Caligula-カリギュラ-
『…きっと、僕じゃ駄目なんでしょう。いえ…気にしないでください。僕は、大丈夫ですから。』
今でもあの鍵介の泣きそうな顔が忘れられない。俺は、また”愛せなかった”。どうして、こんなに怖いんだろう。どうして、どうしていつもこうなってしまうのだろう。あんなに俺に寄り添ってくれるのに、理解してくれようとしているのに拒絶してしまうんだ。
根拠のない疑心は留まることを知らず、それどころか広がり続ける。そうやって俺は何度鍵介を傷つけてきたのだろう。だから、別れた。これで良かったはずなのに俺は情けないくらいに鍵介を求めてしまう。もうあんな思いはしたくない、それでも…。
「――部長?どうした」
「――っ…!」
そうだ、部活中だ。笙悟の声ではっと我に返る。
「…。なんでもないよ。」
「…何があったんだ?」
「…なんでもないって。」
「そうは思えねえけど。」
「なんでもないって!!」
いつの間にか大声で叫んでしまっていて、帰宅部全員の視線を集めてしまった。
「あ…。いや、ごめん…俺…」
「…先輩、大丈夫ですか…?」
気遣わしげに俺を心配してくれた鈴奈に笑顔を返して、逃げるようにその場から離れた。後ろで何か言っていたようだったが、逃げ出した手前、戻れるはずがない。
…今日も、鍵介はいなかった。こんな醜態を鍵介に晒さないで済んだ、それが不幸中の幸いだった。でも、こんなことをしたら勘のいい人たちは何があったかなんて容易に想像できるんだろう。
…考えたくない。いっそ全て投げ出したい。どうして理想の世界でも、俺の理想は叶えられないんだ。なんでこんなに苦しまなきゃいけないんだ。逃げて、逃げ続けるからいつまでも俺は『何者にもなれない』のだろう。帰宅部の部長になって作り上げた『結城理玖』という存在ですら保てなかった。昨日まで普通にできていたことが出来ないんだ。
マンションの6階、ここはいつ見ても異様だ。この階から見える風景はいつでも鈍色の雲で覆われ、雨が降り続ける。そしてかつての「彼女」が変わり果てた姿でうろついている。赤銅色の手すりだとか、コンクリートに散らばっている赤も、全部俺の執着が作り出した悲惨な記憶だ。こんなのだから人を家に招けないのだ。
「…鍵介」
マンションの前を通りかかった鍵介が目にはいった。…そういえば、彼は一体何をしているんだろう。部活動に顔を出すこともなければ、学校にすら来ないことも多いらしい。彼は彼でやることがあるんだろう。
――理由をつけてその先を考えない。これが俺の悪い癖だ。
だって考えないことは、楽でとてもいいことじゃないか。何の不安も抱かずに、生きていけるのだから。考えたって答えの出ないことのほうが圧倒的に多い。考えるだけ時間の無駄だし、その事実に気づきさえしなければ馬鹿でいられる。苦しくない甘い選択を選び、そのまま逃げ続けた結果がこの現状だった。
逃げたのだ。俺は。鍵介との関係を恐れて。固定観念ばかりが頭に浮かび、それ以降は考えられない。…正しくは、考えたくないのだろう。
『理玖さん、何してるの?そんなつまらないものなんて気にしてもしょうがない。そうでしょ?』
黒い靄で覆われた「彼女」はどこからかふわりと現れ、そうやって甘言で惑わす。
「…うるさいよ、小百合さん。君には関係のないことだ。」
『…私が、無関係?あなたは私を”愛して”くれたのに、裏切るの?』
口うるさいNPCだ。脳もない癖に、プログラムされた理想を何度も何度もあほみたいに繰り返す。そして、これに毎度毎度流される俺も大概だろう。
『あなたを理解できるのは私だけ。…知っているでしょう?』
「…うるさいよ。」
『どうして彼に理解を求めるの?彼もきっとみんなと同じだよ。あなたについた付加価値にしか興味ないの。誰もあなた個人を見ようとしないよ?どうして何度も同じ過ちを犯して、自分の首を絞めてしまうの?』
「――うるせぇんだよ!!」
靄のかかった頭を乱暴に掴み、赤銅色の手すりに無茶苦茶に打ち付ける。ありったけの憎しみと、衝動的な怒りを込めて。
『誰もみてくれないって解ってるのはあなた自身じゃないの?』
どれだけ打ち付けても、その平然とした声は一切乱れない。NPCの体を構成する破片がいくら散らばっても、「彼女」は死なないのだ。
「うるさい…っ、うるさいっ…!!!」
もう何が何だかわからなくて、ただこの破壊行動に夢中になっていた。こんなことで胸に泥のように沈んだ黒い何かはどうにかなるわけでもないのに。
『――………。』
「はあっ…はあっ…」
無残に崩れ去った「彼女」を見つめて、俺はまた後悔する。
「ああ…ぁ…っ」
また、繰り返す。こうしてまた俺は俺自身を殺すのだろう。この感情の延長線上で、鍵介をどうにかしてしまわないか心配でしょうがない。
「嫌なんだよ…心に踏み込まれるのが。それ以上踏み込んでこないでくれ…」
根拠のない欺瞞が心を支配する。そんなのも何だか馬鹿らしくて、乱暴に頭をかきむしった。
情けないことに俺は俺の心を制御できないのだ。だからこんな世界に招かれて、あまつさえ誰かを愛することもできやしない。
そして、妙なことに関わってほしくないのに、鍵介が欲しいと思ってしまう。それは身勝手で、これを愛情とは言えない。
…生意気で不安定な少年、素直でかわいい鍵介。俺に良くしてくれるし、どんなことでもやってくれる。そんな”理想”の恋人なのに。…解っている。異常だと。愛せないのは至極単純な理由で、それは『生きている』から。
「もう、いやだ…」
誰も、関わらないでくれ。
*****
今日もまた先輩は来なかった。だったら僕だって部活以外の日に部室に行く必要なんてないし、意味がない。…僕と会うのは気まずいだろうと思って、最近は部活のある日でも部室にいかなかった。さすがにまずいだろうか。いや、まずいな。それでも、行けない。先輩は帰宅部の部長であることに変わりはないし、当然のように部室にいかなくてはならない。だから僕は僕で、何か楽士の手がかりをつかめないかと思っていろいろと歩き回ってはいるのだが。
どこに行ってもデジヘッドばかりで、そいつらからはほとんど情報を得られない。一体こんなことに何の意味があるのか。
それでも、やっぱり行けない。なんて臆病なんだろうか。「先輩のため」とはいうが、本当は逃げたいだけだろう。あまりにも辛くて、恥ずかしい事実から目を背けたくて仕方がないのだ。
ふいに、視線を感じた。
それはたまたま歩いていた住宅街のマンションからだ。ここはいつも不気味だった。外見なんてそこらへんによくあるマンションなのに、どうも変な感じがするのだ。…言うならば、肝試しなんかでよく行くような廃墟と同じくらいの…おどろおどろしい、とでも表現するのか、そんな雰囲気だ。
「なんだかなぁ…」
払拭できない奇妙な感覚を覚えつつも、μがライブでもやっていそうな駅の方向へ足を進めた時の事だ。何か質量のある、重そうな音があたりに響き渡る。何があったのか、音の方向に振り向くと、ガンガン、と打ち付ける音の発生源がわかった。
「は…?ちょ、」
なんてものを見てしまったんだ。男らしき影が、必死に何かを手すりに打ち付けている。見ていて気持ちのいいものじゃない。
――人間だ。
巷で言う、DVというやつだろう。男が女の長い髪をむんずと掴み、打ち付けている。…これはもはやDVとかそういう問題じゃない。猟奇的殺人じゃないか。
いや、違う。よく見ると打ち付けられている髪の長い影はNPCだ。いっぽうで男は何かを叫びながらその行為を続けている。
「…世も末だなぁ…。こんな理想世界でもそんなのが幸せな人間がいるのか…。」
そんなことを幸せと感じる理由は、到底僕には理解できないし、したくもない。どうせ僕には縁のないことだし、関係ない。今のだってNPCが被害を受けているのなら止める筋合もない。いいんだ、何も見なかったことにしてしまおう。
…見たことがある気がする。例の男の背格好には見覚えがある。なんだか気づいてはいけないことに気づいてしまったように思えて、ひやりと背中に汗が伝う。手すりにもたれかかったその姿はどこかの誰かとそっくりだ。
「―――……先輩」
信じたくないことだった。あんなことをする人間には思えなかったからだ。いや、これは僕の勝手な思い込みだったのかもしれない。メビウスに招かれる人間なんてたかが知れてる。僕みたいにろくでもない奴だとか、人間関係でうまくいかない奴だとか、いろいろいる。それこそ、現実世界じゃ忌避される様な人間だっているのだ。
俗世間における「普通、一般的」の定義から外れた奴の集まりだ。…有象無象になりきれなかった、そんな、存在。
個性、だとか独創的だとかそんなものは綺麗ごとだった。今の世間はそんなものを排斥し、自らの道理から外れた人間はみな、世間から切り離される。
「…まあ、そういうことだってあり得ますよね。」
僕は何も見なかったことにして、そそくさとその場を離れた。
今でもあの鍵介の泣きそうな顔が忘れられない。俺は、また”愛せなかった”。どうして、こんなに怖いんだろう。どうして、どうしていつもこうなってしまうのだろう。あんなに俺に寄り添ってくれるのに、理解してくれようとしているのに拒絶してしまうんだ。
根拠のない疑心は留まることを知らず、それどころか広がり続ける。そうやって俺は何度鍵介を傷つけてきたのだろう。だから、別れた。これで良かったはずなのに俺は情けないくらいに鍵介を求めてしまう。もうあんな思いはしたくない、それでも…。
「――部長?どうした」
「――っ…!」
そうだ、部活中だ。笙悟の声ではっと我に返る。
「…。なんでもないよ。」
「…何があったんだ?」
「…なんでもないって。」
「そうは思えねえけど。」
「なんでもないって!!」
いつの間にか大声で叫んでしまっていて、帰宅部全員の視線を集めてしまった。
「あ…。いや、ごめん…俺…」
「…先輩、大丈夫ですか…?」
気遣わしげに俺を心配してくれた鈴奈に笑顔を返して、逃げるようにその場から離れた。後ろで何か言っていたようだったが、逃げ出した手前、戻れるはずがない。
…今日も、鍵介はいなかった。こんな醜態を鍵介に晒さないで済んだ、それが不幸中の幸いだった。でも、こんなことをしたら勘のいい人たちは何があったかなんて容易に想像できるんだろう。
…考えたくない。いっそ全て投げ出したい。どうして理想の世界でも、俺の理想は叶えられないんだ。なんでこんなに苦しまなきゃいけないんだ。逃げて、逃げ続けるからいつまでも俺は『何者にもなれない』のだろう。帰宅部の部長になって作り上げた『結城理玖』という存在ですら保てなかった。昨日まで普通にできていたことが出来ないんだ。
マンションの6階、ここはいつ見ても異様だ。この階から見える風景はいつでも鈍色の雲で覆われ、雨が降り続ける。そしてかつての「彼女」が変わり果てた姿でうろついている。赤銅色の手すりだとか、コンクリートに散らばっている赤も、全部俺の執着が作り出した悲惨な記憶だ。こんなのだから人を家に招けないのだ。
「…鍵介」
マンションの前を通りかかった鍵介が目にはいった。…そういえば、彼は一体何をしているんだろう。部活動に顔を出すこともなければ、学校にすら来ないことも多いらしい。彼は彼でやることがあるんだろう。
――理由をつけてその先を考えない。これが俺の悪い癖だ。
だって考えないことは、楽でとてもいいことじゃないか。何の不安も抱かずに、生きていけるのだから。考えたって答えの出ないことのほうが圧倒的に多い。考えるだけ時間の無駄だし、その事実に気づきさえしなければ馬鹿でいられる。苦しくない甘い選択を選び、そのまま逃げ続けた結果がこの現状だった。
逃げたのだ。俺は。鍵介との関係を恐れて。固定観念ばかりが頭に浮かび、それ以降は考えられない。…正しくは、考えたくないのだろう。
『理玖さん、何してるの?そんなつまらないものなんて気にしてもしょうがない。そうでしょ?』
黒い靄で覆われた「彼女」はどこからかふわりと現れ、そうやって甘言で惑わす。
「…うるさいよ、小百合さん。君には関係のないことだ。」
『…私が、無関係?あなたは私を”愛して”くれたのに、裏切るの?』
口うるさいNPCだ。脳もない癖に、プログラムされた理想を何度も何度もあほみたいに繰り返す。そして、これに毎度毎度流される俺も大概だろう。
『あなたを理解できるのは私だけ。…知っているでしょう?』
「…うるさいよ。」
『どうして彼に理解を求めるの?彼もきっとみんなと同じだよ。あなたについた付加価値にしか興味ないの。誰もあなた個人を見ようとしないよ?どうして何度も同じ過ちを犯して、自分の首を絞めてしまうの?』
「――うるせぇんだよ!!」
靄のかかった頭を乱暴に掴み、赤銅色の手すりに無茶苦茶に打ち付ける。ありったけの憎しみと、衝動的な怒りを込めて。
『誰もみてくれないって解ってるのはあなた自身じゃないの?』
どれだけ打ち付けても、その平然とした声は一切乱れない。NPCの体を構成する破片がいくら散らばっても、「彼女」は死なないのだ。
「うるさい…っ、うるさいっ…!!!」
もう何が何だかわからなくて、ただこの破壊行動に夢中になっていた。こんなことで胸に泥のように沈んだ黒い何かはどうにかなるわけでもないのに。
『――………。』
「はあっ…はあっ…」
無残に崩れ去った「彼女」を見つめて、俺はまた後悔する。
「ああ…ぁ…っ」
また、繰り返す。こうしてまた俺は俺自身を殺すのだろう。この感情の延長線上で、鍵介をどうにかしてしまわないか心配でしょうがない。
「嫌なんだよ…心に踏み込まれるのが。それ以上踏み込んでこないでくれ…」
根拠のない欺瞞が心を支配する。そんなのも何だか馬鹿らしくて、乱暴に頭をかきむしった。
情けないことに俺は俺の心を制御できないのだ。だからこんな世界に招かれて、あまつさえ誰かを愛することもできやしない。
そして、妙なことに関わってほしくないのに、鍵介が欲しいと思ってしまう。それは身勝手で、これを愛情とは言えない。
…生意気で不安定な少年、素直でかわいい鍵介。俺に良くしてくれるし、どんなことでもやってくれる。そんな”理想”の恋人なのに。…解っている。異常だと。愛せないのは至極単純な理由で、それは『生きている』から。
「もう、いやだ…」
誰も、関わらないでくれ。
*****
今日もまた先輩は来なかった。だったら僕だって部活以外の日に部室に行く必要なんてないし、意味がない。…僕と会うのは気まずいだろうと思って、最近は部活のある日でも部室にいかなかった。さすがにまずいだろうか。いや、まずいな。それでも、行けない。先輩は帰宅部の部長であることに変わりはないし、当然のように部室にいかなくてはならない。だから僕は僕で、何か楽士の手がかりをつかめないかと思っていろいろと歩き回ってはいるのだが。
どこに行ってもデジヘッドばかりで、そいつらからはほとんど情報を得られない。一体こんなことに何の意味があるのか。
それでも、やっぱり行けない。なんて臆病なんだろうか。「先輩のため」とはいうが、本当は逃げたいだけだろう。あまりにも辛くて、恥ずかしい事実から目を背けたくて仕方がないのだ。
ふいに、視線を感じた。
それはたまたま歩いていた住宅街のマンションからだ。ここはいつも不気味だった。外見なんてそこらへんによくあるマンションなのに、どうも変な感じがするのだ。…言うならば、肝試しなんかでよく行くような廃墟と同じくらいの…おどろおどろしい、とでも表現するのか、そんな雰囲気だ。
「なんだかなぁ…」
払拭できない奇妙な感覚を覚えつつも、μがライブでもやっていそうな駅の方向へ足を進めた時の事だ。何か質量のある、重そうな音があたりに響き渡る。何があったのか、音の方向に振り向くと、ガンガン、と打ち付ける音の発生源がわかった。
「は…?ちょ、」
なんてものを見てしまったんだ。男らしき影が、必死に何かを手すりに打ち付けている。見ていて気持ちのいいものじゃない。
――人間だ。
巷で言う、DVというやつだろう。男が女の長い髪をむんずと掴み、打ち付けている。…これはもはやDVとかそういう問題じゃない。猟奇的殺人じゃないか。
いや、違う。よく見ると打ち付けられている髪の長い影はNPCだ。いっぽうで男は何かを叫びながらその行為を続けている。
「…世も末だなぁ…。こんな理想世界でもそんなのが幸せな人間がいるのか…。」
そんなことを幸せと感じる理由は、到底僕には理解できないし、したくもない。どうせ僕には縁のないことだし、関係ない。今のだってNPCが被害を受けているのなら止める筋合もない。いいんだ、何も見なかったことにしてしまおう。
…見たことがある気がする。例の男の背格好には見覚えがある。なんだか気づいてはいけないことに気づいてしまったように思えて、ひやりと背中に汗が伝う。手すりにもたれかかったその姿はどこかの誰かとそっくりだ。
「―――……先輩」
信じたくないことだった。あんなことをする人間には思えなかったからだ。いや、これは僕の勝手な思い込みだったのかもしれない。メビウスに招かれる人間なんてたかが知れてる。僕みたいにろくでもない奴だとか、人間関係でうまくいかない奴だとか、いろいろいる。それこそ、現実世界じゃ忌避される様な人間だっているのだ。
俗世間における「普通、一般的」の定義から外れた奴の集まりだ。…有象無象になりきれなかった、そんな、存在。
個性、だとか独創的だとかそんなものは綺麗ごとだった。今の世間はそんなものを排斥し、自らの道理から外れた人間はみな、世間から切り離される。
「…まあ、そういうことだってあり得ますよね。」
僕は何も見なかったことにして、そそくさとその場を離れた。