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夫婦狛日

未だ重い瞼を擦りながらボクは玄関に立つ。また朝の満員電車に揺られて会社に行くんだなぁと思うと気分が憂鬱になるが、これも可愛い奥さんの為だと思うとそんな気分は一気に吹っ飛んでしまう。
「じゃあ創、いってくるね…?」
いつも通りボクを玄関まで見送ってくれる愛しいボクの奥さん、創の顔を見てボクは違和感を覚える。何だろう、いつもより顔色が悪い気がする…。
「創、顔色悪いけど大丈夫?」
ボクがそう聞くと少しの間が空いてから創がボクの声に気付く。反応も何だかいつもより鈍い。
「…え?あ、あぁ大丈夫だ…ちょっと寝不足みたいで…ほら、お前もう出ないと遅刻するぞ」
言われて時計を見ると電車が来る時間まで残り十分、駅までダッシュは確定だ。
「…わ、本当だ…!じゃ、じゃあいってくるね…!お昼寝するんだよ!!」
後ろ髪を引かれる思いをしながら慌ただしく玄関の戸を開けボクは走り出した。

思えばこの時点でボクは気付くべきだったんだ。彼が嘘をついていることに。

「…ふぅ」
ようやくキリのいいところまで書類をまとめ終えエンターキーを押しボクは一息つく。この調子なら全部まとめ上げるのにそう時間はかからないだろう。家に帰れるまでもう少しだ、朝あまり元気が無かった彼の顔を思い浮かべやる気を入れ直したところで、胸ポケットに入れてある携帯が震えだした。ボクがすぐ彼だとわかるように設定したリズム、創からだ。取り出して画面を確認するとそこには一通のメール表示されていた。
『悪い、今日の夕飯適当に食いたいもの買ってきてくれ』
その内容を見てボクは驚く。今まで滅多なことがない限り夕飯を作らないなんてこと無かったのに、それも理由を告げずになんて…嫌な予感がする。ボクはすぐに通話ボタンを押して彼に電話をかけた。
『……なぎと?』
長いコールの後ようやく彼は電話に出た。しかし電話越しの声は弱々しく掠れていた。どうやら嫌な予感が的中したようだ。
「うん、ボクだよ…ねぇもしかして熱あるの?」
『…なんでわかるんだよ…』
「朝、顔色悪かったでしょ…!?あぁごめん、もっと早く気付いてあげればよかった…!」
きっと朝の時点で熱があったのだろう。けれど彼のことだ、ボクを心配させないように気を使って寝不足だなんて嘘をついたに違いない。
『平気だから…でも、さすがに体辛くて…ご飯作ってやれそうにない…ごめんな』
熱は相当高いのだろう、一言言葉を出すたびに苦しそうな吐息を漏らす彼に心が痛んだ。
「そんなの気にしなくていいから…それより何か食べたいものある?」
『ん…何でもいい…ご飯は食べれそう…』
頭の中であれを買ってこれを買ってと考えていると、創が「なぁ」とボクに声をかけた。
「なぁに?なんか欲しいものあった?」
『…えっと…今日は、何時に帰ってこれそうだ…?』
口籠りながら彼ははそう言った。いつもなら何時に帰ってくるんだ?とそう聞いてくるのに。しかもその声は明らかに寂しさを含んでいて。
電話の向こう側の彼は今一体どんな顔をしているのだろうか、そう考えると居ても立っても居られなくなった。
「今すぐ。もう帰るから!」
身体あっためておくんだよ!そう伝えてからボクは通話ボタンを切り再びパソコンに向き合った。それから自分でも驚く程の早さで残りの書類をまとめ上げ提出し、帰る支度をする。
「すいません家内が風邪で倒れたので先に失礼します、お疲れ様でした!」
一刻も早く彼の側に、ボクはその一心で会社を飛び出した。

「ただいまー…」
自分の分と創の分の夕ご飯、それから彼の好きな草餅が入ったビニール袋を提げボクは玄関の扉を控えめに開ける。当然ながらいつも返ってくる『おかえり』の言葉は聞こえなくボクは寂しさを覚えた。
「創…」
彼はおそらく寝室のベッドの上だろう。もし寝ているのであれば起こす訳にはいかない、そう思いボクは静かに二階の寝室に続く階段をのぼる。足音を立てないように慎重に寝室前まで行き、ドアノブに手をかけると中から創の荒い呼吸音がボクの耳に飛び込んできた。
(熱、高いんだな…苦しそうだし顔だってこんなに真っ赤で…)
ベッドサイドまで歩み寄り創の顔を覗くと彼は眉間に皺を寄せ頬っぺたをりんごみたいに赤くさせてうなされていた。彼の苦しそうな顔を見るのは久々で、ボクは何ともない筈なのに胸が痛くて痛くてしょうがなかった。
「……なぎと…?」
ボクの気配を察知したのか、それとも寝つきが悪かったのか、不意に彼の睫毛がゆるゆると揺れ、創がぼんやりとした顔をボクの方へ向けた。
「ただいま。…ごめんね、起こしちゃったね」
起こさないようにと触れずにいたが起きたのなら触れてもいいだろう、そう思いボクは彼の真っ赤な頬を手の甲でスルスルと撫でる。すると彼は気持ちよさそうに目を細めた。
「おかえり…ん、お前の手、冷たくて気持ちいい…」
先程まで眉間に皺を寄せていたが今はそれも消え、創の顔が幾分か柔らかなものへなりボクは少しだけ安堵する。
「あは、冷え性が役に立つ時が来るとはね…ご飯食べれそう?食べれそうならおかゆ作ってくるから」
ボクがおかゆを作ってくると言った瞬間、創の顔が曇った。うん言いたいことはわかるよ、ボクキミの目の前で何度かコンロ爆発させてるもんね!
「え…お前、作れるのか…?」
案の定、創はボクが台所に立つことを心配しているようだ。
「体質のことなら心配しないで。キミの身体に病原体が入ってしまったこと自体がボクにとっての不運なんだから。むしろ成功という名の幸運を引き当てる気しかしないよ!」
だから安心して待っててよ、そう言いボクは寝室を後にした。横目で見た彼の顔が、妙に嬉しそうだったのはボクがキミの状況を不運だと言ったからかな?だとしたらなんて可愛らしい反応なのだろうか。本当、彼はとことんボクを溺れさせる。

「お前……料理、まともにできたんだな…!」
創の分のおかゆとボクの分のご飯を作り終え再び寝室へ戻るとおぼんに乗せられたそれらを見て創が驚嘆の声を上げた。
「不運にさえ見舞われなければ、ね…味も多分大丈夫だと思うけど…」
「ん……美味しい」
とろとろのお米を一掬いし、口に含んだ彼は顔を綻ばせて次々とおかゆを口に運んでいく。よかった、ちゃんと作れたみたいだし、食欲だってこれだけあればすぐ治るだろう、創が美味しそうにボクの作ったおかゆを食べている姿を見てると自然と食欲をそそられて、ボクもベッドサイドに腰をかけ夕食を食べ始めた。

「…今日はごめんな」
おかゆを全て平らげ薬も飲み終えようやく一息ついたところで、創がぽつりと呟いた。
「何が?あぁ、朝の時点でボクに熱があるって言わなかったこと?」
「それも、半分そうだけど……心配かけたし、仕事だって早く上がらせて貰ったんだろ…?」
「少しだけね。…心配だったし、それに…」
ボクは手を伸ばし汗でしっとりと濡れた彼の髪の毛をくしゃりと撫でる。
「創、寂しかったでしょ?」
「……ちょっとだけ」
目線を外し控えめに彼は言う。そこは素直に肯定してくれていいんだけどな、変なところで素直じゃない彼らしさに思わず笑みがこぼれる。
「ねぇ覚えてる?高校生の時、ボク風邪引いて学校休んだことあったでしょ?」
「ん…あれか、一緒に帰ってる途中お前川に落ちて、それが原因で三日寝込んだやつ」
「そうそう」
あんなに高い熱を出したのは久しぶりでさ、あの時は動くのも食べることもできなくて、ボクこんな不運で死ぬのかなと思いもしたよね。
「でもさ…」
学校休んだ日、キミがわざわざ看病しに家に来てくれて、熱は何度だ、ご飯は水は薬は、寒くないかって沢山沢山心配してくれて、側で手を握っててくれて、酷く安心したことを今でも覚えてるよ。
「それでね、その時、あぁボク今まで心細かったんだなって思ったんだ」
だからキミもそうじゃないかと思って、そしたら居ても立っても居られなくなって、そう懐かしい記憶と共に彼に伝えると、彼の顔は明らかに熱とは違う赤に頬を染めもじもじの居心地が悪そうにしていた。
「そ、か…そうだったのか…」
嬉し恥ずかし、彼の顔から隠しきれないそんな気持ちがありありとわかり、そんな彼を見ていると何だかボクも恥ずかしくなってきてしまう。
「ほ、ほら、だから今日くらいボクに存分と甘えてくれていいんだよ!?」
なんて、と照れを誤魔化そうと冗談めかしく言う前に彼の熱い身体がぴったりとボクにくっつく。
「…俺としては、十分過ぎる程お前に甘えてるけどな…」
ボクの肩口に頭をぐりぐりと押し付ける彼に愛おしさが込み上げてくる。本当、ボクの奥さんはなんて可愛いのだろう!?んぅぅぅと口まで出かかった奇妙な唸り声を飲み込む代わりに僕は彼の身体をぎゅうぎゅう抱き締めた。
「んん、凪斗、苦しい…」
「あっ…ごめんね、病人に…」
慌てて力を緩めると彼は、ほ、と息を吐きそのあとで大きな欠伸をした。恐らくさっき飲んだ薬の副作用だろう、そろそろ寝かせてあげたほうがいいのかもしれない。
「創、このまま寝るでしょ?」
「んー…でも、服は替えたいな…」
汗掻いたから気持ち悪い、そう言って布を摘みパタパタと空気を入れる創を見てボクはある事を思いつく。
「そうだ!沢山汗掻いたならボクが拭いてあげるよ!」
言うが早いかボクは洗面所へと向かい蒸しタオルを持って彼の元へ再び戻る。創は自分でやるからいいと言ったが「甘えてくれるんでしょう?」とそう言えば渋々身体をボクに預けてくれた。
蒸しタオルを広げボクはまず彼の顔を包み込む。むにむにと彼の顔を変形させながら全体を拭いてあげると彼は気持ちよさそうに目を瞑っていた。
「じゃ、次は身体だね」
彼に上着を脱いでもらい晒された肌をボクは丁寧に拭いていく。
「……んっ…」
「冷たかった?」
「…へいき…」
首、腕、胸と布を滑らせながらボクはちらりと創の顔を見る。依然顔は赤いまま、そして熱と睡魔のせいでとろりとした瞳はまるで彼と愛し合っている時を思い出させて、ボクは妙な気持ちに襲われた。
「ん、終わったよ、これ洗濯しとくからね」
身体を綺麗にしてあげた後今まで彼が着ていた衣服をまとめ代わりに新しいパジャマを彼に着させてあげる。
「ん…ありがとな…」
「…ボクお風呂入ってくるから、先寝ててね、おやすみ…」
そう言ってつま先をドアに向けたが進むことができなかった。
「…どうしたの?」
進めない原因、ボクの服の裾を掴んで離さない創の顔を見ると何か言いたげそうな瞳がボクを映していた。どうやらボクが彼の身体に触れて情事を思い出したように彼もまたボクに触れられてボクとの行為を思い出していたみたいだ。風邪のせいで潤んでいる瞳は今はそれとは違う熱を孕んでいる。彼の望みは叶えてあげたいしボクも彼を貪りたいのは山々だけれど。
「今はこれだけ」
そう言ってボクは彼の額にキスを一つだけ落とす。
「続きは治ったら…ね」
優しく髪を撫でてやれば彼はこくりと頷き、服の裾を掴んでいた指を離した。
「おやすみ」
今度こそお風呂に向かおうとボクは部屋のドアに手をかける。すると後ろから彼が「凪斗」とボクの名前を呼んだ。
「その…色々とありがとうな…」
「……家族なんだし、当たり前でしょ…」
自分でその言葉を口に出すのはむず痒くて、けれど言ってしまえば驚くほどしっくり胸に馴染み幸福感が溢れてくる。
「…そうだな」
振り返って創の顔を見ると、彼は幸せそうに微笑んでいた。きっと、ボクも今の彼と同じような表情をしているのだろう、おやすみ創、最後にそう言ってボクはようやく寝室を出た。
「……さてと」
創が寝ている間に少しでも家のことをやらねば、しかしその前に。
「…これどうにかしないとなぁ」
苦笑を漏らしボクは一日の汗と、それから下半身の熱を解放すべくお風呂場へ急いだ。
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