Caligula-カリギュラ-
それは、ごくごく最近の話だ。彼は危うい足取りでふらふらと夢遊病患者の様に歩き回り、ぶつぶつと何度も、何度も独り言を言う。その目は虚ろで、何も映していない。それは俺のせいじゃないんだ、本当はあいつが、と決まって叫ぶ。
僕が彼をなだめても何の効果もない。だから僕はただ、彼が落ち着くまでベッドの上、あるいはソファに座ってその様子を眺めていた。どんなに「ヤバそう」でも僕は何もしない。…というか、何にもならないのだから。
こんなことも毎日続いてしまえば慣れる。どうにか知恵を絞り出して言った慰めの言葉も意味を成さないのだから、やるだけ無駄なのだ。
今日も甘いベッドタイムの終わりには、きっといつもの意味のない懺悔を聞かされるんだろうと思うと気が重い。できれば甘い余韻を味わいたいものだが、それは許されないらしい。
「センパイ、セーンパイ!聞こえてますか~?」
「…違う…俺じゃ…あれは、事故で…。俺の、せいじゃないんだよ…。どうして俺が悪いんだ、無関係なのに…!!」
「…ふぅ…。今日も、ですね。先輩。」
案の定、僕の声は届いていない。浅い呼吸を繰り返して、まだ夜の明けていない暗い寝室を歩き回る。
「…それ、楽しいですかね。そうやって自分を守って、いつまでも引きずり続けて。…そうだ、先輩、知ってます?…まあ、どうせ聞こえてないんでしょうけど、言いますね。認めて諦めてしまうことと、いつまでも認めずに足掻き続けること、どっちが楽でしょうか。さっさと認めて、諦めたらどうです?それが揺るぎない、”現実”なんですから。そんなもの、どうしようもないでしょ。きっと楽になりますよ。」
「…俺は…俺は…悪くない…、なのにっ…!!」
「…それがあなたの答え、ですか?いつも賢明な先輩にしては珍しく愚鈍な選択ですね。」
「おかしいだろ、どうして俺が悪くなったんだ?あそこに俺はいなかった、そもそも知り合いでもなかった!事件のことなんて、後から知ったんだ。それなのに。どうして。」
「…聞こえない、か。あなたの馬鹿みたいな懺悔なんてもう聞き飽きたんですよ。いい加減にしてくれませんか?…――本当に、つまらない人。」
ふいに先輩がぴたりと足を止め、ゆっくりと僕を見る。その行動が奇妙で、恐ろしく感じ、思わず声が出る。昏い瞳、とはこういう瞳を言うのだろう、とのんきなことを考え始めた僕の脳は、この現状を見なかったふりにしようとしている。
そう思えてしまうくらい、この状況はまずいのだ。
「…つまら、ない…?」
壊れたおもちゃの様にちぐはぐなイントネーションが、僕の耳にこびりつく。心臓が早鐘の様に打ち続け、口が渇いてくる。のどが張り付きそうなくらいだった。
僕の座っているベッドの方向に先輩がゆっくりと歩を進める。
「ねえ…まさか鍵介がそんなこと、言うはずないよね?言わないよね?言うはずないよね?」
これを正気、とは言わないだろう。でも、その射抜くような灰色の瞳は確かに僕を見ていた。
「…っ…」
「言わない、そうでしょう?ほら、言ってないって言って?そうしたらきっと俺、優しくできるよ。またさっきみたいに愛してあげられるよ?…どうしたの?鍵介。いつもみたいに素直に言ってくれよ。俺は素直な鍵介が好きだなぁ…」
確実に縮まっていく距離に、逃げたくても逃げられない。身体が全く動かない。君は、あの人じゃないよね、と頭上で冷たい声がして、くすくすと笑っている。
「…どうしたの、鍵介。早く。早く言ってよ。僕はそんなこと言っていませんって。ねえ。聞こえているの?ちゃんと答えてよ。ねえ、ねえ、ねえっ!!!」
先輩はすでに目の前にいて、その冷たい指が僕の顎をなぞる。
「――どうしたの?けんすけ。言うことくらい、できるよね?」
それはあまりにも無邪気で、無垢な笑顔だった。いつもの優しげな笑みを浮かべ、僕の答えを待っている。
「ぼ…僕は、そんな、こと…言って、いません…」
自分でも思うくらい、か細い声だった。それこそ、蚊の鳴くような声で、しかも途切れ途切れだ。
「そうだよねぇ、鍵介は良い子だもんね。そんなこと、言うはずないよね。うんうん、解ってる。君が良い子なのは俺が一番解ってる。だって、鍵介は俺のことが大好きだし、俺も鍵介が大好き。なんて素敵な関係なんだろうね!」
「――…」
僕が彼をなだめても何の効果もない。だから僕はただ、彼が落ち着くまでベッドの上、あるいはソファに座ってその様子を眺めていた。どんなに「ヤバそう」でも僕は何もしない。…というか、何にもならないのだから。
こんなことも毎日続いてしまえば慣れる。どうにか知恵を絞り出して言った慰めの言葉も意味を成さないのだから、やるだけ無駄なのだ。
今日も甘いベッドタイムの終わりには、きっといつもの意味のない懺悔を聞かされるんだろうと思うと気が重い。できれば甘い余韻を味わいたいものだが、それは許されないらしい。
「センパイ、セーンパイ!聞こえてますか~?」
「…違う…俺じゃ…あれは、事故で…。俺の、せいじゃないんだよ…。どうして俺が悪いんだ、無関係なのに…!!」
「…ふぅ…。今日も、ですね。先輩。」
案の定、僕の声は届いていない。浅い呼吸を繰り返して、まだ夜の明けていない暗い寝室を歩き回る。
「…それ、楽しいですかね。そうやって自分を守って、いつまでも引きずり続けて。…そうだ、先輩、知ってます?…まあ、どうせ聞こえてないんでしょうけど、言いますね。認めて諦めてしまうことと、いつまでも認めずに足掻き続けること、どっちが楽でしょうか。さっさと認めて、諦めたらどうです?それが揺るぎない、”現実”なんですから。そんなもの、どうしようもないでしょ。きっと楽になりますよ。」
「…俺は…俺は…悪くない…、なのにっ…!!」
「…それがあなたの答え、ですか?いつも賢明な先輩にしては珍しく愚鈍な選択ですね。」
「おかしいだろ、どうして俺が悪くなったんだ?あそこに俺はいなかった、そもそも知り合いでもなかった!事件のことなんて、後から知ったんだ。それなのに。どうして。」
「…聞こえない、か。あなたの馬鹿みたいな懺悔なんてもう聞き飽きたんですよ。いい加減にしてくれませんか?…――本当に、つまらない人。」
ふいに先輩がぴたりと足を止め、ゆっくりと僕を見る。その行動が奇妙で、恐ろしく感じ、思わず声が出る。昏い瞳、とはこういう瞳を言うのだろう、とのんきなことを考え始めた僕の脳は、この現状を見なかったふりにしようとしている。
そう思えてしまうくらい、この状況はまずいのだ。
「…つまら、ない…?」
壊れたおもちゃの様にちぐはぐなイントネーションが、僕の耳にこびりつく。心臓が早鐘の様に打ち続け、口が渇いてくる。のどが張り付きそうなくらいだった。
僕の座っているベッドの方向に先輩がゆっくりと歩を進める。
「ねえ…まさか鍵介がそんなこと、言うはずないよね?言わないよね?言うはずないよね?」
これを正気、とは言わないだろう。でも、その射抜くような灰色の瞳は確かに僕を見ていた。
「…っ…」
「言わない、そうでしょう?ほら、言ってないって言って?そうしたらきっと俺、優しくできるよ。またさっきみたいに愛してあげられるよ?…どうしたの?鍵介。いつもみたいに素直に言ってくれよ。俺は素直な鍵介が好きだなぁ…」
確実に縮まっていく距離に、逃げたくても逃げられない。身体が全く動かない。君は、あの人じゃないよね、と頭上で冷たい声がして、くすくすと笑っている。
「…どうしたの、鍵介。早く。早く言ってよ。僕はそんなこと言っていませんって。ねえ。聞こえているの?ちゃんと答えてよ。ねえ、ねえ、ねえっ!!!」
先輩はすでに目の前にいて、その冷たい指が僕の顎をなぞる。
「――どうしたの?けんすけ。言うことくらい、できるよね?」
それはあまりにも無邪気で、無垢な笑顔だった。いつもの優しげな笑みを浮かべ、僕の答えを待っている。
「ぼ…僕は、そんな、こと…言って、いません…」
自分でも思うくらい、か細い声だった。それこそ、蚊の鳴くような声で、しかも途切れ途切れだ。
「そうだよねぇ、鍵介は良い子だもんね。そんなこと、言うはずないよね。うんうん、解ってる。君が良い子なのは俺が一番解ってる。だって、鍵介は俺のことが大好きだし、俺も鍵介が大好き。なんて素敵な関係なんだろうね!」
「――…」