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──それってデート?
彰に言われた言葉がずっと頭の中に残っていて、そうじゃないと自分に言い聞かせているのに当日の朝、約束の時間のはるか前から準備を始めていた自分にびっくりした。
鏡の前にはしっかりと化粧を施し、清楚な服に身を包み、髪を緩く巻いた自分が居る。まぶたの上に乗せたアイシャドウがかつて彰が褒めてくれた色に近いと気付いたのはその時で、どうしてそれを今思い出してしまったのかと頭を抱えたくなる。別に意図したつもりはなかった。それでも、まるで自分の身体が無意識に彼の記憶を追っているようだった。
──あぁ、これでは私も彰とのデートを楽しみにしているようだ。あの頃のように、私は彼に少しでも自分を良く見られようとしている。
隣家のインターホンを鳴らしたのは私だった。昔の名残のようなものだ。当時は寝起きの悪い彰を起こしに行く意味の方が強かったけど、大人になった今は流そうではないようだ。既に準備を整えている彰が玄関のドアを開けた。
「おはよ」と穏やかな声で彰が言う。「おはよう」と同じように返した私に満足そうに微笑んだ彰はドアを抑えたまま、世間話をするトーンで言葉を発した。
「髪、巻いてる」
わずかに心臓が跳ねる。……そうだね、と遅れて返事をする私の動揺が彼には伝わってしまったかもしれない。早くドアを閉めて動けば良いのに、彰がその場から動かないから私も動けなくて、静かな時間が続く。
「昔もそうだったなぁ」
突然、思い出に耽るように彰は呟いた。脈絡の無い言葉に顔を上げると、彼の小さな笑い声が柔らかく空気を揺らす。
「インターホンが鳴ってさ、ドアを開けたらおんなじようにすずねが立ってて。あの頃はよく『まだパジャマのままなの?』って怒られてたよな」
そうだ、そうだった。玄関のドアから顔を出す彰はパジャマのままで髪もセットしていなくて、寝起きの格好ばかりだった。別の場所で待ち合わせたら私が待ちぼうけを食わされることが多かったから、仕方なく迎えに行っていたのだ。
「それでも彰がのんびり準備するから更に機嫌が悪くなったりね」
「あー……はは、その節は悪かった」
他の人だったらきっと愛想を尽かしていた。でも、彰だから。彰だったから私はなんだかんだ許してしまっていたのだ。
「今日はちゃんと支度してるんだ」
「まぁな。楽しみだったから」
「……昔は楽しみじゃなかったってこと?」
私の言葉に彰はほんの少し決まりが悪そうな表情をする。
「いや、そういうわけじゃなくて、あん頃は……」
いつも振り回されてばかりだから意趣返しのつもりだった。言葉の綾だというのは分かっている。ただ、彰がどんな言い訳をするのだろうと少し気になったのだ。
「……すずねがさ、着飾った格好で迎えに来てくれんのが嬉しかったんだ」
は、と言葉を失う。言いづらそうに、それでも視線はまっすぐに私を見ている彼から視線が逸らせなくて。
「オレがどれだけだらしない格好してても、すずねはいつも綺麗な格好でそこに居んのがなんか、すげー良かったんだよ」
私はまだ、何も言えない。心臓の音だけが頭の中で響いていて、平静を装うのに必死だった。
ゆったりと彰が目を細める。わずかに上がった口角はそのままに、追い討ちをかけるように彼は呟く。
「今も、すげぇ綺麗だよ」
息が出来なかった。パチパチと弾けるような音がして、視界には煌びやかな粒子のようなものが映る。
分かっていた。知っていた。ただ、認めたくなかっただけだった。──これは、恋だ。数年越しの、数年振りの、淡い恋の報せだった。
*
車の中で会話が尽きないかと言われたらそうではない。昔から彰は多くを語る人ではないし、私も自分からたくさん喋るタイプではないからだ。気を許している、とも言うのかもしれない。不思議とこの静けさが気まずいとは思わない。
彰の運転は手慣れている。車も車線も多い東京の街を危なげなく運転する姿は長年の経験から積まれているものだ。ペーパードライバーの私とはわけが違う。
かっこいいな、と思ってしまう。ハンドルを握る手も前を見据える横顔も、意識すればするほど、まばゆく見えた。確か学生の頃もこうやって、私は彼の横顔を盗み見ては憎らしいぐらいに整った顔立ちに胸を高鳴らせていた。
不意に彰がクスクスと笑い出した。バレないように見つめていたつもりだったが、彼には見抜かれていたようだ。
「今日はずいぶんと見てくるな」
恥ずかしくなって俯いた私に彼はまた笑う。
「良いぜ、別に。見られるのには慣れてるから」
そう言われたって、一度指摘されてしまえばもうまともに見れなくなってしまう。不躾に見つめてしまっていた自覚が私にもあるからだ。
これから、どうしよう。
今から行く美術館のことじゃなくて、それより先の、もっと先の未来のことだ。私は、彰とどうなりたいんだろう。彰は、どうしたいのだろう。あの頃のように簡単なことじゃない。大人になり立場も変わった今は、ただ好きだという思いだけではどうにもならないのだ。
展覧会は思っていたよりも盛況で、入場制限がかかるほどではなかったけれどなかなか人が混み合っている。会社のPRのおかげだと考えると誇らしいが、観客としては窮屈だという思いが強い。物珍しそうに展示物を見る彰は頭一つ分飛び出ているからか呼吸が楽そうだ。私は人に流されないように必死で、それでも展示物はちゃんと見たいから時折背伸びをしながら見ていると、それに気付いた彰が手を添えて耳元に口を寄せてくる。
「高い高いしてやろーか?」
声量の抑えられた低い声が耳元で楽しげに囁かれる。くすぐったい。という思いと、何を言っているのだろうこの人は。という思いが頭の中でぶつかり合った。咄嗟に耳を抑えながら、彼から身体を離してじとりとその目を見る。綺麗に弓なりにしなる目元は明らかに私をからかうもので。
「……あのね」
確かに彰の目線は見やすいだろう。だからといってそれを良い大人に提案するのはいかがなものか。
「そんなに睨まなくても」
肩を竦める彰にはちっとも響いていなさそうだ。思わず小さくため息を吐くと、どんっ、と後ろから来た人にぶつかって、ふらついた身体を彰の腕に支えられる。お互いにすいませんと謝って、その間も彰の腕は私を支えていた。この場に立ち止まっているのも良くないと歩き出そうとする私より彰が動き出すのが先で。
パッと右手を取られた。流れるような動作に反応するのが遅くなる。
「これならはぐれねーから」
まだ完治していない右手を握る彰の手は優しかった。彰が目立つからはぐれてもすぐ見つけられるのに。と心の中で呟いて、それでもこの手を引く温かさが心地よくて手放すことは出来なかった。
彰に言われた言葉がずっと頭の中に残っていて、そうじゃないと自分に言い聞かせているのに当日の朝、約束の時間のはるか前から準備を始めていた自分にびっくりした。
鏡の前にはしっかりと化粧を施し、清楚な服に身を包み、髪を緩く巻いた自分が居る。まぶたの上に乗せたアイシャドウがかつて彰が褒めてくれた色に近いと気付いたのはその時で、どうしてそれを今思い出してしまったのかと頭を抱えたくなる。別に意図したつもりはなかった。それでも、まるで自分の身体が無意識に彼の記憶を追っているようだった。
──あぁ、これでは私も彰とのデートを楽しみにしているようだ。あの頃のように、私は彼に少しでも自分を良く見られようとしている。
隣家のインターホンを鳴らしたのは私だった。昔の名残のようなものだ。当時は寝起きの悪い彰を起こしに行く意味の方が強かったけど、大人になった今は流そうではないようだ。既に準備を整えている彰が玄関のドアを開けた。
「おはよ」と穏やかな声で彰が言う。「おはよう」と同じように返した私に満足そうに微笑んだ彰はドアを抑えたまま、世間話をするトーンで言葉を発した。
「髪、巻いてる」
わずかに心臓が跳ねる。……そうだね、と遅れて返事をする私の動揺が彼には伝わってしまったかもしれない。早くドアを閉めて動けば良いのに、彰がその場から動かないから私も動けなくて、静かな時間が続く。
「昔もそうだったなぁ」
突然、思い出に耽るように彰は呟いた。脈絡の無い言葉に顔を上げると、彼の小さな笑い声が柔らかく空気を揺らす。
「インターホンが鳴ってさ、ドアを開けたらおんなじようにすずねが立ってて。あの頃はよく『まだパジャマのままなの?』って怒られてたよな」
そうだ、そうだった。玄関のドアから顔を出す彰はパジャマのままで髪もセットしていなくて、寝起きの格好ばかりだった。別の場所で待ち合わせたら私が待ちぼうけを食わされることが多かったから、仕方なく迎えに行っていたのだ。
「それでも彰がのんびり準備するから更に機嫌が悪くなったりね」
「あー……はは、その節は悪かった」
他の人だったらきっと愛想を尽かしていた。でも、彰だから。彰だったから私はなんだかんだ許してしまっていたのだ。
「今日はちゃんと支度してるんだ」
「まぁな。楽しみだったから」
「……昔は楽しみじゃなかったってこと?」
私の言葉に彰はほんの少し決まりが悪そうな表情をする。
「いや、そういうわけじゃなくて、あん頃は……」
いつも振り回されてばかりだから意趣返しのつもりだった。言葉の綾だというのは分かっている。ただ、彰がどんな言い訳をするのだろうと少し気になったのだ。
「……すずねがさ、着飾った格好で迎えに来てくれんのが嬉しかったんだ」
は、と言葉を失う。言いづらそうに、それでも視線はまっすぐに私を見ている彼から視線が逸らせなくて。
「オレがどれだけだらしない格好してても、すずねはいつも綺麗な格好でそこに居んのがなんか、すげー良かったんだよ」
私はまだ、何も言えない。心臓の音だけが頭の中で響いていて、平静を装うのに必死だった。
ゆったりと彰が目を細める。わずかに上がった口角はそのままに、追い討ちをかけるように彼は呟く。
「今も、すげぇ綺麗だよ」
息が出来なかった。パチパチと弾けるような音がして、視界には煌びやかな粒子のようなものが映る。
分かっていた。知っていた。ただ、認めたくなかっただけだった。──これは、恋だ。数年越しの、数年振りの、淡い恋の報せだった。
*
車の中で会話が尽きないかと言われたらそうではない。昔から彰は多くを語る人ではないし、私も自分からたくさん喋るタイプではないからだ。気を許している、とも言うのかもしれない。不思議とこの静けさが気まずいとは思わない。
彰の運転は手慣れている。車も車線も多い東京の街を危なげなく運転する姿は長年の経験から積まれているものだ。ペーパードライバーの私とはわけが違う。
かっこいいな、と思ってしまう。ハンドルを握る手も前を見据える横顔も、意識すればするほど、まばゆく見えた。確か学生の頃もこうやって、私は彼の横顔を盗み見ては憎らしいぐらいに整った顔立ちに胸を高鳴らせていた。
不意に彰がクスクスと笑い出した。バレないように見つめていたつもりだったが、彼には見抜かれていたようだ。
「今日はずいぶんと見てくるな」
恥ずかしくなって俯いた私に彼はまた笑う。
「良いぜ、別に。見られるのには慣れてるから」
そう言われたって、一度指摘されてしまえばもうまともに見れなくなってしまう。不躾に見つめてしまっていた自覚が私にもあるからだ。
これから、どうしよう。
今から行く美術館のことじゃなくて、それより先の、もっと先の未来のことだ。私は、彰とどうなりたいんだろう。彰は、どうしたいのだろう。あの頃のように簡単なことじゃない。大人になり立場も変わった今は、ただ好きだという思いだけではどうにもならないのだ。
展覧会は思っていたよりも盛況で、入場制限がかかるほどではなかったけれどなかなか人が混み合っている。会社のPRのおかげだと考えると誇らしいが、観客としては窮屈だという思いが強い。物珍しそうに展示物を見る彰は頭一つ分飛び出ているからか呼吸が楽そうだ。私は人に流されないように必死で、それでも展示物はちゃんと見たいから時折背伸びをしながら見ていると、それに気付いた彰が手を添えて耳元に口を寄せてくる。
「高い高いしてやろーか?」
声量の抑えられた低い声が耳元で楽しげに囁かれる。くすぐったい。という思いと、何を言っているのだろうこの人は。という思いが頭の中でぶつかり合った。咄嗟に耳を抑えながら、彼から身体を離してじとりとその目を見る。綺麗に弓なりにしなる目元は明らかに私をからかうもので。
「……あのね」
確かに彰の目線は見やすいだろう。だからといってそれを良い大人に提案するのはいかがなものか。
「そんなに睨まなくても」
肩を竦める彰にはちっとも響いていなさそうだ。思わず小さくため息を吐くと、どんっ、と後ろから来た人にぶつかって、ふらついた身体を彰の腕に支えられる。お互いにすいませんと謝って、その間も彰の腕は私を支えていた。この場に立ち止まっているのも良くないと歩き出そうとする私より彰が動き出すのが先で。
パッと右手を取られた。流れるような動作に反応するのが遅くなる。
「これならはぐれねーから」
まだ完治していない右手を握る彰の手は優しかった。彰が目立つからはぐれてもすぐ見つけられるのに。と心の中で呟いて、それでもこの手を引く温かさが心地よくて手放すことは出来なかった。