おかえり、ただいま
夕餉の時間はとうに過ぎ、辺りがとっぷりと暗くなった頃。一仕事終えた者たちががらりと玄関の戸を引いた。
「ただいまー」
「戻ったぞ」
おかえりなさい、と汗と泥にまみれた面々に声をかける。負傷者は手入、目立った傷がなければ風呂に直行するのがここでの決まりになっている。軽食は持たせていたものの、流石に皆疲れたような表情でそれぞれの行き先へ向かっていく。部隊長を任せていた薬研は、ひとり私の側に残った。
「おかえり、薬研。報告よろしく」
「第三部隊、全員帰還。負傷者は二名、いずれも軽傷だ。敵部隊の撤退を確認後、本部隊の撤退を開始。時間遡行、帰還時ともに異常なし。報告は以上だ」
「…入力完了。遅くまでお疲れさま!ご飯あっためておくから、先に身体洗ってきな」
「おう。ありがとな」
今日は戦闘後の熱も抜けて、とても落ち着いているように見える。たまに帰ってきても物足りないのか、走ってくると言ってすぐに外へ飛び出していってしまう日もあるのだが。ふと乾いた泥が頬に付いているのが気になり、私は薬研の白い肌に手を伸ばす。
「大将、風呂入るんだからそんなのいいって」
「いいの。気になるの」
「大将の指が汚れちまうだろ」
「洗えば落ちるんだし、別に」
「まったく…強情っぱりだなぁ」
薬研も人のこと言えないと思うんだけどなあ、と思いつつ、親指で頬骨のところを軽く擦る。無防備にも他人に顔を触らせている薬研を、申し訳ないと思いながらもじっと見つめる。少し伏せた目は藤色に光が透けていて、ビー玉のようにきれいだった。陶器のような肌に付着した泥と返り血は、いっそう彼のうつくしさを際立たせているような気がした。一見して人形の如し顔は、注意深く観察すると、かすかに紅が浮かぶ頬や額に浮かぶ汗、そして確かな体温が彼の生命を物語っている。彼の意志を瞳に灯る炎が雄弁に語る日が幾度もあった。愛おしさを込めて彼の顔に触れる。ぽろぽろと砕けた泥は完全には取れず、かえって汚れを広げてしまったように見えた。
「ごめん、取れないや。引き止めちゃったね」
「ん、いいよ」
笑みを浮かべた薬研を見て、じわじわと安堵が広がっていく。今日も無事でよかった。彼らの存在意義は、戦場で刃を振るうことにある。そんなことは百も承知だけれど、もはやひとりの人間として接してしまっている以上、彼らを失うのは己の身体の一部を引き裂かれるのと同じことだ。もし万が一何かあったら?そんな思考が一瞬でも頭の中をかすめるだけで、その度ヒリヒリとした痛みを味わう。不安が顔に出てしまったのか、風呂場に向かおうとしていた薬研はどうした、と再び私に向き直る。
「ううん、なんでもない。…帰ってきてくれて、ありがとね」
「大将は優しいからなあ、余計なこと色々考えてんだろ。大丈夫だ、俺たちは強いから」
「…うん」
「そんな暗い顔、大将には似合わないぜ。しゃんとしな」
「うん、ごめん」
無理に笑顔をつくると、ぎこちないなあと薬研に笑われた。弱くてごめん、こんなんじゃいけないね、と言うと薬研は弱かないさ、ほんのちょっと考えすぎるだけでな、と答える。
「みんなのこと、信じてるのは本当だから。絶対」
「ああ、分かってるよ」
薬研は軽く私の手を握った。大して私の手と変わらない大きさなのに、その力強さといったらなかった。その手を握り返して、ありがとう、もう大丈夫、と薬研の目を見据えてはっきりと口にする。
「おう、大将は大丈夫だ」
薬研は、信頼と慈愛のこもった眼差しで私を肯定する。私がうなずくと、薬研は風呂行ってくる、と言い残しくるりと背を向けた。薬研が手を握ってくれた感覚がまだ残っている。今度は自分で自分の手を握りしめる。私は大丈夫、と口の中で小さく唱えてみる。祈るように、噛み締めるようにして。もっと強くなろう、彼らを守れるくらいに。決意と呼ぶにはまだ脆いけれど、確かな感覚を忘れぬよう強く願った。
「ただいまー」
「戻ったぞ」
おかえりなさい、と汗と泥にまみれた面々に声をかける。負傷者は手入、目立った傷がなければ風呂に直行するのがここでの決まりになっている。軽食は持たせていたものの、流石に皆疲れたような表情でそれぞれの行き先へ向かっていく。部隊長を任せていた薬研は、ひとり私の側に残った。
「おかえり、薬研。報告よろしく」
「第三部隊、全員帰還。負傷者は二名、いずれも軽傷だ。敵部隊の撤退を確認後、本部隊の撤退を開始。時間遡行、帰還時ともに異常なし。報告は以上だ」
「…入力完了。遅くまでお疲れさま!ご飯あっためておくから、先に身体洗ってきな」
「おう。ありがとな」
今日は戦闘後の熱も抜けて、とても落ち着いているように見える。たまに帰ってきても物足りないのか、走ってくると言ってすぐに外へ飛び出していってしまう日もあるのだが。ふと乾いた泥が頬に付いているのが気になり、私は薬研の白い肌に手を伸ばす。
「大将、風呂入るんだからそんなのいいって」
「いいの。気になるの」
「大将の指が汚れちまうだろ」
「洗えば落ちるんだし、別に」
「まったく…強情っぱりだなぁ」
薬研も人のこと言えないと思うんだけどなあ、と思いつつ、親指で頬骨のところを軽く擦る。無防備にも他人に顔を触らせている薬研を、申し訳ないと思いながらもじっと見つめる。少し伏せた目は藤色に光が透けていて、ビー玉のようにきれいだった。陶器のような肌に付着した泥と返り血は、いっそう彼のうつくしさを際立たせているような気がした。一見して人形の如し顔は、注意深く観察すると、かすかに紅が浮かぶ頬や額に浮かぶ汗、そして確かな体温が彼の生命を物語っている。彼の意志を瞳に灯る炎が雄弁に語る日が幾度もあった。愛おしさを込めて彼の顔に触れる。ぽろぽろと砕けた泥は完全には取れず、かえって汚れを広げてしまったように見えた。
「ごめん、取れないや。引き止めちゃったね」
「ん、いいよ」
笑みを浮かべた薬研を見て、じわじわと安堵が広がっていく。今日も無事でよかった。彼らの存在意義は、戦場で刃を振るうことにある。そんなことは百も承知だけれど、もはやひとりの人間として接してしまっている以上、彼らを失うのは己の身体の一部を引き裂かれるのと同じことだ。もし万が一何かあったら?そんな思考が一瞬でも頭の中をかすめるだけで、その度ヒリヒリとした痛みを味わう。不安が顔に出てしまったのか、風呂場に向かおうとしていた薬研はどうした、と再び私に向き直る。
「ううん、なんでもない。…帰ってきてくれて、ありがとね」
「大将は優しいからなあ、余計なこと色々考えてんだろ。大丈夫だ、俺たちは強いから」
「…うん」
「そんな暗い顔、大将には似合わないぜ。しゃんとしな」
「うん、ごめん」
無理に笑顔をつくると、ぎこちないなあと薬研に笑われた。弱くてごめん、こんなんじゃいけないね、と言うと薬研は弱かないさ、ほんのちょっと考えすぎるだけでな、と答える。
「みんなのこと、信じてるのは本当だから。絶対」
「ああ、分かってるよ」
薬研は軽く私の手を握った。大して私の手と変わらない大きさなのに、その力強さといったらなかった。その手を握り返して、ありがとう、もう大丈夫、と薬研の目を見据えてはっきりと口にする。
「おう、大将は大丈夫だ」
薬研は、信頼と慈愛のこもった眼差しで私を肯定する。私がうなずくと、薬研は風呂行ってくる、と言い残しくるりと背を向けた。薬研が手を握ってくれた感覚がまだ残っている。今度は自分で自分の手を握りしめる。私は大丈夫、と口の中で小さく唱えてみる。祈るように、噛み締めるようにして。もっと強くなろう、彼らを守れるくらいに。決意と呼ぶにはまだ脆いけれど、確かな感覚を忘れぬよう強く願った。
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