸くん?」
「言うか迷ってたけど、やっぱ言っちまうわ」
「ん?」
「俺、恋ちゃんが好き」
「…え?」
「だから、良かったら彼女になって欲しい」
平然と言ってのける、唐突な告白に恋は固まることしかできなかった。
「ハハ、ごめんな、元彼と別れてそんな経ってねぇのに。でも俺が恋ちゃんを夏の間独り占めしたくて言ったんだ、あれ。だから礼言われるとちょっと困るんだよな」
水戸の言葉はストンと恋の中に落ちた。
照れたような困ったような笑みが水戸からはこぼれている。
「返事はすぐじゃなくていいし。考えといてよ」
ニコリと笑うと水戸は両手をつき空を見上げた。
空には茜雲が広がっている。
遠くから聞こえる人の声。
波の音だけが2人を包んでいるかのように、時間はどこまでも穏やかだ。
その時、恋の手がおずおずと伸ばされ、水戸の人差し指をキュッと掴んだ。
「ん?何?」
「あ、あのね、私まだ恋愛脳になってないって言うか、まだ元彼のこと完全に終わったことに出来てなくて。だからまだ考えられなくて。でも、水戸くんの事は嫌いじゃないから!」
「そっか。じゃあ待ってるな」
「…うん」
素直な気持ちを吐露した恋を受け止めてくれた水戸に、頬は自然と緩む。
安堵して嬉しそうな恋を見て、水戸は思いがけず恋の腕を掴んでしまう。
互いに視線が交わった瞬間、水戸は恋の頬に口付けた。
「ごめんな」
「なっ」
「分かってる。今のは止められなかった俺が悪い。だから、ごめんな」
至近距離にある顔を直視して、恋は事態を理解した。
掴まれた腕が熱を持ち、それを嫌でも意識してしまう。
水戸は恋の頬に反対の手を添えたままだ。
「もう何もしねぇから」
吐息のかかる距離に恋は視線を外す。
「…嘘つき」
「どこが?」
「顔近いし、ほっぺた触ってる」
「それだけだろ?」
クッと喉の奥を鳴らす水戸の表情は優しく、恋を愛おしそうに見つめていた。
その視線に恋はぞくりとした。
それは、決して不快なものでなく、ただ胸を昂らせ愉悦を感じさせられるものだった。
恋はギュッと目をつぶり声を上げる。
「困るの!」
「何で?」
「分かってて聞いてる?」
微かに声音に怒気を含んだ恋は、次の瞬間、自身の手を水戸の頬に添えた。
水戸は目を見開き恋と視線を交わせる。
「ね?困るでしょ?」
頬を染めそんな事を言う恋に、水戸は微かに頬を赤らめ俯いた。
「あー、困るっつーか嬉しいけど」
「え?」
水戸は恋をグッと抱き寄せると耳元で囁く。
「やっぱ待てる自信なくなってきた」
「ちょ、あのっ」
「好きだ、恋。だから出来るだけ早く俺を好きになってくれねぇ?」
吐息交じりに懇願された言葉。
同時に呼び捨てられた名にも気付かず、恋は動く事も言葉を発する事も出来なかった。
着衣の少ない姿で抱き合っている2人の胸の高鳴りは、互いにまざまざと感じているだろう。
それは誤魔化しようのない程主張しているのだ。
触れた体は熱く火照る。
夕暮れ時、ほんの少しだけ心地よく感じられる気温と体温は比例しない。
早い鼓動は嫌でも頭を痺れさせた。
関係に歯止めがかかるのは水戸のおかげか。
恋は甘く痺れる感覚に溺れそうな気配を感じているのだった。
→アトガキ
賑わいから遠ざさかったそこには先客がいて、恋は明るく声を出す。
「お疲れ様」
「おー、お疲れ。お前も上がり?」
椅子に座り頭だけで振り向いたのはバイト先の先輩である水戸洋平だった。
先輩と言っても水戸は同い年で、恋より数ヶ月前にこの店で働いているに過ぎないのだが。
それでも水戸の働きぶりは先輩と呼ぶに相応しく、恋は一目置いていた。
「うん。水戸くんも?」
「あぁ。やっと連勤終わったー」
簡素な机の上で、ぐでっと伸びをする水戸に恋は自然と笑みがこぼれてしまう。
水戸は、近寄りがたい見た目に反し中身はごく普通の良い人だと恋は知っているからだ。
「あはは、本当お疲れ様。明日休みなんだっけ?」
「おう、2連休。恋ちゃんは?」
「私も同じく!」
この時期の飲食店の忙しさは、目が回るほどだった。
連勤で疲れた体を癒すための休暇に、恋は逸る気持ちを抑えながら笑みを向けた。
水戸は微笑むと世間話を広げていった。
「へー、じゃあどっか行くのか?」
「んー、どっか行きたいんだけど、友達みんな部活とかバイトで都合つかなかったんだよね。だから、どうしようか迷い中」
「へー。じゃあ、俺も暇してるし一緒にどっか行くか?」
「え!?」
ごく自然に誘われて恋は戸惑いが生じた。
別に嫌なわけではないが、誘われる事など想定もしていなかったのだ。
そんな恋の反応を見てか、水戸は苦笑して頬をかいた。
「あ?あー、悪ぃ、馴れ馴れしいか」
どこか気落ちした風に見えた水戸に、恋は慌てて手と首を左右に振って否定した。
「ううん!そんな事ないよ、大丈夫!行こ!」
あまりの否定しぶりに水戸は目が点になる。
そして場に少しの安堵が広がった。
「いいのかよ。じゃあどっか行きたいとこは?」
「えーと…海は?私、今年まだ行ってないんだよね」
「お、いいじゃん。じゃあ、海に決定な」
「うん」
潔く答えてから、恋の思考回路はいったん停止してしまう。
男女で海に行くのはデートになるのだろうかと考えてしまったのだ。
きっと、水戸にはそんなつもりもなく、何となく誘ったに過ぎないと思っていても、やはり軽率すぎたかと考えずにはいられない。
そして、海に行けば水着姿にならざるを得ない。
今更ながら恋は自身の発言を後悔した。
だが、撤回できるはずもない。
恋は、家にある水着の選択肢を思い起こすのだった。
***
翌日早朝に海までやって来た恋と水戸は、いったん別れて更衣室へ向かった。
まだ早朝ということもあり人はまばらで、日射しもそこまでではないこの時間帯に来て正解だったと恋は思う。
恋は着替えを終えると変な所はないかと自身を確認した。
丁度、今年買ったばかりの水着をおろし、昨夜何度も確認していたのだが、いざその時となると不安しかなかった。
うーんと唸ってしばらく経つ。
だが、これ以上水戸を待たせるのも、今更水着を変えることもできないため、覚悟を決めるしかないのだ。
意を決して、恋は水戸と待ち合わせた場所へ向かった。
「ごめん、お待たせ」
「あー、んな待ってねぇから気にすんなって」
水戸が座る砂浜には、シートが敷かれ頭上には大きく日除けがされていた。
「あれ?パラソル…」
「あっちーだろ?あっこの海の家の人が知り合いでさ、値段サービスしてもらった」
水戸がどこか誇らしそうに海の家の方を指差すと、パラソルを立ててくれた人なのか、とある男性が手を振ってくれた。
見た目は水戸と似て、どこか不良の雰囲気はあるが、笑顔で手を振る姿に恋は会釈を返す。
そこで、ビーチパラソル代に気付き恋が財布を取り出すと、水戸はやんわりそれを制した。
恋は申し訳なく思いつつも礼を言って、水戸の隣に荷物を置いた。
「水戸くんって顔広いんだね」
「そうでもねぇよ。それより可愛いじゃん」
「へ?」
「水着姿。いつもと違ぇから新鮮」
普段、バイト先か学校の制服を着ている時にしか水戸とは会っていないので、その感想もごく当たり前のことだろう。
しかし、それは恋が照れてしまうには十分な言葉で、恋は頬を赤らめると勢いのままに返した。
「あ、ありがとう。み、水戸くんも腹筋とか割れてるんだね!凄いね!」
男性の裸を見る機会などそうそうなく、恋は視界に入った部分を褒めたつもりだった。
しかし、何故か水戸からすぐに言葉が出て来ず、恋は不思議そうに水戸を見返した。
「水戸くん?」
恋は急に黙られて居心地が悪くなってしまったのだが、水戸はプッと小さく吹き出すと、意地悪く笑った。
「ハハ、どこ見てんだよ。恋ちゃんエロいな」
どこか、からかいを含んでいるような言葉に恋は血の気が引いた。
確かに褒めるにしても直接的すぎる言葉で、それを意識すると羞恥が恋を覆い尽くす。
苦し紛れに出た言葉は否定しかできない。
「エ、エロくなんてないよ!」
「はいはい。さーて、海入るか」
水戸が立ち上がり伸びをして歩き出そうとすると、恋は少し頬を膨らませてそれに続いた。
「もう!エロくないからね!」
「分かったって。ほらよ」
笑みを浮かべる水戸は、横に置いていた浮き輪を恋に差し出した。
「わ、大きな浮き輪」
「持ってきた。よくダチと海は行ってたからな」
「今年も来たの?」
「あー、まだだな。俺のツレも部活で忙しかったからよ。だから、俺もこれが今年初の海」
その言葉に何故か恋は少し嬉しくなった。
互いに、今年初めての海という時間を共有できた事への喜びかもしれないと恋は思う。
「そうなんだ。部活するお友達とかちょっと意外」
「不良だから?」
「え、やっぱり不良なの?」
「さー、どうだろうな。ほら、乗れよ」
意地悪く笑う水戸は、波打ち際に浮き輪を浮かべるとタシタシとそれを軽く叩いた。
恋は驚き足を止める。
「え、中に入るんじゃないの?」
「あ?それでもいいけど、あーいう風に乗った方が楽じゃねぇ?」
水戸は先に海に入って楽しんでいる人を指差した。
そこには手足を放り出し、浮き輪にお尻だけを入れて浮かんでいる人がいる。
「でも移動とか大変そうだし」
「ハハ、俺が押してやるよ」
恋は一瞬戸惑ったものの、気持ち良さそうだという思いが強くなり素直に従った。
水戸は恋が浮き輪に収まると沖の方へと進むのだった。
しばらく進むと、水戸も恋の乗る浮き輪にもたれかかり波に揺られていた。
浮力に身を任せ漂う時間はとても心地良い。
空には入道雲があり、徐々に高くなる太陽からはサンサンと光が降り注いでいた。
それは海水に阻まれ水温をわずかに上げている。
恋は天を仰ぎ目を閉じると声を絞り出した。
「はー、気持ち良い」
その心の底からの声に水戸は思わず笑いがこぼれた。
「は、おっさんかよ」
「だって水温もちょっと温かくて丁度良くない?」
「まぁなー」
水戸は水温を確かめるように腕をパシャパシャさせてから返事をした。
確かに水温は波打ち際にいた頃より暖かく感じた。
体が水温に慣れて来たとも言えるのだろう。
水戸がふいに恋を見れば、恋の視線は砂浜に向かっていた。
「どした?」
「え?あ、何でもないよ!」
「そうか?」
「あ、ねぇ、あっちの方行こうよ」
「りょーかい」
水戸は恋が指差した方へと浮き輪を押しながら泳いでいく。
その後、恋が再び砂浜を見ることはなかった。
太陽が頭上に来る頃、2人は散々漂い泳いだ海から上がり、昼食をとろうと海の家へと向かった。
混み始めた店内を歩き空いた席を探すが、その間にも言葉は漏れ出した。
「あー、お腹空いた!」
「何食べんだ?」
「焼きそば!」
「定番だなー。俺はラーメンにすっかな」
水戸はチラリとメニューを見てそう答える。
けれど、あまりに普通の答えが返ってきて恋はツッコミを入れてしまった。
「水戸くんも変わんないじゃん!あー、アメリカンドッグかフランクフルトも食べたいなー。あ、カキ氷もいいなぁ」
「どんだけ食べんだよ。まぁ、それはまた後で食べろ」
恋が食欲全開な言葉を発していると水戸は笑ってレジへと向かった。
丁度空いた席に座ると、水戸が程なくしてテーブルへと2人分の食料を持ち戻って来た。
「ほら、恋ちゃんの分」
「あ、ありがとう」
恋は用意していたお金を水戸に渡すと、改めて座り直し手を合わせた。
「いただきます」
賑やかな声が至る所から聞こえる店内で2人がしばらく黙々と食べていると、ふいに思いついたのか水戸が口を開いた。
「そういやよ、恋ちゃんって彼氏いねぇの?」
「え!?」
「いや、いそうだなーって思ってたから」
「…いないよー」
一瞬の間はあったが、恋が笑みを浮かべてそう答えるので水戸はそれ以上踏み込めなかった。
「ふーん。恋ちゃんって他の店で働いてたんだよな?」
「うん」
水戸は、恋が今働いているチェーン店の他店を辞めてこちらに来たと聞いていた。
恋が今の店に来たのは7月初め。
同じく高校1年生である恋がバイトを4月から始めたとしても、3ヶ月足らずで他の店へと働く場所を変えたことは仲間内でも少し話題になっていた。
理由は何なのだろうと。
「何でこっち来たんだ?家近いとか?」
「あ、家はあっちのが近いよ。学校がこっちの方が近くて」
「へー。あっちの店ってどう?雰囲気いい?」
「どうかな。あんまり変わんないけど、私はこっちの方が好きかも」
「ふーん。そりゃ良かった」
どこか複雑そうな笑みを浮かべて恋は答えた。
気にはなるものの、水戸はあまり深く聞かないことにしたのだった。
昼食後、しばらくしてから再び海に入った2人は、午前中と同じく波に漂いながら世間話に花を咲かせていた。
時間と共に気温が上がり始め海の中は人が増え、声を聞き取るためにか自然と2人の距離は近づいていた。
「そう言えば、水戸くんって彼女いないの?」
「いねーいねー。そんなモテねぇし」
ハハハと軽く笑い飛ばして言う水戸に、恋は意外そうな顔を向けた。
「え、水戸くんってモテそうだけど。優しいし頼りになるし」
「何だよ、いきなり褒めだして。何もでねぇぜ?」
ククッと笑う水戸に恋は心外といった風に言葉を紡ぐ。
「違うよー。ただ…」
「…恋ちゃん?」
急に止まった言葉に水戸が恋を見ると、ある一点を見てから恋はキョロキョロと視線を動かした。
その表情はどこか焦っているようにも見え、恋は上半身を起こした。
「っ!?」
「おわっ」
その時、恋が体勢を崩した。
恋は水戸の腕にしがみ付く形で体を支えてもらい、水戸はその体を起こし立て直そうとした。
途端、恋は水戸の首に腕を回し、しがみ付くように抱きついた。
「えー、ラブラブだね、あそこ」
「お前もしたいの?」
「やだ、もうっ」
すれ違いざま聞こえた声。
水戸達と同年代くらいの恋人同士だろうか。
水戸達の事を茶化したのだとすぐに分かったが、水戸は怒りよりも先に羞恥の気持ちが勝った。
直に触れる肌の感触に妙な焦りも生まれてしまう。
そして、恋は今の言葉を聞いたのだろうかと気になり始めた。
水戸は少し遠慮がちに恋の背に手を回して顔を覗き込んだ。
「恋ちゃん?」
「ごめん。後少しだけ」
恋はギュッと腕に力を込めると水戸からは顔が見えないよう反対側に顔を背けた。
ただならぬ恋の雰囲気に水戸は成すすべなく、優しく恋を支えるのだった。
それから幾ばくもしないうちに、恋が力を緩め体勢を整えると笑みを向けた。
「ごめんね」
「いや、いいけど。大丈夫か?」
恋の笑みは力なく大丈夫そうには見えなかった。
恋は視線を落とすとポツリと漏らした。
「…さっきの知り合いなの」
「あ?」
「ごめん、今日はもう帰ってもいいかな?」
「あ?あぁ」
突然の出来事に水戸は戸惑うが、恋の表情を見ては受け入れるしかなかった。
それから着替えを済ませ、最寄りの駅に到着すると恋は深く頭を下げた。
「ごめんね、今日は。今度埋め合わせするね!」
「いや、いいけど」
「じゃあね!」
「…あぁ」
明るく笑う恋はタタッと構内へ向かい走っていってしまう。
水戸は、1度はそのまま別れようと考えたが、気付けば恋の後を追っていた。
すぐに追いついた恋の腕を掴むと、驚きの表情が振り向いた。
「っ!?」
「カキ氷食いに行かねぇ?」
「…うん」
水戸が笑みを浮かべてそう誘うと、恋は一瞬迷ったものの、無碍に断ることも出来ず小さく頷いた。
雑踏の中を歩いてくと、恋はぼんやりとしていて危なっかしく思えた。
水戸は恋の手首を掴む。
恋は戸惑った顔をしたがそれを振り払う事はなかった。
それから近くの公園に行き、露天で見つけたカキ氷を買う。
「何食う?」
「イチゴ」
「了解。ちょっとここで待ってな」
店の近くの椅子に恋を座らせると、水戸はカキ氷を買いに行った。
程なくして戻って来た水戸の手にはカキ氷が2つ。
「ほい」
「ありがとう。あ、お金」
恋はカキ氷を受け取り横に置くと、財布を取り出そうと鞄を開く。
水戸はカキ氷に口をつけると笑みを浮かべた。
「いいってこれくらい」
静止する水戸に恋も1度は食い下がるも、引き下がりそうにない水戸に礼を言い、パクリと氷を口へ運んだ。
「…おいしい」
妙に乾ききっていた喉に潤いが戻ると共にホッとした声が自然と漏れた。
水戸はそれを見て微笑むとまたカキ氷を食べる。
無言で食べていると、ポツリと恋が言葉を漏らした。
「世間って狭いね」
「何だよ唐突に」
「さっきの元彼なの」
「…そっか」
水戸は、さっきの男女が少なからず恋にとっていい思い出ではないのだろうと感じていた。
それは恋の反応を見ていれば明らかだった。
恋は小さく溜息をつくと続けた。
「前のバイト先で同じだったの。てか中学の頃から付き合ってて。高校は別なんだけど、バイト一緒に出来たら良いよねってなって働いてたんだ。でも、そこで今の彼女に奪られちゃった」
「はぁ?」
聞き捨てならない言葉に水戸は怪訝そうに恋を見た。
恋は予想内の反応だったのか苦笑していた。
「私は居づらくて辞めちゃった。2人もしばらくして辞めたとは聞いたんだけどね。でもバイトはしたくて、学校から近いし多少やり方わかるこっちにしたの」
「ふーん。勿体ねぇな」
水戸は食べ終わった器をぐしゃりと潰すとそんな言葉を漏らす。
恋は意味がわからなかったのか不思議そうに水戸を見返した。
水戸は側にあるゴミ箱へそれを捨てると、ニッと笑ってみせた。
「恋ちゃんと別れた事」
「ありがとう」
恋は微かに照れたのか頬を染めて俯いた。
水戸は恋の隣に再び座ると天を仰いだ。
空には相変わらず入道雲があり、真っ青な空が広がっている。
「なぁ」
「ん?」
「夏休みの間、都合つけば遊ばねぇ?」
「どうして?」
水戸の提案に恋は複雑そうにしていた。
恋に送る水戸の視線は優しい。
自然と湧いてきた想いを水戸は言葉にした。
「恋ちゃんと思い出作りたいから」
「うん?」
「良い思い出作ったらそんな顔しなくてすむようになるだろ?」
「ごめん、気遣わせてるね」
「いや、俺がそうしたいだけだし。どうだ?」
「うん」
ニッと空みたいに笑う水戸に、恋は甘えたくなり気付けば頷いていた。
***
それから夏休みの間、休みが合えば2人は遊ぶようになった。
バイト先で顔を合わせることも多く予定も立てやすくなり、そうすれば必然と会話をする機会も増えていた。
水戸と過ごす時間を恋は楽しく思っていた。
それは水戸も同じであった。
そんな距離が縮まった夏、今日も2人は出かけていた。
「今日で休みも終わりだね」
この夏最後の休みの日、2人は海へ来ていた。
前回とは違い地平線に夕日が沈む時間までめいいっぱい遊び尽くした。
もうあとわずかで完全に沈んでしまう太陽を2人で並んで見つめていると、ふいに恋はそんな事を言った。
水戸は、少しだけ恋に視線を送ってから笑みを浮かべた。
「あぁ。いい思い出になったか?」
「うん!元彼と別れて今年はついてないとか思ってたけど、凄く楽しい夏だった」
「そりゃ良かった」
水戸自身、この夏は有意義な時間を過ごせたと思っていた。
恋と過ごす時間が増えるにつれどんどん楽しさが増していき、純粋に心嬉しいと思える夏だった。
笑みを携える水戸とは打って変わって、恋はさっきまでの笑みを消すと、口元に寂しさが滲んだ笑みを浮かべて膝を立てた。
三角座りになり頬を膝の上に乗せると水戸を眩しそうに見つめた。
「水戸くんの時間貰ってごめんね?それとありがとう」
「はは、何だよそれ」
「だって、本当都合つくたびに遊んでくれたから。お友達との中にも誘ってくれて楽しかった」
「あー、見舞い行った時な。ごめんな、急に」
水戸の友人である桜木が怪我で入院しているので見舞いに行く時、楽しいだろうと思い水戸は恋を連れて行ったのだ。
水戸が女の子を連れて来たことに周りがうるさくなったのは言うまでもないのだが、それ以上にその場は楽しかった。
見た目はいかにも不良軍団なのだが、皆気さくで初めて会う恋にも優しかったのだ。
「ううん、楽しかった。皆楽しい人だね」
「バカばっかだからな」
水戸は溜息をつくが、どこか嬉しそうにしていた。
いい友人関係なのだろうとその表情から十分すぎるほど伝わってきて、恋の心も何故か温かい気持ちになった。
「また明日からはバイトだけだね、会えるの」
「…その方がいいか?」
「ん?だってそういう話だったでしょ?」
「俺はこれからも遊びてぇと思ってるけど」
水戸自身これで終わりというのは寂しく思っていた。
そして、恋もそう思っていてくれたらと、微かな期待を込めて言葉は出てしまう。
水戸の言葉に、恋はガバッと上体を起こした。
「え?いいの?」
「当たり前だろ?」
「ありがとう」
満面の笑みを浮かべてとても嬉しそうな恋を見て、水戸の胸はドクリと高鳴った。
その淡い胸の温もりに、水戸は言い知れず大きなため息が漏れた。
「水戸くん?」
「言うか迷ってたけど、やっぱ言っちまうわ」
「ん?」
「俺、恋ちゃんが好き」
「…え?」
「だから、良かったら彼女になって欲しい」
平然と言ってのける、唐突な告白に恋は固まることしかできなかった。
「ハハ、ごめんな、元彼と別れてそんな経ってねぇのに。でも俺が恋ちゃんを夏の間独り占めしたくて言ったんだ、あれ。だから礼言われるとちょっと困るんだよな」
水戸の言葉はストンと恋の中に落ちた。
照れたような困ったような笑みが水戸からはこぼれている。
「返事はすぐじゃなくていいし。考えといてよ」
ニコリと笑うと水戸は両手をつき空を見上げた。
空には茜雲が広がっている。
遠くから聞こえる人の声。
波の音だけが2人を包んでいるかのように、時間はどこまでも穏やかだ。
その時、恋の手がおずおずと伸ばされ、水戸の人差し指をキュッと掴んだ。
「ん?何?」
「あ、あのね、私まだ恋愛脳になってないって言うか、まだ元彼のこと完全に終わったことに出来てなくて。だからまだ考えられなくて。でも、水戸くんの事は嫌いじゃないから!」
「そっか。じゃあ待ってるな」
「…うん」
素直な気持ちを吐露した恋を受け止めてくれた水戸に、頬は自然と緩む。
安堵して嬉しそうな恋を見て、水戸は思いがけず恋の腕を掴んでしまう。
互いに視線が交わった瞬間、水戸は恋の頬に口付けた。
「ごめんな」
「なっ」
「分かってる。今のは止められなかった俺が悪い。だから、ごめんな」
至近距離にある顔を直視して、恋は事態を理解した。
掴まれた腕が熱を持ち、それを嫌でも意識してしまう。
水戸は恋の頬に反対の手を添えたままだ。
「もう何もしねぇから」
吐息のかかる距離に恋は視線を外す。
「…嘘つき」
「どこが?」
「顔近いし、ほっぺた触ってる」
「それだけだろ?」
クッと喉の奥を鳴らす水戸の表情は優しく、恋を愛おしそうに見つめていた。
その視線に恋はぞくりとした。
それは、決して不快なものでなく、ただ胸を昂らせ愉悦を感じさせられるものだった。
恋はギュッと目をつぶり声を上げる。
「困るの!」
「何で?」
「分かってて聞いてる?」
微かに声音に怒気を含んだ恋は、次の瞬間、自身の手を水戸の頬に添えた。
水戸は目を見開き恋と視線を交わせる。
「ね?困るでしょ?」
頬を染めそんな事を言う恋に、水戸は微かに頬を赤らめ俯いた。
「あー、困るっつーか嬉しいけど」
「え?」
水戸は恋をグッと抱き寄せると耳元で囁く。
「やっぱ待てる自信なくなってきた」
「ちょ、あのっ」
「好きだ、恋。だから出来るだけ早く俺を好きになってくれねぇ?」
吐息交じりに懇願された言葉。
同時に呼び捨てられた名にも気付かず、恋は動く事も言葉を発する事も出来なかった。
着衣の少ない姿で抱き合っている2人の胸の高鳴りは、互いにまざまざと感じているだろう。
それは誤魔化しようのない程主張しているのだ。
触れた体は熱く火照る。
夕暮れ時、ほんの少しだけ心地よく感じられる気温と体温は比例しない。
早い鼓動は嫌でも頭を痺れさせた。
関係に歯止めがかかるのは水戸のおかげか。
恋は甘く痺れる感覚に溺れそうな気配を感じているのだった。
→アトガキ
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