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本予備

- 夕染めウエディング -
狛枝が放課後になると予備学科の校舎を訪れるのは、そこでなら日向と二人きりの時間を楽しめるからである。
本科生のお気に入りである日向は、一度彼らの目に留まると荒波に飲まれるが如く自分の手から離れてしまう。
予備学科のくせに、何の引け目もなく希望である本科生の彼らと接するなんて。本科生と楽しげに話す日向を見るたび募る苛立ちは、日向を取られたという嫉妬から生まれるものだったということに、狛枝が気付いたのはごく最近のことだった。
自分のようなゴミ屑より、本科生の彼らと過ごす方が楽しい。その気持ちは十分すぎるほどわかる。しかし、それでも、ほんの少しでいいから自分と二人きりの時間を過ごして欲しいと願ってしまう。恋人、なのだ。それくらいは許されるだろう。
尤も、こんなみっともない理由を日向に伝えられるわけもなく『静かで読書に集中できるから』という理由で、予備学科の校舎に通っていることにしているのだが。
「……」
先程から一文字も読んでいない小説のページを意味もなく捲る。頬杖をつきながらちらりと日向の方へ視線を送ると、日向は風にあたりながら外を眺めていた。
六月にしては今日はいい天気で、しっとりと汗を掻くほど暑かった。しかし、夕方にもなればその暑さも多少涼しくなってくる。心地よい風がほんのりと染まる狛枝の頬を優しく撫でた。
「……ジューンブライド」
「ん?」
「……今日、澪田さんたちが話していたんだ」
「あぁ、それなら俺も知ってるぞ。六月の花嫁は幸せになれるってやつだろ」
窓を背にして日向がこちらを振り向く。狛枝は嬉しくなった。日向の顔が見れたからだ。
「へぇ、博識だね」
「……お前もしかしなくても馬鹿してるだろ」
「そんなことないよ」
ジト目でこちらを睨む日向が面白くて、狛枝はケラケラ笑う。日向の剥れた顔は可愛くて好きなのだが、狛枝は日向の笑顔も見たかった。くすくすと笑いながら、ごめんごめんと中身の篭ってない謝罪を述べ、狛枝は会話の発展を試みた。
ジューンブライドの話題にソニアが興味を持ったこと。それに対して左右田が顔を赤くしたり青くしたりしていたこと。辺古山や西園寺は白無垢が似合いそうだという話題が上がったこと。その話を聞いた九頭龍が何故か狼狽えていたこと。
日向は狛枝の話に相槌を打ったり、困ったような笑みを浮かべたり、時には賛同したりしながら聞いていた。
日向の表情が、声が、狛枝の胸を踊らせる。何でもない、平凡な会話がこんなにも楽しいものだなんて日向と出会う以前は知らなかったのだ。
「結婚か……そういえば俺たち、あと何年もしないうちに結婚できる歳になるんだよな」
不意に零した日向の台詞に、狛枝の心臓が騒つく。
「…………結婚願望あるの?」
「え?……分からないけど、一生一人でいるのもな、とは思うぞ」
「ふぅん……」
刹那頭を過ぎったのは、白いタキシードに身を包む日向の姿だった。その隣にいるのは、ウェディングドレスを着た小柄で可愛らしい女性だ。狛枝の、知らない女性。
友人たちの笑顔と彼に似た眩しい太陽の下で祝福される彼らを、自分は遠くから眺めている。そんな景色を、一瞬想像した。
日向は勿論、狛枝自身も知らぬうちに拳を強く握り締めていた。心臓が痛い程騒めいて、酷く落ち着かない。
「……まぁ、キミには縁のない話だよ」
カタリ。狛枝が椅子から立ち上がる。狛枝の声に振り向いた日向は、眉を寄せて睨んでいた。きっと狛枝の言葉がムカついたのだろう。
「な……っ……」
その口から何か言葉が紡がれる前に、狛枝は強引に日向に唇を押し付けた。
ふくよかで少しカサついた日向の唇。この唇の感触を知っているのは、世界で自分一人だけだ。この先も、永遠に、ずっと。
突然の出来事に目をまん丸に開き、しかし頬を夕焼けの色とは違う朱に染めている日向に、狛枝は笑みを深くする。
これでは誓いのキスじゃなくて、まるで呪いの烙印を刻みつけているみたいだ。夕暮れにカーテンのヴェールを靡かせている日向を見て、狛枝は心底愉快な気分になった。
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