ED後
訪れた他部署の扉を空けて、狛枝は表情にこそ出さなかったが内心浮かれた。オフィススペースに日向しか居なかったからだ。
「お疲れ様」
本来ならば書類を届けてお暇しようとしていたが、折角の幸運をみすみす逃す狛枝ではない。書類はメモ書きと共に机に置いて、狛枝は軽やかな足取りで日向の元へ向かう。
「ん、お疲れ」
パソコンの画面をきつく睨み付けていた日向だったが、一度狛枝が声を掛ければその顔はわずかに優しさを滲ませた。業務時は集中するあまり顔を硬らせがちの日向だが、狛枝と顔を合わせる時、殊更二人きりになれた時はそれがふわりと和らぐ。その瞬間がどうしようもなく愛おしくて、狛枝は好きだった。優越感にどうしたって顔が綻んでしまい、ちょっぴり誇らしい気持ちにもなる。
「あれ、もしかして調子悪い?」
至近距離で彼の顔を伺って、狛枝は気付いた。少し、顔色が悪い気がする。
眉を潜めて彼の頬をそっと包む。すると日向は、ふ、と軽く息をついて瞼を伏せた。
「いや、そうじゃない……ちょっと眠いだけだ」
頬に触れる狛枝の温度に、日向は猫のように頬を摺り寄せる。冷えた指先は身体に障るかと思ったが、どうやら杞憂だったようだ。
強張った表情がやんわりと溶ける。あどけなさが面に浮かぶのは、日向が気を緩ませている証拠だ。
少しは、彼の支えになれているのだろうか。隈が残る目元をそっとさすって、狛枝はむず痒さにキュッと唇を結んだ。
「……狛枝、珈琲の匂いがする」
「ん?あぁ、ここに来る前に飲んでたからね」
ぱちりと目蓋を開けた日向が、スンスンと鼻を鳴らす。匂いの心当たりに、狛枝は自らの口元に手を伸ばした。食後に珈琲を嗜むのは、狛枝のルーティーンだ。今日も例外なく、既に一缶空にしている。
それがどうかした?と、問いかけた唇は、言葉を発しなかった。否、言葉を発することが出来なかった。
くんっとネクタイを引かれ、前のめりになる。目の前に迫る日向の瞳。冬が溶けた後の大地を連想させる鮮やかな萌黄色に惹き込まれて、気がつくと唇を奪われていた。
柔らかくて少し乾いた唇の感触に、一瞬だけ驚いて目を見開いた。しかし、すぐに狛枝はことを受け入れて、うっとりと目を細める。
重なっただけの唇は震えていて、そこから伺えるのは迷いだった。生真面目な日向のことだ。ここで引くべきか悩んでいるのだろう。ならば狛枝がすることは一つで、手始めに彼の後頭部に手を伸ばした。
「んっ……」
指先で彼の髪の感触を楽しみながら頭を支えると、僅かに漏れた呼気に唇が濡れた。悩ましげな吐息が表すのは、期待。びりびりと脳髄を甘く溶かすような刺激を感じながら、狛枝は舌を伸ばして日向の唇を突く。ぴくりと睫毛を震わせて、やがて日向は狛枝をそっと受け入れた。
差し込んだ舌は、程なくして同じ粘膜と出会う。まるで宝物を見つけたかのような高揚感に胸が高なった。
舌先を悪戯に擦り合わせて表面をなぞる。お互いを味わうかのように何度も唇を窄ませ、キスを交わす。くらくらと酩酊に似た感覚。この程よく心地の良い快楽がずっと続けば良い。一瞬だけ、そんなことを願った。
「んっ……ふ、ぅ」
ゆっくりと唇を離すと、絡み合っていた舌先が名残惜しげに糸を引いた。日向の顔は赤みが差していて、一時的とはいえ戻った健康的な肌の色に狛枝は安堵する。と、同時に、赤く染まり濡れそぼった唇に劣情を抱いた。ここが、オフィススペースではなかったら確実に押し倒している。それほどに、そのぽってり腫れた唇は魅力的だった。
「……えと、カフェイン……取れば、眠くなくなるかなって……」
やや視線を落として、日向がポツリと呟く。狛枝のネクタイを掴む指先は僅かに緩んだが、すぐにまた力が込められた。瞬間、ほんのりと日向の耳が色付いたのを狛枝は見逃さない。
「……嘘だ。ほんとは、キス、したかっただけ、で……」
か細い声で打ち明けられたちっぽけな望みに、狛枝は思わず唸った。控えめに欲を漏らす日向は、なんて健気で愛らしいのだろう。
日向は甘えるのが上手くない。体裁やこうあるべき、なんていう所謂常識に変に縛り付けられている節がある。大の大人が甘えるなんて、誰か見てるかもしれないところで触れるなんて。それが彼の口癖だ。
そんな日向が、外でこんな風に甘えてくるなんて。自分を、頼ってくるなんて。
それは彼が弱っている証拠であったが、それでも狛枝は口角が上がるのを抑えきれなかった。
「今日はもう早く上がっておいで。定時になったら迎えに行くよ。一緒に帰ろう」
狛枝はまるで幼子に言い聞かすような、優しい声音で日向に語りかける。日向は何も言わず、萌黄色の瞳でジッと狛枝を見つめていた。狛枝は、日向の額にキスを一つ落とす。本当は至る所にキスの雨を降らせてやりたがったが、グッと堪えた。
「だから、もう少しだけ……我慢してね」
彼は十分過ぎるほど頑張っている。だから、頑張れだなんて無責任な言葉は言わない。この口から溢れるのは、彼への止め処ない愛を形容した言葉だけでいいのだから。
日向の表情が柔らかくなったことを確認し、狛枝はようやく部屋を後にする。
家に着いたら、まずは温かいカフェラテでもいれてやろう。彼と、自分の二人分。ミルクと砂糖をたっぷりいれて。
甘い飲み物は苦手だけれど、次のキスはうんと甘いものにしてやりたい。
彼と過ごす穏やかな時間に想いを馳せながら、狛枝は軽やかに廊下を進んでいった。
「お疲れ様」
本来ならば書類を届けてお暇しようとしていたが、折角の幸運をみすみす逃す狛枝ではない。書類はメモ書きと共に机に置いて、狛枝は軽やかな足取りで日向の元へ向かう。
「ん、お疲れ」
パソコンの画面をきつく睨み付けていた日向だったが、一度狛枝が声を掛ければその顔はわずかに優しさを滲ませた。業務時は集中するあまり顔を硬らせがちの日向だが、狛枝と顔を合わせる時、殊更二人きりになれた時はそれがふわりと和らぐ。その瞬間がどうしようもなく愛おしくて、狛枝は好きだった。優越感にどうしたって顔が綻んでしまい、ちょっぴり誇らしい気持ちにもなる。
「あれ、もしかして調子悪い?」
至近距離で彼の顔を伺って、狛枝は気付いた。少し、顔色が悪い気がする。
眉を潜めて彼の頬をそっと包む。すると日向は、ふ、と軽く息をついて瞼を伏せた。
「いや、そうじゃない……ちょっと眠いだけだ」
頬に触れる狛枝の温度に、日向は猫のように頬を摺り寄せる。冷えた指先は身体に障るかと思ったが、どうやら杞憂だったようだ。
強張った表情がやんわりと溶ける。あどけなさが面に浮かぶのは、日向が気を緩ませている証拠だ。
少しは、彼の支えになれているのだろうか。隈が残る目元をそっとさすって、狛枝はむず痒さにキュッと唇を結んだ。
「……狛枝、珈琲の匂いがする」
「ん?あぁ、ここに来る前に飲んでたからね」
ぱちりと目蓋を開けた日向が、スンスンと鼻を鳴らす。匂いの心当たりに、狛枝は自らの口元に手を伸ばした。食後に珈琲を嗜むのは、狛枝のルーティーンだ。今日も例外なく、既に一缶空にしている。
それがどうかした?と、問いかけた唇は、言葉を発しなかった。否、言葉を発することが出来なかった。
くんっとネクタイを引かれ、前のめりになる。目の前に迫る日向の瞳。冬が溶けた後の大地を連想させる鮮やかな萌黄色に惹き込まれて、気がつくと唇を奪われていた。
柔らかくて少し乾いた唇の感触に、一瞬だけ驚いて目を見開いた。しかし、すぐに狛枝はことを受け入れて、うっとりと目を細める。
重なっただけの唇は震えていて、そこから伺えるのは迷いだった。生真面目な日向のことだ。ここで引くべきか悩んでいるのだろう。ならば狛枝がすることは一つで、手始めに彼の後頭部に手を伸ばした。
「んっ……」
指先で彼の髪の感触を楽しみながら頭を支えると、僅かに漏れた呼気に唇が濡れた。悩ましげな吐息が表すのは、期待。びりびりと脳髄を甘く溶かすような刺激を感じながら、狛枝は舌を伸ばして日向の唇を突く。ぴくりと睫毛を震わせて、やがて日向は狛枝をそっと受け入れた。
差し込んだ舌は、程なくして同じ粘膜と出会う。まるで宝物を見つけたかのような高揚感に胸が高なった。
舌先を悪戯に擦り合わせて表面をなぞる。お互いを味わうかのように何度も唇を窄ませ、キスを交わす。くらくらと酩酊に似た感覚。この程よく心地の良い快楽がずっと続けば良い。一瞬だけ、そんなことを願った。
「んっ……ふ、ぅ」
ゆっくりと唇を離すと、絡み合っていた舌先が名残惜しげに糸を引いた。日向の顔は赤みが差していて、一時的とはいえ戻った健康的な肌の色に狛枝は安堵する。と、同時に、赤く染まり濡れそぼった唇に劣情を抱いた。ここが、オフィススペースではなかったら確実に押し倒している。それほどに、そのぽってり腫れた唇は魅力的だった。
「……えと、カフェイン……取れば、眠くなくなるかなって……」
やや視線を落として、日向がポツリと呟く。狛枝のネクタイを掴む指先は僅かに緩んだが、すぐにまた力が込められた。瞬間、ほんのりと日向の耳が色付いたのを狛枝は見逃さない。
「……嘘だ。ほんとは、キス、したかっただけ、で……」
か細い声で打ち明けられたちっぽけな望みに、狛枝は思わず唸った。控えめに欲を漏らす日向は、なんて健気で愛らしいのだろう。
日向は甘えるのが上手くない。体裁やこうあるべき、なんていう所謂常識に変に縛り付けられている節がある。大の大人が甘えるなんて、誰か見てるかもしれないところで触れるなんて。それが彼の口癖だ。
そんな日向が、外でこんな風に甘えてくるなんて。自分を、頼ってくるなんて。
それは彼が弱っている証拠であったが、それでも狛枝は口角が上がるのを抑えきれなかった。
「今日はもう早く上がっておいで。定時になったら迎えに行くよ。一緒に帰ろう」
狛枝はまるで幼子に言い聞かすような、優しい声音で日向に語りかける。日向は何も言わず、萌黄色の瞳でジッと狛枝を見つめていた。狛枝は、日向の額にキスを一つ落とす。本当は至る所にキスの雨を降らせてやりたがったが、グッと堪えた。
「だから、もう少しだけ……我慢してね」
彼は十分過ぎるほど頑張っている。だから、頑張れだなんて無責任な言葉は言わない。この口から溢れるのは、彼への止め処ない愛を形容した言葉だけでいいのだから。
日向の表情が柔らかくなったことを確認し、狛枝はようやく部屋を後にする。
家に着いたら、まずは温かいカフェラテでもいれてやろう。彼と、自分の二人分。ミルクと砂糖をたっぷりいれて。
甘い飲み物は苦手だけれど、次のキスはうんと甘いものにしてやりたい。
彼と過ごす穏やかな時間に想いを馳せながら、狛枝は軽やかに廊下を進んでいった。