年の差
居間から漏れる騒音じみた声をBGMに日向は鉛筆を滑らす。『公園にいってきます』と綴ったメモ用紙を千切りテーブルの上に残すと、日向はいそいそと玄関に向かった。台所まで声が聞こえていたのだからそれほど神経質になる必要はないと思いながらも、日向は廊下をそうっと歩く。誰にも詮索されることなく、窮屈な自宅を抜け出したかったのだ。
外へ続く扉を開けると、まず冷たい風が日向の頬を撫でた。首へ巻いたマフラーに顔の半分を埋めてアスファルトへ踏み出す。
外は、閑散としていた。元旦の昼過ぎだ。初詣も落ち着き皆家でのんびりとしている頃なのだろう。車も通ってなければ人もいない、いつもとは違う街並みは少しだけわくわくする。不思議な高揚感に憂いた気分がちょっぴり軽くなる感覚に、日向は無意識に歩みを早めていった。
「こまえだ!」
十分程歩きほどよく身体が温まってきた頃、日向は公園に辿り着いた。いつもならばそれなりに人がいる場所だが、本日はやはり静まり返っている。その中で唯一ブランコをキーコ、キーコと揺らしている人物がいて、彼を見るや否や日向はパッと笑顔を咲かせて駆け寄った。
真っ白に透き通った肌と桃色がかったふわふわの髪。まるでフランス人形を彷彿とさせる顔立ちの少年。
彼は狛枝凪斗。日向のクラスメイトの一人である。教室の隅で読書をするような物静かな少年で、故に同年代の男子からは距離を置かれがちなのだが、日向はこの少年のことが苦手ではなかった。口を開けば案外お喋りだし、博識で日向の知らないことも沢山知っている。
類稀なる綺麗な容貌も相まって、不思議な雰囲気を醸し出す彼の隣にいると、日向はしばしば胸が高鳴るのを感じた。日向の知らない、不思議な世界へ連れて行ってくれる気がしたのだ。
「ひなたクン!来てくれたんだね」
日向の姿を確認した狛枝が、顔を明るくさせてブランコから離れる。彼の鼻頭はほんのりと染まっていて、暫くこの寒空の下に居たことが伺えた。
「うん。だって約束しただろ」
顔を綻ばせる狛枝に、日向もふにゃりと笑って約束を思い出す。
『お正月って、嫌いなんだ』
終業式の帰り道。図書室の掃除を任され漸く解放された頃、帰宅路には日向と狛枝以外の子供の影は既に無かった。
皆きっと、はしゃぎながら足早に帰宅したのだろう。冬休みが始まり、すぐにクリスマスが来て、年が明けてお年玉なんかを貰ったり。年末年始は、イベントが目白押しなのだから。
ただ、日向はそうじゃなかった。格好をつけているだとかそんなつもりは一切ない。単純に、純粋にこの時期があまり好きではないのだ。
理由は、日向の生まれた日が元旦の一月一日だというところにある。
プレゼントはクリスマスとお年玉とで一緒くたにされるし、お祝いの言葉は新年の挨拶のおまけのように扱われる。日向にとって唯一の特別な日の筈なのに、寂しくて惨めな思いをする嫌な日。特にここ最近は日向の家で親戚一同新年会を開いているので、一層憂鬱なのだ。
小石を蹴飛ばしながらつい愚痴を吐く。静まりかえった小道で小石の転がる音がカラコロとよく響いた。
『奇遇だね。ボクもあんまり好きじゃないんだ』
『えっ?』
日向は思わず目を丸くして高い声を上げた。まさか、同調して貰えるとは思っていなかったのだ。
『居辛いんだよね。ボク、いそーろーだから』
狛枝の言葉に日向は彼の両親が既に他界しており、今は親戚の知り合い宅でお世話になっているという話を思い出す。狛枝は何でもない風にさらりと言ったが、日向はその表情と声から寂しさを感じ取った。
だって日向もそうなのだから。
『ならさっ、ならさっ、お正月の一月一日、一緒に遊ばないか?』
「でもね、ボクは正直、キミは来ないんじゃないかって思ってたんだ。だってキミ、ご両親ちゃんといるでしょう?」
キィキィとブランコの鎖を掴み戯れに揺らしながら、狛枝が呟く。何かを諦めたような、悲しげな物言いだった。
「おれ、約束はちゃんと守るぞ!……それに、おれ、ほんとうに今日こまえだと遊ぶの楽しみにしてたんだ……」
ぎゅうっと心臓を掴まれる感覚に、日向は思わず狛枝の手を両手で強く握りしめる。
狛枝の手は、とてもとても冷たかった。冷え切った指先は、まるで彼の心を表しているようだ。
少しでも、自分の気持ちが伝わればいい。自身の掌がじわじわと冷えていくのを不思議と心地よく感じながら、日向は願った。
「……ありがとう、ひなたクン」
日向の手の中に包まれてる狛枝の手がぴくりと動き、彼が柔らかく笑んだ。雪解けに顔を見せた花のような笑顔に、日向もまた釣られて笑みを見せる。
「ううん!な、早くあそぼうぜ!へへっ、何しような!」
日向は居てもたってもいられずキョロキョロと辺りを見回した。それ程広い公園ではないが、何せ今は二人っきり。どの遊具も贅沢に使い放題だ。
「こまえだ!いこう!」
「うん!……あ!」
狛枝の手を引き走り出そうとしたまさにその時、狛枝が思い出したかのように声を上げた。振り向き首を傾げながら彼を見ると、はにかみながら淡い藤色の大きな瞳が日向を見つめる。
「そういえば、まだ言ってなかったね」
繋がったままの指先を、狛枝がきゅっと握りしめた。
「ひなたクン、お誕生日おめでとう」
てっきり。てっきり『明けましておめでとう』と言われるものだとばかり思っていたから、日向はめをぱちくりと瞬かせた。言葉は一瞬だけ日向の世界を止め、そしてゆっくりと動き出す。じわじわと、喜びが身体に広がっていった。
「…………えへへ。ありがとな」
それから日向は狛枝と遊んだ。二人でブランコを漕いで、滑り台で滑って、砂場でお城を作って。とにかく、めいいっぱい遊びまわったのだ。
ひとしきり遊び終わった頃には二人して息が上がっていて、着込んでいた上着を一枚脱ぐほどであった。
「ちょっときゅーけー!」
「そうだね、ね、あそこで休憩しようよ」
狛枝が指差したのは、公園の中央にあるドーム型の遊具だった。中の空洞のスペースはほんのりと薄暗くて、狭さも相まり子供心を擽られるような場所なのである。
「さんせい!」
着ていた上着をぶんぶんと振り回しながら、日向は豪快に歩いてそこへ向かう。
ちらりと見た時計は、もうすぐ四時を指そうとしていた。チャイムが鳴るまであと三十分。風船のように膨らんでいた楽しさが、少しだけ萎んでいく気がした。
「まだ親戚の人たちいるかなぁ……」
ドームの中で二人身を寄せ合い、日向は膝を抱えてそっと呟く。日向の小さな声が、ドームの中で跳ね返り響き渡る。
「ボクも、まだ帰りたくないなぁ……今帰ったら、きっと邪魔しちゃうもん。きっとあの人達、今頃お楽しみの最中だからさ」
「お楽しみ?」
「うん、仲良いんだ。あの人達」
「こまえだも、混ぜてもらえないのか?」
こてりと日向が首を傾げると、狛枝はクスクスと笑い出した。何が面白いのだろう。更に疑問を抱く日向に、狛枝は声を潜めて喋り始める。
「仲が良いってね、そーゆー意味じゃないんだよ」
そこまで話すと狛枝は、日向の耳に唇を寄せて、一層小さな声で囁いた。
「手を繋いだりキスしたり……セックスしたりするんだよ」
「せっ……」
飛び交う聴き馴染みのない言葉に、日向はぽかんと口を開けて間抜けな声を発する。今しがた聞こえた単語を一つずつ噛み砕き飲み込んで、ようやく理解が追いついた頃、日向の顔が真っ赤に染まり上がった。
「あは、ひなたクン顔真っ赤だ」
「う……うるさい!」
指摘され日向は咄嗟に両手で自分の頬を包んで隠す。頬に当たる掌が冷たく感じるのは、日向の頬が赤い証拠だ。それを自覚すると更にそこへ熱が集まっていく気がした。
「ひなたクンかわいい」
「かっ、かわいくない!」
狛枝の揶揄う声に、日向はとうとうそっぽを向いてしまう。
恥ずかしかった。ただの単語の一つや二つでこんなにも顔を赤らめてしまう自分が。
でも、仕方ないじゃないか。だってソレは、クラスの男子が囃し立たりする、子供はしちゃいけない、いやらしいことで、
「ね、ボクらもしてみない?」
狭いドームの中で、その声はいやに大きく、はっきりと響き聞こえた。
「へ……?」
そろりと振り向くと、すぐ近くに狛枝の顔があった。日向を覗き込む二つの瞳には、いつもと違う色が混じっているような気がして、日向は知らずと息を飲む。
「なに、を」
「……なにって」
狛枝の身体が、日向の胴に乗り上げた。
「手を繋いだり」
狛枝の手が、日向の手に触れた。
「……キス、したり?」
トンッ。日向の額と、狛枝の額がぶつかった。
先程とは比にならない程、顔が熱いのがわかった。顔だけじゃない。身体全身が熱くて、熱くて仕方ない。全身が心臓になったみたいにドクドクと脈を打っていて、苦しい。
「ひなたクンは、ボクのこときらい?」
日向はすぐさま首を横に振った。
「じゃあ、すき?」
今度は、すぐには動けなかった。
狛枝のことは好きだ。大切な、友達だ。けれど、狛枝が今発した『好き』は、日向の知る『好き』ではない気がしたのだ。
安価に頷いてはいけないような気がした。
「……ボクは、ひなたクンのこと……すきだよ」
日向の唇を濡らす熱い吐息が、狛枝の唇の中へ吸い込まれて。
「……ぁ」
そして、互いの唇がソッと触れた。ぴくんっと跳ねた日向の肩を、狛枝の手が優しく押さえる。まるで、大丈夫と言っているようだった。
「はっ……」
触れ合ったのは、たった一瞬だった。ふにゅりと唇同士がぶつかり、柔く変形し、離れる。
たったそれだけの出来事が、日向の身体に異変を与えた。日向の小さな手足はぴりぴりと痺れて、頭はモヤがかかったみたいに真っ白でうまく動いてくれない。
全くの、未知の感覚だった。
「こま、えだっ……こわい。おれ、こんなの知らないっ……」
自身の身に覆いかかる初めての感覚に、日向は弱々しく声を発した。なんだかものすごくイケナイことをしている気がして、怖くなったのだ。
「怖いんじゃないよ」
重なっていただけの日向の指先を狛枝がしっかりと絡め取り、自らの胸の方へ導く。
掌から伝わるは、狛枝の心臓の音。ドクドクと、強く、早く脈を打っていた。
「きっとボクら、期待してるんだ」
「き、たい……?」
「うん……ボクも、キミと一緒で期待してる。ドキドキしてる……」
狛枝は、濡れた瞳で日向を見ていた。
一緒。ドクドクと苦しい程音を立てる心臓も、身体に走るこそばゆいような妙な感覚も、全部狛枝と一緒に感じている感覚。
そう思うと、怖くなくなった気がした。それどころか寧ろ、狛枝と一緒ならもっと知りたいと思った。
「ねぇ、今度は舌をくっつけてみたい」
「した……?」
「うん……べーってしてみて?」
ぼんやりと思考する脳で、日向は言葉を復唱しそしてゆっくりと赤い舌を外気に触れさせる。次いで狛枝も日向と同じく、薄い桃の唇の間から舌を覗かせた。
赤く艶めく舌は、どうしてか強く日向の視線を奪って離さない。
美味しそうだな。そんなことを考えながらぼんやりしていると、不意に舌先に生温いものが触れた。
「んにゃっ……!」
日向はびっくりして肩を揺らし、つい舌を引っ込めてしまった。程なくして、狛枝がくすくすと鈴の音のような笑い声を漏らす。
「ふふっ、何だかくすぐったかったね」
「うん……」
「でも、ボクいやじゃなかったよ」
「……おれも、いやじゃなかった」
「そう……」
くすくすと笑い合ってた顔から、二人同時に笑みが消えた。代わりに浮かぶのは、紛れもない、劣情の色。
狛枝と視線を交わせ、今度は自分の意思で日向は舌を見せた。狛枝もまた舌を伸ばし、そうして二人の粘膜がくちゅんと触れ合う。
日向の肩はまたひくっと跳ねたが、今度は逃げなかった。再び触れた唇の柔らかさに心地いいと感じて、重なる粘膜を恐々と塗り付け合う。
「ん……んぅ……んむ……」
小さなドームの中で聞こえるのは、粘膜の絡む音と自身の心臓の音。その瞬間、確かに世界は日向と狛枝の二人っきりだった。初めて浸る排他的な空気に、日向はひくひくと瞼を揺らし、うっとりと細める。徐々に口内へ侵入してくる狛枝の舌に震えながら、それでも夢中で応えて唇を窄めて。
うっすらと膜を張る日向の瞳から、とうとう雫がぽとりと落ちた。
「……っ!」
日向と狛枝は二人同時にびくりと震えた。遠くで響く鐘の音。子供に帰宅を促すチャイムだ。
「あ……」
いつの間にか二人の唇は離れていた。てらてらと唾液で濡れる狛枝の唇は一層魅惑的に見えて、日向の脳がくらりと揺れる。
「ひなたクン大丈夫?」
陶酔感に浸る日向を現実に引き戻したのは、狛枝の声だった。
「あ……んむっ」
ポケットから取り出したハンカチで自身の口を拭い、折りたたんだ後で今度は丁寧に優しく日向の口元を拭う。
「……かえろっか」
「……うん」
二人は短い会話をしたあとで、ドームから出た。世界はすっかり暗くなっていて、僅かに残る橙色は今にも濃紺に覆われようとしている。気温も一層冷え込んでいたはずだったが、まだ熱を孕む身体には丁度良かった。
公園の出入り口まで二人でゆっくりと歩いて行き、それから立ち止まる。日向と狛枝の家は反対方向だった。
「……じゃあね、ひなたクン。また、学校でね」
「……う、うん……」
沈黙を破ったのは狛枝で、ひらりと振った掌に、日向も慌てて掌を見せる。狛枝が背を向けた後で、後ろ髪に引かれる思いを押し込めて足を踏み出す。
「ひなたクン」
耳に届いた声にバッと振り返ると、口元に人差し指を当てて艶やかに笑う狛枝と目があった。
「また、シようね」
外へ続く扉を開けると、まず冷たい風が日向の頬を撫でた。首へ巻いたマフラーに顔の半分を埋めてアスファルトへ踏み出す。
外は、閑散としていた。元旦の昼過ぎだ。初詣も落ち着き皆家でのんびりとしている頃なのだろう。車も通ってなければ人もいない、いつもとは違う街並みは少しだけわくわくする。不思議な高揚感に憂いた気分がちょっぴり軽くなる感覚に、日向は無意識に歩みを早めていった。
「こまえだ!」
十分程歩きほどよく身体が温まってきた頃、日向は公園に辿り着いた。いつもならばそれなりに人がいる場所だが、本日はやはり静まり返っている。その中で唯一ブランコをキーコ、キーコと揺らしている人物がいて、彼を見るや否や日向はパッと笑顔を咲かせて駆け寄った。
真っ白に透き通った肌と桃色がかったふわふわの髪。まるでフランス人形を彷彿とさせる顔立ちの少年。
彼は狛枝凪斗。日向のクラスメイトの一人である。教室の隅で読書をするような物静かな少年で、故に同年代の男子からは距離を置かれがちなのだが、日向はこの少年のことが苦手ではなかった。口を開けば案外お喋りだし、博識で日向の知らないことも沢山知っている。
類稀なる綺麗な容貌も相まって、不思議な雰囲気を醸し出す彼の隣にいると、日向はしばしば胸が高鳴るのを感じた。日向の知らない、不思議な世界へ連れて行ってくれる気がしたのだ。
「ひなたクン!来てくれたんだね」
日向の姿を確認した狛枝が、顔を明るくさせてブランコから離れる。彼の鼻頭はほんのりと染まっていて、暫くこの寒空の下に居たことが伺えた。
「うん。だって約束しただろ」
顔を綻ばせる狛枝に、日向もふにゃりと笑って約束を思い出す。
『お正月って、嫌いなんだ』
終業式の帰り道。図書室の掃除を任され漸く解放された頃、帰宅路には日向と狛枝以外の子供の影は既に無かった。
皆きっと、はしゃぎながら足早に帰宅したのだろう。冬休みが始まり、すぐにクリスマスが来て、年が明けてお年玉なんかを貰ったり。年末年始は、イベントが目白押しなのだから。
ただ、日向はそうじゃなかった。格好をつけているだとかそんなつもりは一切ない。単純に、純粋にこの時期があまり好きではないのだ。
理由は、日向の生まれた日が元旦の一月一日だというところにある。
プレゼントはクリスマスとお年玉とで一緒くたにされるし、お祝いの言葉は新年の挨拶のおまけのように扱われる。日向にとって唯一の特別な日の筈なのに、寂しくて惨めな思いをする嫌な日。特にここ最近は日向の家で親戚一同新年会を開いているので、一層憂鬱なのだ。
小石を蹴飛ばしながらつい愚痴を吐く。静まりかえった小道で小石の転がる音がカラコロとよく響いた。
『奇遇だね。ボクもあんまり好きじゃないんだ』
『えっ?』
日向は思わず目を丸くして高い声を上げた。まさか、同調して貰えるとは思っていなかったのだ。
『居辛いんだよね。ボク、いそーろーだから』
狛枝の言葉に日向は彼の両親が既に他界しており、今は親戚の知り合い宅でお世話になっているという話を思い出す。狛枝は何でもない風にさらりと言ったが、日向はその表情と声から寂しさを感じ取った。
だって日向もそうなのだから。
『ならさっ、ならさっ、お正月の一月一日、一緒に遊ばないか?』
「でもね、ボクは正直、キミは来ないんじゃないかって思ってたんだ。だってキミ、ご両親ちゃんといるでしょう?」
キィキィとブランコの鎖を掴み戯れに揺らしながら、狛枝が呟く。何かを諦めたような、悲しげな物言いだった。
「おれ、約束はちゃんと守るぞ!……それに、おれ、ほんとうに今日こまえだと遊ぶの楽しみにしてたんだ……」
ぎゅうっと心臓を掴まれる感覚に、日向は思わず狛枝の手を両手で強く握りしめる。
狛枝の手は、とてもとても冷たかった。冷え切った指先は、まるで彼の心を表しているようだ。
少しでも、自分の気持ちが伝わればいい。自身の掌がじわじわと冷えていくのを不思議と心地よく感じながら、日向は願った。
「……ありがとう、ひなたクン」
日向の手の中に包まれてる狛枝の手がぴくりと動き、彼が柔らかく笑んだ。雪解けに顔を見せた花のような笑顔に、日向もまた釣られて笑みを見せる。
「ううん!な、早くあそぼうぜ!へへっ、何しような!」
日向は居てもたってもいられずキョロキョロと辺りを見回した。それ程広い公園ではないが、何せ今は二人っきり。どの遊具も贅沢に使い放題だ。
「こまえだ!いこう!」
「うん!……あ!」
狛枝の手を引き走り出そうとしたまさにその時、狛枝が思い出したかのように声を上げた。振り向き首を傾げながら彼を見ると、はにかみながら淡い藤色の大きな瞳が日向を見つめる。
「そういえば、まだ言ってなかったね」
繋がったままの指先を、狛枝がきゅっと握りしめた。
「ひなたクン、お誕生日おめでとう」
てっきり。てっきり『明けましておめでとう』と言われるものだとばかり思っていたから、日向はめをぱちくりと瞬かせた。言葉は一瞬だけ日向の世界を止め、そしてゆっくりと動き出す。じわじわと、喜びが身体に広がっていった。
「…………えへへ。ありがとな」
それから日向は狛枝と遊んだ。二人でブランコを漕いで、滑り台で滑って、砂場でお城を作って。とにかく、めいいっぱい遊びまわったのだ。
ひとしきり遊び終わった頃には二人して息が上がっていて、着込んでいた上着を一枚脱ぐほどであった。
「ちょっときゅーけー!」
「そうだね、ね、あそこで休憩しようよ」
狛枝が指差したのは、公園の中央にあるドーム型の遊具だった。中の空洞のスペースはほんのりと薄暗くて、狭さも相まり子供心を擽られるような場所なのである。
「さんせい!」
着ていた上着をぶんぶんと振り回しながら、日向は豪快に歩いてそこへ向かう。
ちらりと見た時計は、もうすぐ四時を指そうとしていた。チャイムが鳴るまであと三十分。風船のように膨らんでいた楽しさが、少しだけ萎んでいく気がした。
「まだ親戚の人たちいるかなぁ……」
ドームの中で二人身を寄せ合い、日向は膝を抱えてそっと呟く。日向の小さな声が、ドームの中で跳ね返り響き渡る。
「ボクも、まだ帰りたくないなぁ……今帰ったら、きっと邪魔しちゃうもん。きっとあの人達、今頃お楽しみの最中だからさ」
「お楽しみ?」
「うん、仲良いんだ。あの人達」
「こまえだも、混ぜてもらえないのか?」
こてりと日向が首を傾げると、狛枝はクスクスと笑い出した。何が面白いのだろう。更に疑問を抱く日向に、狛枝は声を潜めて喋り始める。
「仲が良いってね、そーゆー意味じゃないんだよ」
そこまで話すと狛枝は、日向の耳に唇を寄せて、一層小さな声で囁いた。
「手を繋いだりキスしたり……セックスしたりするんだよ」
「せっ……」
飛び交う聴き馴染みのない言葉に、日向はぽかんと口を開けて間抜けな声を発する。今しがた聞こえた単語を一つずつ噛み砕き飲み込んで、ようやく理解が追いついた頃、日向の顔が真っ赤に染まり上がった。
「あは、ひなたクン顔真っ赤だ」
「う……うるさい!」
指摘され日向は咄嗟に両手で自分の頬を包んで隠す。頬に当たる掌が冷たく感じるのは、日向の頬が赤い証拠だ。それを自覚すると更にそこへ熱が集まっていく気がした。
「ひなたクンかわいい」
「かっ、かわいくない!」
狛枝の揶揄う声に、日向はとうとうそっぽを向いてしまう。
恥ずかしかった。ただの単語の一つや二つでこんなにも顔を赤らめてしまう自分が。
でも、仕方ないじゃないか。だってソレは、クラスの男子が囃し立たりする、子供はしちゃいけない、いやらしいことで、
「ね、ボクらもしてみない?」
狭いドームの中で、その声はいやに大きく、はっきりと響き聞こえた。
「へ……?」
そろりと振り向くと、すぐ近くに狛枝の顔があった。日向を覗き込む二つの瞳には、いつもと違う色が混じっているような気がして、日向は知らずと息を飲む。
「なに、を」
「……なにって」
狛枝の身体が、日向の胴に乗り上げた。
「手を繋いだり」
狛枝の手が、日向の手に触れた。
「……キス、したり?」
トンッ。日向の額と、狛枝の額がぶつかった。
先程とは比にならない程、顔が熱いのがわかった。顔だけじゃない。身体全身が熱くて、熱くて仕方ない。全身が心臓になったみたいにドクドクと脈を打っていて、苦しい。
「ひなたクンは、ボクのこときらい?」
日向はすぐさま首を横に振った。
「じゃあ、すき?」
今度は、すぐには動けなかった。
狛枝のことは好きだ。大切な、友達だ。けれど、狛枝が今発した『好き』は、日向の知る『好き』ではない気がしたのだ。
安価に頷いてはいけないような気がした。
「……ボクは、ひなたクンのこと……すきだよ」
日向の唇を濡らす熱い吐息が、狛枝の唇の中へ吸い込まれて。
「……ぁ」
そして、互いの唇がソッと触れた。ぴくんっと跳ねた日向の肩を、狛枝の手が優しく押さえる。まるで、大丈夫と言っているようだった。
「はっ……」
触れ合ったのは、たった一瞬だった。ふにゅりと唇同士がぶつかり、柔く変形し、離れる。
たったそれだけの出来事が、日向の身体に異変を与えた。日向の小さな手足はぴりぴりと痺れて、頭はモヤがかかったみたいに真っ白でうまく動いてくれない。
全くの、未知の感覚だった。
「こま、えだっ……こわい。おれ、こんなの知らないっ……」
自身の身に覆いかかる初めての感覚に、日向は弱々しく声を発した。なんだかものすごくイケナイことをしている気がして、怖くなったのだ。
「怖いんじゃないよ」
重なっていただけの日向の指先を狛枝がしっかりと絡め取り、自らの胸の方へ導く。
掌から伝わるは、狛枝の心臓の音。ドクドクと、強く、早く脈を打っていた。
「きっとボクら、期待してるんだ」
「き、たい……?」
「うん……ボクも、キミと一緒で期待してる。ドキドキしてる……」
狛枝は、濡れた瞳で日向を見ていた。
一緒。ドクドクと苦しい程音を立てる心臓も、身体に走るこそばゆいような妙な感覚も、全部狛枝と一緒に感じている感覚。
そう思うと、怖くなくなった気がした。それどころか寧ろ、狛枝と一緒ならもっと知りたいと思った。
「ねぇ、今度は舌をくっつけてみたい」
「した……?」
「うん……べーってしてみて?」
ぼんやりと思考する脳で、日向は言葉を復唱しそしてゆっくりと赤い舌を外気に触れさせる。次いで狛枝も日向と同じく、薄い桃の唇の間から舌を覗かせた。
赤く艶めく舌は、どうしてか強く日向の視線を奪って離さない。
美味しそうだな。そんなことを考えながらぼんやりしていると、不意に舌先に生温いものが触れた。
「んにゃっ……!」
日向はびっくりして肩を揺らし、つい舌を引っ込めてしまった。程なくして、狛枝がくすくすと鈴の音のような笑い声を漏らす。
「ふふっ、何だかくすぐったかったね」
「うん……」
「でも、ボクいやじゃなかったよ」
「……おれも、いやじゃなかった」
「そう……」
くすくすと笑い合ってた顔から、二人同時に笑みが消えた。代わりに浮かぶのは、紛れもない、劣情の色。
狛枝と視線を交わせ、今度は自分の意思で日向は舌を見せた。狛枝もまた舌を伸ばし、そうして二人の粘膜がくちゅんと触れ合う。
日向の肩はまたひくっと跳ねたが、今度は逃げなかった。再び触れた唇の柔らかさに心地いいと感じて、重なる粘膜を恐々と塗り付け合う。
「ん……んぅ……んむ……」
小さなドームの中で聞こえるのは、粘膜の絡む音と自身の心臓の音。その瞬間、確かに世界は日向と狛枝の二人っきりだった。初めて浸る排他的な空気に、日向はひくひくと瞼を揺らし、うっとりと細める。徐々に口内へ侵入してくる狛枝の舌に震えながら、それでも夢中で応えて唇を窄めて。
うっすらと膜を張る日向の瞳から、とうとう雫がぽとりと落ちた。
「……っ!」
日向と狛枝は二人同時にびくりと震えた。遠くで響く鐘の音。子供に帰宅を促すチャイムだ。
「あ……」
いつの間にか二人の唇は離れていた。てらてらと唾液で濡れる狛枝の唇は一層魅惑的に見えて、日向の脳がくらりと揺れる。
「ひなたクン大丈夫?」
陶酔感に浸る日向を現実に引き戻したのは、狛枝の声だった。
「あ……んむっ」
ポケットから取り出したハンカチで自身の口を拭い、折りたたんだ後で今度は丁寧に優しく日向の口元を拭う。
「……かえろっか」
「……うん」
二人は短い会話をしたあとで、ドームから出た。世界はすっかり暗くなっていて、僅かに残る橙色は今にも濃紺に覆われようとしている。気温も一層冷え込んでいたはずだったが、まだ熱を孕む身体には丁度良かった。
公園の出入り口まで二人でゆっくりと歩いて行き、それから立ち止まる。日向と狛枝の家は反対方向だった。
「……じゃあね、ひなたクン。また、学校でね」
「……う、うん……」
沈黙を破ったのは狛枝で、ひらりと振った掌に、日向も慌てて掌を見せる。狛枝が背を向けた後で、後ろ髪に引かれる思いを押し込めて足を踏み出す。
「ひなたクン」
耳に届いた声にバッと振り返ると、口元に人差し指を当てて艶やかに笑う狛枝と目があった。
「また、シようね」