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1.スミレソウ


 心の中のアルバムは、何度も開いても古びることはない。ページを捲ると写真は鮮やかに飾られている。窓の外の飛行機、グラウンドの土埃、夕日に染まる海岸。思わず零してしまうニヤつき、些細なことで痛くなる鼻の奥、ずっとずっと見ていたくて帰りたくない午後三時。厚紙に敷き詰めてフィルムを被せた私の高校生活の三年間。
 目を閉じるだけで今でも簡単に思い出せる。


   


 はぁ、カレンとみよと二人でお茶行きたかったな。さっき誘われたのに補習が邪魔して断らなきゃいけなかったんだ。金曜日だっていうのにため息が出る。
 一年の七月、高校デビューが祟って期末テストで赤点を三つも取り、放課後の一週間補習授業を課せられていた。高校になって舞い戻ってきた此処はばたき市は子供の頃住んでいたことがあったとはいえキレイな街で、海があって景色が良くて新鮮で、そしてちょっと素敵な幼馴染がいて、仲良しの友達がいて。私は世界有数の幸せな高一だと思って過ごしていた。でも勉強は退屈で、つい夜の長電話の代償で授業中寝ることもしばしばだった。部活にも入ってなくて、お小遣いが足りないからバイトでも探そうとしていたところ、いよいよ期末テストで赤点を出した。お母さんは、次やったら携帯を没収するって私を脅してくる。せがんで買って貰ったばかりだ、それだけは嫌だ。だから私は月曜から毎日サボらずに今日まで長い補習を受けに来ていたのだ。数学から始まって、昨日英語が終わって、やっと今日は最後の現国の補習だ。
 がらがらと教室のドアが開くと、大きな声が教室に響いた。

「オッス!補習始めるぞ。……なんだ、そんな顔して。青春にそんな顔似合わないぞぉ?」

「もう補習飽きました。」

 今日の補習担当の、我がクラスの担任教師の大迫先生の笑顔に見下ろされる。私は教室の中を見渡し、先生を見上げた。

「……今日は誰も居ないんですか?」

「ああ、他の子らはクラブの大会の関係だぁ。……でも、おまえには時間があるだろう?」

 私だけなら早く終わるかも、と思ったのを悟られたらしい。帰宅部を馬鹿にしないでください。カレンやみよの顔を思い浮かべた。今頃二人で新しく出たホットパイ食べてるのかな。悲しい、私も混ぜて欲しい。

「それに、あんまり現国で赤点取る生徒いないんだ。」

「それって……」

「はははっ、だから寝るなよ?」

「こんなに近いのに眠れません……。」

 教壇のすぐ前の席に私は座らされていた。さっき終鈴前のHRで、この席で待ってろと先生に言われていたのだ。授業中寝てることがとっくにバレてるらしい。

「せっかくだ、補習最終日は先生の個別指導だ。はい、じゃあ今日はこれをやってもらうぞ。」

 癖のある字で問題が刷られた先生お手製のプリントが机の上に置かれる。漢字の読み書き、長文問題、穴埋め……、期末テストで出た問題だけど、私の意識だけがハンバーガーショップに行きそうだった。でも、頑張らないと携帯解約されちゃう。テストの結果が貼り出されたとき、流夏くんにアタマが悪いとはっきり言われたのを思い出す。コウくんに笑われて女は愛嬌だからとフォローになってないフォローをされた事を思い出す。
ちくしょう、くやしい。やってやる。

「わかりました。」

 私は座りながら椅子を引き直してペンケースから筆記具を取り出した。

「おっ、やる気になったな。その調子だぁ!」

 それに、苦しい補習が今日で終わると思うと、家出していた筈のやる気が出てくる。シャーペンを構え、紙の上に文字を走らせ回答を書いていった。私のすぐ前には先生が座ってなにか仕事をしているけれど、段差があるから顔は見えない。私は先生の存在が気にならないくらい集中した。心の中で唸りながらまるで徒競走のラストスパートのような気持ちで問題を解ききった。

「出来…ました……。」

「お、出来たか。どれどれ。」

 シャーペンを手放し、へろへろになって俯いていると先生は私の隣の机に座り、私の机からプリントを取り、赤のサインペンで慣れた手つきで丸をつけていく。ふとその手が止まる。

「ここ、鳥じゃないぞ。烏だ。また間違えたなぁ?」

「……カラスだって鳥です。」

「ははっ。」

 笑って流され、キュキュッとレ点がつけられてしまった。どっちでもいいじゃん、はじめからそんなややこしい漢字を作る方が悪いんだ……文句を原始の方へ向け不貞腐れていたら〇とレが半々くらい、いや、どちらかというとレの方が多い答案が返ってきた。ダメだった……自分ではいい出来だと思ったんだけどな。ため息が聞こえてしまったらしく、先生が私の顔を覗く。

「……勉強、苦手か?」

「好きになれません。」

「でも、ちゃんと今日まで補習に来たじゃないか。」

「それはやらなきゃいけないから……」

「おまえはそのプリントを見てどう思う?」

「え?」

 って、言われても、やばいとしか。先生は返事に詰まった私を真剣に見つめてきた。そんなに目を見られると逆に目を逸らしにくい。

「今、おまえは勉強にぶつかっただろう。結果はこうだったけど、次はもっとぶつかってみろ。全力でぶつかれば必ず応えてくれる。」

「はぁ……。」

 ぶつかる、かぁ。先生は拳を握り熱く語ってるけど、運動は苦手だし体育会系はピンと来ない。

「ついでに学校行事もスポーツにもぶつかってみろぉ。はは、寝る間も無くなるぞ。」

「…というか。」

 私は先生が初日に自己紹介で言っていた言葉を思い出した。スポ根熱血教師なら体育の先生が似合いそうなものだ。だから質問した。

「先生はどうして現国の先生なんですか?ラグビーと柔道が得意なんですよね、そんなにスポーツが好きなのに。」

「んー?それはだなぁ……」

 ふふん、と口角を上げて、勿体げに先生が言いかけた時。教室のドアががらがらと開いた。

「大迫先生、ちょっと。」

 数学の氷室先生が姿を現し、先生の背筋がぴんと伸びた。

「あ、はいっ。」

「……補習中でしたか?」

 正確には補習はもう終わっているようなものだから先生は少し慌てているように見える。熱血教師もこの氷室先生にはたじたじだ。氷室先生は学年主任で真面目を絵に書いたような人で、背が高くて見た目も冷酷そうで、小さくて青少年みたいな先生とはまるで正反対。

「もう、終わりました。」

 私から氷室先生に言うと氷室先生は頷いて姿を消した。先生はペンと教科書、チョークの箱をひとつにまとめて小脇に抱え、教室の出口に向かった。

「じゃあ、これで終わりだ。一週間頑張ったなぁ。気をつけて帰れよ、お疲れさん。」

 私一人しかいないというのに、よく通る声が教室に響いた。

「……さようなら。」

 軽くお辞儀をして、私も机の上を片付けて鞄を持って席を立った。
 結局先生が国語の先生になった理由、なんだったんだろう……、気になったけど悪夢の補習が終わった喜びのほうが今は大きかった。カレンとみよにメールして、まだ遊べるか聞いてみよう。しかし、夏だっていうのに熱い先生だな。なんだかこっちまで熱くなる。掌をうちわにして片手で携帯を開いた。
 まだ二人は遊んでいたらしく、私もショッピングモールへ行くために一人電車に乗った。手持ち無沙汰で、鞄からさっきのプリントを取り出してもう一度見た。……見れば見るほど落ち込む。でも、よく考えると、これ私のためだけに作ってくれたんだよね。補習には誰もいなかったんだからそういうことになる。癖のある字で印刷された問題と、ひどい出来の私のシャーペンの回答を照らし合わせるように見比べて、畳んでノートに挟んで鞄に入れた。
   




 アルバムの初めのページは、集合写真の桜が散った後にも、まだ幼い気持ちを咲かせ始めた自分がいる。その花は二年も経つとすっかり色づいて、千切れ落ちそうだった。
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