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※本予備

白いところが殆どないくらい文字で埋め尽くされたノート。導き出した解に赤丸、若しくは隣に正しい解を書き込んでいき、ようやく問題集を解き終えた日向は息を吐きながらぐぅと身体を伸ばした。
机に向かった時刻は午後八時だった。現在の時刻は午前零時半過ぎ。思いの外時間が経っていたなと単にそう思った。
勉強は決して得意な方ではないが、嫌いでもなかった。目の前の文字を読み込み、解を並べていく作業。複雑な問いほど時間はかかるが、その時間は目の前の問い以外余計なことを考えなくて済んだ。だから問題集を解いたり、参考書を読むのは嫌いではない。
しかし今日はもういいだろう。そうこうしている間に時計の長針は十二へ辿り着こうとしていた。
机に散らばる参考書類を乱雑に鞄へ詰め、英単語帳と携帯端末だけを持って日向はベッドへ乗り上がる。
就寝前の暗記物、それも程々にしなくては。確か明日は、来週に控える試験の内容を伝えると教師が言っていた気がする。うっかり船を漕いで聞き逃す、なんてことないようにしなくては。
そんなことを考えながら英単語帳を捲った時だった。
数時間もの間静寂に包まれた空間に、突如音が鳴り響いた。
随分もの間、音のない空間にいたものだから、日向の心臓は大きな音を立て鼓動を早くさせる。
なんてことはない、ただの着信音だ。走った後でもないのに煩く音を立てる胸に手を当て、日向は携帯端末を手に取る。画面に表示された名前は、日向の予想していた通りのものだった。というか、そもそもこんな時間に連絡をしてくる人物なんて心当たりは一人しかいない。
だけど、いつも連絡を入れる時は専らメールなのに。だから少しだけ違和感を抱きつつ、日向は通話ボタンをタップした。
『……日向クン?』
掠れた、か細い呟きが日向の耳に転がり込む。不思議と安堵を抱くその音色は、そういえば暫く耳にしていなかった気がする。
「ん……えと、久しぶり?だな」
『そう?最後に会ったのは、一週間くらい前だよ』
「そうだっけ?」
言われてみれば確かにそうだった。しかし、普段は日向はこの声の主……狛枝凪斗と三日に一回くらいのペースで会っているのだ。この場合久しぶりでもいいだろう。
「で、どうした?……なんか、お前から電話なんて珍しい気がする」
『いや、特に用はないんだけどね』
「何だよそれ」
『いいだろ?用がなくても』
「まぁ、な」
『じゃあ……そうだね、そういえば昨夜読み終えた小説がね……』
それから、日向は狛枝とたわいもない会話をした。小説の話題から始まり、あの作者の新作が、駅前に新しいカフェが、賑やかなクラスメイトがまた大変なことをやらかして……。
こうして狛枝と過ごす時間が、日向は好きだった。何にも囚われず、いい意味で気を遣わないで済む、穏やかに流れるこの時間が。そして、その心地よい時間ほど進むのは早いのだ。 時刻は既に、あれから三十分後を指している。だけどまだ、切りたくはなかった。それどころか、端末越しの会話では物足りなさまで感じていた。
「……会いたいな」
とうとう日向の口からその言葉が漏れた。以前の日向であれば、そうして欲求が湧いても決して口には出さず、自身の胸の中に留めていたのだろう。
それをこうして口に出せるのは、相手が狛枝だから。そして、帰ってくる返事がノーではないと確信を持っているからだ。
『……じゃあ、来てよ』
「……うん」
無意識に顔を緩ませ、日向はようやく通話終了ボタンをタップする決心がつく。待ってる、と狛枝の言葉を最後にそれを押した。
ベッドを飛び出し、鞄に制服を入れる。寝巻きはジャージだから、着替える必要もないだろう。
手短に身支度を終わらせた日向は、そっと自身の部屋のドアを開ける。そろそろと音を立てぬよう廊下を進む。トイレ、洗面所、そして両親が眠る寝室の前を通り過ぎ玄関にたどり着いた日向は、最後まで気を抜かず極めて静かに玄関をくぐった。
鍵を閉めて、日向は空を見上げる。当たり前だが、飛び込んでくる色は黒しかなかった。それでも、不安のひとかけらも感じないのは、狛枝に会えるという希望を抱いているから。
歩調を無意識に早めながら、日向は夜に溶け込んでいった。












「最近さ、あんまり寝れてないんだ」
「そうなのか」
いつも通り十分程で狛枝の自宅に着き、いつも通り寝室へ直行し、いつも通り狛枝のシングルベッドに二人、狭い思いをしながら身を寄せ合っていた。これが、二人のいつも通りだった。
「……なら、するか?動いて疲れればぐっすり眠れるかも」
狛枝の指に自身の指を絡め、腹で甲を撫でる。
「……今日は、いい」
「そっか」
ゆるりと首を振りながら、日向の頬に狛枝が擦り寄る。狛枝の柔らかな髪が鼻を擽り、香る狛枝の匂いにうっとりと目を細めた。
「……寝れてないっていうか、睡眠が浅いんだよね、二時間おきくらいに目が覚めちゃうんだ」
「それは、辛いな」
「なんとなく目が冴えちゃうし……だから、キミに連絡した」
「うん、なんか、やっぱり久々だったよな」
「だってキミ試験期間中だろ?これでも、配慮したつもりなんだよ、邪魔しちゃ悪いなって」
「えっ、そうだったのか?」
「うん、でももうしないよ、だってきっと、キミがそばにいてくれなかったから寝れてなかったんだもん」
「えぇ?本当かそれ」
「多分ね……だってボク、今ちょっと眠いもん」
「じゃあ寝ろよ」
「やだよ、せっかくキミがそばにいるんだ、もう少し話してたい」
「眠いなら寝ろって、寝て起きた時に話せばいいだろ」
「……それって、明日一緒に学校サボろうって言ってる?」
「……狛枝が、そうしたいっていうならそうする」
「じゃあ、そうしよ」
「わかった」
電気を消した部屋の中は視界が悪い。だけど、狛枝が子供ぽい無邪気な笑みを浮かべたのが、日向にはなんとなくわかった。
くつくつと二人小さく笑い、頬を合わせ悪戯に唇をくっつけた。
二人でじゃれあっていると、自然と瞼が重くなってきた。先に意識を手放したのは狛枝の方で、静かな寝息は今の日向にとって子守唄のように感じた。
数時間前に明日は居眠りできないと自分に言い聞かせてたくせに、まさか学校をサボることになるなんてな。意識を手放す寸前、ふとそんなことを考え日向は一人自嘲する。
けど、そんなもの些細なことなのだ。自分には狛枝と過ごすこの穏やかな時間以外は、どうでもいいことなのだから。
ほんの少しの罪悪感、充分すぎるほどの幸福感を胸に、日向もゆっくりと瞼を下ろしていく。そうして、ふたりぽっちの穏やかな世界は眠りに落ちていった。

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