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その他パロ

ラブソングは歌えない 


 人通りから少し離れた場所にあるレトロな雰囲気の喫茶店は、日向が長年通っているお気に入りの憩い場だった。
 珈琲を一杯啜りに来た初老の男性に、試験前なのかノートにびっしりと文字を綴っている学生。それぞれが思い思いに自由な時間を過ごす中、日向もまた待ち人が来るまでの暇をイヤホンで音楽を聴きながら楽しんでいた。
 適温になったカフェラテを啜り、日向は耳に転がり込んでくるメロディーに耳を傾ける。
滑らかなピアノの音のみが紡ぐシンプルな曲だ。だけど、そのするりと胸に溶け込む音階の交わりが、響く音が溶けるその一瞬が、全てが心地よかった。
儚くて、切なくて、どうしようもない愛おしさに襲われて。この旋律だけでも胸に様々な感情が駆け巡るというのに、これでまだ完成体ではないということが恐ろしい。
 あぁ、この旋律に彼の歌声が加わったら。自分の想いを乗せた詩を紡いでくれたのなら。この胸はどんな色で溢れかえるのだろう。高鳴る胸に頬を緩ませると、不意に日向の視界の端にひらりと何かが映り込んだ。
「おまたせ」
イヤホンで声を拾うことは叶わなかったが、彼の口がそう形取っていた。
「あぁ、来たか」
ひらりと左右に触れる白い手のひら。日向の視界に映ったものの正体は、待ち人であった狛枝凪斗のものであったらしい。
耳の中に押し込んでいたイヤホンを外し、日向はふっと笑う。閉ざされた日向の世界に転がり込むのは物静かなクラシックミュージックだった。
「ごめんね、電車がちょっと遅れててさ」
そう言い首に巻いていたマフラーを外す狛枝の鼻頭と頬は、ほんのりと赤く染まっていた。よく観察をすると肩が忙しなく上下している。恐らく、ここまで走ってきたのだろう。
「いつもの事だから気にしてないぞ。それより、珈琲冷めちゃったな。あったかいの淹れなおして貰うか?」
狛枝はここに来ると決まって珈琲を頼むものだからついでに頼んでおいたのだが、遅刻を考慮することを忘れていた。とっくに湯気が消え失せた珈琲を指差しながら日向が問うと、狛枝はふわりと頬を緩ませ口を開いた。
「ボクの為に頼んでてくれたんだ?ありがとう。これで大丈夫だよ。このくらい冷めていた方が飲みやすいし、第一勿体ないよ」
「俺が飲むから勿体なくはないぞ」
「キミ、珈琲飲めないじゃん」
「……ミルクと砂糖入れれば飲めるし」
精一杯張った見栄を容易く打ち砕かれ面白くない日向は、口を尖らせながら自身のカップを揺らす。回る亜麻色の液体。舌先に滑り込むそれはほんのりと甘くて、やはり珈琲はこうでなくてはと日向は思った。
「ねぇ、それよりさ」
冷めた珈琲を一口啜り、狛枝が灰色の瞳に期待をたっぷり込めて日向を見つめる。
「出来たんでしょ?早く見せてよ、キミの詩」
そわそわと落ち着きのない心臓が一際どきりと跳ねた。ずっと待ち望んでいた台詞。しかし、それは同時に日向の内側を狛枝に晒すということなのだ。緊張せずに居られる訳がない。
「あ、あぁ……」
先程口に含んだ水分はどこに消えたのやら。カラカラになった口で言葉を転ばせ、日向は自身の鞄にしまって置いた透明のクリアファイルを取り出す。中には薄汚れたルーズリーフが一枚、大切に仕舞われていた。
「ん」
ファイルからその草臥れた一枚の紙を、狛枝への密かな恋慕をありったけ綴った日向の詩を、日向は狛枝に手渡す。ジワリと汗ばんだ指先が、また一段と紙に皺を作った。
「ありがとう」
にっこりと笑みを浮かべ、狛枝が詩を受け取る。
「読むからちょっと待っててね」
そう言った彼の顔からは既に、今しがた浮かべていた笑みは消え失せていた。長い睫毛を伏し、灰色の瞳が忙しなく右へ左へと動く。
視線を窓の外に逸らしたのは、あまり見つめ過ぎると狛枝の集中を欠いてしまい兼ねないからだった。
しかし、気になるものを気にしないように装うことには限度がある。少し気を抜くと、視線はいつのまにか狛枝の方に向いてしまっているのだ。
顎に手を当て射抜くような瞳で、そして時折そこに優しげな色を滲ませ紙面を見る、狛枝のその表情が日向は好きだった。
あぁその瞳で自分を、紙面に綴られた想いではなく、内側にこれでもかという程溢れているお前への想いを見てくれたのならば。
叶うはずもない願いを、つい夢見てしまう。
いつのまにか、喫茶店にいるのは日向と狛枝、そしてマスターを含む三人になっていた。
「……いい詩だね」
丁度店内のBGMが途切れた時。狛枝が長く閉ざしていた口を開いた。
「ぁ……ほんとか?」
「うん。やっぱり、キミは良い詩を書くね。特にここ、ボクここが好きだな」
すぃとこちらに寄せらせた紙。ところどころ黒ずんだ紙面の中で、出来る限り綺麗に綴った文字列の一つを狛枝の指先がなぞる。

──想いが届けだなんて願わない 肩を並べるこの瞬間があれば──

その一節を思いついた時のことを日向はよく覚えていた。
作詞に悩む日向を、気分転換にと狛枝が外に連れ出してくれた。冬にしては珍しく陽の光が暖かい日で、二人でたわいもない会話をしながら当てもなくふらついて。そうしているうちに、気付けば日向の心に重くのしかかっていた焦りや自己嫌悪の感情は綺麗に溶けてなくなっていたのだ。
その時のことを思い出し日向の胸にじんわりと温かい何かが広がっていく。
パッと視線を紙から離し、その時日向は初めて狛枝と額を合わせる程距離を縮めていたことに気付いた。
「あ……ありがとう」
思わず、ズッと椅子を引き摺る音を立ててしまった。跳ね上がる心臓の音を誤魔化すように吐き出した感謝の言葉に、狛枝は頬を緩ませる。
「こちらこそ。こんな良い詩を提供してくれて。曲に合わせて少し修正を入れさせて貰うけれど……是非、この詩をボクに歌わせてほしい」
テーブルの上に置かれた日向の手を掬い取り、狛枝が真摯な瞳で見つめてくる。まるで一世一代の愛の告白をするような仰々しさだ。
「勿論だ。……お前に気に入って貰えて嬉しいよ」
嬉しさに痛い程跳ね上がる心臓にどこか心地よさを覚えながら、日向は狛枝の手を握り返した。
受け入れられたのは日向の綴った詩であり、日向の気持ちそのものではない。それは重々承知していた。けれど、この一瞬だけでいいから想いが報われた喜びに浸りたかった。大袈裟な狛枝の申し出に対して、日向もさもプロポーズを受け入れるような心持ちでそう返事した。
「ところで」
無事狛枝のお眼鏡に叶った詩はファイルごと彼の鞄に仕舞われた。その様を見やりながらカップに残ったカフェラテを飲み干した日向に、狛枝がふと声を掛ける。
「キミの詩はいつも恋の悲しさを唄っているよね」
「あ……そう、だな」
飲み干したカフェラテの苦味が、やけに日向の口の中に残っているような気がした。残った苦味を唾液と共に飲み込み、日向は縺れた返事を返す。
「明るい恋の詩……例えば恋人が結ばれた喜びを祝うような詩は書かないのかい?」
「あぁ……きっと俺には無理だよ」
「どうして?」
明るい恋の詩。狛枝と結ばれる喜び。そんな未来は一生来ることが無いことを、日向は知っていた。
「俺が、その喜びを知らないからだ」
そう溢した日向の顔が、切なさに歪んでいたことに彼は気付いてなかった。





ヘッドフォンから流れる自作のメロディー。左手に彼の筆跡が残る詩を握り締め、狛枝は息を吸い込む。
考えるのは次に唄うべき詩ではない。レコーディングの最中、狛枝がいつも考えるのは愛しい彼のことだった。
彼が、日向が恋の切なさばかり綴るのは何故なのだろうか。
自分が作る曲に問題があるのだろうか。彼への留めない気持ちが抑えきれず、それを形にするかのように紡いだメロディー。だからいつだって自分の作る曲は、どこか寂しい雰囲気を醸し出していた。
恋愛事情には疎くとも感受性は豊かな彼のことだ。自分の作るメロディーに隠された想いを感じ取り、そして思うままに詩を書いているだけなのかもしれない。
それならいいのだ。だが、この間の彼の言葉がどうにも引っかかっている。
恋人が結ばれる喜びを綴る詩は作れないと言っていた。理由は彼がその喜びを知らないかららしい。
つまり、恋の悲しさばかり綴るのは、彼自身がその悲しさを良く知っているからではないのだろうか。その憶測に辿り着いてからというもの、針を刺すような鋭い痛みが狛枝を苦しめていた。
一体誰を想ってこんな悲しい詩を?自分が彼の詩を歌っているこの瞬間も、彼は愛しい誰かを想って心臓に針を刺すような痛みを味わっているのだろうか。
自分が差し伸べる手を取ってくれたのなら、絶対にこんな想いをさせないのに。



「お疲れ様ー!狛枝くん、今回の歌も良かったよ!」
無事にレコーディングを終え、控室を出ようとする狛枝の元に現れたのは、狛枝の所属する事務所の社長だった。
「ありがとうございます」
「歌詞も勿論良いんだけど、これを歌い上げる狛枝くんの声が一番魅力的だよね。胸にダイレクトに伝わるあの甘く切ない歌声!また女性ファンが増えるわねー」
「あはは……」
苦笑いを浮かべる狛枝に、目の前の女性は何気ない質問をぶつける。
「狛枝くんって何か独特の発声練習でもしてるのかしら?君の声質が哀歌にぴったりって言うのもあるのだろうけど……歌い方がそれにより洗練なものにしている気がするのよねー」
「特に何もしていませんよ」
そう言って軽く会釈をし、狛枝は帰路に着くべくドアノブに手をかける。キィィと金具が擦れる音。それに被せるように狛枝は不意に息を吐き出した。
「……この詩を綴ってくれた人のことを考えているだけで」
去り際に溢した恋慕のカケラは、誰に届くわけもなく空気の中に溶けていった。
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