東京

「相変わらず暑い日が続くねぇ」
目の前のあなたはそう言って汗に濡れた首元をハンカチで拭った。そしてハンカチを丁寧にたたみ直してカバンの中にしまってから私に向かって投げキッスをした。相変わらずなのは私にとってレイちゃんだ。無意味に投げキッスをしてみたり、意味のある表情でおどけたことを言ってみたり。もうかれこれ6年くらいの付き合いになっていっときの私たちはこの世界のどんな恋人たちよりも恋人だった。ふれる、ふれられる。もとめる、もとめられる。ことばをかわす、ことばをかわされる。私たちが恋人じゃないのだとしたらじゃあ一体何をもって人は恋人になるのだろう。そう思う日がずっと続いていた。ずっと続くと思っていた。
最近の私たちはといえば程よい距離感の渦中にいる。私とレイちゃんを取り巻くすべてのものが渦巻いていてその中に私が居て、レイちゃんが居て、お互いにときどきその渦をひょこっと飛び出してみたりして、でもそのうちいつか帰ってくる。そんな感じのふたりだった。何もかもを見つめ合っていたあの頃を恋人とするならば、お互い空とか星を見ることができるようになった今も今で私は恋人だと思っている。レイちゃんは大人になった。それは時の流れがそうしたのではなくて、例えるなら羽化のようだった。何が変わったのかと聞かれても何が変わったのか私にも分からない。けれどレイちゃんは大人になった。でも、それは私も同じことだと思った。でも羽化したわけでもなければ孵化したわけでもない。私の場合は信号が赤から青に変わった。そんな感じがする。
「めんちゃん、最近どう?」
「最近……あ、与田さんとタイに行ってきたよ」
「プライベートで!?」
「いや乃木坂の企画で」
「そうなんだ、タイか〜行ってみたいな」
「スイスにも行ったよ」
「え、乃木坂で?」
「いやそっちはプライベート」
「いいな〜、え、居た?ハイジ」
「ふふふ、居ないよ」
「スイスってハイジだよね?」
「そうなの?」
「いや、分かんない」
「なにそれ〜」
昨日の土砂降りが嘘みたいに今日は快晴でレイちゃんは明日めんちゃんに会える日だから晴れろ!って思いながら寝たんだよ!と教えてくれた。だからこんなにも晴れたのは当たり前のことだと思っている。だってレイちゃんが願ったのだからそうなるのは当然のことだ。でもあまりにもレイちゃんの力が強くて汗ばむくらい暑くなってしまったのは計算違いだった。
「これで今年のかき氷納めになるのかなぁ」
「今年私めっちゃ久しぶりに地元のお祭りに行ったよ!乃木坂卒業して時間ができて行ったんだけど屋台で食べるかき氷もやっぱりきちんと美味しいんだよね」
「いいなー、私全然地元帰れてないや」
「たまにはゆっくり帰りなよ」
「うん、そうする」
そんな会話を交わしたところでレイちゃんが食べ終えたかき氷の器を持っていたカメラでパシャリと撮った。
「これね、フィルムカメラなんだよ、友達があげるって言ってきたから貰ったの!」
「えーじゃ今度はカメラの旅しようよ」
「したい!」
そう言ってレイちゃんはおもむろに私にカメラを向けた。ファインダーを覗き込むその姿はさながらカメラマンのそれだった。撮ってくれるものだと思いそれなりにポーズを決める。するとレイちゃんはカメラを構えてファインダーを覗き込んだまま話始めた。
「……私がね、乃木坂卒業しようと思ってるって最初に言ったとき、あんなに泣いてくれるって思ってなかったんだ」
私はポーズを解放してレイちゃんの向けるカメラのレンズをじっと見つめたまま話に応じた。
「そりゃあ、泣くよ。だってレイちゃんだもん」
「私が居なくなってこの子、大丈夫かなぁって気持ちが三割とこの子が強くなる為にも私は卒業するんだって気持ちが三割、あぁ、卒業なんて全部なかったことにしようかなって気持ちがあとの四割だった」
「どこにも行かないでほしかったよ。ずっと、ずっと一緒に居られるものだって言い聞かせてた自分が居たからさ、なんか未だにどっかにレイちゃんを探してる自分が居る気がする」
「私の居ない乃木坂はどう?」
「……東京の街みたい」
「そっか」
そう言ってレイちゃんはシャッターを切った。きっと今の私はうまく笑うことができていなかったと思う。でもレイちゃんは可愛いと言ってくれた。涙になりきらないこの悲しくて寂しい気持ちをなんと呼ぶんだろう。笑顔になりきらないこの嬉しくて楽しい気持ちをなんと呼ぶんだろう。
「じゃあ、またね」
「うん、またね」
「……あのね、めんちゃん」
「うん?」
「私はまだ恋人だと思ってる」
「……っ、そっか」
レイちゃんは小田急多摩線に乗ってここから少し離れたところへ帰っていく。私は手を振り続けた。見えなくなっても手を振り続けた。
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