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はっと目を覚まし、上半身を起こしてみるとずん、と頭が重くなる。いやな気分だ。気持ちを切り替えるように、薬研は後ろに手を組んでぐいと伸びをする。ここのところ、同じ夢ばかり見ている。そこは何もない真っ白な空間で、地面すらあるのかないのかよくわからない場所に薬研は居る。もしかしたら在る、というほうが近いのかもしれない。薬研がそこでぼんやりしていると、突如としてもう一振りの薬研藤四郎が目の前に現れる。そいつを見ているとなんだかじっとしている気分ではいられなくなって、たまらず手を伸ばして触れんとすると、視界が真っ暗闇に覆われて目が覚める。なんてことない夢だが、きまってその夢から目覚めるたび頭痛に襲われたり、軽い眩暈を起こしたり、必ず不快な症状がおまけで付いてくるのだ。それだけではない、その夢を見た日は始終ぼんやりとしてしまう。ふだんなら反応できる速さの攻撃も、うっかり見逃して軽傷を負うこともしばしばあった。いつ大きな怪我につながるとも限らないし、仲間の足を引っ張るようなみっともない真似はしたくない。さて、どうしたものか。カミツレを煎じた茶を床につく前に飲んでみたり、疲れ切っていれば深く眠れるだろうと期待し鍛錬の時間を増やしてみたり、薬研なりに工夫してみたものの、あまり効果は感じられなかった。
ヒトの身体は難儀だねえ、と半ばあきれながらも、戦に支障をきたしていては刀の本懐を遂げられない。早いとこどうにかしなくちゃならねえなあ。これが薬研藤四郎の目下の悩みであった。
「ふわぁ……おはよう薬研。ぼーっとして、どうしたの」
「ん、おはよう乱。まだ眠たくてな、ついうとうとしちまった。さっさと着替えて朝めし食いに行こうぜ」
隣で寝ていた乱も目を覚ましたようだ。他の兄弟たちとも口々に朝の挨拶を交わす。ただでさえ弟が多いんだ、自分がしっかりしていなければ面目が立たない。薬研はふう、と軽くため息をつき、てきぱきと着替えに取り掛かった。
「主どの、少しお時間を頂戴してもよろしいでしょうか」
この本丸の主である審神者に声をかけたのは一期一振だった。ふだんと変わりなく思えたが、その刀の切羽詰まった表情を見た瞬間、ただ事ではないと悟った審神者は自身の部屋に一期を招き入れた。
「人払いは済ませておいたから、話してごらんなさい」
審神者がそう言うと、一期はひと呼吸置いてから詳細を語り始めた。
「近ごろ、私 の弟──薬研の様子が少しおかしいのです。何と言いますか、ぼんやりとしているような気がしまして。大事には至っていませんが、出陣中の怪我も以前より多くなっているように感じます。何か理由があるのかと、それとなく聞き出そうとしてみても『何でもない』の一点張りで…。あの子は特に、私に対しては頑固なところがありますから。兄として情けない話ですが、こうしてご相談させていただいた限りです。主どのは何か、お気づきになられたことはありませんか」
「いや、こちらこそ恥ずかしながら心当たりがなくて申し訳ない。気をつけて見ておきます。……確かに、ここ数週間では手入れ部屋の利用履歴によく名前が残っていますね。いずれも軽傷か中傷だけれど、若干頻度が高いかもしれないな…」
ここの本丸では、各施設の利用履歴をデータとして管理している。そのため利用状況は審神者の手元にある端末にリアルタイムで反映されており、確認も容易になっている。スクリーンに映し出された利用履歴とにらめっこをしながら、審神者はここ最近の薬研の様子を思い返すが、特段変わったことはないように思った。しかし弟思いで理知的な性格の一期のことだ、何らかの変化があったことはきっと間違いないだろう。それが微々たるものだとしても。審神者は一期に向き直って再び口を開く。
「報告ありがとう、一期一振。また何かあれば、いつでも声をかけてください」
「こちらこそお忙しい中ありがとうございます。私の考えすぎかもしれません、つい弟に対しては過敏になってしまうもので…。悪い癖だ。それでは、失礼いたします」
一期は照れくさそうに微笑しながら、審神者に向かって軽く一礼する。
「思い違いならそれでよいのですよ、むしろ何かが起こってからでは遅いのですから。些細なことこそ教えてくれると助かります。それでは、また夕餉の時刻に」
一期が部屋から立ち去ると、審神者はぐったりと机に伏せる。不覚だった。実際、勘違いかもしれなくても、不穏な兆候を見逃してしまっていた可能性がある。主としてあってはならないことだ。いま一度気を引き締めなくては。審神者は自身を奮い立たせるようにえい、と声を出して椅子から立ちあがる。
季節は長かった冬を終え、春になろうとしていた。さまざまな生命が目覚めのときを迎え、やわらかな陽の光がまぶしい。これだけ心地よければ、ぼんやりしてしまうのも無理ないか。楽観的に思考する一方で、「万が一」の想像が頭から離れない。最悪の事態を想像して備えておくのも主のつとめだ、と審神者は自らの責務を確認するように小さくうなずいた。
*
真っ白な空間に、鏡写しの自分が正面に現れる。
あ、触れたい。近づきたい。もっとそばで顔を見たい。強烈な欲求に引き摺られるまま、薬研はそれに手を伸ばそうとする。すると、もう一振りの薬研がぱちりと目を開け、穴が開きそうなほどこちらを見つめる。こんなことは初めてだった。繰り返し同じ夢を見てきたけれど、夢の中のもう一振りはいつもかたく目を閉じて動かないままだった。そんな相手が自分を見ているのが、なんだか無性にうれしくてたまらなかった。濁流のように変化していく自分の感情が不思議で、薬研は戸惑っていた。夢の中といえども、もう少し理由が必要だろう、自分自身を見て喜ぶだなんておかしな話だ。しかしその感情に偽りはない。腹の底から湧き上がってくる衝動に耐えきれず、ひとたび下ろしていた手をもう一度そいつの方に伸ばそうとする。するともう一振りの薬研は口を開き、何か言葉を発しようとした。薬研は終 ぞその言葉を聞き届けることはなかった。再び、視界が暗転し現実の世界で目覚めることになったからだ。
「………」
夢の続きだ、これは。全く同じ展開の、全く同じ夢だったのに。背中がじっとりと汗ばんでいる。いつものように頭痛などの不快な症状こそないけれど、鮮明すぎて気味が悪かった。脈も速くなっている。全速力で駆け抜けた後のように、どくんどくんと心臓が脈打つ。あいつは何なんだ?なぜ、あいつが目覚めたら俺はうれしいんだ?たかが夢に、どうしてこんなに心を乱されるんだ?布団の上で呆然としていると、すでに起床していた一期がそばに寄ってきていきなり顔を覗き込んできた。ひたり、と大きな掌が額に当てられる。熱はなさそうだな、とほとんど独り言のようにつぶやいてから、一期は薬研の目を見据えて言った。
「今日は休みなさい。主には私から伝えておくから」
有無を言わせぬ口調と眼力に、薬研は思わずひるんでしまった。こういうときのいち兄には逆らえないんだよな、絶対。薬研は早々に観念してわかった、とだけ答えて布団に潜り込んだ。薬研兄さん、体調悪いんですか?うん、少し疲れているようだから、寝かせておいてやりなさい。心配そうな平野に一期が先ほどとは打って変わって落ち着いた口調で答える。参ったな、こりゃ。口を割るまで逃げられないぞ。薄々わかっちゃいたものの、やはり一期にはお見通しだったようだ。説教という名の尋問が確実に行われるであろうことを予感して、薬研はげんなりすると同時にほんの少しほっとした気分になるのだった。
一期から薬研への尋問、もとい話し合いは休息を厳命されてから数日後に行われた。その間も、馬当番や畑当番など本丸内での仕事は許可されていたものの、出陣や手合わせは一期の一存によって禁止されていた。夜間こっそり行っていた単独での鍛錬は見逃されたようだったが。話し合いには審神者も参加した。審神者自身が薬研を気にかけているという理由もあったが、一期のそれとない質問をのらりくらりと躱し続ける薬研の逃げ道を封じる意図もあった。主にまで出てこられては、薬研も本当のことを話すほかない。一期の策が功を奏し、薬研はぽつりぽつりと例の夢について話し始めた。
「…最近、妙な夢を見るんだ。はじめは何にもない空間に俺だけがいるんだが、突然目の前にもうひとりの俺が現れる。そいつを見ると俺はなんだか居ても立っても居られない気分になって、そいつに触れようと手を伸ばすんだ。そうすると目の前が真っ暗になって目が覚めちまう。それだけならまだしも、その夢を見た朝は軽い頭痛やめまいをきまって起こす。それから、その日はずっと頭がぼんやりしてるんだ。集中しようとしても気がついたら心ここに在らず、っていう感じで、戦闘中にもミスが重なりやすい。見事に隠しおおせているつもりだったんだが……まあ、このざまだ。よく眠れるように小細工かけたり色々やってたんだがなあ、よくなるどころか悪化している気さえするよ」
「そうか……。その夢に心当たりはないんだな?悪化した、というのはどういうことか、詳しく聞かせてもらえるかな」
「ああ。どうしてそんな夢を見るのか、なぜ調子が悪くなるのかもさっぱりわからん。悪化したのは、その夢に続きが出てくるようになってから──いち兄に休めって言われた日のことだな。今までは目の前にいるもうひとりの俺は目を閉じて眠っているようで、ぴくりとも動かなかった。でも、その日を境に目を覚まして俺をじっと見つめるようになった。そいつに見つめられているうちに俺は、なんだか無性にうれしくなってきて、同じように手を伸ばして触れようとするんだが、またそこで視界が真っ暗になって目が覚める。雨戸を締め切って、部屋中の灯りを全部消したときみたいな暗さだ。だからびっくりするんだよ。月明かりのない夜ですら、これほど真っ暗になることはないからな。まさに漆黒と呼ぶべき闇の深さだ」
薬研の話を一通り聞いたはよいが、どうすれば解決の糸口が見えてくるのか一期たちにもまるでわからなかった。たしかに、他人に話すのを憚られるのも理解できる。重苦しい空気になりかけたところで、審神者が口を開いた。
「何か悪いものに憑かれているのかもしれません。……一度、石切丸に祓ってもらえば、どうにかならないだろうか……」
「確かに、その可能性もありますな。とりあえず、彼に頼んでみましょうか」
「うーん……そいつ自体、悪そうな感じはしないんだがなあ。むしろ夢の中では、そいつに対して妙に惹かれるというか……いや、それ自体おかしなことかもしれない。俺っちも賛成だ。心配かけてすまない、いち兄、大将。やれるだけのことはやろうと思う」
薬研はきっぱりと言い切って、そうと決まれば石切丸を探しに行こうぜ、と立ち上がった。ふたりも薬研の後を追う。これで解決すればよいのだけれど。弟の身を案じて気が気でない一期は不安にかられながらそう思った。
「…だめだった」
「そうか………」
薬研は気まずそうな表情を浮かべ、一期はがっくりと肩を落としている。話し合いの後、すぐに石切丸をつかまえてこれまでの経緯を伝えたところ、不浄の気は感じられないけれど、とりあえず祓ってみると快く承諾してくれた。その日のうちにお祓いの儀式をしてもらったのだが、空いている広間で行ったため、なんだなんだとギャラリーが増えていきついには本丸の全員がおおよその事情を知ることとなったのだった。薬研はというと、とくに隠すことでもないが、皆に心配をかけてしまったのは失敗だったかもしれない、と思っていた。
「薬研兄さん、また怖い夢を見てしまったんですか……?うぅ……怖いのは、いやですよね……」
「大丈夫だ、ごこ。多少夢見が悪くたって俺っちは平気さ。心配すんな」
「そうだよ、薬研は心霊現象のテレビ見た後だってすぐにグースカ寝てるんだから!ボクなんて、なかなか寝付けないし一人でトイレに行くのが怖くて薬研についてきてもらおうと思ったのに、ぜんっぜん起きてくれなかったんだよ!代わりに厚についてきてもらったけど」
「あんときの乱、ビビりすぎて俺の手首をものすごい力で握るもんだから翌朝アザになってたよ。まったくどっちが怖いんだか」
「厚のバカッ!仕方ないじゃん!」
「ひうっ……心霊現象……!ひっく、また怖いの思い出しちゃいましたぁ……」
「ご、ごめんねごこ!もう、みんなが怖い話するから〜っ」
「いや今のは乱が悪いだろ」
やいのやいのと騒ぎ出した兄弟たちを見て、薬研はほっとした。乱はなんだかんだで察しが良くて、こうして場の雰囲気を一瞬にして変えてくれることがある。もっとも、本刀 はどこ吹く風で礼を述べても『何のこと?ボク忘れちゃった!いつの話かわかんない〜』となどとはぐらかされるのが常だ。そういうところも含めて、本当にいい奴なんだよなあ。まあ、嵐のように暴走するのに巻き込まれたときにはひとたまりもないのだけれど。
「しっかし、戦に出られないのは参ったなあ」
自分にだけ聞こえるくらいの大きさで、薬研はぽそりとつぶやいた。一期が過保護なのかもしれないが、調子が悪いことも事実だ。他の誰かが自分のせいで傷つくことになったら、と考えるだけでぞっとする。まあ、気長にやっていくしかないか。こんなふうに薬研も、また本丸の皆も、この問題をある種気楽に捉えていたのはそのときまでだった。
朝になっても薬研は目を覚まさない。肩を叩いても強くゆすっても、まるで起きる気配がない。一度深く眠りにつくとなかなか目覚めない質 ではあるが、いくらなんでもこれは異常だ。むしろ、朝になれば決まった時刻に起床してわれ先にと食堂へ向かっていくというのに。鯰尾が薬研の背中側にまわり、脇の下から腕を差し込んで身体を縦に起こすように持ち上げても効果なし。きちんと呼吸はしているし、脈拍も正常だ。「ただ眠っているだけ」、しかしこれは昏睡状態に陥っているのではないか。すぐに政府に連絡すべきだ、という意見が出たが、もしこのまま目覚めずにいれば最悪の場合、刀解の命が下されるのではないか、という懸念もあった。ならばいっそのこと政府には報告せず、自然に目覚めるのを待つべきなのか。審神者の決定は、「明日の朝8時までに目覚めない場合、またそれ以前でも容体が急変して生死にかかわる状態であると判断した時点で政府に報告する」というものだった。霊力不足で昏倒している可能性も考慮し、薬研は手入れ部屋に審神者と見張り番の数名で籠ることになった。薬研はおだやかに眠っているかと思えば、いきなり眉間に皺を寄せて苦しそうな表情になったり、笑顔すら見せたりと、夢を見ているようだった。夢の中に出てくる、もう一振りの薬研藤四郎とは何者なのだろうか?薬研が顕現した当初から見守ってきた審神者ですら、まるで見当がつかなかった。この本丸で同じ刀は一振りしか存在させていない。戦力に困っているわけでもないし、最近ではむしろ大所帯と呼べるほど賑わってきた。既知の刀が顕現した場合、刀解か錬結、または習合される決まりになっている。演練相手とも、審神者同士の交流はあるものの、刀剣男士たちが直接深い関わりをもつ機会はめったにない。少なくとも薬研からはそのような話を聞いたことはなかった。もっとも、心当たりがあれば話し合いの時点で告白していただろう。日が暮れても、薬研はこんこんと眠り続けたままだった。霊力はじゅうぶんに送っているはずだ。わざわざ夕餉を手入れ部屋まで運んできてくれた歌仙が、廊下からも物凄い力を感じるから何事かと思ったよ、主の霊力がこの部屋に充ちているからだったのだね、と驚いたように言っていたからだ。見張り役が交替するときも皆一様に同じことを口にするので、少しやりすぎなくらいのはずなのだ。それなのに。
「どうして、目覚めないのだろう……」
ぽつりとこぼした後で審神者ははっとした。憔悴しきった一期がぴく、と反応する。一期は見張り役の中で唯一交替せず、薬研が手入れ部屋に運ばれた朝からずっと審神者とこの部屋に閉じこもっていた。
昏睡している薬研をじっと見つめている様子も見ていられなかったが、かといって一度休みなさいと追い出すのも酷かと思い、いっそ寝落ちしてしまうのを待っていればよいと思っていた。
「なぜ、でしょうな……」
かすれた声で一期は答える。ああ、やってしまった。彼の心を無用に引っ掻き回してしまった、と審神者はひどく後悔した。すると、この時間の見張り役として部屋の中にいた陸奥守が静かに口を開いた。
「薬研、よおく寝とるのう。みいんな心配しちゅうき、はようおどろきな。兄さんの胃に穴空く前に、起きんといけんぜよ。なあ、一期どの」
「…ええ、そうですな。ありがとうございます、陸奥守どの。本当に、よく寝ている……」
陸奥守の言葉で、一期も審神者も、沈んだ心が少しだけ軽くなった気がした。眠っているだけなら、きっといつか目覚めてくれる。そう信じて待つしかなかった。これほど心細くて不安な夜を迎えるのは、本丸結成時以来初めてだ、と審神者は思った。
*
ここは時の政府。時間遡行軍に対抗するべく、「もの」の力を励起させる者・審神者の力でもって刀剣男士を顕現させ、それによって生まれた数多の本丸を管轄する場所である。刀剣男士は通常、政府内で極秘に行っている顕現実験を経て、各本丸で顕現させられるよう手筈をととのえることになっている。顕現実験では、政府直属の審神者が新しい刀剣男士をよびだすにあたって、「本歌」の顕現前に「プロトタイプ」とみなされる個体がよびだされる場合が少なくない。刀剣男士としての資質に欠けると判断された個体――それ以前に、意思疎通が不可能である個体すら存在する。ヒトのように思考し、ヒトのように「生きる」ことができるのが、政府の定義した自律型決戦兵器の最低条件である。戦争の為の道具であるならば、知性までもを与える必要性は薄いのではないか。そう主張する派閥は政府内にも存在した。しかし、政府は最終的に、単 な る 兵 器 にロマンチシズムを持ち込んだ。なぜか?
それは自律型決戦兵器の触媒である、わが国に於ける日本刀の美しさに心酔した人間が、大多数を占めたからである。さらにいえば、はじめて顕現実験が成功した日、はじめて「刀剣男士」を目にした人間に、その存在のきらめきに圧倒されない者は一人としていなかっただろう。美しさとは理性でもって受け止められる。しかし、その美しさは理性を手放させる効果を同時にもっている。己の中の正しさを歪め、欲望にあっけなく敗北した者たちが、次々に刀剣男士を誕生させていった。まだ足りない、もっとだ、より多くの刀剣男士を顕現させなければ。手段と目的、その二項のあるべき位置はすでに入れ替わっていた。
刀剣男士の顕現実験が活発になればなるほど、「不完全な」個体がよびだされる回数も当然増加する。「プロトタイプ」もすぐに処理してしまうのではなく、貴重な実験結果として詳細に記録されてから、刀解を行う決まりである。刀解後わずかに残る資源は、正規の刀剣男士として承認された個体のものであればそのまま再利用されるが、プロトタイプの場合は万が一に備えて完全廃棄されることになっていた。実際、プロトタイプと「本歌」は親和性が高く、審神者が手順を踏んでいなくても勝手に習合されてしまう事故が政府内で起こっている。本歌とプロトタイプが習合した個体は、意識が混濁し昏睡状態に陥ったのち、自我崩壊を起こしたとみられている。
しかし、あるとき手違いでプロトタイプの刀解後に残った資源が、各本丸への配布用に回されてしまった。発覚時にはすでに配布が完了しており、どの本丸に配布されたかもわからない状態になってしまっていた。資源が審神者によって消費され、さらに顕現した刀剣男士を特定の刀に錬結、習合する可能性は決して高いとはいえず、さらに異常をきたすとも限らない。政府は一連の事実を隠蔽した。
しかし今朝方、本丸に所属する刀剣男士が一昨日の夜に就寝してから現在まで目覚めず、昏睡状態に陥っているとみられるとの報告があった。その刀剣男士は、刀解後の資源を誤って配布用に再利用したプロトタイプと同じ、薬研藤四郎だった。政府の隠蔽体質が引き起こしたヒューマンエラーだった。
*
また同じ夢だ。薬研はとうとう、夢の中ですぐに夢だとわかるようになっていた。さて、あいつのお出ましか。そう思った瞬間、目の前にもう一振りの薬研藤四郎が現れた。今までとは違って、明らかに目覚めている様子だ。それどころか、なんとも言えない表情でこちらに手を伸ばそうとする。恍惚としているような、悲しみを感じるような、それでいてかすかに怒りすら隠れているような。これは、今までの俺だ。じゃあ、今の俺はなんなんだ?目の前の相手を斬るべきかどうか迷いながら、そっと柄に手を触れる。薬研はふと、違和感に気づいた。手袋がない。ふだん肌身離さず身に着けている黒い革の手袋はなく、素手で柄を握っていた。その瞬間、柄がひとの手の形に変化して、気づけば目の前のもう一振りと手を繋ぐかたちになっていた。繋いだ手はバチバチと火花を散らし白く光っている。みるみるうちに手と手の境界が埋まっていき、肌がかさなっていく。あつい。とける。この温度を薬研は知っていた。他の刀と合わさるときの感覚、錬結、いや習合か!いつまでもこれだけは慣れなくて、思わず大将を呼んでしまう、この燃えるような身体の熱さ!おいやめろ、勝手に俺に入ってくるな、お前は誰だ!薬研はそう叫んだつもりだったが、まばゆい光に包まれて、絶叫はかき消された。
羨ましかった。名前があるってことが。俺は不良品だ。欠陥品だ。どうしたって届かない、本物にはかなわない。お前は誰だ、なんて問いかけは傲慢にもほどがある。俺は記号でしか呼ばれたことがない、それも余計なものが頭に付いている。49番になれなかった俺の忌まわしい呼び名。Prototype2-49、それが俺のすべてを表す記号だ。
突然自分の声が頭の中で鳴り響く。こいつは俺であって、俺じゃない。でも、同じ身体になってしまった以上、切り離せない相手。
「ぷろと、たいぷつー、と呼べばいいか」
『プロトタイプでいい。そもそも、今の俺はお前にしか認識できないから、呼び名はいらないと思うが』
「わかったよ、プロトタイプ。目的は何だ?」
『お前を折って俺がお前として生きることだ』
「そりゃまた、えらいことを考えるなあ。俺が折れたら、お前だって折れてしまうだろう」
『ああ、肉体を殺せばそうなるだろうな。そうじゃなくて、お前の精神だけを潰してやるつもりだ』
「そんなこと可能なのか?現に俺は、生きてる」
『……わからない。でも、こうして俺の意識が存在している以上、お前の身体を操ることだってきっとできる。今は眠ってるがな』
薬研は好戦的な相手にあきれ半分、やる気半分といったところだった。依然として夢の世界からは抜け出せていない。ずいぶん長い夢だ、どのくらい眠っているのだろうか。皆を心配させるほどの時間、目覚めていないままだったらどうしよう。
「とりあえず、俺っちの肉体を目覚めさせなければ、お前にとっても良い状況とはいえないだろう?ここは一つ、共同作業っていうわけにはいかないだろうか」
プロトタイプは少し考えるような間の後、確かにそうだな、と不服そうにつぶやいた。薬研は早速、どうやったら目覚められるんだ?と問いかけた。
『……それは俺にもわからない。むしろ、今この身体の主導権を握っているのはお前だから、お前が何とかするしかない』
「まったく……仕方ないやつだな、他人の夢の中に入り込んでまでこのありさまかよ」
『俺だって気づいたらこうなってたんだ!刀解されて、もう終わりかと思ってたら、別のやつの身体の中にいたんだ。お前が眠ってる間だったら自由に動けることに気づいて、夢の中でどうにかしようと色々やってた。現に、一瞬だけならお前の意識を乗っ取ることができた』
「それって……あのときか?俺が眠っているお前に手を伸ばそうとしていたときか?あのとき、俺はお前の中にいた気がするんだ」
『おそらくそうだ。あの瞬間俺はお前に、"薬研藤四郎"になれたのに、……クソッ、試作品にそんな権利はないってか!』
プロトタイプが激昂し始めて、薬研は面食らった。なんとか詳細を聞き出そうと、薬研はできるのけゆっくりと、穏やかな口調を意識して己の中の存在に問う。
「その"試作品"ってのは、どういう意味なんだ?さっきも欠陥品だとか、お前の呼び名…プロトタイプっていうのは、どんな意味があるんだ?よかったら、教えてくれないか」
『そのままの意味だ。……俺は、刀剣男士としての薬研藤四郎の試作品 だ。薬研藤四郎が顕現する前の、刀剣男士として不適格だと判断された個体。はじめから欠陥があるんだよ。だから、すぐに刀解されて、戦に出ることもなく……何でこんなことをお前に話さなくちゃならないんだ、俺は!……俺は……誰からも望まれなかった存在なんだ……』
「泣いてるのか、お前」
『うるさい!わかるはずないよな、刀剣男士サマにはさ。こんなみじめったらしい気持ち、わかってたまるかよ!お前はッ、皆に、人間に望まれてるんだ、この世に存在することを認められてはじめて、刀としての生を受けられるんだ……!』
それはモノだろうがヒトだろうが変わらないことだ、「刀剣男士」なんていうどっちつかずの曖昧な存在は特にそうだ。そのようなことを、プロトタイプはつっかえつっかえ、何度もしゃくり上げながら叫んだ。薬研はその様子を見て、この本丸に来てからのできごとを思い出していた。本丸の仲間たちにも、似たような命題を抱え苦しんでいた者がいる。自分の気持ちなんて誰にも理解されないと、泣きじゃくっていた者がいる。想像することすら困難な場所にそれぞれが立っている。でも、誰かとともに生きることで、自分なりの回答が見つかったり新しい生き方を選んだりして、強かさを手に入れていくのを薬研は見ていた。薬研だって、本丸で過ごしていくうちに少しずつ変化してきた。
もし、こいつの仲間になることができたなら。俺が、こいつの存在を認めてやれたなら。傲慢も甚だしい考えだが、薬研の心はもう決まっていた。
「俺と一緒に生きてみるのは嫌か?対立してどちらかを滅ぼすんじゃなく、共存するんだ。そうすれば、お前さんの心も少しは晴れるかもしれない」
プロトタイプ、薬研藤四郎が打たれる前に存在した刀は、一瞬の沈黙のあと涙声で「何言ってやがる、この野郎」と毒づいた。薬研はその反応を見てけらけらと声を上げて笑った。
『何がおかしいんだ。お前、俺と習合したせいで気まで狂ったのか』
「いや、かわいいやつだと思ってさ。案外、悪くない同居人かもな」
『ふざけた野郎だな。……もし俺が裏切ったらどうする?お前の主に刃を向けるようなことがあったら、お前はどうする?』
「そんときゃ全力で阻止するぜ。俺とお前はもはや一蓮托生だからな、俺の肉体が滅べばお前も一緒におさらばだ」
『……そこまでして、なぜ俺を生かそうとするんだ。爆弾抱えるようなもんだろう』
薬研はうーん、と小首をかしげてから、再び言葉を続ける。
「お前が悪いやつじゃなさそうだから、かな。だいいち、お前を俺から追い出すのは骨が折れそうだ」
薬研がいたずらっぽく言うと、新たな同居人はなんだか全てがどうでもいい気分になってきて、脱力してしまった。その瞬間から意識が遠のいていくような気がして思わずまずいな、と口にしていた。どうした、と薬研が問いかけると、プロトタイプはなんだか重たくなった感じがする、今にも意識が飛びそうだ、と必死にうったえた。薬研はひとつの仮説に思い当たった。
「お前、疲れてるんじゃないのか?連日俺の夢の中に現れて、限界が来てるんだよ。もしかして顕現してから今まで、眠るってことを知らなかったのか?」
『眠る……それは人間のすることだろう。俺たちはものなんだから、そんなことは必要ないはずだ』
「ところがな、刀剣男士になった今は必要不可欠なんだ。お前さんは意識だけの存在かもしれないが、その様子を見るにどうやら一度眠ったほうがよさそうだぞ」
そもそも俺は今眠っているだろう、もう忘れちまったか?うっかりしてるなあ、お前。ふぁーあ、身体は眠っているとはいえ、夢の中ではずっと起きていたから、俺も一度寝なくちゃなんねえかもな。おやすみ、プロトタイプ。薬研の声を聞きながら、プロトタイプはゆるやかに意識を手放した。
*
審神者が取り決めた時間まで、薬研は目覚めないままだった。気は進まないが致し方ない、政府に直接連絡を入れるとすぐに担当者を向かわせるとのことだった。また、政府内でも調査を開始するため、原因を把握でき次第報告するとも伝えられた。ほどなくして担当者が到着し、薬研は集中治療室行きを余儀なくされ、そのまま専用施設に搬送された。薬研には審神者と骨喰が付き添った。一期も付き添うと言って聞かなかったが、政府の担当者が今すぐ除名処分を行うことはない、調査が完了するまで該当の刀剣男士の安全は保障するという旨の説明を根気よく続けた甲斐あって本丸に残ることを了承してくれた。一晩中薬研の様子を見守っていて、精神的な消耗が激しかった一期は、ふらふらと粟田口の部屋に戻ってから倒れるように眠りに落ちた。不安がる短刀たちをなだめる役目は主に鯰尾と、面倒見のよい他の刀派の刀たちが引き受けた。精密検査の結果と政府内の調査結果を総合して、審神者に伝えられた内容は「異物混入による、意識混濁と昏睡状態」というものだった。「異物」がどのようなものなのか、どこから薬研の身体に入り込んだのかは調査中のため現在は回答しかねる、とのことだった。
政府の曖昧な説明に、審神者は苛立ちが抑えられずにいた。このまま薬研が目覚めなかったらどうしてくれようか、まだ調査が始まったばかりとはいえあまりに情報が少なすぎる。今のところできる処置は全て行ったとのことで、薬研が自然に目覚めるのを待つしかないという状況だ。そんな審神者を見て骨喰は、そっと審神者の背中に手を添えて語りかける。
「主、大丈夫だ。薬研は強い刀だ。俺はあいつの強さを知ってる、いつか必ず目を覚ます。だから、信じて待とう」
骨喰の言葉に、審神者は喉の奥がぐっと締め付けられるような感覚を覚えた。嗚咽が漏れる。骨喰は審神者の背中をさすり、大丈夫だ。少し眠った方がいい。俺が起きているから、主は寝ていてかまわない、と声をかけた。骨喰の言葉に甘え、審神者は少しだけなら、と眼を閉じた。
なにやら周りが騒がしい。ぼんやりとした意識のまま審神者がゆっくりと眼を開けると、骨喰の顔が目の前にあった。
「主、起きろ!薬研が目を覚ましたそうだ」
骨喰の声にはっとして、審神者は腰掛けていたソファから立ち上がった。薬研は集中治療室から別の病室に移されたそうだ。意識もはっきりしていて、本刀 はこのまま歩いて帰れるとまで言っているそうだ。審神者は骨喰と一緒に、案内のスタッフに足早についていった。
病室の扉をスタッフが開けると、白いベッドの上で座っている薬研の姿が審神者の目に飛び込んできた。薬研!と思わず叫ぶように呼びかけると、薬研は片手を上げてよう、大将。心配かけてすまなかったな、と返事をした。審神者は薬研の両手を握り、本当によかった、と繰り返しつぶやいて、握ったままの両手を額までもっていきうつむきながら嗚咽した。骨喰も薬研の肩を抱き寄せぎゅっと目をつむり、声を震わせながら薬研の名を呼んだ。ふたりが落ち着いた後、薬研は夢の中でのできごとを事細かに説明した。
「まあ、そういうわけだ。もし、こいつが暴走して手に負えなくなったら、俺もろとも斬ってくれ」
薬研は骨喰をまっすぐに見て、静かな口調で言った。骨喰も無言でうなずく。「プロトタイプ」は現在眠っていて会話をすることはできないそうだ。「異物」の正体を知った審神者は、もしかしたら薬研の身元は政府に引き取られてしまうのでは、と懸念したが、それは杞憂に終わる。政府が手配した車で、薬研は審神者と骨喰とともに本丸へ戻ることになった。奇妙なほどあっさりとした幕引きだった。
辺りはとっぷりと暗くなっており、本丸に近づくにつれ道が険しくなっていく。山奥にひっそりと建てられた大きな屋敷が、今の彼らの帰るべき場所なのだ。街灯のない道なき道はヘッドライトが眩しすぎると感じるほどだ。車は本丸の手前で止まった。送迎手に礼を述べ、車が走り去る音を聞きながら本丸へと向かう。すでに帰りを察知した刀たちが玄関から飛び出してこちらに向かってくる。えらいことをしでかしちまったな、俺は。皆に心配をかけてしまって、申し訳ないったらありゃしねえ、困り果てたように薬研が言う。皆に愛されている証拠ですよ、あなたに非はないのですから堂々と帰ればよいのです。そうでしょう、骨喰?ああ、そうだ。皆お前の帰りを待っていた。元気な姿を見せてやればいい。審神者と骨喰の言葉をありがたく思いつつ、薬研はなんだか面映ゆい気分になった。そしてうんと息を吸い込み、帰ったぜー、皆すまなかったなー!と声を張り上げた。心地よい春の夜だった。
epilogue.
一連の騒動が収束した後、薬研は一期と対峙することになった。薬研が、というよりかは、もうひとりが、だが。一期はこほんと咳払いをして、鋭い眼光を浴びせかけながら口を開いた。
「ぷろとたいぷどの。私の弟を危険な目に遭わせたこと、どうお考えですかな?」
「それは……すまなかった。謝って済むことではないが、このとおりだ。本当に申し訳ない」
「無事で済んで何よりですな。さて、今後はこのようなことを起こさぬよう、私と約束していただきたい。よろしいですかな」
「はい」
「では、この書類に目を通していただき、署名と判を。……血判でなくてよろしいですよ、こちらの朱肉をお使いいただければ」
(おい、お前字書けるか。というかそもそも名前がないんだよな、一旦代わってくれ)
「わかった。……えー、薬研藤四郎です。ただいま戻りました。こいつ、そもそも名前がないんだよ。政府では番号で呼ばれてたみたいなんだ。字は書けるのか?そうか、そうだよな。読めはするみたいなんだが、書くのは難しいってさ。今は俺が代筆するってことで構わないか、いち兄?」
「ああ、そういうことなら。しかし、名前がないとなると不便だな……。ぷろとたいぷどの、希望する呼び名はありますかな?」
(呼び名か……すまない、すぐには思いつかない)
「うーん……じゃあ、ハルってのはどうだ?ちょうど春にやってきたからな」
(ハル……悪くないな。しかしちょっと安直すぎやしないか)
「お前、いち兄の前で……ン゛ッンン、なんでもないぜ。ハルでいいってさ。じゃあ、お前の名前、ここに書くぜ」
薬研は片仮名で「ハル」と署名をした。拇印をするときだけは、ハルに身体を明渡した。意識の切り替えもスムーズになってきた。基本的には今まで通り、この身体の所有者である薬研が主体となっているが、ハルが直接話すべき場面では、先ほどのように意識の切り替えを行う。これは二者間での取り決めで、一期は関与していない。
「契約成立ですな。のちほどこぴーしたものをお渡しします。薬研が管理することになると思いますが……薬研、最近また私物が散らかっているよ。あとで片付けておきなさい」
「はいよ。ハル、他に伝えておきたいことはあるか?」
とくにない、とハルは答えた。続けて、名前つけてくれて、どうも。とそっけなく言った。薬研はくすくすと笑った。なんだ、やっぱりかわいいじゃないか。するとハルの意識が唐突に途切れる。ふて寝でも始めたか。
「とくにない、ってさ。いち兄のおかげかもな、こんな紙まで持ち出してこなきゃ、お前ずっとプロトタイプって呼ばれてたかもしれないぞ」
「はっはっは、礼には及びませぬぞ。名付けたのは薬研ですからな」
(別に、それでよかったし。名前なんてあったって……)
ハル。単純だが、よい名だと思った。それを伝えるには、まだ少しだけ時間がかかりそうだけれど。薬研藤四郎にはなれない。でも、他のなにかにならなれるのかもしれない。ハルは生まれてはじめてそう思った。
fin.
P2-49
Prototype2-49
ヒトの身体は難儀だねえ、と半ばあきれながらも、戦に支障をきたしていては刀の本懐を遂げられない。早いとこどうにかしなくちゃならねえなあ。これが薬研藤四郎の目下の悩みであった。
「ふわぁ……おはよう薬研。ぼーっとして、どうしたの」
「ん、おはよう乱。まだ眠たくてな、ついうとうとしちまった。さっさと着替えて朝めし食いに行こうぜ」
隣で寝ていた乱も目を覚ましたようだ。他の兄弟たちとも口々に朝の挨拶を交わす。ただでさえ弟が多いんだ、自分がしっかりしていなければ面目が立たない。薬研はふう、と軽くため息をつき、てきぱきと着替えに取り掛かった。
「主どの、少しお時間を頂戴してもよろしいでしょうか」
この本丸の主である審神者に声をかけたのは一期一振だった。ふだんと変わりなく思えたが、その刀の切羽詰まった表情を見た瞬間、ただ事ではないと悟った審神者は自身の部屋に一期を招き入れた。
「人払いは済ませておいたから、話してごらんなさい」
審神者がそう言うと、一期はひと呼吸置いてから詳細を語り始めた。
「近ごろ、
「いや、こちらこそ恥ずかしながら心当たりがなくて申し訳ない。気をつけて見ておきます。……確かに、ここ数週間では手入れ部屋の利用履歴によく名前が残っていますね。いずれも軽傷か中傷だけれど、若干頻度が高いかもしれないな…」
ここの本丸では、各施設の利用履歴をデータとして管理している。そのため利用状況は審神者の手元にある端末にリアルタイムで反映されており、確認も容易になっている。スクリーンに映し出された利用履歴とにらめっこをしながら、審神者はここ最近の薬研の様子を思い返すが、特段変わったことはないように思った。しかし弟思いで理知的な性格の一期のことだ、何らかの変化があったことはきっと間違いないだろう。それが微々たるものだとしても。審神者は一期に向き直って再び口を開く。
「報告ありがとう、一期一振。また何かあれば、いつでも声をかけてください」
「こちらこそお忙しい中ありがとうございます。私の考えすぎかもしれません、つい弟に対しては過敏になってしまうもので…。悪い癖だ。それでは、失礼いたします」
一期は照れくさそうに微笑しながら、審神者に向かって軽く一礼する。
「思い違いならそれでよいのですよ、むしろ何かが起こってからでは遅いのですから。些細なことこそ教えてくれると助かります。それでは、また夕餉の時刻に」
一期が部屋から立ち去ると、審神者はぐったりと机に伏せる。不覚だった。実際、勘違いかもしれなくても、不穏な兆候を見逃してしまっていた可能性がある。主としてあってはならないことだ。いま一度気を引き締めなくては。審神者は自身を奮い立たせるようにえい、と声を出して椅子から立ちあがる。
季節は長かった冬を終え、春になろうとしていた。さまざまな生命が目覚めのときを迎え、やわらかな陽の光がまぶしい。これだけ心地よければ、ぼんやりしてしまうのも無理ないか。楽観的に思考する一方で、「万が一」の想像が頭から離れない。最悪の事態を想像して備えておくのも主のつとめだ、と審神者は自らの責務を確認するように小さくうなずいた。
*
真っ白な空間に、鏡写しの自分が正面に現れる。
あ、触れたい。近づきたい。もっとそばで顔を見たい。強烈な欲求に引き摺られるまま、薬研はそれに手を伸ばそうとする。すると、もう一振りの薬研がぱちりと目を開け、穴が開きそうなほどこちらを見つめる。こんなことは初めてだった。繰り返し同じ夢を見てきたけれど、夢の中のもう一振りはいつもかたく目を閉じて動かないままだった。そんな相手が自分を見ているのが、なんだか無性にうれしくてたまらなかった。濁流のように変化していく自分の感情が不思議で、薬研は戸惑っていた。夢の中といえども、もう少し理由が必要だろう、自分自身を見て喜ぶだなんておかしな話だ。しかしその感情に偽りはない。腹の底から湧き上がってくる衝動に耐えきれず、ひとたび下ろしていた手をもう一度そいつの方に伸ばそうとする。するともう一振りの薬研は口を開き、何か言葉を発しようとした。薬研は
「………」
夢の続きだ、これは。全く同じ展開の、全く同じ夢だったのに。背中がじっとりと汗ばんでいる。いつものように頭痛などの不快な症状こそないけれど、鮮明すぎて気味が悪かった。脈も速くなっている。全速力で駆け抜けた後のように、どくんどくんと心臓が脈打つ。あいつは何なんだ?なぜ、あいつが目覚めたら俺はうれしいんだ?たかが夢に、どうしてこんなに心を乱されるんだ?布団の上で呆然としていると、すでに起床していた一期がそばに寄ってきていきなり顔を覗き込んできた。ひたり、と大きな掌が額に当てられる。熱はなさそうだな、とほとんど独り言のようにつぶやいてから、一期は薬研の目を見据えて言った。
「今日は休みなさい。主には私から伝えておくから」
有無を言わせぬ口調と眼力に、薬研は思わずひるんでしまった。こういうときのいち兄には逆らえないんだよな、絶対。薬研は早々に観念してわかった、とだけ答えて布団に潜り込んだ。薬研兄さん、体調悪いんですか?うん、少し疲れているようだから、寝かせておいてやりなさい。心配そうな平野に一期が先ほどとは打って変わって落ち着いた口調で答える。参ったな、こりゃ。口を割るまで逃げられないぞ。薄々わかっちゃいたものの、やはり一期にはお見通しだったようだ。説教という名の尋問が確実に行われるであろうことを予感して、薬研はげんなりすると同時にほんの少しほっとした気分になるのだった。
一期から薬研への尋問、もとい話し合いは休息を厳命されてから数日後に行われた。その間も、馬当番や畑当番など本丸内での仕事は許可されていたものの、出陣や手合わせは一期の一存によって禁止されていた。夜間こっそり行っていた単独での鍛錬は見逃されたようだったが。話し合いには審神者も参加した。審神者自身が薬研を気にかけているという理由もあったが、一期のそれとない質問をのらりくらりと躱し続ける薬研の逃げ道を封じる意図もあった。主にまで出てこられては、薬研も本当のことを話すほかない。一期の策が功を奏し、薬研はぽつりぽつりと例の夢について話し始めた。
「…最近、妙な夢を見るんだ。はじめは何にもない空間に俺だけがいるんだが、突然目の前にもうひとりの俺が現れる。そいつを見ると俺はなんだか居ても立っても居られない気分になって、そいつに触れようと手を伸ばすんだ。そうすると目の前が真っ暗になって目が覚めちまう。それだけならまだしも、その夢を見た朝は軽い頭痛やめまいをきまって起こす。それから、その日はずっと頭がぼんやりしてるんだ。集中しようとしても気がついたら心ここに在らず、っていう感じで、戦闘中にもミスが重なりやすい。見事に隠しおおせているつもりだったんだが……まあ、このざまだ。よく眠れるように小細工かけたり色々やってたんだがなあ、よくなるどころか悪化している気さえするよ」
「そうか……。その夢に心当たりはないんだな?悪化した、というのはどういうことか、詳しく聞かせてもらえるかな」
「ああ。どうしてそんな夢を見るのか、なぜ調子が悪くなるのかもさっぱりわからん。悪化したのは、その夢に続きが出てくるようになってから──いち兄に休めって言われた日のことだな。今までは目の前にいるもうひとりの俺は目を閉じて眠っているようで、ぴくりとも動かなかった。でも、その日を境に目を覚まして俺をじっと見つめるようになった。そいつに見つめられているうちに俺は、なんだか無性にうれしくなってきて、同じように手を伸ばして触れようとするんだが、またそこで視界が真っ暗になって目が覚める。雨戸を締め切って、部屋中の灯りを全部消したときみたいな暗さだ。だからびっくりするんだよ。月明かりのない夜ですら、これほど真っ暗になることはないからな。まさに漆黒と呼ぶべき闇の深さだ」
薬研の話を一通り聞いたはよいが、どうすれば解決の糸口が見えてくるのか一期たちにもまるでわからなかった。たしかに、他人に話すのを憚られるのも理解できる。重苦しい空気になりかけたところで、審神者が口を開いた。
「何か悪いものに憑かれているのかもしれません。……一度、石切丸に祓ってもらえば、どうにかならないだろうか……」
「確かに、その可能性もありますな。とりあえず、彼に頼んでみましょうか」
「うーん……そいつ自体、悪そうな感じはしないんだがなあ。むしろ夢の中では、そいつに対して妙に惹かれるというか……いや、それ自体おかしなことかもしれない。俺っちも賛成だ。心配かけてすまない、いち兄、大将。やれるだけのことはやろうと思う」
薬研はきっぱりと言い切って、そうと決まれば石切丸を探しに行こうぜ、と立ち上がった。ふたりも薬研の後を追う。これで解決すればよいのだけれど。弟の身を案じて気が気でない一期は不安にかられながらそう思った。
「…だめだった」
「そうか………」
薬研は気まずそうな表情を浮かべ、一期はがっくりと肩を落としている。話し合いの後、すぐに石切丸をつかまえてこれまでの経緯を伝えたところ、不浄の気は感じられないけれど、とりあえず祓ってみると快く承諾してくれた。その日のうちにお祓いの儀式をしてもらったのだが、空いている広間で行ったため、なんだなんだとギャラリーが増えていきついには本丸の全員がおおよその事情を知ることとなったのだった。薬研はというと、とくに隠すことでもないが、皆に心配をかけてしまったのは失敗だったかもしれない、と思っていた。
「薬研兄さん、また怖い夢を見てしまったんですか……?うぅ……怖いのは、いやですよね……」
「大丈夫だ、ごこ。多少夢見が悪くたって俺っちは平気さ。心配すんな」
「そうだよ、薬研は心霊現象のテレビ見た後だってすぐにグースカ寝てるんだから!ボクなんて、なかなか寝付けないし一人でトイレに行くのが怖くて薬研についてきてもらおうと思ったのに、ぜんっぜん起きてくれなかったんだよ!代わりに厚についてきてもらったけど」
「あんときの乱、ビビりすぎて俺の手首をものすごい力で握るもんだから翌朝アザになってたよ。まったくどっちが怖いんだか」
「厚のバカッ!仕方ないじゃん!」
「ひうっ……心霊現象……!ひっく、また怖いの思い出しちゃいましたぁ……」
「ご、ごめんねごこ!もう、みんなが怖い話するから〜っ」
「いや今のは乱が悪いだろ」
やいのやいのと騒ぎ出した兄弟たちを見て、薬研はほっとした。乱はなんだかんだで察しが良くて、こうして場の雰囲気を一瞬にして変えてくれることがある。もっとも、
「しっかし、戦に出られないのは参ったなあ」
自分にだけ聞こえるくらいの大きさで、薬研はぽそりとつぶやいた。一期が過保護なのかもしれないが、調子が悪いことも事実だ。他の誰かが自分のせいで傷つくことになったら、と考えるだけでぞっとする。まあ、気長にやっていくしかないか。こんなふうに薬研も、また本丸の皆も、この問題をある種気楽に捉えていたのはそのときまでだった。
朝になっても薬研は目を覚まさない。肩を叩いても強くゆすっても、まるで起きる気配がない。一度深く眠りにつくとなかなか目覚めない
「どうして、目覚めないのだろう……」
ぽつりとこぼした後で審神者ははっとした。憔悴しきった一期がぴく、と反応する。一期は見張り役の中で唯一交替せず、薬研が手入れ部屋に運ばれた朝からずっと審神者とこの部屋に閉じこもっていた。
昏睡している薬研をじっと見つめている様子も見ていられなかったが、かといって一度休みなさいと追い出すのも酷かと思い、いっそ寝落ちしてしまうのを待っていればよいと思っていた。
「なぜ、でしょうな……」
かすれた声で一期は答える。ああ、やってしまった。彼の心を無用に引っ掻き回してしまった、と審神者はひどく後悔した。すると、この時間の見張り役として部屋の中にいた陸奥守が静かに口を開いた。
「薬研、よおく寝とるのう。みいんな心配しちゅうき、はようおどろきな。兄さんの胃に穴空く前に、起きんといけんぜよ。なあ、一期どの」
「…ええ、そうですな。ありがとうございます、陸奥守どの。本当に、よく寝ている……」
陸奥守の言葉で、一期も審神者も、沈んだ心が少しだけ軽くなった気がした。眠っているだけなら、きっといつか目覚めてくれる。そう信じて待つしかなかった。これほど心細くて不安な夜を迎えるのは、本丸結成時以来初めてだ、と審神者は思った。
*
ここは時の政府。時間遡行軍に対抗するべく、「もの」の力を励起させる者・審神者の力でもって刀剣男士を顕現させ、それによって生まれた数多の本丸を管轄する場所である。刀剣男士は通常、政府内で極秘に行っている顕現実験を経て、各本丸で顕現させられるよう手筈をととのえることになっている。顕現実験では、政府直属の審神者が新しい刀剣男士をよびだすにあたって、「本歌」の顕現前に「プロトタイプ」とみなされる個体がよびだされる場合が少なくない。刀剣男士としての資質に欠けると判断された個体――それ以前に、意思疎通が不可能である個体すら存在する。ヒトのように思考し、ヒトのように「生きる」ことができるのが、政府の定義した自律型決戦兵器の最低条件である。戦争の為の道具であるならば、知性までもを与える必要性は薄いのではないか。そう主張する派閥は政府内にも存在した。しかし、政府は最終的に、
それは自律型決戦兵器の触媒である、わが国に於ける日本刀の美しさに心酔した人間が、大多数を占めたからである。さらにいえば、はじめて顕現実験が成功した日、はじめて「刀剣男士」を目にした人間に、その存在のきらめきに圧倒されない者は一人としていなかっただろう。美しさとは理性でもって受け止められる。しかし、その美しさは理性を手放させる効果を同時にもっている。己の中の正しさを歪め、欲望にあっけなく敗北した者たちが、次々に刀剣男士を誕生させていった。まだ足りない、もっとだ、より多くの刀剣男士を顕現させなければ。手段と目的、その二項のあるべき位置はすでに入れ替わっていた。
刀剣男士の顕現実験が活発になればなるほど、「不完全な」個体がよびだされる回数も当然増加する。「プロトタイプ」もすぐに処理してしまうのではなく、貴重な実験結果として詳細に記録されてから、刀解を行う決まりである。刀解後わずかに残る資源は、正規の刀剣男士として承認された個体のものであればそのまま再利用されるが、プロトタイプの場合は万が一に備えて完全廃棄されることになっていた。実際、プロトタイプと「本歌」は親和性が高く、審神者が手順を踏んでいなくても勝手に習合されてしまう事故が政府内で起こっている。本歌とプロトタイプが習合した個体は、意識が混濁し昏睡状態に陥ったのち、自我崩壊を起こしたとみられている。
しかし、あるとき手違いでプロトタイプの刀解後に残った資源が、各本丸への配布用に回されてしまった。発覚時にはすでに配布が完了しており、どの本丸に配布されたかもわからない状態になってしまっていた。資源が審神者によって消費され、さらに顕現した刀剣男士を特定の刀に錬結、習合する可能性は決して高いとはいえず、さらに異常をきたすとも限らない。政府は一連の事実を隠蔽した。
しかし今朝方、本丸に所属する刀剣男士が一昨日の夜に就寝してから現在まで目覚めず、昏睡状態に陥っているとみられるとの報告があった。その刀剣男士は、刀解後の資源を誤って配布用に再利用したプロトタイプと同じ、薬研藤四郎だった。政府の隠蔽体質が引き起こしたヒューマンエラーだった。
*
また同じ夢だ。薬研はとうとう、夢の中ですぐに夢だとわかるようになっていた。さて、あいつのお出ましか。そう思った瞬間、目の前にもう一振りの薬研藤四郎が現れた。今までとは違って、明らかに目覚めている様子だ。それどころか、なんとも言えない表情でこちらに手を伸ばそうとする。恍惚としているような、悲しみを感じるような、それでいてかすかに怒りすら隠れているような。これは、今までの俺だ。じゃあ、今の俺はなんなんだ?目の前の相手を斬るべきかどうか迷いながら、そっと柄に手を触れる。薬研はふと、違和感に気づいた。手袋がない。ふだん肌身離さず身に着けている黒い革の手袋はなく、素手で柄を握っていた。その瞬間、柄がひとの手の形に変化して、気づけば目の前のもう一振りと手を繋ぐかたちになっていた。繋いだ手はバチバチと火花を散らし白く光っている。みるみるうちに手と手の境界が埋まっていき、肌がかさなっていく。あつい。とける。この温度を薬研は知っていた。他の刀と合わさるときの感覚、錬結、いや習合か!いつまでもこれだけは慣れなくて、思わず大将を呼んでしまう、この燃えるような身体の熱さ!おいやめろ、勝手に俺に入ってくるな、お前は誰だ!薬研はそう叫んだつもりだったが、まばゆい光に包まれて、絶叫はかき消された。
羨ましかった。名前があるってことが。俺は不良品だ。欠陥品だ。どうしたって届かない、本物にはかなわない。お前は誰だ、なんて問いかけは傲慢にもほどがある。俺は記号でしか呼ばれたことがない、それも余計なものが頭に付いている。49番になれなかった俺の忌まわしい呼び名。Prototype2-49、それが俺のすべてを表す記号だ。
突然自分の声が頭の中で鳴り響く。こいつは俺であって、俺じゃない。でも、同じ身体になってしまった以上、切り離せない相手。
「ぷろと、たいぷつー、と呼べばいいか」
『プロトタイプでいい。そもそも、今の俺はお前にしか認識できないから、呼び名はいらないと思うが』
「わかったよ、プロトタイプ。目的は何だ?」
『お前を折って俺がお前として生きることだ』
「そりゃまた、えらいことを考えるなあ。俺が折れたら、お前だって折れてしまうだろう」
『ああ、肉体を殺せばそうなるだろうな。そうじゃなくて、お前の精神だけを潰してやるつもりだ』
「そんなこと可能なのか?現に俺は、生きてる」
『……わからない。でも、こうして俺の意識が存在している以上、お前の身体を操ることだってきっとできる。今は眠ってるがな』
薬研は好戦的な相手にあきれ半分、やる気半分といったところだった。依然として夢の世界からは抜け出せていない。ずいぶん長い夢だ、どのくらい眠っているのだろうか。皆を心配させるほどの時間、目覚めていないままだったらどうしよう。
「とりあえず、俺っちの肉体を目覚めさせなければ、お前にとっても良い状況とはいえないだろう?ここは一つ、共同作業っていうわけにはいかないだろうか」
プロトタイプは少し考えるような間の後、確かにそうだな、と不服そうにつぶやいた。薬研は早速、どうやったら目覚められるんだ?と問いかけた。
『……それは俺にもわからない。むしろ、今この身体の主導権を握っているのはお前だから、お前が何とかするしかない』
「まったく……仕方ないやつだな、他人の夢の中に入り込んでまでこのありさまかよ」
『俺だって気づいたらこうなってたんだ!刀解されて、もう終わりかと思ってたら、別のやつの身体の中にいたんだ。お前が眠ってる間だったら自由に動けることに気づいて、夢の中でどうにかしようと色々やってた。現に、一瞬だけならお前の意識を乗っ取ることができた』
「それって……あのときか?俺が眠っているお前に手を伸ばそうとしていたときか?あのとき、俺はお前の中にいた気がするんだ」
『おそらくそうだ。あの瞬間俺はお前に、"薬研藤四郎"になれたのに、……クソッ、試作品にそんな権利はないってか!』
プロトタイプが激昂し始めて、薬研は面食らった。なんとか詳細を聞き出そうと、薬研はできるのけゆっくりと、穏やかな口調を意識して己の中の存在に問う。
「その"試作品"ってのは、どういう意味なんだ?さっきも欠陥品だとか、お前の呼び名…プロトタイプっていうのは、どんな意味があるんだ?よかったら、教えてくれないか」
『そのままの意味だ。……俺は、刀剣男士としての薬研藤四郎の
「泣いてるのか、お前」
『うるさい!わかるはずないよな、刀剣男士サマにはさ。こんなみじめったらしい気持ち、わかってたまるかよ!お前はッ、皆に、人間に望まれてるんだ、この世に存在することを認められてはじめて、刀としての生を受けられるんだ……!』
それはモノだろうがヒトだろうが変わらないことだ、「刀剣男士」なんていうどっちつかずの曖昧な存在は特にそうだ。そのようなことを、プロトタイプはつっかえつっかえ、何度もしゃくり上げながら叫んだ。薬研はその様子を見て、この本丸に来てからのできごとを思い出していた。本丸の仲間たちにも、似たような命題を抱え苦しんでいた者がいる。自分の気持ちなんて誰にも理解されないと、泣きじゃくっていた者がいる。想像することすら困難な場所にそれぞれが立っている。でも、誰かとともに生きることで、自分なりの回答が見つかったり新しい生き方を選んだりして、強かさを手に入れていくのを薬研は見ていた。薬研だって、本丸で過ごしていくうちに少しずつ変化してきた。
もし、こいつの仲間になることができたなら。俺が、こいつの存在を認めてやれたなら。傲慢も甚だしい考えだが、薬研の心はもう決まっていた。
「俺と一緒に生きてみるのは嫌か?対立してどちらかを滅ぼすんじゃなく、共存するんだ。そうすれば、お前さんの心も少しは晴れるかもしれない」
プロトタイプ、薬研藤四郎が打たれる前に存在した刀は、一瞬の沈黙のあと涙声で「何言ってやがる、この野郎」と毒づいた。薬研はその反応を見てけらけらと声を上げて笑った。
『何がおかしいんだ。お前、俺と習合したせいで気まで狂ったのか』
「いや、かわいいやつだと思ってさ。案外、悪くない同居人かもな」
『ふざけた野郎だな。……もし俺が裏切ったらどうする?お前の主に刃を向けるようなことがあったら、お前はどうする?』
「そんときゃ全力で阻止するぜ。俺とお前はもはや一蓮托生だからな、俺の肉体が滅べばお前も一緒におさらばだ」
『……そこまでして、なぜ俺を生かそうとするんだ。爆弾抱えるようなもんだろう』
薬研はうーん、と小首をかしげてから、再び言葉を続ける。
「お前が悪いやつじゃなさそうだから、かな。だいいち、お前を俺から追い出すのは骨が折れそうだ」
薬研がいたずらっぽく言うと、新たな同居人はなんだか全てがどうでもいい気分になってきて、脱力してしまった。その瞬間から意識が遠のいていくような気がして思わずまずいな、と口にしていた。どうした、と薬研が問いかけると、プロトタイプはなんだか重たくなった感じがする、今にも意識が飛びそうだ、と必死にうったえた。薬研はひとつの仮説に思い当たった。
「お前、疲れてるんじゃないのか?連日俺の夢の中に現れて、限界が来てるんだよ。もしかして顕現してから今まで、眠るってことを知らなかったのか?」
『眠る……それは人間のすることだろう。俺たちはものなんだから、そんなことは必要ないはずだ』
「ところがな、刀剣男士になった今は必要不可欠なんだ。お前さんは意識だけの存在かもしれないが、その様子を見るにどうやら一度眠ったほうがよさそうだぞ」
そもそも俺は今眠っているだろう、もう忘れちまったか?うっかりしてるなあ、お前。ふぁーあ、身体は眠っているとはいえ、夢の中ではずっと起きていたから、俺も一度寝なくちゃなんねえかもな。おやすみ、プロトタイプ。薬研の声を聞きながら、プロトタイプはゆるやかに意識を手放した。
*
審神者が取り決めた時間まで、薬研は目覚めないままだった。気は進まないが致し方ない、政府に直接連絡を入れるとすぐに担当者を向かわせるとのことだった。また、政府内でも調査を開始するため、原因を把握でき次第報告するとも伝えられた。ほどなくして担当者が到着し、薬研は集中治療室行きを余儀なくされ、そのまま専用施設に搬送された。薬研には審神者と骨喰が付き添った。一期も付き添うと言って聞かなかったが、政府の担当者が今すぐ除名処分を行うことはない、調査が完了するまで該当の刀剣男士の安全は保障するという旨の説明を根気よく続けた甲斐あって本丸に残ることを了承してくれた。一晩中薬研の様子を見守っていて、精神的な消耗が激しかった一期は、ふらふらと粟田口の部屋に戻ってから倒れるように眠りに落ちた。不安がる短刀たちをなだめる役目は主に鯰尾と、面倒見のよい他の刀派の刀たちが引き受けた。精密検査の結果と政府内の調査結果を総合して、審神者に伝えられた内容は「異物混入による、意識混濁と昏睡状態」というものだった。「異物」がどのようなものなのか、どこから薬研の身体に入り込んだのかは調査中のため現在は回答しかねる、とのことだった。
政府の曖昧な説明に、審神者は苛立ちが抑えられずにいた。このまま薬研が目覚めなかったらどうしてくれようか、まだ調査が始まったばかりとはいえあまりに情報が少なすぎる。今のところできる処置は全て行ったとのことで、薬研が自然に目覚めるのを待つしかないという状況だ。そんな審神者を見て骨喰は、そっと審神者の背中に手を添えて語りかける。
「主、大丈夫だ。薬研は強い刀だ。俺はあいつの強さを知ってる、いつか必ず目を覚ます。だから、信じて待とう」
骨喰の言葉に、審神者は喉の奥がぐっと締め付けられるような感覚を覚えた。嗚咽が漏れる。骨喰は審神者の背中をさすり、大丈夫だ。少し眠った方がいい。俺が起きているから、主は寝ていてかまわない、と声をかけた。骨喰の言葉に甘え、審神者は少しだけなら、と眼を閉じた。
なにやら周りが騒がしい。ぼんやりとした意識のまま審神者がゆっくりと眼を開けると、骨喰の顔が目の前にあった。
「主、起きろ!薬研が目を覚ましたそうだ」
骨喰の声にはっとして、審神者は腰掛けていたソファから立ち上がった。薬研は集中治療室から別の病室に移されたそうだ。意識もはっきりしていて、
病室の扉をスタッフが開けると、白いベッドの上で座っている薬研の姿が審神者の目に飛び込んできた。薬研!と思わず叫ぶように呼びかけると、薬研は片手を上げてよう、大将。心配かけてすまなかったな、と返事をした。審神者は薬研の両手を握り、本当によかった、と繰り返しつぶやいて、握ったままの両手を額までもっていきうつむきながら嗚咽した。骨喰も薬研の肩を抱き寄せぎゅっと目をつむり、声を震わせながら薬研の名を呼んだ。ふたりが落ち着いた後、薬研は夢の中でのできごとを事細かに説明した。
「まあ、そういうわけだ。もし、こいつが暴走して手に負えなくなったら、俺もろとも斬ってくれ」
薬研は骨喰をまっすぐに見て、静かな口調で言った。骨喰も無言でうなずく。「プロトタイプ」は現在眠っていて会話をすることはできないそうだ。「異物」の正体を知った審神者は、もしかしたら薬研の身元は政府に引き取られてしまうのでは、と懸念したが、それは杞憂に終わる。政府が手配した車で、薬研は審神者と骨喰とともに本丸へ戻ることになった。奇妙なほどあっさりとした幕引きだった。
辺りはとっぷりと暗くなっており、本丸に近づくにつれ道が険しくなっていく。山奥にひっそりと建てられた大きな屋敷が、今の彼らの帰るべき場所なのだ。街灯のない道なき道はヘッドライトが眩しすぎると感じるほどだ。車は本丸の手前で止まった。送迎手に礼を述べ、車が走り去る音を聞きながら本丸へと向かう。すでに帰りを察知した刀たちが玄関から飛び出してこちらに向かってくる。えらいことをしでかしちまったな、俺は。皆に心配をかけてしまって、申し訳ないったらありゃしねえ、困り果てたように薬研が言う。皆に愛されている証拠ですよ、あなたに非はないのですから堂々と帰ればよいのです。そうでしょう、骨喰?ああ、そうだ。皆お前の帰りを待っていた。元気な姿を見せてやればいい。審神者と骨喰の言葉をありがたく思いつつ、薬研はなんだか面映ゆい気分になった。そしてうんと息を吸い込み、帰ったぜー、皆すまなかったなー!と声を張り上げた。心地よい春の夜だった。
epilogue.
一連の騒動が収束した後、薬研は一期と対峙することになった。薬研が、というよりかは、もうひとりが、だが。一期はこほんと咳払いをして、鋭い眼光を浴びせかけながら口を開いた。
「ぷろとたいぷどの。私の弟を危険な目に遭わせたこと、どうお考えですかな?」
「それは……すまなかった。謝って済むことではないが、このとおりだ。本当に申し訳ない」
「無事で済んで何よりですな。さて、今後はこのようなことを起こさぬよう、私と約束していただきたい。よろしいですかな」
「はい」
「では、この書類に目を通していただき、署名と判を。……血判でなくてよろしいですよ、こちらの朱肉をお使いいただければ」
(おい、お前字書けるか。というかそもそも名前がないんだよな、一旦代わってくれ)
「わかった。……えー、薬研藤四郎です。ただいま戻りました。こいつ、そもそも名前がないんだよ。政府では番号で呼ばれてたみたいなんだ。字は書けるのか?そうか、そうだよな。読めはするみたいなんだが、書くのは難しいってさ。今は俺が代筆するってことで構わないか、いち兄?」
「ああ、そういうことなら。しかし、名前がないとなると不便だな……。ぷろとたいぷどの、希望する呼び名はありますかな?」
(呼び名か……すまない、すぐには思いつかない)
「うーん……じゃあ、ハルってのはどうだ?ちょうど春にやってきたからな」
(ハル……悪くないな。しかしちょっと安直すぎやしないか)
「お前、いち兄の前で……ン゛ッンン、なんでもないぜ。ハルでいいってさ。じゃあ、お前の名前、ここに書くぜ」
薬研は片仮名で「ハル」と署名をした。拇印をするときだけは、ハルに身体を明渡した。意識の切り替えもスムーズになってきた。基本的には今まで通り、この身体の所有者である薬研が主体となっているが、ハルが直接話すべき場面では、先ほどのように意識の切り替えを行う。これは二者間での取り決めで、一期は関与していない。
「契約成立ですな。のちほどこぴーしたものをお渡しします。薬研が管理することになると思いますが……薬研、最近また私物が散らかっているよ。あとで片付けておきなさい」
「はいよ。ハル、他に伝えておきたいことはあるか?」
とくにない、とハルは答えた。続けて、名前つけてくれて、どうも。とそっけなく言った。薬研はくすくすと笑った。なんだ、やっぱりかわいいじゃないか。するとハルの意識が唐突に途切れる。ふて寝でも始めたか。
「とくにない、ってさ。いち兄のおかげかもな、こんな紙まで持ち出してこなきゃ、お前ずっとプロトタイプって呼ばれてたかもしれないぞ」
「はっはっは、礼には及びませぬぞ。名付けたのは薬研ですからな」
(別に、それでよかったし。名前なんてあったって……)
ハル。単純だが、よい名だと思った。それを伝えるには、まだ少しだけ時間がかかりそうだけれど。薬研藤四郎にはなれない。でも、他のなにかにならなれるのかもしれない。ハルは生まれてはじめてそう思った。
fin.
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