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Caligula-カリギュラ-

 ――それはようやくメビウスから解放された頃の話だ。きっと知るべきではなかったのだ。世の中に知らなくて良いこと、知らないほうが良いことなんてごまんとあるのだから。

「笙悟、一人暮らしを始めるんだって?」
「ああ…まあな。いつまでもそのままって訳にもいかねえだろ。」

 駅前のカフェで、30のおっさんと20代前半の青年が向かい合って真剣に話し合っているなんて滑稽だろう。こんな洒落た場所にきたのはいつ振りだろうか。…きっと、高校以来ではないだろうか。それ以降はあり得ない。
そんなことはどうでも良いが、「部長」は今年で25歳になるらしい。正直、未成年でなくてよかったと思っている。歳も歳だから下手をすれば、警察に厄介になること間違いなしなのだ。
妙な話、メビウスで作り上げられたあの奇妙な関係はまだ延長線上にあって、なかなか終わりが見えない。そんなこともあって、お互い成人していてよかったものだ。たとえどんな一線を越えようとも、誰も咎めはしないのだから。

「そっか~。じゃあ部屋探しか~。まあ、俺もそうなんだけどさ。」
「部長も?」
「ああ、そうなんだよね。転勤が決まってさぁ。来月の頭には引越ししないといけないんだ。」
「…転勤、か。」

 そうだ、彼は俺と違ってまともな社会人なのだ。自分で働いて、給与をもらっている。ヒキニートである俺とはまた世界が違っている。

「心理カウンセラーやっててさ、メビウスに招かれる前はここの…ほら、大きい病院で働いてて。カウンセラーのくせにああなっちゃったし、ちょっと居心地悪かったんだよね。職場に復帰した時は「大丈夫?」とかって言ってくれてたけど、さすがに本心から思ってることじゃないじゃん?まあ、そういうわけで、俺としてもまあ良いかなーって感じなんだけどね。転勤っていうのもさ。」
「そりゃあ初めて聞いたな。カウンセラーだったのか。」
「あれ?言ってなかったっけ。…あ、話してないかも。」
「で?次の職場は?」
「隣町の大きい病院。まあ、安定こそが全てだからね。よかったって言えばよかった。笙悟は?就職先の目途はたったか?」
「…この年だし、大した学歴はないしで隣町で就職だろうな。割と就職事情はお寒いこのご時世だからな。」
「へえ!じゃあそこでも一緒に居られるじゃん。いいね、運命?」
「運命?」

 彼は慌てたように、冗談だよ、と笑って見せた。先ほど注文したコーヒーをくるくるとかき混ぜ、ぐっと飲み干していく。

「…いや…別に嫌とかそういう意味じゃねえけどな。」

 誤解しているであろう彼に訂正してみた。すると彼は分かりやすく動揺し、むせてしまった。
 
「おい、大丈夫か?」
「だっ、大丈夫…」

 ようやく落ち着いたらしい彼は、そうだ、と言ってリュックから不動産の広告を取り出す。

「…ふー…軽く死ぬかと思った…。俺さ、ここに住もうかなって思ってるんだけど、笙悟もどう?いや、駅とか近いし割と便利だと思ってさ。」
「…駅近なのに、この家賃?少し安いんじゃないか?」
「そうだよ。」
「これ…事故物件とか言うやつじゃなかったか?今見て思ったが、俺もその物件を考えていて、軽く調べたことよ…。…殺人事件があったところじゃないか?」
「ああ、知ってるよ。確か3、4年前に猟奇殺人があった場所だよ。ただ…犯人も捕まっていない、未解決事件みたいだってね。」
「解っているのにそこにするのか?」
「まあね。それに、今月は割と痛い出費があってさ。いずれにせよ、安い物件が良いんだよね。それに、事件があったのって3、4年前だし、そういう…何て言うのかな、霊的なものは信じないタイプなんだ。だから別にいいかなって。」
「そうか…。」
「あと、そんなに住むわけじゃないからさ。長くても1年…って感じ。」
「また引っ越すのか?」
「うん。そうだよ。マンションに住む予定。」

 話を聞く限り、かなり忙しそうだ。…これが正しい社会人のあり方なのだろうか。ふいに彼のスマホが震えだす。着信だ。

「出たほうがいいんじゃないか。」

 ありがとう、とジェスチャーをして席を離れ、その電話に出る。カフェの奥の席だからなのか周囲に人が居ない分、会話の内容が聞こえてしまう。

「…あ、はい。…出来ましたか…。分かりました、夕方伺います。」

 仕事についてだろうか。盗み聞きがよくないのは重々承知してはいるが、聞こえてしまうもんはどうしようもない。
 そんな他人のことを考えてもしょうがない。スマホを取り出して、不動産のサイトを開く。…それにしても、どうして彼は事故物件に住もうと思えるのだろうか。気持ち悪いな、とは感じないのか。俺だったらいくら安くても願い下げだ。

「ごめん、笙悟。話の途中なのに電話にでちゃって。」
「ん…?いや、構わねえよ。仕事か?」
「えっ?あ~…うん、何て言えばいいのかな…仕事じゃないんだけど…」
「あ、いや。話したくなけりゃ話さなくてもいいけどよ。」
「はは、そんな後ろめたいことじゃないけどね。ちょっとトイレに行ってくるね。」
「ああ。」

 再び席を立ったが、テーブルにはスマホがおきざりにされていた。不用心にもほどがあるんじゃないかとは思うが、俺もここから離れるわけにはいかない。仕方がなく、近くに寄せた。
 …機種変更したのだろうか。現実に帰ってから最初にあったときは黒のスマホではなかった気がする。そんなことはどうでも良いが…千佳の件では世話になったものだ。そんな、つい最近とも思えることが今ではもう過去の一部になりつつある。ここは現実で、メビウスの様に同じ時間軸を繰り返すわけじゃない。こうしている内にも、時間は過ぎていくのだ。
 WIREの着信音とともに表示されるメッセージ。

『本当に式場でやるの?書類だけでもいいと思うんだけど…』

 式場?…これはたぶん、見ないほうが良かったことだろう。かなりプライベートな所に立ち入ってしまっている。

『いろいろあって大変だったのに、無理してない?私は大丈夫だからさ、そういうのはきにしなくていいよ?』
『私は君と結婚できるだけでも幸せだから。』

 つまりはそういうことらしい。さっきの電話は指輪の件だったのかもしれない。仲間の吉報だ、喜ぶべきなんだろう。それなのに、素直に祝ってやれない俺がいる。別に、恋愛的な意味で「好き」ではないのだから、何も躊躇いなどないはずなのに。
 しかし、ここでそういう事情を知れたのなら喜ぶべきではないのか。このまま知らないままであったら最後、容易くすべてのものが崩れ落ちるだろう。残るのは凄惨な現実だけだ。幸いなことに、今ならこの厄介な延長線上の関係から逃れられる。メビウスでは肉体の関係があったとしても、現実ではそんなものはない。引き返すなら、きっとこれが最初で最後のチャンスだ。

「――笙悟?どうしたの。」
「あ、ああ…戻ったのか。その…スマホくらい持って行け。」

 後ろからの声掛けに盛大に心臓が跳ねたが、悟られていないだろうか。自然を装ったがこれは無理があるだろうか。ここで気まずい雰囲気になるのは避けたいが…、無理か。なぜなら彼の視線は俺の近くに置いてある彼のスマホに注がれているからだ。

「あ…いや、見るつもりとかそういう訳じゃねえんだけど…その…」

 まともな言葉が咄嗟に出てこないなんて、情けない。ここで「なんだよ、教えてくれてもよかったじゃねえか。水くせえな」とでも言ってしまえたらよかった。そう割り切れればよかった。

「…ごめん、笙悟。言おうと、思ってたけど…言いだせなくて。」
「…いや。その…結婚おめでとう。良かったじゃねえか。」
「あ…ありがとう。…俺は笙悟を騙していたのに祝ってくれるのか?」
「他人の人生にそこまで関与しねえよ。それに25だろ。妥当じゃねえの。」
「…そっか…うん。そうだよね。俺もいつまでも笙悟を迷わせるわけにはいかないよね。部長として、背中を押してあげないと駄目だね。俺も、笙悟に縋ってばかりじゃ駄目だ。」
「…終わりに、しようってことか。」
「…これ以上、笙悟の人生に居座り続けることは出来ない。…それに、俺にはいくらでも時間はあるけど、笙悟には無いって解ってる。惑わせるのは、やめるよ。」

 どうして、彼が泣きそうなんだろうか。お互いに苦しいのは間違いないんだ、きっと。いくら自分を誤魔化そうとしても、誤魔化せないことが悔しい。胸が痛いのは自覚したくないことの証明で、どうにかなるものではない。
 それが解ってしまえば何も言えない。口を噤むしかない。馬鹿だなと誰かに笑い飛ばしてほしいくらいだ。「幸せ」を得るのがいかに難しいのか思い知らされる。それがこの現実で、俺たちが選んだ結果だ。メビウスにいたとしたら、こんな不甲斐ない思いをせずに済んだし、理想的な「幸せ」が簡単に手に入ったはずだった。

「たぶん、知らないほうが良かったことだ。」

 彼はぽつりとつぶやく。俺も答える。

「いや、知らないほうが悪いことだった。」
 
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